中島美嘉、という歌手は、実に珍しい位置で音楽界に存在していると思う。

彼女の唄声は、鋭利さと包容力を兼ね揃えている。彼女はまさしく稀有な存在である。


今日、彼女のライヴ映像(LOVEのツアーの映像)を見ていたのだが、“中島美嘉”という人物の表現者としてのポテンシャルの凄まじさに、思わず呆気にとられた。

先ほど、彼女の唄声の話をしたが、彼女の声は、空気中のミクロ単位のすべてをも揺るがしていて、会場全体が、彼女の感情に揺れ動いていたように感じた。

細い腕で持つマイクへの意志は力強く、会場全てを見据えて、観客全員をも、中島美嘉という世界に連れ込もうとする力強き瞳は、あまりにも美しかった。

そして、彼女はそれを恐らく無意識でやっていることが判った。

彼女は唄を唄う、という行為を、名も知らぬ誰かへのメッセージとして、自己主張として、他人とつながりあおうとする思いをこめたものとして、行っているのだ。

だからこそ、彼女は、美しく力強く唄うのだろう。

彼女が、PV・ジャケットを含めて笑顔を見せないのは(無論他の活動では笑顔を見せているが)、彼女の「唄」に対する自らの意志と意識の強さの反映であり、うつくしく自らを見せることよりも、彼女自身の内心的な部分を見せようとしているからこその結果なのだと思う。


本当に、中島美嘉という人物の、表現者としてのポテンシャルは凄まじいな、と改めて感じた。

最近発売された「BEST」に収録された、新録の「AMAZING GRACE」は、ジャズシンガー、綾戸智絵のプロデュースの元に唄われているが、彼女のポテンシャルがそのまま反映されたように、強く美しい曲になっていた。

綾戸智絵のピアノとの交じり合いもすばらしかった。


そこで思ったのが、わたしが彼女のCDを一枚も持っていないのは、彼女自身の所為ではなく、彼女をプロデュースしきれていない部分があるのが原因だと思った。

彼女を、生温いポップスで消化するだなんて無理な話である。

もっと有能なプロデューサー、もっと意志的な楽曲を彼女に提供すれば、彼女はこれからさらにシンガーとしての成長を遂げると思う。

いま、必要なのは、彼女のポテンシャルを引き伸ばせる誰かの存在なんじゃないだろうか。


彼女が、将来、彼女のポテンシャルを思いきり伸ばしている姿を目にしたい。そのとき、恐らくわたしは彼女のCDを買うのだと思う。

この、ACOの「absolute ego」ほど、夜に響くアルバムも珍しいと思う。

クラシックともいうべき空気感があり(クラシックは夜に響く!)、夢の世界のような居心地のよさと、ある種の謎めいた世界が一挙に耳から全身に広がるのだ。

曲全体に流れる、あたたかな水のような動きと、ちいさな振動は、心地よさを生み出していく。

しかし、ACOが紡ぐ歌詞は、たしかにその曲たちとひとつになりながら、ことばそのままの鋭利さを決して失わない。

曲は、歌詞を壊さないし、歌詞も、曲を壊さない。

それは、まったくといっていいほど「共存」であるし、また、それが成立する世界というのも、また恐るべきことである。普通は、そのようなことにはならないからだ。


2曲目の「悦びに咲く花」なんて、特に顕著である。

「簡単よ 私は女で とても心が弱い」と、まどろんでいるかのような曲世界で、はっきりと唄われているのだ。

わたしは、はじめて聴いたとき、思わず耳を疑った。

曲のまどろむようなゆったりとした空間が、わたしを包み、それと同時に、歌詞の鋭利かつはっきりとした意志的な部分が、わたしをしっかりと刺した。

これは、ACOという存在でしかなしえぬことなんじゃないだろうか、と思った。



夜に聴きたいアルバム。

ほかにもたくさんの、心地よさと鋭利さが共存している。

ACOというシンガーは、一体何者なんだろうか。


くるりの最新アルバム「NIKKI」、実はとっくに聴いていたのですが、ここにしてようやく「感想」を書きます。

あまりにも素敵だったので、なかなかまとまりませんでした。


単刀直入にいうと、2005年における、ベストアルバムかもしれない。

くるり史上においても、ものすごい出来の作品であるし、なかなか生まれることのできない、ロックぶりとポップスぶりの共存されたアルバムなのだ。


わたしは、ROCKI'N ON JAPANという雑誌で、この「NIKKI」に関するくるりへのインタビューが掲載されており、ライターの宇野氏が、「ロックであることはポップであることと違わない」というようなことを書いていたのが、わたしにはそれが釈然としなかった。

