「雪国」ははじめ、ピンと来なかった。

シンメトリーに構成された曲順の中心に位置するこの曲に、どれだけの林檎女史の意味合いがあるのだろうか?とずっと思っていた。

しかし、ここ最近「雪国」を聴いて、その考えはあっさりと払拭されることになる。


「雪国」はきわめてヘヴィである。

もはや、希望や夢やそういったものを思い切り弾圧してしまう世界観がここにある。

それは、しんしんと降り積もる雪のように、冷たく痛い。

椎名林檎の唄声のド迫力がすさまじい。もはや、エモーションなどという域のものではない。

声そのものが感情であり、声自体が鋭利な生命体なのである。

生きているうちに、こういう衝撃的な唄声にめぐり合えたのは実に幸福なことである。

また、それだけヘヴィな唄声を出せる椎名林檎に脱帽である。


「女が待てば男は黙る

溶け出したなら急いでほら

忘れてしまえ

男は殺すのさ

早く立て

凍えてしまわぬように」


この曲の歌詞もまたきわめてヘヴィだ。

しかし、それがここ「殺す」という単語が出ているからだとか、そういうわけではないのだ。

ここにあるのは、衝撃的なまでの<事実>である。

男と女という生命体の決定的な違いである。

ここにあるのは、<恋愛>という枠で語られているものではない。

椎名林檎は、この唄を「女」の唄として唄っているのである。

生命体としての根本的な差や、<女>という生命そのものの感情部分を唄っているのである。

男や女という性が起こす摩擦、それによる憤り、悲しみ、諦め。

椎名林檎は、そこに<恋愛>という匂いを付け足したのだろう。

全くもって驚異的である。



椎名林檎の、唄い手としての衝撃的なまでのポテンシャル(歌手生活をずっと続けていながらも、未だに彼女は<唄い手>としての高すぎるスキルを完璧なまでに見せてしてくれる!)や、

<女>という存在が起こすエネルギーの深さを改めて教え込む一曲である。


あっぱのCDを聴いた。



聴く前には、ものすごくエネルギッシュなのかもしれない、と思ったり、

クラシック出身(VoとPianoを担当する伊澤啓太郎は、クラシック出身である)だから、緻密な音のするバンドなのかもしれない、と思っていた。

東京事変 というバンドで、伊澤氏のピアノを聴いている限りでは、彼のピアノプレイは、<緻密>という言葉が似合っていた。

彼の音は、計算しつくされたかのような存在感がある。

それは、彼の意思を、まるで彼自身のものではないかのような冷静さで、構築し、整然と存在させるかのようなプレイだった。

だからこそ、彼は緻密で繊細な、また逆にいうと、アヴァンギャルドさや華美さのないようなバンドなのかもしれない、と私は考えていたのだ。

しかし、そんな予測を、あっぱは優しく、笑顔で裏切ってしまった。

あっぱの音楽は、ロックとかジャズとかクラシックとかポップとかそういうジャンルというものの存在から、笑顔で壊している。

あっぱの音楽は、きわめて<呼吸>という現象に似ている。

生きるためのものであると同時に、気軽なものである。

呼吸を わたしたちはいつのまにか できるのだ。生まれた瞬間から、声をあげることによって私たちは呼吸という術を手に入れてきた。

呼吸とは 生そのものでもあり、また、ひどく身近で、逆にいうと気軽に得る生なのである。

(過呼吸という症状も無論あるのだが、ここでは例外的な存在とさせてもらう)

あっぱは、まるで呼吸しているかのような音楽をつくる。

ああ~ とためいきをついたり、興奮しちゃって息あがったり、絶叫する前にひと呼吸おいたり、そういう類のあらゆる呼吸を、まるで音楽で表現してしまっている。

これは驚異的なことだ。

あっぱの音楽は<呼吸>にひどく似ていると同時に、聴いていると、あっぱ自身もまるで呼吸をしているかのように音楽をいまこの瞬間に産み出しているんじゃないかと思う。

それはきわめて、音楽的なことである。

音楽的なものとは、とてつもなくうつくしいのだ。音楽の基盤だからだ。

何はともあれ、この一枚、かなり驚異的である。

わたしたちは生を求めるが故に呼吸を無意識に求めている。

それとまったく同じように、わたしは無意識にあっぱを求めている!

