2010年春、一番のニュースといえば、毛皮のマリーズのメジャーデビューだろう。

若手バンドとしては破格の存在感と世界観を以って登場した彼らがついに、大舞台に現れるのだ。

彼らの登場によって、この日本のロックシーンは新しい幕を開けるのだろう。

そう、それくらい毛皮のマリーズには大きなエネルギーをわたしは感じているのだ。


個人的なことを言えば、00年代にわたしは “ロックヒーローの不在”という感覚に襲われていた。

ロックをやり得る人々は数多くいたし、才能がある人も見受けられた。

でも、ロックをやってヒーローであり得る人間をわたしは感じ切れなかったのだ。

ミッシェルのチバであったり、浅井健一であったり、奥田民生であったり吉井和哉であったり

時代を“担う”存在をどうもわたしには見つけ切ることができなかった。

もちろんそこにはわたしの審美眼という問題もあるだろうが、

ただ若手にもうヒーローがやってくることを期待できないのだろうか?という危惧すら個人的には覚えていた。



だがその不安を綺麗に打ち砕いて、わたしをのみこんだのが“毛皮のマリーズ” 彼らなのである。

彼らの1stアルバム「戦争をしよう」を聴いた瞬間に、

この血があふれるような、爆発するようなエネルギーに、どうしようもなく胸を掴まれたのだ。

彼らの世界には、憤りも、愛も、悲しみ も全部混ぜ合わせて煮えたぎらせた 熱い熱い血のような濃度がある。

そしてその血があふれだすのを止めることのできない、どうしようもない衝動や、

叫び出さずにいられない激しいリビドーも、強くある。

「頭どうにかしちまった 俺はあんたの恋の犬」とまさに犬のように雄たけびを炸裂させる志磨の姿は、

ロックにしか出来ない美しすぎる爆発を見せてくれる。

そして、その爆発の大きさも尋常じゃなく凄まじく、

彼らの登場は私の心を簡単に奪ってしまった。



毛皮のマリーズこそが、この時代のヒーローになり得るのではないかと、わたしは感じている。

彼らのたたずまいやプレイは一見アヴァンギャルドな所もあるが、その姿勢は本当にスタンダードなロックスターそのものだ。



さあ毛皮のマリーズ、もうすぐ幕が開ける。

どうかその美しいロックで世界を壊してほしい。

そしてわたしの胸をまた掴み続けてほしい。

彼らにはそれが出来る。

だから私は願ってやまない。



この春一番の美しいニュースだ。毛皮のマリーズを聴かないで、どうするんだ?


ここ最近の私のへヴィーローテーションは確実にミドリだ。


ミドリのイメージは人それぞれに違うだろう。

セーラー服の女の子のバンド ということであったり

キャラクター提示のバンドだろう という推測であったり

ジャズっぽいピアノがあるバンド だという印象であったり 

それは人それぞれだ。

かつての戸川純を彷彿とする人もいるだろうし、

だが戸川純がもはやキャラクターを超えた存在だったことに対して、

ミドリはあくまでキャラクターだと思うひともいるだろう。

また後藤まり子の叫ぶような歌い方それ自体にキャラクター性を感じる人もいるだろう。


その考え方は決して間違えたものではないだろう、と思う。

それぞれに持たせる解釈がわりと多様な存在でもあると思う。

それは00年代のバンドとして避けられないことであろうし、長い音楽ユーザーであればあるほど、どうしても、過去の多種多様な世界からの類型を意識せざるを得ないだろう。

そう、その解釈自体にわたしは何の反論もないし、どの意見に関しても理解は出来る。

だがわたしが言いたいのは、ミドリの存在やキャラクターなんてことではない。

ミドリ、後藤まり子の世界観が実に正直な世界だということをわたしは強く意識するし、同時に強烈な魅力と快感を覚えているのだ。


デストロイ!と絶叫する彼女の振り切れた様はインパクトであるし、

彼女のある種のビッチめいた歌詞はドキッとするものがある。

「あたしのお歌」の冒頭が、「股を開くだけが女じゃあないのです」というあまりに赤裸々な言葉が、

目を引きやすいというのは事実である。


もちろんそれもある。ミドリを初めて聴いたときにはインパクトが残る。

でもそれではたった一回で消化することしかない音だろう。では何が魅力で快感なのか?

