ストレイテナーの新曲「SIX DAY WONDER」を聴いた。

かねてより、ストレイテナーはメロがきわめてうつくしいバンドであるとわたしは感じていた。

激情に身を任すようなプレイを彼らはしない。

それは、彼らの音楽家としてのメロ・唄に対しての自信の表れなのだろうと私は推測していたのだが、その自信の表れがあまりにも決定的に打ち出されているのがこの新曲だと思う。

ピアノソロから始まるこの唄は、清冽としたうつくしさを始まりから終わりまで貫いている。

その、うつくしくやわらかな世界観は、ぶれることのない軸にのり、まっすぐに進んでいくように感じた。

そして、そのうつくしさが、やわらかくせつなさにのる瞬間が、この唄のサビなのだと思うし、

だからこそこの唄のサビの美しさには、心臓の奥をギュッとつかまれるような、同時にそっと撫でられるような、くるおしい気持ちが含まれているのである。

こういう美しい世界観、というのは誰にでも作れるものではないし、それをつくりあげてしまえる力こそが、ストレイテナーの実力であり、ホリエアツシという音楽家のスキルなのだと思う。

この唄のサビには、私にとっての、うつくしいアートに触れてしまったときの衝動的な涙さえも浮かべさせてしまう。

そこにはすでに、理屈や論理を跳ね除けてしまう、圧倒的な「唄」の存在の大きさがあるのだと私は思う。

そして同時に思わせるのが、ストレイテナーの、「音」に関する圧倒的な信頼である。

先ほどもいったが、ストレイテナーは決して激情に身を任すようなプレイをしない。

ギターが激しく唸るわけでも、ドラムがバキバキと鳴るわけでもなく、静・動で言えば<静>のプレイをしていると思う。

わたしはそれを、単純な彼らの意向なのだと思っていたのだが、この「SIX DAY WONDER」を聴いて、そんな浅はかな推測は思い切り打ち砕かれてしまった。

これは彼らの単純な意向なんかではないのだ。

ストレイテナーは、音楽が持つ、そのものの力、つまりは音楽的なエネルギーを圧倒的に信頼しているからこそ、それを静の力によって表現しようとしているのである。

たった一音であっても、その一音に含まれている、人を動かす力を、ストレイテナーは理解しているのである。

そして、彼らはその力を信頼している。

だからこそ、彼らのサウンドプレイはきわめてうつくしく、静の動きをしているのだ。

それは、音に関する圧倒的な自信、また同時に、ホリエアツシが生み出している音、そして音の流れへの圧倒的な自信と信頼なのである。

しかしながら、c/wに収録されているライヴプレイを聴くと、

こちらはもう、思い切り<動>による力で、観客を、会場を、思い切りうねらせている。

サウンドは極めてアグレッシヴであるし、これが同じバンドなんだろうか?と思わせてしまうくらいに両極端の音の響かせをしている。

なんてうるわしいことなのだろうと思う。

こういうことを出来るのは、本当に限られた人間だ。静の力と動の力を、携えられることができる者は、そうそういるものではない。

だからこそ、私にとって彼らはうるわしく思えるのだ。

きっと、聴くものの心臓を決して離さない一曲だと思う。

なぜならば、音楽の力とはそういうものだからだ。

そして、それを知っているストレイテナーだからこそ、それを駆使することができるのだろう。

うつくしくうるわしい、そんな一曲だと思う。

椎名林檎ソロ復活第一作、映画「さくらん」のテーマソングとしても使用されている「カリソメ乙女」

今作は、日本屈指のジャズバンド、SOIL "PIMP" SESSIONSとのコラボレート作品でもあり、皆さんの注目度もまた高かったと思われる。

この「カリソメ乙女」、椎名林檎、よくぞやった!と言ってしまいたいほどに、またもやハイクオリティのうつくしい世界観が艶やかに大胆に炸裂している。

そしてその、艶やかさと大胆さの炸裂、という構図までもが、「さくらん」の世界観の根底の部分にも通じている、というところまでもが、おそらく椎名林檎の計算であるということが、彼女の音楽家としのスキルの高さを改めて証明している。


