先日、福岡で行われたマキシマムザホルモンと毛皮のマリーズのライヴに行ってきた。

大学の前夜祭なわけだが、単純にこの2バンドの対バンはレアであろう。

チケット即完売のこの貴重なライヴに参加できたことを嬉しく思う。

今回はわたしが初めて目にしたマキシマムザホルモンについて書きたい。



恥ずかしながら、ホルモンに関してはいわゆる表題曲ばかりしか知らなかったわけだが、

今回のライヴで彼らの凄まじさ、そして、あれだけへヴィでコアなプレイをしておきながら大衆的な人気を獲得しえた理由を垣間見た。

一曲目から「恋のメガラバ」と興奮の地獄に即陥れるセットリストもそうだが

アツく人々を煽り、暴れ出さずにいられない滾るような興奮をとにかく絶えずわたしたちに引火させ続けるその凄まじさを目の当たりにした。

とにかく激しい彼らのサウンド、曲であるが、それ以上に彼らは客に対して燃えることを要求する。

そしてそれを客に求める以上、彼らはそれらを牽引するプレイをしていかなければいかないのだ。

それは「地獄絵図」という彼らのイベントでもそうだが、過酷な状況においてもロックンロールでとにかく燃える、興奮する、動き出さずに、暴れ出さずにいられない強烈なガソリンを彼らは巻き続ける。そしてそのガソリンは自家製造で使う彼らが何よりも消耗する戦いなのだ。

でも彼らはひるまないし何よりも最高に楽しんでいることが見てとれる。

ロックンロールに燃やされ続けた彼らの尽きない爆発、地獄絵図にすら見てとれる激しいライヴ会場は歓喜の蒸気でむせかえるようだった。

そしてそんな地獄すらすでにロックンロールにとりつかれた私たちにとっては幸福以上の何者でもない。

そしてそれはマキシマムザホルモン、彼らが一番そうなのだろう。




―― セットリスト


1恋のメガラバ
2What's up, people?!
MC
3ロッキンポ殺し
4チューチューラブリームニムニムラムラプリンプリンポロンヌルルレロレロ
5生理痛は神無月を凍らす気温。
MC
6ぶっ生き返す!!
7爪爪爪
MC
8包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ドス・キリ
9人間エンピ
MC
10川北猿員
11ROLLING1000tOON
MC
12「F」

En
13恋のスウィート糞メリケン
14握れっっ!!


JAPANESE POP/安藤裕子
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安藤裕子の5thアルバム「JAPANESE POP」

安藤裕子の“世界への視点”の重さ、深さをいかにポップスに、心地よい音楽として昇華してゆくのか という彼女のアーティストとしての命題をまっとうしているかのようなアルバムだった。


安藤裕子というアーティストは、自己顕示欲や表現のために音楽をやっている人間ではないとわたしは思っている。

誰かを救おうとしているわけでも、まして自分を救おうとしているわけでもない。

もっと言えば、“造らずにいられない”人間でもないだろう。(それに近いほどの才能の持ち主だとも思うが)

だが彼女は音楽を紡ぐことをやめない。

わたしは、彼女のその世界への温かくも重い眼差しを、音楽に昇華させることが

彼女に与えられた命題なのだと思っている。

思っている、というよりも、むしろ、彼女がそのように感じているのではないか、と思うのだ。

わたしは、丁寧なほどに音と向き合い、造り上げようとする意識を彼女からは強く感じる。

“才能”のまま気ままに音を造る“天才”ではなく、彼女はたしかめながら丁寧に音を創り上げる人なのだ、とおもう。

そしてそれは、才能や表現への欲求から生まれる創造ではなく、

おそらく自分を支持するファンから、世界の裏側で飢える子供にまで“届けなければならない”という

自分の才能を任務とする意識からなのではないかと思う。

いつでも誰かのプレゼントに美しい装いを、あたたかなまごころを込めたい、と思うその気持ちとまったく同じように

彼女は自らの音楽を創り上げているのではないかと思うのだ。


話はすこし逸れたが、今作はとくにいかに“音楽”に、そして“ポップス”に昇華するのかということを意識させられたと思う。

複数のアレンジャーをはじめて迎えたということも大きいのだろう。前作「chronicle.」が、一言で言えば“重い”一作だったと思うのだが(しかしこれはこれで素晴らしい一作であった)、それに比較しても「私は雨の日の夕暮れみたいだ」からはじまるトリッキーで素直にたのしいアレンジは、音楽のもつ、素直な喜びや楽しみが溢れていて、実に心地よい。

それは「chronicle.」の一曲目は「六月十三日、強い雨」という美しく、深い深いナンバーであっただけに、

今作が象徴するものが実にポップなものなのだと思わされる。(もちろん、このアルバムタイトルからも明白ではあるが)

彼女の従来の視点―― 重く苦しいほどに、人を、世界を見つめるその視点のへヴィさをまるで緩和するかのような楽しみ、音としての歓びが重なって、くるおしいほどに癖になる。

それの集大成が「問うてる」なのだと思う。

「命ってなに?それは燃やし続けるものなの?」とこれまでの彼女の世界観からしても、一番にへヴィな言葉を投げかけているこの曲が、イントロからして軽やかで音の歓び溢れたポップスであるところに、わたしは驚愕に近い感動を覚えるのだ。

