MY LITTLE LOVERに関しては、今まで本当に名前程度しか知らなかった。

彼女たちの曲を積極的に聴こうと思ったりしたことすらなかったし、私の中での認識は、正直なところ0に近い部分だったと思う。


しかし、 「dreamy sucess」をある日、街中で流れているのを偶然に聴いた日、私はそれを聴きとることに集中してしまった。

街中で流れているもののほとんどがヒットチャートで聞き覚えのある曲ばかりなので、意識することすらほとんどないのだが、私はこの曲を聴いた瞬間に、「これは誰だ?」という強烈な興味を覚えたのである。


akkoの甘いボイスに、容赦なく甘くきらめいたメロディ・歌詞をのせているのだが、それが決して過剰ではないギリギリのラインでうまく存在していたことは、私は特に印象深く思えた。

それはギリギリの甘さでありながら、生クリームのひと口目のような<新鮮さ>を一曲4分の中で維持し続けているということは、至難の業であるとも思う。

そのギリギリのラインを保たせているのは、メロディの思わずドキリとするような、本能的な部分に呼びかけてくる巧さにあると思う。

特に、 「lovely 愛を注いで / もっと満たしておくれよ」の部分は、私はこの曲の中で一番に好きなメロディラインである。

それはもはや言語化することすら不可能に近い、身体的な喜びを思わせてくれる心地よさであり、一種の快感なのである。

その歌詞の(言ってしまえば)過剰なラブリーさ、甘さですら、許してしまえるような、むしろ、同じように同調して声に出してしまいたいと思わせてしまうのである。


これは一歩間違えればどうしようもない失敗にもなってしまう部分だと思う。

もしそのメロディラインが、わたしたちに訴えかけるような巧さを持っていなければ、

同調したくなるようなことばでなければ、

この曲は「甘い曲」の一言で終わってしまうだろう。

はっきり言って、この曲は、全部を98%を甘さでつくりあげたかのような曲である。

しかし、それが甘さだけで終わらなかったのは、

そんなメロディの巧さ、そしてそれを見抜くバランス感覚の善さ なのだと思う。

この奇跡的なバランスで、「dreamy success」という曲は、たまらなくキュートでキャッチーな、ポップとして存在しているのだ。



私の中で0の認識だったMY LITTLE LOVER

衝撃の出会いだった

これほどまでのバランスで打ち出されている曲も本当に珍しいと思う。

なにより、もっと満たしておくれよ とわたしも唄いたいのである。

それはリスナーにとっての、音楽の喜びの根本であるとおもう。


シャングリラ以降のチャットモンチーに関して、正直私はそれまでの「chatmonchy has come」「耳鳴り」で彼女たちが打ち出してきた音楽性との若干の異なりを感じていた。

それまでの彼女たちが直球でロックならば、シャングリラ以降からはよりポップ性を打ち出してきたかのように思えた。

そしてもっと言うならば、彼女たちの“ロック”を評価していた私にとって、

チャットモンチーのその変化は、少し物足りない という感想も与えてしまっていたのも事実である。

(もちろん、彼女たちが発表してきた曲たちが素晴らしかったということは、事実である。おそらくこのレベルの楽曲を生みだすのは“普通の”歌手たちには不可能だと思う)


