アルバム「カサノバ・スネイク」のラストを飾るのが、この「ドロップ」という曲だ。

胸が張り裂けそうなほど痛い。

それくらい、痛切なまでに苦しい、生々しい痛みがある曲だとわたしは思う。


アベのギターからして、どこかくるしい。

メロディアスなナンバーでありながらも、最早、救いようのない苦しさが伝わってくる。

チバの、いまにも張り裂けそうな叫び声が、耳の中でこだまするのだ。


いまさら、チバの歌詞の才能だとか、ミッシェルというバンドの、ありえないほどプレイ面での秀逸さを、語る気はない。


しかし、 「なめつくした ドロップの気持ち」と、唄ってしまえる彼ら。

もはや、どうしようもないではないか。

それはもう、理屈や時空や環境や性別を越えて、ひとのこころを鷲掴みにし、ねじきれそうな痛みを、体感させようとしているとしか思えないくらいなのだ。

そして、それをミッシェルというバンドは出来てしまうのだ。


とめることのできない無常感と、それでも、それから眼を逸らすことなく、激しく叫ぶミッシェル。

ドロップを、なめつくしたり、逆に、ドロップとしてなめつくされたりする、人間という生き物すべてを、ロックンロールで包容するかのようだ。

狂おしいほどの無常感をも突き抜けて、痛みを絶叫にかえて、かなしみをメロディーにこめて、怒りと絶望をマイナーコードにこめて。


もう、理屈もなにもかも要らない。

この「ドロップ」は名曲なのだ。それだけだ。



椎名林檎の1stアルバム「無罪モラトリアム」の3曲目が、この「丸の内サディスティック」

ここまで、心地よくポップスであるこの曲は、ファンの人気も高い。

最早、問答無用、不屈のポップスなのだ。


この曲は、純粋にポップスという成分のみで構成されていると思う。

ポップスであることの定義は、人それぞれであると思うが、なにより、この曲は聴いていて気持ちがいい。

そして唄うとさらに楽しい。


一見意味不明にも捉えられそうな歌詞(--実際、“意味不明”なのかもしれないが、そんなことすら気にさせないパワーがこの曲にはある--)も、それを口にだすことによって、たまらない心地よさがある。


ライヴVer.は、観客との一体感が愉しいし、ライヴのためのアレンジは、中毒すらおこしそうになるほど、愉しくて、聴くだけで昂揚する。


ポップスの王道を駆け巡るようなメロディセンスに加えて、 「そしたらベンジー あたしをグレッヂで殴って」という過激な(--と捉えられるかもしれない--)フレーズたちがいい。


もう、不動のポップチェーン。

東京事変の新メンバーが決定しました。

vox.椎名林檎

keys.伊澤一葉

gutar.浮雲

bass.亀田誠治

drums.刃田綴色



新生事変の誕生に期待です。「修羅場」は、「大奥」の主題歌にもなるそう。



しかしなみだがとまらないのはなぜなのだろう。



The End Of Shite


YUKI、渾身のデビューシングル「the end of shite」

JAMという巨大な存在から、彼女はどんな「彼女」を見せるのか。

そんな人々の思いを、YUKIは飄々と、ニヤリと笑うかのように、期待以上のことをしでかしてくれた。


イントロから驚愕したひとも多いのではないかと思う。

「I'm here for」と唄う彼女の声は、たまらなくセクシーな低音を響かせている。

JAMでの彼女は、日頃からのキュートなヴォイスを活かして唄っていたのだから。

「YUKIがこんな声を?」そんな風に思ったひとも多いだろう。わたしも、そう思った。

それに、歌詞も、 「あたしの奥のほうまでずっと 好きにしていいの」と唄っている。

作詞はYUKIが担当している訳ではないが、とにかく、「JAM」時代のYUKIは決して唄わなかったものだと思う。


JAMというバンドは、誤解を恐れずに云うならば、TAKUYAと恩田氏のプロジェクトなのだと思う。

「JUDY」というポジティヴな「少女」と、「MARY」というネガティヴな少女。

それらを、YUKIという存在の身体に通して、パンクポップスとして(--JAMはパンクポップスだと思う--)表現することが、ある意味でJAMだったのだと思う。

つまり、いってしまえば、YUKIはいつでも「JUDY」と「MARY」の唄を唄ってきたのである。

JUDYもMARYも、常に「少女」であり、汚れを知らぬ無垢な存在であるものだと思う。

しかし、実際の人間はどうか?

