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東京事変、約2年ぶりの活動のはじまりを告げる新曲「能動的三分間」が発売されることは、

ファンのみならず音楽好きにはすでにチェック済みの事項であろう。

昨日から某CMソングとして流されていることも驚きのひとつだ(なにしろ、椎名林檎CM初出演!)。


それに伴いミュージッククリップの公開もなされたが(SR猫柳本線のチェックを勧める)、

同時に「能動的三分間」の全貌もまた明らかになったということだ。

今はまだ視聴の段階、なにかを具体的に書き表すことはあえてここではしないが、

すでにこの快楽に身をゆだねざるを得ない!

初めて゛再生″してから終わりに至るまでに、リピートせずにはいられない!という気持ちにさせられるまばゆいほどの誘惑である。

BMP120の心地よさ、痛快なまでの展開、

もうただこれしか浮かばない

 『超格好良い』。


12月2日の発売を待てないのは私だけはないはずだ。

余計な言葉はすでに無用、

今はもう、 私に囁かれる彼らの音楽の滋養と快楽に、何の抵抗もせずに無我夢中で溺れたいのだ。



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2009年に音楽シーンにおいて(まだ2か月近く残っているが)ひとつの事件であったのが椎名林檎のソロ活動の復帰であったと思う。

それまでも映画音楽の作成や楽曲提供、コーラス参加などの活動は見られたものの、“椎名林檎”での活動自体はおよそ6年にわたり控えられていた。

その彼女が世に送り出してきたのが、シングル「ありあまる富」であり、アルバム「三文ゴシップ」であった。

今日は三文ゴシップについて書きたいと思う。



一曲目「流行」という作品が実に象徴的であった。

この曲に関して彼女はインタビューなどで「女性と現在の音楽の在り方」を表しているという旨のことを言っていた。



もう忘れてしまったんでしょ

剥いだ裸の素材

君が造った女

今じゃ会ったってハヤらない



「女」というキーワードには、まさにそのまま、女性という意味合いと音楽という意味合いが込められているのだろう。

女性、という視点におけば、“対男性”の世界の中でどこかで、意志や存在よりも、女として“造られる”という出来事への諦めのような認識があるのだろうと思う。この曲において彼女は「女の・・・私に個性はいらない」とはっきりと諦めてしまっているが(それがフェイクかどうか、というニュアンスの差はここではあえて考えないつもりだ)

かねてより「百色眼鏡」という世界でも、彼女はこの「対男性」における女性の“役割”と“存在”について訴えかけていたように思う。



そしてもう一方、この歌詞が象徴しているのは、流行的なニュアンス・テイスト重視で、ユーザーが好む方向へと作り上げられてしまう“現在の音楽”への強い揶揄がここにある。

CDは売れない時代となり、“音楽”という存在への重き、扱われ方の軽さを彼女はひどく恐れている。



それは約十年前、19歳の彼女が「日本に足りていないポップを生みだすんだ!」という思いでデビューしてきたときの意志と変わらぬもののように私には思えた。

当時の、代替のきく量産的な安易なポップミュージック全盛の時代において、彼女は、「この世界」に足りないものをただ届けようとしていた。

それは強い責任感・使命感であり、そこには音楽へのゆるぎない信頼と真摯さがあるのだ。

そしてさらに、彼女が“音楽を生み出す”理由は、その使命感ゆえ、のものであり、また同時に、それのみ、なのかもしれない。

ただ言えることは、十年という歳月を経て彼女はひとつもブレていないのだ。

音楽への責任感、世界への使命感で彼女は“音楽”を生み出し続けているかのように思う。

だからこそ彼女はアーティストという言葉よりも“音楽家”という言葉を好むのかもしれない。



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このアルバムを全編聴いていくと、ラップから童謡まで多種多様の世界観が存在し、