そう、それはこのインパクトや印象のもっと奥、もっとベースの部分のある“赤裸々な女子の声”なのである。


先ほどもあげた「あたしのお歌」をもう一度見てみよう。


股を開くだけが女じゃあないのです

時には、男の上にまたがり腰を振る

涙を流すだけが女じゃあないのです

時には、襟首つかみボコボコに殴り倒す

もっともっと、あたしを見て あたしをもっと大切にして

ワガママいっぱい聞きなさいよ 誰に向かって口聞いとんねん



前半の女子の一般的イメージを思い切り覆すビッチな振る舞いを引き起こすその感情こそが、

「もっともっと、あたしを見て あたしをもっと大切にして」という実にまっすぐな気持ちなのだ。

彼女は決して色狂いなわけでもビッチでもない。

彼女を振り切らせるのは あたしを見て という切実な思いでしかない。

そしてここで言う“彼女”に、この世界の“女子”という言葉を当てはめたとして、なんらおかしくないようにわたしには思えるのだ。

誰もがきっと“わたし”を見てほしくて、大切にしてほしい。

受け入れるだけの存在という 女の“定義”をふまえた上で、

後藤まり子は振り切って自分の、“意思”を公言する。

わたしはそこに猛烈な魅力を感じるのだ。

あまりにも無邪気であまりにも素直であまりにも本当の気持ちがここにある。

ここには嘘がないから、揺るぎようがないのだ。

わたしはそれを純粋に素敵なことだと思う。


爆音にのせて絶叫する後藤まり子の姿は、あまりにも赤裸々な女子の姿を体現している。

そんな事象こそがわたしたち女子にとって喜ばしいことなのだ。


“本当のこと”は私たちの心をいつだって掴む。

揺るがない彼女の本音はわたしをいつまでも離さないのだと思う。


みんなのうた 4”ever”/ミドリカワ書房
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個人的なこととなるが、私は今月はなるべく自分が聴いたことのない音楽にふれようと心掛けていた。

それは好奇心ゆえのことであるし、一リスナーとして磨かれた音楽を知るということはひとつの責任のように思えたからである。

そうして出会っていった音楽たちは自分の中でも新しい刺激を受け、

まだ平成の時代を諦める必要はない!と強く感じさせられる出来事であった。

そんな中で、まったくの個人的な嗜好にドンピシャの表現をする音楽家に出会ってしまった。

それが、ミドリカワ書房であったのである。


ミドリカワ書房についてはデビューのときから話題であったので名前は知っていたし、

そのキャラクターは多少耳にする機会はあった。

だが、その音に触れることはなくこうして時を過ごしてしまっていたのだが、それを激しく後悔した。

もはや時代の音とかそういったことはどうでもいい、

ミドリカワが造るこのセンスこそが私にとって必要だった!とエゴイズムむき出しで思わされたのである。

そしてそこまで心酔してしまえるほどの音に出会えることは、

一リスナーであり、同時に一人間である私にとってのかけがえのない歓びであったのである。


ミドリカワ書房といえば全曲が“物語”として描かれており、そこに扱われるテーマは重くおよそ“音楽”向きでないものばかりだ。

整形手術・認知症・いじめ・離婚・ひき逃げ・性同一性障害・万引きGメン・・・と羅列するだけでなんだか2時間スペシャルのような勢いを感じる。

中には涙を流さずにはいられない曲もあるし、PVとともに笑うしかないような曲もあるのだが、

こうして彼の曲を聴いていると、まっすぐなのかヒネているのか、ボケているのか真面目なのか判らない、と思ってしまう。

たとえば、「それぞれに真実がある」というシングルでは離婚する際に娘に愛を伝える父親の感涙モノの愛が描かれているが、そのc/wの「続・それぞれに真実がある」では、その娘が乱れに乱れた生活を送り“関係ないわ あの人のせいだもん”と言いのけてしまう、というひどく皮肉な物語が描かれている。

物語にしてはあまりにも残酷のようで、裏切りすら一瞬感じるのだが、

ミドリカワ書房が唄うことによって、理解 が生まれてしまうのだ。

彼は綺麗な夢物語を唄わないし、醜い人の性もあっさりと描いてしまう、が、

同時に人間のひたむきさの美というものも描き切ってしまえるのだ。

まっすぐなのかヒネているのか、ボケているのか真面目なのか判らない、のは当然だ

なぜなら人間がそういう多くの矛盾を持つ生き物なのだから。

ミドリカワはそれを描いてしまえるからこそ、こんなに人を戸惑わせると同時に惹きつけてしまう存在なのだろう。


こうして彼の音楽家でありながらも作家としての資質を存分に感じるのだが(今年にはついに作家デビューしたそうだ!)、むろん彼の音楽性は矛盾することなく美しく成立している。

演歌調も軽やかなポップスも音楽として純粋に鑑賞することのできるものだし、物語性に目がいきがちだが、ミドリカワの音楽的センスもまた存分に感じる。

ストーカーの歌が軽やかに可愛らしく唄われるあたり、音楽という装置も巧みに操っていることがうかがえるし、

音楽を冒涜することのない、偽りなき“シンガーソングライター”であることも彼からは感じるのだ。

彼のメロディや唄いっぷりには鳥肌がたつし、個人的に、彼の物語性と音楽性の結集でもあろう曲が「危険な二人」という楽曲だと思うので、是非聴いてほしいと思う。

わたしはこの曲を聴いて熱くなり、泣かずにはいられなかった。こんなことは本当に何年かぶりの経験だった。

表現の高みすら感じる、高レヴェルの音楽であることは間違いない。



Jポップ界の無頼派と自称するのも納得のミドリカワ書房、

これほどまでに衝撃を覚えるほどに、“人間”と“音楽”を描ける類稀な存在に、こうして出会えたことが本当に大きな歓びであると、その幸福を噛みしめる次第である。

5years/木村カエラ
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デビューから5年という歳月を迎え、この国のポップアイコンとしてありつづける木村カエラ。

先日発売されたベストアルバムも順調だと聞いている。


昨年、彼女の「Butterfly」がどれほどに愛されたのだろうか?