“汚れ”の定義はいま此処では置いておくが、いつまでも少女でいることは無理であり、無垢な存在で居続けることはゼロに近いほど難しい。

しかし、それが人間なのである。


YUKIは、「YUKI」のスタートとして、JUDYからもMARYからも解放された、ただひとりの「YUKI」というひとりの女性の生を唄っているのだ。

だからこそ、JAMでは見ることのなかった、うつくしく艶かしい声で彼女は唄ったのだと思う。

JAMのYUKIではない、ただのYUKI。

それは、少女でもないただのおんななのだ。


少女をみつめるかのように見ていたかつてのすべてに対して、まるで笑うかのようにYUKIは唄う。

彼女はやっぱり、驚異的なシンガーだろう。



Air/Cook/Sky


矢井田瞳の4thアルバム「Air/Cook/Sky」は、彼女の、現在進行形の心の内が、不思議な高揚感とうつくしさ、そしてシンプルながらも存在感のある彼女の音楽性で表現されたアルバムだと思うが、このアルバムの中でも、一際うつくしい曲がある。

それが、この「チェイン」だ。


ピアノから始まるイントロに続いて、彼女は英語でこう唄う。

「you, i don't know how to express whenever say'i love you'」

(あなたに愛してるって伝えたい時はいっつも どう表していいかわからないわ)」

わたしは、このフレーズだけで、胸に差し迫る何かを感じる。

彼女は叫んでいるわけでもない、ただ唄っている。

それでも、彼女の強い意志が、胸に激しく打ち鳴らされるのだ。

彼女は、愛を思っている。考えている。

そのことが、言葉という概念を飛び越えて私に伝えられる。

音楽というひとつのアートだからこそ、できることだと思う。


イントロだけで胸が苦しくなるほど、彼女の意志を感じても、尚も彼女は激しくメッセージを届けてくる。

彼女は、 「空を見上げて見えるものが 悲しみのブルーだとしても」未来への可能性と、過去のいとおしい日々を思って、と唄う。

彼女は、傷ついてもそうやって生きてきたのだと思う。

未来への可能性、なんて、日頃の生活では、「そんなものあるの?」と尋ねたくもなる。

だが、矢井田瞳というシンガーに云われると、それは、ひとつの事実として存在するように思える。

彼女の言葉には、彼女の過去が、溢れるほど詰め込まれていて、それはもう、彼女の人生そのもののように思える。

だからこそ、伝わるのだ。

彼女が捨てなかった未来への可能性を、彼女は、わたしにも与えてくれようとしている気がする。

そのことに気付いた瞬間、彼女の意志とわたしの思いはひとつになる。音楽ととけあうのだ。


彼女は最後に、懸命に、すべてを振り切るかのように、また、すべてを与えるかのように、

「愛して愛して泣いて泣いて生きて生きて

優しく重ねるように繋げた今日だから

もう絡まっても上手に笑える

抱いて抱いて叫んで叫んで生きて生きて」

と唄う。

もはやそれは、小賢しい何かを振り捨てた、懸命な、命がけのメッセージのような気がする。

空白を与えずに「愛して」「泣いて」「生きて」と彼女は唄う。

もう、胸がくるしい。

彼女が唄う”生”は、なぜこんなにもうつくしいのだろう。

そのことは、わたしの生にもたしかに響いてくるのだ。


彼女が投げかけてくるメッセージは、とてつもなく高潔で、そしてうつくしい。

名曲だと思う。

とにかく、聴いて感じて欲しい一曲。


TWIN SINGLES 1000のタンバリン/アウトサイダー(紙ジャケット仕様)


「冷えすぎたカナダ・トナカイは インディアンの仲間だったらしい」


そう云ってこの「アウトサイダー」という曲は始まる。

はっきり云うと、何の事を云っているのかさっぱり判らない。“意味不明”だ。

この曲には、チバの叙情性によって描かれた景色しか、最早ない。

だからこそ、チバの叙情性が、シンプルに表現されているのだと思う。

だからこそ、理屈や論理や常識では計ることのできない世界なのだと思う。


では、そんな理屈や常識で計ることの出来ない世界を、どうすれば理解できるのか。

答えは簡単だ。この「アウトサイダー」という曲が生むロックンロールに溺れればいいだけなのだ。

熱いギタープレイに、いわずもがなのクールなベース。

激しすぎるリズム隊にも負けない、チバの声の迫力。

4人それぞれのプレイが、見事に反応しあって「ロック」になっている。

そして、その「ロック」が、「アウトサイダー」の世界を見事に創りあげているのだ。

そんなアウトサイダーの世界に溺れていけば、おのずと、チバの叙情性によって描かれた景色を理解すること(--むしろ、体感すること、と云うほうが適切だと思うが--)が出来るのだと思う。