そんな気持ちで彼女たちの音楽をきいてきたのだが、やはりチャットモンチーは本物のロックバンドだった。

そして彼女たちは、そのポテンシャルをより一層鋭利さを滾らせて私たちにぶつけてきた。

それがこの「世界が終わる夜に」である。


へヴィなイントロからはじまるこの楽曲にある、“世界”への途方もない“あきらめ”は、胸を深くえぐるかのように私たちを突き刺してしまう。


「私が神様だったら

 こんな世界は作らなかった

 愛という名のお守りは

 結局からっぽだったんだ」


世界の誕生すらも望むこともなく、世界中で叫ばれている “愛”までも、「からっぽだった」と言いのけてしまったのだ。

しかしながら、ここにあるものは「あきらめ」であり、決して希望ではないのだ。

この歌詞の中では、決してこの「世界」を壊そうとしたりはしないのだ。

虚しくすぎる時を拒否もせず、ただ受け流しているのである。

それは完全なる『あきらめ』だと思う。

破壊しようと動くこともなく、拒否しようとすることもなく、何の行動も示さない というその姿勢は、“世界”を何よりも鋭利な視点でみつめていると思う。

この楽曲にあるのはそんな諦めであり、それを鋭利にしてしまうことで、この楽曲がもつへヴィさはますます深まっていくのだ。


そしてなによりも、そんな鋭利さが、彼女たちのメロディ,サウンドにのった瞬間に、

心臓をつかむかのように美しく、うるわしく変化してしまうのである。

それはあまりにも甘美で、再び味わいたいと思わせてしまうのだ。

わたしは、そんな美しさこそがロックなんだと思う。

彼女たちは、かつて自分たちがもっていたその才能に、さらに深みをもたせてしまった。

あまりにも鋭利に、そしてあまりにも甘美に、わたしの耳を支配してやまないのである。


チャットモンチーの才能はまさに、未来の音楽シーンを担うものだと、彼女たちを初めて聴いたときに確信した。

しかし彼女たちは、そんな私の確信以上のエネルギーで進化し、変化していっているのである。

10月には、待望の2ndアルバム「生命力」を発売する彼女たちだが、そこにはどんな変化・進化があり、

そしてロックバンドとしての彼女たちの“今”が心から楽しみで仕方がない。



途方もなく鋭利で美しいロックに、私は離れられそうにない。


KREVAの最新シングル「くればいいのに」は、表記されているとおり、スピッツの草野マサムネが参加している。

タイトルの「くればいいのに」だけを聴くと、特に前作「アグレッシ部」もあるために、ふざけがちな印象を持ってしまうのだが、そんなイメージを思い切り覆してしまうほどにこの一作は真摯なのである。


歌詞だけをみても、描かれていること自体は、昔から書かれてきた恋愛のせつなさであるし、

「くればいいのに」という言葉自体にしても、言ってしまえば決してインパクトのあるものではないと私は思う。

しかし、大切なことは、それを草野マサムネに唄わせた、ということなのである。


KREVAがラップで思いを書き連ね、歌うことで具体的な心象がうまれ、

草野マサムネが唄うことで、その心象に「せつなさ」という大きなニュアンスが色づかれていくのである。

それは、KREVAと草野マサムネの唄声のベクトルの違いがあるがゆえであり、

その違いのコントラストに耳を、そして心をつかまれてしまうのである。


そして同時に、こういうメロディーラインの唄は、決して草野マサムネはつくらないものだと思う。

そんなメロディーに彼の声が乗ったときですら、彼の声の元来のセンチメンタリズムは、日頃のスピッツの活動とはまた違うきらめき方をするのだと、熟練したプロである彼からもまた、新しい発見をさせられる。

そしてそれをしかけたのは、まぎれもなくKREVAである。

彼の<音楽家>としての才能を改めて感じさせられた。



あなたがくればいいのに、とひどくシンプルなことばは、

ひどくシンプルに、恋愛そのもののせつなさを浮き彫りにしている。

それは、彼らが真摯に向かい合って生み出した唄だからなのだとわたしは思う。



※今回のブログはネタバレの要素が含まれておりますので、「大日本人」をまだご覧になっていない方は読むことを控えるのをお勧めいたします。




松本人志の第一作監督作品である、「大日本人」を観た。

松本人志といえば、(おそらく)現在のTV業界に全く新しい価値観の笑いを生みだした男である。

それまで漫才が主流であった世界において、異常な世界観を根底に持つということを最低条件にあっさりと成しえてしまう「コント」という新たな笑いの方式を生みだしたことは、現在のTVお笑い界においての維新でもある。

コントの方式の成立以後も、「一人ごっつ」「ビジュアルバム」など、それまでのお笑い界では想像もしなかったことをやってのけたきた男が松本人志だ。


その、松本人志の映画 、である。

詳しい話の説明は一切なく、「見ればわかる」の一点張りだった松本人志だが、この映画をみて、まさに「見ればわかる」映画だ、とわたしは思った。


わたし個人の見解を言うならば、

明らかに、「松本人志の孤独」を描いている映画であったと思う。

戦隊モノ、として表現しているにしても、これはどう考えたって、「お笑い界・TV界」に存在している「松本人志」が抱いている孤独・焦燥・悲哀であり、主人公はどう考えたって松本人志なのだ。

