今年はロックンロール復興の一年だと先日申したが、同時に、無視できないのが、“アイドル”の勢いだろう。
K-POPの台頭も凄まじい中、AKB48のこの人気ぶりには目を見張るものがある。
このK-POP、AKB48から感じるものは“アイドル性”であり、今回はAKB48について書きたい。
AKB48とはそもそもアンダーグラウンド・コア層へのアイドルであったはずだ。
それははっきりと言ってしまえば、AKB=アキハバラ という密着した場所に存在するアイドルであり、
もっと単純に言えばオタク層へのアイドルであった。
劇場に行けば本物の彼女たちに会える、というコンセプトのもとに生まれたアイドルがAKB48だった。
今や秋葉原だけでなく日本を代表するアイドルになりえた彼女たちの仕掛け人は、あの秋元康である。
秋元康といえばおニャンコを思い出すだろう。
「セーラー服を脱がさないで」で当時の一般の女子高生たちを芸能界にデビューさせたのが秋元康であった。
また「川の流れのように」と名曲の作詞を担当しており、デビュー初期の中島美嘉は彼の作詞による歌が多かった。
だがここで言いたいのは、秋元康が何故ヒットを飛ばしているのかということだ。
わたしはおニャンコとAKB48、という彼らが生んだアイドルから考えたい。
「セーラー服を脱がさないで」の歌詞を思い出してほしいのだが、
あれはいかにもポップチューンのような装いをしているが、歌詞には下卑たものを感じる。
全面的にセクシャルな匂いを感じさせると同時に、臆病な少女性をもにおわせる。
思春期のこういった少女の心境の存在はわからないでもないが、
秋元氏が表現したかったのはおそらくそんなセンシティヴな表現ではないのだろう。
これを素人からデビューしてきた『おニャンコ』たちに歌わせるということに、すでに秋元康の戦略をわたしは感じる。
ある種過激なこの歌詞を少女たちに歌わせるというこの構図は、彼女たちにどこか邪な、そして下世話な視点を大衆たちに持たせるだろう。
だがおニャンコクラブ、と集団によってこの歌を歌わせることで、その邪な視点は彼女たちのパーソナリティとは一致をさせない。
アイドルとして、プロデュースさせられる者として歌う彼女たちには、まず最初に(言ってしまえば)下卑た視点が行くものの、アイドルになりえるほどのルックスの彼女たちに、大衆は次第にほだされ純粋なファンへとなっていく。
これが秋元氏が仕掛けている構図である。
つまり秋元氏は人間の下世話な、俗っぽい部分をフックとしてアイドルを大衆化させようとしているのだ。
そしてそれはAKB48にも言えることである。
思い出してほしいのは、あの“AKB総選挙”である。あれはある種タブーを破った仕掛けだと思う。
アイドル、特にグループアイドルにとって、各個人の人気というのは誰もが意識することだろう。
「**派」「◎◎派」と自らが誰のファンなのかを明らかにする者も多いだろうし、またグループ内においても自分、そして自分以外のものの人気を意識していると言えるだろう。だがそこはアイドルであり、仲がいいんです、と称してお互いのそういったライバルとしての印象を決して見せないのが定石だった。
だが秋元氏はその定石を無視し、“総選挙”と、AKB48のメンバーの人気に明確にランクをつけた。
この総選挙のためにファンは躍起となり、AKB48のそれぞれたちも懸命となる、そしてその姿をメディアは報告していく。
この選挙のためにCDを何枚も買ったというファンの姿も知っているし、総選挙後の大島優子の涙を観た者も多いだろう。
だが、この総選挙におけるドキュメントが問題なのではなく、そもそもアイドルグループ内の人気を明らかにしてしまう、という実に下卑ていて、エゲツナイとまで言いたいような戦略に私はまたも秋元氏の手段を感じるのである。
人の人気度にランク付けをする、ということを大衆は気軽にやってしまうが、それがテレビで、媒体で、行われるということは珍しいし、印象も残す。
だが私にはあまりにも下卑ていると思う。
秋元氏は純粋に彼女たちのランクをつけたかったわけではないだろう。それを逐一レポートし、ドキュメントすることによって、人々の視点を彼女たちに向けるという戦略的な手法だと思うのだ。
誰が誰より人気だ、ということは人間ならば俗っぽく知りたくもなるが、それを完全に明らかにすることで、“ランク”は生まれてしまう。
そこにある涙が感動だ、という考えが判らなくもないが、ならば敢えてそんなものはドキュメントする必要性などない。
ランク付けを明らかにすることで、大衆は下卑た視点を満足させられる。
それは大きく言えば、おニャンコのときと同じだ。女子高生たちにセクシャルなことを言わせるという突飛で下卑た構図なのだ。大衆の下世話な部分を満足させることから秋元氏の戦略ははじまる。
そういった手段の有効性を否定しているわけではないが、こういった人間の下卑た部分を利用する秋元氏に、
名プロデューサーとは言えても、文化はひとつも感じないのである。
わたしはAKB48に対してアンチでもなんでもないし、彼女たちの音楽に対して文句などひとつもない。
「ポニーテールとシュシュ」には実にアイドルっぽさを感じるし、あのサビにはやはり口ずさまずにいられないキャッチーさがあるだろう。
AKBを支持するファンにも、愛すべきアイドルがいることは単純に素敵なことだろうと思うし、そこを否定していないということだけはどうか理解してほしい。
ただただ私は、秋元氏の戦略的な仕掛けを凄いとは思えても素敵だとは思えないということなのだ。
下世話と清純を交錯させてアイドルを大衆化させる手段は有効であるが、
わたしはわたしの意向として、この日本において“文化”を成り立たせようとしている者を支持したい。
もちろん秋元氏が目指していることが決して文化ではなく、AKB48の大衆化なのだとすれば私のこの言葉は実にお門違いもいいところだが、“好きならば好きだと言おう”“胸の内さらけだそうよ”と「会いたかった」で秋元氏が書いているのにならい、わたしはこの胸の内をさらけださせてもらった次第だ。