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SEBASTIAN X の2ndミニアルバム『僕らのファンタジー』が発売される。8月4日だ。

ひどく個人的な話をしてしまって申し訳ないが、

SEBASTIAN Xをはじめて聴いたとき、涙があふれた。

でもそれは、たとえばロックに涙するような類のものではないのだ。

生きるのが辛くてロックを聴くとき、そこにあるのは自分と同じように絶望が鳴っている、という経験があるだろう。

自分が感じる絶望が音として、ロックに昇華されるとき、そこに言い知れぬエクスタシーや歓びがある。

そこにある美としてロックに救われる人も数多いと思うし、私自身そうだ。

だが、そこに救いはないし、現実が変わらないのは事実である。

簡単に言ってしまえば、それは慰めなのだ。そして慰めは人の心を癒すが、何かを変えるわけではない。

もちろん、慰められた心によって何かが変わることはあるだろうし、わたしは慰みを否定しているわけではない。

ただ、そういう意味合いで愛されるロックに、具体的な変化の指針はないということが言いたいのである。


話がそれてしまったが、SEBASIAN Xにはそういう慰みはない。

彼女たちが歌う世界は、圧倒的なほどの、人生/世界への肯定である。

永原真夏の伸びやかで力強い唄声と、太陽のように温かいメロディーには、まっすぐな人生や世界への信頼がある。

もちろん彼女たちにも悲しみや絶望はあるに決まっている。

でも、彼女たちは徹底的に音をハッピーに鳴らす。生きていることをひたすらに笑顔の溢れるものだとして音にしているのだ。

しかも、そこに押しつけがましい人生肯定論はない。

彼女たちは自分たちの音を徹底的に幸福にすることで、聴く人々の心を動かそうとしているのだ。

自分自身が幸福な音を鳴らすこと、幸福に世界を唄うこと。

そうすることで、彼女たちは生きることを肯定しているのだろう。

“生きるしかない 諦めなよ”と「食卓の賛歌」で彼女たちは唄っていて、そこからも彼女たちには人生への諦めや自傷的な目線など見られない。

いや、本当はあるのかもしれない。だが、彼女たちはそれを演ることを許さないのだろうし、それを表現するべきではないのだと捉えているのだろう。


徹底的に幸福に、圧倒的に信頼している“生”を唄う彼女たちのその世界は、

生きる辛さに辟易していたわたしの心を大きく壊してくれたのだ。

幸福に生きること、幸福に過ごそうとする彼女たちのハッピーな世界は、くるおしいほどにキラキラと輝き、そしてなにより力強かった。

彼女たちはわたしを慰めたりしない。

でも、まるで笑いながら自然に手を取り、歩きださせてしまうかのような、不思議なエネルギーを持っている。

だからと言って彼女は何も言わない。前を向け、なんて言わないのに、自然にそうさせているのだ。

そしてわたしは、そういう音楽は、ほんとうに正しいと思うし、それこそが本当に救いなのだと思う。


今作にも収録されている「世界の果てまで連れてって!」では

“今日もなんだか苦しいね めいっぱい生きてるからね”と冒頭で、あんなに笑顔で永原真夏は唄う。

その姿には、生きていくことを信じている者の強さがある。それは、無敵だ。絶望の入る余地などない。

SEBASTIAN Xの音には幸福な未来の約束すら感じる。

そして音楽からそんな美しい希望を感じられることは、こんな時代において、なんて貴重なことだろうと思う。

8月4日、彼女たちが鳴らす太陽のような強さをさらに知りたいとわたしは思っている。


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平成生まれのバンドの出現が気になる2010年だが、

そのなかでも一番のフェイバリットとしてあげたいのが黒猫チェルシーだ。


昨年彼らがメジャーへ進出したときは、正直な話、彼らの年齢と対比させて彼らの音楽を聴いていた。

「嘘とドイツ兵」はたしかにロックンロールに達したレベルのものであったと思うし、

18歳という年齢にして彼らの音の厚さはメジャーへ進出しうるだけの価値はあると思った。

でもそれは、結成して2~3年弱のバンドであるということや、彼らが当時18歳であるという情報の範囲の中での判断だった。

彼らの実力を判断は出来た。だがそのとき、私は彼らの音楽で踊りたいと疼くことはなかったのである。

ロックンロールの定義はいくらでもあるだろうが、踊りたい/唄いたい/と胸が燃えるような衝動が起きてしまうくらいの破壊力と快感をもたらしてほしいと私は思っている。

そしてわたしは当時の彼らに「うまいなあ」と思うことはあったけれども、彼らにロックンロール“させられる”ことはなかったのだ。


それはほんの数カ月前の2009年の話だ。

この数カ月での黒猫の変化ぶりとは恐ろしいなとわたしは今思う。


今作「猫Pack」の一曲目である「ベリーゲリーギャング」を聴いた時に

わたしは脳天から痺れた。

彼らは私に“踊りたい”と疼かせた。そして彼らの音に合わせて燃えるような快感が訪れたのだった。

そう、ロックンロールと出会う最高の瞬間である。

その燃えるような興奮でわたしの心は熱くあふれそうになる。そしてそれ以外のことなど、なにもない。

わたしは、黒猫チェルシーにたしかにそれを感じた。

そしてそこには、彼らの若さや経歴なんてものは、もう本当に小さな石ころのような存在にしかすぎなかった。


このときすでに、黒猫チェルシーは彼らにとりまく“平成生まれバンド” や、“19歳の新人” といった安易な記号をあっさりと越えてしまったのだ。

もはや彼らにそういった符号は必要としないだろう。

なぜなら、今彼らが産み出すものは、たとえ彼らが28歳でも40歳でも通用するレベルのロックンロールだと思うからだ。

年齢なんて記号をあっさりと忘れてしまえる、純粋な音としての価値と世界を彼らは表現しうるバンドになりえたのである。

それはおそらく、いま若手だと称されるバンドにとってはとりまく問題であるだろうし、

そしてその視点から抜け出せないバンドもまた数多い。

だが黒猫チェルシーは軽やかにそれをやってのけた。

わたしはそんな彼らに最大の賛辞と愛を送りたい。

