「トブヨウニ」に収録されており、アルバムにも入っていないが、「やばすぎる」名曲がある。

「HATE」である。(同じくトブヨウニのc/wとなっている「BLOWN UP CHILDREN」も名曲である。)


イントロからして、呼吸を許さないかのような絶望的境地だ。

空間にただ“存在”するだけの(語弊はあると思うがこう書かせてもらう!)ギターの音。

それと同時に、ギターが鳴るたびに、わたしたちがかつて無視することで忘れてきた傷や痛みが、ふたたびズキズキと動き出してしまう。

音がなってしまったその瞬間に、わたしたちは、戻り、そして帰ってしまうのだ。

逃げ切れなかった場所に。


「母さんクリステルにそれとなく話をして 「すぐ帰る」って

ヘイ心配ないって ヘイしっかりして できるだけHAPPYを手にしてほしい」


それは、果てしない孤独とも似ているし、そこには「母さん」も「クリステル」もいてほしくないし、またそのあとに続く歌詞に表れる「8才のお祝いに買ってもらったギター」という喜びですら連れ込みたくないのだ。

絶望的な場所に必要なものは孤独でしかない。

そして、うつくしく、いとおしい存在(--母さんやギターたちを--)を、自らの絶望と闇で汚さないように、という懸命の祈りなのかもしれない。

しかし、その祈りを声にだした途端(--つまり、あの歌詞をロビンが唄いだした途端--)、いいようもない苦しさと、絶望がフラッシュバックしてしまうのだ。

ここには、虚勢すらない。いや、虚勢をする余裕すらないのだ。言葉としての虚勢(「心配ないって」というような)はあったとしても、それを表現する己には一切の虚勢などない。

ただ、もはや祈るだけしか出来ない彼の心情しか存在しないのだ。

わたしは、そのことですでに苦しいと思ってしまう。呼吸もできなくなってしまう。

彼の、絶望から守りたい、という懸命な祈りですら、彼自身によって、孤独を孕んだことばになってしまうのだ。

わたしは、とてつもなく、くるしい。


そして彼は、また唄い出す。今度は、タイトル通りの「HATE」を以ってだ。それがこの部分である。


「油と角砂糖と札束と悪魔の

あの向こうあの向こうあの向こうへ」


それは、わたしがさっきいったように「HATE」という感情を以って唄われているとも思うし、また、それはさっきと同じように祈りのようにも聴こえる。

まはや、彼がいる場所は、圧倒的に絶望的な境地であり、そこには孤独しかない。

彼が抱く感情、それはすでに、彼の願望でしかなくなってきているのだと思う。

だからこそ、彼の「HATE」という怒りの感情ですら、すでに、彼の「祈り」になってしまう。

わたしは、この部分でもやっぱりくるしいと思う。というか、すでに全編くるしいと思う。逃れられぬ絶望と孤独、そしてそれに対峙しようとする、絶望で孤独な人間。


そして、なによりも私が苦しいと思う歌詞がある。次のとおりだ。


なぜ神は奪うくせに与えるのさ でも信じていないと、、いないと、、

みんなそう みんなそう みんなそう」


もう、どうしようもないじゃないか。

ここには、本当のことしかない。神は、奪うくせに与えるのだ。

それでも、わたしたちは信じてしまうのだ! 神を!

そうやって孤独を紛らわすしかない。 神を憎むことで、自らを憎まないで済むように!

ああ、とわたしは思う。

ここにあるのは、本当のことしかない。どうしようもなく。


YOSHII LOVINSONは、絶望を、唄にしてしまった。

そして、心をゆさぶる音がすきなわたしたちは、それを、また愛してしまう。

どうしようもない絶望と孤独からは逃れられない。

苦しい、という事実しかない。

狂気もなにもここにはない。

ただ、ニヒリズムのなかで生きようとするひとりの感情が、ここには生きている。それだけなのだ。


YOSHII LOVINSONから、吉井和哉へと変貌を果たしてから初のシングルとなる「BEAUTIFUL」

聴いた。


ちょっと、もう驚くぐらいに切なくて美しい曲だった。

THE YELLOW MONKEYほど艶やかじゃない。YOSHII LOVINSONの1stのときよりも、内省的宇宙にも向かってもいない。

ああ、これが吉井和哉の音なんだ、と思った。

メロウ? ロック? ポップ? バラード?

