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サラリーマン社長のムービートラベル

これアカデミー賞候補ですかー。18R指定、エロとグロのオンパレード。時代は変わりました。こういう作品がオスカー候補とは...。けど主演のエマストーンは熱演、好演、怪演。他の作品はまだ全然観てないからわからんけどまあ主演女優賞の本命やね。なにもかもかなぐり捨てた演技って言うのかな。とにかく凄かったです。いろんな意味で。しかしこの作品どんなジャンルに入るかな?ホラー?ファンタジー?いやいや、形を変えた女性映画と見たんやけどいかがかな?

パンフレットが売り切れ(もうほんまにこの頃の映画館は怠慢、多いわこう言うの)だったから明確にはわかりませんが外科手術が行われてるから時代背景は19世紀かな。知的障害あるいは発達障害と思われていた若い女性がとんでもないバックグラウンドを持ち、自我に目覚め、性に目覚め、猛烈な学習意欲ですべてを飲み込み、急激に成長していく姿を描いています。原題〝Poor Thing〟の差す、「可哀そうなもの」、「哀れなるものたち」とは一体だれを差すのか?彼女?それとも周りにはびこる男たち?言っときますが相当にエロい!猛烈にグロい!劇中の食事のシーンでよくキッパ―と言う料理が出てきます。英国の朝食によく出される、塩漬の燻製にされたニシンの開きです。映画を観終わった後はよく粋な気分で物語に登場する料理を食べに行くんですが、この作品の後はさすがに「開き」はなあ。

19世紀のロンドン。医学生のマックスマッキャンドルズは敬愛する解剖学の権威にして天才的な腕をもつ外科医ゴドウィンバクスターの助手に指名され天にも昇る気持ちだった。彼に与えられた仕事はバクスターと同居する一見,白痴のような若い女性ベラの生活を逐一記録すること。ベラは成人でありながら幼子のようだった。癇癪を起こすかと思えば大笑いする。笑ったと思えば泣き叫ぶ。彼女の行動は奇抜でマックスは毎日振り回されていた。彼女はいったい何者なのか?疑問と共に天真爛漫な彼女にマックスは惹かれていくのだった。だがバクスターの口から衝撃的な彼女の正体を知ることになる。ベラは身重になって一度は自らの命たった女性だった。だがバクスターの手によって脳死状態だった彼女は自らの胎児の脳を移植され蘇生されたのだった。まさに体は成人、知能は幼児だったのだがベラの学習意欲、吸収力は凄まじく、性にも興味を持ち始める。やがて外の世界に興味を持ち屋敷内にほぼ軟禁状態だった彼女は外の世界へ出たがるようになる。そんなベラにマックスは結婚を申し入れバクスターも快く承諾してくれたのだが、法的手続きをとるため家へ招き入れた弁護士のダンカンウェバダーンがとんでもない放蕩者だった。ベラを一目見たダンカンは外の世界へ出たがるベラを言葉巧みに連れ出し二人で旅行に出かけるのだった。最初の旅行先リスボンでは来る日も来る日もセツクスに溺れる日が続く。だが貞操観念の全くないベラの自由奔放な振る舞いにダンカンの心はかき乱される。彼もまたベラの虜になってしまうのだ。たまらずベラを連れてリスボンを出たダンカンはクルージング船に乗り込む。ベラは船上で知り合った老婦人のマーサと黒人青年のハリーの哲学的な話に夢中になりマーサから貰った本を片っ端から読み漁る。アレクサンドリアに立ち寄った時、ベラは貧困にあえぐ者たちの現状を見て衝撃を受ける。そして彼女に相手にされずギャンブルにのめり込んでいたダンカンの稼いだ金と全財産を持ち出してしまう。財産を失ってしまったダンカンとベラはマルセイユで降ろされパリに無一文でたどり着いた。そしてベラがたどり着いたのは一軒の娼館だった...。

 

一度は死んだ人間を蘇生させると言うのはメアリーシェリーの「フランケンシュタイン」へのオマージュ出はないですか?天才外科医ゴドウィンバクスターを演じたウィレムデフォーの「怪演」もお見事でした。つぎはぎだらけの顔のメーキャップ、「科学の為」と科学者であった自分の父から受けた異常な仕打ち。ほんまにもう食が進みます。

ベラは行く先々で普段、普通の人間が普通に通り過ぎている事に立ち止まり猛烈な学習意欲で知識を吸収しやがて体と心が一致していく。パリの売春宿さえ彼女の学習の場となるのです。ようやくヨチヨチ歩きができるようになった幼子が駆けてくるような彼女が知らん間に博識の高い婦人となって帰ってきます。気づかん間に歩き方が全く変わってるんですな。そして周りにはびこる男たちに「モンスター」と見下して言い放つその姿が何ともカッコイイ。気づけば冒頭のシーンでマックスが学んでいたように解剖学の抗議にも参加している。彼女の視線の先にはキッパーが...いや人間の開きが...いやいや、あのそんな学習能力まで身に着けているわけです。