これは中毒と同じことである。

ああ、驚異的なり。あっぱよ。


スピッツはいつだってせつない。スピッツの名曲はいつもせつなくて、だからこそいとおしかった。

だが、この「楓」に関しては、せつなさに相乗されるあらゆる感情があまりにも切実だ。

スピッツが描く痛みや悲しみは、いつでも私達の痛みや悲しみと同じだった。

だからこそこの「楓」はあまりにも美しくて胸が痛い名曲なのである。


イントロから、草野マサムネが「忘れはしないよ」といった瞬間から、私の胸にはじわじわとせつなさや痛みが広がっていく。

草野マサムネの声は、あんまりにもせつなくてきれいだ。

ピュアと最低の汚れを知っているかのような声だと思う。

だからこそ草野マサムネの声はとてつもなく純粋でうつくしい。だからこそ、聴くたびに胸がすこしだけ痛くなる。それもまたひとつのせつなさだ。


そして、曲が進むにつれ広がっていくせつなさは、サビにきて確信を持った「せつなさ」になる。


「さよなら 君の声を 抱いて歩いていく

ああ 僕のままで どこまで届くだろう」


ここには、爆発的な感情はない。とてつもなく静かなものしかない。

草野マサムネは、「さよなら」といえるくらいに冷静なのだ。

そこには、「さよなら」と言う覚悟をしたものの決定的な「痛み」がある。

さよならの覚悟を決めたとき。

それは、まるでこれからくる木枯らしの季節への覚悟と、とても似ている。

覚悟は決めても、理解はしていても、木枯らしはいつも痛いものだ。そしてそこからは逃れられないし、もう逃れるような気持ちもない。ただ、それは「痛い」のだ。


そしてそんな覚悟がいつも同時に持っているものは、「侘しさ」なのである。

せつなさに吹く風は侘しさなのだ。

楓を揺らすのも侘しさだ。

スピッツはそのことを知っている。

だからこそこんな名曲をつくってしまう。

誰が耐えられるんだろうか? 誰がこの曲でせつなさを覚えないというのだろうか?

誰もが知るせつなさ。記憶の奥の奥にあった侘しさのこと。


あまりにもうつくしくて、そしてあまりにも痛い、名曲である。

わたしもまた、この曲を抱いて歩いていくのだろう。


先月発売されたスピッツのベストを聴きながら、スピッツはやっぱり永遠だ!と思った。

聴きながら胸が熱くなったのは言うまでも無い。

スピッツほど、ひとをせつなくさせるバンドはいないのだ。


生きていくうえで、わたしたちはたくさんのせつなさに出会う。

誰かに恋したり、裏切られたり、願ったり、落ち込んだり、ひとりが淋しかったり。

毎日なにかにせつなさを感じ、せつなさと共に生きているといっても過言ではない。

スピッツのせつなさは、そんな毎日のせつなさであって、そして同時に、身に余るほど大きなせつなさでもある。

思わず涙があふれそうになるほどのせつなさ。

わたしたちは、日々のせつなさになど目もくれない。忘れていかなければいけない。気付くことすらないときだってある。

それは、 「なんか無理矢理にフタをしめた」ようなもので、せつなさはただそこにあるのだ。毎日のせつなさは、わたしたちのこころのなかにも留まっていく。


そんな、こころのなかでフタをしめられたせつなさは、スピッツを聴いた瞬間に、そのフタを開かされてしまう。そして、こころのなかのせつなさがせつなさに反応して、とてつもなく大きくなってしまう。

だからこそ胸が苦しく痛い。だからこそいとおしい。

だからこそ、スピッツはうるわしい。


また、特筆すべきは草野マサムネである。

「バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日」の一文は、どう考えても衝撃的である。

こんなことをかける奴は、これから先でも出会えないと思う。草野マサムネただひとりだ。

もはや、草野マサムネは天才などという類のものではない。

彼の音楽表現は、すでに“業”のレヴェルである。


また、「冷たい頬」の「壊れながら 君を 追いかけてく」という言葉や、「ゴミになりそうな夢ばかり」などに象徴される、圧倒的なネガティヴ・イメージを、スピッツはあまりにも知っている。

