Masahiro Yamazakiのブログ -114ページ目

運不運

人生は禍福いりまじりて縄のごとくなわれたものだ。


自分は不運だとも思えるし、運がつよい、とも思える。


いっそどちらも正しくどちらも誤りとすれば、


-----運がつよい------


と思いこむほうが、あかるくこの世が渡れるのではないか。


明るい人間に不運は訪れにくいものだと千代は思っている。


( 功名が辻(一) P310より )

学力低下と尖閣諸島

国がイケイケドンドンの時は、教師が「勉強しろ」なんて言わなくても子供は勉強します。子供ながらに社会を覆う熱気を感じとり、今の努力が将来の自分達をより強く照らしてくれると信じられるからです。


逆に国が低迷している時は、教師や親がどんなに「勉強しろ」と言っても、子どもは中々腰を上げません。そもそも大人達自身が国の将来の陰りを感じとっていて、「勉強しろ」の言葉の中に勢いが無くなり、少なからぬ不安を含んでしまっているからです。


人間が持つ草食動物のような気弱な本性は、身のまわりの異変に敏感に反応します。これは本能的なもので、大人も子供も差異なく空気を感じ取ります。大人はそれを子供より言語化できるので理解が深いように感じますが、深層的な理解度においては同レベルだと思います(むしろ子供の方が敏感に不安を感じている気がします。なぜなら、彼らの方が「将来の当事者」という意味においては責任が重いので。あるいは、”無関心”といった自己防衛の形をとる事もあります。)そのため、大人がどんなに言葉を尽くしても、社会を覆う将来への不安や低迷感は決してごまかせないと思います。


だからと言って、勉強をしないわけにはいきませんし、大人は「勉強しろ」と言うべきだとも思います。しかし、これまでのような動機づけでは的外れになってきていることを、大人は自覚するべきだと思います。


尖閣諸島問題で中国に屈服したことで、日本の低迷感・衰退感が露呈しました。ここから先は、日本の大人の創造性が試されます。どこを目指し、どのような着地を見せるのか。


むやみに熱いフリをして、「いいから勉強しろ!!」というのは楽かもしれません。しかし、それは単なる思考停止状態だと思います。日本が置かれた状況を冷静に把握し(中々難しいかもしれませんが)、将来の日本にとって役立つ授業を模索していくことが、必要な姿勢だと思います。


日露戦争勝利という過去の栄光は、苦境に立たされた昭和日本にとっては格好の信仰対象となり、最後は完膚なきまでに叩き潰されました。現在の日本が、知らぬ間に世界第2位の経済大国という過去の栄光にすがってしまわぬよう、今を生きる大人は注意深く歩む必要があると思います。


「過去の栄光にすがる」というのは、現状を無視して過去と同じやり方で物事を進めようとすることです。「勉強しろ」の言葉の裏に、教師がどのような青写真を描いているかが、今後の日本のかたちを決める気がしています。









空腹度

<1日目>

朝ごはん⇒普通に食べる(空腹度 0 )

昼ごはん⇒普通に食べる(空腹度 0 )

夜ごはん⇒食べない(空腹度 5 )


<2日目>

朝ごはん⇒普通に食べる(空腹度 3 )

昼ごはん⇒普通に食べる(空腹度 1 )

夜ごはん⇒食べない(空腹度 6 )


<3日目>

朝ごはん⇒普通に食べる(空腹度4)

昼ごはん⇒普通に食べる(空腹度2)

夜ごはん⇒食べない(空腹度7)


こんな具合で夜ごはんを抜き続け、昼と夜は腹8分を維持します(決して満腹にしてはダメです)。空腹度が10を超えると、何を食べても死ぬほどおいしく感じます。空腹度15になると、キュウリの浅漬けが平常時のカルビぐらいおいしく感じるので、空腹度15でカルビを食べると頭がおかしくなりそうになります。すべてがおいしく感じ、生命のすばらしさと、食べ物のありがたみがひしひしと感じられます。


「最近おいしいもの食べてないなぁ」と思っている人は、ぜひ試してみて下さい。世界観が変わり、サバンナのライオン(空腹度50ぐらい)の気持ちが少し分かります。


(注1)

くれぐれも家でカレーは食べないようにして下さい。カレーは平常時でも空腹度+2の効果があるので、一度食べ始めると理性がはじけ飛び、空腹度が一気に0に戻ってしまいます。。その他、揚げ物類や味の濃い食べ物は理性を失わせる力が強いので、くれぐれも気をつけて下さい。カッチカチのフランスパンや味付けの薄い食べ物は食欲をあまり増進させないので、苦しくなったらそれらを食べましょう。


(注2)

空腹度を一気に稼ぐために一日一食にすると、腹八分で止めることができず、一回の食事で空腹度が0に戻る可能性が高いです。空腹度を確実に稼ぐためには、夜ごはんを抜き続けるのが一番です。


以上、空腹の道案内でした。

俺の生き様を見ろ

重量挙げ63kg級の関東大会。


市川先輩は、外部からのあらゆるコンタクトを拒絶していた。彼は今、全ての集中力を自己内部に集約し、スナッチで105kgを挙げることしか考えていない。「頑張れ」という応援も、今の彼にとっては障害でしかなかった。人間は本当に集中すると、自分以外の事象に目が向けられなくなる。「~のために」とか「~のおかげで」などと言っている内は、本当の集中はできていない。そういう台詞は、試合前の生ぬるい慣れ合いの雰囲気か、試合後のリラックスした空間でしか生まれない。


