中年の盛りにいた十数年前に「中年とは何ぞや」というテーマで書いたものです。

 

 書いた当の本人以外は誰も読んでおらず、これまでビニール袋に入れたまま部屋の隅に打ち捨てて

いました。しかしコロナで籠って部屋をガサゴソ片付けていたある日、「なんだこりゃ・・」と袋に気づき、

書きなぐったままの原稿を何年かぶりに目にしたのです。

 

  打ち捨てたままにしていたのは、「こんな原稿、どう手立てを講じても”日の目を見る”(世に出る)こ

とはありえないだろう」と、書きなぐっている時点で思っていたからです。「あとで来し方を振り返ったと

きに、こんなことを考えていたという証としてそばに置いておくだけでいい」と思っていました。

 

 しかし、ここへきて・・ 「いや待てよ、ブログがあるじゃないか・・・」。― と思い立ち、こうして文明の

”利器”(役に立つすぐれもの)を得た幸運に恵まれ、投稿させてもらうことにしました。

 

 (仕事のかたわら)書いていた当時は、不況、会社倒産、リストラのあらしが吹きあれ「構造改革なく

 して景気回復なし」などと叫ばれていた時代でした。

 

 そんな中、社会の中核を担う中年、

人生の華のときを生きる中年について、ひとつ掘り下げてみようと・・・・・。

   

  

          「中年」の研究 ー中年をどう生きるか

 

      はじめに

  

  私は52歳の中年男である。

 

 いつの間に年を取ったんだろう? と思うほどに年を重ねてきた。

 

 子どもの頃は、自分もやがては大人になり、老人になっていくということが信じられなかった。

 

 大人や老人は、子どもの自分にとっては、まるきり別人種のような気がしていたからである。

 

 いずれはそうなっていくのだろうと漠然と感ずることはあっても、実感ができなかった。

 

 なぜ、腹が出ているのか。なぜ、髪の毛が白く、薄くなっているのか。なぜ、額にシワ寄ったり、メガネのレンズが太く、

目がギョッロッと大きく見えるのか。

 

 その一つ一つが未知のことであった。子どもの眼には、まったく異質な生き物に見えていたのである。

 

 「そのうちに、あんたがただってそうなるんだよ」

 

 父は子どもだった私にそう言って、笑った。しかし、ピンと来るわけがなかった。

 

 ひとは実際に自分が体験しないとわからないことが多いものだ。

 

 青年と老人の中間の位置にある中年についてもそうである。

 

 しかし、実際に自分がその中年になってみると、子どものときに思っていたほど中年も悪くはない。

 

 たしかに体力は衰えてきた。だが、まだまだ気力も体力も十分である。

 

 それに、子どもの頃や若いときには理解できなかったことも理解できるようになる。

 

 私の場合、矛盾という言葉がその一つだった。

 

 矛盾は、前後のつじつまが合わないという意味だが、若い頃よく口にした「 この社会は矛盾だらけ」なども本当はよくわかっていなくて、

中年になり、せっせと一生懸命働いても暮らしがよくならない、将来が不安だと実感できてはじめて矛盾を本当に体感できたのである。

 

 また、愛憎などという言葉も大人になり、男と女の関係、夫婦の関係を経験してみなければ実感できないことである。

 

 小学生の男の子がクラスの好きな女の子に、「愛憎を感じちゃうなボク・・」というセリフを吐く、などということは想像しにくいことだ。

 

 ましてやその男の子が「愛人」のところへ電話して、「今夜行くから」とか、ベッドで「いかんどうも思うようにいかなくなった」などという話も

よもやないであろう。

 

 そいうことは大人になって、あるいは中年になってはじめてわかるのである。

 

 中年は、理解力が増すばかりではない。体験や知識や技術が積み重なり、実力のある世代へと成長していく。

 

 しかしながら、中年は若い世代からは、オジン、オバタリアンなどと馬鹿にされ、敬遠されることが多い。

 

 それだけならまだしも、”オヤジ狩り”と称して中年男を襲い瀕死の重傷を負わせて金品を奪い取るヤカラが出没するにいたっては、

中年男はおちおち夜道も歩けない。

 

 くわえて、リストラである。ある大企業の社長は、「四十歳以上の社員はいらない」と言ったそうである。

 

 四十歳といえば、まさに中年である。

 

 中年になってリストラされ仕事がなくなれば、中年以降の人生が台なしにされてしまうばかりか、

そんな中年にいずれは自分たちもなっていってしまうのでは? と若輩らの意気をも萎えさせてしまいかねない。

 

 社会全体の再生産力がリレーされていかなくなるのではないかと危惧されるのである。

 

 そうした、中年が社会から”いじめ”にも似た迫害を受けている一方で、中年はこころと体にさまざま危機が訪れるともいわれている。

 

 いわゆる”中年クライシス”だ。

 

 危機は、たとえば、もう自分の残りの時間は少ない、これまでの人生があっという間だったから、これからだって、あっという間に過ぎていくに違いないという不安となってあらわれる。

 

 また夫婦の間がガタガタになって、見直しをせまられるという事態も生じる。

 

 そして体力や精力の衰えが死への怖れとなり、生きていく意味をあらためて問い直すということなども起きてくるのである。

 

 中年は、複雑で、難しい年代を生きている。

 

 実力があり、社会の中核を担っている一方で、疎まれてもいる。

 

 そんなプレッシャーの中で、こころの悩みや不安をかかえる人が少なくないといわれている。

 

 その中年をどう生きていくか―。

 

 しかし、その答えは楽観的かもしれないが意外と単純なことかもしれない。

 

 それは、中年は、人間の一生の成長過程の一里塚にすぎないのなら、その成長を自らが自覚して促したり、

反対に停滞を感じたりして、思うようにいかない人生を、かけがえのない「自分の人生」として愉しんでいこうとすることではないだろうか。

 

 どうせ終えていく、一度限りの人生なら、悔いのない中年時代を過ごしたいものだ。

 

 中年。ー だれもが通るこの人生の”季節”を掘り下げていくなかで私自身もそのヒントが見つかればさいわいである。

 

   ※次回(予定)は

    第1章 ようこそ中年へ (1)中年はいつから始まり、いつ終わるのか

     ◎私が中年を意識した頃 ◎中年の始まりは四十前後とは限らない ◎三十五歳が中年の始まり?

     (―以下、◎二十五歳の娘の眼からは五十二歳は高年! ◎苦肉の言葉? 中高年 ◎「中年は伸縮自在な年齢」-その理由)