非シングル曲であるこの曲がこんなにも全国に流され愛されたのには正しい理由があるのだ。

それはけっして、ゼクシィのCMソングだったから、ということでも、

このご時世において配信限定という形態が有効だった、といったことではない。

もちろんそれらの機能も否定こそしないが、この一曲がこれほど世間に受け入れられたことの理由は、

彼女がまさにポップミュージックとしての大前提をふまえた、渾身の一曲を創り上げたということに他ならないだろう。


彼女はデビュー当時、「あたしはロックだ」と言っていたし、その佇まいからどこか反抗的で、だれかに受け入れられることを拒否したような精神性がみられた。

わたしはデビュー当時の彼女の音楽をどうしても認めることができなかった。

彼女が自らをロックというわりに、どこにロックがあるのか?ということが疑問だったからである。

それはロックに憧れるモデルの女の子のたわごとにしか思えなかったのだ。

今にして思えば、私のこの気持ちは、彼女を音楽を生業と、職業とした人間への視点、としては間違いではなかったと思うのだが、

わずか19歳の当時の少女に思うのは、もしかすれば酷なことだったのかもしれない。

思春期が抜けきれない不安定な時期の“人間”なのであるのだから、それは“人間”としては至極当たり前の感情だったであろうな、とも思う。

人間はいつでも完璧でいられないし、思春期の刺さるような鋭い感受性において、彼女が自らを「ロック」と称することで自分を守ろうとしていたことは、わたしも同じ人間として容易に判ることだ。


話がそれたが、デビュー時において「ロック」を口にし、自らを守っていた彼女であったが、

冒頭でも言ったとおり、今やこの国のポップアイコンである。

ロックとポップは著しい差を持つし、その定義はそれぞれによって大きな異なりがあるだろう。

またいわゆるJ-POPという概念もまた、ポップスというジャンルにそぐわない事も多い。

ただあくまで私の考えで言わせてもらうとすれば、ポップスとは“誰かに向けた音楽”なのだとおもう。


たとえばロックにおいてもだれかへのメッセージを含むことはあると思うし、一概に言えることではないと思うのだが、

ロックがどこか孤独や痛みや絶望というネガティヴを起点に生まれていくことに対して、

ポップスはあくまでも人へのポジティヴな意識から生まれていくことが多いと思うのだ。

たとえば絶望的なポップス、というのをわたしは想像しづらいし、それはポップスなのだろうか?と思う。

(でも絶望的なロックは存在する、と思うので、ここに両者の異なりを感じるのだ)


人への思いが産む音楽がポップスなのだとすれば、このButterflyはまさにそうなのではないだろうか。

この曲が、木村カエラが親友の結婚式にむけて造った曲であることは有名だが、

彼女はこの曲を作るにあたって“苦労した”といった趣旨のことを言っている。

おそらく、それまでだって彼女は創造の苦労を何度もしてきたであろうし、

音楽を生業とする限りそれは付きまとうことであろう。

だが、この「Butterfly」において明確に違うのは、音楽という自己世界の創造、もっと端的に表現してしまえば“自己満足の追及”ではないのである。

この曲は、“自分以外のだれか”のために生まれることを望み、産み落とされ、そして育てられた一曲なのである。そこには自己満足以外の“だれか”のための強い強い思いがあるのだ。

ここで、だれかのために曲を、なんて考えがすでに自己満足だ、なんて野暮なことを言うのはよしてほしい。

少なくとも、わたしはこの曲から自己満足の要素などひとつも感じない。

それくらい音楽は素直なものだと思っている。


親友のために、親友の幸せのために産み落とされたこの一曲は、

誰かへの強い思いが生んだまさにポップスの大前提によって生まれた実に幸福な一枚なのである。

たったひとりの親友のために創り上げられた曲が、こんなにも日本中に愛される一曲になったのは、

ポップス、ひいては音楽が起こす魔法のような現象に他ならない。

わたしには、彼女の思いが生んだ本当の奇跡のようにすら、おもえるのだ。

そこには、思春期のむきだしの弱さで、ロックを求め自らを守っていた彼女が、

いつの日か“人と繋がること”に全力を傾け、その才能も意識もすべて音楽に注ぎこんだ結果なのだともおもう。

繋がりすら拒否していたかのような彼女のたたずまいからは考えられないほど、

人を思い人を思う彼女の姿勢は、温かいものを感じる。

ここにある木村カエラのひたむきな祈りが、全国に広まったことはこの国において本当に幸福な現象であろう。

音楽は世界を変えないが、音楽は人を変える。

彼女の強い祈りが受け入れられ、愛されるということは、この国はまだ血の通う国なのだろう、と思わされる。


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「愛のむきだし」は間違いなく2009年最大の傑作である。