そこには、「誰にも理解されない」という悲しみや、

「天才(=ヒーロー)」でありながらも同時に存在している、「人間としては当然」の弱さや汚さ、

そしてそれを露呈してしまえばバッシングされてしまうという重圧。


松本人志はたしかに天才であり、そしてその存在は異常である。

そして彼が天才であり異常な才能を持つがゆえに、彼の周囲をとりまく環境もまた異常なのである。

そのことの大きな悲哀がこの映画にはある。

そしてそれを、松本人志は「笑い」という手法によって包んでいるのだ。


しかし、わたしはその包まれた笑いのなかにある、大きなその悲哀に、映画館で思わず涙を滲ませてしまった。

本来ならば笑ってしまえる世界でありながらも、その中にある孤独は相当である。




わたしはこの映画に関しては、勧めることもしなければ、否定することもしないつもりだ。

松本人志の「監督」としての技量などもわたしには推し量ることはできない。

ただひとつ言えることは、この映画はみなければ判らない、そういう類の映画である。

実に奇妙なカテゴライズをせざるをえない。

しいていうならば、「松本人志」というジャンルだとしか言いようがない。

グレイプバインは、特殊なバンドである。

97年のデビュー以降、新作を出すごとに深化していく様はいつ感じても見事であった。

堂々としたロックバンドであり、どこか斜からみつめられれた世界の描き方は、唯一無二であると常々感じさせられる。


グレイプバインはまぎれもなくロックバンドだ。

しかし、不思議なことに、どこかリスナーとイーヴンな関係ではない、とどこか感じさせる部分があるのである。


ロックという音楽は、現象でしかないとわたしは感じている。

たとえば、うなるようなギタープレイがあるからといって<ロック>が生み出されるかと言ったらそれは別問題であるし、

計算で生み出されるものでは決してないと思うからだ。

だからこそロックは現象でしかない。

そして同時に、ロックとは痛みの産物なのである。

世界・自分への悲哀・絶望・苦痛を昇華しきった部分にこそロックが現れるのだとわたしは思う。

だからこそ、ロックは人の心をつかんでしまう力をもっていたし、ロックに魅せられる私たちリスナーは、彼らがロックを「生み出す」ことで、共感し、感動を覚えるのだと思う。


しかし、グレイプバインのロックはそれとは少し趣が異なると私は感じている。

彼らが描くロックは、私たちに「痛み」そのものを惜しげもなく見せつけるかのような部分があるように思えるのだ。

従来のロックというものは、「痛み」を描きこそすれ、それをみせつけることはないものである。

昇華しきった痛みは、その痛みの深さと同じほどに、美しく、その痛みの強さだけ、人を惹きつけてやまないものなのだ。

だからこそリスナーはロックを求めているに他ならない。

しかし、グレイプバインがしていることは、それとまったく同じ方法・手段でありながらも、どこかで「これがお前の持っている痛みなんだ」と突きつけられるような気がする。

それは、極端な言い方をすれば「エグい」ものであるし、本来ならば、目をそむけたくなるような代物でしかない。


前者で言った<ロック>というものたちは、どこかで私たちと同じ「位置」「立場」で描かれているかのように感じる。

だからこそ、わたしたちは共感を覚え、その美しさを感じていた。

しかし、彼らの場合は、明らかにグレイプバインとリスナーは向かい合う、対極の場所にいるのである。

グレイプバインは世界を描き表現することで、<痛み>そのものをリスナーにみせつけてしまう。

そしてそれは、先ほども言ったとおり「エグい」ことなのである。


しかし、何よりも驚くべきことなのは、「エグい」痛みを見せつけながらも、グレイプバインは、それをどうしようもなく甘美に描いてしまうことなのだ。

その甘美さは、まぎれもなくロックの美しさに他ならない。

これははっきりと異常なことだと思う。

痛みに目をつぶりたがる人間の本質の部分を突き立てながらも、彼らは突き立てられる痛みまでも美しく甘美に変えてしまうのだ。


彼らは明らかいに特殊なバンドであり、そしてまったくもってスタンダードな形で「ロックバンド」なのである。

彼らがやっていることはほかのバンドと変わらないにも関わらず、その立ち位置はなぜか「普通」とは異なっている。

不思議、だとしか言いようがない。

そしてその特殊性こそが、グレイプバインがリスナーを惹きつけてやまない要因のひとつなのだと思う。


こんなことをできるひとを、わたしは彼ら以外に知らない。


それまで、邦楽シーンにおけるポップスの王道を、その天性の音楽性で表現してきた矢井田瞳が、ジャンルを飛び越えた根本的な<音楽>に回帰したアルバムが、3rdアルバムである「i/flancy」であるとわたしは思う。

