戦争はごめんだぜ! ⑯

 

    このブログは、「戦争はイヤだ」「日本が戦争を起こすことは何としてもやめさせたい」

    という声を、微力ながら少しでもひろげたいという思いで始めたものです。

                                                ※

     031  アメリカは、敗戦により武装解除された戦後の日本を、再軍備に

       向かわせただけではなかった

赤薔薇昨年は「昭和100年」に当たると言われましたが、考えてみると、昭和元年の

1926年から太平洋戦争が終わった昭和20年(1945年)までの20年間で、日本は「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」の3つの大きな戦争を戦いました。

 

  これらは「十五年戦争」として連続した1つの流れとして捉えられたりしますが、

はじめは中国大陸での権益拡大を目指した軍事行動から始まり、やがては世界を巻き込む大規模な第二次世界大戦へと拡大していった20年間でした。

 そうしたことでいうと、「昭和100年」の最初の20年間は「戦争の時代」

といえるかもしれません。

 

 しかしながら、ご承知のように戦後から81年たった今日まで、日本は1度たりとも戦争をしていません。それは改めていうまでもなく、戦争の反省から制定された

日本国憲法が第9条で戦争を放棄し、戦力不保持・交戦権否認を明記しているからです。その結果、戦後日本は「平和国家」の理念のもとで国際社会に伍してこの81年間を歩んできたのです。けれども、残念なことに、いまその「平和国家」の看板が

はずされようとしています。

 

 今年2月の総選挙で大勝し憲法改正の国会発議に必要な国会議員の3分の2以上の議員を得た自民党と日本維新の会の連立与党・高市政権が、戦争放棄を明記した9条の改憲をたくらみ、他の翼賛的な政党を巻き込んで憲法を改正することで、

「戦争国家」づくりへの道を歩み始めているからです。

 

 そうしたなか、わたしは前回⑮の「戦争はごめんだぜ! 」で、戦後すぐのころの

日本をふりかえり、検証してみたなかで、じつは、いまやられようとしている改憲の起源(=はじまり)は、日本国憲法が施行されて間もないころ、将来日本国憲法を改定しようとたくらみ、日本の再軍備化に舵を切ったアメリカであったことを明らかに

しました。

 そこで今回も日本国憲法の改憲の動きの背景を知るために、戦後、日本とアメリカがどう政治的、軍事的に深くかかわってきたかを検証してみたいと思います。

 

 さて、前回のべたように、敗戦により武装解除されて軍事的に弱体化した日本に

対して、アメリカは方針転換し、日本を、対ソ連、対中国への「反共の防波堤」

にするために「再軍備」へと向かわせました。

 

 その手始めに行われたのが「警察予備隊」の創設でした。

 「警察予備隊」はその後「保安隊」になり、やがて1954年(昭和29年)自衛隊に

なります。しかしアメリカの方針転換は、日本のそうした再軍備にとどまりません

でした。

 ご承知のとおり、日本が戦後、サンフランシスコ平和条約の発効によって「主権」を回復したのは1952年(昭和27年)です。この条約(日本国との平和条約)の締結と発効により、第二次世界大戦終結後の連合国軍による占領状態が終わり、日本は

「主権国家」として国際社会に復帰しました。

 

 ところが、アメリカは日本の「主権回復」後もアメリカ軍の駐留を継続し、

日本を占領下におくため、サンフランシスコ講和条約とセットで日米安保条約締結を要求したのです。狙いは、日本を対米従属化に組み込むためです。

 

  032  日本を再軍備させ、9条をなし崩しにする、改憲への策動は

         日本が安保体制に組み込まれた時からより本格化していった

赤薔薇1951年(昭和26年)9月8日、当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ条約

締結後、ただ1人でアメリカのサンフランシスコ市内にある第6軍司令部集会室に

足を運び、その日の午後に、日米安全保障条約に署名しました。

 しかしその内容は、国民には何1つとして知らされませんでした。

 

 余談ながら、その安保条約が締結された1951年は、わたしが生まれた2年後

のことですからもちろんわたしも知る由もありません。しかし、1968年

(昭和43年)ごろから70年にかけて盛んだった「大学紛争」のなかで、

「安保闘争」「ベトナム戦争反対」「沖縄返還」運動を体験し、20歳になっていた

わたしも政治意識に目覚め、「日米安保条約」の何たるかを知るようになりました。

 

 ただ、20代のそのころはその全容を理解していませんでした。

 あとで知ったところによると、日米安保条約は世界に類例のない、

日本全国どこにでも基地を置くことができるという「全土基地方式」

でした。

 

