Here today-gone tomorrow


矢井田瞳の最新アルバム「Here today - gone tomorrow」

ようやく聴くことができました。

どんどんシンプルに、どんどん贅沢な作品を造るようになっている彼女。

まさしく、最高の贅沢を凝縮したようなこのアルバム。

自らを丁寧に解放するように、一曲一曲が、繊細に、大胆に生まれている。

一歩一歩たしかめるような歩みで、確実な「音」が響いている。

それは、一音一音がクリアで、存在をたしかに示しているのだ。

アコースティックギター、アコースティックピアノが美しい。

シンプルで、ソリッドな世界がたしかに築かれている。

ポップスメイカーとして音楽シーンに登場した矢井田瞳は、デビューシングル「B'coz I Love you」という楽曲がまさしく象徴的で、エモーショナルに生きている女の子の感情を、天性のポップセンスで鮮やかにシーンに提供していたシンガーであった。

しかし、彼女はめぐるましく成長し(--元々、作曲をはじめたのが19歳で、デビューが23歳のときなので、シンガーとして、作曲家としても成長する“見込み”が充分にあったのだ--)、ただの「エモーショナル」な部分以外の部分も、しっかりと描くほどの実力シンガーになったと思う。

「人間くさい唄が好きだ」という彼女。

このアルバムで、とびっきり「人間くさい唄」をわたしたちに提供してくれていると思う。

彼女は、その才能ともいえる鮮やかな声で、わたしたちに、痛みもうつくしさも、一番シンプルな形で提供してくれている。

世間は、もっと彼女の実力に目を向けるべきだと思う。

矢井田瞳は、ただのシンガーなんかじゃない。努力型の天才なのだ。

才能と努力の組み合わせ。

彼女がいま描いている世界は、濃すぎる血液のように、熱く迸るものなのだ。


Be My Last (視聴)

宇多田ヒカルは、1stシングルから突き抜けるようにポップス一色な彼女の楽曲を世に送り出し、そのメロディセンスと、若い年齢のギャップで周囲を驚愕させていた。

1stアルバム「First Love」や、2ndの「Distance」などは、彼女がポップス街道を驀進した足跡だと思う。この2作の中の曲、どれもがとてつもなくポップスであり、キャッチーである。 彼女の特異なまでのポップセンスは、まさしく神に与えられたものなのではないかと思う。


そんな彼女が、ふと「ポップス街道」ではない横道を見つけて、歩みはじめた、その道筋をみせているのが3rdアルバム「DEEP RIVER」だと思う。

それこそ、前作までのある意味エレクトリカルな音(--それまでの彼女の作品は、極端なまでに電子的な音ではなかったが、常に生(なま)っぽさを感じさせないものだったと思う。恐らく、それすら意図されたものなのではないかと思うが--)を一切排除した、重く厳格な生(なま)の音である。


宇多田ヒカルは、生っぽさ、まるで血液が流れているかのような音とメロディで、自らのエモーショナルな部分をさらにむき出しにしたのだと思う。元々、ピアノで作曲をする彼女なのだから、その重さ(--ピアノは、重い楽器だと思う--)に戻ることは必然だったのではないかとも思うが。


彼女のエモーショナルさの標的は、それまでの、『女の子のお悩み』から『渇望するということ』に変化したのではないかと思う。だからこそ、 「SAKURAドロップス」という楽曲で、 「願うことは:これが最後のheartbreak」と望んだのだと思う。

そしてそんな「ひとと繋がりあうこと」「理解しあうこと」という、ひとが望む、切迫してそして叶うことのない願いを、彼女がかつてないほどに「生の音」で、静かに、そして悲しいほどエモーショナルに表現した作品が「誰かの願いが叶うころ」だと思う。彼女はこの曲で、最早完全に「恋に悩む女の子」から解脱して、それまでには無かった苦痛を表現できるシンガーに成長したのだと私は思う。


そして彼女の最新シングル「Be My Last」

この曲の歌詞は、「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの?」というところから始まっている。

これだけで、彼女が圧倒的に「人間」として抱える「痛み」を表現できるようになったことがわかるんのではないだろうか。


最早彼女は「女の子」なんかじゃない。たしかな、「人間」なのである。

「タッチ」 NUMBER GIRL

NUMBER GIRLは、孤独感に潜む激情を常にロックという形で提示していたバンドだと思う。

彼らのプレイはまさしく激情的であり、そして彼らの曲はどうしようもなくハードな孤独だ。

そんな彼らの1stアルバム「SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT」の一曲目を飾るのが、この名曲「タッチ」である。