とにかくこの「カリソメ乙女」、わたし個人の感覚としては、痛快で美しい一作である。

SOILのプレイと椎名林檎の音楽の互いの高め方、があまりにも美しいのだ。

コラボレート作品は、よっぽどのことがない限り、成功しないものだ。どちらかがどちらかを制してしまうことが殆どである。

しかし、SOILと椎名林檎のコラボレートは、互いを制しもしなければ、自分を抑えることもない。

完璧、というほどにひとつの音楽を創りあげてしまっているのだ。

SOILの華やかなプレイに、椎名林檎の唄声は強く響きあがっているのである。

そのふたつが重なったときの、奇跡的なまでの美しさは、なかなか出会えるものではないとわたしは思う。


椎名林檎の音楽家としての才能は常に凄まじいが、同時に、彼女の作る歌詞の凄まじさもまた、類を見ない。

<女>という性を抱えて生き、同時にその性の重さに足掻いてきた彼女の生みだす言葉の重さは、<女>という性の重さにも通じていると私は感じている。

「カリソメ乙女」というタイトルからすでに顕著だが、この作品では女心が絶妙に描かれているのである。

特に私が大きな感銘を受けたのは、この部分だ。


「帰らないで頂戴

淋しいじゃないの

待って一寸待って

本性でありんす

ねえ利き男、 冗談よ

左様なら」


帰らないで頂戴、と爆発するかのように唄った瞬間の痛快さと感動はあまりにも大きかった。

そして、その帰らないで頂戴、という叫びまでをもさらに「本性でありんす」と言うその姿勢までもが私にとっては強い感動の要因であったのだ。

帰らないで頂戴と嘆く姿も、淋しいじゃないの とまるで責めるかのような姿、待ってと縋る姿も、「本性」なのだと、椎名林檎は絶対的に肯定したのである。

そしてそんな姿を「本性」だと明かすことで、そんな「本性」までをも、彼女は許しているのである。

嘆いても責めても縋っても、「本性」なのだからよいのだ、と私には唄っているように思えたのだ。

その肯定と表明こそが、私にとって、またすべての<女>にとって、あまりにもいとおしく強い言葉であり、たまらなく痛快であったのだ。

<女>という<本性>までをも圧倒的に許す椎名林檎の存在は、ある種の救いのようにも思えた。

だからこそ、うつくしくていとおしいのである。




女の姿を描いた痛快な今作は、椎名林檎復活の幕開けとして、あまりにも素晴らしいものだったと思う。

今後の「椎名林檎」の活動もまた、楽しみで仕方がない。



BUMP OF CHICKENの1年ぶりの新曲「涙のふるさと」をはじめて聴いたとき、このいとおしさに、はっきりと途方にくれた。

どうしようもなくうつくしい一曲を、また彼らは創りあげてしまった。

BUMP OF CHICKENは本当に奇跡のようなバンドだが、彼らの一曲一曲もまた、奇跡の結晶のようで 実にうるわしい。

そんなうるわしさ、うつくしさ、をまたもや彼らは私達にみせつけてしまう。

だからこそ、そのことへのいとおしさに、私は、途方にくれてしまったのだ。


イントロの「探さなきゃね 君の涙のふるさと」という言葉から、どうしようもなく私にとって美しくて、くるおしいのだが、

なによりも素晴らしいのは、サビの部分だと思う。


「会いに来たよ 会いに来たよ 君に会いに来たんだよ

僕の心の内側から 外側の世界まで

僕を知って欲しくて 来たんだよ」



叫ぶみたいに、それでも優しく諭すかのように、藤原基央は唄ってしまう。

わたしは、このサビが流れるたびに、胸を思い切りつかまれてしまうのだ。BUMP OF CHICKENの創りあげる、あまりにもうつくしいセンチメンタリズムに、思い切り心臓をつかまれてしまう。