そういうことじゃない。

吉井和哉がかえってきたんだ。血まみれでも唄えるロックシンガーが、ここにいま、“吉井和哉”としてかえってきたのだ。


歌詞のくるおしいような痛みと美しさには、思わず涙が出た。

いや、歌詞だけに涙がでたわけではないような気がする。

彼の奏でる音楽との相乗効果で、わたしは泣いた。

あまりにも美しくて悲しくて、胸はぎしぎしと軋んだ。

肉を切られるような即物的なものでもない。誰かを失った喪失感でもない。

わたしがどこかで覚えてきた、悲しい情景が、ここにあるのだ。

こらえようもない悲しさが、音として、歌詞としてわたしの記憶を呼び覚ましている。

くるしい、と思ったそのときにはわたしはすっかり涙を流してしまっていたのだ。

衝動としての涙が、あふれてはこぼれ、あふれてはこぼれた。


この唄の中で、ひときわ私の胸を打った歌詞がある。


「人類の愛情は元気か?とか

結局人間は一人かとか

わからないほうがBEAUTIFUL」


ああ、と思った。これは切実なことだ。誰もが知っている悲しさだ。

人類の愛情は、元気じゃない。途切れかかっている。

わたしたちは結局一人だ。孤独だ。

でも、それをしらないほうが、よっぽど素敵だっていうこともある。よっぽど美しい。答えをしることが正解ではないことだってあるのだ。わたし、という個人においては。

それを、吉井和哉はこんなにシンプルに言っている。

みんな、誰もが思ってきたことかもしれない。沢山の人が、唄にもしてきたことでもある。

それでも、こんなにもシンプルに、こんなにも実直に、胸を狙って打ってきた歌詞ははじめてだと思う。

まるで一筋の光のように、まるで麗しい希望のように、まっすぐに、わたしの胸に届いてしまった。

広がるのは、希望でも絶望でもない。わたしが、よく知っている現実でしかなかった。


生きることは、苦しい。美しくもない。

結局わたしたちは一人だ。 雲もいつか切れてしまう。

そのくせ、コンビニの菓子パンで我慢できない。

欲望に塗れていく。

美しくなりたいと願う一方で、わたしたちは、自らで汚れていく。


でも、でもだ。

「髪を撫でて 手を握って 目を閉じて

静かな願い知って」 いくのだ。

誰かに触れなければならないんだ。その手をつなごうと思うしかないのだ。目を閉じて、あらためてすべてを感じようとしたくなる生き物なのだ。

そこにあるのは、わたしたちの、「静かな願い」なのだ。

欲望に塗れた願いじゃない。

もっと、シンプルで切実で、くるおしいほどにきらめている、悲しいほどに遠い願いなのだ。


ああ、あまりにも美しくてくるおしい。

痛い。痛いんだ。あまりにも。

世界はこんなにも汚れている。

ああ、それでも、わたしたちは、いるじゃないか。

わたしたちは、手をつなごうとするじゃないか。


ああ、こんなに汚れた世界でも

「TODAY, IT'S A BEAUTIFUL DAY」


大ヒットシングルとなった、この「ギブス」

この曲がヒットした、ということは、ちょっと凄いことだと思う。


この曲は、わたしはラブソングでありながらラブソングではないと思っている。

ラブソングというのは、わかりやすくいえば、どのような状況下においても、明るいものである(ちなみに、ラブソング=恋愛を描いた唄、という認識ではないのでそこはどうぞ注意して頂きたい)。

「LOVE」を思う瞬間に、切なさや悲しさがあったとしても、そこに絶望は存在しない。

いや、もしかすれば存在するのかもしれないが、「ギブス」にある絶望の比ではないはずだ。


「ギブス」という曲にある絶望は、身を切るような絶望である。だからこそ、彼女はジャケット写真で、「林檎」をナイフで切ろうとしているのだ。少なくとも、わたしはそうだと認識している。


