那須
<大宮⇒春日部⇒古河⇒宇都宮⇒矢板⇒那須塩原 150km 走行時間8時間>
この2ヶ月間は毎週しっかりと自転車に乗っていたので、ほとんど筋肉痛にはならなかった。しかし、お尻の皮がひどく擦りむけて血が出た(ここまでひどいのは初めてだ)。こげばこぐほどお尻が擦りむけてしまったので、やむを得ず明日の移動を断念。お尻が痛すぎて寝る時は苦労した。
翌朝5時に目覚めたが、自転車に乗らないとなると帰るしかない。せっかく那須まできたので、茶臼岳に登っていくことにした。
茶臼岳は13℃と結構寒かった。上着を取り出すのが面倒だったので、早歩きで登ることにした。10分ほどで息が切れて汗が出始め、50分ほどで下山道に着いた。体力がかなり余っていたので、走って下ることにした。
5分ほど走っていると、後ろから誰かが走ってついてきているのが分かった。追い抜かしてもらおうとペースを緩めて脇に避けたが、抜かそうとする気配が無い。なのでスピードを上げると、しっかりと付いて来る。何だかちょっと競争みたいになり、転ばないように足元に意識を集中させた。時折後ろから聞こえてくる相手の息遣いが徐々に激しくなってきた気がしたので、これは相手もかなり苦しいのではないかと思った。
ゴールまであと400mの標識が出たときは、ほぼ平地になっていた。ここで抜かれたら嫌だと思い、最後の力を振り絞ってラストスパート。大汗をかきながらバス停に到着した。しかし、どこかで違う道に入ってしまったのか、後ろを走っていた人はいなくなっていた。自分は一度も振り返らなかったので、どんな人が後ろを走っていたのかついに目にすることは無かった。なにやら不思議な気分になった。妄想に追いかけられていたとしたら、自分の頭は相当やばいだろう。でも、いつの間にか現れて、いつの間にか消えていたというのは、やっぱりちょっと不思議な感じがする。
黒磯駅に戻り、自転車をたたんで電車で帰った。
呑気はすごい
世の中にはものすごく呑気な人がいて、「呑気でいいよね~」なんて言われていて、それでも「そうかな~」みたいな感じでニコニコ笑ってるので、「あ~、やっぱり呑気だなぁ。悩みとかないでしょ?」って言われてしまうような人がいます。
でも、大災害とか戦争とかすごい事が起こって何もかも失われるような状況になった時、普通に動けるのって呑気って言われるような人たちのような気がします。「とりあえず朝ごはん何にする?」みたいな拍子抜けするほど緊張感が無いセリフは、極限の状況下ではみんなに勇気を与える気がするのです。
呑気とは少し違いますが、wikipediaにこんなのがありました。
”第二次大戦の勝利者である連合軍は、あの過酷なアウシュヴィッツの環境で最後まで生を維持させた人間の特性に興味を抱き調査団を組織した。その報告が正確であるならば、生命の維持力と身体的な強靭さの間には何の関係も見出せなかった。そして生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された。第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した。アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した。第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した。鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した。第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した。戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した。"(佐久間章行『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』p.218-219からの引用)
正論
正論ばかり言う人がつまらなく感じるのは、それがオリジナルではなくコピーであることが多いからだと思います。また、正論を述べている時は、反論されることがないので、脳は大して働いていないような気がします。
正論とは、誰も反対することができない意見です。世界平和も、男女平等も、麻薬撲滅も正論です。会社でも学校でも正論は存在します。しかし、正論にはそれほど人を動かす力は無いと思っています。
世の中では、誰かが常に正論を言い続ける必要はあると思います。しかし、行動のきっかけは正論以外の場所にあることが多い気がします。だから、たとえ「それは間違っている」と言われたとしても、臆せず正論以外を言うことに価値があると思います。
ヤクザ映画などの登場人物の正論(「やっぱ命って大切だよな…」など)に妙な説得力があるのは、彼らが正論以外の事も言えるからだと思っています。
