今となっては吉井和哉である、YOSHII LOVINSONの「トブヨウニ」

いつも艶美だった、血だらけでもロックであったそれまでとは違い、かろやかな、春の季節をも思わせるようなポップスである。


わたしは、一時期この曲をヘヴィローテーションしていた。

何度でも聴きたくなる麻薬のような甘美さが、この曲には存在していたからだ。

ゆるやかに、俗に云う“愛情”めいたいものが伝わってくるのだ。


この「トブヨウニ」は、歴史的名盤、 「at the BLACK HOLE」の発売後の一枚目の作品である。

あれだけ、ブラックホールに沈んでしまったかのような痛々しくて苦しい“生”のあとに、このかろやかさ。このやさしさ。このポップぶりだ。

吉井が、ブラックホールから脱出していることは、この曲を聴けば判ることだと思う。

「TALI」で虚無感の拭えぬ愛を唄った吉井は、この「トブヨウニ」で、現実として人間にふれるような愛を唄ったのだ。


それにしても、サビの、

「風に流れる髪にも運命は宿っていて

光りスライドさせるほど眩しいのに君はなぜ?」 という部分は、なんともいえず吉井和哉の魅力が詰め込まれているように思う。

ポップスとして成立している、この「トブヨウニ」だが、このサビのメロディーラインの美しさ! たまらぬ部分がある。

それは、ある種ロックが生み出す快感にも似ていて(ロックとポップスは紙一重なんじゃないかと思っている)、あふれそうにうつくしくて官能的で、希望だ。

ああ、こんな風にいわれてしまったら、どこかで全てを納得してしまう。

そういう部分があると思う。



吉井和哉が、人生の暗闇から抜け出してみた風景がここにあるのだ。

流れる髪にすら運命は宿り、吉井和哉の唄声はそれを人に運んでいる。



以前、このブログでレミオロメンの「粉雪」を聴きたい、と書いたがようやく聴くことができたの感想を書く。


「切ない」。

これに尽きるように思う。


「僕は君の全てなど知ってはいないだろう

それでも一億人から君を見つけたよ

根拠はないけどそう思ってるんだ」


この詞からも、わたしは「ああ」と思ってしまう。

ここには、ひとがひとを完全に理解しきれない切なさや、それでも人を知りたいと、見つけ出したいと思ういとおしい気持ちがある。

根拠よりも感情をたしかに感じている“若さ”がここにあって、そして、そのことは、どこかでたしかに切ない。


そしてなんといってもサビ!


粉雪 ねえ 心まで白く染められたなら

二人の孤独を分け合う事が出来たのかい」


もう、爆発的な切なさである。あまりにも苦しい。わたしの胸は、このサビであふれた切なさに感化されて、どうしようもなく鼓動を高めてしまう。そして、茫然としてしまう。

逃れられないのだ。

音楽は感情を高め、感情は音楽を高める。

切なさから切なさが溢れるようなもので、わたしはどうしていいのかわからなかったのだ。

このサビの切なさは、あまりにも美しくて呼吸ができなくなる。

感情がたしかにここにあって、それは、ロックという存在のように美しくて痛い。



あまりの切なさにからだが熱くなる曲。

邦楽シーンに、また冬の名曲が生まれた。

ジョバイロ/DON’T CALL ME CRAZY



ドラマ「今夜ひとりのベットで」の主題歌、 「ジョバイロ」

ドラマをみていなくてもCMで聴いたことはあるんじゃないだろうか。


ポルノグラフィティの存在はわたしのなかで非常に複雑な位置づけなのだが、彼らの特性というのは、「おとこごころ」なんじゃないかと思う。

わたしは彼らについて詳しくは無いので、ファンの方には恐縮なのだが、彼らの曲には、要するに「男」の部分が見え隠れする。

ユニット名「ポルノグラフィティ」=「官能写真」という大胆さは、男性的なものだな、と思う。(男女差別ではない)