オマエたちが一番ぬきんでてるぜ、ロックなんだぜ!とわたしは彼らに笑顔で伝えたいくらいだ。


俺たちはロック!なんて叫びながら聴き手の心を燃えさせてくれない人たちを多くみてきたし、そのたび軽いながらも絶望してきた。

わたしたちはいつだって新しく興奮したい貪欲な生き物だ。

わたしは単純に、彼らが世の出てきたことで、新しいロックの興奮に燃えられるのだと思うと本当にうれしく思う。

そしてそのうれしさと同じくらい、これからの彼らに期待しているのだ。

年齢という安易な記号を排した彼らの存在は、すでに年齢など言い訳にできない位置に来ている。

これはプレッシャーなんかじゃない、単純なエールだ。

黒猫たちよ、わたしはオマエたちに踊らせてほしい、

そしてそれは彼らも同じはずだ。


ベリーゲリーギャングの歌詞を見るとなんと不敵なんだろうと思う。



ゲリー おれたちの音 鳴らしてうたうぜ ロックンロールバンド

白い白い銃弾 撃ち抜かれるまで躍らせる 変えてみろよ


ベリーゲリーギャング 迎えるはロックンロールバンド ゲリーギャング OH!

鳴らすうたう 好きと言えるまで

変えさせない 変えさせない 変えてみろよ


笑い声と 鬼気迫る音 信じたくなる不思議な言葉

リズムに乗らせて不死身になるぜ 変えられないまま夜が明けた



なんて不敵な宣言なんだろう。

変えさせない 変えてみろ というふてぶてしい彼らの言葉は、

彼らが鳴らす音がまさにこの歌詞のようなロックンロールバンドの音だからこそ許される。

そう、資格があるものだからこそ彼らのこの言葉は嘘ではないし、決して大口だとは思えないのだ。

ああ黒猫たちよ、この言葉どおり、どうか、踊らせてほしい。

わたしはオマエたちのロックンロールに心を燃やされたのだ、

その責任は取ってもらう。

どうかひよらず、わたしのこころを燃やし続けてくれ、

それがオマエたちの責任だよ。




2010年のロックンロール復興の動きは顕著だと思うし、事実その勢いを感じる。

2009年の閉塞的な流れと悲しい事件の数々から、いままさにロックンロールが新しい時代を開こうとしているのだろう。

だがそれは、革新的/斬新なロックンロールというよりは、王道的なロックンロールが新たな世代により生んでいるように思える。


ここで思い出したいのが、2000年代後半、PerfumeやMEGといった中田ヤスタカプロデュースのテクノポップが流行した理由だ。

ヤスタカが仕掛けるテクノップが流行したのは、単純に踊れるし、新しいからだ。

それはすでに従来のJポップの形で人々が満足できなかった、という単純な理由からにすぎない。

テクノは従来ある形であるし、それが事実“新しい”かどうかは別として、

ピコピコと機械的な音は新しい耳触りであったのだろうし、この無機質なサウンドにエフェクトが聴いた歌声を効かせる、この“生身”の人間らしからぬ“熱くない距離感”は閉塞的なあの時代に呼応したものだろう。だがキャッチーで惜しみなくポップなメロディは人々を単純に踊らせてくれたし、もっと言えば、“何も考えないでいられる”という部分もあっただろう。

わたしはこれを揶揄的な意味合いで言っているのではない。

熱すぎるメッセージを必要とし、生きる意味であったり、深い模索をしなければならない瞬間があるのと同様に、むしろただ快楽に目を向けて煩いを忘れて笑い踊りたいというのは人間ならば当たり前だろう。

そして2000年代後半、この国では後者の傾向が強かったのだろう、と私は思う。

だからこそ中田ヤスタカのプロデュース作品はあれだけの流行を得たのだ。

でなければ、Perfumeやcapcellはテクノ界で名をならしたとして、国民的な存在にはなりえなかっただろう。


そして今2010年、冒頭でも記したとおり、ロックンロールの復興が起きている。

もちろん、その下火はずっと存在していた。たとえば9mmや毛皮のマリーズ、THE BAWDIESは急に現れたわけじゃない。

毛皮のマリーズは長い下積みを経て今こうしてメジャーというフィールドで戦い始めたわけだが、それがなぜいまこの2010年なのか。


それは2000年代の閉塞的な時代が呼び起こしたのだとわたしは思う。

1998~1999年という90年代末尾の2年が、奇跡の才能たちのデビュー年であったことは、誰もが認めるところだろう。

簡単にあげるだけでも、椎名林檎・宇多田ヒカル・浜崎あゆみ・aiko・NUMBER GIRL・くるり・・・という才能の結集である。

そしてここで生まれた才能たちは、あまりに天才すぎたとわたしは思っている。

もはや唯一無二の天才たちが集結したがために、2000年代というのは、それが“ムーブメント”になりえなかったのだ。ここで挙げた人物だけを見たとしても、それぞれの才能があまりに突出しているし、そしてどんな代替も許さないレベルの高さのものだ。

たとえば椎名林檎は彼女のふるまいから(彼女自身はそれを悲しんだが)大きなムーヴメントを起こしたし、浜崎あゆみは多くの支持者を生んだ。だがそれは、現代的な言い方をすれば、フォロワーを産んだにすぎず、それが一丸となるような、時代を変えようとするような動きでは決してなかった。

それは個人の価値観や生きざまが、個人を震えさせるようなものだったと思う。あくまで個人的、なそれだった。

もちろんそれが音楽としていかに凄まじいクオリティであることは揺るがない事実であるし、間違いなんかではない。


だが、2000年代に続くことは悲惨なことが多かった。

社会的にも目を見張るようなことが多く、その閉塞感は先ほどもいったテクノポップブームに表れる人々の“何も考えないでいられる”音への支持が明白だろう。この閉塞感を忘れたいから無機質でただただ気持ちのいい音に流されたがったのだ。

そして、2009年、信じたくない訃報が、数々 届いた。

あの一年の絶望感を、音楽ユーザーならば、忘れられないだろう。わたしは、忘れられない。

代替の効かない存在が消えてしまうどうしようもなさを直に知ってしまった。それも、数多く。

個人的な記憶を出して申し訳ないのだが、クリスマス直後、フジファブリック・志村の訃報が届いたとき、とどめの一撃をされたように思えた。そのとき、もう残りわずかの2009年を恨むことしか私には出来なかった。

