YUKIがソロとなっての初のアルバム「PRISMIC」は、いい意味で、それまでの彼女を圧倒的に裏切る作品だと思うが、その中でも、この「忘れる唄」にあるYUKIの激しい才能は衝撃だった。

それまで、作曲という作業を行ってこなかった彼女が作詞・作曲を担当し、作曲のほうもまた見事に、それまでのポップ路線を逸脱するかのような、ビート感と鋭利とやわらかさを同時に持つ曲に仕上げた。


また、この唄の歌詞の見事さには、思わず鳥肌が立ったくらいだ。

始まり方して衝撃だ。


「上の戸棚からミルク取り出して

テレビに火をつけて 思い出した

生クリームに 指つっこんでたら

アイデア ディスポーザーにおちてった。 イエーイ」


いま、これを打っている最中にもまた鳥肌を立ててしまったくらいだ。

日常と非日常の世界を、YUKIはいとも簡単に唄う。

まるで、なんでもないことかのように。

上の戸棚からミルクを取り出す日常性と、

テレビに火をつける非日常性。

YUKIの世界にはすでにそういう観念がないということをYUKIはあっさりと唄ってしまう。

しかも、最後の「アイデア ディスポーザーにおちてった。イエーイ」 なんて、凄すぎる。もう、そんな言葉しかでないくらいだ。

悲しさを思い切り嘲笑するその皮肉な「イエーイ」の必然性を、YUKIは判っているのだと思う。

本来、「イエーイ」なんて入れなくてもいいのかもしれない。

唄うにしても、歌詞に載せる必要もないかもしれない。

しかし、YUKIはそれを唄ったし、世界観の一部として表記している。

それは、思い切り自分を嘲るというある種の自虐性を世界観の一部にしてしまうことのできる、YUKIの秀逸な音楽家・表現者としての才能がなせる技であると思う。


そんな、日常・非日常が交錯する世界で、悲しみと嘲笑をさらりと唄うYUKIが、いちどだけ叫ぶときがある。

それは、日常も非日常も分別しないこの世界の、はっきりとした狂気を見せている。


「本当のことを 知りたい

うそでもいいから 知りた―――――――い!」


ここにある、狂気性! もはや、真実・偽造の価値すら問わぬ、人間の意思の狂気である。

<本当のこと>ならば、<うそ>でもいいとYUKIは、はっきりと唄う。

そして、これを聴いた者は思ったはずなのだ!「ああ、たしかにそうだ」と。

誰しもが、この矛盾した意思を持ったはずなのだ!

YUKIは、冒頭で、日常と非日常が交錯する、ある種の<不思議な世界>だと、リスナーを感じさせておきながらも、この二行で、瞬く間にリスナーを現実に戻す。不思議な世界などと言って、そこにある感情はたしかにわたしたちの意思なのだと。


YUKIは、こんなにもわたしたちに才能をみせつけてきた。

そこには、ひとつの生命体・ひとりの人間・ひとりの女としてのYUKIがここにいるのだ。

はっきりと、衝撃的である。

本当のことを知りたいわたしたちの裏側の気持ちを、こんなにも美しく暴いた女はきっとYUKIだけだろう。

YUKIの才能は、はっきりと天才で、そして恐ろしい、そしてとてつもなく美しい。

その証明の一曲である。



いまさら私が言うまでのことでもないが、邦楽ロックの超傑作に、「SABRINA HEAVEN」が入ることは間違いないと思う。

このアルバムの持つ驚異的なロックの力(--それも、氷山に登るかのような冷たい苦痛に向かっていくもののとしての--)はあまりに大きすぎる。

そしてまた、ミッシェル・ガン・エレファント自身が終わりに向っていく最中の状態にも関わらず、彼ら史上、最も傑作ともいえるほど、ロックを手にしていることが衝撃的なことである。

潔くうつくしいミッシェルの姿がここにはあるのである。


そんな「SABRINA HEAVEN」をはじめて聴いたとき、たとえば悲壮感・絶望感をたしかに包囲しながら、絶対的にロックである曲たちに感動を覚えたのだが、そんな感動をもこえて、単純に<衝撃的>だったのが、この「サンダー・バード・ヒルズ」である。