思いがけず唄い出してしまいたくなるこの軽やかさに乗せられる、くるおしいほどのへヴィな意識は

今までの彼女の集大成とでも言いたくなるし、そして、”音楽”というジャンルにおいて

音としてのキャッチーさ、大衆性、そしてポップさを兼ね揃えておきながら、

ここまで、深い“個人の”世界観を持ちこめるという、その成立そのものの稀有さには鳥肌ものの感動を覚える。

こういう曲はあまりに少ないと思うし、これを産み出せる、成立させうる彼女のスキルとキャパシティの高さは、すでに彼女にとっての唄が“業”としてあるからなのだと思う。


そういったポップ性をちりばめている今作だが、ラストの「歩く」の壮大なうつくしさに

わたしの胸はくるおしいほどに痛んだ。あまりに美しい音楽、あまりに美しい唄声、そして、重く、それでも生きることに向き合おうとする彼女の強さに。

ここにあるのは、生きることの悲しみや苦しさ、自分のずるさだ。

だが、安藤裕子は、それをわたしたちに見せながらも、誰よりもあたたかく寄りそってくる。

悲しいのにあたたかく、あたたかいからくるおしい。

生きることの重さは誰だって承知だ。

彼女の音楽は、そんな重さから目をそらさない。じっと見つめ、それこそ「問うて」くる音楽だ。

だが、同時に安藤裕子自身が「問われ」続け、生の重みに戦い、惑い、それでも「歩く」と決めている人なのだ。

そして、それは、わたしたち、と同じように。

だからこそ、彼女の音楽はこんなに温かく、こんなに寄りそう。

でも彼女には苦しみをみつめる強さがある。平凡な言葉だが、彼女からはその強さをたしかに感じる。

生きることは、悲しいのに、こんなにも、温かい。

わたしは彼女の音楽からそんなことすら思うのだ。

そして、そう思わせる音楽を作れるひとは、本当に、ごく限られている。

くるおしいほどに彼女の音楽に胸を甘く痛ませ、何度でも彼女の音を聴きたくなるこの不思議は

悲しいのに、こんなに苦しいのに、愛さないでいられない 命 そのもののようだ。

This Is The One/Utada
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Utadaの2ndアルバム「This is the One」の表題作とされるのが「Come Back To Me」だ。

タイトルが象徴されるこの恋の歌の持つ凄まじいエネルギーと美にわたしは驚かされるばかりである。

イントロの仰々しいピアノも印象的だが(あくまで、仰々しい、ところにわたしは魅力を感じる)

一度聴けば覚えてしまうキャッチーさ、に加え、

ポップさのみに走りすぎないせつないメロディーラインがあまりに素晴らしく、

<対人への音楽>と<自己表現としての音楽>を互いを損なうこともせずに成立させてしまう彼女の匙加減には感動を覚える。


先ほどもいったがあの仰々しいピアノから彼女の才能を感じてやまない。

「Come Back To Me」、わたしのところに帰ってきて、と唄いあげるこの曲の中で、

過りをおかし後悔するこの“彼女”の、痛切さを、わたしはこのピアノでどこか揶揄すらしているようにも思うのだ。

この曲の中にある彼女の“過り”が具体的にどんなことなのかはわからない、が、

それが、彼を彼女から離れさせる要因になったことは窺える。


だが本来ならば、過りをおかした人間の懇願、なんて、うつくしくは、ないのだ。

もちろん人間だから、その懇願に共感は覚えるし、その気持ちがわからない、なんてことはない。

でもそれでも、過りをおかさなければ、彼を離さないようにいれたなのなら、それが本当は一番よかったはずで、どうしたって彼女は過りを犯しているのである。

そしてそれを判った上で、「戻ってきて」と叫ぶこの気持ちは、痛切であればあるほど、悲しくもある。

懇願に、痛切ないやらしさが伴うように、過ちを自覚しながら彼の再来を願う彼女の姿は、

きっと“自己本位”とも捉えられかねない。

それでも痛切に、何度も何度も「Baby Come Back To Me」と叫び続ける彼女の

痛切な想いの吐露の幕開けとして、この仰々しいくらいのピアノがイントロに充てられているかのようにわたしは思うのだ。

だからこそこの仰々しいピアノからの一拍空けて、宇多田ヒカルの声のみの状態でこの歌詞ははじまるのであろう。


それは、言ってしまえば、自己本位でずるい“彼女”の痛切なラブレターの音読のようですらある。

大げさなくらいのリフレイン、絶えず言い続ける「Come Back To Me」の言葉は 必死だ。

そしてその必死さにあるたしかなずるさも、そしてずるさを持たずにいられないほどの想いの交錯は、

わたしたちをくるおしいほどに惹きつける。

前述したポップでキャッチーなのに、美しくてせつないメロディーラインはこの胸に遠慮なくこの交錯を巻き込んでいき、

そしてどうしたって思ってしまう、「必死になってしまう」苦しみがこの全身を凌駕してしまうのだ。


そしてその思いはこの歌の“彼女”だって抱えていることであるのだ。

「But I do regret it 」という歌詞にみられる明らかな後悔と、「I'll be everything you need 」とまで言ってのける必死さ。

