この「どなる、でんわ、どしゃぶり」は、チャットモンチー史上もっともロックな一曲だと思う。

ロックにヘヴィが付き纏うものならば、この唄にあるヘヴィさはとてつもなく大きい。

容赦ないサウンドも、逃げ場すらないように弾圧的な歌詞は、リアリズム以外の何者でもない。


このサウンドの容赦なさは、怖いくらい見事だなあ、と思う。

元々チャットモンチーはサウンドからもロックであったと思うが、ここまで容赦のないサウンドは今までになかったと思う。

ギターは唸りまくり、ベースは不穏にも正しくビートを刻む。

橋本絵莉子のギターの唸り具合は、圧巻、という言葉で表現せざるをえない。まるで冷酷に、怖いくらいに激しく唸っている。

それは、詞の世界観と重なり合い、不穏で痛みを増している。

まるで無表情で 怒り狂う、泣き叫ぶかのようで、怖い、という感覚をも一瞬産むのだが、

何よりも彼女のギターのこの唸り方には、ロックとしての快感を大量にわたしに放出してくる。だからこそ、ぞくり、と鳥肌が立つ。


それにしても、この唄のこのサビはあんまりにもヘヴィだ。

サウンドも容赦なければ、詞も容赦ない。


「あぁ さよなら ああ

これで何もかもわかったよ 今さら口にも出せない

あぁ さよなら ああ

これで 何もかも 終わったね

でもさっきから あやまって ばかり」


「あぁ さよなら」と、あまりにも冷静に、しずかに言い放つ姿とは対照的なまでの、

「でもさっきから あやまって ばかり」という一文。

これは、恐ろしいなあと思う。

あやまってばかり の理由は、きっと橋本絵莉子以外知り得ないのだろう。

そこには、もしかすれば、同情があるのかもしれないし、最後の名残があるのかもしれない。

もしくは、相手があやまってきているのかもしれない。

あらゆる感情の可能性があるのだ。

しかし、そこにどんな感情があろうと、もはや関係ないのかもしれない。

なぜならば、橋本絵莉子は、普通ならば感情的なものとなるこの一文ですら、まるで今までの「さよなら」と言い放つ冷静さ、一種の冷酷さを決して失わなかったのだ。

むしろ、感情を抜いた、まるで「認識」のような感覚を以って唄っているような気もする。

わたしが恐ろしいのは、橋本絵莉子がそういう冷酷な子だったんだ!ということに対してではなく、

感情的になりえるものですら、それをコントロールしてしまう彼女の能力だ。

この詞には具体的なビジョンがあり、同時に、心的描写があまりない故に、

容赦ないサウンドが、彼女の心情を描いているように思えてならない。

彼女は、容赦ない心情なのだとしか最早認識できない。

わたしはそうなのだと思うしかできない。

それでも、答えは橋本絵莉子しか知らない。

だからこそ、この唄は容赦ない。



あんまりにもロック。あんまりにもヘヴィ。

容赦ない橋本絵莉子の表現へのスキルの高さが、心臓を捕えて離れない。


チャットモンチーのニューアルバム、「耳鳴り」。

ようやく聴くことができた。

まだ1,2回しか聴いていないのでレビューといえるほどのものはできないが、

感想を述べさせてもらう。


福岡晃子の詞世界は、乙女・女心のせつなさをあまりにそのままの形で表現していると思う。

<乙女>という言葉で形容したい!と思わせるほどに、

どこか純粋な、田舎(という言い方は申し訳ないが)出身のひとりの<女の子>の世界である。

そして、その世界は実は万国共通だと思う。

だからこそ彼女の世界は、誰に対してもせつなくて、胸の奥をキュッと甘く締めていくのだ。

「東京ハチミツオーケストラ」「恋の煙」など、本当に、スタンダードナンバーとしてこれからも愛される唄だな、と思う。


高橋久美子はそれとはまた異なる。彼女の詞は、世界というビジョンを通して自らの感情を同時に見ている。

そのビジョンこそが彼女の感情そのものであり、日常性に伴う息づかいをも思わせるのだ。

