テレビ   映画鑑賞ノート ⑦ 

                 ~『オデッセイア』~

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赤薔薇クリストファー・ノーラン監督の映画『オデッセイア』は、古代ギリシャの英雄

叙事詩を原作とした、トロイ戦争終結後、故郷のイタケへ帰還しようとする

王・オデッセウスの10年にも及ぶ過酷な旅を描く神話的アクション超大作である。

 オデッセイアと聞いて、わたしがまず思い浮かべたのはホンダの車、「オデッセイ」だった。古代ギリシャのそのオデッセイアと関係があるのか調べたら、大いに関係があって驚いた。1994年に登場したホンダのその初代「オデッセイ」の名前の由来は、まさしく映画の原作になっている古代ギリシアの長編叙事詩『オデッセイア(Odysseia)』に由来していたのである。

 

 発売元の本田技研によると、車名を「オデッセイ」と命名した想いと背景は、

古代ギリシャの叙事詩で主人公のオデッセウスが体験した10年間の冒険物語

『オデッセイア』が語源であり、転じて「長く波乱に富んだ旅」や「長い冒険旅行」を表し、ロングドライブでも、家族や仲間がみんな一緒に、快適で安全に、ワクワクドキドキする冒険旅行を楽しんでほしいという想いが込められているという。

びっくり、ではないか。

 

  その「オデッセイ」の名の由来となった古代ギリシャの長編叙事詩の『オデッセイア』をわたしはこれまでそういうのがあると知ってはいたが、実際にその本を読んだことも目にしたこともなかった。

 

 そこで、観てきた映画の理解を深めるために『オデッセイア』のことを調べて

みた。その結果わかったことによれば、その長編叙事詩は、紀元前8世紀ころ、

というから今から3000年ほど前のホメロス作と伝えられている26巻もの叙事詩で、ギリシャの知将オッデセウスがトロイ戦争に勝利してからの帰国の途中に出会った10年にわたる海上漂流の冒険談と、彼が不在中に妃ペネロペに言い寄った求婚者たちに報復する物語ということである。

 

 また、映画が公開された9月11日(金)に先駆けて出版された新書本『「オデッセイア」入門』(松村一男著・沖田瑞穂補章執筆 2026年7月河出新書刊)で、著者がまとめている『オデッセイア』の大まかなあらすじを引用させてもらうと次のようなものだ。

 

「トロイ戦争の英雄であるオデッセウスは、仲間たちとともに故郷に帰還するため

トロイから出帆する。すると彼らはその途中でありとあらゆる困難と危険に直面することになる。オデッセウスはそれらすべてを知恵と勇気で潜り抜ける。ところが仲間たちは主人公ほどの資質を持ち合わせず、自らのミスによって次々と命を落としていく。結果的にこのサバイバルゲームを生き延びるのは主人公一人だけとなる。しかしそれで故郷で妻や子や両親と無事に再会できたかといえば、そうではなく、故郷でも困難と危険が待ち受けていたのである」

 

 そして著者は続けてこう書いている。

「これはまるで現代のゲーム、いわゆるRPGの筋書きそのものに思われる。そう、そうした物語形式の源流にあたるのが、この『オデッセイア』なのである」

 

 なお、そこにあるRPG。わたしはインベーダーゲーム以来ゲームをしたことがないので意味がわからなかったが、RPG(ロールプレイングゲーム)とは、プレイヤーが物語の登場人物や特定の役割(ロール)を担い、冒険や戦闘を通じてキャラクターを成長

させながらストーリーを進めていくゲームジャンルだそうだ。

   

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赤薔薇さて、映画であるが、ストーリーは、映画の原作がそうした古代ギリシャの叙事詩『オデッセイア』ということなので、基本的にどんな物語であるかについてその

大まかなあらすじを先に紹介はしているが、あえてごく簡単に言葉を足して言うと、トロイ戦争で勝利した物語の主人公であるイタケ島の王・オデッセウスが、妻・ペネロペと息子・テレマコスが待つ故郷のイタケへ10年かけて帰還する。そしてその

帰還までの間に、神々や怪物、荒れ狂う嵐、いくつもの悲劇に見舞われるというものである。

 