過去への後悔と、過去を変えられないことへの苦しみ。

これだけの後悔と苦しみを知り、その過ちは簡単に許されないという自覚を彼女はきっと持っている。

そしてそれを知りながら「戻ってきて」などと言うことの無責任さとずるさも、判っている。

だがそれでも「Baby Come Back To Me」と叫ばずにはいられない、そのどうしようもない苦しみがここにあるのだ。


ここには理性と本能が渦巻いて、だからこそこの湧き上がるように美しいサビの「Come Back To Me」を

つい口ずさまずにはいられないし、そこにある苦しみに胸は否応がなくせつなく締め付けられるのだろう。

そしてそれは誰もが覚える恋愛の苦しみの一瞬だ。

許されない自分を知りながら許されたいという本能のような叫びがここにある。

ぞれはたしかにずるくて自己本位で、でも、人間が人間であるからこそ、どうしても生まれてしまうものだ。

そしてそれは美しくないものだなんてわかっている。


美しい悲恋の歌なんかじゃない、まして単純な後悔の歌などでもない。

この理性と本能の交錯から溢れだす、尋常ないほどの感情のエネルギーをここに感じる。

理性や認知を吹き飛ばしてしまう叫びは、その理性や認知があるからこそ、くるおしく抑えも効かなくなってしまうのだ。

そんなくるおしいパラドックスに陥るわたしたちのどうしようもない弱さ、

自己本位にならざるを得ない、強くどうしようもない感情を

宇多田ヒカルはその才能をもって、くるおしい音楽の美へと昇華するし、これをここまで表現しきるのは彼女だからこそである。

ひどく人間的なまでなエモーショナルの爆発ぶりは、前作「EXODUS」にも引き続いているが、

それをだれもが共有しうるポップス的な領域にとどまらせておいで、

そのエモーションレベルのみは高く維持させ続けているというのが衝撃的なくらい高等な手腕だと思う。


なにはともあれ、わたしがどんなに言葉で説明したとして、この曲は人間の本質的な感情に訴える曲だ。

まずはその耳でたしかめてほしい、としかわたしには言えない。

そして聴いた瞬間に、自らの感情が高騰し、くるおしいほどのせつなさが全身を貫くことを感じてほしい。

さらにその次に、このくるおしさを抱え、胸が痛いくらいに締め付けられながらも

「Come Back To Me」と口ずさまずにはいられない、不思議なこのポップの美に全身はもっと締め付けられることだろう。

誰がなんといおうが、名曲だとしか言えない一曲だ。


Mary Lou/毛皮のマリーズ

¥1,575
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毛皮のマリーズのメジャー1stシングル「Mary Lou」

すでにSSTVやラジオ等で耳にしている人も多いだろう。


一度聴いたらすぐに思い出せるキャッチーさもそうだが、

「ぼくだけのメリールー」と恋人をいとおしむその無邪気な愛そのままに

無垢でまっすぐにきらめくその美しさと、その美しさゆえの切なさがギュッと凝縮された一曲だと思う。

「夢のような甘い口づけを大人は知らない」と言ってのけるこの一心不乱さに、

聴くわたしたちまで、その愛を、いとおしまずに居られない。

愛がきらめいてせつなくて、それでも口ずさんで踊りたくなるこのメカニズムは、ロックンロール最高の喜びだろう。


c/wのコミック・ジェネレイションはライヴにて聴いたことがあるのみだが、

マリーズお得意の激しくて、なおかつポップで、人を煽るようなそんな一曲である。

わたしは、これを聴いたとき、イエローモンキーのことを思い出した記憶がある。



マリーズについてメジャーデビュー以降“変わった”という意見を聴くがわたしはそうは思わない。

たしかに昔のフラストレーションむきだし、世界をブチ壊そうとするパンクな彼らの姿は感じないかもしれない。

が、わたしには、それらも彼らの引き出しの一部でしかないのだろうとわたしは思うのみだ。


わたしが言いたいことは、彼らが変わった/変わらない それよりも、

メジャー以降にあふれるこのキャッチーさとポップぶりなのだ。なによりもそれをロックンロールというジャンルに属させたまま成立させている点だ。

ロックンロールに燃えるあの感じ、踊り出さずに居られない、胸が痛くてたまらないあの感覚を伴いながら、

だれの耳にも届き、だれの耳にもその魅惑を届けようとするポップスとしての匂いをわたしは感じるのである。

そしてその前例として、わたしはどうしても、イエローモンキーを思い出さずにはいられないのだ。

イエローモンキーがかつて、たとえばLove Communicationで、太陽が燃えている、で

彼らの音楽性にたがうことなく、ポピュラリティーを持たせながらもロックを鳴らしていたあの時代のことを、

わたしはいまのマリーズからは感じる。

「Smile」「Four Seasons」でポップ的な手法を身に付けたイエローモンキーが、その後の「SICKS」で日本ロック界における重要な名盤を残したように、マリーズもいままさに、その過程を歩んでいるのではないか、とわたしのような者は思ってしまうのだ。