得体のしれない何かが音楽界の才能を奪っているとしか思えず、そしてそれは2009年という一年なのだとまで思った。恐ろしかった。もう誰も奪わないでくれと思った。

続いていた閉塞感、忘れたい現実、奪われていく才能。

並べたくない言葉たちだが、今考えれば、たしかに、“役者はそろった”状態だったのだと思う。


そこで2010年、新しい時代のはじまりだった。

あの閉塞感と悲しみを知るロックバンドたちが、そろって声を上げ始めた。

偉大な人物たちがその姿を消した今、若い世代の彼らはまさに時代を担おうとしている。

もはやどうしようもない“今”を迎えて、彼らは空席を埋めるべく、この時代の悲しみをぬぐうべく、声をあげているようにしか思えないのだ。

そしてそこに、奇をてらう必要などない。

ドストレートで堂々と、王道のやり方で彼らは今この世界でロックンロールをやろうとしている。

余計な小道具を必要としない、その身体と楽器ひとつで勝負しようとする彼らの姿は、プリミティヴで潔い。

なぜなら時代を壊すのに、新しい何かを造るのに、細かな手法よりも、大きな一手のほうがずっといいじゃないか。シンプルに強く、まっすぐに、彼らはひたむきなのだ。

そしてそれが今ムーヴメントのような勢いをもってこの時代に迫っている。

いま、この時代を担おうとする若いバンドたちのその熱いまっすぐさによって、“今”が悲しみを超えた強い時代へと結びついてほしいとすら思う。


悲しむ時間はもう捨てて、

新しい何かを産もうと熱く燃える彼らを、

わたしはただただ、強い感謝と頷きをもって 支持している。

毛皮のマリーズのツアー、Restoration Tourに参加してきた。


メジャーデビュー後の彼らに、

多くの言葉が寄せられていることは わかっていた。

賞賛もあれば批判もある。

メジャーに出て変わった、の常套句を彼らに与える人も居た。

わたしはそれをただ傍観していた。


メジャーデビューアルバムはゴキゲンで心地よくて、好きだ。毎日聴いていけるアルバムだ。

でも、戦争をしよう、なんて言う 危なげな彼らをわたしは知っている。

彼の音楽の軸が変わったなどとは思わなかった。彼らが変わったとも思わなかった。

ではなにが違うんだろう、とずっと思っていた。


その答えがはっきりしたライヴだった。



メジャーデビューアルバムをひっさげやってきた彼らは、

決してひねることなく、ストレートに演ってくれた。

あのゴキゲンで心臓がグッと跳ねあがるあの感じ、口元を綻ばせて踊らずにいられないこの歓び。

じっと胸に沁み入るような名曲の数々。

それすらできない、と唄う志磨の姿をみて、胸に広がったのはくるおしいほどまっすぐな当時の彼の気持ちだ。

これ以上悪くなることはないだろう、なんてどんぞこかのように描かれる言葉とは裏腹に、この歌に、美しい美しい光すらわたしは感じる。

必死に必死に戦おうとする者と汗と涙と痛み、それこそが、十分にわたしたちの心をつかんでしまう。

そしてそれだけで十分だった。


ひねくれた(失礼!)志磨遼平や、今までの毛皮のマリーズとは違うのは、

彼らがもう、まっすぐになることをためらわないからだ。


予想に反したことや、ひねたことをやるのは、いわば彼らの十八番だろう。

そしてそこにある快感や面白味、も もちろん知っている。

でもちがう、彼らはもうすでにそのトリッキーな仕掛けで勝負してはいけない器になったのだ。


川は低いところに流れると言う。


これを使ったひとは、志向やレベルの低いところに人は集まるのだと揶揄的に使っていたが、

わたしはなぜかこの言葉を、今のマリーズに思い浮かべた。

だがそんな揶揄的な意味では決してない。

わたしが今の彼らに感じるのは、川というよりも、大河的な大きさなのである。

それは決して上流の秘境に隠されたものなんかじゃない。

大きく、広く、ただただそこにある。

人が触れる、そんな大河だ。


すべてを飲み込む凶暴さを持ち
すべてを受け入れる大きさを持ち
感情の一滴、からはじまりながら
人も街も国も凌駕してしまう。

そんな無尽蔵な力を秘めていながらも、
それは、普遍的にも思えるほどに、  そこに 在る。


大河とはそのようなものだと わたしは 思っている。

わたしにはやっとわかった。
今の彼らはゴキゲンでストレート、捻ることなく だが深い。
なぜなら 私も隣の彼も彼女も、 老若男女を問わず
この大河に飛び込んでほしいから。

彼らがしでかしたいことは、

この大河で世界のすべてを踊らせたいのだ。そして幸福にしたいのだ。

だから彼らはひねた十八番も、

秘境的な場所で大暴れしていたその姿も、

彼らの大河の一滴に絞り込んでいる。


インディーズで殺す!とか死ね!と叫んでいた彼らの姿が間違っていたわけじゃない。

でも、それでは、きっと、世界のすべてを幸福には出来ない、踊らせることができない。

老いも若きもすべてを幸福にするためには、大きな大きな器が必要なのだ。

だからこそ、彼らは今こんなにまっすぐであることにためらうことがない。

まっすぐ、まっすぐ、大きな器をつくって、

世界のすべてが飛び込むための大きな大河になろうとしている。

衣装を身にまとい、クラシカルという言葉すら思い浮かべさせる彼らの佇まいから、

そんな大きな思いをわたしは感じた。



嬉しかったよ毛皮のマリーズ。

わたしはオマエに一票投じる

だからどうかロックンロールで世界を幸福にしてくれ

もう時期も器も熟してるぜ

一発やってくれよ 。




王政復古のはじまりだ。


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ミドリの新譜「shinsekai」を聴いた。

聴くよりも先に後藤まり子のインタビューを雑誌等で読んでいたのだが、

そこには、「清水」や「あらためまして、はじめまして、ミドリです。」は嫌いだ という言葉も見受けられた。

彼女はもっと曲たちに丁寧に向き合いたかったのであろうし、勢いや気負いに身を任せてしまったという後悔があったのだろうと思う(これは私が彼女が各雑誌で読んだインタビューからの感想である)。


