椎名林檎のPV集は3つあるが、私はとりわけ、「参」が好きである。番場氏の映像の美しさと、曲の世界観を引き出す技術には本当に感動するのだが、中でも「迷彩」は本当に秀逸なPVであるとわたしは思う。


このPVで、三人の林檎が出ているが、ひとりはまるで尼のように存在し、もうひとりは、歌手でありながらも、時折、『女王様』のように君臨する。そして最後のひとりは、このPVで描かれている饗宴を持成すメイドだ。


まず、この饗宴が異様な雰囲気をしている。饗宴というよりは、狂宴、といった感じである。

出演している斉藤ネコや、浮雲らは、概念というようなものがここには存在しない、とでもいうかのように、ある種の傍若無人さでここには存在している。そしてそれに恐れをなすのが、瞼に眼を描いている青年役の山口氏である。

また、彼の怯えようもある種の危険さがあり、彼が逃げたその場所にいる、『女王様』のような林檎は、それこそ鞭を持って、彼をいためつける。


このPVが秀逸なのは、曲が進めば進むほど、物語と映像が交錯し、瞬間的なパワーをいくつもの場面で出しているところなのだ。

「修正ペンの白さ」という歌詞に至ったときに、女王にいたぶられる山口氏と、逆に女王を『修正ペン』でいたぶるシーンがでてくるのだが、これにはある種の脅威を覚える。

それは、曲の世界にもリンクすることなのだが、修正ペンの白さ=精液 のことである。

番場氏は、<男>が<女>を『修正ペン』でいたぶる、という極めてデリケートな部分にも触れるような表現をしている。

しかし、ここにある、ある種の倒錯めいたシーンは、曲の世界に実直なまでの表現でしかない。

椎名林檎が唄っていることは、そんな『修正ペン』への恐怖である。

それを衒うことなく、むしろそれらすべてを許容し、そして嘲笑をもしているかのようなこの『ストーリー』がとてつもなく、衝撃的だ。


また、最後に登場人物全員が狂いの果てに倒れた後に、<メイド・椎名林檎>が、山口氏に、煙草の火を点けさせるシーンがある。

このシーンをはじめてみたときの、わたしの衝撃といったら!

鳥肌が一気にでて、わたしは<衝撃>に完全に飲まれていた。


ここには、『可愛らしい』メイドに溺れている、青年(山口氏)への堂々とした嘲笑もあり、また、ことのなりゆきを見届けていながらも、なにひとつ手出ししなかった、メイドの林檎への畏怖がある。

狂気の果てにあるものが、さらなるアブノーマルだなんて!

これは、まさしく<衝撃>なのだ。



これほどまでの作品をつくりあげる番場氏の力には、本当に感服せざるを得ない。こんなに恐ろしくも惹かれてしまうPVは、はじめてなのだ。


椎名林檎1stアルバムの「無罪モラトリアム」を聴いた。

やはり、もう理屈を超えた名曲ぞろいだな、と思ったのだが、このアルバムに関しては、やはり『脅威』ということばを拭えないな、とも思う。


歌詞の切さは無論だが、メロディとしての美しさに胸を締め付けられるし、当時の彼女の若々しい唄声にある、今も変わらぬ唄に対しての“強い意志”があまりにもうつくしい。

ここでの彼女は、若さをもたしかな武器にしているし(語弊を恐れずにいうと、彼女自身のある種の「若さ」を使いこなすかのように!)、また、大人顔負けの信念をも感じる。

これが1stアルバム、だということがひとつの脅威なのである。


新人にして、1stをヒットさせるシンガーは山のようにいるし、また、ヒット云々に関係なく、実直な音楽への意志の賜物、とでもいうべきような素晴らしい作品を出す人々も、またたくさんいる。

しかし、ここでの彼女に関する“脅威”というのは、彼女が、まだデビューして1年、20歳程度にしていながらも、彼女に関する「ポップ」という存在への揺ぎ無い基盤や、規則、方向性、すべてがほぼ出揃っていたからなのだ。

