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andymoriの2ndアルバム「ファンファーレと熱狂」を聴いた。
彼らの名前は知っていた、だが、詳しい情報はひとつも知らなかったのが正直なところだ。
はじめて彼らの音を聴いたとき、ああ、とは思った。
小山田壮平の高い美声が美しいと思った、し、細かいプレイもうまいなあと思った。
でもそれは ああきれいだなと思って次の瞬間には通り過ぎてしまう程度だったのだ。
だからこそ、このブログに何かを書こうとも思わなかったし、ああ、とさらりと思うレベルでしか彼らのことを考えなかったのが、わたしの事実だ。
だが不思議な現象は起きる。
わたしはふとしたときに、ああandymoriを聴こうと思う頻度が少しずつ増えてきた。
それは夜と昼と問わず、また心の悲しみもまた落ち着きも問わず、ふとしたときに訪れる気持ちだった。
心が乱れたときには彼らの音の距離感の押しつけがましくないところに平静を意識させられたし、
苦しいときには彼らの美しい声やサウンドによって息つぎをやっと思い出せるような感覚があった。
そんなことを重ねるうちに彼らの音の沁み入り方が少しずつ変わってくる。
わたしははじめに出会った時の自分の感受性の低さを嘆いている。
彼らの音は、いわゆる“熱い”ものとは違うと思う。
熱く心臓が燃えるような劇的な瞬間を彼らは描いているわけではないからだ。
彼らが描いていることは、日常の延長線上の世界だ。
それはもう、“5限が終わるのを待ってた”ような時間であったり、“人身事故”が起きるような世界だ。
小山田壮平の歌詞は不思議なニュアンスを持っているが、わたしが彼の言葉から感じるのは、こういった類の日常性である。
彼の歌詞に文学性という概念を出したくなる人々が居るのも判らないでもない。
なぜなら、文学というのは日常・(わたしたちが生きている)世界を自ら構築しながら、そして近づきながら、同時にそこに自らの中の思想や意識を刷り込ませていく作業だからだ。そこに描かれている世界は虚構でありながら(事実ではなく作者に造り出されたものだから当たり前だが)、自分自身と共鳴することが多い。
疑いようなく虚構でありながら、疑いようなく自分自身の世界のようなリアリズムを感じる、というのが文学ではないかとわたしは思うのだが、わたしはその概念はまさに小山田壮平の歌詞に近いものを感じる。
彼の歌詞には不思議で、もっと言えば虚構に近い。だが、彼の言葉から感じるものは疑いようない日常的な感情や深い思いだったりする。
そう、彼の言葉が文学的で同時にリアルな感情を含んでいる。
そんな中に彼らの美しいサウンドに乗るときに、わたしはグッと胸が掴まれるような気がする。
そしてそれは音楽のもっとも美しい瞬間だ。美しすぎて胸が痛いなんて、幸福すぎるんじゃないかと思う。
andymoriの音はわたしたちの世界にとても近い場所に居る。
だが彼らの世界はわたしたちの心の奥の奥の感覚にある感情のそれだ。
深いところからそっと彼らの言葉はやってきて、わたし自身の深い場所へとボールを投げかけてくる。
まるで彼らはわたしの隣にいるかのような気もするし、わたし自身知らない感覚を教えにやってきているような気もする。
まるで私自身のようであり、とんでもない他人のような気もする。
こういう不思議な感覚は久しぶりだと思うし、音楽でこういう体験をできるというのは個人的にも珍しいと思う。
だいぶ話がそれてしまったが、彼らは決して熱い音楽を演っているわけではないだろう。
だがわたしは彼らの音を聴いて、うつくしくて、グッと胸が痛くなる。目頭が熱くなる。
自分自身も強く燃えることで、聴く者を燃やしてくれるロックを知っている。たとえばエレファントカシマシなんかは顕著な例だと思う。宮本浩次の熱さは日本の炎なんじゃなかと思うほどだ。
だがandymoriはそういうロックをやっているわけではない。
彼らは決して火を灯さない。火を灯そうとしているわけではなく、彼らはただ彼らの世界を美しく構築していく。
そして、そこにある世界に、聴く者の心が不思議にも火が灯ってしまうのだ。
ほんとうに不思議なことだと思う、が、これを確信犯的に彼らはやっているのだと思う。作家というのはそういうものだからだ。
今は彼らの鳴らす音がライヴという空間においてどう響くのかが私の興味を占めている。
わたしの耳において、彼らは私の胸を痛いくらい響いてくる。それがライヴという現象でどう変わるのかが知りたい。
めいっぱいの期待をもって、いまは彼らのライヴを経験したいと思っている。