音楽をもっと音楽として成立させたかった、

その曲をもっとよりよい形で出したかった、

そしてミドリというバンドをもっと広げたかった。

たとえば、ライヴがよいと評判のミドリ、制服の女の子がいる、童貞のピアニストがいる、という従来の“ミドリ”から彼女は脱したかったのだろう。

だからこそ彼女は制服を脱いだし、ハジメは童貞というキャラクターをも捨て去りたかったのだろうし、そして何より、そんな意思がこのアルバムに繋がったのだろう。

既成のイメージを破壊しようとする彼女たちの現在の集結である、「shinsekai」を聴いた私の思いを

いま素直に綴ろうと思う。


一曲目の“鳩”では、静かでなだらかな進行をし、スロウなテンポを守り続けている。

なだらかであるのにどこか不穏で、どこか不安げで、どこか怖いとすら思った。

守り続けられたテンポと、穏やかで静かなピアノ(今回もハジメのピアノは最高だ)と、淡々と、それでもアイドルのように優しく甘い後藤まり子の声には、なにひとつとして整然さを乱す要素はなく、そして事実整えられたものであるはずだ。

それなのに、なにか常軌を逸しているような、知らないものに出会ったときの不安のような、見えないものがあるときのたまらない恐怖に近いものを感じたのだ。目をそらしたいのにそらせない、そして、逸らしてもいないのに何も見えない、あの感覚。

だがここにあるのは恐怖のそれだけではない。なにより感じるのは、それを、音楽として成立させてみせた彼女たちの凄まじさだ。

後藤まり子のア優しくて甘い声には棘すらない、無邪気でまっすぐで、なぜかそれが不穏だ。

淋しい、よりも生々しく、とらえどころのない、実体のなさがここにある。それは優しそうにみえて危なげだ。

それはもしかすれば、この歌にある「あの頃の二人」そのものの実体のない、レアな感情と感覚のそれなのかもしれない。

ここまで感覚と感情だけが充満し、その上で実体のなさ(実体のなさがこの不穏さの原因なのかもしれないが)という“感覚”までをも、“音”ひとつで表現しきった彼女たちに、改めてその実力の奥深さをかみしめるような思いだった。


また、「凡庸VS茫用」「さよなら、パーフェクトワールド。」「メカ」なんかは、従来の彼女たちらしい要素で溢れている。“好きよ”と矢継ぎ早に絶叫するまり子の表現には、たしかに前作に収録されていても不思議ではないとすら思う。

だが、今作に入っているそれらは、前作までとは明らかに違う次元のそれなのである。

おそらく、ミドリの根幹的な部分は変わっていない。テクニックの問題だけでもない。mixの問題でもない。

まさにその部分こそが「shinsekai」で、彼女たちは、自分たちから産まれるものを、従来のままの形で表現することを許さなかった。

彼女たちが抱えている思いや表現したい“もの”は変わらないのだろう。それをいかに表現するか、その“方法”に彼女たちは新たな一面を出しているのだ。

停滞を許さない、進化したい、ミドリをもっと変えていきたいという思いこそがこの変化そのものである。


そしてその結実として最高に美しいのが「鉄塔の上の2人」という一曲である。

mixにNATSUMENのA×S×Eが入っているということもあるが、ここまで美しいバランスで一曲を成立させるというのは実にすばらしいの一言だ。

“あたしはそっと二階の窓から、あなた目掛けてダイブ”というワンフレーズの部分から、もはやどうしようもないくらい美しい!

惜しみないくらいメロディアスで、人の心を惹きつける、ふと耳を止めさせるキャッチーさとそのポップ性は、この一曲において素晴らしい効用を示している。なぜって美しくてキャッチーなのはミドリの専売特価だったじゃないか!でなければ、「デストロイ!」の一言であんなに世の人々を惹き続けられるはずがない。


間奏のハジメが繰り返し続けるピアノの、綺麗すぎる音と、同時に繰り返されるがゆえに不穏な印象も、

Aメロでのポップで甘いハジけっぷりも、前出のハジメのピアノのリピートとの対比で、ますます恐ろしく不穏で、ますます胸がざわざわして仕方がない。

このざわつき、ポップ性に踊り狂っていいのか、むしろ不穏さを意識すればいいのか、どうすればいいのか一瞬わからなくなる。

それでも仕掛けられくるこの惜しみない、むしろ、えげつないくらいのキャッチーさにわたしたちの肉体は呼応せずにはいられないだろう。まり子とともに「自殺的に愛したい」などと言いたくなる。

だが、そこに無邪気に踊れるだけの甘さを彼女たちは許さない。あのハジメの美しいがゆえに不穏なピアノからの、胸のざわつきを抱えたまま、わたしたちはこのポップ性を味わなければならない。

このどうしようもない感じ、 ああ、踊り狂いたい、全部忘れたいのに、でもどこか不安で怖い、ああだから踊り狂いたい・・・ という無限のループを無意識に感じながら、この進行に耳を委ねていくと、

まり子はまっすぐに“あたしは、そう、依存の病気です。あなたを傷つけたいの”と甘く、軽やかに、すがすがしいくらいに強く唄ってくれる。

この瞬間の、すべてが消える感覚を、秀逸以外の何の言葉で表現できようか!

感じていた不穏さも、乗りきれないのに惜しみないくらい気持ちいいキャッチーさも、すべてを飲み込んだすがすがしさがここにあるのだ!

