何年前だったのだろう・・・
そう、僕が20歳のころだから・・・今から12年前。
上京したばかりで、友達もいなく、目指してきた映画業界とは何の接点もできずに、ただ日々暮らすタメだけにバイトをしていたあの頃。。。
友達なんて一人もいませんでした。
何をやってもつまらなく、バイトも転々としていました。
梅雨も終わりかけたある日、新しいバイトが決まり、JRの大崎駅へと僕は行きました。
今はもうスッカリ完成してしまいましたが、大崎駅の再開発地区の工事現場で警備員のバイト。それが新しいバイト先。
そこにあなたはいました。
僕なんかよりずっと背が高く、恰幅もあって、周りでバイトしている人たちとはまるで違う雰囲気でした。
目黒川沿いの『第7ゲート』という仕事場で一日に何台も通るダンプやタンクローリーの数を数える仕事です。
言ってしまえば誰でも出来るような仕事です。そこに明らかに場違いなあなたはいました。
「そうかい、映画をやってるんだ」
「僕はねギターをやってるんだよ」
その日に初めて会って、まだお互いの名前すらろくに知らなかったのに、妙に話が合いましたね。
「でも、君なら大丈夫。目が澄んでるから・・・」
その言葉にどれだけの根拠があったのかは分りませんでしたが、どれだけ勇気ずけられたことでしょう。
帰り際、思わず僕から握手をしたのを昨日のことのように覚えています。
翌日、目黒川沿いの『第7ゲート』に行くとあなたはいてくれました。
「映画を作りたいんだったら、この本読んだらいいよ」
あなたは一冊の漫画を渡してくれましたね。
僕はその読んだことのない漫画に衝撃を受けて、一気に傾倒しました。
『漫画家残酷物語』という永島慎二先生の漫画でした。
それからも毎日、あなたは僕に永島先生の漫画を貸してくれました。
永島先生の漫画だけではなく様々なもの、本当にいろんなことを教えてくれました。
軽く30度を超えるような真夏の日も、
まるで東南アジアのスコールのような雨が一日降り続いた日も。
毎日顔を合わせて、毎日話をしても話題が尽きることはありませんでしたね。
そう、あなたは、まぎれもなく僕が上京してからの初めての友達でした。
25歳、年の離れた・・・
あなたは本当に純粋で、物事の本質を追い求めていました。そして僕にも物事の本質を見つけることの大切さと、その方法を少しだけ教えてくれました。
あなたの家にも何度もお邪魔しました。
奥さんと中学生の息子さんと小学生の娘さんがいて・・・
たくさんお酒を一緒に飲みました。ギターも教えてくれました。
あなたが主催していた『ギターを楽しむ会』というイベントにも何度か遊びに行きました。
そこには永島先生のご子息でギタリスト永島志基さんがゲストで演奏されたりしてましたね。
僕には家族なんてありませんでしたけど、本当に家族ぐるみでお付き合いさせていただきました。
やがて、僕も映画の助監督の仕事が出来るようになり、『第7ゲート』には行けなくなりました。
映画を作って、完成するたびに僕はチケットを持ってあなたのところに行きました。
映画を見てくれて、感想を聞いて、お酒を一緒に飲んで、一緒に歌って・・・
友達と書きましたが、やっぱり兄貴のようで、時に父のようで、先生であり、ホントに不思議な人です。
あなたのような人には未だに会ったことはありません。
そのうち、あなたも『第7ゲート』の仕事をやめて、また音楽の仕事を始めました。
僕も映画の仕事が忙しくなり、だんだんと疎遠になってしまいました。
それでも時々電話をくれたり、電話をしたり、、、
最後に話したのはいつだったか・・・
去年の2月、僕はある一本の仕事と向き合いました。
『黄色い涙』
そう、永島慎二先生の原作の映画化です。
あなたに出会って、永島先生の漫画と出会って、10年以上の月日が流れていました。
すぐにあなたに電話したかったです。
でも、あなたと連絡をとらなくなってから、携帯を海に沈没させたり、酔っ払った時にカバンごと手帳を失くしたりを繰り返していた僕にはあなたの電話番号が分らなくなってたんです。
すぐに電話できなくてごめんなさい。
『黄色い涙』の準備をして、撮影が始まるGW明けのクランクインの日。
そう、ちょうど一年前・・・
そうか、本当に一年前ですね。
