サザンオールスターズ、というバンドは実に爆弾バンドであり、泣かせバンドでもある。

個人的には、怪物バンド。が一番彼らに合う言葉なのではないかと思っている。


彼らの一番恐るべき部分は、年代を問わない部分である。

彼らは、 「勝手にシンドバッド」からのファンも、相も変わらず魅了するが、サザンの誕生した瞬間をも見ていないような世代(--わたしは、恐らくこの世代である--)にも、「サザンの新曲がいいね」と云わせるような力を持っているのである。

これは、容易なことではない。最早デビューしてから十年以上のバンドが、常にニューカラーで魅せ続けることは、恐ろしく難しい。長年のファンが購入することはあっても、全く新しい層からの購入、ということは極端に難しいからだ。

しかし、サザンはそれをやってのけてしまう。


溢れんばかりのキャッチーさでポップスっぷりを披露したかと思えば、最早唸るしかない、と思わせるほどロックファンを官能の渦に巻き込んだりもするのである。

もう泣くしかない、と思うような名曲を作ったと思えば、音楽シーン驚愕のエロい歌詞をも羅列したりするのである。(--“マンピーのG★SPOT”ほど、極端にエロを打ち出しているタイトルを私は知らない--)

サザンという存在は、その柔軟性にあるのではないかと思う。

エロさを打ち出したり、愛を唄ったり、孤独を思ったり、祈りを昇華させたりするのである。

ひとつに捉われることがないのだ。

そのバランスは恐ろしくとれており、どのカテゴリーの中でも、きちんと成立するものなのである。


CDランキング、と云われるもので、なんとなく「サザンオールスターズ」の名を見るが、これは実に驚異的なことなのである。

しかし、彼らはそれを感じさせぬかのように、ポップさを見せ付けてきたり、エロを軽やかに唄うのである。


昨日、そんな彼らの七年ぶりのアルバム「キラーストリート」が発売された。

脅威の30曲入りである。

シングル曲だけでも充分に人を魅せることのできる彼らが、何故30曲も作り出したのか。そして、何故それを打ち出したのか。

わたしは推測することはできるが、やはり「答えは風の中」なのかもしれない。



日本音楽史に残るであろう怪物バンドのこれからが気になる。

わたしは、彼らの愛に、孤独に、祈りに、エロに溺れたいのだ。

GRAPEVINEほど剛速球なボールを投げかけるバンドは、居そうでなかなか居ないと思う。

しかし、彼らが特異な部分は、直球に見せかけた変化球を常に投げてくるところだ。

そして、その変化を抜きにした部分で、感覚のみでひとを揺さぶるエネルギーを持っている。

全く不思議なバンドである。


そんな彼らのシングルのうちのひとつ、 「BREAKTHROUGH」なのだが、全くこんなにも真白な気持ちになれる熱いナンバーは、実に久し振りだ、と思った。

孤独や焦燥や絶望や憎しみや怒りを知りながら、それを乗り越える熱い気持ちが溢れんばかりに詰め込まれているのだ。


歌詞が、「はだかのオレはたかがこんなもんだって 誰にも言えやしねえな」と始まるところから、既にわたしは、この曲の熱さをたしかに感じるのである。

少年期の葛藤が、一瞬にして全てひとつになってしまっているのだ。

それはマジックのようでもあり、この言葉の切なさと痛みが、生々しく開かれていく。

しかし、ヴォーカルの田中氏は、もはや揺ぎ無いとも云える明確さで、彼自身の声でこの歌詞に強さを吹き込んでいるのだ。

それは、もう彼が「はだかのオレがたかがこんなもんだって」と云える強さをたしかに身につけている証拠なのではないかと思う。


サビで「この痛みはキリがないんだ」「この痛みは計り知れねえんだ」と云えるその思いには、まさしく胸が熱くなる。

それは、キリの無い痛みの存在を知っているからこそであり、また、その痛みに対して叶わぬ希望を微塵も乗せぬ確かな強さなのだ。

“現実”こそが常に闘う対象であり、希望は常に“現実”ではないことを、こんなにも激しく伝えられるのだ。


最後に、「ただの理想で越えていけ」と、たしかな強さを持ち、軽やかに唄うグレイプバインが辿った道のりを思うと、このタイトルはやはり、希望と現実の重なるものなのだろう。