うつくしく晴れやかにキャッチーで、そして誰より病的だ。


そしてこの瞬間にこそ、彼女たちの「shinsekai」の結実をわたしは見るのである。

惜しみないくらいポップでキャッチー、だがどうしようもなく病的で不穏。誰よりも優しくて誰よりも甘くない。

彼女たちが今居る世界はおそらくこんな世界なのだろう。

わたしはこの不穏さにずっと胸がざわついている、落ち着かないと思う、

だがこのざわつきを感じたいからなのか、むしろ止めたいからなのか、判断もつかぬほどに、彼女たちの「shinsekai」を聴いていたいと思うのだ。

ああ、まさに不穏で病的である。

最後、「どんぞこや」と叫び続けるまり子の爆発する感情が忘れられないほどに痛快だ。



はじめは感動と同時に戸惑いを覚えたが(それは前出の「胸のざわつき」や「不穏さ」ゆえのものだ)、

たしかに彼女たちの世界が前作とは違う次元・レベルのものになっていることを感じた。

今後、彼女たちの「shinsekai」はどのように発展していくのかわたしたちは見逃すべきではないだろう。

まずはツアーからである。この眼と耳と肌で確かめようと思っている。

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私がミドリで格別に好きなのは「愛って悲しいね」だ。

「ゆきこさん」で振り切れるようにデストロイと絶叫するまりこも、あたしはあんたとセックスがしたいと吐露する「うわさのあの子」もいい、と数えだせばキリがないのだが、わたしはとにか格別にく「愛って悲しいね」が好きなのだ。


“あんたを一番愛してる!”と言い放って始まるこの曲は、

ハジメのピアノの流れも美しく、爆音でありながら絶妙なバランスで音楽としての統一を成している。

爆音のバンドはいつでも無軌道になりがちだが、ミドリの素晴らしさは音楽としてのギリギリまでの美のラインを知っている。そしてそれを時にはみ出し、破壊し、だが全体としてそのバランスを崩しはしない。ミドリの音は爆音でありながら美しい!破壊しながら美を構築するかのような音の世界は単純に恍惚である。


そしてミドリで欠かせないのは後藤まり子の書く詞、それだろう。

いつでも赤裸々な女子の言葉を綴る彼女だが、「愛って悲しいね」にもむき出しの本音が痛いくらいに描かれる。



“気持ちいいことしてみたい あのバンドのギタリストと

 抱きしめて抱きしめて抱きしめて 離さんといて”


と唄う気持ちには、恋愛の素直な気持ちそれだけである。

気持ちいいことしたい、抱きしめてほしい、離さんといてほしい。

それは、恋愛感情を抱く相手にもっと近づきたいという、素直な気持ちのそれである。

私はここで 気持ちいいことしてみたい、と言ってのける後藤まり子を決してビッチだなんて思わない。

むしろそう思う誰かいるのならば眉をひそめて考えてしまうだろう。

恋をした相手に近づきたいのはきっと誰でも同じだ。

そしてその思いが、触れてみたいという思いや、その距離を縮めたいという思いに繋がることはなんら不思議ではない。

私たちは精神性のみで生きているわけではなく、この肉体を以って存在している。そしてその身体を意識せずに生きてはゆけないものだろう。

気持ちいいことしてみたい、という思いは、むしろ幼い子供が母のぬくもりを求めるかのごとく、単純に素直な欲求に近いそれのように思うのだ。


だが、その思いは2番の歌詞では少し変わる。


“気持ちいいことしてみたい でも朝が来るんちょっと怖い

 他人に戻れるその関係を壊したい”


無邪気に、素直に、抱きしめて離さんといて と心の中の思いを唄っていた1番に対し、

“でも朝が来るんちょっと怖い”と不安や恐れを抱く姿がここにある。

なぜならば、“他人に戻れる関係”ゆえである。

ここに今存在するのは、他人に戻れるほどの関係、簡単に切れる関係なのだ。そんな程度なのだ。

気持ちいいことをしたくたって、夜を迎え近づきあったそのあとに見える白々しい朝は、恐ろしい。

そして、朝が来れば簡単に切れる関係なんてザラである。

もはや、“気持ちいいこと”のみでは尽くせぬ思いがここにあるのだ。

ただ近づきたいのではない、ただ抱きしめてほしいのではない、

もう戻れないその関係に至りたいのだ。

朝が来るのは怖い、けれども、今ここにある“他人に戻れる関係”はもう壊してしまいたい。

もっと近づきたくて、深く刻みたくて、今よりもっと“私”を強く思ってほしい。

ここは、そんな痛切な思い、苦しみ燃えるような思いが込められた 壮絶な2行なのである。


そしてラストに、こう唄われるのだ。


“とことん追いつめて わがに嘘ついて

 嘘つきあの子はこう言った

 『あんたと2人見た事ないもん見てみたい。』

 気持ちいいことしてみたい なんてとてもやないけど言えんくって

 涙のわけを知ってるかい 涙のわけを知ってるかい 涙のわけを知ってるかい

 愛って悲しいね。”



もはや相手も自らも追いつめることしか方法などなく、思い詰める苦しさ。

ただただ、「2人で」見える景色を追いたいという素直な恋心。

そして、なにより

“気持ちいいことしてみたい なんてともやないけど言えんくって”の一言である!