「熱さを嫌う若者たちは冷えきった場所へ逃げてゆく」

「通じあわないで 触れあわないで」

ここに描かれていることには、寸分の狂いも無い。

私自身が比較的「若い」と云われる世代なので、その光景を何度と見てきたし、実際に経験もした。


私達は、触れ合おうとしたことなどない。

面倒なことからは逃避する。

誰かと通じ合ったこと? そんなこと、一度だって無い。

若者たちは、いつだって「自分自身」の「すべて」を受け止める人間を求め、そんな人物が居ないことに、冷たいエナジーを感じている。それは、きっと憤りよりも虚しさだ。恥なのだ。若者にとっては。

だからこそ最初から逃避する。

虚しさを感じるくらいならば、平面的な触れ合いで構わないのだから。

それは、事実上「触れ合わない」ということだが。


しかし、それでも向井は唄う。

「それでも奴等笑いあう それでも奴等信じあう」と。

それこそが、若さの証明だ。触れもしないのに信じあえる。笑いあえる。それが若さだ。

もはや、それは理論も何もかも一瞬にして消化し、消去してしまうほどの、熱い心模様なのだ。


NUMBER GIRLは、そんな若者たちを否定もしなければ肯定もしない。

だからこそ、この曲が持っている、胸に差し迫るような鋭利な痛みは拭えない。

それは、もう歌詞云々を超えて、曲が持つ世界が、圧倒的に「鋭利」なのだ。

そして鋭利なものが心に届けば、それは確かに痛みなのである。


痛みを音楽へと昇華させることが、ロックだ。

NUMBER GIRLは、それをすべてにおいて体現している。

だから彼らの世界は、あらゆることを超えてロックであるのだと思う。

「翡翠」 一青窈


たとえば、雨のうつくしさ。そして切なさ。

儚さが苦しい。

そんな魅力が詰まった曲。それが、一青窈の「翡翠」なのだと思います。


ピアノからはじまるイントロは、まさしく美しく、梅雨時のひとのこころのようだと思います。

そして、一青窈のあの声!

彼女の声は、水のような透明さと高密度さで、ひとのこころに、いつのまにか入り込んでいる。

そんな声です。


歌詞は、恋愛の歌詞だともとれるけれど、 「待ち焦がれていた意地悪な甘さ」という言葉や、 「永遠、だけは見えないものだから 無いのかもしれない。」 というフレーズは、恋愛の枠を超えた、ひとのこころの映像だと思う。

また、 「振り向くのを期待して もう一つをねだった。」 という一文は、すべての「女の子」に通じる、途方もなくリアルな心情で、思わず過去の自分がフラッシュバックする。


この曲は、とてつもなく叙情性のある曲だと思う。

梅雨時期の記憶の残像と、過去の自分が、一瞬でこころに「映像として」舞い戻ってくる。

それは、あまりにもうつくしくて儚い。 ひとのこころに入り込んでくる。

それは、甘い様子をした痛みで、苦しい。


それでもこの曲を求めるのは、この曲の、狂おしいほどの美しさの所為なのだと思う。

思い出すだけで過去の甘い痛みがもどってくる、そんな、曲。

「迷彩」 椎名林檎


椎名林檎の3rdアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」に収録されている、この曲。

シンメトリィとして、対称になっている曲「意識」は、云うなれば 「生」への戸惑いを抱えた、思春期の人間の複雑でヘヴィな心境が唄われているが、この「迷彩」という曲は、一言で云えば「性」への戸惑いなのだと私は思う。