スピッツは何だって知っている。きっと。

わたしたちもきっと同じことをしっている。

悲しいこと、せつないこと、痛いこと、苦しいこと、死にたくなったこと。

そんなすべての痛みをスピッツは知っている。


だけど、スピッツは、それでも希望に向おうとする。「削られて減りながら進む」と唄える。あらゆる痛みを知りながら。痛みがこれからもあると知りながら。


この世の中に、生きていくうえでの痛みを知っているひとは山のようにいる。

そして、それをちゃんと表現できるアーティストもわたしはたくさん知っている。

その中で、その痛みのなかでも、生きていく。と言えるアーティストもたくさん知っている。


だけど、だけど、スピッツのそれは、あんまりにも特別だ。

スピッツの、希望はあまりにもせつなくてうつくしい。

彼らのせつなさは、わたしたちのせつなさだ。

彼らはわたしたちのこころのなかにもいるんだ。そして、わたしたちと同じことをおもう。

だからこそ、あんまりにも心に沁みてしまうのだ。


せつなくてせつなくて毎日が痛いわたしたちの人生。

悲しくて、せつなくて、痛くて、苦しくて、死にたくなって。

だけど、スピッツも同じように痛みを覚えながら、希望に向う。

そのことが、わたしたちにとっては大きな、大きな「希望」なのだ。



わたしは、スピッツほど、こんなにも胸を熱くさせておきながら、こんなにも愛されているバンドを知らない。

彼らは永遠なんだ。

わたしたちの毎日にいつもいるせつなさが永遠なように。


GO!GO!7188ベストアルバム「ベスト オブ ゴー!ゴー!」に収録されている新曲「神様のヒマ潰し」。

聴いてみると、やはり7188は最高のバンドだな…と改めて思い知らされる。

ベストに収録されている楽曲は無論いいのだが、この「神様のヒマ潰し」は、郡を抜いて整然と起立しているかのような美しさと潔さがある。


この唄は、イントロからしてちょっといいなあ、とわたしは思う。

シンプル、というよりは味も素っ気もないギターから入る、そのある種の簡素さは、歌詞の世界にも通じているとも思う。爆音バンドなだけに、こういった選択でも、彼らの存在感はたしかである。


そんな簡素な冒頭部分、Aメロ部分はもちろんいいのだが、(TVには謎がない、とはっきりと言った浜田亜希子に拍手を送りたい)この曲のサビ部分というのは、もうなんともいえず <いい>!


「物語の鍵を握って遊んでいるのは誰?

ずいぶん悪趣味なヒマ潰し

その心の奥を掴んで 揺さぶるものは何?」


これは秀逸だなあ、と思う。

いってしまえば、このサビ部分においても、7188得意の爆音プレイは、なされてはいない。

冒頭部分と比べれば、たしかにそれぞれのプレイはサウンドとして見ても威力のあるものにはなっているが、これは決して<爆音>ではない。

わたしが最初に書いたとおり、彼らはずっと整然と起立しているのだ。

ここではもう、彼らは爆音などというものは捨ててしまっているのかもしれない。

ユウのギターとヴォーカル,あっこのベース,ターキーのドラム。それらのアンサンブルの奇跡的な美しさを静かに見せるかのようなプレイだとわたしは思う。

そして、そのアンサンブルの美しさ! やはり7188は完璧なバンドである。


ベストに収録されている一曲目「こいのうた」も、またこの曲と同じように、恋愛をテーマにした曲である。

しかし、7188はまた、自分自身をも飛び越えてしまった。いや、飛ぶなんてもんじゃないだろう。

彼らは整然と起立したまま、また自分をも越えてしまう。

これからもずっと、そんな美しく秀逸な彼らの音楽に溺れてしまいたい、と思ったのはわたしだけではないはずだ。

ワールドアパート



現在発売中の3rdアルバムの先行シングルとして発売された「ワールドアパート」

シングルとして聴いていたときは、メロがいいな、と思ったくらいだったのだが、いまになってこの曲の持つ意志のキャパシティに驚いている。

アジカンがこの曲を造った、ということは彼らにとって大きなことだと思うし(ブルートレインもまた大きなことだったが)、同時にリスナーに対する発進力の大きさもまた凄まじい。


ブルートレインというシングルは、たしかに意欲作であった。わたしは、「バリヤバ」だと表現した(ちなみにこの表現は、後藤も愛するZAZEN BOYS,向井からの引用である)。

それはたしかに、バリヤバイ代物であったし、別にリスナーに対する発進力がなかったわけでもない。

しかし、意欲作というものはえてして広がり難いものなのだ。

あの難解な、サビがあるのかないのかよく判らない感覚(ちなみにわたしは、サビはあるな、と思っている)は、くだらねえ生温い似非の音楽を聴いてきた今のリスナーにとってはキャッチしづらいものだったんじゃないかと思う。


しかし、ワールドアパートは、圧倒的にメロの力を持っている。それは、爆発的なエネルギーを以って燃えているサビの持つ力の大きさもあるし、その単純な判りやすさは、まさしく音楽的なものだとわたしは思う。