ある意味で、熟練されたシンガーの出す何枚目かのアルバム、かのような確かな感覚があるのである。

だからこそ、彼女の<若さ>がほどよいエッセンスともなっているし、またその<若さ>がひとつの脅威なのだ。

彼女は、曲作りを始めた十五以降のわずか五年で、彼女は、自らの<ポップ>という概念を創りあげてしまっている。

そのことが、わたしにとっては最も驚異的な部分なのである。


このアルバムが、ポップであるのは、彼女が、彼女自身のポップ概念に基づかれた曲たちばかりが揃っているからであり、また、ポップでありながらも同時にある種のロック的な痛みまでもが伴っているのは、それは彼女自身の<若さ>の影響に他ならない。

まるで計算つくされたかのようでもあり、また、彼女の魂からの衝動のひとかけら、でしかないようにも思える。

こんなに、隙をみせながらも隙がない、不完全でありながらも完全、という1stアルバムをわたしは他に知らないのだ。


木村カエラ2ndアルバムに収録されているなかに、アルバムタイトルにもなっている「Circle」がある。

わたしはこの曲を聴いたときの衝撃が忘れられない!

これは、木村カエラというシンガーにとって、「意欲作」という言葉に収まらないほどのチャレンジと、彼女のまだ露出していなかった、ポテンシャルをも感じる一曲なのである。


この曲は、大サビがあるというわけでなく、(言ってしまえば)普遍的なメロディーが続いている曲なのである。

歌詞も英語が殆どで、日本語部分ですら表記的にはカタカナであり、要するに、「感情移入」がしづらい曲ともいえる。

ここでのカエラはきわめてクールだと思うし、ある種の鼻唄のような感覚すら感じる。


このクールさが、わたしにとっては衝撃的であった。

「人生は繰り返しだ」とカエラは言いのけている。実際、そうだともいえる。

しかし、それをカエラは当然のこととして受け止めている。その佇まいの、ある種の潔さがあまりにも心地よいのだ!

曲のメロセンスのよさといい、わたしの全身をビリビリ貫いた。


もう、ここには理屈なんてない!

カエラは極めて音楽的に表現しているだけなのだ。 そして、音楽的なものというのは、わたしたち人間にとって、あまりにも美しくいとおしい存在なのである。だからわたしは、この曲をあまりにも好きになってしまう。ビリビリとからだを震えさせてしまう。思わず口ずさみたくなる。同時に、メロの心地よさに泣きたくなる。


サビといえるサビのないこの曲で、カエラはあんまりにもクールだ。

だけど、この曲に潜んでいる世界は、サビすらないわたしたちの人生のようにも思える。

だからこそ、わたしはいとおしい!

もはやそれは、肉体がこの曲に関して呼応しているだけのことなのである。そしてわたしは、肉体から反応する楽曲を、愛でてしまうのだ!


楽曲とは別の話になるが、この曲のPVもかなりいい。繰り返しの普遍性と、ある種のトリップの危険性がほどよくまざっていて、PVと共に見ると、この曲の驚異的な部分をより感じる。

この2ndに収録されているDVD(初回限定盤のDVDにはPVが収録されている)を見ると、「BEAT」や「You」などのPVもとりわけいい。

これは単純にすごいことだと思う。ストーリー性とユーモアと、単純に楽曲をきらめかせる力を、バランスよく持っているPVというのは、なかなかないと思う。


あんまりにも好きな曲である。

しかもこの楽曲、キットカット付きで315円で販売されているということ。

315円でこの楽曲が聴ける時代なんて、ちょっといいじゃん。とわたしは思うのだ。

百色眼鏡

小林賢太郎、小雪主演の、短篇フィルム「百色眼鏡」

本来、このブログは音楽のことしか話さない、という規約をわたし自身がかけているのだが、この作品に関しては、椎名林檎の世界観に繋がっていくために、ここに書かせて頂きます。