十年以上のキャリアを持つ彼女からまた新しい顔をみつけたかのような喜びもあった。

個人的な話をすれば、彼女の口から

「したいことだけしてたい/痛いのは余り好きじゃない」「不養生をちゃらにして!」

なんて言葉を聞くとは思わなかった。

それくらい彼女は実直、真摯に生きている印象であったし、だからこそ彼女のその言葉に自分との共通項、みたいなものを感じてなんだか嬉しく思った。

だが、もちろんそれだけではなく「あなたとわたしの何方が変り果てたかを 問い質したい」と強いメッセージをも残し、ひとつひとつの音楽を、ひとつずつ、ただ素直に味わうことのできる一枚でもある。




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そして私が格別に感動したのは、ラストを飾る(「丸ノ内サディスティック」を含めないで)「余興」である。

この曲は昨年のRINGOEXPOでも披露された一曲だが、わたしはこの曲に彼女の“現在”の集大成のようなものを感じた。

ギターの歪みから始まるイントロは、かつてギターの印象の強かった1stや2ndアルバムの頃を私に思い起こさせた。

そして圧倒的なサビの魅力!メロディがいかに肉体に歓びを仕掛けるものなのか、ということを思わずにはいられないほど、胸を歓びでわしづかみにするような魅力が、あった。

そしてそれに載る言葉が「実直なほうが美しい」という言葉だということに、彼女のゆるぎない生き方を垣間見てわたしは涙を流さずにはいられなかった。


そしてなによりも感動的なのは、

続く大サビにおいて、彼女はあまりにも明朗に「嫌われて御出でよ 向かい風、乾杯!」と唄いあげてしまうことだ。


椎名林檎は、この世界に足りないポップスを世の中に送りだすのだ、という思いでデビューしてきた。

わたしは、さっきあげた一節に、彼女はまた、“この世界に足りないもの”を残して行ってくれたのだと、強く、強く思った。

愛されないことを恐れる弱さに怯えることよりも、嫌われることを受け止めてしまえる強さのほうが、どれだけ尊いのだろう。

向かい風に挑んでいくことが生きていくことでどれだけ重要なのか。

そんな、あまりにも強く優しいメッセージを、彼女はわたしたちに残す。


いま、こんなことを言える人間がどれだけいるのだろう、とわたしは思う。

向かい風乾杯!と微笑んで言えるひとが。

現在の時代において、置かれている状況や世界の流れに、疲弊した諦めや批判の声だけは高く鳴り響く。

それだってもちろんあるだろう、必要なことだろう。

でもそうじゃない、「嫌われてしまう」ことに向かおうとする思いが、向かい風に挑もうとする強さが、

どれだけ必要なのだろうか!