わたしにとってのロックは、ロックでしかなくて、また、ポップはポップでしかないものだった。

ロックとポップは、正反対のジャンルとして存在しており、ロックとは血と痛みのひとかけらであったし、ポップは幸福のひとかけらである、とわたしは思っていた。


わたしは、そのインタビューや記事を読んだときに、まだ「NIKKI」を聴けていなかった。

そんな釈然としない感覚をはっきりさせたくて、そして、インタビューから感じ取られる「名盤の予感」に、NIKKIをとても楽しみにしていた。


「NIKKI」は、そんなわたしの、名盤の予感をもたしかに満たした。

そして、釈然とせずに、ロックはロックでしかいられねぇよ!と叫ぶわたしを、まるで抱き締めるかのように、そっと壊してしまったのだ。

「NIKKI」は、正真正銘のロックだし、そして、あふれそうに幸福なポップスでもあったのだ!!


フーやビートルズのようなスタンダードなロック(わたしはフーを聴いたことがないのでなんともいえないが)が、この「NIKKI」には存在している。

血や痛みからだけでロックはうまれないし、たくさんの切なさから幸福という名のポップスがうまれる、ということを、くるりは証明してしまっているのだ。

かつて“岸田少年”だったときに、フーやビートルズに感銘を受けたその衝撃を、今度はくるりが誕生させてしまっている。


わたしは、このアルバムを聴きながら、何度も「このアルバムを永遠に聴きたい」と思った。

「NIKKI」という世界は、あまりにもやさしくてせつなくて、いとおしい世界なのだ。

「Baby,I Love You」の愛と切なさのあふれたくるおしさや、「Superstar」に通じるひとつの脱出や、「お祭りわっしょい」のアグレッシヴでどこか懐かしい感覚も、 「Birthday」の、一言一言が、音を以って声にだされた瞬間のこわれそうに強い切なさも、すべてが、いとおしいのだ。


こんな名盤が、いま、この時代に生まれたことは、まぎれもない幸福である。

ロックとポップがあれば、この世界はまだ幸福になることができることを、予感として感じさせる最高の一枚だ。



昼海幹音の2ndアルバム「文明交響型ウイルス」

かねてより聴きたいと思っていたのだが、昨日漸く購入することができた。


1stの「夢と寝言」で、日本人アーティストと思えないような洋楽の趣(--それは、歌詞がすべて英語だから、ということとは関係のない、音としての“洋楽ぶり”であった!--)を見せた昼海が、いま、このアルバムで、おそろしく退廃的な艶かしさをぶつけてきている、とわたしは感じたのだ。