井の頭公園のシーンを撮影している時、僕の携帯に見知らぬ番号から電話がありました。
撮影中で忙しい中、
電話に出ると、あなたでした。
本当に世の中、こういう事ってあるんですね。
撮影中だったので、一度電話を切って、その日の夜に改めて電話しました。
僕は久しぶりにあなたと電話できたことが嬉しくて一気にいろいろと話しましたね。
『黄色い涙』のこと、近況のこと・・・
どのくらい話たでしょう
でも、最後に聞いたあなたの話に、僕は言葉もありませんでした。
「完成はいつ? 来年かあ。生きてられるかなあ・・・僕ね癌なんだよ」
もう余命を超えているはずのあなたの声も言葉も、あまりにあっけらかんとしていて、昔と何も変わらなかったから、僕には受け止めることが出来ませんでした。
それがあなたらしいと言えばあなたらしかった。
あなたは闘病生活を書いた手記を僕に送ってくれました。
そこに書かれている手記は僕の知っているあなたとあまりにかけ離れていて、どう想像してもあなたと結びつかないものでした。
でも、辛い現実の中でもやはり本質を見て、真実を求めるあなたの姿勢に、全く病気でもなんでもない僕が勇気を貰いました。
手記の小冊子には手紙が添えてありました。
「撮影の現場は本当に大変そうですね。でも頑張れる白石さんには、何か大きく期待するものが感じられます。いい作品が出来たなら、一番にも紹介して下さい。やはり、心に触れるものが見たいと思っています。また、情熱的な白石さんに会える日を楽しみにしています。では・・・。H18.5.23」
そして一年。
『黄色い涙』は無事に完成して、今公開してます。
一昨日、奥さんから僕のケータイにメールがありました。
「お久しぶりです。元気に頑張っている様子は永島志基さんからも聞いてます。実は大澤さんが亡くなりました。告別式は週末の予定です。会いたがっていたので残念です」
大澤さん・・・
大澤順一さん・・・
ホントは会いに行く時間も、会う機会もありました。
僕も会いたかった。
でも、正直に書くと、
怖かったんです。
大澤さんに会って、
なんと言われるか。
僕の目はいまだに澄んでいるのでしょうか?
僕にあの頃のように情熱があるのでしょうか?
僕に真実や本質を追い求める資格があるのでしょうか?
昨日のお通夜で永島志基さんの演奏する音楽の中、息子さんの志基くんと娘さんの亜文ちゃんを見ました。
二人とも大澤さんのように真っ直ぐな大人に成長してましたね。
そして、今日、本当に遅くなってしまいましたけど、会えましたね。
聞けなかったですけど、
『黄色い涙』見てくれましたか?
大澤さんが『黄色い涙』の公開まで頑張ってくれたと思うと、僕は嬉しかったです。
そして、叶うことなら僕の作る映画を見て欲しかった。。。
いや、きっと、どんな作品になっても見てくれますよね。
その時は、大澤さんに何を言われようと必ず見せにいきますから。
心に触れる映画を・・・
もう一度大澤さんと話をしたかった。
もう一度大澤さんのギターを聞きたかった。
もう一度一緒に酒を飲みたかった。
今日、告別式が終わって、家に帰ってきて、大澤さんの手記『クリスタルハーバーの朝」を読み返しました、その(第九楽章)の最後を読んだ時、僕は不覚にもまた涙をこぼしてしまいました。
告別式であれほど泣いたのに・・・
『心配することは、何もない。
心配しなければならない事象を創り出しているのは、ほかならぬ自分自身なのだから・・・。
自我、自意識からの目覚め・・・。
多くの人が、自我に捉われて短い一生を過ごす。
自分を、少しでも良く見せたい。
自分が、少しでも良く思われたい。
自分は、少しでも得をしたい。
自分という舟に乗って漂い、ほんの僅かな幸せでも、それをむしりとって生きようと頑張る。
自分のために、頑張る。
自分の奥底にある本質、決して消滅することのない心、魂は、そんな私のすべてを見ている。
最後の審判は、自分の本質が自分に下す・・・、最後のステージなのだ。
誰も、自分をごまかせない。
誰も、自分に嘘をつけない。
人は、自分の本質へと戻されたときに、すべての力を取り戻す。』
大澤さん。
大澤順一さん。
いまだに勇気をくれてありがとう。
あの時、大澤さんが「大丈夫」って言ってくれなかったら、今の僕はありません。
安らかに・・・
友よ――