この曲の「あなた」も「あたし」も、過去も未来も望みはせず、現在という全てに、生命すべてを授けたかのような切迫感を持っている。

古くなることを拒み、明日のことを忘れようとする。

そこに、“現在”を楽しみたい、という感覚はなく、寧ろ “現在”しかない、という危機感のようなものをわたしは感じるのだ。

終わりを確実に感じている、末のような恋である。

そこにある感情は、きわめて狂気的であり、自暴自棄のような愛情の示し方しかない。

しかし、この「あなた」も「あたし」もそれを望んでいるのだ。明日を思うよりも、過去を思い出すよりも、現在すべてに生命を懸ける。

そしてそこには、絶望しかない。

たとえば、他の誰かが、現在すべての生命を懸けた恋愛をしたとしても、絶望は生じないかもしれない。

しかし、この「ギブス」では、絶望しかなかった。絶望のみが生まれた。それを忘れるかのごとく、「あなた」も「あたし」も、狂気的なまでに現在しか見なかったのだ。

絶望しかない過去、そして絶望があることが目に見えている未来。

其れならば、”現在”にだって絶望はありそうなものだが、そこには狂気というヴェールがあり、盲目的なまでに絶望を無視している。気付いていたとしても、気付こうとはしない。

そんな意識を、どこかで椎名林檎は傍観していたのだろう。

だからこそ、身を切るような絶望感、と、それを客観視しているからこそ生じている痛みがこの唄にはあるの だ。

この曲のサウンドプレイは、極めてダイナミックで、爆音を鳴らしている。まるで暴走するかのように音を響かせ続けるギターすら、二人の行く末のようで、苦しい。


この曲の「ぎゅっとしていてね ダーリン」の一言は、あまりにも美しく純粋な一言だ。

まるで祈りのように響くその言葉が、日本全てに届いたからこそ、このヒットにも通じたのだと思う。

あまりにも苦しいこの絶望を、メロディックにのせる椎名林檎の天才ぶりに、本当に感服、と同時に、感動である。


わたしが、「一青窈で一番好きな曲って?」ときかれたら、確実にこの「大家」だと答える。

その後発表された、彼女の沢山の名曲(よく知られているハナミズキ、もすばらしい名曲だが、それをもこれは超えている!)ですら揺るがないほどの世界が、この曲にはあるのだ。

大体、一行目の歌詞が、「失って、始めて気付く事も あるけれど もとには戻れない」である。

もう、どうしようもないじゃないか。

ひとつの希望もない。もう、元には戻れない。

そのことの切なさが、彼女が唄い始めたその瞬間に、全身に、ある種の“衝撃”として駆け巡るのだ。脳に激震をあたえ、身体は見事に反応する。

それは、抗うことの出来ない、本質的なリアクションである。


この曲は、彼女が失ってしまった家族への思いだと受け取れるのだが、そこに、彼女の内省的な事情を物語られているような(こんなことをいってしまうといけないのかもいれないが)邪魔臭さや、「どうぞ泣いて下さい」という押し付けがましい感動の押し売りもない。

彼女は、まるで慣れたことのように表現しているし、そこに、「一青窈」というひとりの「人間」が背負った過去などは、全く以って作用のうちには入っていないのだ。

しかし、彼女が背負った過去は、たしかに「一青窈」へ、大きな影響を及ぼした。そのことが、「一青窈」の一部になっているのは、間違いないだろう。


しかしながら、この曲にあるやるせなさ、どうしようもないような気持ちは、並大抵ではない。

一青窈は、そのことを、驚くぐらいにさらりと唄う。そのこともまた脅威だ。

彼女は、「誰彼傷つけ幸せになったね、と」と、歌詞のなかで言った。

これって、ちょっと驚異的である。普通は、そんなことはいわないものだ(無論例外はあるのだが…)。

誰彼傷つけて、だ。 人は、誰も傷つけずに生きていくこなんて出来ない。そのことは、周知の事実である。

それを、いわれてしまっているのだ! (この「、と」がなによりの証拠だ)