正論の枠の中に居続けるのではなく、正論とそれ以外の場所を行ったり来たりすることで、正論の価値も再認識されるのだと思います。
激突しました
自転車で壁に激突した。道路の細い溝に自転車のタイヤがすっぽりとはまり、制御不能になったのだ。額から血が垂れてきて、マンガみたいになった。
激突の一部始終を見ていたおばちゃんが、ティッシュをくれたのがありがたかった。久々に血が出るような怪我をしたので、ちょっと興奮した。
ウンコカレー
昨日は中2の授業で、「生きる力」ってなんだろうね、という話になった。先週中3の授業でしたウンコ話がまだ頭に残っていたので、「生きる力とはウンコをもらさないことである」という仮説を無理やり立てて説明してみた。
当然のことながら、「ウンコなんてもらさないよ!」という答えが返ってくる。しかし、ウンコをもらす人は、つい数時間前まで自分がウンコをもらすだなんて思わないものだ。近くにトイレが無い場合、ごく限られた可能性の中で究極の選択を迫られる。何かを守るために、何かを捨てなければならない。羞恥心を捨ててパンツを守るも良し。パンツを捨てて自尊心を守るもよし(守れるか分からないけど)。自尊心とパンツを守るために、一か八かの賭けに出るも良しである。
強引に結論を出すと、「生きる力」とは「やるべき時にやるべきことを断固として実行する力」だと思う。ウンコを漏らしたいと思う人はいないが、漏らしてしまうものである。大切なことは、ウンコを漏らす前にどのようなソリューションを模索できたかということだと思う。ただひたすら我慢する以外に、何をしたかが大切だと思うのだ。万策尽きてウンコをもらしたとしたら、それは仕方のないことだ。
「生きる力」とは大体そんなところだと思っている。
じゃあ「生きる力」はどうしたら身に付くのか?と考えると、それは様々な緊急事態(ウンコをもらしそうになる)を切り抜けることだと思う。こればかりは身に付けようとして身に付くものではないが、あえて言えば、「日々の行動範囲を広げること」だと思っている。色んな事をやっていれば、その分だけ緊急事態の発生率も増え、対応力や危機回避能力は高まるものだと思っている。だから、テレビなどでよくある「初めてのお遣い」などは非常に有効だと思っている。
続いて、「創造性」ってなんだろうね、という、これまた壮大な話になった。もう授業はウンコモードになってしまっていたので、無理にウンコ話を続ける。「創造性とは、海でウンコをすることである」と言ってみた。
大学生の頃、部活(ボードセーリング)の自主トレ中に、ふとウンコがしたくなった。かなり沖にいたのだが、陸に戻ろうと思えば無理なく戻れるほどの便意であった。しかし、「海の中でウンコをするのってどんなだろう?」と思った。一緒に練習していた部員と数百メートルの距離を置き、ライフジャケットも海パンも全て脱ぎ、真夏の湘南の海にダイブした。首まで海につかり、風向きと潮の流れを十分に確認してから、元気いっぱいウンコした。
それは、想像をはるかに超えるものであった。水中でのウンコがこんなに気持ちいいなんて、全く想像していなかった。あの快感は言葉では言い表せない。急浮上してきたウンコは、潮の流れに乗ってどんぶらこっこと消えていった。
もしも世界の終わりが来たら、その日のウンコは海でしようと思っている。
「そんなことは既に誰かがやっている」と考えて何もしないのはもったいない事だと思う。イルカもクジラも海でウンコをしているし、海でウンコをした人なんて数え切れないくらいいるだろう。しかし、自分にとってはかなりエキサイティングな試みであったし、その結果どのような感想が得られるのかも、全く未知であった。そして、それは想像を超える感動を与えてくれた。「なんでこんな単純なことを思いつかなかったんだろう」とも思った。
海中ウンコで得られた思いがけない快感は、自分にとっての大きな収穫であった。その感慨が日常への好奇心を掻き立て、その後の様々なチャレンジを生み出したと思う。(ロクでもないチャレンジばかりだったけど)
日々の生活の中には、少し行動を変えただけでものすごくエキサイティングになることがある。一度それを味わってしまうと、今度は積極的にそれを探すようになる。そうした行動の積み重ねが、創造性につながるのだと思っている。
そんな話をしていると、ものすごい雷鳴が響いた。バケツをひっくり返したような雨が降り、雷が鳴るたびに、何人かの生徒が嬌声を上げた。ある生徒が、「もしこの雨がヒョウに変わったら帰れないんで塾に泊まってもいいですか?」と唐突な質問をしてきた。せっかくウンコの話をしていたので、「いいよ。みんなで泊まって、教室でカレーでも作って食べよう」と答えてみた。「カレー作りたい!!」という声と共に教室の興奮が頂点に達したので、とりあえず休憩時間を入れた。
こうして、ウンコの話はカレーの話で終了した。
「きれいにまとまったな」という満足感が残った。