一曲とは思えないほどの曲の長さ(8分を超える!)をリスナーに全く感じさせぬストーリー性、

混雑していくチバの感情、叙情性を抱く単語と、もはや叫び、言語感覚的な言葉でしかない単語の数々。

イントロの雑然とした音の加減とチバの声だけが響く瞬間。

どれをとっても、あまりに衝撃的なまでに人の心臓を奪ってしまうものである。


まるでしずかだったイントロから、徐々に、ミッシェルの真骨頂のひとつでもあると言える、バンドサウンドの美しさがはまりこんでいく様がとてつもなく美しい。

アベ・ウエノコウジ・クハラカズユキ らが、熱情を思い切りそれぞれのプレイに託したその瞬間の、あのどうしようもない「うつくしさ」はロックの快楽そのものである。

そして、バンドとしては初の試みであると思われる、トランペットの音(ドラムのクハラがプレイしている!)。

まるで狂ったように空間に音だけを轟かせるそのトランペットの狂気ぶりは、この「サンダー・バード・ヒルズ」という空間にあまりに正しく存在している!


サウンドや音に関することだけでも、あまりに最高なのだが、やはりチバの真骨頂の歌詞もまたどうしようもないほどに最高なのだ!

狂気と激情が昂っていく感覚のうつくしさは最早ロックの快感としか言い様がない。

イントロは、サウンド面でも同様に、しずかに、割と落ち着いたように唄っていたチバが、少しずつ狂気と激情を以って昂っていく!


「この世の中が

赤と青だけで

できてるなら

ビルディングは

すべてまったいら

立体はみんな

ニセモノだってことさ

ニセモノだってことさ」


そう唄うチバの激情が、わたしたちリスナーの感覚・意思・存在・世界をも逆転させ、この曲の世界に持ち込んでいく力があまりに壮大するきる。

これはもはや、叙情性などというレヴェルではないのだ!

チバは、音と声と歌詞だけで、それをリスナーの肉体に持ち込ませ、そういった感覚を持ち込ませるという業をみせているのである。

ロックはジャンルではない。現象だ。 それを思い切りこの曲は証明しているのである。

いま、ミッシェルが、チバがリスナーに生じさせているのは、意志と感覚の変化、ロックへの沈下である。

わたしたちは、もはやそこか逃げられないのだ!

否応がなしに、この世界に巻き込まれてしまう。

それだけのエネルギーを、「サンダー・バード・ヒルズ」は持っている!そして、ミッシェルはそれを「プレイ」できるほどの<ロックの業>を持つバンドなのだ。


そのあと、もはや狂気すら覚えるほどに、声を荒げるチバ。

「ほんとは地球はまるいはずなのに」

「あの娘は風になった」「俺達は風になった」

その狂気の沙汰は、もはや私には祈りのようにも見える。



なにはともあれ、この曲のもつ果てのないエネルギーは、ロックというものの力そのものの証明でもあると思う。

ミッシェルが、この曲をこの世界に残したことを、この世界は誇ってもいい。


二期となるROSSOのファイナルとしての作品「Emissions」に収録されている、 「発光」のビデオクリップを観た。


音楽を目前にして、ときとして死を予感してしまう瞬間がある。

RADIOHEADのHail ~ を聴いたときのわたしは、本能的に、いや、むしろ言語感覚的に、「殺される」と思った。(Hail To The Thief はわたしがはじめて聴いたレディオヘッドだったからなのかもしれない。)

この「発光」も極めてそれに近いレヴェルの音楽だと思う。

ただ、わたしがレディオヘッドに「殺される」と思ったように、わたしは彼らに殺されるとは思わなかった。

ROSSOがわたしにしかけてきたことは、“生”ということを表側から裏側まで、瞬間的に全て見せてくる、ということだったからだ。

めくるめくスピードでしかけれてくるそれらに、わたしの感情は追いつかなかった。

感情はめぐりまわり、わたしの脳を錯乱させる。それでもわたしの肉体は、魂は、心は、ROSSOがしかけてくる世界に無意識に反応し、感情を産み落としてしまう!

