シャングリラ以降のチャットモンチーに関して、正直私はそれまでの「chatmonchy has come」「耳鳴り」で彼女たちが打ち出してきた音楽性との若干の異なりを感じていた。
それまでの彼女たちが直球でロックならば、シャングリラ以降からはよりポップ性を打ち出してきたかのように思えた。
そしてもっと言うならば、彼女たちの“ロック”を評価していた私にとって、
チャットモンチーのその変化は、少し物足りない という感想も与えてしまっていたのも事実である。
(もちろん、彼女たちが発表してきた曲たちが素晴らしかったということは、事実である。おそらくこのレベルの楽曲を生みだすのは“普通の”歌手たちには不可能だと思う)
そんな気持ちで彼女たちの音楽をきいてきたのだが、やはりチャットモンチーは本物のロックバンドだった。
そして彼女たちは、そのポテンシャルをより一層鋭利さを滾らせて私たちにぶつけてきた。
それがこの「世界が終わる夜に」である。
へヴィなイントロからはじまるこの楽曲にある、“世界”への途方もない“あきらめ”は、胸を深くえぐるかのように私たちを突き刺してしまう。
「私が神様だったら
こんな世界は作らなかった
愛という名のお守りは
結局からっぽだったんだ」
世界の誕生すらも望むこともなく、世界中で叫ばれている “愛”までも、「からっぽだった」と言いのけてしまったのだ。
しかしながら、ここにあるものは「あきらめ」であり、決して希望ではないのだ。
この歌詞の中では、決してこの「世界」を壊そうとしたりはしないのだ。
虚しくすぎる時を拒否もせず、ただ受け流しているのである。
それは完全なる『あきらめ』だと思う。
破壊しようと動くこともなく、拒否しようとすることもなく、何の行動も示さない というその姿勢は、“世界”を何よりも鋭利な視点でみつめていると思う。
この楽曲にあるのはそんな諦めであり、それを鋭利にしてしまうことで、この楽曲がもつへヴィさはますます深まっていくのだ。
そしてなによりも、そんな鋭利さが、彼女たちのメロディ,サウンドにのった瞬間に、
心臓をつかむかのように美しく、うるわしく変化してしまうのである。
それはあまりにも甘美で、再び味わいたいと思わせてしまうのだ。
わたしは、そんな美しさこそがロックなんだと思う。
彼女たちは、かつて自分たちがもっていたその才能に、さらに深みをもたせてしまった。
あまりにも鋭利に、そしてあまりにも甘美に、わたしの耳を支配してやまないのである。
チャットモンチーの才能はまさに、未来の音楽シーンを担うものだと、彼女たちを初めて聴いたときに確信した。
しかし彼女たちは、そんな私の確信以上のエネルギーで進化し、変化していっているのである。
10月には、待望の2ndアルバム「生命力」を発売する彼女たちだが、そこにはどんな変化・進化があり、
そしてロックバンドとしての彼女たちの“今”が心から楽しみで仕方がない。
途方もなく鋭利で美しいロックに、私は離れられそうにない。