また、内容についても触れていくつもりなので、これから百色眼鏡をみよう、と思っている方は見ないことをお勧めします。責任はとりませんし、各自の判断でよろしくお願い致します。


この作品の根底にあるものは、明らかに「女」という「性」である。

それは、椎名林檎が常に、追及しようとし、また嫌悪し、そして共存し続けてきた(いる)存在だ。

彼女の性に対する意識が、これが最後、とでもいうかのように詰め込まれている名作「加爾基 精液 栗ノ花」でみせた世界観を、彼女はこの作品を通して、映像という媒体を利用して見せている。


小雪の艶美さや、小林賢太郎の微々たる部分までこなす演技力もまた格別だが、なにより驚異的なのは、この作品のおどろおどろしいともいえるようなヘヴィさなのである。

この作品において、女という性に関して違(たが)うことはなにひとつとしてなされていない。

その事実こそが、わたしたちにとってヘヴィなのである。

女という性の、果てしないヘヴィさがここにあるからこそ、この作品はヘヴィなのである。

女という性の本質、いや、むしろ女の性の核がここにある。そしてその核の存在は、わたしたち女をどこか宿命づけているのだ。

受け止める性、産み出す性、、というポジションを与えられているわたしたちは、その瞬間にすべてを受け容れなくてはならない。

そして、そのことは容易なことではないのだ。

女が抱くのは、自らの性の根本的な嫌悪感(わたしはこの感情に、いまだかつてぴったり合う言葉を見つけられた例がない。あらゆる感情が渦巻いているのだ。)と混迷である。自らの子宮の重さに、わたしたちは苦しみ惑うのだ。

そのヘヴィさを、この作品はベースにしてしまっている。だからこそ、この作品は驚異的なのである。


わたしがふと思ったのは、「夜の女」の居る部屋の様子である。

椅子の位置、灯の位置、といった細かい部分まで、シンメトリィに配置されている。

わたしは、最初、椎名林檎がきわめてシンメトリィに拘っているからこそ、そのような配置がなされているのだと思っていた。

しかし、わたしはこのシンメトリィに、気付いてしまったのだ。


この部屋のシンメトリィは、子宮のようだ、と。


子宮は、中心となる子宮部分に加えて、卵巣が左右対称に存在している(そしてそれを含めて子宮と呼ぶ)。

この精密なまでのシンメトリィは、子宮という存在へのメタファーなのではないだろうか。

また、この「夜の女」の部屋と、外界を繋ぐのは(天城もそれを通じて部屋の中を見ていたが)、「穴」なのである。穴!

子宮を繋ぐ穴。

それは、わたしたちが男を受け止めるための入り口であり、また、子を産み落とすための出口でもある。

天城という「男」が除く「穴」の向こうにある、もうひとりの「女」。

そこにあるのは、わたしたちが抱えている嫌悪感と混迷の核となる、「女という性」だ。



個人的には、この作品、台詞のすばらしさに思わず涙してしまう。

『わたしはお人形さんじゃなくってよ』『貴方は私に、誰になって欲しいの?』に含まれているのは、女として生きる「わたし」のひとつの「生」の意志である。わたしはそれを、尊いと思うのだ。


あまりにも精密な作品である。椎名林檎の世界観を知るのにも、単純な映画としてみるのにも(本編、非常に短いが)、女という性の真理をしるのにもいいだろう。

わたしはこの作品、もはや好きで片付けることのできないくらいのシンパシィを以って見ている。

見事な作品である。


安藤裕子の2ndアルバム「Merry Andrew」は、それこそ日常に対して実直な光を放つことのできる、すばらしいアルバムだが、わたしが特に好きなのは、この「煙はいつもの席で吐く」である。