彼女はそんなことまでわたしたちに伝えようとする。

そう、それもまた、“この世界に足りないもの”なのだ。

十年の時を経て、彼女は変わらない。まさに、実直、なのだ。


椎名林檎の六年ぶりの一枚は、

そして、十一年目の一枚は、

音楽を生み出すべく東京に出てきたそのころと変わらない大きな意志がこめられている。

わたしは、彼女のような世界を生み出せる人がこの世界に存在することに、

また彼女と同じ時代を生きていけることを ただ単に 感謝する。 

たとえまた十年経ったとしてこの一枚を聴けばまた変わらぬ感動がここにあるだろう。

“流行”に咀嚼されない、実直な強さがあるからこそ、音楽なのだ。

彼女が残していくもの、教えていくものは、あまりにも大きい。


2009年において、そして現在の世界において、あまりに重要な一枚だ。

語弊を恐れずに言うが、椎名林檎の音楽は、この現在の世界において、圧倒的に、正しい 。 そう思わずにはいられない、一枚だった。


皆既日蝕の話題でも持ちきりだった7月22日

鬼と呼ばれた男が 遠い場所へ行ってしまった。


私がそのニュースを受けたのはお昼のことで

「嘘だ」と心の中で何度も何度も繰り返した。


泣きそうになるのをこらえ 唇を噛んで

こなしていた日常業務に戻った。


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ミッシェルに出会ったのは彼らが解散する年だった。 

わたしの出会いは遅すぎて、彼らに生で会うことは叶わず

映像でしか 音源でしか 知ることはなかった。


ミッシェルは、私がはじめて出会ったロックだった。

「ロック」という言葉を知りながら、その意味を本当には知らなかった私は

はじめて私の耳に「リリィ」が流れたときに、

そのすべてを身を以って知った。

強烈な体験に

わたしはそのあとロックにのめりこんでいった。

ミッシェルがいなければ

いまのわたしはまだロックなんか知らない 。



いつだって格好よかった。

アベのカッティングが最高に好きだった

なんであんなギターが弾けるんだろうと思った

神のような男だと思った

いや、鬼のような男だった。


わたしはいつだって彼のギターに痺れて踊らされていた




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7月22日 皆既日蝕をみんなが心待ちにしていた


そしてアベ は 太陽をつかんでしまった。




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ミッシェルを久し振りに聴きだして

出会ったころと変わらない最高のロックに

わたしはやっぱり変わらない歓びを覚える

痺れて踊らされる

でもどうしてか

涙が滲む。


いつかまた4人が集まるんじゃないかと思っていた

わたしのこんな夢はもう叶わない



ロックスターは短命 なんて伝説は

もういらない。

神様、欲張りすぎるよ。

もう誰もつれていかないでほしい




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7月25日 11:00

フジロック グリーンステージで チバが 叫んだ。


「今日のライヴは、俺たちの大親友だったアベフトシに捧げます!」



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いまは何を言うべきかが正しいか判らないけれど、

アベが また遠くでも ギターを鳴らし続けられるよう

祈っています。

ありがとう。





6月4日、吉井和哉ツアー「宇宙一周旅行」公演初日に行ってきた。

座席に座りながら猛烈な緊張を覚えた。期待や喜びというより“緊張”だった。これから起こる出来事にたいして自分はどう受け止めればいいのだろう、という気持ちと、これから起こることの予想のつかなさ。吉井和哉ライヴへの参加はこれが初めてになる。私は覚悟の仕方がわからなかった。吉井和哉が目の前に現れる、という未来に対してなぜだか途方もなく緊張していた。

 ギターの音が鳴り響きながらはじまった「ノーパン」に、私は我も忘れて叫んでいた。悲鳴のような喜びだった。まさかここでノーパンがくるなんて…という驚き。しかし彼のライヴがはじまった喜びと共に、私は冷静な自分もまた見つめていた。たしかに私はここで今ライヴを体感して、彼の世界にいま、誘われている。ギターは鳴り響いて私のテンションだって途方もなく上がる。それでも、今ここにいる吉井和哉は私がみている夢です、と言われてしまうほうがよっぽど納得がいった。現実感のあるものとして見れなかった。

 私は、“吉井和哉”という永遠のロックスターを目前にして、完全に自分という感覚を失っていたのだった。もしくは壮大すぎる存在にキャパシティが超えていた。私は、ただただ 彼と同じ空間を共有するという事態 にどう対処していいのかわからなくなっていた。


 吉井和哉への思い入れについて書き始めればキリがない。あまりに個人的すぎるために書いたりはしないけれど、彼は特別だった。人生の痛みを舐めるとき、私は彼の音楽をずっと聴き続けていた。そうすることで苦渋を覚える自分を支えてきた。ロックスターは私の中で吉井和哉ひとりだった。赤裸々な彼の人生。人生の痛みの普遍性。彼はそれを描き続けていた。それでも彼はいつだって艶やかでたまらなく人々の胸を躍らせる存在だった。ロックはいつだって痛みだとおもう。そして、ちっぽけな興奮だ。でもそれがなかったらどうやって生きていくんだろう?どうやって死にそうな気持ちを超えるんだろう? 私は身を持ってロックの必要性を知っている。吉井和哉の音楽の大きさを知っている。

 私はきっと、命の恩人を前にして 何も言えなくなったのだった。


 そんな気持ちの中で彼の公演のはじまりを迎えたものの、それでもやっぱり時間が経つごとに単純に彼の音楽が生で感じられる、という喜びに身をゆだねていくのが自然だった。私の隣には40代と思われるいわゆる“おばさん”がいたし、反対側の隣には綺麗にメイクもネイルもキメたOL風の若い女性が居た。なんだかまったく違う二人も、同じように彼を目前にして 腕をふりあげ 声をあげて喜んでいる。