このセンチメンタリズムは、本当にどうしようもなくせつなくて苦しい、けれども、あんまりにも強くて温かいのだ。

バンプは、私達に、共感性で以ってメッセージを伝えてくる。

私達は、彼らが言っていることがあんまりにも伝わってしまう。

「君に会いに来たよ」というそれまでの道のりがあまりにも、痛い、寒々しく苦しいものだと、私達は知っているのだ。

それでも、バンプは唄えてしまう。

それまでの痛みも全てなかったことかのように、「君に会いに来たよ」という、たしかな気持ちだけを、懸命に伝いきってしまえるのだ。

そのことのうるわしさを、わたしはどう形容していいのか既にわからない。

「君に会いに来たよ」と、その思いだけをあまりにていねいに伝えてしまう、ということは、

あまりにも強くて温かいもののように思える。

弱くて拙い私達、と同じような気持ちを抱えている、BUMP OF CHICKEN が

こんな風に、強くたしかに唄えてしまうことに、

本当に大きな、そして本当に美しい 希望 を 感じるのである。

だからこそ、私はこのサビが流れるたびに、心臓をつかまれてしまうのだ。



BUMP OF CHCIKENのたしかなメッセージは、あんまりにも強くてうるわしい。

彼らの才能の凄まじさに感嘆すると共に、

この世界にこんなメッセージを紡げる人物がいる、事実にもまた、希望を私は感じるのである。



チャットモンチーの「シャングリラ」を今日改めて全曲聴いてみたのだが、改めて彼女たちの才能の凄まじさに思わず震えてしまった。

この作品そのもののハイクオリティさと、これを創りあげてしまうチャットモンチーの天才的な部分には、恐れをなさずにはいられない。

かつて私は、衝撃的新人バンドだ、と彼女達のこと評したが、すでにそんな私の発言すら彼女たちにとって不釣合いとでもいうべきくらい彼女達の才能はずば抜けている。

そのことを再認識させられたのがこの「シャングリア」だったと私は感じているのだ。


イントロから思い切り炸裂している不思議なビートも含め、「耳鳴り」までのチャットモンチーとはまた少し違う音楽世界が展開されているな、と思った。

はじめて聴いたときは、あのサビの不思議さと大胆さに、思い切り心臓をつかまれてしまった。



しかし、わたしがなによりも感じているのは、この詞の世界の凄まじさなのである。

曲の中盤、最後のサビに入る前に唄われていることの途方もないヘヴィさに、わたしははっきりと衝撃を覚えた。


「胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ

希望の光なんてなくったっていいじゃないか」


希望の光なんてなくったっていいじゃないか。と言えてしまうという、その途方もない強さに、わたしは畏怖にも近いものを感じた。

あくまで私の感覚ではあるが、「希望の光」をどこか意識しながら、たとえば追い求めながら、または感じながら、人は進んでいくもののことのように思えていた。

しかし彼女たちは、「希望の光」すら必要としない、という圧倒的な強さを身につけているのである。

私は、この「希望の光なんてなくったっていいじゃないか」という言葉は、彼女たちが自分自身に言っている言葉なんかではないのだと思う。

これは、彼女達が他者に向かって発しているメッセージなのだ。

なぜならば、彼女たちは、思い切り<弱い>という認識と意識をもち、尚且つそれを超越した圧倒的に強い意思があるからなのである。

だからこそ、希望の光なんてなくったっていい、と彼女たちは断言してしまえるのだと私には思えてならない。

それは、 「幸せだって叫んでくれよ」というどこか自虐的な要素や(叫んでくれ、ということ自体、「幸せでない」ということの肯定につながる)、 「君を想うと今日も眠れない」という、恋をするが故の弱さ をたしかに覚えていながらも、

「まっすぐな道で転んだとしても / 君の手を引っ張って離さない 大丈夫さ」と、彼女たちは一点の汚れもなく言えてしまうからなのだ。

この時点ですでに、「幸せだ」というたしかな肯定や、君を想って眠れないという弱さすら、おもいきり超えてしまっている。

君の手を離さない、という圧倒的な決意と意志の強さが、希望の光までをも必要としないという、<絶対的な強さ>に繋がっているのだ。


チャットモンチーの強さとは、この途方もない意志の強さなのだと思う。

希望の光を必要としないという理由は、君の手を離さない、というたったひとつの決意の強さゆえだ。

そしてそれは同時に、希望の光などという曖昧な事象よりも、自らの意志を圧倒的に信じてしまえる、という また違う角度からの彼女たちの強さまでもが窺えてしまう。


私は、以前より、彼女たちのこの圧倒的に他者と違う<何か>はなんなのだろう、と考えてきた。

なぜ、彼女達は自然体でいるにも関わらずロックなのか?