そんな彼らの新曲なわけだが、ラテン色の強いストリングスが目立つ一曲だった。

どこか口ずさみたくなるキャッチーさは、彼ら独特のもの。

ヴォーカル、岡野昭仁の唄い方は、人々に「ことばとして発声したくなる」という気持ちにさせるものがあるような気がする。


「人は誰も哀れな星 瞬いては流れてゆく

燃え尽きると知りながらも誰かに気付いて欲しかった」


この微妙な感覚! 苦しいような、ちょっと言葉の出ない感じ。

「誰かに気付いて欲しかった」が過去形であることに、希望のなさを感じてしまうのだ。

切なさよりドロドロした何か。

それを思い浮かべた時、このCDのジャケットにある、闇に浮かぶ真赤な薔薇と不思議なほど青い蜥蜴の映像がふと浮かんだ。


ドラマとの相乗効果がうまく計られている、と思う。

ドラマのイメージ、そして曲のイメージが相俟って居る。それはとても判りやすいことなのだ。

とりあえず、わたしの下らない音楽評論より、口にだして唄えばいい曲だと思う。

ポルノグラフィティの音楽は、そういうものなのだろう。 わたしはそういうところ、決して嫌いじゃない。


本日発売のaikoのニューシングル「スター」

映画、「あらしのよるに」の主題歌にもなっているので、CMなんかで耳にしたひとも多いんじゃないだろうか。


しずかなイントロから重なっていくピアノとaikoの唄声の絶妙なハーモニーは、最早aiko自身がすっかり手にしてしまっているように思う。

ピアノの存在感を感じさせながらも、自らの唄声を圧倒的に響かせている。

しかし、そのバランスがなんともいえず見事だ。流石である。


それにしても、この唄のサビのうつくしさといったら!

理屈なんかを抜きにして、強い感情があるからこそ感情に訴えるものがある。

切ない希望がたしかに胸を打ち、思わず息を忘れてしまったほどだ。


エモーションぶりはまさしく見事。

彼女のすばらしい部分は、彼女自身のエモーションを、しっかりと表現しきっていることである。

彼女のことばは、あまりにも切実であるし、そしてそれを伝える彼女の声は、彼女のエモーションでしかなせぬ響き方なのだろう。


「あたしが射す光のもとへと 強く手を伸ばせるのならば

このままどうか消えない様にと

願いを胸に刻んで」


願いのもつ切なさの響きがうつくしい曲。

じっくり聴きたい。aikoのエモーションに溺れたくなるような曲だ。


GO!GO!7188のヴォーカル、ユウこと中島優美を中心としたスペシャルバンド、チリヌルヲワカ

はじめて聴いたときに驚きは忘れられない。


一曲目、 「カスガイ」では、メロディアスなギターと共に「キミならボクの命さえも奪えるだろう」 と始まった瞬間から、リスナーは「イロハ」の世界にどっぷりと浸かってしまう。

あのギターの音から、ユウの声から、そして、どきりとする歌詞から、リスナーはえもいわれぬ気持ちになる。

キャッチーさと共存する爆音ぶりも見事で、チリヌルヲワカ、というバンドのメンツそれぞれの、プレイヤーとしての見事さも突きつけられる(--ギターの宮下治人は20歳の新人なのだ!--)。


また、GO!GO!7188でもそのメロディセンスは見事だったユウだが、このチリヌルヲワカ、というバンドでさらにそれを見せ付けられたな、と思う。

「タルト」なんかは特に顕著で、作曲家・中島優美としての存在感を感じた。


一曲目から続くキャッチーな爆音プレイにも慣れ、すっかり心地よくなったころ、11曲目の「コノハズキ」で、またわたしは茫然とした。

楽曲としての気持ちよさ、声にだして唄うことで得られる快感を、あんなにも感じさせてくれたそれまでとは趣が異なり、音楽という媒体がいかにして人間の感情を昇華できるものであるか、ということを、思いっきり突きつけられたように思う。

無論、唄うことによる快感も音楽の魅力のひとつである。

しかし、チリヌルヲワカはそれだけに留まらなかった。 チリヌルヲワカは、ヘヴィな生身の感情を音楽に託すことによって、音楽が本来持つ、唄うことだけに留まらぬポテンシャルを引き出したのである。