怒涛の勢いの優しいポップの嵐だったそれまでの3曲に対して、この曲はどこか日常で聴こえてくるかのようなイメージがある。

歌詞にも「おかえり」ということばがあるが、それこそマンションの一室でひとりで聴いているかのような、日常性のある音なのである。

しかし、安藤裕子が特異なのは、その、ある種の日常性を、彼女自身のエモーションで、驚異的なまでの切なさに昇華している部分なのである。


この曲の歌詞は、要約すると、彼の帰りを待ちながら、彼との永遠を望む女の子、ということなのだが、それを取り扱った曲など、いってしまえば、このJ-POPシーンにおいては腐るほどある。

だが、安藤裕子のこの曲が、とてつもなくうつくしくて切なくていとおしい曲に変化しているのは、彼女のエモーションなのである。


ここでの彼女は、必死に叫んでいるわけでも、可愛らしい女子声をさせて願っているわけでもない。

彼女は、日常で思わず呟いてしまったことば、のような、圧倒的なリアリズムと、「思わず呟いてしまった」という、無意識のうちの切迫感を持ってしまっているのだ。

その、切迫感は、わたしたちが知りすぎているものだからこそ、あまりにも響いてしまうのだ。

わたしたちが、他の曲で、どこか日常と切り離していとおしんでしまっていたその「切なさ」を、彼女は、彼女のある種の痛切なエモーションで、日常ととけこませてしまっている。だからこそ、わたしたちに、わたしたち自身が持つその切迫感とリアリズムが反応を起こし、それが結果的な「切なさ」に繋がるのである。

このことは、驚異的である。

わたしは、これまで一応音楽を聴いてきたが、こんな経験ははじめてである。

この曲の切なさは、J-POPシーンを激震させるかのような切なさだといえよう。


わたしは、こんなことを述べているが、もはや理屈なんていらないのだと思う。

彼女の唄は、あまりにもわたしの心臓に呼びかけてくる。

そのことの単純なうつくしさを、ただわたしはいとおしみたいと思うのだ。


宇多田ヒカルの新曲「Keep Tryin'」をようやく聴いた。


近頃(ベストアルバムを発売してから)の彼女は、生につきまとう圧倒的なニヒリズムや生きることの葛藤、そして神々しいまでの祈りを唄にしてきたが、前作「Passion」ではそれとも違う新しい見解を見せてきた。

しかしこの曲は、本音を言ってしまえば、ビート感が心地よかった宇多田のポップ、という印象しかなかった。無論彼女のポップ、ということでレヴェル事態は高いものなのかもしれないが、それこそ音楽におけるマジックの存在しない、単純なジャンル分けとしての「ポップ」でしかなかった。


だが、今回の「Keep Tryin'」は別モノである。音楽におけるマジックが降り注いでいる!

