「トブヨウニ」に収録されており、アルバムにも入っていないが、「やばすぎる」名曲がある。
「HATE」である。(同じくトブヨウニのc/wとなっている「BLOWN UP CHILDREN」も名曲である。)
イントロからして、呼吸を許さないかのような絶望的境地だ。
空間にただ“存在”するだけの(語弊はあると思うがこう書かせてもらう!)ギターの音。
それと同時に、ギターが鳴るたびに、わたしたちがかつて無視することで忘れてきた傷や痛みが、ふたたびズキズキと動き出してしまう。
音がなってしまったその瞬間に、わたしたちは、戻り、そして帰ってしまうのだ。
逃げ切れなかった場所に。
「母さんクリステルにそれとなく話をして 「すぐ帰る」って
ヘイ心配ないって ヘイしっかりして できるだけHAPPYを手にしてほしい」
それは、果てしない孤独とも似ているし、そこには「母さん」も「クリステル」もいてほしくないし、またそのあとに続く歌詞に表れる「8才のお祝いに買ってもらったギター」という喜びですら連れ込みたくないのだ。
絶望的な場所に必要なものは孤独でしかない。
そして、うつくしく、いとおしい存在(--母さんやギターたちを--)を、自らの絶望と闇で汚さないように、という懸命の祈りなのかもしれない。
しかし、その祈りを声にだした途端(--つまり、あの歌詞をロビンが唄いだした途端--)、いいようもない苦しさと、絶望がフラッシュバックしてしまうのだ。
ここには、虚勢すらない。いや、虚勢をする余裕すらないのだ。言葉としての虚勢(「心配ないって」というような)はあったとしても、それを表現する己には一切の虚勢などない。
ただ、もはや祈るだけしか出来ない彼の心情しか存在しないのだ。
わたしは、そのことですでに苦しいと思ってしまう。呼吸もできなくなってしまう。
彼の、絶望から守りたい、という懸命な祈りですら、彼自身によって、孤独を孕んだことばになってしまうのだ。
わたしは、とてつもなく、くるしい。
そして彼は、また唄い出す。今度は、タイトル通りの「HATE」を以ってだ。それがこの部分である。
「油と角砂糖と札束と悪魔の
あの向こうあの向こうあの向こうへ」
それは、わたしがさっきいったように「HATE」という感情を以って唄われているとも思うし、また、それはさっきと同じように祈りのようにも聴こえる。
まはや、彼がいる場所は、圧倒的に絶望的な境地であり、そこには孤独しかない。
彼が抱く感情、それはすでに、彼の願望でしかなくなってきているのだと思う。
だからこそ、彼の「HATE」という怒りの感情ですら、すでに、彼の「祈り」になってしまう。
わたしは、この部分でもやっぱりくるしいと思う。というか、すでに全編くるしいと思う。逃れられぬ絶望と孤独、そしてそれに対峙しようとする、絶望で孤独な人間。
そして、なによりも私が苦しいと思う歌詞がある。次のとおりだ。
「なぜ神は奪うくせに与えるのさ でも信じていないと、、いないと、、
みんなそう みんなそう みんなそう」
もう、どうしようもないじゃないか。
ここには、本当のことしかない。神は、奪うくせに与えるのだ。
それでも、わたしたちは信じてしまうのだ! 神を!
そうやって孤独を紛らわすしかない。 神を憎むことで、自らを憎まないで済むように!
ああ、とわたしは思う。
ここにあるのは、本当のことしかない。どうしようもなく。
YOSHII LOVINSONは、絶望を、唄にしてしまった。
そして、心をゆさぶる音がすきなわたしたちは、それを、また愛してしまう。
どうしようもない絶望と孤独からは逃れられない。
苦しい、という事実しかない。
狂気もなにもここにはない。
ただ、ニヒリズムのなかで生きようとするひとりの感情が、ここには生きている。それだけなのだ。