この4時間にも及ぶ愛の物語は、人間のすべてを揺らすような破格のエネルギーに満ちていた。






“もしも私が、人間たちの、そして御使いたちの舌によって語りはしても、

愛がないならば、私は鳴り響く銅鑼、あるいは甲高く鳴るシンバル。

またもしも私が預言をなし、さらにすべての奥義と全き悟りとを理解してはいても、

またもしも私が、「山々を移すほどの全き信」を持ってはいても、

愛がないならば、私は無である。

たとえ私が、全ての財産を分け与えたとしても、

またもしも私が、私の身体を引き渡して誇ったとしても、

愛がないならば、私は何の役にも立たない。



愛は寛容であり、親切である。
愛は、妬まず、自慢せず、高ぶることなく、見苦しい振る舞いをしない。
自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まない。
不義を喜ばず、真実を共に喜ぶ。

愛は、全てを忍び、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐える。
愛は決して倒れることがない。



しかし、預言であれば、壊されるであろう。
舌で語ることは、途絶えもしよう。
悟りであれば、壊されるだろう。

さあらば、残るものは、信、希望、愛であり、それらの中で最も偉大なものは、愛である。


(コリント書13章1節-14節: 愛の賛歌)  ”





愛とはなんのか、

むきだしになるほど考えて感じてほしい。

テレビにあふれる美しい愛はすでにここに及ばない。

きれいごとで済まないむきだしの愛に

わたしは揺れて壊された。

そしてそれが強烈に尊いことのように思うのである。

ここまで徹底的に愛を描かれたものに触れたことはない。

そしてここまで徹底的な大傑作を産み出す才能、園子温に強い敬服を覚えるのである。




人の勃起でこんなにも号泣したのは初めてだ。





絶対に大傑作、

だれに何を言われてたとして私はこれを譲れないだろう。

本当の愛をここに見よ。





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タイトルからジャケットから、ただならぬ勢いを感じる安室奈美恵の最新アルバム「Past < Future」を聴いた。

ここ1、2年の安室奈美恵の活躍は特に印象的な事態である。

だが彼女は決して“女王復帰”を目標として今の位置に居るのではない。

彼女はただひたむきに表現することに徹底したがゆえに、今こうして革新的にJ-POPシーンにひとつの波を与えているのだ。


そう、表現にひたむきな彼女の新譜の世界は、

どちらかといえば、彼女のそれまでのアルバムに比較したときに具体的なカラーを思い浮かべづらい、というのが正直な感想だった。

わたしは安室奈美恵の活動の歴史において、「STYLE」というアルバムからが重要なものだと思っている。

その「STYLE」から考えさせていこう。

率直に言えば、まだ(彼女の求める)スキルが追いつかずにプロデュースされ、フィーチャリングされ、コラボレートされる“安室奈美恵”であった「STYLE」だったわたしは思っている。

その後の「Queen of Hip-pop」が実に顕著だと思うのだが、

彼女はそこでR&Bの世界観とヒップホップの融合に加え、音楽的にクオリティが高く同時に口ずさまずにはいられない強烈な「ポップ」を打ち出してきたのである。

それこそが安室奈美恵の真骨頂としてはじき出されたきたのだと思っている。

スキルを身に付けた彼女が、まさにやりたかったことを高らかに表現した一枚だろう。

このアルバムにとりまくものは、あくまでポップ性である。ハイクオリティかつキャッチーであるという魅力があるのである。

その次の「PLAY」は、可愛らしかった前作に比較して、ニュアンスはそのままでありながらもよりクールに、まるで女王様のように厳かに彼女は君臨していたのだ。

鞭を振りかざすPVやジャケットが象徴的であったが、ここで彼女はビッチなスタイルもまた、だれよりもクールに演じるほどの余裕すら振りかざしている。

前作同様のハイクオリティさとキャッチーさに加え、女王としての貫録やプライドすら意識させられる一枚であったように思う。


だが今作においては、正直なところ、具体的にひとつに集約できない印象があるのだ。

今作においては女王の一面も、恋に苦しむか弱き女子の姿も同時に収録されている。

そのこと自体は決して間違えたことではないのだが(全曲に徹底して統一されたキャラクターを求めているわけではないのだ)、どこか全体的なトーンといったものを私は何にもあてはめられない。

クオリティはそのままであるがゆえに、決して彼女の音楽的レベルが低下したとは言えないが、

この“Past < Future”の世界観とはなんなのか、ということを私は知りたいと思うのだ。

過去を破り捨てるというしたたかなジャケットに示唆される“未来”とはこの一枚なのだろうか?

そこにある“未来”とは一体なんなのか?