わたしはもう本当に泣いてしまいそうになる。

そう、どんなに近づきたくても、関係を壊したくても、そう思い詰めるほど相手を思っていても、

そんなことは言えないのだ。言えるはずがないのだ。

なぜ言えないか、なんてそんなのは当たり前で、「好きだから」、それだけだ。

好きだからこそ苦しく壊したいのに、好きだからこそ何も壊せない。

こんなに思い詰めるあの人に、すべてを壊す一言を投じられるほど、強くなんかないに決まっている。

だけれども、ここにある欲情も愛情も痛みも悲しみも全部本物である。

言えないだけで、本当にここにある。


この激しいジレンマと戸惑いと悲しみこそが、この歌にある爆発的な威力である。

ハジメのピアノの美しさも、バンドのサウンドの激しさも、まり子の執拗な絶叫も、

あの人への“強い思い”を表現し尽くそうとしているのだ。

だからこそ執拗なまでに“あんたを1番愛してる”と叫んでいるのだし、そしてそれは直に伝えることのなかった言葉なのだ。


こんなに振り切れるほど、こんなに苦しむほど、こんなに叫ぶほどに

誰かのことを考えて欲情してそして涙が流れてしまう。

“あんたを1番愛してる”と思うときに溢れるこの感情すべてを“愛”とするのならば、

そうだ、それほど“悲しい”ことはない。

そしてそれを悲しいと思うことも、同時にひどく胸を痛くさせてしまう。




「愛って悲しいね」にある、この胸を引き裂くような本音と、愛と、悲しみは、あまりにも苦しい。

そしてここまで、そんな恋愛の狂いそうな激しさを表現しきってくれるミドリに私は救われているのだ。

穏やかになどなれないくらい恋をするこの思いは、この激しさによってはじめてその身の丈に合う。

破滅的で強力で美しく、そしてどうしようもなく胸が痛くなるこの一曲は、まさに狂いそうな恋愛のそれと同じであろう。


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ここ最近のわたしはブランキーを掘りだしては聴いている。

昔から彼らが好きだったが、久しぶりに彼らの音に出会うと、ああなんて完璧なのだろうと改めて思い知らされる。

感じる気持ちよさのポイントが昔よりも格段に増えていることに気付き、

よい音楽というのは出会うたびに深みを増すものなのだと感じた。


そして同時に久しぶりに聴く浅井健一、ベンジーの声はいつまでたっても中毒性を以って私を刺激する。

甘くて気だるくて、繊細なのにどこか乱暴で、そして優しい。

ベンジーの魅力とは、ギターと彼の声ひとつで完全に世界を成立させてしまえることだ。

彼が喉を震わす瞬間、1フレーズ弾く瞬間に世界は見事に描かれ始めるのだ。

そして彼の言葉は、抜群に美しい。

それは彼の声と同じように、危険で美しく、そしてそれがあまりにも正しい言葉たちなのだ。



そんなベンジーの魅力が底抜けに披露されているのが(少なくともわたしには爆発的な威力でとりつかせている)、ソロシングル「危険すぎる」だと感じている。


安モーテルに宿泊する男女の情景を描くこの歌では、まるで映画のような美とロマンがある。

テレビもつかずシャワーも壊れかけた部屋で行われるやりとりを、

ここまで印象的な画として描けるのは浅井健一だからこそなのだと思う。


私が猛烈に胸を打たされたのは、

“コカコーラ買ってくるけど 他に何かいる物でもある?

 だったらついでにマルボロとトランプとチョコレート あとスケッチブック

 笑顔を描きたい”

の歌詞である。



もはや、説明なんかしたくないくらいに、私は熱く燃えてしまう。

こんなにシンプルなやりとりだが、彼の声とギターになるとこんなにも美しく胸を打つ魔法に変わるなんて!

それはまさに音楽でしかなせない興奮なのだ。

音が鳴り、言葉が乗る、その瞬間に起きる魔法に猛烈な感動と歓びが産まれる。

どちらか一方でもきっと成し遂げがたい魔法であり、

また、この両方がそろうことで、信じられないくらいの威力を持ってしまうのだ。

そんな根本的なことを改めて素敵なことだと思わされるくらい、このフレーズのこの瞬間、わたしはどうしようもなく熱く燃えるし滾る。

そんなことできるのはロックの魔法でしかあり得ないだろう。

浅井健一はそれを成し遂げてしまう。


“甘くて気だるくて、繊細なのにどこか凶暴”

彼の声そのもののとしか思えない、ロックの魔法にとりつかれる歓びに私は笑顔を隠せない。



言葉にできない、なんて表現は本当に最低な類だと思う、が、

わたしはこの「危険すぎる」に関しては、具体的に何かをとりあげて説明なんてしたくない、とすら思う。

それは映画のワンシーンに注釈を入れるくらい無粋なことのように思うからだ。

そしてなによりこの歌は一回聴けばすべてが判る、すべてが伝わるように出来ているかのように思う。

この歌は聴きとるものでも考えあぐねるものでもなんでもない、ただ無心で味わうだけでその甘い滋養が届く類のものである。

考えるよりも感じとらせてしまう、そのエッセンスをわたしはただただ味わってほしい。



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aikoの最新アルバム「BABY」を聴いた。


「BABY」という実にシンプルな単語であるが、彼女が名付けるとどこか深く温かい響きを持つから不思議である。BABYとは言うまでもなく恋する相手、ただひとりである。

それを名前に冠したアルバム、当然のごとく“あなた”へのあふれそうな思いが凝縮してある。


前作「秘密」では、

“誰にも言っていない あたしの秘密を

 耳元で小さな声であなたに伝えたい”

と唄った彼女である。


自分自身のひどくデリケートな部分、秘密にしたい部分ですら“あなたに”は明らかにしたい、伝えてしまいたい、という危なさと真剣さが渦巻く濃密な思いを吐露している。

自分自身と相手自身の境界線もなく、自分の全てを判ってほしい、共有されたいという想いがある。

そしてそれは、美しいほどにまっすぐで、同時に不可能であるからこそに狂おしい。

そして狂おしいほどのまっすぐさはいつでも危険を孕むものなのである。

狂おしいほど自分自身を伝えたい、

狂おしいほど相手自身を判りたい、という 愛情がゆえの強い想いは、不可能だからこそである。

100%相手を理解することも、100%理解されることも、きっと叶わないことなのだ。

きっとaikoが欲していることは、90でも80でもなく100%のそれなのだ。

もはや、同じ人格になることすらをどこか、心の奥ではほんの少し願っているかのような(だがそれは、ほんの少し、なのである!そのさじ加減こそが、彼女のポピュラリティと“恋愛ジャンキー”のバランスなのだろう)気すらするのである。


それはどうしても出来ない、叶わないからこそ想いは募る、募るがゆえに狂おしさが増して危うくなる。

「秘密」でみせたのは、もはや恋愛の狂気ギリギリの感情そのものであったのだ。


そして、そんな“相手を判りたい/自分を判ってほしい”の思いと“不可能” というジレンマを

飲み込み 越えたのが「戻れない明日」という一曲だと思う。

 

“あたしはあなたじゃないから

 全てを同じに感じられないからこそ

 隣で笑っていたいの 悲しくなった時は沢山泣いてもいいけど

 ずっとそこにいないで うずくまったりしないで”