この考えは、ただのファンの邪な憶測かもしれない。

しかし、そんなファンとしての視点を捨てても、なお、この「Mary Lou」にある、いとおしむべき切ないきらめきは、耳にする価値はたしかにあるとわたしは思う。

わたしはこの発売が待ち遠しくてたまらない。

あと2週間なんて待てる自信なんて、ない。



吉井和哉モバイルファンサイト限定ツアー「YOSHII ZENZAI」に参戦してきた。

初日ということもあり緊張と期待で臨んだのだが、さすが吉井和哉、1ミリだって観客を裏切らない最高のパフォーマンスをしてくれた。

全編に及ぶ感想を書いていくとどうにもキリがないので、一曲だけ話そうと思う。


※ネタバレを好まない人に関しては、読むのを控えることをお勧めします。



今回「ならず者アイムソーリー」をカヴァーしていた。

ヒーセが作曲、吉井和哉が作詞のあの“500円”の曲だ。


何度か耳にしたこの曲、そのときからその曲のよさを感じていたものの、

やはりライヴという状況で聴くこの曲はその重みがちがった。


ヒーセは元来ポップ性をすごく持っている作曲家だと思うのだが(それは彼のベースプレイからも感じることだ)、この曲に関してはセンチメンタリズムと抒情性が加わっている。

ゴリゴリ押していくポップさだけでなく、立ち返り振り返ることのせつなさを体現するようなメロディ、そして元来の彼のポップ性も控え目ながらもわたしたちを魅了してくれている。

そういった意味でもこの曲はヒーセの歴史の中でもすごく新しい曲だと思うのだ。


そんなヒーセの新しい魅力が溢れたこのせつないこの曲に、吉井和哉の詞が混ざり、もうどうしようもないほど美しい一曲が生まれている。

もはや理屈を抜きにして、胸を鷲掴みにされるようなせつなさが全身を凌駕して、苦しいとすら思う。

しかし、その苦しさはあまりに甘美な音の魅力に支えられているのだ。

だからわたしたちは、この苦しさ、このせつなさを、涙しながらもう一度と繰り返す。

ロックンロールに魅せられた者はいつだって苦しさを感じながらその喜びに涙しているのだ。

そういった意味でも、この曲は揺るぎようなく名曲だとおもう。


そしてそれは、イエローモンキーというバンドのことを抜きにしたって語れるものだと思う。そしてそうでなければ、これを音楽などと呼ぶことをわたしは絶対に許さない。

そう、この曲が、イエローモンキーの休止/解散という事態を介さなくても正しくわたしたちを震わせる名曲だからこそ、わたしは、この曲の奥深い切なさを訴えることができる。そしてそれは、あくまで音楽を批評するわたしという立場ではなく、もっと素直に、イエローモンキーのファンとしての、わたしの、目線だ。



 こころは今でも
 おまえの笑顔憶えて
 時々つまずく 
 どうしたんかねえ どうしたんかねえ
 日暮れのバスでも
 夜中の酒の席でも
 時々へこむんだ 
 どうしたんかねえ オレ変かねえ


この歌詞を読んで、この「おまえ」がイエローモンキーなんじゃないか、と思わないでいられるファンはきっと居ないだろう。

だが、ここにあるのは過去をいとおしみ、惹かれながらも、「今」に生きることを覚悟した者の悲しさと強さである。


 過去へ行ければそりゃいいね 
 死んだヤツにも逢えるだろう
 でもね残酷なのは 
 今だけが横たわる


過去をどんなに大事に思っても、今しかないのだと自覚する。

それをこんな風に解釈するのは、ほんとうは、間違いなのかもしれない。

でも、わたしはおもうのだ。

ああ、彼らはイエローモンキーという過去をこんなにも大事に思いいとおしみながらも、

「今」を生きようとしているのだ、と。

そしてイエローモンキーは「過去」なのだと。



だが音楽を批評する立場でもなんでもない、ただの一ファンとして思うことは、

ヒーセの曲で、吉井和哉の歌詞で、こんなに素晴らしい名曲が産み出せるのなら、と思わないでいられないのだ。


たしかにイエローモンキーは最後、路頭に迷っていた。生まれた時のイエローモンキーとはもう変わっていた。

でも「8」にしても、その葛藤すらもロックンロールとして、音楽として産み出せるのが吉井和哉の才能だったし、それを体現するのがイエローモンキーだったじゃないかと思う。