わたしの感覚でいくと、あまりにもむごいことである。

しかし、彼女は、我意に関せず、とでもいった風に唄う。

わたしは、その度彼女の“本質的な強さ”をつきつけられてしまうのだ。


そんな、“本質的な強さ”を持つ彼女だが、同時に彼女は非常にエモーションな存在だ。

クールさとエモーションを両立して操り、交わせ、唄に託していく彼女の存在は稀有である。それは、この曲の中でもしっかりと見せているが(それは、さっきの「誰彼…」のとき、さらりと唄う彼女の姿からも窺える)、一度だけ、彼女が、彼女のエモーションを爆発している部分がある。その彼女の爆発しているエモーションは、他の彼女が唄う曲と比べても、最早二度とないんじゃないだろうか、と思うほどの代物なのである。少なくとも、わたしはこのときほど彼女がエモーションを滾らせて、爆発されている唄を知らないのだ。

それが、この部分である。


「だいじょうぶ。 ダイジョウブ。

大家 」


わたしは、この部分を聴くたびに、涙をとめることができないのだ。

それまで、「あたしはほら!一人でもこうして生きてける」と唄ったりと、気丈よりも自然に自らを唄っていた彼女。

しかし、ここで彼女の感情は爆発してしまう。

そこには、「一人で生きてける」はずでも、「一人の寂しさ」を拭いきれぬ悲しさや、家族においていかれてしまったことの消すことのできぬ痛みが、大きく存在している。

それでも、彼女は「だいじょうぶ。」と唄う。だいじょうぶだから、と。

だいじょうぶ。といわなければ、彼女はすべてを認めてしまうことになる。一人では生きていけなくなる。そんなのは認めてはならないのだ。だから、大丈夫と認めなくてはならないのだ。いい聞かせることしか出来ないのだ。


そして彼女が叫んだのが、彼女の父の国の言葉の、北京語である。

「みんな」という意味をもつ、「大家」。

そこには、もうこらえきれぬ感情がある。北京語で父を思い、同時に家族を思うのだ。

彼女はもう、叫ぶしかなかった。「みんなだいじょうぶ」と、叫ぶしかなかった。

ひとりでもだいじょうぶ。みんな、だいじょうぶ。

そこには、嘘なんてひとつだってない。

切実な、たしかな気持ちしかないのだ。


そして彼女は最後に、北京語で唄い終わる。わたしは、そのことばの意味を知らない。彼女も、そのことばの意味を明かさない。

それがすべてである。



あまりにも切なくて、うつくしい一曲。

わたしは、彼女の生い立ちに泣いているわけではない。

彼女が、唯一(とよべるような)、感情を爆発した。そして、その感情があまりにも美しいから、わたしは泣いているのである。

この曲の根源に潜むのは、美しき、ひとりの人間の感情でしかないのだから。


あんまりにも美しくて、容易に聴くことのできない、名曲だ。


その佇まいはちょっと唯一無二なポップガール、木村カエラ。

正直嫌いだった彼女へのイメージを払拭してしまったのが、この新曲「You」だ。


すでにCMで聞いている方も多いと思うが、このCMというのが、「キットカット」だ。

この時期のキットカット、というと、ご存知の方も多いと思うが、「キットカット=きっと勝つ」という語呂合わせで、受験生のアイテムのひとつになっている。

そんなキットカットのCMソング、「You」は、歌詞をみたときに、「これはキットカットのCMにぴったしだよな」と思った。

そして、無論、そのようなことを除いても、いい作品だ。

ゆったりとしたビートは心地よく、ギターも丁寧に響いている。木村カエラの声はまるで友達のような響き方をしていなとわたしは思った。

サウンド面、メロディ面でいうと、「丁寧」をすごく感じた。それは、「丁寧にプレイする」ということにおける丁寧さである。サウンドは、ちょっとゴツいような気もするが、それはそれでいい。それはきちんと、作品に作用しているとわたしは思う。

また、この曲の歌詞は、ちょっと木村カエラ史上の中でも秀逸だと思う。


「ふと見つめると うつむいてばかり

気づかれてないとでも?