過去を破り捨てることに視点を置きすぎて、未来まで見えなかった、ような印象まで覚えてしまうのだ。


もちろん、全曲のクオリティの高さは疑う余地がないし(「Dr.」の音楽としての壮絶さは今の邦楽シーンにおいて、もしかして最先端かもしれない)、

今の段階はいわゆる過渡期なのかもしれない。

だからこそ現在の私にわたしはこの一枚に関して批判することは出来ない。

ただ彼女の“未来”とは何だったのかがわからない、と思うのだ。

その一点がとても残念なのだ。


ただ現在の彼女はまさに未来を創り上げる資質とエネルギーにあふれている。

今後彼女が産み出していくものがなんなのか、わたしはこの目でたしかめたい。

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2009年はイエローモンキー20周年という記念すべき年であった。

解散後も燦然と輝く愛すべきロックモンスターバンドへのリスナーの、音楽シーンの、そして彼ら自身の惜しみない愛情が、現在においてもあふれているということを感じ、大変うれしくおもった。

そして最たる企画がこのトリビュート版であろう。

個人的にトリビュートを好まない私だが、この一枚についてはきちんと書きのこしておきたい。



これはあがた森魚という吉井和哉自身が敬愛するアーティストから、盟友とも言える奥田民生、

9mmや毛皮のマリーズといった00世代の、それもまさに芽吹きはじめた新たな生命体のバンドまで網羅したトリビュート版である。

そしてその底辺にあるのは各自の、イエローモンキーへの、イエローモンキーの世界への愛である。


たとえば、印象的な曲のひとつとして、9mm Parabellum Bulletによる「TVのシンガー」がある。

この曲において9mmはぶっちぎってイエローモンキーの原曲そのままで挑んでいった。

それはイントロのあのギターの入り方が象徴的で、カウント数もまさに忠実に、曲世界の表現に徹しているように思えた。

9mm自体のサウンドに関しては、野太くエネルギッシュな印象があるのだが(そして、それでいて大変テクニカルなサウンドをしている)、この曲においてはイエローモンキーにおいてきわめて重要であった“艶美さ”や音の“きらびやかさ”を彼の手法で出そうとしていることを感じた。

私がそれを聴いて感じたのは、彼らが本当にイエローモンキーを愛しているのだ、ということだ。

徹底して“自分たちの世界・音”に変換することで敬意をアーティストとして表す、というトリビュートのやりかたもあると思うし、わたしはそれでこそトリビュートであろうと思う。

だが、それと同時に彼らのように徹底して、曲やアーティストへの世界に忠実であろうとする姿勢にもまた大きな敬意を感じる。

それはまさに、思い入れの強さがゆえに壊せない世界なのだろうし、壊せないからこそ丁寧に忠実に挑むしかないのだ。

そして、たとえどんなに忠実にしたところで、“イエローモンキー”にならないことはだれもが承知であろう。

そう、どんなに譜面の音に忠実であっても、そこから滲みでるのがトリビュートする側の“世界”なのだ。

それがこの「TVのシンガー」からも充分に判る。

ここには、9mm Parabellum Bulletの世界が充分にあるからこそ、通用していけるのだし、

そしてなにより、壊すことすらしなかった大きな愛を感じて、わたし個人としてなんだか嬉しく思ったのだ。


だが、もう一つわたしの心を完全にとらえた一曲がある。毛皮のマリーズの「SUCK OF LIFE」である。

恥ずかしながら、わたしは毛皮のマリーズに関して名前しか知らなかった。彼らの音楽を聴いたことのないまま、このトリビュートで出会ったのだが、まさに衝撃であった。


もやがかかったアナウンスのように「ファスナーをおろして・・・」と歌われ始めるのだが、

そこまでは原曲との違いに、その展開をどうするのだろう?と思った。

「だれにも渡さない」と唄われたあとも、そのもやのかかるサウンドが続き、

今度はアコースティックギターが入る。ここも原曲とは異なるのだが、

そのあとに、原曲とまったく同じギターのリフがはいるのだ!

わたしはこのギターリフを聴いた瞬間に、ほんとうに、ほんとうに、全身が痺れた。

「ああ!」と思いがけず声をあげるような経験をしてしまったのだ。

ほんとうに、忘れられない甘美さがあった。ロックしか生み出せない甘美さである。


ここで思うべきことは、毛皮のマリーズはイエローモンキーの「SUCK OF LIFE」の世界や美しさを理解したうえで解釈しているであろうことと、

それを自分たちの世界の中に持ちいれて描いていること、

さらに、原曲の良さすらその表現に用いていることだ。

ここではまさに融合という言葉が似合う。

ここにあるのは決して原曲の「SUCK OF LIFE」ではないし、毛皮のマリーズのものとして完全にその“中”に入っているのだが、イエローモンキーとして持っていた世界の甘美さもまた保存されているのだ。

わたしはそういった描き方をした毛皮のマリーズを実に偉大だとすら思った。

彼らはなにもかも判っている、そして表現している。

こんなに素晴らしいことがあるだろうか。


はっきりと言えば、何十回と聴いてきたSUCK OF LIFEからまたこんなに胸を貫くようなロックの甘美さを感じるとは思わなかったし、

毛皮のマリーズという世界の中で表現されることで、「SUCK OF LIFE」という曲の素晴らしさがまた違う形で見ることができたのだ。

こんな新しさを感じるとは思わなかった。

だからこそわたしはこのカヴァーをやってのけた毛皮のマリーズに惜しみない賛辞を贈りたいのだ。

ほんとうに、我を忘れるほど興奮させられた。


ほかにも書いておくべきアーティストがたくさん居るが、キリがないのであえて筆におこすことはしないが、

このトリビュートはたしかに成功の一枚であると思う。

偉大なロックバンドが次世代に継承されていく様子も、盟友にエールのように描かれる様子も、敬愛すべき憧れのなかで衝撃的に昇華される様子までもがこの一枚にある。

そう、この一枚の中に流れゆく音楽の血をわたしは強く感じるのだ。







今月19日に発売された「ROCK'N ON JAPAN」の表紙は、THE YELLOW MONKEYだった。

この表紙というのは、結成20周年を祝した様々な動き(--トリビュート、DVDBOX、COMPLETE SICKSの発売--)によるものだが、私としては大変痛快な思いをした。