 ”吉井和哉”というキーワードがなければすれ違うことすらなさそうな彼女たちが、今、同じように歓びを覚えている という状況に私は妙に感慨深さを覚えていた。“縁”という言葉が浮かんだ。


 ロックに人生を救われてきた経験は、きっと私だけじゃない。死にそうな夜に聴いたロックに、明日を迎える勇気を覚えた人はきっと数えきれないほどいるだろう。私にとってロックのイメージはそれがいちばんに近いものだった。死にそうな気持ちを支えてくれるなにか。それがロックだ、と思っていた。

 それでも、ロック、もっといえば音楽というものの存在が持つのが“それだけ”ではないという、当たり前のことに、私はあのときはじめて触れたような気がした。すれ違うことすらなかった人たちが、同じ歓びにつながれていく。それは、“人生”に起こる出来事としては、決してちっぽけなことではないと思った。強く心に刻み込むべきことのような気がした。死にそうな気持ちを超えて、必死に明日を迎えて、そして今わたしたちがこの会場にいるのだと思うと、それってなんだか奇跡のようだ、なんて本気で思った。

 ロックに救われているだけじゃない。ロックは一過性の安らぎだけじゃない。”生きる”ということの明確な温かさを、わたしは今目の前で見ている。そして、明確に感じさせられているのだ。


 かつて吉井和哉は「僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ/あるのは気安めみたいな興奮だけ それだけさ」と唄った。わたしはそれだって、決して嘘じゃないと思う。たしかにロックが私たちに直接なにかをしたりすることはない。それもまた明白な事実だとわかる。

 ただ、あの日私に流れたのは、あの日たしかに吉井和哉が鳴らしたのは、決して“気休めみたいな興奮”ではなかった。生きていく希望がずっと鳴っていた。生きていくのだと吉井和哉はずっと唄っているようにしか思えなかった。


 

 この願いが叶うといいな

 ずっと自分を信じているんだ (ONEDAY)



 そう唄う彼は、いつかくる“ONEDAY”を疑わずまっすぐに唄う。この願いが叶う日を信じている。そしてそれをまっすぐに私たちに届けてきた。わたしには、ここにいまあるのが希望でしかないと思えた。まっすぐな無垢な希望が強く強く鳴っていた。

 かつて、ロックは痛みだった。それは私のなかで今でも変わらない意識だと思う。でも、たしかに、あの日、大きな大きな希望もまた、まっすぐなまっすぐなロックだった。それを唄う吉井和哉もまた、誰よりも私たちを痺れさせる、格好いい“ロックスター”だった。


 きっと私の人生には、これからまた苦渋を舐めるようなことが何度となく訪れる。それでも、苦渋を舐め続けた彼が「ONEDAY」を信じて唄うのだから、私だって、明日くらいは信じて生きていけそうに思えた。

 本当に格好いい彼は永遠にロックスター。私はきっと吉井和哉が鳴らすすべてを強さに代えて生きていける。彼が教えてくれたことは、まるでシンプルで簡単で、誰にでも言えそうなこと。でも彼にしかこの大きな希望は伝えきれない。人生は痛みだけじゃない。あの日あの場所に、希望がずっとそこにあった。わたしはそれを信じる。だから明日も、生きていける。T

 THANK YOU 吉井和哉。ロックスターから教えてもらうことは大きくて、やっぱり彼は私の命の恩人のようだ。




2008年において、安室奈美恵の活躍は顕著のものであったように思う。

マスコミは彼女を「女王復活」と評し、彼女の出したベスト盤は破竹の勢いでヒットした。

だが私は彼女の評され方に大きな違和感を覚えるのである。

なぜならば、彼女は一度として“復活”などしたことはない。彼女は、ずっと“女王”として歩んできたからだ。


デビューして以来の小室プロデュースを脱したとき、彼女が選んだのはR&BとHip-hopの強く混ざる、ブラックミュージックのテイストの強い世界観である。

そこで彼女は自らの“世界”に飛び込んでったのだ。

そこには出来ているものを歌うというかつてのものではなく、自分自身がスキルを身につけ新たなジャンルへと格闘していくという挑戦であった。

もちろん、それ以前の彼女にあるスキルを否定しているわけではないが、それまでの彼女が唄ってきたものとはおおいに異なるものへの挑戦であることには変わりはない。

だからこそR&Bの方向へ転換してから初めて生んだ「STYLE」は、どこか未完成の部分を感じてしまう部分もある。「STYLE」を否定いているつもりはないのだが、そこでは彼女はまだ“完成”されてはいないと私は感じたのだ。