問いただしたよ でもちゃらけてばっかり

ほどけないの? からまってる気持ちが」


この部分を読んで、ちょっと驚いた。あまりにも現実的だったからだ。

いまの若い世代(と、特徴づけるのは語弊があるかもしれない。しかし、わたしは事実上の「若い世代」なので、自分の世代以外の世代を、体感として理解をすることはできないのだ。もしかすれば、ずっと変わらないことなのかもしれないが。しかしわたしは、この傾向は顕著なものなのではないかと思っている。)は、悪い言い方かもしれないが、決して自分の手の内を見せない世代なのだ。

見せないというより、見せられないのかもしれない。

虚勢を払った自分を決して見せない。泣く姿は見せない。弱音を吐くのは冗談めいていう。本気の相談はしない。

これらのことは、きっと、いまの若い世代は判るんじゃないだろうか。

いえないし、いいたくないし。

だからこそ、「ちゃらけたり」「うつむいたり」して、決してぼろを出そうとしないのだ。


そしてそれは、誰にも自らを見せられぬ、という孤独に通じてくる。

そのことを、木村カエラは、「ひとりぼっちを 受け入れて涙が流れたと唄った。

この部分は、ちょっと秀逸だな、と思った。 誰もが唄ってきたことのようにも思えるが、木村カエラのそれの場合、しっくり来る。それは、誇張もされていない現実としてそばにある。若い世代の彼女のだからこそ、使い古された言葉ではあるが、「等身大」のことばが生まれたのだと思う。


しかし、そんな「ひとりぼっち」を知りながらも、それでも彼女はこうも唄っているのだ。


「つないでいたいんだ You

不安を抱いても 何も怖くはないから」


「ひとりぼっち」を知りながらも、誰かと繋がろうとする彼女。

「ひとりぼっち」を知りながらも、丁寧にプレイする彼女。

「ひとりぼっち」を知りながらも、確実な意志を以って唄う彼女。

彼女はきっと強いのだ。ひとりぼっちだから。同時に、決してひとりぼっちではないから。


いま、彼女は手を指し伸ばしている。そのことは、わたしたちの希望なのかもしれない。


わたしは、BoAのCDも持っていなければ、意欲的に聴いたこともないのだが、彼女はいま売れっ子のシンガーである。あらゆる機会があり、たびたび彼女の曲を聴く。

最近気付いたことなのだが、彼女が唄う曲(あえて、曲と呼ばせてもらう)は、実に音楽的だということだ。


わたしのような輩は、ついつい曲のクオリティやアーティスティックさを探しがちで、いってしまえば、彼女の曲には、それらのものをわたしは見出せていない(これはわたしの問題である。あなたが、彼女の唄にクオリティやアーティスティックな部分を見出しているのなら、それはそれで正解だ)。

しかし、彼女が唄う曲の「音楽性」は、ものすごい部分がある。


大ヒットしたシングル「LISTEN TO MY HEART」 なんか、めちゃくちゃ音楽的な楽曲だ。

メロディとしてのセンスが突出していて、異様な切なさをメロディが所持している。

この曲を思い出す瞬間に、リスナーは一挙にして、この独特の切なさ(--そこには、胸を切り裂くような激しさもなければ、ナルシズムにも似た“切なさ”とやらもない。きわめて現代的な、ある種、俯瞰の位置から見渡しているかのような徹底した傍観ぶりと、それでも存在する己の感情ぶりが、実に巧妙に絡まっているのだ--)を脳内に送り込んでしまっているのだ。

最近発売された「抱きしめる」という曲のサビも、きわめて現代的で、かつキャッチーさもあって、わたしなんか一度聴くとふとした瞬間に、頭の中から「抱きしめる」が出て行っていない、ということに気付く、ということが屡ある。

しかし「LISTEN TO MY HEART」にあった人間臭さが、この曲では、変なお洒落に化されていてるな、と思った。


BoAというシンガーは、アイドルという位置(--わたしは彼女を、アイドルだと捉えているのだが--)に属していながらも、いいメロディを与えられていると思う。キャッチーさと現代的な感覚は、今の邦楽シーンにおいても「ウケる」ものであると思う。

しかし、なぜ彼女はあんなにも、「古臭い」唄をうたわされているのだろうか?