それは彼女達の意識、意思の問題なのだろうか?と 考え続けてきた。

しかし、その答えはこの「シャングリラ」に堂々と描かれていたのだ。

この彼女達の強さに、わたしははっきりと畏怖を覚える。そして同時に、強烈にその強さに惹かれる。

チャットモンチーは、ただのカールズロックバンドではない、ということを改めて見せつけられてしまった。

彼女たちの才能が本当に恐ろしい。

そして、彼女たちの才能のうるわしさに、はっきりと音楽シーンの<希望の光>を感じてしまうのも、また事実である。


今年発売のベスト盤は、珍しく素晴らしい出来の物が多いのだが、その中でもボニーピンクの「Every Single Day」の快挙といったらほかにはないと思う。

過去10年間での彼女の活動は、決して目だっていなかったわけではないし、ボニーピンクはいつだってボニーピンクでしかなかったのだ。

それが、今年の「嫌われ松子の一生」への出演や、 「A Perfect Sky」のスマッシュヒットが重なって、このベスト盤の鮮烈さといったら、世間からするとまさに強烈だったのではないかと思う。

私個人としては、ようやく時代がボニーピンクに追いついた!と感じた。

彼女は不敵な笑みを浮かべて、世間に ボニーピンクの世界を このベストで、思い切り提示しているのだ。

わたしはそのことが快挙だと思う。

やっと追いついてきた時代に颯爽と、そして毅然とあり続けるボニーピンクの姿はあまりにも凛々しく美しい。

それは、彼女の生み出してきた音楽からもあまりに顕著に出ているものなのだ。


一曲目の「Heaven's Kitchen」から、容赦なく打ち付けられるボニーピンクの世界観は、

うつくしくて そして どこか 虚無的である。

恋愛におけるニヒリズムを、彼女はあまりにも的確に描ききってしまうと思う。

時にそれをも振り切り、時にそれに溺れ、時にそれを悔やみ、時にそれを手のひらの上で転がす。

まさしく恋愛とはそういうものであり、その描き方が、ボニーピンクに関しては、あまりにも凛々しいのだ。

整然と起立したかのような美しさと毅然さで描かれている。

その美しさと毅然さこそが、リスナーにとってたしかにヘヴィであり、リアルでもあるのだ。

恋愛という状況下においても毅然とした姿勢を崩さない彼女の世界観は リアルでもあるし、遠い現実でもある。

そこに描かれていることにたしかに共感させられるのに、ボニーピンク自身のその毅然さが どこかかけ離れているのだ。

そしてそのコントラストはきわめてうつくしく、音楽としてのうるわしさを増していると思う。

ボニーピンクは、自らの“自然体”という状況を以って、女という存在が、いかに弱くて強いのか、ということを世間に堂々とアプローチしているのだと思う。

だから彼女の姿は凛々しいのだと私は感じている。



何にせよ、あまりにも痛快にうつくしい一作である。

ボニーピンクの美しさと凛々しさと毅然さに触れよ。

それはきっと、離すことのできないうるわしさだ。



現在、もっとめまぐるしい進化をとげているアーティストのひとり、木村カエラの最新曲「TREE CLIMBERS」

「モード学園」のCMソングとして使用されたために多くのひとが耳にしたと思うのだが、今回もカエラは思い切りやってくれた。

もはやカエラにロックやポップという概念は必要ではなくなったとわたしは感じている。

それほどの域に彼女はいま到達しようとしているのだ。

彼女が刻み続けているのは、すでに<音楽>そのものであり、カテゴライズすら必要としないしなやかな存在なのである。

それは、ジャンルの垣根を超えた 圧倒的な存在感をも持っている。


イントロは、重みのあるドラムからはじまり、ヘヴィなサウンドが炸裂している。

ここだけ聴けば、「ロック?」と思うひともいるかもしれない(個人的な話をすれば、ロック・ポップはサウンドだけによって生まれている存在ではないので、サウンドだけでロックと判断するのはおかしい、とは思っているが)。