わたしの中は、感情のカオスだった。

恐怖? 絶望? 希望? 消沈? 感動? このどれでもないし、そして、これらの全ての要素があった。

ただわたしの身体は、ROSSOの音に震え、わたしの魂は、ROSSOがみせる“生の全て”に泣いていた。

それは決して絶望的なものではなく、彼らがみせるロックというものの存在の大きさに、そしてROSSOにわたしは泣いていたのかもしれない。それはひとつの感動である。


チバが世界に産み落としていく言葉は、わたしたちの心を否応がなく引き裂いてしまう

その引き裂かれた隙間に、チバは、彼の意思を丁寧に注いでいく

それはあまりに美しい瞬間であろう



もはや衝撃などという言葉では表現しきれない一曲である

この10分は決して長くない。

もうなんでもいいから、この「発光」の世界に一度でいいから、入ってほしい。

感情のカオスは、きっとあなたの心に、ロックの意志を注いでくれる筈だ。


ここ最近、わたしは、ある曲に憑りつかれている。

GO!GO!7188の「神様のヒマ潰し」だ。

(現時点で)最新曲でありながら、すでに私の中で「7188で一番好きな曲」になってしまいそうな勢いである。

なにがいい、といわれても、全部いい!としか言えなくなってしまうほど、この唄の前で私は完全に骨抜きである。あんまりによすぎるのだ。


この唄を聴くたびに、わたしはどこか、胸の奥を撫でられるような、同時に鷲掴みにされているような、そんな複雑な甘美さを感じる。

そこには、GO!GO!7188というバンドのアンサンブルの深みの、音楽的な美しさと、

この唄自体が持っている、「神様のヒマ潰し」=「恋」 というもの自体の甘美さ 両方があるようにわたしは思うのだ。


GO!GO!7188は、個人的な見解ではあるが、アルバムごとに明らかに変化しているバンドである。それは、徐々に、などというレベルでなく、はっきりとした分かれ目を持っていると思う。

そしてそれは、「初期のほうがよかったよね!」とよく言われたりする言葉を簡単に打破してしまう変化なのだ。

GO!GO!7188は、最新のものが一番うつくしく思える。

それは、1stがどうとかそういうことではないのだ。GO!GO!7188は、驚異的な速さで成長し、深みを手に入れていく。だからこそ、それの集大成である<最新曲>がうつくしいのである。

1stも2ndも3rdも何もかも、GO!GO!7188 という瞬間がうつくしいのは判り切ったことなのだ。

だからこそ、そのうつくしさの更に上を提示しているGO!GO!7188というバンドは素晴らしいバンドであるし、彼らの実力というのは並大抵のものではないのだ。

そんな彼らが提示する、音楽的な深みは、はっきりと恍惚を人に与える。

音楽は、音を楽しむ ことである。そしてそれを造ることは、音を楽しませることだ。

しかし、それを超えて、感情の沸点を超えさせることが、どこかロックの使命でもあったように思う。ロックは、人の無力にする。無防備にさせてしまう。それは、感情の沸点を超えているからなのだ。

そんな、感情の沸点を明らかに無防備にして、7188はわたしたちの脳に、身体に、魂に、7188の深みを存分に味あわせてしまうのだ。

それは、誰しもが恍惚に導かれてしまうし、俗に言う「ロックでイク!」なんていうことは、それに近いものなんじゃないかと私は思っている。




恋の甘美さ、せつなさ、深み が、GO!GO!7188と交じり合って、それはもう大変なまでにうつくしい一曲だ。

わたしは今日も、この唄のうつくしさから離れられない。




chatmonchy has come



チャットモンチーは、ミニアルバムでデビューした。

シングルでもなければアルバムでもないのだが、デビュー1枚目にも関わらずタイアップがつきまくったのがこのミニアルバムの一曲目を飾る「ハナノユメ」である。

タイアップが必ずしもいい、という意味ではないが、タイアップされるには、企業側に訴えかけるセンスが必要である。それをたしかに勝ち取ったチャットモンチーは、やはりすごい。