しかし、そこからの彼女の躍進はまさに見事であった。

その次に発売された「Queen og Hip-pop」は彼女がまさに新たな“世界”をものにし、“女王”として君臨したことの証明に他ならなかった。

まさに、このアルバムタイトルが示すとおりに、彼女はまったく新しい世界の女王として生まれ変わったのである。

このアルバムに関してはR&B色、Hip-hop色もかねての通りあるのだが、そこにポップス性が絶妙に絡まり、まさに“Hip-pop”とでも言うような、かつて感じたことのないような新しさを私は感じた。

私はこのときに彼女が、彼女自身が選んだ“新たな世界”をものにしたことを強く実感したし、彼女が自らを“女王”と呼ぶことのあまりの正当さに痛快さにも似た思いをした。


その次に生まれた「PLAY」は、“Queen of Hip-pop”の傾向を受けつぎながらも、よりクールでラグジュアリーな、完全なる女王然とした素晴らしい出来の作品であった。まさに快進撃である。



そう、だからこそ私はマスコミにおける「女王復活」に強い違和感を抱かずにはいられない。

彼女は、新たな世界観を選んだときから、女王への道を確実に歩んでいたいし、ましてやセールスなどという結果で“女王”に認定されるなんて、見当違いもいいところだと私は思う。

彼女はマスコミや世間に評価されるまでもなく「女王」に他ならないのだ。


私の中で永遠にゆるがないであろうバンドはTHE YELLOW MONKEYであることは間違いない。

またわたしの人生のなかで 吉井和哉がつくりだす音楽に救われてきたことは事実である。

世の中でロックを生みだすバンドは数多くいる。

ミッシェルやBJCに代表される邦楽ロックをもちろんわたしは聞くし、素晴らしいと思うし、断言して言えるが私は彼らの音楽を好んでいる。

彼らの音楽は日本が声をあげて評価すべき素晴らしい音楽だ。

しかし、もっと別のことを言えば、イエローモンキーに関しては私の好みを永遠に突いてくるようなたまらない魅力がある。それが他のバンドと比べてどうというわけでなく、ただただ私の愛すべき音楽として鎮座しているのである。

一言でいうと、イエローモンキーは“わたしのなかの特別”なバンドなのだ。


そんなイエローモンキーのフロントマンであった吉井和哉は変わらずソロとして活動しているが

(わたしは彼の音楽ももちろん聞くし、イエローモンキーとは違う彼の姿もまた“変わらない”ロックスターぶりで本当にすばらしいと思っている)

今日はあえて、彼の音楽ではなく彼のカヴァーについてかこうと思う。


私の中で彼がするカヴァーのイメージは圧倒的に洋楽のイメージがある。

ソロのツアーて披露いた「Paint it,Black」やイエローモンキー時代の「HONALOOCHIE BOOGIE」などは私にとってかなり印象深い。


彼のカヴァーの特徴というと、やはり詞を彼自身の言葉に書き換えてしまうところだと思う。

しかしそれが、作品への冒瀆 になるような事態にならないところが彼の言語感覚のなせる業だなと常々思うのだ。

私が好きな彼の“歌詞”は次のとおりである。


「金のなる木はしかたがない あきらめることにしようじゃん」 (Paint it,Black)


「ボロは着てても心は錦」 (HONALLOCHIE BOOGIE)