そういう ヘヴィなサウンドプレイをみせつけておきながらも、

カエラが声をのせた瞬間に、そのヘヴィでバキバキとした印象のサウンドは、一挙にメロディックな存在へと変化するのである。

いや、すでにサウンドだけの問題でもないのかもしれない。

カエラが唄い出したその瞬間に、バキバキとしていた世界観までもがメロディックになっているのである。

それほどの力があることを、カエラはその存在を以って証明している。

この変化は、そうそう起こることではない。

世界観そのものの存在のあり方までをも変えてしまうアーティストというのはそうそう居ないと思う。

これがデビューして3年足らずの彼女のみせている業なのだとおもうと、彼女のポテンシャルの引き伸ばされ方が本当に破竹の勢いであることがわかる。


また、サビの、からだが思わずリズムを刻んで唄い出してしまいたくなるような爽快なうつくしさもいいのだが、

わたしは次の部分の うつくしさに おもわず鳥肌を立ててしまった。


「興味ない 知るわけない

すぐ そこにあるから

幻だ そう それを

私いただきましょう

今日すら進めない 子どもの私はね

明日も進めない 大人の私になる」


さっき、わたしは、カエラが唄い出した瞬間に、バキバキとした世界観はメロディックな存在に変わると言った。

だが、この部分にはいった瞬間には、メロディックさにしなやかな強さまでもが付け加わるのである。

メロディックな響き方をしていながらも、カエラの、はっきりとした、意志的なその唄いぶりに、「しなやかな強さ」をわたしは強く感じる。

そしてその響き方はあまりにうつくしいとおもう。



すさまじいスピードで成長し、変化していく木村カエラ。

そのポテンシャルはいったいどこまで続いていくのか、すでにわたしには見当もつかない。

ただ、彼女が発していく圧倒的な存在感と、

こころそのものに、さらりとしみこませていく実力に わたしは 完全に骨抜きになっている。

ヘヴィーローテーションをせざるを得ない一曲だとおもう。

この曲のうつくしさから、そう簡単には離れられないのだ。

ふがいないや



「ハチミツとクローバーⅡ」のOP曲として使用されているYUKIの新曲「ふがいないや」 をようやく聴いた。


蔦谷氏が作曲を担当している、ということもあり、

YUKI節炸裂のハッピーとせつなさの交錯するうつくしい一曲であったと思う。


YUKIの歌詞が うるわしい と思わせるほどにすてきなのは、

うつくしさと痛みを共有しながらも、絶対的に前を進もうとする強い意志があるからである。

そして、同時に自らの弱さもエゴもなにもかも認めてしまえる強さもある。

そしてその弱さもエゴも、だれもが持ちえるものであり、だからこそ共感するし、だからこそYUKIの進もうとする意志のうつくしさにこころ奪われるのである。


それは今作の「ふがいないや」も同様であった。だいたい、タイトルから「ふがいないや」である。

このタイトルを聴いたとき、ほんとうに秀逸で、ほんとうにうつくしい!と思った。

ふがいないや ということばを、「ふがいない」という気持ちにぴたりと当てはまらせるということは、

じつはすごく簡単なことで、そしてだからこそ誰もみつけられなかったことのように思える。

痛みや弱さやエゴを抱えて生きている苦しみ=「ふがいないや」なのである。

それまでたくさんの表現者がその痛みたちを描いてきたし、そしてそういう感情からたくさんのうるわしい表現がうまれてきたのだが、

それらに関して「ふがないや」ということばがあまりにも当てはまっていて、

そして誰もそれに気付けたなかったのだ!ということにも気付かされた。

YUKIのことばのセンスは常にうつくしいものだったと思うが、ここまでくると本当に天才なのだと思う。



蔦谷氏の幸福のあふれるポップメロディに載せられるYUKIの天才的なことばの数々の共演が、

どこか正反対の方向をむいているようで、じつは同じ方向を向いていることがほんとうにうつくしいと思う。

やっぱりYUKIは天才なのだと改めて認識させられた一曲である。


「耳鳴り」を聴き始めたとき、「東京ハチミツオーケストラ」「さよなら Good bye」と、福岡晃子の書く乙女な心情が続いてきたので、「なんか甘いアルバムなんだな…」と思った。

もっと言えば、チャットモンチーのドカンとした刺激、ロック度がもうすこしほしいなあ、と思った(この2曲が悪いわけでないが)。

しかし、そんな風に思いながらも、先の2曲のやわらかさや乙女さに胸を高鳴らせていたその瞬間に、しかけられた大きな「チャットモンチーの罠」がこの「ウィークエンドのまぼろし」なのである。