このアルバム以降の彼女の作品の完成度の高さはそれまでのものとは明らかに異なっているし、なにかに定義することが不可能な、純粋な<音楽>へと昇華しているものばかりである。

そして同時に、このアルバムの、音楽としての純潔度や、人間が生み出していった表現としてのクオリティの高さ、無垢さは群を抜いている。

無垢さゆえに人の心臓を思い切り狙い打ってしまうようなズキリとした棘も存在しながらも、圧倒的に無垢さゆえの清純さがここにはあるのである。


「未完成のメロディ」で、誰もが心の中で呟いたエゴや願いを、悲しみで表現でしてしまう鋭利さをみせつけ、「Change your mind」でへヴィな感情を吐露させながらも、「Ring my bell」や「i really want to understand you」で、人間への根本的へな愛情を、惜しみなく出してしまう彼女の姿は、<人間>という生き物の根本的な部分を感じさせられる。

凶暴で鋭利でエゴイストでへヴィで悲しみをどうしようもなく抱きながらも、それでも<人間>をたしかに思い、愛情を限りなく心に携えているものなのだと思わされてしまうのだ。

しかし、そんな矛盾を抱えた自らをも、最後の楽曲「明日への手紙」で、やさしく受け止め、許してしまえる矢井田瞳 という ひとりの人間の大きな心は、矛盾を抱えているわたしたちの大きな希望なのである。




木村カエラの最新アルバム「Scratch」は、彼女のアーティストとしての成長・飛躍を強烈に感じさせる一枚であるが、

私がその中でも一番に好きだと感じたのは、「never land」という楽曲である。

前作「Circle」でも作曲を担当した、クラムボンのミトによる作曲なのだが、この唄は、ずば抜けていい。


ミトの、どこか繊細でうっすらと感じるメランコリックさを、カエラが強く唄いきることで、ひとつの世界観が出来上がっている。

なによりも、サビに入った瞬間の、「うつくしさの爆発」とでも呼ぶべきかのような、心臓を一瞬にしてつかまれてしまうかのようなエネルギーの強さは格別である。

カエラ率いるバンドたちの、エッヂの効いた鋭利なサウンドに、ミトが作り上げる繊細で圧倒的なうつくしさが混ざり合うことで、音楽としての途方もないうつくしさが出来上がっているのである。

言ってしまえば、この二つの要素は本来ならば相反してしまう要素なのだが、この「never land」という楽曲においては、まさにほどよい互いの<強さ>で、ぴったりと調和している。

そして、その調和のバランスをとっているのが、まぎれもなく木村カエラなのである。

カエラが「LET ME KNOW」と切々と、しかしはっきりと歌い上げることによって、これらの統率を一気にとってしまうのだ。

そこにあるのは、まぎれもない木村カエラのヴォーカリストとしての存在感によるものだと思う。


木村カエラの唄は、うまいとか下手だとか、そういう技術的なもので測れる存在ではない。

彼女が唄をうたおうと、声をあげた瞬間に完成されているものなのである。

たしかに、それを構成する一部として技術的な部分もあると思う。

それでも、そんなものは、本当に付属の要素でしかないとわたしは思うのだ。

木村カエラが唄をうたう、その瞬間に、圧倒的にカエラは勝者であり、そのヴォーカルはたしかなものになっている、と感じるのだ。



特にこの楽曲に関しては、そんな、鋭利なサウンドと、音自体の美しさ、そしてカエラのヴォーカルという、見事な「3重奏」に魅せられる。

強さの奥でじんわりと滲む繊細さや、激しさの中にあるメランコリック、そして弱さの中にある強い意思までをも感じさせられる。

こういう楽曲は、実はそうそう生まれるものではない。

そして、そんな奇跡的な楽曲を、思い切り「カエラ」という存在の一部にしあげている、木村カエラのアーティストとしてのスキルの高さに、感嘆せざるを得ない。

聴いた瞬間に、自らの全てをつかまれてしまうかのような、そんな強い力を持つ一曲である。


現在映画化もされて、話題にもなっている安野モヨコの「さくらん」だが(ちなみに映画に関しては未見なのでコメントすることはできない)、原作においてのこの世界は、圧倒的に<女>を描いた作品だと思う。