イエローモンキーは、たしかに、どうするべきか、どう行くべきか、どこへ行くべきか、迷っていた。

ファンの立場から言っても、それはたしかなことだったんじゃないかと思う。

それでも、ヒーセのこの「ならず者のアイムソーリー」のせつなさはたしかに新しくて、もしこれをいまイエローモンキーとして発表していたら、と思ってしまうのだ。

もっと変わってゆくイエローモンキーをみれたんじゃないか、と思ってしまうのだ。


だがしかし、ここにあるせつなさとは、イエローモンキーを「過去」として見るがゆえにうまれるせつなさなのだ。

だからこそわたしはファンとしてはどうしようもない胸の痛みに襲われる。

バンドという生命の不思議を想わされ悲しくなる。出来る出来ない、だけでの話しではない。

この曲の完成時はまだ“休止中”だった。

それでもこの曲が生まれるのは、きっとそういうことだったんだろう、と思う。



一音楽リスナーとしてはこの曲のせつなさにロックの悲しみと喜びを観て、その音楽としての美しさに全身を貫かれるように感動させられる。

一イエローモンキーファンとしては、このせつなさの裏にある悲しみに胸が激しく痛くなる。

そんな感動と痛みにこころはぐちゃぐちゃになりながらも、

この曲を聴いて、やはりわたしは、その音楽としての圧倒的な美しさに涙を流した。

くるおしいその感情に、わたしはまだイエローモンキーを卒業できない人間なんだなと思いながら、

それでもただただ美しく切ないこの曲を聴ける喜びをただただ感じていた。


アイムソーリーとせつなく唄いあげる吉井和哉を観ていて、ああ、このひとたちを憎めなんかしないと思った。



なにはともあれ、こんなファンの私情をはさまずとも名曲のこの曲を聴けたことは幸せ以外の何物でもない。

いつ聴いてもわたしたちを震わせるこのせつなさに、人としてわたしは突き動かされるだけだ。

10/1 HiGEサンシャインツアーに参戦してきた。

わたしとしてははじめての髭ライヴだったのだが、

もう本当に“楽しい”という言葉を体現する一夜だった。


ロックンロールというジャンルはネガティヴに起因することが多いと思う、し、

わたしはそういうものから生まれてきたロックをとてもあいしている。

でも、髭はそうではないと思う。

髭はいつでも、ネガティヴをひっくるめてすべてをポジティヴに、ハッピーに、しようとしている。

彼らはネガティヴを否定するようなちっちゃなことはしない。生きる中の悲しさを認めないわけではない。

そうではなく、悲しいこともキツいことも逃げ出したいこともある“生きる”ことを、

圧倒的にハッピーでポジティヴなものとして認めているのだ。

だからこそ彼らの音楽はあんなにも幸せであんなにもロックンロールなのだとおもう。

完璧なグルーヴ感に最高に気持ちいいギタープレイ、とかそういうことが彼らのロックなんかじゃない(もちろん彼らのサウンドが最高に素晴らしいことは誰もが認めることだが!)。

こんなにせつなくてそれでも嬉しい、気持ちよすぎてなんだか胸が痛い、なんて、彼らじゃなければ産み出せない音楽のマジックなのかもしれない、と思う。

淋しさと幸福が境目もわからないほどに溶け合って、でも味わえば味わうほどそれはすこやかにわたしたちを喜ばせ、この身体の一部になっていくような感覚になる。

それくらい彼らの音はわたしたちを幸福にしてくれる。

シニカルで悲観への視線だけでもなく、ただの能天気なポジティヴだけでもない、このボーダーレスな感覚の中で生まれるこの気持ちが、こんなにも“幸福”感であるということにわたしはなんだか救いだなあとすら思うのだ。


終始彼らの音に素直に笑顔がこぼれ、踊り出さずにはいられず、拳を突き上げ続けた。

そしてその感覚は決してわたしひとりのものじゃないような気がした。

あの空間のなかで、誰がいま「不幸」なんて言えるだろうか、とわたしは本気でおもったし、

それくらい、全員をひたすらにハッピーにしてくれたと思っている。


髭というバンドのこの稀有な魔法にかけられたことをわたしは幸せに思う。

きっと彼らを聴けば誰もがこの魔法にかかるんだろう。

そんな魔法使いが現代にいま6人も居るなんて、わたしたち、なんてハッピーな世代だろう。



This Is The One/Utada
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Utadaとしての2ndアルバム「This is the One」は、彼女の“Utada”としてのコンセプトがはっきり見える一枚だと思っている。

前作の“EXODUS”が宇宙的な広がりとも言えるエモーションを爆発させる強かで壮大な一枚だとすれば、

今作はわかりやすく、“誰もが手にとれる”一枚にしていると思う。

日本人としての自分の立ち位置を巧みに利用しながら(「Merry-Christmas Mr.Lawrence」を、海外というフィールドで、そしてさらにああいうアレンジで行っていいのは、日本人の彼女だからこそだと思う。)、洋楽というフィールドに素直に自分を持ってくるそのピントの切り替えの速さは天才の彼女こそだろう。

宇多田ヒカルは間違いなく天才だが、彼女が賢いと思うのは、自分の音楽性に俯瞰的な視線を持っていることだろう。

たとえば、彼女のケースとは少し違うが、ソロとバンドを使い分ける人は多く居る。が、その中の6割くらいは大抵ソロなんだかバンドなのかわからなくなるのが普通だ。そこの音楽性の差を見つけづらい。

だが彼女においては、はっきりとその音楽性に異なりを産み出しているし、それを出来る彼女であるからこそ、海外進出は実に正しい選択だと言えよう。

宇多田ヒカル、というアーティストとしてあれほど邦楽の深みを産み出した彼女が、

洋楽、というフィールドにおいてもその才能を軽やかに見せてくれる姿は実に頼もしい。

本当に音楽という才能に、溺れず、流されず、うまく操縦してゆくその姿に私は畏敬の念すら覚える。


そしてこの「This is the One」は邦楽シーンにおいての彼女には見いだせない、

大胆な一面も覗かせる歌詞も印象的だ。(それは前作においても多少言えることであったが)