イントロから、バキバキしたドラムプレイが炸裂し、メロディやアンサンブルといった要素がなかなか見られない。

それは聴き始めていると特に気にするべきことでもないのだが(そういう曲なんだなあ、としか私は思っていなかったし)、

それでもこの、バキバキしたドラムプレイは、リスナーへのおおきな罠なのである。


「ねぇ、いつまでも空はこんなにきれいなのかな

ねぇ、いつまでも風はこんなに透明なのかな

ねぇ、いつまでも春の次は夏なのかな

最悪な日曜日」


このサビに入った瞬間に、それまでのバキバキしたドラムプレイをメインとしたサウンドは一気に失われ、

うつくしいメロディが激しく鳴り響く世界観に、まるでそれまでとは別次元のことかのように変化するのである。

サビに入った瞬間のあの衝撃といったらないだろう。

メロディのうつくしさ、もあるが、あえてサビにはいるまでをシンプルな音の構成にすることによって、

サビの情緒の盛り上げ方まで計算している、というチャットモンチーの戦略は驚異的である。

そしてわたしは彼女たちの罠に思いきりはまり、このサビの衝撃に鳥肌がとまらなかった。


しかしながら、彼女たちのこの曲が素晴らしいことは、サウンド面でのアプローチの仕方がこんな風に秀逸である、ということ以外にもあるのだ。

それは 歌詞である。

この歌詞のせつなさは驚くぐらい胸を痛くさせる。そして同時に、誰もが経験している痛みである。

特に2番以降の歌詞はその世界観の広げ方もうつくしく、同時にせつなさも尋常ないくらいに大きくなっていて、ほんとうに秀逸だと思う。


「うっすらとオレンジひろがる山際

カラスは帰るよ ママの胸

手をつないで恋人達 幸せそうに歩いてる」


「ねぇ、いつまでも人と人は手をつなぐのかな

ねぇ、いつまでも人は人を抱きしめるのかな

ねぇ、いつまでも春の次は夏なのかな

最悪な日曜日」


もはや、苦しい、と言ってしまいたいほどだ。

人と人が手をつなぐこと そのことがすでに苦しくて、いつしかそれが失われぬものか、と思う女心の真髄である。

誰かと誰かが手をつなぎ、誰かと誰かが抱きしめあう。

そのことが、彼女にとってはすでに苦しく、<最悪>な日曜日への転換になってしまうのだ。

これは、「さみしい」とかそういう生温い感情なんかではないのだ。

さみしい で片付けられる感情であれば、こんな風にかけないであろうし、こんな風には思わない。

もっとズキズキと鋭利に存在する痛みが、彼女の感情をこう変化させているのである。

だからこそのこの歌詞はひどく、ひどく鋭利な世界観を持っているのだ。

しかもそれは、日常にともった鋭利さであるがゆえに、わたしたちのこころは思い切り揺さぶられてしまう。

鋭利で悲しいわたしたちの心情はここにあり、

かつて経験した<最悪な日曜日>までもが蘇ってくるのである。



本当に秀逸な曲だな、と思う。

すばらしい としか言いようがない。チャットモンチーの実力を知るにはうってつけだと思う。はかりしれないから。


矢井田瞳の大きな変革、深みをさらに増した4thアルバムの先行シングルでもあった「一人ジェンガ」

この曲は、矢井田瞳というアーティストの全作品を並べた中でも、きっと一番にヘヴィな唄だと思う。

うつくしく軽やかなメロに乗る歌詞は、せつない・痛いを通りこして、心の奥に、ドンと乗ってしまうようにヘヴィである。

自嘲とすら思えるくらいに相反したメロ・歌詞のこの重みは、秀逸すぎて、息も出来ないくらいにリアルなのだ。


「会いたいけど会えないの

いま会うのはちょっと怖い

いらん言葉の積み木で

次の迷路に呼んでしまう」


というサビのこのことばを是非感じてほしい!

リアルそのものであり、<恋愛>という経験において、この感情をかんじたことがたしかにあるのだ!