 ここで、少し突飛な余談になるが、わたしは何年か前に漫画『はだしのゲン』に

ハマったことがあった。6歳のときに広島で原爆の被災にあった作者の中沢啓治さん(故人)の自伝的な漫画で、中沢さんの分身である主人公のゲン少年が幾多の困難を

乗り越えて戦後を生き抜いていくという物語である。その『はだしのゲン』に夢中になる中で、わたしは「物語」の魅力にとりつかれ、物語とは何か? その構造や法則はどうなっている? ということに興味を覚え、多少、研究めいたことをしたことが

あった。その結果わたしが “獲得” したことが3つばかりあった。

 

 1つは、物語とは、簡単に言うと「お話」のことである。2つ目は、物語の主人公には様々な困難や障害がふりかかり、主人公はそれを乗り越えて目的を達成して

いく。そしてそのなかで成長していく。物語が面白いのは苦難を乗り越えた主人公が成長していくからである。そして3つめは、物語の基本は、「行って、帰る」。つまり帰還であるというものだった。

 

 その「帰還」の物語ということでいうと、たとえば昔話の「桃太郎」は桃から生まれた桃太郎が、犬・猿・キジをお供に連れて鬼ヶ島へ「行き」、鬼どもをみごとに退治して父母のもとに宝物を持って「帰る」という物語だし、「浦島太郎」の話は、砂浜で子供たちにいじめられていたカメを助けた太郎がそのカメの背中に乗って竜宮城へ「行き」、舞いやご馳走の歓待を受けた後で乙姫様に玉手箱をもらって故郷の村に

「帰る」というものだった。

 

 ともかく、そうやって物語について少しばかり学んでいたこともあって、わたしが映画『オデッセイア』を見ながら、途中で「なんだ、そうか・・・」と気づいた、

映画のその物語は、わたしがその “研究” で得た知見の1つである、物語の基本は、「行って」「帰る」そのものであるということだったのである。 

 

 主人公のオデッセウスは、故郷のイタケ島からトロイ戦争に「行き」、知られるような「トロイの木馬」が功を奏して戦争に勝利し、10年もの長い年月をかけて、故郷のイタケ島へ「帰る」のである。そういう意味では、映画『オデセイア』の物語、

すなわち「お話」の構造は、いたってわかりやすい、物語の基本中の基本といえる

かもしれない。

 

 しかしながら、物語(お話)の構造は見たようにシンプルだが、実際に展開される映画は、いかんせん、はなはだ “複雑” である。

  

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赤薔薇“複雑” な要因はいくつかあるが、まず原作となっている古代ギリシャの叙事詩『オデッセイア』の物語自体が複雑なのである。それがどう複雑なのかは複雑すぎて簡単にここでは書ききれない(笑)が、

 

 たとえば、映画には、有名な “トロイの木馬”が出てきて、それがトロイの城に運び込まれるシーンや、深夜、木馬の腹の中に隠れていたオデッセウスらギリシャの兵士が城内にロープで降りてきて、トロイの城に攻め入りトロイ軍を全滅させる戦闘

シーンがあるが、『オデッセイア』の物語はそのトロイ戦争から始まるとされる

トロイ戦争とはそもそもどんな戦争だったのか? そしてトロイの木馬とは何だったのか? ということなどがふだんギリシャ神話に慣れ親しんでいないため、映画の流れがスンナリとは理解しがたいのである。

 

 ちなみに、先に紹介した新書本『『オデッセイア』入門』によれば、そもそも

「ギリシャと小アジア半島の都市トロイ(トロイアとも)との間に叙事詩の語るような

戦争が実際にあったのかは定かではない」そうだ。

 

 それゆえ、トロイ戦争はあくまでも語り継がれてきた伝承だという。それも

いろんな人物と出来事が入り組んでいて説明するとなると簡単ではない。

 そこで辞書に頼るとトロイ戦争はざっとこう説明されている。

 

 「トロイの王子パリスに奪われたスパルタ王妃ヘレネを奪回するため、アガメムノンを総帥としたギリシア連合軍がトロイに遠征、10年間の長期戦を展開、最後はオデッセウスの「木馬の計」でトロイを打ち破ったといわれる。ほぼ紀元前13三世紀のことと推定される」(日本国語大辞典)

 

 なお、そのトロイ戦争に出てくる “トロイの木馬” の話しは、ふたたび先の『『オデッセイア』入門』によれば、トロイ戦争において、知恵の英雄であった

 

