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Hello,again~昔からある場所~
の胸を突く切なさは、このアレンジで、
そしてJUJUに唄われることで正解だった と 思う。
賛否両論なのは十分わかっているけれど、わたしは、そう 思う。
AKKOの舌足らずでどこか粗雑な唄いかた(それが彼女の場合、良い)から、逆にせつなさが浮かび上がってくる原曲とは対照的に
曲そのものが持っているそうしたせつなさをJUJUという唄い手がそのまま丁寧に抽出させ芳醇に味わせてくれることが素晴らしい。
ああ、そうだった!あたしはこの曲でこんな風に思い切り胸を痛く切なくさせて欲しかったんだ!と
快感のスウィッチを見事に押されたと思った。
けれども。
抜群の歌唱力のJUJUではあるけれど
全体として何故かカヴァーよりも「コピー」「カラオケ」の匂いが消せないのはどうしてなんだろう?と疑問だった
はじめは正直「これはいいカヴァーアルバムとは言えない」と思ったが
なぜJUJUの歌唱力を以ってして?ととにかく疑問だった
期待があったからこそ、この違和感の答えを知りたかった。
それはHello againにも通じることなのだけれど
唄われている曲の「成分」をJUJU好みに抽出しているから、なのだろう。
たとえば大幅なアレンジの「ギブス」は
椎名林檎原曲の切実感の鋭さから、
むしろ切ない女のコの可愛いらしいラブソングへとテイストを変え、
当時小中の幼い女の子が唄うからこそ
夢みたいにキラめいた非現実的なポップさを実現していたSPEEDの「WHITE LOVE」は
むしろ愛する人を想う優しく胸をせつなくさせるミドルテンポバラードへになっているのである。
つまりJUJUは楽曲の持つ「テイスト」であったり「スパイス」の一部を彼女好みの味わいのものへとしてしまっていて、
もっとキツい言い方をすれば、それ以外の要素は取り除かれてしまっているんだとおもう。
基本的にカヴァーに関しては原曲至上主義の私ではあるが、
彼女のこのやり方にはむしろ新しい発見というか、
楽曲の持つ可能性の活かし方にはもしかしたら音楽の新しい可能性があるのではないか?とも思った
それは私においては「Hello,again~」で結実された「せつなさ」の抽出という要素なのだと思うし、
たしかにわたしはそれを求めていた、JUJUがそれをやってくれてよかった、とおもう。
だがしかしこれをカヴァーと言っていいのかどうのか、、
たしかに何かを捨て去ってしまっているのも事実で
自分とおりの味付けを行いたいのならばむしろ自分の楽曲でやるべきがアーティストなのではないかとも疑問である。
そして彼女が行っていることは、あくまで彼女好みのやり方をプロとして提示してしまっているのであり、
そこに置いていかれるのは原曲なのも事実だろう。
このやり方を悪いとは言わないし、たしかに可能性も感じる、良さもあると思うのだが
あくまでピンポイントのテイストの提示であり、
これにカヴァーという言葉を冠してしまうことには些かの抵抗感をわたしなどは感じてしまうのである。
カヴァーの命題とは、その唄を愛していること、その唄の味わいや骨格を決して壊さないことだ。
曲のもつ本質を見失わずに表現していれば、それがたとえミドルテンポの曲をロックにアレンジしたとして「カヴァー」だと言っていいだろう。楽曲の世界を壊さない、という言葉とはそういうことだとわたしは思っている。
だが彼女が行ったことは、そうした曲の持つ性格の整形みたいなものなのである。
だからこそ「カヴァー」の言葉には引っかかりを持ってしまう。
はじめは本当に「Hello againはよかったよ」で済ませてしまおうかと思ったが、むしろ非常に考えさせられるアルバムであった。
これはJUJUへの批判というより、むしろ音楽のあり方そのものを問われるような問題であったように思う。
これだけ誰でも曲を唄える時代において、「本質」を問う作業の必要性がまさしく淘汰されつつあるようにも思えた、変革のような警鐘のような複雑な出来事となってしまった。
だがしかし、こんな複雑なことを考える必要もなく、
単純にJUJUの唄声が聴きたければ彼女のヴォーカリストとしての実力から見事にそれに応えてくれるし、
彼女世代の人にとってはまさにツボのラインナップはコンピレーションのようで楽しめるだろう。
悪いアルバムではない、だがしかし非常に大きな意味を持つ出会いとなった。
だが繰り返し言うようだが、わたしにとって彼女の「Hello,again」はまぎれもない正解のそれ、他ならなかった。
だからこそいまこんな複雑な思いにかられていることをわかってもらえたら、なんてことを言い訳がましくも書き添えて今日の記事は〆たい。