わたしは、スピッツトリビュートアルバム「一期一会」が非常に好きで、よく聴くのだが(--トリビュート作品としては異例なまでの高質さがこのアルバムにはあると思う。わたしのなかで、トリビュートでここまでやれるのは、ちょっとすごいと思う。はっきり云うと、普通のトリビュートはつまらないので、余計に。--)、中でも特に、奥田民生氏の唄う「うめぼし」が好きだ。
わたしは原曲の「うめぼし」も聴いたことがあるのだが(--民生氏の「うめぼし」を聴いたあとにだが--)、原曲はスピッツのかろやかなポップスになっている。
スピッツが唄う「うめぼし」は、「うめぼしたべたい」という感情の、ある意味での軽さ(--うめぼしたべたい、である。それは肉や野菜を求めるような、生に直結したある種の獰猛さがゼロに近い欲求だと思う。ちょっとうめぼしがほしくなる、でもないと死ぬわけじゃない。それくらいの“軽さ”がこのフレーズにはこめられているんじゃないかと思う--)と、「いますぐきみにあいたい」という感情が、スピッツバージョンでは同等に扱われているのである。
これは、うめぼしたべたい、と思う率直さで「きみにあいたい」と思っているのだとわたしは考えている。
しかし、民生が唄う「うめぼし」はそれと逆である。
「いますぐきみにあいたい」という感情が極めてヘヴィで、それに対して「うめぼしたべたい」という感情をもヘヴィになっている。
スピッツがポップスにしあげたものを、民生氏は俄然ロックにしている。
イントロ、無音の状態からいきなり「うめぼしたべたい」と民生氏が唄う。この衝撃は何事かと思った。
くるしい、とおもった。
こころの奥を、ギュッとつかまれるような痛さと甘美さ。
民生氏は声で、ギターで、スピッツが施したポップス性に隠されていた、生々しい感情の痛みの世界にわたしを追いやったのである。
そこにあるのは、悲痛な声で、かなしさである。
痛くて狂おしくて、だけども、胸の奥でギリギリと云うかのような、傷跡から広がる甘美さ。
ロックにおいて、わたしは圧倒的にマゾヒストになる。
ロックが与える痛みは、それをも超えてある種の快楽になる。 そして、快楽に変化させるものがロックなのだとわたしは思っている。
民生氏は、堂々とそれをやってのけている。
しかも、他人の曲でだ。
すごい、としかわたしは云えない。
日本のロックシーンにおいて、こんなひとが存在していることは、本当に素晴らしいことだと思う。
ギターから声から世界から、すべてが、民生ロックに変換されている。
正直な話、原曲を超えちゃっている。(--スピッツへの揶揄、ではない!--)
聴くたびに、涙と痛みと甘美さを拭いきれない名作だ。