歌詞にでてきた「女郎」という言葉に象徴されるように、それは明治だか昭和だかの、甘ったるく漂う退廃にも通じているのである。

現在、ではない空気がここにあるのだ。


わたしは、1stを聴いたときに、昼海幹音は、時空をねじらせた上で音楽というものを存在させることのできる人間だと思ったのである。

ねじれてしまい、皹の入ったその空間で音楽を響かせているようなアーティストだと。

しかし、今回昼海は時空をねじらせたりしなかった。

彼は、ねじらせるどころか時代から別次元へと飛んでしまった。

きわめて退廃的などこかへ、彼は世界を創りあげてしまったのである。

ああ、昼海幹音という男はおそろしい。正直、そう思った。


曲自体に関しては、 「科白」という曲が非常に好きだ。甘ったるさを嘆く甘ったれた男のことばが響く。

歌詞は、英語でわかりづらかった1stとは異なり、きわめて昼海幹音という男の紡ぐことばのセンスの妖しさと美しさが素敵な代物であった。

しかし、ひとつだけ注文をつけるのだとしたら、「科白」でアルバムに与えている全体への緊張感が、「科白」が2番ということで最後のほうまで響いてこないのだ。

一曲一曲は開花するかのごとくうつくしい曲たちなのだが、“全体”を捉えるのならば「科白」はもうすこし後のほうでもよかったような気がする。

しかし、わたしが個人的に「科白」を好いているのでそのような意見が生まれてしまうのかもしれない。

トータルとして考えれば、素敵なアルバムだ。


昼海幹音に完敗である。



東京事変がツアーで初披露した「透明人間」

今日、DVDでこの曲を聴きながら(観ながら)、なんともいえない切なさに襲われた。


この「透明人間」という曲は、ほんとうに温かな名曲で、ポップス中のポップスである。

それは、ポップスが最も幸福な音を響かせることのできるジャンルであることの証明にもなりえるような、そんな温かさ。

ギター・ベース・ドラム・ピアノ・ヴォーカル・・・すべてがとけあった瞬間に起きる、ポップスの「魔法」がこの曲にはあるのだ。

聴けば聴くほどにいとおしい、聴いた瞬間に幸福があふれ出す、そういう類の曲なのだと思う。


わたしは、こんなにもいとおしい曲を聴いて、なぜこんなにも切ないのだろうと思った。

それは、曲へのいとおしさと反比例するかのように、深く深く“切なさ”を刻んでいった。


もうこらえきれない、泣きそうだ――― と思ったその瞬間に、わたしは切なさの所以を理解した。


晝海幹音、H是都Mの脱退が、おさえきれない切なさだった。

晝海のアグレッシヴさとセンシティヴさの両立されたギターサウンドは、両極端なパワーを持ちながらまさしくひとつの力となって、曲を際立たせてきたし、ヒイズミのピアノはまさしく絶品で、世界を彩っていた。

それは、この「透明人間」でも同じことなのである。


ヒイズミの軽やかなピアノから始まる「透明人間」は、先ほども書いたが、五つのサウンドすべてがとけあった瞬間に起きた「魔法」がある。

つまり、この曲はどのサウンドが欠けたって、成立しない魔法なのだ。

あんなにも鮮やかなピアノや、あんなにも糸のように美しくアグレッシヴなギターがなければ、「透明人間」は成立しないものだと思うのだ。


うつくしければうつくしいほど、もう起きることのない「魔法」への切なさが募ってしまっていた。

第一期東京事変は、わたしのなかでは永遠に崩すことのできない大きさで存在している。

わたしは、第二期の東京事変だって好きだ。修羅場もほんとうによかった。アルバムも楽しみだし、これからも大好きなバンドだ。


だけど。

だけど、第一期を崩すことも、忘れることも、わたしにはできない。

「透明人間」が象徴した「魔法」は、わたしのなかで永遠のうつくしさである。

幸福であればあるほど切ないこの曲を、わたしはいとおしんでしまっているのだ。


椎名林檎のライヴツアー、「雙六エクスタシー」武道館公演が収録されたこの「Electric・Mole」

椎名林檎自身初となる武道館公演であり、ソロとしての椎名林檎の最後の一場面のひとつであるこのDVDは、まさしく「節目DVD」である。


わたしは、今日殆ど1年ぶりにこの作品を見た。

1年間もこの作品を見ることを封印してきたことに、特に理由があったわけでもないのだが、東京事変としての活動がとても精力的で、わたしは、東京事変のほうばかり観ていた。

東京事変のライヴというのは、DVDを観る限り(わたしはツアーに参加できなかったので)、東京事変渾身のポップスが、観客の全身に降りかかるようなライヴである。

それは、観客にとっての「幸福」の粒子でもあり、ポップスという美しきジャンルでしか成りえぬ粒子だ。

そして、それを降らすことができるのもまた東京事変だけなのではないだろうか。

血が沸き、身体を組織する一部になることが実感できるのが、“東京事変”のライヴなのだと、わたしは思う。


しかし、このエレクトリックモール(以下エレモ)のライヴというのは、そういった粒子というものは一切存在しない。

椎名林檎という存在は、極めてポップスであった。彼女はデビュー以後、常に「ポップス」を念頭に置いて曲を世の中に送り出してきた。 そのことは紛れもない事実である。

しかし、この雙六エクスタシーにおける彼女の曲たちは、ポップスとかロックとかそういうジャンルに収まりきらない規模になっているのだ。

一言で云うと、「椎名林檎の生の一部」なのである。椎名林檎というひとりの人間の、魂のひとかけら。

曲たちは、彼女の生の縮図のように存在している。

それは、ミクロ以下の繊細さで人のこころに入り込んでいく。触れていく。

彼女の生が、生きているわたしたちに確かに訴えかけてくるのである。


その状況というのが、まさしく無菌室のようなものであり(--ROCK'IN ON JAPAN現編集長の古河氏は、屡、椎名林檎の3rdアルバムを「無菌室のような」と表現しているが、わたしはそれに非常に共感している--)、害のない状態である。