こういう詞の書き方をするアーティストはよくいるが、彼女の<日常性>と<感情>の距離は絶妙と言っていい。

「ウィークエンドのまぼろし」なんて、「よく言った!」と思ってしまうほどに、日常性に伴う感情の描き方が見事だ。

最悪、ということばの鋭利さをも巧みに利用しているなあ、と思う。


そして橋本絵莉子だ。

はっきり言おう。この子の才能は、あまりに恐ろしい。この子の表現能力はすでに、ロックでしかない。

それもスタンダードロックだ。

是は全く個人的なことで申し訳ないのだが、女性歌手において、これほどまでに<ロック>を感じさせた子ははじめてである。

たとえばこっこも、椎名林檎も、存在という意味ではロックであったかもしれない。それでも彼女達のジャンルはどちらかというと<音楽>そのものであったり、椎名林檎においては、ポップを産み出すんだ!という強い意志のもとに<ポップス>というものを常に提供してきたと思う。

しかし、橋本絵莉子が産み出すそれは、すでに堂々とした<ロック>である。

メロディライン、サウンド、すべてがロックであり、また彼女の詞はどうしようもない、逃げられないくらいにどこかヘヴィだ。

「どなる、でんわ、どしゃぶり」なんて、ヘヴィ中のヘヴィで、彼女がこれまでに発表してきたもの中で一番ヘヴィだ。そして、一番にロックだ。聴いていて鳥肌がとまることなどない。

いっそ、橋本絵莉子に殺されてもいい、と思ったくらいだ。


もう、とにかく、ヘヴィ級のアルバムである。女心は集結し、耳鳴りするほどにわたしたちにその意思を見せ付けてくる。

かつてこういうアルバムがあっただろうか、と思う。

チャットモンチーの才能は、すでに大きく開ききっている。いや、すでにその才能で、わたしたちを挑発している。

恐ろしい。わたしはその挑発に乗った。そして、すでに溺れている。

彼女たちの才能は枯渇することのない海のようで、そして泥沼のようにまとわりつく。

それでも、そうされることすらすでに喜びでしかないのは、あまりに彼女たちにみせるその<才能>がうるわしいからに他ならない。

やっぱり彼女たちは、どうしようもなく、恐ろしい。



「手の中の残り日」は、先日発売されたアルバムにも未収録ではあるが、ぞくりとしてしまうほど名曲である。

橋本節炸裂なのだ。かわいくみえて、ぞくりとする。


「あなたとのリズムが私を壊す」と一行目から衝撃なのだが、

その衝撃の所以は、そこにある<身の覚え>なのだと思う。

世の中のアーティストの世界観において、わたしは大きく分けて2分割できると思う。

ひとつは、自らの知らない世界を提供する者。

そしてもうひとつは、自らの知る世界を<表現>で見せ付けてくる者だ。

チャットモンチーは明らかに後者である。

そして、彼女たちのもつ<表現>のリアリズムと、<表現>としてのうつくしさは秀逸だ。

この「あなたとのリズムが私を壊す」という<感情>を、わたしも、そして全国のリスナーも持っていたのだと思う。だからこそ、このことばに衝撃を覚えるし、共感するのだ。

橋本絵莉子は、<感情>を ことばで的確に表現できてしまうのだ。

それがときに衝撃的であり、うつくしくもある。でも、最後には必ず<共感>に終わらせることができる。

これは本当に才能なのだろう。誰しもができることではない。

そして、こんなすばらしい才能が生まれてきたことは本当に喜ばしいことだ。


それにしても、この唄のサビのうつくしさは尋常じゃないな、と思う。


「足を引っぱらずに手を引っぱって

探っていくのはもうたくさん

つないで手が離れてしまう前に」


ここにある<共感>が故のせつなさもそうだが、チャットモンチーが奏でる音自体の影響力(音楽の力とは偉大だ!メロとことばが重なり合う瞬間に、強靭で莫大な力を持つ!)が歌詞のせつなさと交わっている。