ラストの「なずき」も同様に、ヘヴィな生身の感情がある。

そして、「イロハ」は終わる。

あのなんとも云えぬ感覚。

唄うことと感じることを一挙に目の前に突きつけられたあの感覚は、はっきり云うと初めてだった。


GO!GO!7188とはまた違う魅力のあるチリヌルヲワカ。

次回の活動も気になるところである


燃え上がるバイクがジャケットになっているこの「エレクトリック・サーカス」

ロックバンド、ミッシェル・ガン・エレファントのラストシングルだ。(--発売日であった10/11は最終ツアーの最終日!! 伝説の幕張メッセの日 --)

この曲では、デビュー当時よりも、グッとハスキーになったチバの声。

この曲では、チバ特有の掠れる寸前の、喉の限界を無視した叫びはなく、しずかにチバの声が、世界に響く。


「俺たちに明日がないってこと

はじめからそんなのわかってたよ

この鳥達がどこから来て

どこへ行くのかと同じさ」

サビは、ミッシェル史上で最もメロディアスで淋しい。胸を突くようにくるしい。

真意はわからない。でも、俺たちって、ミッシェルのことなんじゃないか---

そんな風に考えられずにはいられない。


こえらきれぬような悲しさがある。だけど、この曲には「痛み」なんて一つとしてない。

もう痛みなんて消えて、残るのは隠し切れぬ悲しさなのだ。

「澄み切った色の その先に行く」と、たしかに云うミッシェル。

終わりがあって始まりがある。

そのことを、こんなにもミッシェルは導いている。

彼らは消えないし、彼らのロックは永遠だと思う。

しかし、彼らは終わる。

燃え上がったバイクが炎上して倒れたことと同じで、彼らもまたもうエンジンをかけて進むことはできないのだ。


現在、チバはROSSOとして(--近々、ライヴCD「ダイヤモンドダストが降った夜」が発売される!--)として活躍しているし、チバ、ウエノ、クハラもそれぞれソロとしてあらゆる活動をしている。