そして同時に、歌詞のもつ壮大な<意志>を支える、曲自身のキャパシティにも驚かされる。

歌詞のたしかな意志を、ワールドアパートの曲は、より後押しするかのように存在するし、また同時に、「それができるのか?」と問うかのように鋭利な一面すら持っている。

わたしは、これを曲のキャパシティの大きさだなと感じた。


それにしても、このワールドアパートの歌詞というのは、ちょっとびっくりするぐらい<いい>。


「実態のない未来と愛の輪 / 僕たちのささやかな願いすら / 夢のようだよ」という、揶揄めいた諦めのような気持ちを先に並べておきながらも、

「僕の両手にはこれだけだよ / 心の中に革命を」と言えるその意志はたしかにうつくしくうるわしい。

それは、現実をたしかに受け容れながらも、すべてを変えていくという見事な意志だ。

現実逃避がお得意、ないまのわたしたちにはないバイタリティーがここにはある。

だからこそそれはとてつもなくうつくしい。

「心の中に革命を」という一言で、すべては表されているようだ。見事である。


この曲は個人的に非常に好きである。

ああ、ASAIN KUNG-FU GENERATIONはいいバンドだなあ、と改めて思わされる一曲だ。

ファンクラブ



今日、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの3rdアルバム「ファンクラブ」を聴いた。

まだ聴き込んでいる段階ではないので、はっきりと明言することはできないのだが、ただこれだけは言っておこう。


ASIAN KUNG-FU GENERATION は、ロックに限りなく近づいている。

彼らの成長は、近年類稀なるものだ。


もはや心臓に畳み掛けるような歌詞の痛み。

メロディアスであり、どこかロマンシズムさえ思わせるようなプレイでありながらも、圧倒的に<爆音>であるサウンド。

わたしが最も心配していたことは、2ndで自らが創りあげてしまった(生まれてしまった)、ポップのマジックからの脱却ができるかどうか、ということだ。

その心配は、もはや不要である。

彼らはもうマジックにとりつかれてなどいない。最初からそんな不安はいらなかったのかもしれない。



痛みを抱えながらも、希望に邁進する彼らの姿は、時代の象徴なのかもしれない。

伝わない、と、一曲目からはっきりと明言した彼らは、最後にまた希望をみせてくれている。


ミッシェルの「SABRINA NO HEAVEN」を、いま改めて聴き直しているのだが、もう凄まじい!という感覚と、完全に冷凍されているかのような、寒々しい痛みをも覚える。

また、当時の状況は解散寸前でありながら、ミッシェルというスパンで考えても新しいロックを生み出しているところが脅威である。


一曲目の「チェルシー」のイントロから、わたしは心臓を奪われている。

もう、理屈ぬきの突き抜ける切なさ! そこには、言葉や理論など飛び越えた、わたしたちの生きる感情そのものを揺さぶるエナジーがある。

唄われていることまでもが、あんまりにも痛々しく狂おしい。

ここには、退廃という言葉すら似合わない(退廃は、常に甘美を伴うものだからだ)。

完全な衰退、終結がこの「チェルシー」の世界であるし、甘美という要素など無い。水を失くして罅割れた大地のように、ただ無気力なすべてなのである。


そんな、無気力な、終結の世界がこのアルバムの全体を支配してやまない。

その後も、いわゆる燃え上がるように早いビートと展開で見せている曲もある。それは一見、ある種の情熱めいたもののようにも見える。

しかし、それですら「終結」の世界で行われていることなのだ。早い展開、燃えるような展開ですら、すべては「終結」後のものであり、終結という存在の大きさを前にして、それらは全く意味をなくす。そういうものなのだ。

このアルバムには、<終結>の世界に漂う、無気力な痛みたちが溢れている。

それは、まるで今生きるこの世界のように、ズキズキと蠢いているのだ。


アルバムのラストを飾る「夜が終わる」は、ピアノのみで構成された、しずかな、しずかな曲である。

そのピアノの静けさと、この曲に漂う息すら出来ぬ緊張感は、<終結>の世界を、圧倒的に包み込む。そして同時に、何もしない。


<終結>を見せるこの世界に、ロックという現象を以って挑んだミッシェル。

彼らは、もう天国すら見ないのだ。

東京事変 DVD映像作品集 ADULT VIDEO

東京事変のクリップ集「ADULT VIDEO」が発売されたので観たのだが(関係ないが、このネーミングの圧倒的なセンスのよさが衝撃的である。つけたくてもつけられない代物だ!)、中でも「恋は幻」のPVがわたしにとって大きなインパクトだった。


出演している劇団ひとりの、あの滑稽さと真剣さが 驚異的だった。

わたしは彼のことを、ふつうのタレントとか、お笑い芸人だとかそういう感覚で捉えていたのだが、ここでの彼はあまりにも趣が異なる。

ダサくてパッとしない役柄の彼の行動は、どこか笑えるものでありながら、わたしはどこかで完全に笑えないものを感じていた。

彼が今演じている滑稽さは、わたしたちに通じる滑稽さだと、直感として判ってしまったからだ。

まるでダサくて滑稽な、PV中の彼は、どこかわたしたちのようにも思えるのだ。

だって、わたしたちは、ダサいし滑稽だ。生きていけば何度もダサいことに遭遇したり、ダサい自分になったいるする。そして、生きるということは、いってしまえばどこか滑稽なものでもあるようにわたしは思う。

生きていく上で滑稽なことになることもあるのだ。


そして、彼が、香水を通してものを観ると、事変のメンバーに見える、というある種狂気じみた設定!