思わず口ずさんでしまいたい!と思わせる音楽としての力と、

思わず聴き入ってしまう!と思わせることばの力の大きさだ。

リスナーの胸のうちは、はっきり言ってぐしゃぐしゃだ。せつなさ、曲へのうつくしさ、それらが混ざってぐしゃぐしゃだ。

そんな胸のぐしゃぐしゃが はっきりと いとおしく思える。

チャットモンチーはやっぱり恐ろしい。


そしてこのうつくしいサビは、最後にとてつもない変化を起こす。

それはせつなさだとかそういうものを超えたものだと思う。

この変化に、わたしたちが何を言えようか。もはやことばにすることすらできないものだ。

何も言うことができない。

それは真理で、行動で、選択で、同時に感情なのだから。



「足を引っぱらずに手を引っぱって

探っていくのはもう出来ない

つないだ手が離れてしまう」。



Coccoの唄、というと、素晴らしいプレイヤーの素晴らしいサウンドを連想するひともいるかもしれない。

切り裂くようなギター、激しいドラムプレイ、不穏なベース。

それはたしかに<Coccoの唄>に当てはまるものであるとも思う。

しかし、この「'Twas on my Birthday night」にそういう要素は一切ない。

根岸孝旨のアコースティックギターとCoccoの唄声だけで構成されている。

それはとてもしずかな曲である。

そして、しずかであるからこそ、とてつもなく胸が痛い。

それは、ほかのこっこの曲の、激しい共感と、苦しさへの高すぎる表現力によって胸をまるで裂くように痛くさせてしまうものとは違い、こっこという人の抱えているせつなさに胸が痛いのだ。


「昔々

誕生日の夜

ママは嘘をついた

“願い事をして ココ 願い事を

そしてろうそくを吹き消せば

願いは叶うから”

遠い昔

ママは嘘をついた」


それはとてもせつない痛みだ。

そして 誰もが知っていることだと思う。

ろうそくの火を消しても 願いは叶わない ということ。

「ママ」の言ったことはまぎれもなく嘘で、

願いなんて叶わない。

そして 願いも叶わない という事実は とてつもなく せつなくて痛い。


「あなたを愛してるって言ったわ

あなたもそう言ってくれた

側に居るって言えば

私を1人にしないって言ってくれた


私も嘘をついたの」



わたしは、この「私も嘘をついたの」に、どうしようもなく胸をつまらせてしまう。

もはや 苦しさに近い痛みで 呼吸をも止めてしまう。

甘い甘い愛の言葉も、ママのいった幸せな言葉も、 すべて嘘なのだと。

それをこっこは決して責めなかった。

「嘘をついた」と言うだけだった。

その一言の裏には、「私も嘘をついた」というたしかな自覚があるからなのだ。

愛しているという嘘。側に居るという嘘。

誰もが思っている。

でも 嘘にしか過ぎない。

わかっていることはわかっているものなのだから。

それがこっこにとってどういう状況だったか、なんて誰にもわからない。

でも、きっとこれを聴いたすべてのひとが思ったはずなのだ。

ああ、たしかに嘘。と。



美しい夢のある言葉も、

甘美な言葉も、

嘘になってしまうせつなさを、

こっこはしずかに唄う。そこには、激情めいたものは何ひとつない。

嘘はわたしたちの必須のものになりつつある。

だからこそ 苦しい。




美しいアコースティック・ギター。

美しいこっこの声。

そして苦しい嘘。

わたしはこの曲を聴くたびに、どうしていいのかわからなくなる。


CMソングとしても話題を集めいていたBONNIE PINKの新曲「A Perfect Sky」

印象的でキャッチーなサビは、BONNIE PINK的な夏の爽涼感に満ちていると思うし、

リスナーも思わず、このサビを口ずさんでしまわずにはいられないと思う。

そういった意味ですごくこの曲は万人に対して発していく力があると思う。


しかし、この曲はそれだけではないとわたしは思うのだ。

ただのひと夏かぎりのヒットソングとして終わらせぬ何かがこの曲にはある。

CMソングとして、歌詞のインパクトをあまり全面に出されていないせいなのか(メロディだけで充分に魅力的なので仕方が無いことではあるのだが)、この唄のヘヴィさは隠されているような気がするのだ。