「抱きしめる」なんかは、陳腐さがどうしても付き纏ってしまっている。

もはや、「弱いあなたさえ」「私には天使」という世界観は失われつつあるのだ。

もうすこしセンスのある世界観を詞に託していけば、この曲の世界もさらに羽ばたけるのにな、と思う次第だ。


最近のわたしのヘビロテ盤、昼海幹音の「文明交響型ウィルス」の二曲目の「科白」

わたしは、この曲がものすごく好きである。

聴くたびに胸をゆさぶられ、昼海幹音というアーティストの、底知れぬこころの海に、あっさりと溺れてしまうのだ。

とにかく、好きである。


あのギターのはじまりかたからして、メロウさと虚無感を同時に漂わせていて、わたしは心臓をつかまれてしまっている。

昼海氏のギターというのは、わたしは、それ自体だけで非常に魅了されているのだが、とくにこのギターの響き方は、あまりにも危うい。

曲がはじまって0.1秒とか、そういった微々たる瞬間から、甘ったるい退廃が流れ込み、血液まで届き、胸を完全に奪ってしまうのだ。

そしてそれは、あまりにも、甘美である。艶めいている。終わりしか見えないからこそ、溺れてしまえる部分があるのだ。

それは、ロックによる快感とは、似ているが、どこか違う。 この、昼海幹音というアーティストが作り出す、歪んだ甘美は、唯一無二なのだ。

「悪い風は読まない

トゥルゥル」

と、あっさりといってしまうあたりから、どうしようもない退廃ぶりがある。甘ったれている。しかし、どことなく切ないのだ。いや、切ないというよりも、悲壮めいている。退廃への甘えと、それに対する憤怒と諦め、がまざりあい絡まりあい、ひとつとなっていて、わたしは、ことばにしがたい気持ちになる。

悪い風は読まない、といいたくなるような、でもそれを禁じられるような、独特の何かがあるのだ。

昼海氏の唄声は、甘美にわたしの胸を抉っていく。


また、なんともいえないのが、この曲の間奏部分である。

それまで、ギターをメインに響かせていたこの曲が、間奏を迎えたそのときに、ピアノが、ある種のかろやかさを以って存在していくのだ。

ピアノの響きは、わたしの感覚からだと、きわめてポップスとでもいうべきような響き方をしていた。

こんなアレンジが、もし、他の誰かの曲にあったら、その曲は、きっと見事に「ポップス」というジャンルになってしまうだろう、とでも思わせる、そんなピアノだ。


しかし、この曲においてあのピアノの軽やかさは、決してポップスという、幸福なジャンルへ転身をさせない。

むしろ、地下に潜っていくかのように、海に沈んでいくかのように、この曲の中で流れ続けていた退廃に、完全に塗れてしまうかのような、いいようもない不安に胸が駆り立てられるのである。

恐ろしさと甘美さ、が同時にそこにも両立しており、ピアノの美しい軽やかさの甘美さが、ある種、昼海幹音自身が持つ狂気のようにも見え、その異様なまでの美しさと危うさに、わたしはどうすべきか、ということを忘れてしまうのだ。

この間奏の音、すべてに対して、息を忘れ、無防備になってしまう。ただ、胸中を切りつけられながらも愛撫されているかのような、不思議な感覚になっていくのだ。

それは、ある種のマゾヒズムの強要である。

この曲は、聴くものに対して、マゾヒズムを強要してしまう力があるのだ。いいかえれば、抗えぬ何かを持っている。しかも、この曲は決して、サディズムを持っているわけではないのだ。どちらかといえば、マゾヒズムのほうではないかと思う。