まだ、越えられぬ者の希望と、もはや越えた者の現実。

希望を現実に変える力を、たしかに見せられた気がする。



UAという言葉には、「花」という意味もあれば、「殺す」という意味もある。と聴いたことがある。

もはや天性の唄姫、UAには、そういった美しさと危険さが潜まれている。

彼女の存在はきわめて神々しく、日常やそういったものを弾圧させるかのように、ひとりの歌手として、この音楽シーンにおいては存在しているように思う。

彼女は唄で魅せる人間である。


そんなUAの、とんでもなく儚く危険な名曲が、この「温度」である。

聴くだけで苦しくなるかのような痛みと、それでも何度も聴きたいと思わせてしまう美しさが、まるで刃のように聴く者の心を抉るように刺し、尚且つその衝撃を、虚構にも似た甘美さに変換してしまうのである。

まさしく、驚異的なまでの力を持つ曲だ。


イントロからして、呼吸をひとつするのにも時間がかかってしまうかのように、重い空気を放つピアノが響いている。

くるしい、と単純に思わせてしまう。

苦しさは痛みであり、喜びである。 焦燥と困惑と期待が混ざり合い、聴く瞬間にリスナーは、「温度」という世界に巻き込まれるのだ。


そしてそんな空気の中、その空気とひとつに、寧ろ、はじめからその空気の中に存在していたかのように、UAの声が響くのである。

「だけど ひざをかかえたまま つながれるまで」と。

それだけで、もう呼吸もできないくらいに苦しい。胸が、はっきりと抉られるのである。

泣くこともできずに、喉が潰れそうになるほど、息ができなくなる。

UAの声には、そういう力がある。他に何も寄せ付けない力。 彼女は、“呼吸”という無意識的に行われる人間のサイクルすら、その声で弾圧してしまうのである。


そして続いていく曲には、もうとめどもなく溢れそうな孤独感、悲壮感が、リスナーを包むかのように広がってゆく。

もう、逃れられぬほどの大きさで、その感覚はリスナーにしみこんでゆく。

この曲が持つ孤独感も悲壮感も、リスナーを敵と見做しては居ないのだ。寧ろ、仲間だと思っているかのようにも感じる。

仲間だからこそ馴れ合い、包み、滲み込むのだ。

わたしたちから、孤独も悲壮も、切り離す事はできない。

そのことを、丁寧にも彼らは指し示すのである。くるしいほどに。


しかし、なによりも切ないのは、UAの書く歌詞である。

サビの終わりでみせる、「貴方という名をした永遠にはもう、太刀打ちが出来ない。


孤独を感じるには、対人というものが必要だ。そうでなければ、孤独は決して悲しいものなんかではない

しかし、対人という現象が起きると、“孤独”が発生するのである。ふたり居てもひとり。それが“孤独”である。

その対人の先にあげられている“貴方”が永遠ならば?

それは、孤独という痛みが永遠であることと等しい。

もう、太刀打ちなど出来ないのだ。

UAは、そんな悲しみを、こんなにも苦しく丁寧に、ことばで表してしまうのだ。


しかし、孤独を切り離す事の出来ないこの曲の中で、UAはこう唄う。

「だけど ひざをかかえたまま つながるまで」

孤独であっても、“貴方”とつながることを求め続ける、彼女のこころに、胸は抉られ続け、その傷に流し込まれる、痛みと切なさとくるおしさで、胸が張り裂けそうになってしまう。


苦しき名曲。



レディオヘッドの最新アルバム「Hail To The Thief」を聴いた。

残念ながら収録曲の歌詞を知ることは出来なかったのだが、実力で奥のほうに伝わってくるものがある。

聴いていて感じたことは、どこかしらに死の危険が孕んでいる感覚、がすることである。

聴けば聴くほど、曲たちの世界に、精密な構築ぶりにも関わらず、どこかで今にも崩れそうな不安定さがあるのだ。

それは、死の直前の饗宴のような、拭い去れない虚無感をリスナーに運んでいっていると思う。


そして驚くべきことは、いまにもピストルで撃たれそうな不安に気付きながらも、踊り狂うこと、叫び倒す事をやめらぬ、そんな感覚を、知らぬ間にリスナーにさせているのである。

聴いていくうちに気付く途方もない虚無感と、それでも流れるサウンドの完璧なまでの世界に溺れたいという欲望が混ざり合い、リスナーは、不安と幸福を同時に感じているのだ。