だいたい、イントロの歌詞からして衝撃的である。

正直言えば、イントロ4行でこの曲のヘヴィさすべては集結されているといっても過言ではない。


「君の胸で泣かない

君に胸焦がさない

I'm looking for a perfect sky

I'm looking for a perfect sky」


もはや、恋愛の大前提を思い切りぶち壊してしまう四行だと思う。

好きな男の胸で泣き、好きな男に胸を焦がすのが恋愛の定説である。

しかしBONNIE PINKは思い切りそれを否定した。

その上、「私は完璧な空を探しているの」という極めつけのヘヴィさを見せ付けている。

これがヘヴィでなければなんだというのだろう。

わたしにとって、その後に続く歌詞ですらこの四行を覆せない気がする。



この4行の衝撃と相反する爽やかな夏らしいナンバーに、BONNIE PINKの企みが見え隠れしてならない。

元々メロディセンスの突出していたシンガーだったが、ここでこんなにもエモーションと相反するメロディを生み出せる彼女の才能に改めて恐怖を覚えた。

衝撃の一作である。

これは決してひと夏のヒットソングとして処理してはならない。衝撃的なまでにヘヴィな女の意思を、その魂に刻み込んでほしいのだ。


ほんとうに、「ようやく」なのだが、チャットモンチーの2ndシングル「恋愛スピリッツ」を聴いた。

前作よりももっとヘヴィに、もっと真摯に、もっとエグく その世界を広げていっていると思った。

「恋の煙」は、聴きながら、胸の奥に「恋をしているときの幸せ」を蘇らせる作品だった。

胸の奥がキュッとするような、せつなさの奥にある幸せ。

しかし、「恋愛スピリッツ」にはもはやそんな美しい幸福など無いと言ってもいいだろう。

ほんのすこしの狂気(を感じずにはいられなかった!)と、途方もないくらいの「好き」。

必死な思いが託されたこの曲は、どこか鋭利で、そしてどこか悲しい。


イントロ、もはや1番(という括りで正しいかはわからないのだが)まで、橋本絵莉子のソロである。

彼女の声一本。それも、張り上げるようなものではなく、まるで独り言のように、何気ないきもちのように唄う彼女の姿に、日常性に伴ってしまう<恋愛>という名の存在を知らされる。

恋愛は日常に伴うくせに、恋愛が孕むものすべては、日常には共存できないくらい、危険でヘヴィで狂気的だ。


橋本絵莉子の歌詞が途方もなく胸を突くのは、ここにある感情が、たとえどんな状況下においても、共感せざるをえない<祈り>と<悲しみ>があるからなのだ。

「どうか無意味なものにならないないでね / 今すぐ意味のあるものになってね」という言葉は、その願いが思わず自らの胸の奥にあったことを思い知らされて、ドキリと焦ってしまう。