おそらく彼女はそういったことをあえて宇多田ヒカルのフィールドでは封じてきたのだろうし、

ライトに楽しみながら(ときに火遊びもしながら)、恋をする彼女の姿は20代の彼女そのままなんだろうと思う。

突っ込んだ見方をすれば、今作「This is the One」ではダンスミュージックとしての機能を意識していると思う。とにかく踊れて良質なポップスを提供するという自覚をわたしはひしひしと感じる。一曲目「On And On」は特にそういう一曲だと思うし、激しいダンスミュージックではないが、人の心をくすぐるくらいには心地よく、BGMとしても適していることまで計算つくされた曲ではないだろうか。


つまり彼女は今作「This is the One」ではダンスミュージック、ひいてはポップスの実にライトな部分を音の世界で表現し、その詞世界で20代の女性としての素直な感覚を綴っているのだと思う。

もちろんそこは彼女の世界観があるがゆえ、その詞世界の味わいも深いし、「Apple and Cinnamon」のせつなさをライトなどと表現出来る筈がない。

聴いて心地よく、読んで味わい深いという、その適度さのバランスには本当に脱帽である。


宇多田ヒカル、というアーティストが負っているものは実にへヴィだし、彼女が表現していることもへヴィだ。

彼女が宇多田ヒカルとして行っていることは、生きることへの壮絶な自覚である。

悲しみを知り尽くした十代から、それを飲み込み戦い続けことを自覚した彼女の戦いの記録が宇多田ヒカルである。

だからこそ、彼女のシングルコレクション1で、彼女が「思春期」とその歌詞カードに記していることが私にとっては印象的で仕方がない。

また彼女の最新アルバム「HEART STATION」はあんなに温かで優しい曲がそろっていながらも、描かれていることは、生きるということ、人生ということへの目線がひたすらに綴られている。そしてその温かさ、優しさは、彼女が悲しみを知り尽くし飲み込み、受け入れてきたがゆえに生まれる強さとしてのそれなのである。



なにはともあれ、この良質なポップスを享受できる私たちを実に幸福だと言いたい。

よく彼女のこの“Utada”としての活動をセールス的にどうだと言う人々がいるが、実にナンセンスだ。

彼女はセールスなんか見ていないだろうし、彼女がしていることは、その才能を潤滑に機能させるための行動でしかない。

そしてその才能の恩恵をこうして踊り、唄い、励まされながら楽しめるのだから、彼女は表現者としても、商業的に活動する音楽家として実に正しいと思う。



FROM ME TO YOU/YUI
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YUIの1stアルバム「From Me To You」は彼女の本質がむき出しになった一枚だと思うし、彼女のその本質的な部分がデビュー以後からまったくブレずに、倦まず、変わらないことをこのアルバムを聴くたびに思う。

このアルバムにある彼女の清新な強さと悲しみと戦いこそがYUIという本質なのである。


1曲目の「Merry-Go-Round」はまさに彼女の本質的な悲しみを描いている曲であり、

自分の感情を持て余し逼迫した不安と、誰かへの期待と裏切りと、それを呼び起こす自分の素直さと矛盾が交錯する一曲である。

「優しさにゆだねることができない」という彼女の本音は「追いかけてほしかったのに」という切ない願いなのである。追いかけてほしいのに優しさにゆだねることができない、その矛盾とも彼女はおそらく戦っているだろうし、追いかけてほしかった、と素直に思うその切なさとも彼女は戦っている。

優しさに、ゆだねてしまえばいいのに、出来ない、矛盾。

追いかけてほしいのに、歩いていってしまう、矛盾。

ただ自分が自分として生きるということ、自分の感情や心に素直に従うということ、そのもののままならさを彼女は逼迫して意識しているのである。


だからこそ、この歌のサビでわたしたちは彼女の本質を観るのである。

彼女は切々と「涙のMerry-Go-Round」と唄いあげる。

そうだ、生きることの痛みや悲しみが、巡り巡る。終わりがなく巡る。それこそが生きることであり、彼女の戦いなのだ。

だがその姿にはあるのはきらめいた美しさなのである。

それは悲しいくらいうつくしく輝く。

終わりがないという悲しみ、美しいという悲しみ、それでも人を魅せるという不思議。

彼女は見事にそれを体現しているし、こんなにも彼女が痛みと悲しみに惑い戦っている、その歌の“美しさ”にわたしたちですら魅せられずに居られないのだ。

そして、こんなに悲しい曲を唄わずに、産み出さずにいられないYUIという彼女の、生きることへの戦い、という業の深さをわたしは感じるのである。

凄まじい、のは彼女の才能でも、その素直に美しいメロディセンスなどでもない。

これだけの戦いを覚悟する気概と、それだけの痛みを音楽として体現できうるところ(音楽的な美しさを圧倒的に残しておいて!)に彼女の凄まじさがあるのである。


こんな凄まじく悲しく美しい曲を、1stアルバムの1曲目に持っていく、その彼女のセンスに音楽家としての正しさをも感じる。

それでも、名曲「LIFE」で「簡単にいかないから生きてゆける」と軽やかに、温かく唄う彼女の姿にわたしは涙を流さずにはいられない。戦いをやめない彼女だからこそが言える言葉であり、彼女でなければこの言葉の重みを知りながら、こんなに爽やかに表現はできないだろう。