ここにはすでに、秘密でみせた狂気の姿も恋愛ジャンキーな一面もない。

100%の理解を見送り、理解できない自分という位置を知りえた上で彼女は“あなた”と向き合おうとする。

だからこそ、「ずっとそこにいないで」とぴしゃりと言い放つことが可能なのだ。

それはきっと、おそらく “ずっとそこにいる” あなた、と同じ人格や感情を共有してしまうのだとしたら言うことのできない言葉なのだ。


理解しきれない、同じ心を持てない、同じ人間になれない、

境界線を明確に意識した上で相手を思う彼女の姿は、厳かで同時にひどく人間らしい。

愛に溺れ、境界線を壊すことをどこかで望んでいた前作の姿は、

恋をする女子全員の“秘密”であったに違いない。

狂気的なほどに誰かを思ってしまう危うさ、

そしてこの狂気的な思いは、危ういからこそ、誰かに明らかにすることはどこかで躊躇われるものである。

でも、きっと恋をすれば一瞬、どこかで、意識はせずとも抱いてしまう感情でもあることも、恋をする女子には理解できるだろう。

そう、誰にも言えないナイーヴで危うい気持ち、まさに“秘密”だったのだとわたしは今更思うのである。

そしてそんな“秘密”を全女子共通で理解しうるバランスで表現しきるのはaikoだからこそだったのだと感じるのだ。



だからこそ、今作で厳かに唄う彼女の姿に、前作とは違う温度を感じる。

前作はひたすら、女の子が部屋でひとりで彼を思うときに温度それだった。

恋をする誰かを思い起こし、考えるときの濃い密度。閉め切った部屋は熱くそしてこもりゆく。

そのニュアンスすら感じた前作だったが、今作ではむしろ空気が流れ、風や光や空までをも感じる。

そう、外の世界で彼女は立っているのだ。

誰かをくるおしいほどに思う気持ちを抱きながら、彼女は今、風を感じて立っている。

aiko自身の軸は何も変わっていないのだろう、

だが、風を知り、受け入れるかのような彼女の姿をわたしはなぜか思い浮かべてしまう。



そんな厳かに美しい彼女の一面が光りながら、

最後の一曲「トンネル」で

“あと7kmで出口です 心の方もこんな感じだったら”

と極めてネガティヴで孤独な悲しみを思いを吐露してしまう彼女の姿に、

どうしようもなさを感じて私は胸が痛いくらい共感してしまう。


“あなたの事だけを一生 ただ愛してゆきたいだけ” と同曲で唄う彼女のこの言葉の、あまりに切実な響きに、

思わず息がとまる。


そしてトンネルを通りすぎるのはいつも車の中で、それは外に向かう道具であるにも関わらず、

まるで部屋にいるかのような、

そう、“秘密”を思い起こす温度がそっと蘇ってしまうという事実が

あまりに巧妙で、同時に苦しいくらいに胸が痛い。




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5月21日、毛皮のマリーズはメジャーデビューを果たした。

CDタイトルは「毛皮のマリーズ」。

己の名前をそのままに表わした今作に関し、志磨遼平は「名刺代わり」だと言っている。

今作は一回聴けばすぐに判る、60~70年代のロックンロールに匂いを彷彿させる、3コードの“ゴキゲンなロックンロール”である。

インディーズ時代、アルバム毎にサウンドもむしろジャンルすら変えてきたマリーズとしては、

メジャーデビューという華々しい始まりに対し、ストレートに勝負してきた、といったところだろう。

それは戦略的なことだとも思う。



先ほど“ゴキゲンなロックンロール”という表現をしたが、これは志磨遼平自身の言葉を借りたものだ。

そして、このアルバムを表現するのにそれほど適切な言葉もない、と素直に思う(そしてわたしはそれが悔しい)。

はっきりと言えば、このアルバムに新しいロックとしての発明があるわけでも、記録的なプレイがあるわけでもない。だが、ここには“昔のロック”の匂いを纏って、“素直に”ロックンロールすること、それ自体のきらめきがあるのだ。

(それまでに比較すれば)シンプルで、3コードで開かれる世界は、理屈なんかを飛び越えて心地よい。

それは音が肉体に素直に呼びかけ、肉体が素直にそれに反応するような、ごく自然なことだと思う。

ハッピーな音に不思議と笑顔になってしまう、音楽としてのごく自然な作用をこのアルバムは持っている。そしてその作用とに出会いを私は実に久しぶりに感じた、と思うのだ。

頭で考えた、指先や小手先でだけ作られた音はそこらじゅうに蔓延っているが、

ただただ素直にロックンロールすることが、ただただ素直に私たちを喜ばす、という

本当にシンプルな幸福があるのである。



ボニーとクライドは今夜も夢中 から始まり(このギターイントロからすでにこのアルバムの勝利だ)、

晩年 で終わるという 整えられたバランスは、実に見事だ。

志磨遼平の歌詞世界も変わらず秀逸であり、ベース・栗本ヒロコがヴォーカルを務める「すてきなモリー」はファンのみならず、全リスナーを喜ばす粋なトリックである。


毛皮のマリーズがメジャーデビューしたという事実と、

そのデビューアルバムにこの一枚が産まれたということは、

今この時代において 実に正しい ことだと 思える。

先ほどもいったが、頭や指先でだけで作られた音楽があまりに多すぎるこの時代において、

マリーズがこれを産み出したことは ”王道”の正しさである。

彼らが現在していることは、王道のロックスターのそれだとしか私には思えない。

長い下積みを経た彼らは、その間に身に付けた筋肉を、今まさにロックンロールの足りない世界を壊すために奮おうとしている。そして同時に、担おうとしている。

“新しくなくたっていい、「おもしろい」時代がまた来そうな気がします。”と公言した志磨遼平は確信犯だ。

そして私は、彼らの企みを支持するのだ。









ただひとつ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、私の個人的な嗜好、それの問題である。

「戦争をしよう」で音楽シーンに登場した彼らだ。

ここでいう「戦争」とは、“イライラしっぱなし”の世界を“壊す”ための戦争、そしてそれは毛皮のマリーズとしての“ロック”だと私は思う。

彼らの無尽の破壊力はパンクだった。

イライラしっぱなしの世界をブチ壊すだけのエネルギーとリビドーと熱気が満ち溢れて、聴くだけで、その熱気があふれだしヒリヒリするような思いをした。

そしてそのヒリヒリした感覚こそが、私を刺激し、彼らにとりつかせたように思う。

彼らがゴキゲンで素直なロックンロールでデビューしたことは実に正しいが、

彼らのその熱気は、“ゴキゲン”だけで済まされるものではない。

私のような人間は、軍服を着て戦争をしよう、などと言う危なげな彼らの佇まいすら愛していたし、

そんな危なげなことを“しないで居られない”ほどのイライラした彼らの気概に圧倒的に共感していたのだ。

「毛皮のマリーズ」を聴いて、私は踊ることができる、笑顔になれる、幸福になれる。私はそれを全面的に肯定する。それはたしかに正しくて、実にバランスの取れたものだと思う。