それは彼の曲の歌詞にもみられることだが、彼の言葉には日常の世界が垣間見えるのだ。

「金のなる木」や「心は錦」という言葉は、言ってしまえばどこか古臭いし、

そして私たちの土壌に染みついている言葉でもある。

そういう言葉をバシッと載せてしまうことで、“日本人”である私たちにとって、その言語感覚にしびれてしまう。

格好いい言葉じゃない、日常的で現実的なワードがロックにのせられてしまう瞬間に、

他ではみることのない強烈な興奮をわたしは覚えるのだ。

そしてそのギリギリのラインの言語の“遊び方”で彼は私たちに「ロック」というものを自分流に分け与えようとしているし、わたしには何より彼が楽しんでいるように思えてならないのだ。


英語で意味はわからなかったけど、衝撃を受けたというデビィット・ボウイというロックの出会いから、

彼はロックというものの強さを本能的に察知していたのかもしれない。

意味をこえて伝わるエモーショナルな部分を彼は敏感に受け取っていたし、

言葉という概念すらこえるロックの強さを体感した彼だからこそ、

言葉でもって自分の表現と ベースとなる“ロック”を融合させ 楽しんでいるんだとおもう。

そしてわたしも、それでいいのだとおもう。


カヴァーは本来非常に危険な行為ですらあるけれども(ある種の挑戦でもあるのだから)、

彼ほどの“ロックスター”ともなると 裏切られることのない安心感と 新しさとの発見でおもわず胸がうずいてしまう。

彼の洋楽カヴァーは他と比べてある種異色ではあるが、ある意味で生み出されている“ロック”にたいする認識がいちばんに高いのかもしれないとすら思う。


彼のレベルの高さにも驚かされるが、ロックというジャンルの可能性においてまた強く認識をもさせられた。




秘密/aiko


aikoの10年は恋愛に深くまですすんでいった10年であった。

その歳月の長さから、彼女は人間として多く変わった点があったと思うし、その視線のみえかたの変わり方は彼女の音楽からも窺える。

しかし変わらないのは、彼女が常に恋愛の「一瞬」をキャッチしつづけているということなのだ。


そんな彼女が、現在 見えている恋愛の「一瞬」たちがつまった8thアルバム「秘密」。

彼女はまったくとして聴く者の期待を裏切らない一作をまたもつくりあげてしまった。

aikoの息遣いまで聞こえてきそうなほど、ディープで心の奥のプライヴェートすら垣間見える一作であったとおもう。


「気付いて欲しい訳は何だろう」 という一言からはじまっている。

それはまさにいまの彼女にとっての命題のようなものなのかもしれない。

「秘密」という曲では、自分の心に隠している「秘密」すら伝えたい、といっている。

そんな汚れなくまっすぐな恋心は 美化されたものでもなんでもなく、まさに切実な “日常的な思念” だ。

彼女は決して特別な出来事として秘密を伝えようとしているのではなく、

生きていて 恋人を思う そんな日常のなかで、

あふれてしまう気持ちの感覚のなかで 自分の秘密までも伝えたいとすら思う

自然発生としての強い気持ちなのだ。

それはまさに恋愛の中でしかおこりえない強い感情である。

そう、まさに彼女は自分自身の奥底の部分までも伝えよう 知らせよう 判ってほしい と おもっているのだ。

それは言葉だけの成り立ちでない、ずっとつよい繋がりであり結びつきなのだ。


彼女の言葉は、

生きている、そして恋愛をするものの 心の中でうまれていた切実なひとりごと、なのだ。

それはあまりにもわたしたちのこころに近づきすぎていて、くるしさすら同時に感じるほどだ。





今日発売となったaikoの8thアルバム「秘密」の先行シングルでもあった「二人」

まさに近年のaikoの真骨頂とも呼ぶべき、アップテンポにのる恋愛のせつなさに、サビがきた途端に思わず唄い出したくなるような、癖になってしまうような一曲である。


もはや彼女にとって「恋愛」というキーワードが最重要項目であることは言わずもがなであるが、

彼女が描く世界は決して恋愛の幸福自体に依存するような存在ではなく、

「恋愛」というひとつの出来事にもっとも心を動かれているひとりの女性である。

その絶妙な加減が世間へのアプローチとして、そしてなによりも深い共感として響いているのであり、

彼女のその姿こそが全国の恋する女性の姿そのものなのである。



この「二人」では、恋愛がはじまったときのドキドキした気持ちが描かれているが、

ただ恋の始まりを喜んでいるだけでなく、どこか胸をつくようなせつなさがあり、またそのせつなさがどこか恋愛の喜びのひとつなのだと思い知らされる。

それを彼女は歌詞で以って表現しているし、また彼女の天性のメロディセンスによって紡がれる旋律は、先ほどもいった「思わず唄い出したくなってしまうような」癖になるうつくしさを持ちながら、

