小林賢太郎、小雪主演の、短篇フィルム「百色眼鏡」
本来、このブログは音楽のことしか話さない、という規約をわたし自身がかけているのだが、この作品に関しては、椎名林檎の世界観に繋がっていくために、ここに書かせて頂きます。
また、内容についても触れていくつもりなので、これから百色眼鏡をみよう、と思っている方は見ないことをお勧めします。責任はとりませんし、各自の判断でよろしくお願い致します。
この作品の根底にあるものは、明らかに「女」という「性」である。
それは、椎名林檎が常に、追及しようとし、また嫌悪し、そして共存し続けてきた(いる)存在だ。
彼女の性に対する意識が、これが最後、とでもいうかのように詰め込まれている名作「加爾基 精液 栗ノ花」でみせた世界観を、彼女はこの作品を通して、映像という媒体を利用して見せている。
小雪の艶美さや、小林賢太郎の微々たる部分までこなす演技力もまた格別だが、なにより驚異的なのは、この作品のおどろおどろしいともいえるようなヘヴィさなのである。
この作品において、女という性に関して違(たが)うことはなにひとつとしてなされていない。
その事実こそが、わたしたちにとってヘヴィなのである。
女という性の、果てしないヘヴィさがここにあるからこそ、この作品はヘヴィなのである。
女という性の本質、いや、むしろ女の性の核がここにある。そしてその核の存在は、わたしたち女をどこか宿命づけているのだ。
受け止める性、産み出す性、、というポジションを与えられているわたしたちは、その瞬間にすべてを受け容れなくてはならない。
そして、そのことは容易なことではないのだ。
女が抱くのは、自らの性の根本的な嫌悪感(わたしはこの感情に、いまだかつてぴったり合う言葉を見つけられた例がない。あらゆる感情が渦巻いているのだ。)と混迷である。自らの子宮の重さに、わたしたちは苦しみ惑うのだ。
そのヘヴィさを、この作品はベースにしてしまっている。だからこそ、この作品は驚異的なのである。
わたしがふと思ったのは、「夜の女」の居る部屋の様子である。
椅子の位置、灯の位置、といった細かい部分まで、シンメトリィに配置されている。
わたしは、最初、椎名林檎がきわめてシンメトリィに拘っているからこそ、そのような配置がなされているのだと思っていた。
しかし、わたしはこのシンメトリィに、気付いてしまったのだ。
この部屋のシンメトリィは、子宮のようだ、と。
子宮は、中心となる子宮部分に加えて、卵巣が左右対称に存在している(そしてそれを含めて子宮と呼ぶ)。
この精密なまでのシンメトリィは、子宮という存在へのメタファーなのではないだろうか。
また、この「夜の女」の部屋と、外界を繋ぐのは(天城もそれを通じて部屋の中を見ていたが)、「穴」なのである。穴!
子宮を繋ぐ穴。
それは、わたしたちが男を受け止めるための入り口であり、また、子を産み落とすための出口でもある。
天城という「男」が除く「穴」の向こうにある、もうひとりの「女」。
そこにあるのは、わたしたちが抱えている嫌悪感と混迷の核となる、「女という性」だ。
個人的には、この作品、台詞のすばらしさに思わず涙してしまう。
『わたしはお人形さんじゃなくってよ』『貴方は私に、誰になって欲しいの?』に含まれているのは、女として生きる「わたし」のひとつの「生」の意志である。わたしはそれを、尊いと思うのだ。
あまりにも精密な作品である。椎名林檎の世界観を知るのにも、単純な映画としてみるのにも(本編、非常に短いが)、女という性の真理をしるのにもいいだろう。
わたしはこの作品、もはや好きで片付けることのできないくらいのシンパシィを以って見ている。
見事な作品である。