セコンドは、市川先輩のただならぬ緊張感に圧倒され、彼が脱いだ服をきれいにたたむ以外に為すすべがなかった。彼の付属物を介する事でしか、彼への敬意と激励を表現することができない。


遠くで他校の応援が聞こえる。6月の湿気と炭酸マグネシウム(滑り止めの粉)の匂いが、体育館に充満する。市川先輩は何かを諦めたような微笑を残し、3回目の試技に挑みに行く。その去り際、ふとセコンドの存在に気が付き、「俺の生き様を見てろ」という言葉を残した。格好をつけただけかもしれない。しかし、セコンドはそうは思わなかった。既に3回中2回の試技で失敗していながら、なおも自己新記録を諦めない市川先輩を、本物の男だと思った。


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市川先輩は、いわゆる「不良」であった。家庭は崩壊しており、地元の西川口ではあらゆる悪さをしていた。顔に青あざをつくってくる事もあったが、なぜか練習をサボることはなかった。

普通の部員は、週に1~2回しか自己新記録に挑戦しない。しかし、市川先輩は常に自己新記録に挑戦していた。「自己新記録挑戦」というのは、生半可な気持ちでできるものではない。肉体と精神の状態をうまく最高潮に持っていけた時にだけ挑戦できるものなのだ。


市川先輩は毎日のように自己新記録に挑戦し、バーベルが後頭部に落ちそうになる危険な失敗を何度も繰り返した。時には監督が彼の練習を制止することもあった。市川先輩は常に何かに飢え、自己を規定する限界を否定し、狂気としか思えないほどの練習メニューをこなした。


市川先輩が誰かをライバル視することは無かった。彼の関心は常に自己内部にあり、練習場に飾られたトロフィーも、他校の実力者も、彼にとっては変哲のない風景に過ぎなかった。たまに来て威張り散らすOBも、市川先輩にはどことなく遠慮していた。

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肘が少し曲がりかけたようにも見えた。しかし、3人の審判はいずれも白旗を上げる。市川先輩は、土壇場で自己新記録を塗り替えたのだ。


試技を終えて帰ってきた市川先輩は、「今度女を紹介してやるよ」と言って、セコンドがたたんだジャージを受け取った。




「なんで勉強するの?」と聞かれたら

「なんで勉強するの?」という問いに対して正解を出せと言われたら、「分からない」と答えるしかないと思います。ただ、実際に生徒から質問された時は、何とかその場で自分の意見を言うようにしています。また、質問されなくても、授業の中で「なぜ勉強するのか」について自分なりの考えを述べることもあります。


「なぜ勉強するのか」という質問を10人の大人にしたら、実に様々な答えが返ってくると思います。そのため子供も最初は混乱するかもしれませんが、それは健全な姿だと思います。「なぜ勉強するのか」という質問には「一つの答えは存在しない」という事実を知り、自分自身で答えを模索する姿勢こそが大切だと思うからです。子供がそうした姿勢を持つためには、大人は質問された時にはお茶を濁すべきではないと思います。質問されたら、きっちりと自分の意見を言うべきだと思うのです。


大人であれば「なぜ勉強するのか」について自分なりの考えを述べられると思います。中には、「学校の勉強じゃ飯は食えない!」(実際にこういう本があります)という人もいます。それらの意見は、それぞれの大人が辿った人生のストーリーから導き出された教訓であるため、いずれも真実であると思います。なので、答えはもちろん一つではありませんし、「自分の意見が正しくて、あの人の意見は間違っている」と言うこともできないと思います。


中には、「まだ社会を知らない子供に、一人の大人の偏った考えを押し付けてはだめだ」と考える人もいます。しかし、そのような姿勢をとっていると、非の打ちどころのない正論を述べるか、何も述べないかの選択しかなくなり、結局は何も与えられないと思います。


大人が間違ったことを言えば子供は遅かれ早かれ気が付きますし、違った角度から意見を述べれば興味を持ってくれます。「子供」という言葉には「未熟な存在」といったニュアンスがありますが、時には子供の判断能力への信頼を前提として話をすることも、子供と接する大人には求められると思います。


子供は学校や家庭や塾やクラブなどで、様々な大人に出会います。それらの大人が違うことを言ったとしても、子供はそこから自分なりの意見を身に付け、知らず知らずのうちに内面化していくものだと思います。なので、大人ははっきりと自分の考えを述べ、その後の比較検討は子ども自身に委ねるべきだと思います。


塾は学校と違い、公共の福祉に基づいて発生したものではなく、「受験」というシステムなしには存在することができません。しかし、子どもにとっては塾と学校の違いはそれほど重要なことではないと思います。塾であれ学校であれクラブ活動であれ、大人が述べることが、彼らの人生に何らかの影響を与えていくという意味においては同一だからです。


教室という同じ空間を共有している場合、テレビなどと比べて言葉の訴求力は比べ物にならない程大きくなります。家庭と違って、友達や教師といった「他者」が存在しているため、フォーマルな場でもあります。その場を利用して、「なぜ勉強するのか」という重要なテーマについて述べることは、とても大切な事だと思っています。