イントロの「ねえ一層~」の、椎名林檎の声は、まさしく「妖艶」であり、うつくしい。

全体的に漂うジャジーな雰囲気は、女の気だるさを匂わせ、その気だるさに、聴く者は恍惚としてしまう。


しかし、この作品に描かれた「性の戸惑い」は、それこそ思春期の少女が求めていた、自分自身のリアルなのだと思う。


歌詞の中に、「剥いだ素肌に恐怖色」というフレーズがある。

わたしは、このフレーズに、どうしようもなくシンパシィを感じたのだった。


性的な関係になることにより、剥がされるもの。

そしてそれによって映し出される「素肌」。

それに、どうしようもなく「恐怖」する。


それこそ、一瞬にして冷静さを取り戻し、心臓が壊れるほど、苦しさを覚える。


相手の「性」を、ふとしたきっかけで感じることにより、思春期の少女は、「自らの性」を改めて突きつけられ、愕然とするのである。

自分自身にある子宮、乳房、すべてが「女」であることを示し、その事実と、その重さに少女たちは息苦しさを覚える。

それはまさしく「恐怖」」なのだ。

少女たちは、「性」に対して常に戸惑っている。

彼女たちに与えられた性は、それほど重いものなのだ。


そんな、「性の戸惑い」を、こんなにもヘヴィで、かつ自嘲気味なまでの鮮やかさでうたっている曲は、わたしは初めてだった。

思わず口ずさみたくなる心地よいメロディに相反するほど、切実な、思春期の少女の戸惑い。

こんなにも鮮やかに表現する林檎さんに、感動どころか、骨抜きだ。

「マリオン」 thee michelle gun elephant



どうしようもない悲壮感と血が流れ続けるような痛みを以って完成された、ただただロックなアルバム「サヴリナ・ヘヴン」の8曲目、それが「マリオン」。


イントロのギターからして、センチメンタルで叙情的なオーラを放ちまくるこの曲。

このイントロのうつくしさは、胸をしめつけられるようで、わたしは現実と意識のラインが曖昧にされる。

どうしようもなくひとの心臓を一瞬にして手にとってしまうイントロだと思う。


「俺はそこで最後にマリオンを見失った」

「人には結局羽が生えなくて 流れ出すまま下に落ちていった」

「ブルー・バード・ランドは 確かにそこにあった」


こんなにストレートなミッシェルが、かつていただろうか?

サウンドから、声から、プレイから、衒うことなく悲しさと痛みを伝えてくる。

チバの作る詞の叙情性は誰もが知ることだが、こんなに痛切で聴く者全てに訴えかけてくるような、こんな悲しさ。

そんなの、胸に響きすぎる。

曲の持つあまりのパワーに、イントロで奪われた心臓が撫で回される。

曲がうつくしすぎる、とわたしは思う。

こんなの、あまりにもうつくしすぎる。力がありすぎる。率直に響いてくる。

わたしは、いつもあまりのうつくしさに息も出来なくなるのだ。

ロックがもつうつくしさと、ロックが与えてくれる快感は、いつでも、身体を抉るような痛みで構築されていることを、この曲はわたしに刻んでくる。

わたしは、ロックが痛みの産物であるものだと、常々「考えて」いたが、そのことを「感じさせた」のは、ミッシェルであり、マリオンでもあったのだ、と思う。


最後の「ねぇマリオンなら ねぇマリオンなら」という詞が、訴えかけてくる痛みは、どうしようもないほどに苦しい。

思わずわたしは、泣きたいような叫びたいような、そんな風に感情が絡み合って、困惑してしまう。


ミッシェルのロックの力を、うつくしさと共に感じる一曲。

TMGEが過去制作してきたアルバムの中で、私が2枚ほど好きなものを選ぶとしたら、「ギヤ・ブルース」と「サブリナ・ヘヴン」を選ぶ。
この二枚は、特に彼らのロックが詰め込まれた力作なのだが、驚くほどにこの二枚は「違う」。

ギヤ・ブルースが沸点を越えに越えた、灼熱のような勢いのあるロックだとすれば、サブリナ・ヘヴンは逆に、氷点下を突き進んでいった氷のようなロックなのである。

ギヤ・ブルースは、メンバー全員の意思、技術がまさしく丁度善い加減で溶け合った状態で生まれたアルバムであると思う。
バンドという、個々が集まって生まれたものが、はじめて「ひとつ」になったからこそ、あのような、勢い、技術、魂どれもが「ロック」を貫いた素晴らしい作品になったのだと思う。