そしてなによりもヘヴィ、なによりも苦しいのは、きっとこれを聴いた誰もが思ったことだろうが、ここの部分だと思う。


「あの人がそばにいない

あなたのそばに今いない

だからあなたは私を手放せない」


これを読んだときに、息も出来ないくらいにわたしは苦しかった。

驚愕と焦り、そして、大胆にも、恐ろしいくらいに悲しいこのフレーズを唄おうとするチャットモンチーの<感情>の深さを思い切りぶつけられた気がした。

「あの人」がいることだとか、そういう状況下などもはや関係がない気がする。

そこにある感情のヘヴィさ、それでもそれを唄わねばならない、という彼女たちの、恋愛にかける意思の強さ。

チャットモンチーはロックバンドで表現者で、そして、たまらなく 女の子なのだと 身を以って知らされた。


「意味のあるものになってね」と願えば願うほど、「あの人」が世界に見えてくる恐怖。

「あの人を見ないで私を見てね」という言葉は、とてつもなく優しいが、そこにある彼女の思いの深さは、あまりにも果てしない。

祈りに近いレベルであり、懇願にもちかいせつなさがある。

だからこそわたしは苦しい。



くるしくて息も出来ないくらいヘヴィな、チャットモンチーの「恋愛スピリッツ」。

そこにあるのは、ただ、いとおしい「あなた」にかける、全身全霊の祈りの姿だ。


デビューミニアルバムで、ロックを根底に存在させがならも、ポップ性を以って唄っていたチャットモンチー。

そんな彼女たちが、ある意味で、彼女たちの心の奥の感情を、ちらりと覗かせたのがこの「恋の煙」というシングルだと思う。

「chatmonchy has come」でもその傾向はたしかにあったのだが、「恋の煙」でみせている、ヘヴィかつリアルな歌詞(恋愛をする者にはつねに激情が付き纏うことを否応がなくに証明しているのだ)は、彼女たちの心の奥に秘めていた感情だ。そしてそれを、ほんの瞬間、一部をそのまま、ダイレクトにだしてリスナーに見せているのが「恋の煙」というシングルである。


チャットモンチーは全員が詞を書くが(そして3人の詞が3人ともいい、というのがまた奇跡的なことだろう。彼女たちは音楽で自己表現することを運命づけられていたのかもしれない)、なかでも、ヴォーカルの橋本絵莉子の詞のヘヴィさはちょっと すごい。

失礼な言い方ではあるが、一見どこにでもいそうな彼女の中にあるものは、一見した部分では決して露見されないのだろう。

彼女のヘヴィな詞と、つくる曲の世界観のどこかある不穏さは、彼女の心情そのままだとしか思えない。

それがよく出ているのが「決まらないTURN」だ。


「二つ戻れで振り出しに戻っても気持ちは変わらないよ

二つ進めでゴールに辿り着いても気持ちは変わらないよ」


という、恋愛のどうしようもない(悪)循環の様を彼女は見事に唄っていく。

ここにある彼女の意思は、実はとんでもなくピュアなものだ。

一切 汚されていない意思である。

そう、彼女の意思は、ピュアだからこそ激しくヘヴィなのだ。

装飾され柔らかく変化していく言葉は決してヘヴィではないが、同時にピュアではない。装飾という一種の「汚れ」を纏っている。そのままの姿ではあれないのだ。

しかし、彼女の言葉は、彼女の胸の奥にあるそのままの形をしている。そのままの姿をしている。

とんでもなくピュアだ。汚れひとつない。だからこそ、激しくヘヴィだ。重いたしかな意思なのである。

そういう表現をできるひとは、本当に限られていると思う。

だからこそ橋本絵莉子の存在は、この音楽シーンにおいて大きなものになりつつあるのだと思う。


最後に、「決まらないTURN」がどうしようもなく救いようがない悲しさを帯びているのは、

演奏の最後に荒れ狂っていくサウンド、プレイにある。

チャットモンチーは静かに終わることを選択しなかった。

曲の終始不穏さはたしかにあったが、それは<予感>のようなものでしかない。

「気持ちは変わらないよ」と名言したあとに、燃えるように、しかしどこかで俯瞰しているかのように怖いくらいの冷静さを以ってプレイを激しくしていく彼女たちの姿に、恋愛をする者の姿をどこか全体で眺めているような気にさせられる。

恋愛は決してやわらかく美しいものではない。ヘヴィだ。と、チャットモンチーはその才能で圧倒的にわたしたちに知らしめていく。

恐ろしい、と心底思う。

それと同時に、この才能に惚れ惚れとする。

これは偉大なことだ。



恋愛をする意思の途方もなさを圧倒的にみせていく一曲だ。


「Be My Last」は、発売当時から「宇多田きたな!」と思ったほどの力作だったと思ったが(宇多田が作った曲の中でもかなりの名作に入るだろう)、いまこうして聴いてみると、その凄さに圧倒される。

当時のわたしがキャッチできずにいたことが山ほどあった。


最近では、アルバム発売に伴って雑誌などでインタビューされているのをみたのだが、この曲に関して、驚くべき言葉が発せられていた。わたしは立ち読みしただけだったので正確に覚えていないので申し訳ないのだが、彼女はこう発言していたのである。

