§1 自己愛はあるが”自己チュー”ではない私?

 

⓬ ”自分がかわいい”からこそ生き続けられる

 

 紹介したフロイトとコフートの自己愛にかんするそれぞれの考え方のうち受け入れやすいのはどちらだろう。

 

 私は断然、コフートのほうである。

 

 前項では触れられなかったが、引用した本の著者・和田氏によれば、コフートは、目にあまる「ジコチュー」は是認をしていないが、

「人間には多かれ少なかれジコチュー的なところがあり、それを認めてあげていいんだ」 という人間観を持っていたという。

 

 かねがね、「私は自己中心的な人間?」と時々自問していた身には、心の荷がおり、思わず手を合わせたくなるような・・

「ありがたい」 ”お言葉”である。

 

 自問した答えを自分で考えぬこうとしない、意気地(事を貫徹しようとする気力) のなさは 認めざるをえないが、

 

 そうしたコフートの言葉は、かりに、私が「少しばかり自己中心的」な人間だとしても、そんなに「自分を責めなくてもいい」 と、

言ってくれていそうな気がするからだ。

 

 また、コフートは、「人間は困った時には人に依存しようとする心の弱さを持つ」。そして、「健康な人も、強い人も、誰もが自己愛を満たしてくれたり、支えてくれる他者が必要だ」とも言っている。 (・・目の前に本人がいたら、つい、異議なし!といいたくなりそうだ)

 

 さらには、自身が病気をした後のあるセミナー(1974年)ではこんなことを言ったそうだ。

 

 ― 「たとえば、われわれが病気になった時には、治りたい一心でどうしても自己愛的になるのですが、これは当然のことであります。

重い体の病気のただ中にいて、こうしたときに他人に対してひたむきな思いやりを抱く、ということはできません。〈略〉」 ―

 

 つまり、いざという時、多くの人は、自分がかわいい、と 自己愛的になる。それが、自然なんだというわけである。

 

 して、コフートは、「人間は年を取ったり、体が弱ってきたり、病気をしたら人に頼りなさい」とも言っていたという。

 

 じつに しっくりくる考え方だ。が、考えてみたら、コフートの言を待つまでもなく、まわりを見渡すと、ほとんどそうなっている。

 

 それだけに、私はフロイト(精神分析の創始者として一目はおくが)よりも コフートの考え方に親近感をもち、票を投じたいというわけだ。

 

 ところで、そのコフートが、まるで包み込むように容認した自己愛、つまり、「自分を愛する心理」あるいは「自分自身を愛すること」の中味は、もちろん顔や姿かたちに限ったことではないはずだ。

 

 自分を愛するというときの「愛」には、「いつくしみ合う心」や「男女間の、相手を慕う情」などの他に、「大切にする」という意味もある。

 

 私が〈§1‐10〉において自身の中に「自分を愛する心理」があると認めるといったときの、その「愛」はまさにそれである。

 

 つまり、私はいつもそう意識していたというわけではないが、自分を「大切にする」という気持ちでこれまでの人生を歩んできた。

 

 そうした気持があったればこそ、多少の困難やコンプレックスを克服してきたのだと思うし、

これからも、時には(・・これまでのように) 人の助けもかりながら生きぬこうとおもう。

 

 そう思えるのも、自分自身を愛する、自己愛は、悪いことではない、度が過ぎなければむしろいいことなのだ、

必要なことなのだと、胸に落としこむことができたからである。

 

 「私は自己中心的な人間?」「ナルシスト?」と自問していた時期に、脳裏にこびりつく ある二つの出来事があった。

 

 ひとつは、高速道路を走るバスの中で包丁を持った17歳の少年が乗客を人質にし、死傷者がでた”バスハイジャック”事件である。

 

 そのニュースをテレビで見て、記憶に焼きついた光景があった。乗客の中年男性が窓から身を乗り出して脱出する場面だった。

 

 身に危険が迫れば逃れたい。しかし、まわりには同じような恐怖にさらされた他の乗客がいる。

 

 ― 自分がもしそのバスに乗り合わせていたらどんな行動をしただろうか・・・。

 

 もうひとつは、映画『タイタニック』の中の二つのシーンである。

 

 一つは、沈没の危機が迫った船からボートで脱出するときに、数が限られたボートに乗れるのは子供連れの者が先だと知らされた男が、親からはぐれた他人の子供をまるで我が子のように抱きかかえ、われ先にボートに乗り込む場面。

 

 二つ目は、いよいよ船が沈没しかけ、冷たく暗い海に恋人とともに投げだされた男(レオナルド・ディカプリオ)が、

恋人を生かすために自己犠牲になって、海の底に沈んでいく場面である。

 

 ― これらも、もし自分が遭遇していたら、どうしていたか・・・。

 

 これらは、いずれも、考えようにようによっては、自己愛(ナルシシズム)の問題を含んでいるように思える。

 

 だが、「もしも、自分がそこにいたらどうしていたか、、」ということに、自信をもって「きっと、こうしていた!」という答えは見つからない。

 

 残念ながらいま言えることは、誰でも、「自分はかわいい」、ということに変わりはないのだが・・といことくらいか、、。

 

  (はっきりせず、かたじけない・・)