一言目の「I don't care about anythig」から、うつくしいマジックがここにはある。

もはや理屈なんて関係ない。単純に、聴くだけでどことなく嬉しい、という根本的な音楽の幸福がそこにあるのだ。


歌詞はタイトルどおり、「挑戦し続けることの意義」が描かれているが、

わたしが「脅威だ」と思ったのは、次の部分である。


「少年はいつまでも いつまでも片思い

情熱に情熱にお値段つけられない

お父さん keep trying,trying

お母さん keep trying,trying

お兄ちゃん、車掌さん、お嫁さんkeep trying,trying」


ちょっとこれ、衝撃的だなと私は思った。

宇多田ヒカルは「挑戦し続けろ」とただ叫んでいるのである。

そこには当然理屈なんてない。

それは彼女が、すでに理屈をも捨ててしまったかのように思えるのだ。

かつて彼女が、生のニヒリズムを唄ったときとは、まるで違う何かを彼女は手にしているように思える。

彼女がこの曲を作れたのは、無論彼女の才能もあるのかもしれない。

だが、もしかすると彼女は、理屈をも忘れた、単純な感情そのもので唄うことを知ってしまったんじゃないだろうか。

彼女はエモーションな歌手でありながらも、どこか理知的に唄を唄ってきたし、そして作ってきたように思える。

しかし、ここの部分で、彼女はある意味でキレている。

まるですべてを振り切ってしまっている。

だからこそわたしは、驚異的・衝撃的だと感じたのである。



もしかすると、宇多田ヒカルの新境地なのもかもしれない。

もはや呪いのようなキャッチーさで「Keep tryin'」といわれた日には、わたしたちだって、口ずむことを禁じえないのである。


Coccoが、かえってきたのだ。


かつて彼女は、その無垢すぎる魂を、音楽として表現することで、世間との均衡を保ってきた。

彼女が唄うその瞬間は、まるで天使が下界に唄いかけるかのような厳格さがあった。

TV出演を果たし(最後の彼女の、観客へのキスは、まさに厳かで美しい、まるで絵画のような代物だった!)、そして彼女は、活動を休止した。


だけど、彼女は決して休んでいた訳でも、止まっていた訳でもなかった。絵本の制作、ゴミゼロ作戦、そして2枚の新曲(CD「リリース」こそはされなかったが)。そして昨年の奇跡のバンドSINGER SONGER。

徐々にではありながらも、Coccoはわたしたちにアプローチをかけてきたし、唄を唄ってきていた。

そして彼女は、ついにかえってきた。天使でありながらも人間くさくてしょうがない、あっちゃんこと、Coccoとして!


この「音速パンチ」、イントロの、海に漂うような浮遊感を出していたその瞬間に、突如として響き始めるギターがいい。

それは、うつくしさと鋭利さの衝突にも思えるし、思わず、ハッと息を飲んでしまうのだ。


「サア 始マリノ接吻ヲシテ / 初メテノ接吻を / モウ此処マデ来タラ / 躊躇ウ方ガ阿呆」とはじまる歌詞の、なんともいえない爽やかさと強さ!

PVで唄うCoccoの表情は、楽しそうでもあり、余裕をみせているようでもあり、懸命でもあるが、溢れているエネルギーを出し惜しむことなく唄っている。

そのことの、単純なうつくしさ!

それは身体に訴えかけるうつくしさであり、「ダンスロックチェーン」だと銘打っただけあって(そして、それをあえてロックンロールだと評さなかったことが正しいのだ!)、身体は自然に曲に呼応し、疼くのである。

それは本能に呼びかけている。

彼女の唄声には、そんな単純なパワーがあって、そして彼女が生み出す唄には、本能のままに自由に動く奔放さすら持っている。


さわやかな風のようで、太陽のように強く、海のように広い一曲である。

ああ、Coccoはこんなにもうつくしく、そして鮮やかに、この世界に舞い戻ったのだ。


歴史的名盤となったYUKIの1stアルバム「PRISMIC」

その中に収録されている「ふるえて眠れ」という曲について今日は書こうと思う。


YUKIの、やさしさを通り越した、すべてをリセットしくれるかのような「ふるえて眠れ」ということばからこの曲の世界に入り込んだ瞬間に、わたしはすでに、この曲の世界に溺れている。