彼らは確かに終わりを迎え、そして始まりも迎えたのだ。

それでも、ミッシェルというバンドが起こした奇跡は、永遠だ。

これを書いている今だって、わたしは彼らの解散への涙がとまらない。

永遠となったロックバンドは、いつまでもいつまでも偉大だ。

彼らのバイクの炎は、いま、彼らを愛したファンのこころに場所を移しただけのかもしれない。


イエローモンキーのロックシーンにおいての艶やかな活躍は、云うまでもないことだ。

しかし、その活躍に伴って、メンバーたちには大きな闇が襲ってきたのだと思う。

吉井和哉も例外なくそうで、そのことは彼のソロデビューシングルである、この「TALI」でも窺える。


ギターの音から始まって、一瞬にしてメロディアスな世界観が待ち構えている。

「DON'T CRY FOREVER I NEED YOUR LIFE」と、高らかに唄う声は、イエローモンキーの時と変わらない。

強いて云えば、イエモンのときより、より艶やかさが増したかな、と思った。

しかし、その唄声はたしかに変わらないのに、大きく何かが違っていたのである。


ロックバンド、イエローモンキーのヴォーカルの吉井和哉は、まるで余裕綽々の艶やかさで、常にリスナーを魅せてきた。

しかし、この曲にそんな余裕は一切ない。

いいようのない悲しみが脳をかけめぐり、空虚さとメロウさが不思議と両立されている。

そしてそれは、くるおしいように美しいロックになっているのである。


「あの海に行こうね 山にも登ろうね

映画も見ようね

育子 BABY I LOVE」


永遠の愛を誓うように、永遠に離れぬように、海にも山にも映画にも行く約束をしている。

こえらきれずもれた言葉は「育子 BABY I LOVE」

わたしがこの歌詞と、それを唄う吉井和哉から感じたことは、途方も無い孤独感である。

拭えない孤独感を拭おうと拭おうと、愛を語る様に、果てしない孤独がある。

それは愛想笑いのような虚しさと、それに縋るしかないような苦しさが潜まれている。


くるしい、と思ったその瞬間に、サビで吉井和哉はこんな風に唄う。


「人間ってむなしいもんさ 信じてるのは君だけだ」


もはや依存的な愛である。 人間ってむなしい、と気付いているのに“君”だけには信頼を寄せている。

それは、一見うつくしいかもしれない。実際に、うつくしいケースもあるのだろう。

しかし、この曲における「信じてるのは君だけだ」に関しては、それはもうどうしようもない孤独からの逃亡のような信頼なのである。

迷子のように逃げた果てにあったのが“君”かのような、一種死の寸前における愛のような、虚無感しかない。

最後には、ドレスを探したり、「結婚しようよ」とまで云ってしまっているが、そこにあるものも虚無感である。

わたしは実際に、育子という女性が吉井和哉の人生に存在したのか、そしてその愛が虚無であったかどうかなど知らぬ。

しかし、この曲におけるこの言葉たちには、隠し切れない虚無感が存在しているとしか思えないのだ。


吉井和哉は、どうしようもない虚無感をぬぐえ去れずにいたのだろう。

もうマジックの起きぬ愛すべき自分のバンドへの、果ての無い愛と果ての無い虚無感。

それを超えることは、自らを超えることでしかない。

そのことに気付いているからこそ、既に訪れている痛みと苦しみに、吉井和哉は溺れていたのだろう。


くるしくて仕方の無い虚無感がここにあり、メロウで空虚な痛みがここにある。

苦しさの中で吉井和哉が綴ったこの唄は、どうしようもないほどロックだ。


最新アルバム「derasine」の二曲目である「その未来」

以前、このブログでもderasine1曲目「13/0.9」のことを取り上げたが、13/0.9はまさしくロックだ。

そして、「13/0.9」で昂り、燃えた彼らの血液がそのまま流れるようにこの「その未来」にやってくる感覚が非常に心地よい。

イントロなしで大声で唄われる「たった今その声が聴こえたような気がしただけ」という言葉の、いいようもない怒りと、逃れられぬ悲壮が、わたしにとって身に覚えがありすぎた。


この「その未来」では、どうしようもないような現実の絶望的な痛みへの怒りにも似た感情と、それをも超えようとするグレイプバインの、ある種暴力的なほどの強い意志がある。


「忘れられない想いがこの胸に刻まれていくだけ

たった一分一秒が それだけが真実だっただけ」


「だって正しいと思えた事など 一度だってないだけ

だって誰もが言うみたいな言葉に乗り切れないだけ」


この唄の主人公は、こんな風に全てに絶望と怒りと焦燥を抱いている。

すべてに「だけ」という言葉がつく、そんな最早絶望的な心情。

そこには、「忘れられない想い」が胸に刻まれたとしても、何も出来ないということや、一分一秒を“真実”だと決め付けられてしまった一瞬が、たしかにこの主人公を圧倒的に裏切り続けた結果だ。

だからこそ、彼は正しいと思えた事が一度だってない。


なんでだ?どうしてだ?

フラストレーションは確かに怒りへ昇華する。

グレイプバインは、それを唄声とサウンドに籠めて、まるで「キレる」ように唄ったのだ。


グレイプバインは怒りをぶつけまくって、叫びまくって、そしてそれでもこんな風にも叫ぶ。


「その過去も未来もそのまま そう

見ろ」


完敗である。


どうしようもないフラストレーション、現状への怒り、絶望的な境地の日々、希望が色褪せていく。

それでも、彼は彼が抱いた怒りや悲壮と同じくらい、大きな熱情と感情で、そのすべてを包容しようとする。

受け止めて、認めようとするのだ。

どうしようもない強さがここにある。

現実なんて本当は「クソ重たい」もので、痛くって上手くいかなくって、「正しいと思えた」事なんてゼロだ。

それでも、そんなクソ重たいものを彼は其の眼で捉えようとしている。


わたしは、やっぱり彼に負けてしまっている。


果ての無い強さがここにある。

そこには、現実を笑顔で受け止められるような大きな心やゆとりなんかない、ギリギリに生きている奴のギリギリなエネルギーの真髄があるのだ。

JOY



ポップス界の女王、とでも呼びたくなるようなYUKI。

彼女の名曲のひとつに、この「JOY」がある。


この曲は、蔦谷好位置のポップス性が顕著に出た曲だと思う。最早ポップス中のポップスとでも云いたい。

しかし、無論そのポップ性も素晴らしいのだが、さらに注目すべきは歌詞である。


「しゃくしゃく余裕で暮らしたい 約束だって守りたい

誰かを愛すことなんて 本当はとても簡単だ」

あっさりとYUKIはこう唄うが、この歌詞の思いといったら!