そして、誤解を恐れずに云うが、途中わたしはこんな風に感じたのである。

“もし今死ぬのだとしたら、間違いなくレディオヘッドが犯人だ”と。


それは語りつくされた「ロックに殺される」などという類のものではない。

もはや、たしかな現実性を帯びて、レディオヘッドはわたしに差し迫ってくるのである。

レディオヘッドは、ピストルを突きつけながらもロックを奏でている。

それくらいのレヴェルで、死と直結した感覚にさせるのである。


そんな風に、真空状態にも近くなっている脳に響くレディオヘッドの音は、あまりにも魂を揺らすものだ。

こんなにも、どこか不安定で不安を拭えないサウンド、わたしはほかに知らない。



宇多田ヒカルの「BE MY LAST」を聴いた。


歌詞の最初が、

「母さんどうして

育てたものまで

自分で壊さなきゃならない日がくるの?」

となっている。

一行目の「母さん」から、ひとの心を鷲掴みにしていると思う。

愛しい人でもなければ神様でもない、ましてや自分自身でもなく、自らの母にすべての不思議を尋ねているのだ。

それは苦しいひとつの痛みである。

具体的なひとつの繋がり。 それは、血なのではないだろうか。

もはや、すべてを信用することもなく、彼女は、自らの一番安直な繋がりである、産みの親の「母」にしか、悲しいくらいの質問を投げかけねばならないのである。

もはやそれは、孤高なまでに存在感であり、胸をつかまれるように苦しい。


また、彼女はやはりいい歌詞を書くようになっている、と思う。

日常に潜む痛みと悲しみが、この歌詞の中には確かに息づいている。

それは、生とは切り離せないもので、だからこそ痛い。 胸の中に常に隠れているものなのである。

その痛みと悲しみを、宇多田ヒカルはこんなにまで丁寧に描ける人物なのだ。

彼女は、いま隠されていた彼女自身のポテンシャルを解放していっているのだと思う。

だからこそ、彼女は生に絡みつく痛みを意識して感じているのだろう。そうでなければ、こんな歌詞はかけないはずだ。


「いつか結ばれるより 今夜一時間会いたい」と、しずかに、しかし確かな意志を持って唄える彼女の、胸に潜む痛みは、いつでも、大人になどなれない人間のこころが激しく伝わってくる。