 それは、アメリカ軍が日本の国内であれば理論上どこにでも基地を設置したり、

自由に部隊を展開したりできる仕組みで、日本政府とアメリカ軍の代表でつくる

「日米合同委員会」で合意さえすれば、国会の承認なしで日本全国のどこにでも

米軍基地を置くことができたというものです。

 

 また専用の基地だけでなく、民間の空港や港、構想道路なども米軍が必要となればいつでも優先的に無償で使用できる規定がありました。さらに、日本側から提供された基地内では、アメリカ軍は「必要なすべての措置を執ることができる」とされ、

日本の主権が及ばない、いわば強力な排他的な権利がアメリカにはあったのです。

 

 そうした「全土基地方式」がなぜとられたかというと、冷戦下でアメリカが

「反共の防波堤」として再軍備させた日本の全国土を、アメリカ軍が自由に出撃・

展開できる体制を確保するためでした。アメリカは、海に囲まれた日本列島を、

沈むことのない「浮沈空母」と見立て、アメリカの世界戦略の要衝としたのです。

 

 ともかく、その「全土基地方式」により、アメリカは基地増強のために、

戦後、土地接収を相次いで行いました。しかし各地で土地闘争が勃発します。

 

 また、アメリカは、サンフランシスコ講和条約の3条で、沖縄、奄美群島、

小笠原諸島を日本から切り離し、アメリカ軍の全面占領下におき、憲法の埒外

(らちがい)にしました。

 

 そうしたなか、沖縄の県民はまったくの無権利状態に置かれ、アメリカ軍は軍用地を確保するために、武装兵を動員し、ブルドーザーで家屋や農地を破壊して回る

強権的な土地収奪を行いました。この一連の強制的な土地収奪は、

 「銃剣とブルドーザー」と呼ばれています。

 

 余談ながら、先ほど記したように20歳のころ政治的に目覚め、「安保」のことを

知ったわたしは、そうした沖縄におけるアメリカ軍の強権的な実態を告発し、

沖縄県民の抵抗と不屈の闘いを描いた1970年に公開された『劇映画  沖縄』

(武田敦監督)を観て、当時盛り上がっていた沖縄返還運動の輪の中に飛び込んだ

ものでした。ちなみに、その『劇映画 沖縄』は、今は亡き俳優の「ちい散歩」で

有名だった地井武男の初主演作で、不屈の魂を持った実直・精悍な青年像が多くの

人の共感を呼んでいたように記憶されています。

 

 なお、話は飛びますが、沖縄の米軍基地の問題ということでは、

先日10月3日、那覇市のホテルで女性の遺体が見つかった事件で、沖縄県警は

一昨日4日、アメリカ軍普天間基地(宜野湾市)所属の海兵隊上等兵A容疑者(20歳)

を強盗殺人の疑いで緊急逮捕したことが報じられました。

 

 昨年、県警が検挙した米軍関係緊急よる刑法犯件数は過去20年で最悪の101件だったそうです。事件が起こるたびに「綱紀粛正」が言われます。が、極めて残念ながら、かつてアメリカが土地を強奪して基地をつくった沖縄に、いまもその米軍基地があり海兵隊がいる限り、そうした凶悪な事件と事故はなくならないでしょう。

 

 さて、話を戦後すぐの時期にもどすと、1947年(昭和22年)に憲法が施行

された翌年にアメリカの軍内部で始まっていた、日本再軍備と将来における憲法改定の企ては、日本が安保体制に組み込まれたその時から、より本格化していきました。

 

 つまり、戦争放棄、戦力不保持を定めた憲法9条を、なし崩しにする改憲への策動です。すでに戦後の経過を見てきたように、1954年(昭和29年)には

“もっぱら自国防衛” のためという理屈で、自衛隊が発足しました。

 

 しかしながら、自衛隊法を制定するにあたって、当時の参議院は、

国民の再軍備への警戒や反発を受けて、

 

 「国民の熾烈(しれつ)なる平和愛好精神に照らし、(自衛隊の)海外出動はこれを行わない」とする、「自衛隊の海外出動を為(な)さざることに関する決議」

(同年6月2日)を採択せざるをえませんでした。

 

 当時の参議院におけるこうした措置は、アメリカが主導して日本の再軍備が始め

られ、その後、日本が安保体制に組み込まれていった中でも、

 憲法は、平和の“盾” になっていたのです。

 

        2026年10月6日(火)

      秋分   水始めて涸れる(みずはじめてかれる)

           田から水を抜き、稲刈りに取りかかるころ

         たわわに実った稲穂の、収穫の秋まっただなかです。