チバは、この曲の中で、

「この星にメロディーを

あの子にキスを

君にロックン・ロールを

それだけで生きてけんのは ちっとも不思議じゃねぇよ」

と、狂いそうな勢いで、叫び、唄っている。

それは、アウトサイダーの世界に溺れきっている人間にとって、確かな事実なのである。

メロディ・キス・ロック。音楽と愛。

陳腐? それが事実じゃないか。ぐだぐだ云ってんじゃねえ。これが判らない奴は、早くこの“世界”から消えてしまえ。

そんな風に云うかのように、チバは、 「あんたにはきっとなんにも 見えねぇだろうけど」と唄う。

それは、どうしようもなく痛快で、一瞬にして骨抜きになってしまう。

チバはいつだって「格好善い」存在なのだ。


最早、問答無用。男気あふれるロックだ。

これがロックじゃなくてなにがロックだ!とこころの中で叫ぶ自分は、既に「アウトサイダー」の世界の住人になってしまっているのだろう。


at the BLACK HOLE (通常盤)


ブラックホールという名の長い暗闇に身を投じ、自らの存在を模索した、当時のYOSHII LOVINSONの現在進行形にも捉えられる痛みが、ロックンロールに昇華されているのが、この「at the BLACK HOLE」というアルバムだと思う。

このアルバムの中でも一際うつくしさを光らせているのが、この「BLACK COCK'S HORSE」だ。


「君からのメッセージは君に返す」としずかに突き放したあとに、 「死ぬ時は1人だ」といってのけてしまう、たしかな強さとすべてを突き破るような痛み。

サビでの「今 静寂な森の中を走れ BLACK COCK'S HORSE」という言葉は、それらの絶望や対峙から目を背き、喧騒も苦渋も全てから解き放たれた「静寂な森」で走りたい、という、ある種の現実逃避の願望なんじゃないかと思う。

しかし、そんな悲しみの感情ですら、うつくしいメロディに奏でられていて、聴く者は、メロディの甘美さに酔いしれそうになる度に、歌詞の痛み(--自分自身も願う、その思いに--)にハッとさせられ、なんともいえない気持ちになるのである。


そして、この曲の間奏から世界に入るときの、うつくしさと痛みといったら!

それまでのプレイに比べて、エッジを増したギターと、メロディアスな世界に、YOSHII LOVINSONの慟哭とも思えるような叫び声が、しずかに聴こえ出して来る。

その叫びが一瞬、たしかに消えたあと、YOSHII LOVINSONは高々と、こう唄うのだ。

「少女になり少年になり老人になり老婆になる オレの歌はオレの歌君のものじゃないぜ」


ロックンロールだ。それ以外の何者でもない。

若さを手にし、そして老いを手にする。待っているものは、いつでも「死」なのだ。

くるしい。息も出来ないほどくるしい。痛い。胸が痛い。

そして、あまりにも、この曲の世界はうつくしすぎる。

痛みを音楽に昇華させた瞬間、それはまさしくロックンロールだ。

それならば、これがロック以外の何だというのだろうか。



曲が終わる瞬間に、胸がからっぽになるような感覚になるのは、生の虚無を知ってしまったからなのだと思う。

そんな生の虚無を描きながらも、こんなにもメロディアスでうつくしい世界を築き上げるYOSHII LOVINSONの、ロックンローラーとしての、とめることのない才能に、ゾッとするほどだ。

GRAPEVINE、最新アルバムの1曲目を飾るのが、 「13/0.9」だ。


この曲には、自らの肉を切り、血をあふれ出して漸く「生」を確認するかのような、そんな生々しさのある痛みがある。

「この胸に火を点けろ」という歌詞の、ギリギリのラインを保って生きている人間が、「生」を全うするための切迫したまでの熱情(--最早、憤怒と表現してもいい--)が身に痛いほど伝わる。