ミクロレベルの汚れすら許さないような、そういう状況。そこには、ある種子宮の中のような感覚すらある。

そんな状況の中で繰り広げられていく彼女の曲たちは、より一層うつくしく、より感情と魂がむき出しなのである。

曲を覆い隠していたヴェールは既になく、最もシンプルな形態で、激しく響いてくる。

しかし、決してぶつかりはしない。触れるのだ。いや、寧ろ、聴く者の身体にとけこむような、そういったものなのである。

それは、音楽における快感やそういった類ではなく、“生”が本来持つせつなさと美しさにも酷似している。



あまりにも美しいこの作品は、永遠に語り継がれるような気がする。

約一年ぶりにこの作品を見た私は、2曲目「罪と罰」から涙が出てきてどうしようもなかった。

果てのない絶望が見せる名曲、「ギブス」では嗚咽が出そうなほどであったし、永遠の名曲・魂に響く人生の一曲「茎」では、はっきりいって号泣状態であった。


ソロ・椎名林檎の、圧倒的存在感と、作家としての恐ろしいほどのポテンシャルが伝わる、涙なしでは聴けぬ名盤だ。


家、の意味は個人によって異なるだろう。

安心、不安、安らぎ、焦り、嫌悪、愛情…。

YUKIの場合、それが、果てのないような安らぎと愛情の象徴であったことが、よく窺えるのがこの「Home Sweet Home」である。

タイトルからして、YUKIの思いは率直に表現されている。


それにしても、この曲の持つ、いいようのない切なさは何故なんだろうか。

「名前を呼んで」「どこに行けば 行けば 満たされるの?」という、人類の永遠の切なさを以って、YUKIはかなしいくらいに願い、祈る。

それは、もう生きている上で切り離すことのできない願いだし、この満たされない苦しさを、知らずに通ることなんて、おそらくできないだろう。

日常を通じて、わたしたちはそういうことを感じていかなければならないのだ。


しかし、そこでも、ただしっかりと存在するのが、「Sweet Home」な訳だ。

それは、甘い響きに似合うような、そんなふわふわしたものではない。

人が生きる上で、もっとも身近にある幸福であり、願いと祈りの象徴なのだ。

名前を呼ばれる場所であり、満たされる場所なのである。

それはもう、「Sweet」という言葉に表現される「甘さ」よりも、寧ろ痛いくらいに切なくていとおしい存在であるとわたしは思う。


いとおしい、よりもさらに痛々しくて、希望の裏側に切なさがあることを切り離せないこの曲は、とてもなく大きな切なさをわたしたちに聴かせている。

それでも、この曲を何度も聴きたいと思うのは、YUKIにとっての「Home Sweet Home」と同じように、この曲が、祈りと願いの象徴に限りなく近いからなのかもしれない。

サウンド・オブ・ミュージック(CCCD)

奥田民生がすばらしいのは、いつでも聴くだけで、スウィッチを押されることだ。

いわば「民生モード」なるものが、あっさりと、そしてたっぷりと蘇る。

そして、そのことがとてつもない快感である。


そんな民生なのだが、この「サウンド・オブ・ミュージック」はなんともいえずシンプルな民生ロックである。

「数分のエクスタシー」とは、「まさしく!」といいたくなるほど的確である。

かつて音楽好きの少年だった彼が、いまはその音楽を発信している。

そして彼は、あっさりとわたしたちに「数分のエクスタシー」を与えてくれる。

これほど幸福なことはあるだろうか。

音楽が音楽を生んでいる。 あまりにも満ち足りたことである。


また、この「サウンド・オブ・ミュージック」は、まるで少年期に戻ったかのような不思議な興奮がある。

「僕」は、彼が好む「数分のエクスタシー」を、「君」に勧めたりしているではないか。

音楽をひろめたくって、そしてそれを共有したい、そんな少年の純粋かつパワフルな魂!