「薄い紙で指を切って

赤い赤い血が滲む

これっぽっちの刃で痛い痛い指の先」


という冒頭のもつ圧倒的な支配力は絶大だし(気付いたらこのフレーズを口ずさんでしまうのだ!)、

サウンドは鋭利で文句なしの仕上がりなのに対して、どこか女の子の匂いのするポップさが伺えることが彼女たちのセンスなのだと思う。


「二本足で立つ地球のすみっこ

ふらつく体 バランスとれてるかしら

トランス状態抜け出せなくて

グルグルまわる 明日はどこ」


と、これだけ読むと一般的な歌詞の書き方だと思うが、それを唄う高橋絵莉子のヴォーカリスト・音楽家としての才能は異質であるし、天才的なものすら感じる。

まるで息継ぎなし、世界観に余白を与えぬ唄い方。

しかし、それに一切の苦しさを見せない余裕ぶり。

その唄い方が、「グルグルまわる」というこの詞の世界に繋がっている、ということがまた衝撃である。



こんな才能ぶりをデビューからみせつけている彼女たちだが、最後に、単純にひとりの女の子としての願いをこめて、「枯れてしまったピンク色のバラ / 幸せをあげるから」なんて唄うから、またもやわたしは彼女達に心臓を奪われてしまうのだ。


ついにである。

2005年11月にデビューした三人組バンド、チャットモンチーを聴いた。

彼女達の存在は、デビュー直後から周囲の反響が凄まじく、私自身非常に気になっていたところなのだが、今回の1stシングル「恋の煙」を今日やっと聴けた。


これは、衝撃だろう。

周囲の大反響も、ロック編集者・山崎洋一郎の大絶賛も納得である。

これはとんでもないバンドだ。ありえない、といってもいいだろう。

ここ数年で、デビューして4ヶ月。1stシングル(デビューはミニアルバムだったが)で、これだけの力量を持っているということは実に脅威である。


チャットモンチーのサウンドは鋭利でセンシティヴである。

特に、ヴォーカル・橋本のギターは顕著だな、と思う。

あの可愛らしく、言ってしまえば“どこにでもいそうな女の子”が出しているとは思えないほど、非常にクールで鋭利で、空間を切り裂くようなギタープレイは思わず舌を巻いてしまった。

また、同時に彼女のギターは、空気を切り裂く鋭利さを持ちながらも、まだまだ若い女の子の、普遍的な繊細さをもどこかに持っている。完全に鋭利ではないのだ。彼女のギタープレイは、直球勝負でありながら、どこかカーブのような印象である。

きわめてロックなプレイをしながら、どこか“女の子”であることをきちんと見せているところが素晴らしい。


これは、ロックにおける大きな大変革だとわたしは思うのだ。

彼女は、彼女であるこことロックをプレイする、ということをきちんと両立している。<普通>の彼女の状態で彼女はロックをプレイできるのだ。

橋本絵莉子という存在は、これからの邦楽ロックをたしかに変えてしまうんじゃないだろうか。


肝心の曲なのだが、一回目から胸をグッと締め付けられるほどにうつくしい。

言ってしまえば、ただの恋の唄である。

だが、もはや狂おしいくらいに美しくてせつないのである!

「当たりくじだけのくじ引きがしたい」なんて言葉、あんまりにも切実すぎる上にすごすぎる!



衝撃だらけの3分13秒であった。

6月にはシングル、7月にはアルバム発売が決定しているチャットモンチー。

今後の活躍に期待、なんてどころではなく、もう私は彼女たちに骨抜きである。

ああ、ロックとはなんてすばらしいんだろう!

まだこんなにも胸を燃え上がらせるロックという存在、そして、そのロックにまたたしかな変革を齎したチャットモンチーに、心からの賛辞を送りたい。


1stであること、彼らが若いということもあるのだろうが、サウンド・世界観の衝動的なパワーの大きさが顕著で、そして最高なのが、この「蛇足歩行」というアルバムである。

このアルバムには、若さ故のあらゆる感情が、破竹の勢いで表現されている。(実際に彼らが破竹の勢いでこれらの曲を作ったのかどうかは定かではないが、聴くにつけ、この勢いはまさしく初期衝動のなせる業、と思うのだ)

そして、そんな初期衝動そのものを表現しているのがこの「ロック」である。


少々不穏なオーラを出したベース音から始まり(それにしてもアッコの“不穏なベース”は唯一無二だろう)、パンキッシュさが特長ともされるユウのギター、そしてアグレッシヴながらも安定した、ターキーのドラム。

この、不穏さ、ただならさがなんとも言えずいい!