すでに解散したバンドが表紙を飾るという異常な事態よりも、

解散からすでに4年以上過ぎたバンドから放たれている異常なエネルギーの健在ぶりのほうが印象深く(写真こそ、現役のときのものだったにしろ)、思わず胸が熱くなった。

当時から彼らが出していたエネルギーやオーラというものが、時間を超えても、どうしようもなく強く、人の魂を引き寄せる存在であるということに、彼らの存在の素晴らしさを改めて意識させられた。


そう、イエローモンキーというのは時代が象徴するようなバンドではなかったし、

まして時代に産み出されたようなバンドでもなかった。

彼らは明らかに時代を背負っていたし、時代を変革し創り上げたバンドだったのだから。


2009年という現在においても、彼らの存在はあまりにも強い。

それは“解散”という言葉を除いたとしても、人々に衝撃と変革を与えてしまう力強さを持っているのだ。

少なくとも私はそうだと思っているし、解散後も今も人々に愛されるバンドだと感じているのだ。

もっと個人的なことを言えば、彼らは現在進行形で私の“最も”愛しているバンドであるし、

そして(残念ながら)現存するバンドを超えているのだ。

もちろんこれは私の嗜好なり、性格なりのパーソナルな部分においての問題であるかとは思う。

自分自身が世間一般とイコールなのだと論じたいわけでは無論ない。


だが、私が思わずにはいられないのは、

イエローモンキーの存在の強さ、だけではないのだ。

2009年の現在において、彼らのように時代を創り上げたような大きな存在に、わたしは出会えたと思えないのだ。


もちろん現存するバンドでひどく好むバンドも居るし、

音楽シーンにおいて素晴らしい“新人”たちはたくさん現れている。

そして新しく生まれてきたバンドたちのプレイのテクニックは秀逸なものを感じるし、10年前と比較した時点でその技巧さには目を見張るものがある。


でも残念ながら、時代を担うような人は未だ出会えていない。

具体的にいえば、00年代において私は出会えたとは思えないのだ。


先述したがたしかにプレイのテクニックは秀逸だし、10年前のバンドたちより上手い人たちは山ほどいると思う。

プレイの平均値もすこぶる上がったと感じるし、技巧さが産み出す恍惚というものも私は否定しない。

だが、残念ながら「上手い」だけだなと思ってしまうのが本音なのだ。

とてつもなく上手いプレイで繰り広げられる音たちは平均点以上の成績は見事にマークするし、

もちろん音楽を発信するものとしての意識がある人間ならば、それなりの(という言葉は失礼だが)表現世界を持っている。

その世界観云々の問題ではないのだが、どうも「こぎれいに」「上手に」まとまってしまっている気がして仕方ないのだ。

そして残念だが、こぎれいにまとまったスコアの中の音楽には、時代を破るエネルギーはまだ足りない、と思えてしまう。


たとえばかつてのバンドやアーティストたちには、平均値などにとらわれていない破格のエネルギーがあったように思う。

それは、鬼のようなカッティングプレイが随一だったアベフトシが在籍したミッシェルにしてもそうだし、

退廃と革新を織り交ぜ、ダークでスリリングで、そしてどこか清新なブランキーや、

日常の人の感情をサウンドに込めてだれもの心を訴えたユニコーンもそうだったように思う。


もちろん彼らのプレイのテクニックはだれもが認める、憧れる素晴らしいものだったし、

私が新たな世代の人々に言いたいのは下手がいい、なんていうことじゃないのだ。

もっと突き抜けた世界でいいのだと私は言いたい。

こぎれいにまとまることなく、エネルギーと意志で時代を突き破ってほしいのだ。

自分たちの世界観を守り抜く必要もある、それをするなと言いたいわけじゃない。

ただ、その“世界観”がいま、時代を突き破れないのはなんなのだろうと少し残念に思わずにいられないのだ。

ミッシェルもブランキーもユニコーンも、そういった意味では世界観を激しいエネルギーで時代をぶつけた結果、時代を担うバンドになりえたものだと思う。

プレイも意識も高いレベルでありながら、なぜ“時代”を爆破させるような存在に出会えないのか、むしろ苦しいほどに思う。


だからこそ、2009年、つまり00年代の最後の年、最後の月において

THE YELLOW MONKEYが“表紙”に君臨したことは象徴的なことに思えてならなかった。

(もちろん、ROCK'N ONにおいて彼らを表紙にしたことが一面的にネガティヴな意味合いであったとも思わないが)

さらに、同誌の中で同じく解散したミッシェルが特集されるという状況において、

偶然だとは思えない何かを感じるのは、わたしだけなのだろうか?