それはまさしく、「恋は幻」ということそのままでもあるし、事変にまっすぐに一途な彼の姿は、滑稽と同時にいとおしむべきものだと思う。

恋に落ちたとき、幻と知りながら、わたしたちは、滑稽になりながらも、手を伸ばす!

そういうことなのだ。


そして最後、劇団ひとりは、実際にプレイをしている事変を目前にして、林檎を香水を通して彼女を見る。

その後、彼は(やはり幻としての扱われ方なのだが)格好善く変わり、林檎とダンスをする!

ダンスミュージック、やはりダンスに合うな・・とも思うのだが、やはりわたしは劇団ひとりのことが気になってしまう。

たとえ恋は幻とて、それが夢とて、彼の幸福は、いまの彼の完璧な様は、決して嘘ではないのだ!

恋愛なんぞ、他人で測れるものではない。彼が感じたことすべてが事実だ。

たとえ、本物の彼がダサかろうがそんなことは関係がない。

恋は幻。 だけど、わたしたちのこころに宿る恋は、いつだってたしかな<本物>なんだ!

劇団ひとりは、身を以ってそれを表現している。



最後、彼はダンスホールにひとり倒れて目を覚ます。

彼が、ああやはり恋は幻、と思うか、ひひときの夢をたしかにいとおしむか、は彼自身の選択の問題である。

だれかの恋はいつでも本物だけれど、そのあとのことは、誰にも知ることはできないのである。



矢井田瞳の最新シングルは、 「Go my way」 は、「爽健美茶」のCMソングとしても流れているため、耳にした人も多いと思う。

彼女のすこやかにもパワフルな声が、あのCMの「POWER MY BEAUTY」というコンセプトにふさわしいと思う。


それにしても、彼女のサビへの持ち上げ方、そしてまったく期待を裏切らないサビの単純なさわやかさ・うつくしさは毎度のことながら素晴らしい。

矢井田瞳の実力が特に発揮されているところは、コンセプトやイメージ、意志に関して、きわめて実直的であり、それに関しては決して逆らったりしない、ということだ。 彼女は、彼女の意志に関してきわめてまっすぐで、ねじれた表現をしたりしない。

だからこそ、理屈をこえた、音楽的な部分での開花がすばらしいアーティストだといえるし、率直さとある程度の深みさを持っていることも彼女がすばらしい、ということのひとつだ。


この新曲に関しても、タイトルどおり、「自らの道を走れ」という、ある種の<応援ソング>めいたものでもある。

唄の世界において、こういう曲は山のように溢れている。

しかし、彼女のこの曲のひとへの届き方は、あまりにも真っ直ぐであるし、そして爽やかな風をも齎してくる。

それは、彼女が<ひとまわり>をしている人間だからこそなのだ。

彼女は、『頑張ることは美しい』などという教科書めいたことを伝えたいわけではないのだ。

教科書どおりに、頑張れという曲は腐るほどある。そしてわたしは、そんな曲を前に反吐が出そうになる。

定型に倣うなどと、そんなくだらないことを音楽で表現するような輩は、この世界に不必要だからだ。


しかし、彼女に関しては、彼女が教科書どおりに倣っているのではない、ということがよく判る。

彼女は、人生の裏側の痛みや、<がんばれない>状況、もその身を以って知っている。

そんな、ある意味で<苦い経験><つらい経験>をとおして、彼女は、「それでも」自分の道を行け、と唄っているのだ。

それは、先に挙げた、教科書に倣った表現をするような輩が、ゼロの地点で唄っている、とたとえると、矢井田瞳に関しては、そのゼロの地点から、地球を一周廻って、またゼロの地点に戻ってきて唄っている、のだと思う。



あんまりにも、<生きる>ということに実直な彼女。

たとえ苦しみの最中であろうと、彼女という光はあまりにも眩しく、そして強い。

「POWER BEAUTY」なのは、彼女なのだ。

だからこそ、そんな彼女の唄は、うつくしい。

まったくもって、完全な<応援ソング>なのである。