その旋律はただのアップテンポなポップソングでない、胸をギュッと掴まれるような独特の感覚をわたしたちに与えている。

その音に関する喜びは、おどくほど、「恋のせつなさ、の喜び」に似ているのだから、aikoというひとりの「歌手」の才能に感嘆する。


今年デビュー10周年の彼女は、10年という長い時間でたえず恋愛を唄い続けてきた。

それはもはや彼女にしかできない偉業である。

うわべの上手の恋愛ソングはきっと誰にだって書けるし、現実としてうわべの恋愛ソングは世に蔓延っているだろう。いくらでも生まれそして簡単に消費されるだろう。

しかしaikoが描くそれは、決してちがう。

恋のひとつひとつ、ちいさな出来事にも胸をひどく揺らすその切実な気持ちを、決してうわべでない心からの言葉として表現しつづけてきているのである。

それはなにより「恋愛」をおもう彼女でなければできない。


10周年という記念すべき年に生まれた今度のアルバム「秘密」もまた、

わたしたちの心をまるで恋愛のように揺らすのだろう。

チャットモンチーの2ndフルアルバム「生命力」をきいた。

昨年の彼女たちの活動の飛躍ぶりにはまさに目を見張る思いであったが、同時に変化していく彼女たちはアルバムでどう<進化>をみせつけるのか?ということは気がかりであった。