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事実上のTHE YELLOW MONKEYのラストアルバム「8」は、実に象徴的な一枚だと思う。

そこには、休止直前、“ぎりぎり”の状態であるTHE YELLOW MONKEYというバンド自体の象徴とともに、

そこのフロントに存在した吉井和哉の精神性があまりにもむき出しに表現されているかのように思うのだ。


一曲目の「ジュディ」という曲は本当に判りやすいと思う。

冒頭で描かれている歌詞からも明白なのだが、

「人工的な皮膚…ジュディと名づけよう

 現実の世界じゃオレの望んでる花びらは汚れてる」

と、生身の女を登場させず、すでに吉井はそれも必要ないと言っているのだ。

この表現の端的さもさることながら、ここまで極端な世界を描き出す彼の精神性は、もはや完全に、いわゆる“全盛期”とは異なったものだ。


彼らの世界における女性というのは その関わり方において悲しみや虚しさを伴うこともあるが、そこには肉体的な感覚が併せたものだったように私は思っている。

男というセクシュアルが持つ女性へのあこがれも悲しみも、その肉体も重ねて描き出すような世界観。

そしてそのときのたまらないゴージャスさであったり、音楽と合わさるダイナミズムのようなものが彼らの魅力のひとつだったようにも思うのだ。

だからある意味でTHE YELLOW MONKEYというバンド、ひいては吉井和哉がつくる世界においては、女性という存在は欠かせない存在だ。

そんなある種のキーともいえるような存在に対し、ここまで見せたことはないような否定がなされているのだ。

いや、否定というよりもむしろ、絶望や諦め、疲弊への逃避としての“拒否”のように感じる。

だからこそこの歌において、“ジュディ”にいわゆる女性への欲望こそは消え失せてはいない。

でも彼はここで、思い切り「愛ではない 愛ではない そんなもんは効かねえ」と言ってしまっているのだ。


ここにはかつてのゴージャスさやダイナミズムもない、まして「愛」はないのだろう。

でもここにある、絶望的な逃避の情景は、かつての彼らが描いてきたものとはまったく別種の世界があるのだ。

言ってしまえば、もっとヒネた、もっと歪んだ、もっと弱った、滲むような疲弊の絶望という世界がある。

極端のことを言ってしまえば、「8」は “吉井和哉”のソロとしての曲を“THE YELLOW MONKEY”が全カヴァー・プロデュースしてしまったような世界なのだと思う。

でも前線を走り続けたバンドだからこそ、そのスキルを以って名を残す一枚として見事に作り上げてしまえるのだ。


そう、彼らはすでに名前もスキルもスター性も充分に兼ねそろえたバンドだった。

それでも“解散”という結果を迎えてしまった。

“超能力集団”のようにロック界に存在を刻みつけたバンドは、

最後には「我らはもう不可能 NO!!」と叫んでしまうような状態にまでなってしまったのだ。



私はここで彼らの解散に関する問題や、わたしの解散という事態への意見を言うつもりはない。

ただ、活動休止前のラストアルバムとしての「8」に、描かれた疲弊的な悲しみの世界はあまりにも顕著だと思わざるを得ないことを、ここに書き記したいと思ったのだ。

ただ、自分自身のその“状況”をもあまりに高レベルな表現としてロックに産み出してしまう彼らの存在は、皮肉でもあると思うと同時に、彼らがまさに“超能力集団”にふさわしい強靭なバンドだったと改めて思わされるのだ。


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チャットモンチーの最新アルバムである「告白」

今作のプロデュースはデビュー以来からのいしわたり淳治に加え、亀田誠治、チャットモンチー自身という新たな試みがみられている。

前作「生命力」においては、伝えたいメッセージと裏腹なメロディの世界観を提示することで、よりその意味を鮮明にさせるという手法が目立っていたように感じたが、

今回においては詞にストレートな、大変ドラマチックな曲世界が生み出されているように感じた。

そしてそれをプレイする彼女たちの音も、ストレートでブレがなく大変痛快で、気持ちいい。わたしはそれは、ロックというジャンルにおいてなにより大事なことだととらえているので、実に快く思った。

そんな彼女たちのよさもビリビリと伝わってくる一枚でもあるように感じた。


先述したとおり、今作は、彼女たちは回り道、裏表なし、ストレートに私たちにぶつかってきている作品だと思う。

では、一体何を彼女たちはストレートにぶつけてきているのか?