 「オデッセウスが属するギリシャ軍が手詰まりになった局面で、オデッセウスは

ギリシア勢が撤退すると見せかけ、巨大な木馬だけを残すことを提案する。その中には、オデッセウスをはじめとするギリシア側の英雄たちが潜んでいた。トロイ勢は

ギリシア軍が去ったと信じて木馬を城内に引き入れ、戦争が終わった祝いをする。

しかしその夜、木馬から兵が現れ、城内に火を放ち、城門を開け、隠れていて戻ってきたギリシア軍を引き入れる。こうしてトロイは滅亡し、ヘレネは夫芽根ラオスに

よって取り戻される」のである。

 

 つまり、映画『オデッセイア』は、物語の構造自体は、主人公のオデッセウスが

トロイ戦争を戦い終えて故郷に帰還するまでの10年に及ぶ苦難を描いたシンプルなものであるが、ただ、複雑で巧みな仕掛けが込められた長編叙事詩・ギリシャ神話の『オデッセイア』が原作となっているだけに、それを反映した映画はかなり入り組んだ内容になっているように思われるのだ。

 

 たとえば、として、トロイ戦争やトロイの木馬のことを引き合いに出したが、そのほかにも、映画『オデッセイア』の中には、主人公・オデッセウスが流れ着いたある島では、兵士たちを喰ってしまう一眼巨神(キュクロプス)という怪物が出たり、

またある島では、魔女であるキルケが出す食事を食べたオデッセウスの兵士仲間が

豚に姿を変えられたり、あるいは、オデッセウスがその魔女・キルケの忠告で行った冥界では、生贄の血を授けた地の底から戦争で命を落とした無数の亡霊が現れたり、そして航海の途中でセイレーンの歌を聞いた者はその魔力によって海に引き込まれるなどという、いわば人間と神話の世界が混然一体となった物語が進むのである。

 

 そうした不気味な事象が、故郷に帰還しようとするオデッセウスに次から次へと

襲いかかってくるので、主人公の冒険アドベンチャー物語と割り切れば、面白いと

言えば面白いが、人間の世界と神の力が働いている世界が混然とした物語が複雑と

言えば複雑なのである。

  

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赤薔薇さて、映画『オデセイア』は、物語の基本といえる「行って」「帰る」という形のため、構造的にはシンプルといえるかもしれないが、原作がギリシャ神話の「オデッセイア」なので、その複雑な物語世界を反映して、映画も入り組んだものになって

いると述べてきた。しかしその入り組み具合は、原作がギリシャ神話だからというだけでなく、実をいうとクリストファー・ノーラン監督の映画術にもその原因がある

ように思われる。

 

 具体的に言うと、映画『オデッセイア』は時間軸を自由に行き来する複雑な、

パズルのような構成がとられているからだ。これまでも、時間を遡らせながら物語を

進めたり、正逆ふたつの時の流れを同時に描いてみたりというように、ノーラン監督の作品の特徴は時間を自由に行き来する非線形の構成がとられているとの定評が

ある。

 そんななか、前作の、原爆を開発した理論物理学者オッペンハイマーの栄光と挫折を描いた『オッペンハイマー』(2023)は、主人公の主観はカラーで、客観的視点は

モノクロというように2つの映像表現を軸に、時系列を前後させながら複数の時間軸が並行・交錯して展開されていた。

 

 普通の映画は、時間は一方向に流れ、時に過去の回想が挟まれ、再び時間は前に

進んでいくが、この映画は、時間が前に流れるだけではなく、過去の回想や2つの

異なる公聴会(1954年の聴聞会と1959年の公聴会)を行き来しながら、最後にはそれぞれの視点や因果関係が大きな結末へと収束していく構成になっていた。

 

 この最新作の『オデッセイア』においても、オデッセウスが故郷のイタケ島から

トロイに出征している間、イタケに残され、オデッセウスの帰りを宮殿で待つ妻・

ペネロペと息子・テレマコス側の時間軸と、トロイ戦が終結し故郷に帰るオデッセウス側の、時空の異なる時間軸を交錯させながら、それぞれの中で現在と回想を

織り交ぜて描いている。その構成がまるでパズルのようなのだ。

 

 ところで、『オデッセウス』が、これまで述べてきたとおり、そのように入り組んだ

映画だったということはそうだったとして、ではわたしが映画を楽しめたかというと、答えとしては、楽しめはしたがその度合いは? となると必ずしも十分なものではなかったといってもいいだろう。