デビューしたときから彼らはこれだけのサウンド面でも成長しきっている、ということが実に素晴らしいことだとおもう。


「うずうずしている 何かやりたい / でもやりたいことがない」

「ワクワクしたいよ どこか行きたい / でも行きたいとこもない」


歌詞の一発目から、完全にノックアウトである。圧倒的に、GO!GO!7188の勝利なのだ。

あきらかに真理である。事実である。

何かしたくてもやりたいことがなく、ワクワクしたくても行きたいとこがない。

そんな経験だらけだ。わたしは。

そして、それをストレートに表現できるGO!GO!7188の強みがなんとも言えず美しく爽快である。


イントロからサビにかけての流れの爽快なまでの突き抜けぶりもまた見事で、これがデビューして1年未満のバンドが造ったものだということが本当に驚異的だと思う。

ユウの存在感のある声がまたなんともこの世界観に合っていて、彼らのセルフプロデュースの力もまた衝撃的である。

GO!GO!7188はとにかく衝撃、脅威のバンドだった。

いまやよく言われる「和製ロック」「和風ロック」という言葉は、きっと彼らがいなかったら生まれなかった言葉であると思う。(GO!GO!7188がロックかどうかは別問題とするが)



衝動ぶりがあまりに痛快に美しい一曲である。

おいしモノをたくさんたべたぁい、わたしたちの心臓を揺さぶることは間違いない。

昨日、BSで吉井和哉のライヴの放送がされていた。

吉井和哉としては初のライヴツアー、そし7年ぶりの武道館公演である。


一曲目「TALI」のギターによるイントロが流れ出てきた瞬間の、あの興奮はライヴならではのものだと思う。

TV画面上でありながらも、思わず、「あっ!」と興奮に声をあげられずにはいられなかったぐらいだ。

TALIという唄のもつせつなさ、かなしさ、くるしさを、吉井和哉はきわめてアグレッシヴに表現する。

しかも、彼はTALIという唄のもつ「緻密さ」もそのアグレッシヴさの中に含ませている。

流石だな、と思わずにはいられなかった。


このライヴにおいて、吉井和哉はすこしだけ濃いメイクをしていた。(すこしだけ濃い、という表現は日本語として不適切なのかもしれないが了承して頂きたい)

THE YELLOW MONKEY時代ほど艶やかで絢爛ではない。

YOSHII LOVINSON時代より、シンプルでもない。

「吉井和哉」は、その両方をも手に入れてしまったのだ。

艶やかであることとシンプルであることを両立して存在させているのが「吉井和哉」なのである。


「FINAL COUNTDOWN」の燃えるような盛り上がり(あれを直に体感した人の幸福と衝撃はきっと計り知れないだろう)や、「WHAT TIME」の静寂さと同時に存在しているたしかな、エナジーという「炎」は見事である。


しかし、吉井和哉の持つこのヴァイタリティー、エナジーの深さというのは改めて感慨深い。

このライヴの彼を見て、わたしは、彼から、ミック・ジャガーと同じようなオーラを感じた。

YOSHII LOVINSONから吉井和哉になったときに、彼が、「ロック」という現象から、再び「ロックスター」に戻った、ということはこのブログでも書いたことだが、わたしは、自分でも彼から、ミック・ジャガーと同じエネ

ルギーを感じるとは思ってもいなかった。


邦楽は往々にして洋楽と比較され、けなされもする存在であるが、わたしは、吉井和哉がこの日本に存在して、この日本を代表とするロックシンガーである、というこの事実だけでも、まだ邦楽にはたしかな息吹があり、決して洋楽にも引けをとらないものだと確信できると思う。



最後にひとつだけ引っ掛かったのは、このライヴの最後に、THE YELLOW MONKEY時代の「バラ色の日々」を唄った、ということだ。

この番組中にも、セットリストに「バラ色の日々」と書かれてあるシーンも見た。(残念なことに放送はされなかった)