胸にまるで水が落とされたかのように、広がっていく息苦しさ。

悲しい、というほど痛切ではなく、苦しい、というほど足掻いてもいない。

それでも、声はもうあげたくない、誰にもみられたくない、もういつもの元気な私ではない ――― という、じんわりとした痛みがただ染みていく。

この曲は、この痛みがただ存在している。 それこそ、そこにあるものとして。そして、聴き始めたそのときすでに、私自身の胸のなかに、その痛みがもうあるのだ。


この曲では、YUKIはまるで、母のようなやさしさで「あなた」に接する。

しかし、そのやさしさは、悲しさを潜ませている「やさしさ」なのである。

すべてを受け入れていながらも、すべてに対して、どこか「悲しい」という気持ちがあるのだ。


しかし、それでも、唯一の願いとして、「体ごと伝えてよ」とYUKIは唄った。

そこにある、もはや無限のような大きさである切なさと悲しさは、わたしの身体全身に巡り、そして染み渡ってしまう。

わたしは、YUKIほどにすべてを受けいれたこともない。

しかし、その願いは、彼女の唄声を通して、体感として伝わってしまう。

それは、もはや悲しいとか苦しいではない。呼吸すら忘れてしまうかのような痛みなのだ。


そして圧巻なのは、サビである。

すべてを受けいれていたYUKIが、これでもかというほどに、彼女の切実な胸の内をさらけ出している。


「変えられない 誰似でも

あたしはうすっぺらで 本物にはなれない

変えられない 誰にも

答えておくれ」


忘れてしまった呼吸を取り戻せるのは、わたしが思わず、泣いてしまうからである。

ここにある、宇宙規模の悲しさと虚無感。

もうそれは逃れることなんてできないのだ。 そのことを、YUKIは知っている。しかし、誰も答えられないことを知りながらも、「答えておくれ」と望むのだ。

それは、もはや、望みというよりは、祈りなのだ。



あまりにも染み渡る一曲。

ここにある悲しさは、きっと誰もが持っているのだから。


東京事変、最新アルバムである「大人」の一曲目をかざるのが、この「秘密」である。

この楽曲は、1stシーズンの事変が行っていたツアーでも披露されていたものだが、ここにきて漸く世間に姿を現した(ちなみに初回限定のほうの付属DVDでは、ツアーで披露されたヴァージョンを見ることができる)。


今回の「大人」についても同様の印象を言うことができるのだが、シンプルな音楽になっていると思う。

その楽曲が本当に必要なものだけを纏っているかのような印象だ。

しかし、シンプルでありながらも、重層感のある仕上がりになっているところが心地よい。


イントロのドラムプレイの入りなんか、平穏の状態にいたリスナーの心臓を、強引に速めていくかのように(そして、わたしたちは実際、速めてしまうのだ!)不穏な存在である。

しかも、そんな不穏の入り方に倣うかのように、ある種の不穏を漂わせながら、ヴォーカル椎名林檎が「何にも云いたくない」と唄ったその瞬間に、不穏に更なる緊張感が流れ込み、息苦しさまではいかないものの、動きが思わず止まってしまうかのような“不安”が訪れてしまうのだ。


しかし、それが続いていたにも関わらず「此処へ来てさあ早く」と唄われる瞬間に、世界には、まるで空気が流れきたかのような安心めいたものになり、それは、ある種闇に訪れた光のように美しい存在にもなる。

要は曲が転調しただけ、なのかもしれないが、わたしはそれだけじゃない気がする。

この曲の世界はコロコロと変化しながらも底にあるのは変わらないひとつのストーリーである。

悲しさを紛らわすための絶頂、悲しさの象徴ともいえる夜!