「これは気持ちを吐き出しただけ」


今までも宇多田は、瞬間としてエモーションを爆発させているな、と思わせる部分があった。

わたしは、その瞬間こそが彼女の本当の心理であり、それが彼女の<エモーション>、つまり感情・気持ちの真実の姿なのだと思っていた。

しかしそれはあくまで瞬間であり、唄声としての爆発だったのだと、彼女ははじめて明かしたのである。

彼女は今まで、言葉として感情を爆発させてなどいなかったのである。

まず、その事実だけでも私は驚愕したのだが、(今までの彼女の作品の詞の中でも、エモーションが爆発している!と思わせる部分があっただけに、それが理知的に生まれた言葉であるということが衝撃であった)

この曲が、宇多田ヒカルの真の叫び、真の感情であるということは、宇多田ヒカルが抱いているものは途方もない悲しみであるということの証明がなされているということに、とにかく驚愕した。


自らの手を「何も掴めない手」と称す彼女の姿には、もはや自暴自棄、というほどのアクティヴさもない。

そこにあるのは、圧倒的な自己に対するニヒリズムであり、嫌悪以上の諦めである。

その底辺にあるのは、自己に関する普遍的な悲しさであり(彼女は結婚という行事を迎えて、彼女自身を向きなおさなければならなくなったように思えてならない。それはモラトリアムであり、自己探求の時期に伴うのは圧倒的な、普遍的な悲しみである)、それを彼女は思い切り唄ってしまっているのだ。


そのまま続く彼女の唄は、2番では、「ああ」という言葉で殆どを唄っている。

それだけでも彼女のエモーションの昂り方、迷いと諦めと悲しみに満ちているではないか。

もはや言葉にならぬ彼女の感情は、「ああ」という感嘆詞につめこまれている。歓喜も絶望も祈りも焦燥も願いも諦めもすべてを彼女はこの「ああ」に仕舞いこんだのだ。

言葉も出ないほどの彼女の悲しみの大きさはあまりに痛い。それが、この曲にある普遍的な痛みだ。



宇多田ヒカルは、こっそりと、そして大胆に、同時に堂々と、彼女のニヒリズムと痛みを渾身の表現力で唄にしていたのだ。

そのことは衝撃的なことだと改めて気付かされる。

悲しみを背負ったことをも、唄というツールにおいて圧倒的なクオリティを以って表現してしまう彼女は、やはり天性の唄い手なのかもしれない。


最近、更新の殆どが宇多田ヒカルに関することを占めていて非常に申し訳ないのだが、いまのところ、宇多田ヒカルしか聴いていない状況だ。とにかく宇多田モードである。そのため更新も宇多田が多くなっている。

これからもそれが続くかもしれないがご了承願いたい。


この唄は、宇多田ヒカルの名曲中の名曲だと思う。

恋愛だけでなく、自らの存在に関しても絡んでいるところが秀逸だと思う。

恋愛ソングは、つい「恋愛」に重点を置きすぎて、それに集中しているが、本当の恋愛は、いつでも自らの存在がたしかに絡んでくるものではないだろうか?

好き、と思うと同時に、好きと思う自分のことをも考えてしまうものだと思う。

好きで好きで毎日が楽しい、などということなんて決してないはずだ。

好きで好きで同時に死にたい、という状況があるはずだと私は思うのだ。

それを、宇多田ヒカルは自らの才能を以って表現している。

だからこそ、シーンにおいて重要な一曲でもあるとわたしは思っている。


そんな、恋愛と自己の存在 というもののせつなさと痛みが絡みに絡んで最高に胸を痛くさせるのがサビである。

Aメロ・Bメロも本当にいいのだが(「散らかった部屋に帰ると / 君の存在で / 自分の孤独確認する」という歌詞はほぼ名言に近い何かをも感じる。あまりにもせつなくて的確でそして痛い!宇多田ヒカルが天才であるということを再認識させる部分だと思う)、このサビにある尋常ないほどの痛みは莫大だと思うのだ。


「誰かの為じゃなく

自分の為にだけ

優しくなれたらいいのに

一人じゃ孤独を感じられない

だから For You...