「Be my last...」と唄うその奥にあるものは、自らの無力さを知りながらも、それでも抑えきれない果ての無いしずかな願いの衝動なのだろう。


もはや祈ることしか出来ない彼女は、何よりも生々しく人間であるシンガーである。


矢井田瞳の、最新シングル「マワルソラ」

驚くべき名曲である。


矢井田瞳ほど、真摯さをここまで形に表現できるシンガーは珍しいと思う。

彼女は、アコースティックギター一本でもその真摯さで、熱い一曲にしあげることのできる、たしかな実力の持ち主なのである。

そんな彼女の熱い意志。世界への希望が、この曲には溢れている。

何度「思い描いた世界はこんなもんじゃない」と思っても、彼女はちゃんと「ちらばる片切符を手にとれば そこからは 振り返らない」といえるのである。


彼女は強い。 それは、自らの弱さを知っているから強いのである。

彼女は自らを弱い、と知っている。でもだからこそ彼女は強さを抱いている。

そんなたしかな強さが、この曲の中で大きく息づいていることを感じる。

「憎しみにはキスを 守るためには攻めて」という名文をさらりと唄いのけてしまう彼女の存在感は、彼女自身から滾るパワーの強さ故だろう。


もはや揺ぎ無い力をおしみもなく表現していく矢井田瞳。

堂々とポップスを奏で、精一杯力をあらわしていく彼女の魂は、実に熱い。

生きる希望と絶望を知る彼女が描くこの世界は、いつも溢れんばかりの光と、くるおしいほどの世界への希望にあふれた、名曲だ。

歓びの種



以前、「注目」というカテゴリーで、興味を示した、YUKIのNEWシングル「歓びの種」

漸く聴くことが出来ました。


PVで印象的に存在した夕焼けのように、うつくしくて切なくて、力強い唄だと感じた。

生きていく上での計り知れない悲しみを知りながらも、それでも生きていく、と唄うその強さ。

うつくしい、ということはある意味で強さがあることである。

そのことを、軽やかにも実直に伝えてくれるエネルギーを感じた。


「陽だまりのにおい 雨上がりの空

与えられたのなら 受けとめよう」

「しかられてみよう 愛されてみよう

心の底から 信じてみよう」


そんな風に唄えることの強さ。悲しさをも包み込んでしまう、そのしなやかな強さ。

強さとは、何かを越えなければ生まれるものではないと思う。

YUKIというひとりの人間は、これほどまでにしなやかに強い。

そのことは、あらゆるひとに希望を与える。彼女自身が、夕焼けのようだ。


わたしが、何よりも感銘を受けたのは、 「見逃してしまう 歓びの種を」という歌詞である。

この一文で、すべてが物語られているような気がする。

わたしたちが見逃してしまっているのは、そういう、幸せの元の部分である。

「見逃してしまう」ということばのせつなさは、もはや痛いくらいに胸に差し迫ってくる。

しかし、彼女は、その続きに、なんともいえないほど温かな言葉を投げかけてくる。

その一文は、すべてのニヒリズムも、耐え難い悲しみも、続く痛みも、感じてきた絶望も、すべてを包んでしまう。

YUKIという人間の強さを、なによりも暖かく感じる、最高の一文である。


YUKIは、まるで母のような優しさで、こう唄う。彼女から溢れるエネルギーを、こんなにもくるおしく温かな一文に添えて。


「暖かい大地で 育てましょう」


宇多田ヒカル、としてではなく、あくまで「Utada」と表記を変えて発売したこのアルバム「EXODUS」

おそばせながら、漸く聴くことが出来たので、感想を書いていきます。


一曲目「OPENING」から、異様な空間に巻き込まれる。

聴いている場所を一気に蹴散らして、アメリカなんだか宇宙なんだか識別不能の世界に、彼女は一気にしてリスナーを引き込んでいく。

そして、こうしてある種の識別不能の世界に巻き込まれることは、リスナーにとって、快感のひとつでもあるのである。


2曲目の「DEVIL INSIDE」なんかは特に異様だ。この曲は、ゲームをして興奮するような感覚を与える。

現実ではない、生ではない、機械的であるが、しかし興奮する類のもの。生きている感情はそこにはないくせに、自分自身が生きている感情を芽生えさせる不思議な感覚になる。

その流れをあくまで引き継ぎながらも、三曲目「EXODUS ’04」に流れ着く。

この曲はまさしく恐ろしい中毒性のあるもので、彼女の持つ特有の、昂揚するポップスの特性が、一見ないように思われるのが(--はじめて聴いたとき、彼女にしてはなんてキャッチーじゃないんだろう、と思った--)、もう一度聴きたくなるのである。


CM曲にも抜擢された「EASY BREEZY」は文句なしのポップスである。識別不能の世界に巻き込まれているリスナーに対して、「この世界にはこういうものもあります」とでもいうかのように安心させるポップスである。この曲は、彼女の天性とも思えるポップスセンスが、ライトな感覚で光っている。


このままの調子でいくのか、と思ったところで、驚くべき爆弾がしかけれていた。

それが、10曲目の「KREMLIN DUSK」である。


それまでの曲の世界は、あくまで、識別不能であり、宇宙的なものであった。

わたしは2曲目の「DEVIL INSIDE」で、ゲームをしているときの興奮感に似ている、といったが、その興奮間は、この「EXODUS」という作品にも常に流れているものだと感じている。あの曲は、あくまでもその感覚を顕著に出しているだけのことである。


その現実感のない興奮感を、一挙にして弾圧するかのように、この「KREMLIN DUSK」は存在している。

この曲には、恐ろしいほど現実感のある感情があり、極めてエモーショナルなのである。

叫ぶしか方法がないように、唄うしか表現がないように、感情が爆発している。

それは極めてうつくしく、鳥肌ものである。

いつだってライトで大人びている“宇多田ヒカル”が、はじめて、これほどまでに爆発している。それは、「宇多田ヒカル」という活動でもみられなかったほどだ。

恐ろしい。彼女は、宇宙空間で、ブチ切れている。しかも、それを極めてうつくしくメロディアスに仕上げているのである。

一体どこまで、自らの才能を打ち付ければ気が済むんだ、と思ったほどだ。

まさしく彼女は天才である。恐ろしい。



全体を通して感じたことは、恐ろしく「中毒性」があるアルバムである、ということである。

識別不能なこの世界は、おそろしい麻薬のひとつでもあるということだ。

Utadaという人物は、おそろしい。また、彼女のおそろしさをひとつ知ってしまった、と思わせるアルバムである。

サイレン (CCCD)



ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「サイレン」というシングルは1曲目と2曲目が同一タイトルで、一曲目と二曲目は、歌詞とアレンジが変わっている。

一曲目は、男性的な視点。二曲目は、女性的な視点、となっている。

しかし、驚くべきことは、二曲両方の根底に流れる、胸をかきむしるような切なさが持つ痛みである。


たとえば一曲目のサイレン(以下、表記の都合上、サイレン1と表現させて頂く)では、 「冷めやらぬ白い衝動痛いよ」とむき出しに自らの感情をぶつけて(--その「痛いよ」という云い方は、まるで子供のように率直な申し方だと思う--)、そして「開いてよ」と懇願とも希望ともとれる思いを漏らしている。

それは、とてつもなく苦しい、長い夜の存在のようだ。

切ない、なんて甘美な言葉はとっくに流れ落ち、胸に焦燥だけが残る時間。

その痛みは、まさしく、せつなくて痛い(--「切ない」という言葉と、実際の「せつなさ」の違いは恐ろしく大きい--)。


しかし、そんな男性的視点から捉えられた「君」は、堂々と「私なんかいらないよ きっと」と唄うのである。

それは、“可哀想な自分”に恍惚とし、思っても居ない自己否定によりロマンシズムを求めたことばなんかではないとわたしは思う。

もはや、彼女には、そういう「事実」しかないのである。

「事実」より、「そう感じたこと」のほうが、本人にとっては「事実」である。

どんなに、事実が違おうがどうであろうが、彼女自身が「私なんかいらないよ」と思ってしまえば、彼女の中でそれは、否応無しに事実なのである。

それを変えることは、彼女以外には出来ない。なぜなら、彼女が創りあげた「事実」なのだから。


そして彼女は最後に「生まれてしまったその理由をわからないまま私は終わる」と云う。

わたしは、痛みしか感じない。

サイレン1で感じた「せつなさ」と、カテゴライズは違うはずなのに、どちらも同じように、「焦燥の痛み」で、容赦なくわたしを襲うのである。

サイレン1も、サイレン2も、どちらも、記憶にあるたしかな痛みだ。


記憶をこじ開けるような荒業と、エモーショナルの中に叙情性が光る。

なんという曲なんだろう。

最早くるおしい全ての焦燥と痛みをも抱えるかのように、ASIAN KUG-FU GENERATIONによって造られたサイレンは、きょうも光っている。



SINGER SONGERの記念すべき1stアルバム「ばらいろポップ」の二曲目が、この「ロマンチックモード」である。

1stシングル発売以前、SINGER SONGERの公式の活動決定の報告ともなった、SINGER SONGERの初ライヴでも演奏されたこの曲は、心地よいほどのポップスを鳴らしている。


はじまりかたの、どきりとする緊張感(--あの「キューーン」というギター音は、遊び心に溢れている--)から、それらすべてを一気に覆すくらいの、各パート一斉の入り。

おだやかで、やさしくて、あたたかい。

そんな言葉が浮かぶようなメロディ。


そしてこっこは、愉しそうに「愛せる力 愛しすぎる性」とも唄ったりする。

ソロ時代で、くるおしいほどに、愛を唄ってきたこっこ。

そして彼女が楽曲として出してきた曲は、激情的なまでの絶望と憎しみと、海のように広がる悲しみが隠せないものだった。

彼女はどんなに愛しても愛しても、どこかで、いうならば「この世の無常」を感じてきていた。

それでも「あなた」は自分を裏切ったり、愛を返せなかったり、捨てたり、それなのに愛したり。

そんな無常感。

だからこそ、絶望や悲しみが隠せなかった。


しかし、こっこは、そんな悲しみを、さらりと脱ぎ捨てた。

最早彼女は、全身全霊で愛をおもっている。

そんな彼女の、熱い熱いおもいが、この「ロマンチックモード」にはこめられているのだと思う。

深い絶望も広がる悲しみの海も、すべてを包容するかのように、 「あ、青い空」とうつくしき情景を思い浮かべ、「駆け登るように」、愛をおしみなく、シャワーのようにあふれさせるSINGER SONGER。


もう、これ以上ないと思えるほど、愛としあわせに満ちた曲だ。