 

 まず、何が楽しめたかというと、先ほどのような時間軸が自由に行き来するパズルのような構成の妙である。つぎは、神話の世界がリアルに表現されていたことである。 故郷に帰還中のオデッセウスたち兵士を乗せた船が難破し食糧を求めて島に上陸した際に出会った、一眼巨神、巨人、魔女のキルケ。一眼巨神のギョロリとした眼は

本当にひとつしかなく、洞窟内の不気味なその巨人が兵士を口に入れて喰う場面は

ゾッとした。

 

 ゾッとしたといえば魔女のキルケが兵士に食べ物を与えて豚に変えてしまうところや、助けに来たオデッセウスの頼みにキルケが応えて、豚に変えられた兵士たちを

裸の男たちに戻す場面も、見たこともない不気味さ極まりないシーンだった。

 そうした神話のゾッとした場面が楽しめたのだ。

 

 そして、とりわけ楽しめたということでは、終盤、乞食の姿になって妻・ペネロペが待つ宮殿に帰還したオデッセウスが——ペネロペが宮殿に居座る求婚者・男たちに「オデッセウスの形見の弓を引き、12個の斧の穴を射抜いた者と結婚する」と宣言した中で挑戦する男の誰も射抜けなかったなか——最後に、“我こそはオデッセウスなり”といわんばかりに、見事に斧の穴を射抜いた後、不在中に宮殿に居座って宴を繰り広げていた男たちを皆殺しにし、妻に求婚し続けただけでなく、息子・テレマコスを殺そうと謀略したアンティノオスを弓で射て、剣でととめを刺す、・・・さえない乞食の装いをしていたオデッセウスが本来の実力、地位、強さを現す、正体を露見させた爽快感を与えた場面だった。

 

 その終盤の、オデッセウスが男たちに復讐するかのように男たちと戦いを繰り広げるシーンは、それまでが神の怒りによる幾多の受難にオデッセウスが見舞われてきた

オドロオドロするシーンが続いてきただけに、音響効果も相まって、緊張が解ける

カタルシスを覚えたものだ。

  

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赤薔薇では、反対に、映画『オデッセイア』においてわたしは何が不満だったのか?

 1つは、簡単に言うと、説明がないか、足りないために、観ていていくつかの

シーンの理解が及ばないことだ。たとえば先ほどの終盤で、オデッセウスはアンティノオスに白い棒状のモノを渡すが、説明が足りないので見ていてもわからない。

 

 しかし後で調べてわかったが、アンティノオスはトロイ戦争の兵役を逃れるために、貧しい農家の少年シノンを騙して、自分の引いたくじとシノンのくじを交換し

シノンがトロイの戦場に送られることになる。その棒状の白いモノは、その時のくじだったのだ。映画の前のほうで、もしかしたらそんな、くじの場面があったかもしれないが印象に残っていないから、終盤のそれがくじだとは理解できないのだ。

 

 また、そのシオンは、映画の冒頭でトロイの海岸に残された巨大な木馬の前に1人でいたところを馬に乗ってやってきたトロイの兵士たちに見つかった。

 これも後で調べてわかったが、実はトロイ軍を騙すためにオデッセウスが考えた

そのトロイの木馬の作戦で、シノンは木馬の中にオデッセウスら兵士が隠れている

ことを知らされずに、囮(おとり)として木馬の前に立たされていたというのである。

 

 そしてシノンは後でトロイ軍に殺され、その結果、前に触れたように地底から冥界にいた亡霊となって現れたというわけであるが、「なんで木馬の前にいたシノンが冥界にいたのだろう?」という疑問から、以上のような顛末があったことがわかった

という次第だった。

 

 映画を観た後で調べないとわからないというのではなく、映画のなかで理解が及ぶような描き方をしてもらいたいものである。それでいうと、画面を見ているだけでは、時折、オデッセウスに寄り添うに現れるその人物が誰かさっぱりわからなかったのはアテナという女性だった。

 

 なんでも、アテナは知恵と戦いのギリシャ神話の女神だそうだが、映画ではオデッセウスの道徳心や内面の葛藤を映し出す存在だったのこと。しかしある程度の説明がないと画面に影のように出てくるだけでは、ギリシャ神話に疎いわたしにわかるはずがない。

 