ここの部分は、最早感情の沸点を越えたものがある気がする。

しかも、この曲の人物は、そのことを知っているのである。

自ら「今 壊れる少し手前の狂炎」だと云ってしまう姿は、自虐的でもある。


この曲は、「生への渇望」だけで終わることがなく、それでも拭い去ることのできない「生への絶望」をも感じている。

生への絶望。

それは、歌詞にもあるように「すぐ灰になるけど」 「また生まれかわるけど」という事実だ。自らの生の終わり(あくまで肉体的な死のこと)は、必ず訪れるのである。

そのことへの絶望は、潜んでいる。

単純に、生を望むだけは出来ない。「でも」という言葉を、わたしたちは浮かべてしまうのだ。


サウンドの面においても、くるおしいほど熱情的で、激しさを増す。

まるで血液の温度が上昇していくかのような、体内から突き上げる悲しみと熱情の感情が、サウンドに充分にあらわれている。

それぞれのプレイは、最早確立されたものなのだと思う。


闇の中で、自らの胸に点けた火。

それは、自らの血のような気がする。

くるおしいほど、生をぶつけられる作品。

いい。



GRAPEVINE 公式HP



歌詞をしりたい方 → うたまっぷ

昨年「ソルファ」でヒットをとばしたASIAN KUNG-FUGENERATION

彼らは、1st「崩壊アンプリファー」後の活動で、自らの才能と実力を、幅広いユーザーに伝える”術”を取得したんじゃないかと思う。(無論、これは彼らの1stの出来が悪かったといいたい訳ではない。)

2nd「ソルファ」は、ロック魂で造られたポップスで、まぎれもなく素晴らしい作品だったと思う。


そんな彼らの、ソルファ以来の楽曲がこの「ブラックアウト」だ。

「NANO-MUGEN COMPILATION」と名付けらたコンピレーションアルバムに、唯一収録されている「ASIAN KUNG-FU GENERATION」としての楽曲である。


イントロのギターからして、喉の裏側が疼く。

それは胸の熱さに変化していき、くるおしい気持ちになる。

かなしいわけでもない、だけれど切ない。

まるで、真赤すぎる夕陽を見たときのような、あの不思議な気持ちになるのである。


そしてサビの「今 灯火が此処で静かに消えるから 君が確かめて」という歌詞。

もう、くるおしい気持ちは全身を駆け巡り、なんともいえない、叫びたいような今すぐなきたいような、そんな気持ちになる。


灯火が静かに消える、ということは、「闇」の訪れなのだとわたしは思う。

自分自身に訪れる闇。それを、「君が確かめて」と云うのだ。

闇、という痛みに近い絶望を思わせるそれを、迎える「自分」を、「確かめて」と云う、そのひたむきさ。

こんなの、切ないに決まっているじゃないか。


アジカンは、いつだって、ひたむきに人と繋がろうとしてきたのだとわたしは思う。

彼らが造る音楽の根底には、いつだって、「僕」がいて「君」がいる。

ときとして、「僕」はとてつもなく不安に打ちひしがれ、自分自身を模索して迷う。疑う。

それでも、「僕」はいつだって「君」に、メッセージを発している。

どんなに、自分自身に迷っても、自分自身を疑っても、アジカンは、「君」という誰か、人と繋がろうとしてきたんだ。


そのことが、あまりにもしっかりと、うつくしく描かれている。

どこにもセンチメンタルさが入る隙間のない完璧な楽曲であるにも関わらず、ひとびとに知らずうちにセンチメンタルを与えてしまう彼らの手腕。

ああ、やっぱり彼らの実力と才能は底知れない。


ポロメリア

激しさはなく、だからこそ、息づいている感情がある。

不安、疑問、恐れ、痛み。

それは、時として、そのひと自身ですら気付くことがなく、こころのなかに蓄積されていくことがある。

それを「鬱憤」だと表現することもできるかもしれない。

しかし、ひとは、そんな“憎悪じみた単純な怒り”など、所持はしていない。

感情はいつだって、あらゆるものに絡まって、複雑なのだから。


そんな、絡まりあいながらも息を潜めている感情を、こころから解放することができる曲が、この「ポロメリア」だと思う。

激しくものではなくて、だけど、こころのなかに確かに存在する、くるしさ。

自らで封じこめてしまったその感情を、この曲はたしかに解き放ってくれる。

そのことに、こんなかなしさを抱いた「わたし」という存在をも肯定してくれているように感じる。

その気持ちは、単純な喜びだけではなく、胸がズキズキするほどに痛い。

かつての痛い、悲しい記憶がフラッシュバックするようで苦しい。

それでも、この曲はそれをも包み込んでしまう。


この曲には、希望と絶望を一気に手にしてしまったときのような、不思議な温度がある。

「愛から覚めるように」という歌詞は、希望だと断定することも、絶望だと決め付けることもできない。

だから、くるしい。だから、いとおしい。



イントロだけで、涙があふれてしまう曲を、わたしはこの「ポロメリア」以外にしらない。

たまらなくすばらしい曲。

最早理屈も何も不要の名曲なのだ。