それなのに、この曲は、あっさりと人をマゾヒズムに泳がれる。溺れさせる。塗れさせる。

わたしは、それは、“狂気”というすべてを凌いでしまう存在による作用なのだと思う。


この曲には、退廃的であるがゆえのマゾヒズムと、あまりにも美しくて危うい狂気が潜まれている。

快感と絶望を一挙に感じてしまった瞬間に、この曲の狂気が、ひとの胸に入り込み、切りつけて、愛撫してしまう。

そして、それすらも快感になってしまうのが、この曲の狂気の真髄である。


美しく恐ろしい、狂気の一曲である。

球根


イエローモンキーは、艶やかなバンドだった。四人から溢れるオーラは、ロックスターそのものであった。

そんな、一見して完璧である彼らの音楽が、わたしたちの胸をこんなにも貫いたのは、彼らの音楽が、虚無感を激しく突いてくるものだからである。

彼らは、彼らの音楽世界において、そんなロックスターのオーラとかを、きっと、出しちゃいない。

「THE YELLOW MONKE」という音楽は、自分自身の根底にある悲壮と、生への激しい渇望と絶望を同時に手に持っている、わたしたちの叫びでもあるのだ。

そして、「ロックスター・バンド」THE YELLOW MONKEYの手にかかることによって、それは、きわめてメロウで美しい、艶やかなロックへの変貌を果たすのだ。

それは、イエローモンキーというバンドのみが起こせるマジックだと思う。

つまり、彼らの音楽は、いってしまえば絶望しかないのだ。絶望の上ですべてを思っているとしか、いいようがない。


そんな悲壮感と絶望が、くるしいほど美しく奏でられているのが、この「球根」だとわたしは思う。

自分自身を、花にたとえることはよくあることだが、ここでは、球根にたとえられてしまっているのだ。

それだけで、わたしは胸がくるしい。

球根は、陽の目には当らない。土の中で、根を伸ばし生きていく。うつくしいと褒められるわけでもない。ただ、花を咲かす。

いってしまえば、永久的な孤独だ。

そんな孤独を、自分と捉えてしまっているのだ。

くるしい、としかいいようがない。身に覚えがある、張り裂けそうな、生への絶望。そして、イエローモンキーのロックに対し、声をあげて泣きながら悦んでいる魂。

わたしは、この曲を聴きながら、果てのない孤独と、とめどもなく悲しいエクスタシーに巻き込まれるのだ。

そのエクスタシーでさえ、ロックを聴いて燃えるようなエナジーのあるものではなく、わたしのこころの底にいる、虚無感というスウィッチを、わたしの魂ごと愛撫しながら押してしまうのだ。


わたしは、こんなにも、わたしに近いロックを聴いたことがない、と思う。

わたしは、ロックを聴いてはよく泣く。しかし、それは、その曲の世界観へ強く感化されて結果として生じる涙であった。その世界観の中で、共感やシンパシィを感じていても、あくまで、わたしはその世界観の中で、「生きて」はいない。生活も、起きていない。