「現在だけの気持 いっちゃいたいのに」という歌詞に象徴されるかのような、「云えない」というひとつの状況。

それは、まぎれもない「秘密」である。


わたしたちは、秘密を抱えたときに、なにもいいたくなくなる。

そして、その秘密を消化するために(--言論を通して秘密を伝えることができないからこそ--)“喋る”以外のすべてをつかって意思を伝えようと願うのだ。

だからこそ、「此処へ来てさあ早く」といったりするのだ。

それは、対面し、相手をその目で捉えたいと願うからなのだ。


そしてこの曲が秀逸なところは、歌詞をそれだけで終えなかったことである。

「淋しいのはあなたばかりじゃない / 恐ろしい闇無かったことにするため」と続く。

それはもう、人間としての本質的な切なさなのだ。

恐ろしい闇も淋しさもわたしたちから離れたりはしない。むしろ、共に生きていくような存在でもある。

それは、いくら身体があろうが、いくら絶頂を迎えようが、わたしたちの底には、そんな虚無感がある。

むしろ、そんな虚無感があるからこそ、わたしたちは身体を用いていて、そしてときとして絶頂を迎えたりして、それを誤魔化そうとしているのである。

しかし、それに気付いた瞬間にあるのは、わたしたちの「人間としての本質的な切なさ」という光である。


サウンド面でいけば、ポップというジャンルをすでに逸脱していながらも、まぎれもないポップでもある部分がある。

それは、ポップという領域に足をついていながらも、その肉体をまるで空中にのばしていったかのように奔放であり、かつ計算的である。

なにはともあれ、「大人」というアルバムの冒頭を飾るに相応しい一曲である。


発売当初から気になってはいたものの、聴く機会がなかったのだが、今回やっと聴けた「ヘッドフォンチルドレン」

こんなにも、“生きるって辛い”を堂々とサウンドに乗せているバンドも珍しいと思った。

彼らはロックやパンクなんかじゃない。すでに、ジャンルですらない。

全くの純然たる自己表現としての音楽がここにあるのだろう。

そんな彼らのこのアルバムの中でも、ひときわ衝撃的だったのが、アルバムタイトルともなった「ヘッドフォンチルドレン」という曲である。


もう、どうしようもないような息苦しさとリアリズムでいっぱいである。

ヘッドフォンをして、音楽で頭をいっぱいにして、コミュニケーションをとるようなとらないような曖昧な位置に所在して、音楽を聴くだけでそれで納得して、そして、自らを忘れる。

そんなやつ、この世には、この日本には山のようにいる!


移動中でも音楽を聴けるように手軽になった。産業革命は未だに続いている。性能を高めてはわたしたちの手の元に届く。パソコンやインターネット。便利になればなるほど薄れつつある人間としての人間とのコミュニケーション。時を刻むにつれ増えていく「心の傷」。

そして、どんなときでも音楽を聴ける手軽さは、生への不安をいつでも、無理矢理にでもかき消してくれた。


音楽は娯楽だ。 そうともいえる。

そして、それ以上にわたしたちの生にとって必要な存在になってきたのだ。

わたしたちは、音楽でなんとか生きてきた。息苦しい世の中。悲しい人ごみ。むやみに生まれていく傷。すれ違い。圧倒的な悲しさ、苦しさ、切なさ、怒り・・・・。

それらを、音楽はいつでも肯定してくれた。むしろ、わたしたちの感じている感情が、音楽そのものにだってあった。わたしたちはそんな音楽を愛すると同時に、激しく依存してきたのだ。

それに拍車をかけたのが、産業社会の利便性である。いつでもわたしたちが聴けるようになった音楽。頻度が高まることにより、わたしたちはさらに音楽に依存してきた。

しかし、音楽がわたしたちを救ってくれることなんてなかった。失恋の唄を聴いたから、恋が元に戻るなんてことは絶対にない。そのことだって、わたしたちは重々承知している。

それでも、わたしたちは音楽に依存してきたのだ。


そんな、音楽に生を見出し、日常に何も見出せなくなってしまったのが、「ヘッドフォンチルドレン」なのだ。

ヘッドフォンチルドレンは、わたしでもあり、見知らぬ誰かでもある。

羽のないわたしたち。飛ぶことはおろか、羽すらなかったのだ。

終わりかけの世界で、生きていく術は、“ヘッドフォン”だ。音楽しかなかったのだ。もう、そこから逃げることなんてできない。生きていくためには、音楽が必要なのだ。


「“ヘッドフォンチルドレン” 俺達の日々は

きっと車に轢かれるまで続いてゆく」


そのとおりである。わたしたちは、自殺なんてしないし、きっと、大々的な何かを起こしたり、または起きたりしない限り、殺されたりしない。

でも、交通事故は、(ほんとうに悲しいことだが)さっき挙げたことよりは、きっと多く起きる。

轢かれるまで死なないし、轢かれるまでは、わたしたちの音楽への依存はやまない。

それは、轢かれるまでは、わたしたちの生きることへの息苦しさと悲しみも、消えないということなのだ。



もう驚異的な一曲である。

飛べないわたしたちは、きょうも、こうやって生きていくしかない。