全曲を通して、彼女が生きることに戦い続けていることが実によく証明されていると思う。

随所に輝く惜しみないメロディセンスも素晴らしく、“音楽”としても充分に楽しめる1枚だろう。

それでも、1曲目が「Merry-Go-Round」というのも凄まじいセンスであるが、最後が「Spiral&Escape」ということも忘れてはならない。アコギが悲しく鳴り響く、その悲しみが美しすぎて鳥肌が止まらない。最後まで彼女はぬかりなく戦っている。

1stアルバムにしてこのレベル、この業の深さ、わたしはYUIという人物が恐ろしいとすら思う。彼女をスレていない清純なアイドルだと捉えている人がいるのならば不幸であるし、その認識不足の審美眼を正したほうがいいと言ってしまいたい。こんなにも凄まじい才能を乗せた勇者は、巡り続け、終わることのない悲しみの戦いに、永遠に挑むことをすでに決意しているのだから。

RockDaze!の感想、引き続いて後半。



■ PONTIACS

昨日も申した通り、浅井健一・照井利幸・有松益男によるバンド。

ブランキーへの思い入れがありすぎるために涙を止められなかった。

あまりの格好よさに最初は思わず動けなくなったほどだ。

全編PONTIACSによる曲、時に踊らせ、時に息をのませ、言葉少ないながらも完全に会場をPONTIACSの世界として飲み込んでいた。

完璧に格好良いその姿に、思いがけず言葉を忘れた。

誰がなんと言おうとあれこそが格好いいのだとすら思った。

わたしはまだ衝撃を忘れられず、歓びで胸が痛い。



■ 小林太郎

わたしが彼に対して、勝手に、閉じた“ひきこもった”感じのアーティストなんだろうと想像してしまっていたのだが、そんなイメージを覆すような人物だった。

プレイ自体は、これでもか!というほど熱いし爆音をかき鳴らしていた。

熱いし、意気込みも感じるし、この世界で活躍したい!という思いも尋常ないくらいに感じた。その思いはすべて彼のプレイの爆音ぶりや熱さに感じるのだが、まだ、“世界観”が足りないんじゃないだろうか?という印象も見受けられた。

彼のMCを聴く限り、なるほど、Mステーションに出たことやワンマンツアーを喜ぶ一面があった。

たしかにそれを喜ぶことはアーティストとして正しいし、むしろそれを喜べないような奴は駄目だとすら思うが、

まだそこを喜んでいてはいけないんじゃないか?と思った。

plentyやandropに言ったことと真逆ではあるが、熱さだけでもいけないのが音楽のむずかしさである。

個人的にはもう少し世界観を成熟させてもいい気もする。

熱いだけでは、湯気のように消えてしまう。彼には、残したいものがあるのだろうから、まだ、残せるようなものを造っていってほしい。素質も熱さもある。まだ、若いのだから、これから成長させていってほしい。



■NICO touch the Walls

もう本当に申し訳ない話だが、彼らの間にわたしは眠ってしまっていたのだ・・・。

なんたる音楽への怠惰!彼らにも、彼らのファンにも大変申し訳ないだが、気付けばラスト1曲だったのである。

ラスト1曲の印象だけ言えば、爆音で、客への煽りも充分だったように思う。

個人的には彼らに引っ掛かるところが何もなく、文句もない。そしてそういったものすらないために、こうしたことになったのかもしれない。

実に申し訳ない話だが。

もし次に聴く機会があればきちんと聴いてみようと思う。



■ ザ・クロマニヨンズ

ヒロトとマーシーはもういつになっても格好よく、温かいのだなあと実感させられた。

音を聴けば自然に笑顔になり、踊りだす。腕を突き上げずには居られないし、身体が自然に彼らに反応する。

ヒロトのMCは言葉少なで決して饒舌ではないけれど、それでも一言一言が温かく、重い。

彼らの音を生で感じられる歓びを感じつつ、彼らの抜群の格好よさに、あらためて彼らの素敵さを身にしみて感じた。



■ サカナクション

さすがに今や大人気のサカナクション、会場ではどこもかしこも客が踊っていた。

これだけの人を踊らせる実力というのはたしかに感じるし、おそらく本物なんだろうとは思う。

わたしは彼らを嫌っているわけでも、その才能を認めていないわけでもないが、個人的な嗜好にはすぐわないのだろう。

わたしのツボにはあと一歩足りないのだろう、と思うだけだが、わたしの感覚がすべてではない。音を批評するものとして、彼らがあれだけの人を踊らせるその理由を、また、考えて行きたい。



■ エレファントカシマシ

ああ、エレファントカシマシ! 日本で一番男らしく熱いまさに日本男児のバンド!