そこにある彼の真意を知りたい、と思う次第である。


東京事変の「歌舞伎」は、ちょっと異様だと思う。

エフェクトされた声に、複雑すぎるメロディーラインに展開。

それでいて、圧倒的にユーザーを巻き込んでしまうパワーを持っているこの唄は、明らかに異様である。


この曲は、ある種「東京事変の紹介」という唄になっている。

そして改めて知ることなのだが、このメンバーのプレイってすごすぎるな、ということなのだ。

全員にソロ部分があるわけなのだが、全員が巧みなプレイをしているのである。

師匠のウッドベース(これは初挑戦とのこと)はやっぱりどう考えても最高だし、浮雲氏のギターは上手すぎるぐらいに上手い(こういう表現しかできなくて申し訳ない)。伊澤氏のピアノ(シンセサイザー)はポップであり、アグレッシヴさをも感じさせるのだが、それが全て計算であることが伺える(関係はないが、事変での伊澤氏のプレイは非常に理知的である)


特に私が衝撃だったのは、ドラム刃田綴色のプレイである。

彼のプレイは、この日本でもなかなか驚くようなプレイだと思っている。

ドラムというのはリズムパートなため、よく「屋台骨」などという表現をされるが、彼の場合は屋台骨でありながら見事な主役レヴェルなのである。

彼のプレイはしなやかで存在感がある!

私の日本三大ドラムプレイヤーに思い切り存在するドラムである。(ちなみに、中村達也・アヒトイナザワ・刃田綴色である。個人的にはクハラカズユキのドラムも大好きである)



それにしても、この曲のある種のアヴァンギャルドさ、そしてアグレッシヴは顕著である。

ある種暴走しているかのようにも見える。

しかし、これがポップスと音楽性の間を彷徨いながらもまとまりのある演出であることがたしかに感じられるのだ。

東京事変は理知的なバンドへと変貌している。

この曲は、そういうことをも示しているのだと思う。



なんにしても、「It is coming, It's so coming」と唄われた日には、こっちだって思わず頭ガンガン振り乱してしまいたくなるようなそんな魅惑的な一曲である。

ファンクラブ



アジカン、渾身の3rdアルバムの一曲目がこの「暗号のワルツ」なのだが、この唄、単純にいいなあと思う。

1stにも2ndにもなかった世界観が、いきなり広がっている状態で、この「ファンクラブ」というアルバムの世界にユーザーをぶちこんでいる感じがなんともいえずいい。

この唄が持っている世界観は、はっきりとヘヴィである。

ここには、生きるということ、人と共存していくことの、重さや痛みや迷いがある。

そして、そこに湿っぽい「悩み」めいた感覚はなく、どこか俯瞰しているかのような視点でみている感覚があるのだ。

それは、自分自身のことですらどこか切り離してみてしまうという、はっきりとした<冷静さ>がある。そしてこの冷静さは、無関心さ、冷淡さという言葉にも代えることができるだろう。

クールというよりはそのことに関する意識があまりにも少ないような感覚。

しかし、アジカンのいわばフロントマン、後藤は、生に関する意識を唄うことが出来るヴォーカルであるし、そしてそれを唄として表現できる音楽家でもあるのだ。

そんな生の意識を唄う彼が、ここまでの表現をしているということがきわめて衝撃的である。

彼は、生の意識を切り離してしまう、という「生の意識」までをも表現してしまっているのだ。

後藤はここまできたのか!とはっきりと衝撃をうけた。

アジカンは、今一番ロックに近づいている若手のバンドだと思った(彼らは結成10年という長いスパンで音楽活動をしているバンドなのだが・・)。

「君に伝うかな

君に伝うわけないよな」


という最後の歌詞は、世界を揺るがすような諦めである。

コミュニケートというものの存在から覆してしまったこの意識は、あまりにも悲しい意識である。

しかし、わたしたちはこの意識を、少なからず持ってしまうのだ!

わたしは、過去何度なく、こんな風に思った。

あまりにも悲しい事実である。

アジアンカンフージェネレーション、後藤のポテンシャルに驚かされた一曲であった。