だけど100点なんて叩き出さなくていい。

私はマリーズからは、点数からハミ出さずに居られないどうしようもない熱さをおぼえたい。


最初に言ったが、彼らにとって今作「毛皮のマリーズ」は戦略的なものでもあるとわたしは思う。

3コードのシンプルなロックンロールという名刺、彼らはそれで勝負してきた。そしてその勝負は、(わたしから見れば)華々しい勝利だったと思う。

だからこそ、わたしはその勝利を壊す破壊力に、彼らから出会いたいのだ。



だが確信犯・志磨遼平であることだから、わたしは次回作にも惜しみない期待をしているし、今作にも大きな賞賛を贈りたいのだ。

まずは今週始まるツアーから、彼らがどんなパフォーマンスをするのかを見届けたい。


東京事変2010ツアー「ウルトラC」に参戦してきた。



毎回のことだが、椎名林檎・東京事変のライヴから感じるのは、「全力の感謝」。
もっと言えば尋常ないほどの気概である。
どうすればこの2時間弱を客席の人を幸福に出来るのか、価値あるものできるのか、という意識をビンビンに感じる。
だからすごく緊張感のあるパフォーマンスになっているのだろう。
埋められた客の生命の数に対して、彼らはその生命全力で応えようとしているのだと思う。
それが綿密なセットリストと、あれほどのアレンジにも現れている。

東京事変、ひいては椎名林檎は、ふらりとステージにあがるようなことは絶対にないのだろう。
ふらりとステージにあがっていいパフォーマンスするひとは勿論いる。
ただ椎名林檎に関しては あの尋常ないほどのリスナーへの意識、
つまり“誰かに応えたい”思いの緊張が産み出すプロフェッショナルなパフォーマンスとしての美を思わずには居られないのだ。

彼女ほど自己満足が似合わない人もいないと思う。
あの人は本当に世界のために音楽やっている。
それは「スポーツ」聴いたときにも思ったことだ。
嗜好やタイプの問題じゃなく、世界に訴えるべきこととして音楽やっていると思う。
彼女はインタビューで「正解って一つしかない」とたびたび口にしているが、私はそれをすごく理解できる。
音楽って観念的なもので、同時に感覚的なものだからすごく嗜好の問題として扱われてしまうし、それはそれで理解できたことである。
それでも「正解って一つしかない」と、彼女の音楽を聴くと思わずにはいられない。

たとえば、「ありあまる富」がこの時代に生まれたことという、意味を考えると、
これを産み出してくれたことに私は感謝せずにはいられない。

誤解を招くかもしれないが、あらゆる嗜好が許されるのは、全人類共通のマナーや意識があってこそだと私は思う。
国境とか宗教とか超えた意識、そういう共通した意識の部分のことで椎名林檎は訴えかけている。
つまりマナーや意識、人間としての根幹的な考えにおいてのことを彼女は唄っている。

音楽という嗜好品、感覚的な存在を主体とするツールを用いて、

感覚や嗜好や価値観を超えた部分の、全人類共通の、人としての根幹の部分を訴えかけているのだ。
だからこそ、私は彼女の「正解はひとつしかない」という考えが理解できる。

彼女が言っていることは普遍的なことでしかなく、それは誰がどう生きどう考えても選ばれし“答え”に違いないのではないのか。

なにも私は椎名林檎の言っていること全肯定!という訳でも、椎名林檎神!といった思考なわけではない。

ただ、存在そのものが既に富なのだ、と切々と唄う彼女の姿から、これ以上の“人への答え”を見つけることは困難だとしか思えない。

少なくとも私は、唄いあげる彼女の姿にNOと言える精神性は持ち合わせていないのだ。


話題が少し過激なところに言ってしまった。

話を戻そう。


今回は「生きる」は、一番によかったように私は思っている。
「生きる」で椎名林檎は、本当に生命を燃やすように唄っていた。

それこそ、倒れそうに、死にそうになりながら、彼女は全力で振り絞るように「生きる」を唄っていたのだ。

そのギリギリの表現をする彼女から、わたしはまさに「生きる」ということを痛感したのである。


私たちは生きてきたわけでなく、まずはじまりの瞬間から、
親に作られ、産み落とされ、育てられ、
つまりはいつだって受身の形ではじまった。
生まれたいなんて頼んだ覚えもなくはじまった生命だ。

そう、ここで椎名林檎はまるで死にそうになりながら唄う、
彼女の生命の火を限りなく燃やすように。
それは一見「死にそう」なこと。
でもそれは、受身じゃない姿勢だからこそ。
「生まれて」から、「産み落とされ」てから、はじめて「生きる」と能動的な姿勢を以ってして、
生命の火が燃える、死にも近づく、過酷さは増す。
彼女のパフォーマンスから、そんな「生きる」覚悟、能動的な姿勢が産み出す過酷さと、そこから生まれる尋常ない人間の強さと感動を、 わたしは強烈に感じたのだ。

「生かされた」わたしたちが、やっと「生きる」ときの熱は、 激しく熱く、わたし自身を燃やす。

それは消費、や浪費、といった観念にも近いことかもしれない。
でも、その火こそが生命としての躍動であり美なのだ。
もっといえば、スポーツ、という競技、ジャンルこそが「生きる」ことそのものの(椎名林檎の)定義に近いのかもしれない。




全力でその生命を燃やし、音楽という躍動を以って人を魅せ続ける東京事変のライヴパフォーマンス。

それはアスリートの最高記録を目撃したかのような感動と記録の一瞬でもあった。

これだけのスポーツマンシップにあふれたバンドも珍しいが、音楽という観念をまさにスポーツという概念で以って表現しつくした、実に稀有で素晴らしいライヴであった。