そのくせ、「思えば僕等はこれからどうなるんだ」なんていいようもない不安にかられたりする。

しかし、そんなときでさえ、音楽がそばにあったことを、すごくわたしは感じる。

数分のエクスタシーに溺れながら、きっと先をみようとして歯痒かったのだろう。




数分のエクスタシーを与えてくれる曲。

音楽がなにかって、結局は「数分のエクスタシー」、これにつきるんじゃないだろうか。




BUMP OF CHICKENの新曲「supernova / カルマ」

今回は、この「supernova」のほうを取り上げてみる。


BUMP OF CHICKENの作詞作曲は、ヴォーカル藤原基央が担当している。

昨年、「ユグドラシル」という傑作を完成させてからというもの、藤原氏の詞は、よりシンプルに、より鋭利に、そしてよりやさしく、すべてを捉えようとしている。

藤原基央が求めているものは、恐らくそれなのだろう。

見えないものを見たい、世界を知りたい、自らを全うしたい、生をたしかに感じていたい。

藤原基央は、かつての様々な作品でも、たしかにそれを思ってきた。生を感じようと、自らを支えようとしていた。

しかし、現在の彼は、もう“自分”だけでない何かを見ようとしているのだ。

自分だけを支えたいのではなくて、もっと大規模な何かを支えたいと思っているような気がする。

彼がかつて「自分」を必死に目を凝らして見てきたのならば、いま彼は、目を凝らした先にある、自分を含めた世界すべてを見ようとしているのだ。


supernovaは、そんな彼の思いが、しみいるように広がっていく、そんな曲だと、わたしは思った。


「熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事」と、イントロ歌詞からすべての核心をついている。

わたしにとっての体は、当然の何かである。

意識を働かせれば右腕は動き、声をだそうとすれば唄だって唄える。

そんな、無意識に刷り込まれた“当然”である存在に、わたしたちは、自らの弱さをしってはじめて気付く。

わたしたちは、そうでもしなければ、気付けないのかもしれない。

そんな体ですら、彼は意識をする。体があると。記憶があると。


「君の存在だって もうずっと抱きしめてきたけど

本当に恐いから 離れられないだけなんだ」


そんな風に唄う彼は、彼が唄うとおり、きっと弱い人間だ。 だきしめたつもりが、本当にだきしめていたのは、自分だっただけだ。ただ、彼の腕の間には“君”がいただけ。

そんな弱さと、そんな自分を持つ切なさを以って尚、彼は、

「君の存在だって こうして伝え続けるけど

本当のありがとうは ありがとうじゃ足りないんだ」 と唄う。


彼は、彼以外のすべてにも何かを思う。彼の世界は、彼ひとりではなくなったのだ。

だれかといる切なさと、だれかといる温かさを、彼は全身に痛いほど感じているはずである。

それでも彼は、きっと“君”をだきしめるだろう。そして、ありがとうでは足りぬ思いを伝え続けるだろう。


孤独と、人との共存を続けながら、藤原基央は、思いを伝えていくはずだ。

彼は、もう彼だけじゃない何かと生きているのだから。



くるりの今年の活動ぶりは本当にすごかったが、それ以上にすごかったのが、くるりがロックとポップを両方手にして唄をプレイしてきたことだ。

「BIRTHDAY」から続くCDシングルの発売(--今年はなんと、4枚もシングルを発売した!--)に、SINGER SONGERとしての活動。

いまくるりは、表面的な部分において、最も動きの激しい時期にきているのかもしれない。


そんなくるりなのだが、この「Baby,I Love You」よく作ったな、と思った。

もはや直球中の直球。

「Baby I Love You」というフレーズは、やさしくてキャッチーで、それと同時に、めちゃくちゃ切なかった。あったかいのに痛かった。

それは、真冬のような情景で、うつくしいけれど、現実としての“寒さ”や“痛さ”が切り離せないものだとわたしは思う。


「いつもごめんね

今日もごめんね

いつもごめんね」


なんて、もう言葉のできないような、いとおしさと切なさで胸がいっぱいになる。

もう謝るしかない、愛してるっていうしかない。

そんな、あたたかなギリギリ感(--愛しているといわなければ溢れそうな感情。そして愛しているといわずにはいられない何かしらの切迫感--)が、耳を通じて、からだのなかに流し込まれるのだ。

それは、果てしないくらいに、温かくて切ない。


「追えば 繋がるかな

こころ 見えるかな」


そんな風に、まるで呟くみたいなこの歌詞に、どうしようもない希望があった。 あんまりにも切なくって、それでいて、ひとつも痛くなかった。希望しかなかった。愛しかなかった。


くるりはこの曲で、一滴たりとも「絶望」という要素を入れなかった。 広がる切なさでさえ、エッセンスでしかない。

この曲にとって、 「Baby,I Love You」という言葉が、最後に残った永遠のメッセージなのだろう。



切なくっていとおしい、くるりの名曲がまたひとつ生まれたのだ。