 さて、ここまでいろいろと述べてきたが、最後に考えてみたいのは、クリストファー・ノーラン監督はギリシア神話『オデッセイア』を原作としたこの映画の中で、

何を最も言いたかったのか? ということである。ただ、白状すると残念なことに正直に言ってわたしには、それはこうだ、と自信をもって言えるものはとくにはない。

 

 しかし、冒頭で紹介した新書本『『オデッセイア』入門』の中の次の一節にヒントをもらった気がした。その一節とは―――

 「私は、自己紹介で世界の神話を比較研究していると言うと、では世界中のどの神話が一番好きですかとよく尋ねられる。その時には必ず『オデッセイア』が私にとってベストな神話です。その理由は簡単にいえば、時代や文化の違いによって限定されない普遍的なテーマが取り上げられているからである。そのテーマこそが『家族』で

ある」

 「私は」とある私は、もちろん著者である。

 で、著者がいう普遍的なテーマであるその「家族」ということでいうと、

たしかに、映画は終盤にきたところで、主人公のオデッセウス(=マット・デイモン)が、故郷の宮殿で待っていた妻・ペネロペ(=アン・ハサウェイ)と、息子・テレマコス(=トム・ホランド)の「家族」のもとに帰ってくる。

 

 オデッセウスは、トロイに出征する前にペネロペに対し「もしも自分が帰らなかったときは再婚するように」と言い、それに対して彼女は「何を言うのよ!」とその

言葉を拒絶していた。そしてその拒絶どおりオデッセウスが帰還するまでの20年もの間、彼女はアンティノオスをはじめ多くの求婚者を跳ね返してきたのだ。

 

 一方のオデッセウスも、故郷のイタケへの帰路の途中、漂流していたところを島に住むギリシャ神話に出てくる女神(ニンフ)のカリュプソ(=シャーリーズ・セロン)に

助けられ、7年も滞在するなかで彼女から求婚されるが拒絶。そうしたなかで苦難のすえに帰還し、結果、オデッセウスとペネロペは20年の時を超えて再び固い愛と

ともに結ばれるのである。そして、オデッセウスが出征したときはまだ幼かった息子のテレマコスもいまでは成長し、老いたオデッセウスを継いで新しい王になったのだ。つまり物語の最後は「家族」がクローズアップされるのである。

 

 それゆえに、そういう視点でこの映画を観ると、そもそも原作の『オデセイア』

自体が「帰還の物語」であると同時に「家族の神話」でもあるとされているとは

いえ、もしかするとノーラン監督も、神話の物語を描いたスケールの大きいこの映画を通して、「家族」というテーマに焦点を当てていたのかもしれない。

 

 さらに、ノーラン監督はこの映画で何を言いたかったのか? という点で、

映画の中でメッセージ性の強いセリフが2つあった。

 

 1つは、魔女のキルケがトロイ戦争帰りのオデッセウスの仲間の兵士たちを豚に

変えたあとで、元の姿に戻すときに語っていたセリフである。その内容は兵士たちが持つ強欲さや暴力性、非道な略奪を糾弾するものだったように思う。

 そして2つ目のセリフは、故郷に帰還したオデッセウスが乞食の姿をしたまま、

妻のペネロペに語るものだった。キルケのセリフ同様に細かく逐一は記憶されていないが、だがそれは、オデッセウスが従軍したトロイ戦争を踏まえ「戦争の加害者」としての罪悪感や葛藤・苦しみを打ち明けていたように思われた。

 

 つまり、そうした、魔女・キルケの言葉やオデッセウスの内面の告白から

受け取れたメッセ―ジを勘案すると、先にわたしは、この映画でノーラン監督が何を最も言いたかったか、これだというものは特にはないと述べたが、

 

 もしかしたら、ノーラン監督が映画を通して訴えたかったのは、

戦争が人間の心や行動に残す重く苦しい代償や、過ちを繰り返してしまう人間の業や弱さへの警鐘を鳴らしていたのかもしれない。—おわり―

               ※

 参考資料:「オデッセイア」パンフレット/「SCREEN」2026・10月/『オデッセイア』入門(河出新書)

       『図解 世界5大神話入門』(中村圭志)

 

        2026年9月30日(水)

          秋分   蟄虫戸をとざす(すごもりのむしとをとざす)

                虫が隠れて戸をふさぐころ

             土の中へ巣ごもりの支度をはじめます。