今宵の月のように 、 so many people 、 悲しみの果てに と立て続けにやられて

もはや理由なんていらないくらいに泣けた。これで泣かないわけがない!と強く思った。

一曲やるごとに、エレカシの熱さが優しくわたしたちに問いかける。奮いたたせる。

こんなにも熱いバンドなのに、こんなにも優しいのか、と思った。

宮本浩次が叫ぶたびに血は熱く滾り、その声で温かく歌いかけるたびに目が潤まないでいられなかった。

こんな時代だからこそ、エレファントカシマシが居ることが本当に救いだと思う。

辛い時代を生き抜く熱さをエレカシは唄う。それは音楽というフィールドの前線でがむしゃらに向き合い戦い続けたエレカシだからこそ鳴らせるものだ。その熱さも優しさも、戦い続けたからこそそ説得力を持つのだろう。

最高に男らしい彼らの熱さと優しさに、身体も心も熱くなり、涙は止められなかった。

本当に、彼らを聴けてしあわせだった。




全体的にショートな感想であるし、主観によるものが多くて大変申し訳ないのだが、

今回このRockDaze!に参戦できて実に幸せだった。

PONTIACSという奇跡の再会、エレカシの最高の熱さだけでも十分に収穫はあった。


浅井健一は会場を後にするときに、「また会う時まで全員元気でな、バイバイ」と言って立ち去った。

これでわたしはまだ死ねない。生きてゆく魔法をかけられたのだと思った。

最高のミュージシャンに与えられたこの幸福を糧に、わたしはまだ生きてゆくのである。





昨日にも書いたことだが、RockDaze!というイベントに参加してきた。

これだけ多くのバンドを観る機会はめったにないため、一挙にして感想を述べて行きたい。

まずは前半から。


■Base Ball Bear

BBBに関しては数曲程度しか知らないのだが、そのすべてに共通するのが爽やかな印象だった。

フェスということもあり、その印象を裏切らない爽やかでかつ健全な熱さで以って人々を楽しませてくれていた。

曲の運び方もうまく、オープニングアクトとしても会場の温度をうまく上げてくれたと思うし、

そういった手腕というものを単純に素晴らしいと思う。

だが、何よりも、ラスト1曲に見せた一曲が最高に素晴らしかった!

爽やかというよりは、むしろ危なげで荒ぶっていた。

ギターが何度も何度も唸り、転調し、リフをいくらでも重ねていくその狂いっぷり、危なさに私は興奮せずにはいられなかった。

爽やかな印象を覆される幸福に1組目から喜びの唸り声を上げさせてもらった!



■ plenty

噂はかねがねのplenty。曲を予習してこなかったものの、聴いてみるとなるほど、噂通りと言った印象ではあった。

ヴォーカルの声はたしかに印象的であるし、MUSICAの宇野氏が彼の声を“怖い”と評したのも頷ける部分はある。

サウンド的にも抜群にうまいと思うし、曲たちの持つ、“閉じた感覚”に惹かれるリスナーが居るのは事実だろう。

ただ“うまい”ということと、そこの“閉じた感覚”を理解できたとして、音に突き動かされ燃えたい、と思う私としては、もう一歩踏み込んでほしいとも思った。

テクニックや世界観に問題はない、ないが、まだ私は彼らに救いも歓びも見いだせないのが正直なところである。



■ androp

幾何学的なロゴマークが雑誌等で印象的で謎めいているが、本人たちを見ると4ピースのごく普通のバンドであった。

こちらもplenty同様テクニカルな腕を感じるものの、そこで止まっている感じもする。

本人たちの志向や意気込みは感じるし、音楽への一生懸命さも感じた。だが、個人的にはもっと熱を表現できるバンドになってくれたら、と個人的な嗜好によって思った。

うまいバンドは実に多いのだが、熱くさせてくれるバンドが少ない時代だと思う。わたしにはそれが残念だ。



■ OLDE WORLDE

名前を見るのすら初であったが、ピアノの印象が強く全員がパワフルな爆音を鳴らしてくれていた。

だが彼はギターとしてのソロであるのだから、それは彼としてはいかがなものだろう?

音してはハッピーな要素が多く、そこにロック的なダイナニズムが爆音により再現されていたが、

むしろ彼は彼の音のハッピーな部分を描くべきなのかもしれない、と思った。

ジャンルに特化することがすべてとは思わないが、彼の作るものとして、明るくハッピーなもののほうが、自然に受け止められたように思う。

私は彼についてあまりにも無知なので多くのことは言えないが、そういった印象を持った。



■ andymori

それまでは座ってゆっくり観させてもらったが、ここでスタンディングゾーンに攻めさせてもらった。

魅惑のセットリスト、主要なアガる曲はすべてやってくれたし、ファンファーレと熱狂 という大事な曲もやってくれた。

CITY LIGHTSを生で聴けたことが、個人的には大変嬉しく楽しく幸せだった。

彼らの音は踊るというよりも心臓があがる感じがする。メロディックで美しくて、そして油断を許さないくらいに密度を突き詰めていく。その過程がおそらくわたしたちに快楽をもたらすのだろう。

こうして考えると音源とLIVEでのアガり方が実に一致しているように思える。



■ THE PREDATORS

予習が間に合わないままだったが、不安はなく、ゴリゴリのロックンロールをやってくれて期待をひとつだって裏切らない。

さわおのギターの魅力を感じながら、JIROのベースプレイヤーとしての安心感も覚えた。

もはやなんの不安もなく、音に喜び、自然に踊りだせる。実力あってこそのものである。

ニルヴァーナのカヴァーまで聴けて実に贅沢だと思った。