デビュー2年目の新人バンドが生み出すものとしては異常なほどの凄まじさであった「耳鳴り」に対して、

彼女たちはどんなアクションで私たちに、<耳鳴りのあと>のチャットモンチーをみせるんだろう、と考えていた。それは同時に疑いであり心配でもあったとも思う。


しかし、チャットモンチーは私のそんな疑問を、彼女たちらしいストレートなやりかたでブチ壊してくれた。

「生命力」もまた、凄まじいアルバムであったのだから。

元来持っている彼女たちの、『日常のなかから生まれるロック』 の鋭利さは、むしろ前作よりも一層増し、

それに加えて前作以上の計算で彼女たちは私たちに<チャットモンチー>をみせつけてきた。

感服、である。


今回特に気になったのは、彼女たちの<計算>である。

計算、と表現すること自体には語弊があるのかもしれないが、わたしは彼女たちの音楽に関する「本質」の見せ方の新しさに、改めてチャットモンチーの凄まじさを感じた。


たとえば「親知らず」という曲では、故郷にいる家族への愛情や思いが描かれている。

あくまで私の中での感覚だが、『ふるさと』や『家族』というものを描いたものに対しては、

つい壮大なバラードや胸をグッと掴むような美しさのメロディやサウンドをつけてしまいがちだと思う。

しかし、この曲につけられたサウンドは鋭利でどこか不穏なロックだ。


橋本絵莉子は、逆のサウンドで表現することで言葉の、そして描いている中身の部分をより明確にしているのだ。

この曲は、このロックの不穏な響きであらわされることによって、ただの「家族愛」を描いた唄ではないということがはっきりとよくわかる。

家族への愛を知って、故郷をいとおしむようになって、そして

「私もいつかこんなふうに人を愛せるだろうか」という自分への意識に回帰しているのである。

そしてその<自分への>意識こそが、この詞の本質なのである。

だからこそ

「親知らずが生えてきたよ 怖いから歯医者には行かない

 親知らずが生えてきたよ 誰も知らない間に」

という言葉が真の意味として理解され、真の鋭さでわたしたちをえぐるのである。


もし壮大なバラードや温かなサウンドでこの曲が描かれていたのなら、

この歌詞の本質 は そのメロディに埋もれてしまっていたのかもしれない。

橋本絵莉子はそれを見抜き、だからこそこの方法を選んだのだ。

真逆の方向に引っ張ることで真の意味を明確に引き出してしまう、彼女の音楽に関する「眼力」は実に凄まじいと私はあらためて感じた。



ますます進化し、ますます実力をつけていくチャットモンチー

彼女たちの凄まじさは本当にとどまることを知らない

彼女をはじめて聞いた時に、「10年に一度の存在だ」「日本の邦楽ロックを支える存在になりえる」と強く感じたが、すでにその頭角が現れ始めているのだから、本当に彼女たちはモンスターのようだ。

吉井和哉の4thアルバム「Hummingbird in Forest of Space」を聴いた。

彼のソロとしてのアルバムは、あまりにも彼の精神状態が赤裸々なものだとわたしは常々思う。

前作に関しては、過去(の彼の作品から判るとおり)の苦痛や絶望を確実に覚え、思いながらも

「自分は自分を信じて、生きる」という決意表明にもとれる作品だったと思う。


そんな前作から引き続いている今作は、

自分が生きる決意、を決めた彼だからこその世界が、吉井和哉らしい言葉遊びでこれまた赤裸々につづられている。


「シュレッダー」という歌で、彼はこんな風に唄っている。


《神様に会ったらこんな風に言うんだ

 「どんな目にあっても生きていたいです」》


こんな言葉は、かつての彼からは絶対に生まれてこなかったと思う。

彼の胸中はすでに、前作での決意からより進歩している部分にあるのだ。

悩み、悲しみ、傷つき、その過程を覚えたからこそ、「どんな目にあっても生きていたい」と言えた彼の姿は、

ありのままの人間らしさにあふれていて、胸の奥まで深く突き刺してしまうエナジーをひしひしと感じた。

悩まずクールにいられたら、

そんな姿みせずにいられたら、

神様に生きることを懇願するのなんて、格好悪いのかもしれない。

それでも、わたしにとっては生きていたい、という彼の姿が大きな希望に思えてならないのだ。


また、特筆すべきことに、

このアルバムの流れは、この13曲の中で吉井和哉がより進化していることがあると思う。

オープニングから前半にかけて、わりと前作の流れを汲んだダークさと生命力を同時にもっているような楽曲が多いとわたしは感じたのだが、

そこに決して境界線、をひかずに、いつのまにか彼は変化・進化していた!と

最後を飾る「雨雲」で気づかされるのである。


「雨雲」というタイトルからはまさに正反対の、さわやか、とまで形容したくなるような美しいイントロから、

ピアノが印象的に軽やかな世界が、一挙に(そして自然に)広がっていく。

それまでの彼の世界にはロックの強さやその中にある切なさ、というものがたしかにあったし、

時としてダークで、苦しさをも的確に表現してしまう音の世界があったと私は思っている。

そんな中で、こんなにうつくしくて、せつなさをも包んでしまうような、優しく温かな強さが、

この唄にはしっかりと存在しているのである。

うつくしい言葉をするりと乗せてしまう、その楽曲としての大きさ、には単純に感動を覚えずにはいられなかった。


《弱さだらけで恥ずかしいのにこの愛を誓った

 I LOVE YOU I LOVE YOU》


こんな言葉、発しても許されるのはおそらく今世界の中で吉井和哉だけだろう、とわたしは深く感じた。

同時に、この言葉の重みを知りつくしているのも、彼自身であり、

知り尽くしているからこそ、こんなにもさらりと唄いこなせることを可能にしているのだと思った。



こんなにも赤裸々で、こんなにも人間らしい吉井和哉。

そしてそれを、人々の心を打ってしまう世界に表現してしまえる彼のアーティストとしてのスキル・精神力の高さには、感服せずにはいられない。

日々進化し続ける彼の姿をこうして感じられる喜びを、わたしはただ感じている。

やはり吉井和哉は、私たちを魅せ続け、惹きつけ続けてやまない最高のロックシンガーだ。