ほんとうは、誰だって「余裕で暮らしたい」し、「約束だって守りたい」!

愛することの難しさ、それだって感じているけれど、YUKIは「簡単だ」と云えてしまうのだ。

ひねくれた気持ちや、生きていく上でどこかで身につけてしまう、素直さを邪魔するものが一切ないのだと思う。

みんな、ほんとうはYUKIのように云いたい。

余裕で暮らしたい、守りたい、愛したい…。

そんな風にあっさり唄うYUKIに、わたしたちはえもいわれぬ幸福を感じるのだ。

蔦谷氏とのポップス性とのコンビーネーションも相俟って、まさしく幸せの結晶のような存在になっている。


そして、さらに続くこの唄で、YUKIは今度はこんな風に唄う。


「いつまでたってもわかんない 約束だって破りたい

誰かを愛すことなんて 時々とても困難だ」


「死ぬまでドキドキしたいわ

死ぬまでワクワクしたいわ」


ああ!と思った。

最早YUKIは、幸福を一身にして唄っている。

ほんとうはみんなが思っていたこと。ほんとうはみんなが願っていること。

YUKIは、一秒だって躊躇わずに唄う。

彼女にとっての“真実”をあるがままで唄う。

そんなシンプルな姿は、途方もなく、うつくしくて幸福だ。


UAは、彼女の声ひとつで、彼女の世界を創ってしまうひとだと思う。

それは一瞬で、国や世界をも超えた“UA”の空間に、リスナーはとけこんでいく。

UAの声にはそういう力がある。


そんなUAが、初めて作曲をも手がけたのがこの「閃光」である。

この曲をはじめて聴いたとき、彼女の世界に自分がトリップしていることを激しく感じた。

わたしのこころは、彼女の世界にいま、どっぷりと浸かっているのだと。


「こんなにも優しい場所を知っていた」と始まるこの唄の歌詞を読んだときの衝撃は忘れられない。

UAの作詞の才能は云わずとしれたことだが、この「閃光」の詞の、くるおしいような愛情と、あふれんばかりの悲しさは何なのだろう、と思った。

希望と絶望がひとつになっている、とわたしは思った。

すべての、対極の感情が融合されている。

そしてUAは、それをも受け止めている。

「何度も塵になった世界はまた

美しく照らされて 陰をも産んで」

それは、もはや隠す事の出来ない、明確な事実である。

塵になってしまう世界。それを射す光。 そして、光が眩ければ眩いほど、明確に産まれる陰 ―――

UAは、そのことを痛いほど知っているのだと思う。

だからこそ、こんなにもいとおしさと悲しさを声に滲ませているのだと思う。


「優しい人達が 殺されているよ

もうあと一滴で世界は溢れそうだね」

そんな、あまりに悲しい、くるしい出来事をも、UAはおそらく、たしかにその眼で見てきたのだと思う。

しかし、UAは、あと一滴で溢れそうな世界にだって、彼女が見てきた様々な痛みと悲しみと同じくらい、果てのない愛やいとおしさを唄っている。

絶望を隠しきれない世界で、希望をたしかに見てきたUA。

そこにあるのは、抑えきれぬ光と、隠し切れぬ陰だ。

UAは、たしかにその光と陰を一身に感じている。そして、彼女は唄っているのだと思う。


彼女のあふれんばかりのいとおしさと悲しみは、彼女の声によって、空気に漂う。

まるで重力を無視するかのようにだ。

彼女の声や、彼女の言葉は、重力によって縛れる類にものではない。

彼女の声や言葉は、まるで動きたいところに動く。そして漂っている。



あまりにもいとおしい名盤。

重力をも無視して、わたしはUAの世界で漂っていたい。