強くなれるように

いつか届くように

君にも同じ孤独をあげたい

だから I sing this song for you」


これを打ちながら思わず泣きそうになった。

あまりにせつなくて痛い。

ここにはたしかに、恋愛と自己の存在への祈りがあるのだ。

自分の為に優しくなりたい という 悲しい祈りはあまりに苦しい。身に覚えがありすぎる。

自分の為に優しくなりたい。そう思うこと自体が悲しいのだ。自分には優しくできないことが悲しいのだ。そういうことは本当にあると思う。

そして、「強くなれるように」「いつか届くように」という、自己への祈り、そして恋愛に関する祈りがあまりに自然に、同位のものとして扱われていることにわたしは大きな感動を感じる。そして、その祈りの中身が、あまりにせつなくて泣きそうになる。

そのあとに続く「君にも同じ孤独をあげたい」という言葉は、あんまりだと思う。宇多田ヒカルの天才ぶりは尋常じゃない。

君にも同じ孤独をあげたい と 自分がたしかに、思っていたということを、あっさりと見せ付けられる。

そんな心の裏がここにあるのだ。



もう、理屈だとか言葉だとかそういうことはどうでもいい

単純に、くるおしくせつない

宇多田ヒカルは、紛れもなく天才である

せつなさと痛みと自己の意義、恋愛、すべての要素を絡ませている彼女の才能に、改めて脅威を感じる。


正直言えば、宇多田ヒカルの邦楽アーティストとしてのはじまりは、3rdアルバム「DEEP RIVER」でしかないと思っている。

しかし、それ以前の彼女がダメだ言うつもりはない。いや、彼女がR&Bテイストを持ち込んだポップを唄ったことは明らかに正しいことであったと思う。彼女はそれをこなせていたのだと思うし、逆に言えば、彼女が<邦楽アーティスト>として生まれ変わるために必要な期間だったと思う。生まれ変わるためにあんな驚異的なポップソングを産み落としている時点で彼女の稀有な才能ぶりがよく判るが。


最近は見事に邦楽アーティストとして活動している彼女だが(Utada という名義もあるが、あれはもう行われないだろう。恐らく)、一貫して変わらないのは詞のセンスだと思う。

最近は、人間の生 自体への詞が多いので、あまり大きなことは言えないが、恋愛の詞のセンスは、初期の彼女のことばに思わずドキッとしてしまうくらいに冷静で的を得ている。

しかし、それを宇多田ヒカルは、ある種「お洒落に」唄いあげることが出来た人間だし、ギリギリで格好善さと人間臭さの両方のバランスを見て惑う姿を見せつけておきながら、それを唄うその瞬間の姿が、ハイセンスなまでに「お洒落」であるということの非対称に、リスナーは膝を打っていたわけだ。カリスマ、という言葉もそういうものなのかもしれない。


しかし、恋愛の詞において、「お洒落に格好善く」唄う彼女が、稀にエモーションが爆発させていると思う瞬間がある。

それが、今回でいう「タイム・リミット」の次の歌詞の部分だ。


「遅れずに来て

そして迷わずに居て

次の電車が通る前に

電話が来なかったら・・・」


この部分の彼女の痛切な願いの強さは、尋常ではない。他の部分では、 「他の誰かとオーダーしてよ」とある種クールなまでの態度をみせつけているからこそ、ここでの感情の爆発ぶりが明らかである。

宇多田ヒカルは、ここで、「お洒落で格好善い」姿を忘れてしまうほどに、願っているのだ。

遅れないで。電話して。迷わないで。早く来て。

待たされている瞬間の不安と痛みの交錯ぶりがここでは溢れてしまっているのだ。

もはや、ほかの要因などここでは関係ない。

彼女が「他の誰かとオーダーしてよ」と言ったその気持ちは、この<待たされている瞬間の痛み>がすべての要因であるようにしか思えない。

積み重ねがあるのかもしれないし、本当の事情などこちらには知ったことではない。

ただ、この<待たされている瞬間>の心臓の死にそうな気持ちだけが、恋をするものをとりつかせる。

そしてそれが全てにつながり、「他の誰かとオーダーしてよ」になるのだ。

それは、女という存在がもつ潜在的な本能の言葉であるし、痛みから回避したいせつない願いなのだ。

100の理由よりも、1の現象がすべてを支配してしまう。

それが恋愛なのだ、と宇多田ヒカルはその姿を以って証明しているように思えてならない。