だからこそ、深い共鳴と、同時にそれを描ききってしまう安野モヨコの激しいリビドーに奮え立たされる。


主人公・きよ葉は無理やりに「玉菊屋」に連れてこられ、逃亡を何度も試みているが、これほど直接的な意識と行動を持っていないにしても、《女》に生まれた人間ならば、そういった感覚を持っていたとわたしは思う。

きよ葉が逃げようとするのは、玉菊屋 の女たちに象徴される、『女という性』に恐れをなし、同時に嫌悪を覚えているが故なのだ。

彼女は決して、折檻を恐れているわけでも何でもない。

本能的に、《女》という性を恐れ、自らがそれになってしまうことから『逃げよう』としているのである。

幼く、まだ月経すら訪れてもいない故に、当時のきよ葉は、女 であって、《女》 ではないのだ。

だからこそ、本当の《女》を激しく嫌悪する。こんな風にはならない、と強く思うのだ。

そしてそれは決して特別なことではない。

私は、きっと女ならば、そんな風に感じていたはずだ、と思う。それを自らが察知する・察知しないは人それぞれではあるが、少なくともそんな風にどこかで感じているはずだ。


私達やきよ葉などの 「女」が、なぜ《女》という性を恐れ、嫌悪するのか。

私達は、決して具体性な事項を以って 女という性 を嫌悪しているわけではないのだ。ましてや、女たちを憎んでいるわけでもない。

わたしたちは、女 だからこそ、女になる自分を憎んでいるのだ。

それは、玉菊屋で風呂に入っている女たちの姿を目の当たりにしてしまったときのきよ葉の心境に現れていると思う。

明白に存在している女の性を目の当たりにしてしまっているのだ。そしてそこには、色気などなにもない。

推測で話をすれば、恐らくあのシーンをみた男性も、一瞬、引いてしまうシーンだと思う。

そこにあるのは、美しくもない、ある種むきだしの状態の《女の性》だと、わたし思えるのだ。

だからこそ恐れをなす。

女は、女であるがゆえに、その性をありありと見せ付けられてしまう。そしてありありと感じてしまう。

だからこそ、恐れをなさずにはいられないのだ。あまりにもリアルに知りすぎているが故に、女 になろうとする自らにも恐怖を怯える。

だからこそ、きよ葉は何度も逃げようとしたのである。


しかし、圧巻なのは、そんなきよ葉も、惣次郎に恋をし、彼に抱かれながら、より思いを深めていくところである。

明らかに、その事態こそが、きよ葉が嫌悪し、恐れていたことであるにも関わらず、きよ葉は自らその事態にのめりこんでいく。

その矛盾こそが、《女》が抱えている矛盾であり、憎んでいながらも悦び溺れる。

そのときすでに、きよ葉は完全に《女》であるし、言ってしまえば、嫌悪感を持っていた<向こう側>に行ってしまっているのだ。

それでも、この矛盾すら厭わないほどに、惣次郎に入れ込み、恋しいと思うきよ葉はすでに、自らの《女》という性までもを《受容》しきっているのである。



この克明な、《女》の生き様、女の流れ、を描く作業は、恐らく激しい疲労を伴うものであったと思う。

自らの性のスタートから現在までを、振り返り、見つめなおし、そして描く。ということは、精神的にも恐らくハードだったはずだ。

しかし、逃げることも目を逸らすこともなく、ありありと《女》という性を描ききった安野モヨコに、心の底から感服せずにはいられない。



香川照之の最優秀助演男優賞の受賞も記憶に新しい、「ゆれる」を観た。


実に緻密な映画だったと思う。

導入部のシーンにおいて、小さではあるが決定的な<要因>たちが、たくさん散りばめられている。

そしてその散りばめ方、同時にそれの映し方が、女性監督ならではの見方で描かれているのも印象的であった。

こういう映し方、映像の見方は女性だからこそできたものだと思うし、西川美和はそれをうまくやっているな、と感じた。


内容についてなのだが、あまりにもエグい。そしてそれは、リアルが故である。


兄は、才能も自由も(もっといえば、好意を寄せていた幼馴染の女性までをも抱いて「ものにした」という事実をも含めて) 持っている弟を羨み、

弟は、誰に対しても優しく公平な兄の姿に劣等感を覚えた。

そしてそんな、兄弟が兄弟であるがゆえの劣等感・そして同時にある優越感、葛藤は、