全曲あげてしまえばきりがないので、今回は「海から出た魚」「やさしさ」という収録曲から考えてみようと思う。


「海から出た魚」のラストの大サビの歌詞はこのとおりだ。


沈没船に夢を乗せて迎えに来た

あなたはいつもロマンチスト

無いものねだりは止まらない

落ちてる答え 拾わないで


わたしは海から出た魚

気持ちいいのはもう飽きた

無いものねだりで終わらない

落ちた鱗は あなたにあげる


 この詞において、あなたはロマンチストだと、そして、ロマンチスト故の弱々しさを、彼女ははっきりと伝えてしまっている。

 “沈没船に夢を乗せて迎えに来た”なんて表現はあまりにも的確かつストレートで、これをためらいもなく表現した福岡晃子の潔さもまたひとつの強さだ。

 おそらく、こんな気持ちを誰しもが抱いてきた経験はおそらく女子にはあるのではないだろうか。相手の弱々しさをまるで俯瞰するかのように、きっぱりと、衒いなく見つけてしまえるその視線。口にこそせずとも、“沈没船”という極めて端的な表現を心の内で(直接、その言葉を思い浮かべないにしても)浮かべてしまったことが、あるように思えるのだ。

 そこには断罪的な視点などおそらくなく、また憐れみも、無い。ただただ冷静な“状況認識”だとわたしは思う。

感情という視点よりもその認識の冷静さが際立つ、その瞬間、わたしたちは「何にも振り回されない」という強さを一瞬、手にしているように思うのだ。


そしてまた、気持ちのいい「夢」の中の海よりも、「現実」に出ていくのだと最後に伝える彼女の姿には、もはや1ミリの弱さすらにじまない。それこそ、海のように大きく圧倒的な強さしかわたしには感じないのだ。

 ここにおいて、彼女たちの持つものは圧倒的に強く、そしてその強さは、全女子共有の強さだとわたしは思う。

たとえば男性にもこのような視点や感覚は訪れるものなのかもしれない。が、あくまで女に生まれ女として成長してきた私にとっては、この感覚はあくまで“女子共有的”視点だと、女としての経験から感じざるを得ないのだ。



そして、私がこの一枚の中であまりにも衝撃的な一曲だと思うのが、ラストを飾る「やさしさ」だ。

この曲の歌詞は長くないが、そこにこめられている言葉の世界の威力はあまりにも大きい。

そして亀田誠治の演出は、リスナーを鳥肌の渦に飲み込ませるほかない。

衝撃的ではてしなくエゴイスティックで、しかしどうしようもなくドラマティックなこの世界の凄まじさに、

わたしは何度聴いても尚、心臓の裏側から汗がにじみ出すような、息をのむような、でも、同時に、激しい共感を強く感じるような、そんなすべてが混じり合う緊張した思いを覚える。


明日雨でも 明後日雨雨でも

私を照らして

それがやさしさでしょう?


明日ダメでも 明後日ダメダメでも

私を許して

それがやさしさでしょう?


この曲の後半半分において、橋本絵莉子は切々とこう唄いあげている。

ここにあるのはどうしようもないエゴイスティックな一面だ。

しかし、一見まるで依存するかのように弱い姿勢にみえるこの言葉ですら、橋本絵莉子の言葉としては、もはや不動の強さすらわたしは覚えてしまうのだ。

 この言葉の中で、彼女にはこの“姿勢”が弱さとして認識される類のものだということは、とっくに承知しているよう に思う。しかし、それでも、彼女は尋ねているのだ。そして、確認をしているのだ。

 すべてを知っているうえで、彼女は要求している。だけど、そこには、相手にすり寄りお願いするような弱々しさは微塵もない。「やさしさでしょう?」というこの“質問”には、まるで《これ以外の「やさしさ」など「やさしさ」ではない》という裏側のメッセージがあるようにしか私には思えない。

 そう、この明らかな弱さ・エゴイスティックさを踏まえて、なお“確認” “要求”するという姿勢に、むしろ明確な意志を自覚した人間だけが持ちえる強さしか私には感じないのだ。


 しかし、それでも絶え間なく「それがやさしさでしょう?」と問いかけ、唄い、確認し続けるその思いの強さ、その意志の強さに、“そうであってほしい”という懇願と祈りにも似たものまでをもわたしは感じるのだ。

弱さをふまえた強さ、のそのまた奥に、繊細で切実な、彼女たちのある種の“弱さ”を想うのだ。

そしてわたしは、それを、エゴイスティックだとは呼びたくない、と真剣に思う。



 このアルバムを通して感じるのは、彼女たち、ひいては“女子たち”のストレートな思いである。

 私は彼女たちが登場したときから、その“どこにでもいそうな女の子たち”が綴る“心の内”のストレートな表現に感銘を受けてきたのだ。

 今作には“女の子”の抱える弱さも強さも日常もすべてが詰め込まれていて、彼女たちはそれを惜しげもなく演奏し、ロックという一ジャンルに昇華させてしまっているのだ。そしてその姿はあまりにも気高く美しく、なによりも、勇気を与えるかのように、強い。

 わたしはそこが何よりも彼女たちの尊いところであり、そのリアルがしびれるような音に乗る歓びに、心底感謝している。

 今作は、そんな彼女たちの素晴らしい強み圧倒的なリアルが、よりドラマチックによりストレートに訴えかけられているのだ。そう、このアルバムは彼女たちの弱さと強さとリアルの“告白”だ。そして私はその告白に、深い相槌と賞賛をあげるしか、ない。