しかし、サブリナ・ヘヴンにはその「ひとつ」という感覚は生まれない。彼らは、ただただ地下に潜るように、無言で「ロック」に進んでいっている、ように私は思う。
ギヤ・ブルースは最高のタイミングで、ロックに進んだ。
しかし、このサブリナ・ヘヴンでは絶妙なタイミングなど与えられず、彼らは自力でロックに進むしかなかった。
彼らは、ギヤ・ブルースを、いや、過去の自分たちを越える必要があったのだ。
それはまさしく、ゼロからの挑戦であったと思う。

だから彼らは、氷点下に進んだのである。
自らを痛めつけることによって、全てを再確認するかのように、一歩一歩ロックを歩んできたのだ。

ギヤ・ブルースにある熱さとは、対極の、全体に漂う、脳を占領するかのような悲壮感と虚無感。

血を流さずとも身がちぎれそうな苦痛。

そんな息もできぬような切迫感の中で、彼らが生み出した10曲。
それは、まぎれもなく「ロック」であった。

彼らは、サブリナ・ヘヴン発売後、サブリナ・ノー・ヘヴンとミニアルバムを発売し、「エレクトリック・サーカス」というシングルで解散した。
彼らは、あの4人でのロックを出し切ったのだと思う。

ロックをひたすらに求めた四人の、静かに爆発する名盤。

YUKIの1stアルバム「PRISMIC」。


『神々しい。』

その一言に尽きると思う。


一曲目の「眠り姫」から、YUKIの世界が一瞬にして広がる。

そこにはYUKIから見える世界が、ただ存在する。

スピッツや亀田誠治、東京スカパラダイスオーケストラなど、そうそうたるメンツを率いても尚、色鮮やかに「YUKI」が光臨している。

このひとはほんとうに、唄に生きているひとなんだ、と改めて思った。


このアルバムは、水のような高密度で、ひとのこころに入り込んでくる。そしてしみこんでいく。

言葉で尽くすことのできないあの浮遊感。

記憶された情景とそれに伴う、胸がきしむようで、かつ静かなせつなさが、このアルバムには、真空状態で保存されている。

CDをスタートさせれば、それは鮮やかに、この胸に入り込む。


「歌詞がいい」「メロディがいい」そういうことじゃない。

すべての痛みとかなしい現実を背負い込んでも尚、音楽をみつめたYUKIの存在は、まさしく「神々しい」のだ。

YUKIから見える世界は、鮮やかで、かつ、せつない。

そしてそれはまるで夢のようにうつくしいのだ。


まるで自由に飛ぶことを許された小鳥のようなYUKI。

彼女は呼吸をするように唄を唄う。

彼女のうつくしい世界が、まるごとつめこまれたようなアルバムだと思った。

名盤。

「意識」 作詞・作曲 椎名林檎

椎名林檎さんの3rdアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」の中では一際ポップな曲。

だけど、この3rdアルバムが持つ重さ同様にヘヴィな歌詞。

「性」「生」を受け止めきれぬ思春期のうちの複雑な心境を、こんなに鮮やかに、そして自虐的に唄っているなあと思うのです。


「嘘ヲ吐クナヨ」というカタカナでの不気味さと傍若無人さで、全てに対して敵意をむき出しにしたこと思えば、

あっさりと「君を愛する」と云える、若さ。

「幾つに成れば淋しさや恐怖は消へ得る」とモラトリアムへの漠然とした不安を抱える。


そして最後に、

「無い物 頂戴なんて憤つてゐる幼児同様

お母様 混紡の僕を恥ぢてゐらつしゃいますか」 と尋ねる。


ここの部分は、シングルヴァージョンでは、悲壮感とヘヴィさ、今にも自殺しかねないような危うさを以って唄われているけれど、アルバムヴァージョンでは正しく自虐的にポップさを武器にそれまでのテンションを引き続いたまま、「母に尋ねている」。

最後に、自分の「生」の根源となった母(父親も必要なわけだけど、産み落としたのは間違いなく母親だから)に自らの存在を尋ねる、というその行為は、ギリギリな思春期特有の鋭利さだと思う。

思春期特有の不安定さを、こんなにもポップスに変えてしまうその力に、本当に目を見張る。

また、アルバムではシンメトリィ曲とされている「迷彩」も、意識と同じように「思春期」をテーマにした唄だと思う。

それに関してはまた別の機会で書こうと思います。