<日常>という中においては、それぞれの中に押し込められ、<兄弟>という均衡は見事に保つ事が出来る。

しかし、「橋」でおきてしまった事件のせいで、押し込められたそれらはあふれ出してしまう。


何よりも顕著なのだが、弟の記憶に関する部分で、弟は、唯一 <事実>を見ている人間なのである。

しかし、彼が思い出そうとする、記憶している<事実>は、あらゆる可能性のうちのひとつであり、そして同時に、彼の兄に対する意識が顕著に現れているのである。

そんな意識を効果的に表しているのが、裁判における検察側と弁護側の意見であり、この二つの意見は、恐らく弟の中で行われているの意見のせめぎあいにも似た部分なのかもしれない、と少し思った。



橋がゆれたことで 起きてしまった事件で、

兄弟の関係までもが ゆらいでしまった。

リアルな描写には、人の心の弱さが秘められている。

だからこそ、せつないのだ。


「ゆれる」。まさしくぴったりなタイトルだったと思う。

久々にこんなに、逃げ場のない、穴のないせつなさを映画で感じた。


YUKIのタイトルのつけ方、というのは、邦楽シーンにおいて特筆すべきものがあると常々感じている。

日常性を携えている上で、「誰も選ばなかった」言葉をあっさりとタイトルにしてしまう、とわたしは思う。

その例がこの「泣きそうだ」だと思う。

あまりにもストレートすぎて誰も手をつけなかったタイトルだと思う。

そして何よりも驚きなのが、「泣きそうだ」というきわめてウェットな言葉を示しながらも、この唄自体は非常にドライなサウンドをしているということなのである。

わたしはそんな相反する感覚を自在に操ってしまうYUKIの才能に、愕然としてしまう。

YUKIの裏切りは、いつでも、期待以上の答えを出す為に他ならない。

そしてその裏切りの発想こそを、才能と呼ぶのかもしれない、とつい考えさせられる。


「泣きそうだ」は、YUKIの4カウントから始まり、エッヂの効いたギター音がズキズキとリスナーをかきたてる。

やはり、そこにウェットな意思は微塵も感じさせない。

そんな世界観が平行して続いていく中、YUKIの歌詞も、どちらかと言えばフラットな状態で生まれたかのような言葉が並べられ、そしてYUKI自身をもその言葉をフラット(と思われる)唄声で届けていっているのだ。

そこには思いつめすぎる激情も、ピンク色に埋め尽くされるような甘さもない。

それでも、たしかに相手を思う「温かさ」をわたしは感じる。

この微妙に相反している様こそが、YUKIの伝えたいことなのかもしれない、とわたしは少し思う。

甘く甘く仕立て上げられた世界観だけが、いわゆる「恋愛」と呼ばれるものなのではない、とYUKIは言いたいのではないのかと感じるのである。

ズキズキと響くようなサウンドや、ゴツゴツした音の厚みのような、そういった「世界観」であったとしても、「恋愛」はいつだって「恋愛」で、愛情は常に愛情なのだ、とYUKIは示したいのではないか、と私は思う。

YUKIはそんなアンチテーゼを、このサウンドにこめていたのかもしれない、と考えさせられる。


しかし、それでも、サビに入った瞬間の、あのどうしようもないメランコリックさと、くるおしいようなせつなさ、そして美しさは格別である。

「泣きそうだ」と、YUKIが声に出して唄い出した瞬間に、

まるで急に夜が訪れたような、砂漠を照りつけていた太陽がいきなり沈んでしまったかのような、そんなぞくりとする感覚が訪れるのである。そして、その瞬間に訪れるのは、ゴツゴツとしたサウンドでもズキズキかりたてるような激しさでもなく、ふいに感じる淋しさにも似たせつなさである。

それは、昼間から夜への急激な変化のように顕著で、そして、その変化の落差こそが、このせつなさの、どうしようもない「うつくしさ」をより際立てているように感じるのだ。

そしてそんな世界観の変化の仕方こそが、あまりにも人間らしくてとてもうつくしい、とわたしは思うのだ。

恐らくYUKIはそんなことまでも理解してやっている。理解してやっている、というよりも、むしろそれを表現したいと思ってやっているに違いないと思う。

そして、そんな「人の心」の変化までも、こんなにもうつくしく、そして人間らくし表現しきってしまう彼女の<才能>に改めて、畏怖にも似たうるわしさを覚える。