会いたいけど会えない。いま会うのはちょっと怖い。

まさしくそれは、現実味を帯びた感情であり、途方もなくリアルである。

そして、うつくしく軽やかな(そして、だからこそ同時にとてつもなく自嘲的に響いている)メロに乗ることによって、

この世界の重みはずしりと重くなっていく。

まるで笑うようにかろやかに唄う矢井田瞳の姿が、あまりにも自嘲的・自傷的で、恋をした息苦しさの重さがリスナーにまでのしかかってくる。

それは、<表現力>としてはきわめて高いものだとわたしは思う。


そういったヘヴィさ・重さは、歌詞のなかの

「笑いたいの信じたいの 胸の底の沼から」ということばが特に象徴的で、

わたしにとって、胸の底にあるものが<沼>だという表現が、リアルで同時に、とてつもなく苦しいことに思える。

胸の底の沼から、笑いたい。信じたい。と矢井田瞳は言うのだ。

けっして、胸の底の沼から <出て行って> ではなく、 胸の底の沼から、 だと明言している。

それは、わたしたちがその<沼>から逃れられないということの象徴のようでとてつもなく苦しい。

笑いたい 信じたい と思うことはたしかに本当のことで、

それでも、胸の底の沼から逃れられないのなら?と思うと

あんまりにも悲しい。

すごく、すごくヘヴィだと思う。



恋をしているはずなのに 苦しく痛い 胸の奥。

迷路に迷い込んでは 沼にまみれていく己。

それはすごくかなしいことだ。

そしてそれは、とんでもなく本当のことだ。

すごくヘヴィな曲だと思う。すでに、「容赦ない」というレベルのものではないと思う。

なぜならば、そう唄うことですでに、矢井田瞳はきわめて自虐的で自嘲的なのだ。

それだけで本当にかなしいと思う。

しかし、この唄のヘヴィさは邦楽シーンにおいてもぜひとも注目してほしい、特殊なヘヴィさだと思う。

これは単純な<ヘヴィ>なんかじゃない。

あまりにも絡まりあった感情と事実でなせる技の<ヘヴィ>だ。

そしてそれを成し遂げてしまった矢井田瞳のスキルの高さには、もう驚愕するしかない。


それまで、チャットモンチーを聴いて、感動、共鳴、することはあっても、泣いたことはなかった。

それは私にとってごく当たり前のことで、彼女たちの音楽は、なるべくこの身に吸収すべきものであって、

涙を流す類のものではなかった。

彼女たちのロックぶりを愛し、ポップ性と詞世界の秀逸さに感動し、サウンドにしびれたとして、そこに涙は一切ないのだ。喜びでしかなかった。

しかし、そんな私をチャットモンチーはまたもや変えてしまった。

彼女たちは、この「終わりなきBGM」で、わたしをついに泣かせてしまった。


シンプルな音の構成でサビまで続くのだが、その盛り上げ方がまた絶妙である。

「いまはじまった物語なんだ」という最初の一文から、「しゃべり出せないよ 無音が耳に響く」というところまでは、まるでメルヘンの世界のように、やわらかく漂うかのようなメロディが流れていたが、

次の瞬間には、まるでバキバキと音を鳴らし、ドラムの強みがまし、リズム隊のプレイでメロディ、サウンドから大きく一変する。

しかし、そのバキバキしたサウンドですら、サビにかけてのさらなる序章でしかなかったのだ。


この唄のサビは、もはや、「うつくしい」という類のものなのである。

ギターもベースもドラムも、それぞれがせつなく鳴き出しているのだ。

前半のまるでメルヘンの世界のようなやわらかさも、

その後に続いたサウンドのドラムが大きく響く空間の隙間の感覚も、

すべてはこのサビのためのものなのである。

この、エモーションに響くサウンドのためなのだ。

布石にしかすぎなかった。

だからこそ、このメロ、このサウンドのせつなさは尋常でないぐらいにうつくしく、そのうつくしさにわたしは思わず、胸の奥をギュッと掴まれてしまったのだ。


そしてなにより、この歌詞の途方もない「うつくしさ」!


「ねぇ一緒に帰ろうっか」

ドラマでも昔話でもないよ

「ねぇ一緒に帰ろうっか」

また気づくと真っ暗になってる空は

ドラマでも昔話でもないよ

「遠回りで帰ろうっか」


こんなシーン、もはや日常に溢れているのかもしれない。

それでも、なんでもない、ドラマでも昔話でもない、現実としての今の「一緒に帰ろうっか」は、

ドラマよりも昔話よりも、途方もなくドラマチックな存在なのだ。

それは、恋をするが故のことである。

ねぇ一緒に帰ろうっか。

そういわれたときのよろこび、同時にある、胸を締め付けるような感覚が、うつくしすぎるサウンド、メロディに乗って、より一層、うつくしくせつなくなっている。

ドラマでも昔話でもないリアルなわたしたちの恋の物語。

たとえ些細なことであっても、たかが彼の一言であっても、わたしたちの心臓はすでに、揺り動かされ締め付けられを繰り返している。

そのせつなさ、そしてそのことの、ひとりの人間に関しての<ドラマチック>さは、決してドラマも昔話も比にならないと思う。



あまりのうつくしさ、胸の締め付け様に、わたしは思わず泣いた。

このサビのうつくしさは尋常でない。

それは、ドラマでも昔話でもないわたしたちの、途方もなくリアルな<ドラマ>が確かにそこにあったからなのかもしれない。