しかし、この「球根」に関しては、わたしの世界観としかいいようがないようなものを、感じてしまう。

その球根が、わたしだといわれれば、そのまま納得してしまいそうになるような何かがあるのだ。

それだけの孤独と悲壮と絶望が、この世界にひとつの唄として存在していることは、本当に貴重だと思う。


この唄は、最後に、「咲け...花」 と唄い、祈り、願う。

あふれそうな絶望と孤独を以って、花が咲くことを祈るわたしたちに、イエローモンキーは、「希望の水」をまいていく。

孤独にそまった、うつくしい水を与えるのだ。

だからこそ、わたし自身に響き、染みる。

こんなにも、うるわしく悲しい曲をつくりあげた彼らは、まさしく、ロックスターであり、孤高のロッカーである。


最初に一行は、 「あなたのためになら死ねると思った」 だ。

わたしは、思わずたじろいだ。 一青窈は、深い感情を常に水のように唄に託していくシンガーだと感じていたからだ。

しかし、この一行には、そんな、水のような安らかさだとか、清らかさだとか、透明感がない。それに、ドロドロの激情でもない。

この言葉は、もうその言葉以上、以下の意味をも持たない、はっきりとした「意志」でしかないのだ。

だから、もう透明感もドロドロもない。ある種鋭利な刃物のような強さで、すべてを切っている。


この一行からこの曲のすべてを物語られたような気が、わたしにはする。

かつて「僕」を多く主語にしてきた彼女が、「わたし」として語っているのだ。

そこには、薄められた主観や、曖昧模糊な空気なんてない。

ただひとりの女としての、ただそこにあった、ひとつの恋愛しかないのだ。

死ねると思った思いや、幾度も重ねた約束が、この曲にはある。一青窈という人間がした、恋愛の真実しかここにはないのだ。


「何一つ失くさないで 何一つ忘れないで

いれたらいいよね

いられるよね」


もうわたしはどうしていいのか判らない。 ここには、はっきりとした不安しかない。失わないことも忘れないこともわたしたちは出来ない。だから、確認するしかない。そして、約束するしかない。「忘れない」「失わない」という嘘の約束をするしかないのだ。

気休め程度の約束で、安心したくて仕方がない気持ち。

ああ、とわたしは思う。

この曲は、一青窈というひとが唄ってきた曲のなかで、もっとも鋭利な曲になった、と思う。

だって、こんな気持ち、しない奴いるんだろうか? 不安を覚えずに恋をできた人間がいるんだろうか?

もしいるとしたら、そんなもん恋愛じゃねえよとわたしは云いたい。

身が切れそうな不安、切迫感、嘘の約束を知りながら、わたしたちは恋の味を噛み締めていかなければならない。

恋の定義なんてわたしは知らないが、そうせざるを得ないのが恋なんじゃないだろうか。


久しぶりに聴いた、直球の恋愛ソングだと思った。

最近、こういう音楽を聴いていなかったなあと改めて思い知らされた。

鋭利な女の気持ちを、身を切られそうになりながらも、是非味わって欲しい一枚である。


ナンバーガールのラストアルバム「NUM-HEAVYMETALLIC」

このアルバムを聴くと、血が沸く。単純にどこかへイッてしまう。

ナンバガには、ミッシェルの全身を切り刻んだような痛みや、BJCの虚無感と戯れるような孤独感もない。

ナンバーガールにあるのは、向井秀徳が見える歪んだ世界しかない。

それはときとして美しいヴィジョンであったり、村の神社だったり、嘘吐き少女だったりする。

それを、ナンバーガールは空間に再現していっているのだ。


そんなナンバーガールがこのアルバムで示したものは、「ヘヴィ」である。

妄想人類の諸君への万歳三唱から始まり、「やっぱりロックンロールやね~」といってみたり、エレベーターガールが重力障害になっていたり、雰囲気・気分だけの恋をしたり、村の神社の境内でヤッたりするのだ。

それには共通点はないようにみえるけれど、底にあるのは、ヘヴィなすべてである。


無意味にやりまくる少年少女や、冷凍都市の狂いっぷりや、売春婦の過去への切なさ、本気の恋を出来ない少女も、境内でヤッたあの子が、時の経過によりすべて薄れていくこと。

どれもヘヴィでしかない。

やりまくってどうする? 冷凍都市になってどうする? そういったことを、向井秀徳は問うているのだ。

このアルバムは、極めて向井氏のエモーションの衝動からの発生でありながら、実に論理的な展開を求めるような「式」となっているのだ。そこが恐ろしい部分である。

感情の発生は常に叫びでしかなく、また論理的な思考というのは、冷静さの元においてしか生まれないのだ。

真逆のものから、ひとつのものを生み出すということをしてしまっている向井氏の天才ぶり(変態ぶり)は異様である。

ナンバーガールはロックであるが、こんな変なロックも聴いたことがねえ。

でも、それがとてつもなく快感だったりするのだ。

このアルバムは、そんな向井氏のエモーションと論理的思考の融合ぶり、そして爆発ぶりが凄まじい一枚だとわたしは思っている。



ロックが世界に発信していく意義なんて、実はないかもしれない。

だけど、世界中の「お偉いさん」がナンバーガールきいてイッてしまえば、なんか見えてくるような気がしてくる。

超異様アルバム。且つ、超ロックアルバム。名作である。