「哀れなるものたち」と言うのは数奇な人生を送る羽目になったベラを差すんじゃないんですな。彼女が見下ろす男たち。それは生みの親でもあり、育ての親でもあった。バクスターも心優しいマックスもそうです。ことに筆頭に立つのはマークラファロ演じるダンカンウェバダーン。もうほんまに見事なクズっぷり!「超人ハルク」がここまでなるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主演チョンウソン。よう聞きますなー、この名前。韓国じゃ人気俳優らしく、今回は自らメガホンをとった監督・主演の一作目だそうです。組織のボスを手にかけて10年の刑務所から帰ってきた男。かつての恋人に会いに行くと子供ができていたことがわかる。「この二人のためにやり直そう」男は思うのだが、過去が男を離してくれない。自分の命に代えても大事なものを守ろうとする。すると知らず知らずのうちに...。ようある話です。日本でもお得意の任侠もの。「義理と人情量りにかけりゃ、義理が重たいこの世界」。高倉健と鶴田浩二の東映仁侠路線がまあ懐かしい。そんな「古典」を韓国を舞台に繰り広げるアクション作品。うん、まあまあ男の子の好きな映画です。パンフレット(たっかいねぇー)開けりゃ「トロント映画祭騒然❕」???そこまで大そうな...。

組織のボスを手をかけ、10年の刑期を終えたスヒョクが出所してきた。出所したその日に元恋人のところへ行くと娘ができていたことを知る。「平凡な父親になれる?」彼女の言葉が胸を突く。スヒョクは10年前「先が見えない」と自らの組織のボスのやり方に嫌気がさし殺害。だがその後「先が見えない」と言った組織は巨大企業となりスヒョクの兄貴分だったウングクが会長となり、弟分だったカンが理事の座に収まっている。殺しの腕が立ち度胸もあるスヒョクをウングクがほっておくはずがなかった。その組織「カイザーグループ」は大企業となったのは表向きで悪質な方法で土地を買収し、歯向かう者は始末すると言うやり方は今も昔も変わらなかった。スヒョクはきっぱりと断ったがウングクは激怒しカンに「スヒョクから目を離すな」と命令する。だがカンは自分と度量も腕っぷしも器の違う、スヒョクに嫉妬し自らの手駒である若いアベックの殺し屋ウジンとジナにスヒョクの命を狙わせる。

スヒョクが病で倒れた恋人を病院へ連れて行こうと車で走らせていた時、ウジンとジナが急襲。恋人は命を落としてしまった。絶望感に襲われたスヒョクだったが尚もウジンとジナはスヒョクに襲いかかる。スヒョクはウジンを捕らえたが、今度はジナがスヒョクの娘を人質に取る。追いつ追われつの戦いが繰り広げるが、それに業を煮やしたカンが新たな殺し屋を差し向ける。スヒョクが守るべき者はただ一人、自らの命を懸けて彼は自らの過去を清算しようと戦いに臨む。

 

うーん、正直言ってやや消化不良。ラスボスはそのままやし。まさかこの程度と言っちゃ悪いけど続編ができるとは思わんのですが難しいんやね、アクション作品の監督・主演は。シーンのアイデア出して自らは飛んだり跳ねたり、カメラをチェックせなあかんのやから。けどこの作品の題材は何も韓国でなくてもできるテーマ。日本でもハリウッドでもね。まあ男が好きなテーマやねんけれど。韓国映画には日本やハリウッド、ましてや東西の壁が崩れたドイツのあるヨーロッパだってそう。南北に分断された国を持つ国民の怒りや悲しみは我々には計り知れないものがあります。だからそんな題材がテーマになった時の韓国映画は無類の面白さ、感動を与えてくれます。そんな中で近年の韓国は目覚ましい経済発展を遂げてきました。日本の力も大きいんやけどね。文化もそう、K-POPや韓流映画だってそう。中国に飲み込まれてしまった香港映画にとって代わってその指定席は今や韓流映画です。この作品にも出てきます。アベックの殺し屋が近代化された複合施設の並ぶ地域の大スクリーンを見ながら「ここは俺が子供の頃ドヤ街だったんだ。俺はばあちゃんとここで暮らしていた」おそらく江南地区なんやろね。自分が旅行業界に入ってきたころは江南地区はまさにその通り、今や高級ホテルがバンバン建ってます。けどそういう急激な経済発展の歪で過激な若者が生まれてきます。かくいう日本だってそう。大戦の敗戦後、我々の親の世代は必至で働き、その勤勉さと技術力の高さでこんな小国が敗れた大国に今度は経済力でタイマンを張れるようになりました。けどその「高度経済成長期」と呼ばれるその時代になにが起こったかと言うと「安田講堂事件」を始めとする学生運動。その果てに生まれたのが赤軍派、連合赤軍と言った過激派組織。先日も出てきましたなあ、50年も逃げ回っていた過激派組織の爆弾犯。癌になって最後は本名で死にたいって。何を勝手なこと言うとんねんですわ。まじめに働く一般庶民からするとね。その前には過激派組織の最高幹部が刑を終えて出所してきてその公演をうっとりと眺めている左翼思想のメディアや学者の姿が画面に映し出されてました。まだ病んどりますなこの国は。

まあこの作品とは全く関係ない話ではありましたがこのアクション作品のそんなワンシーンを観て矢継ぎ早にそんなことを考えてしまいました。話の筋が大きくそれてしまいましたね。でも近年の韓国映画の勢いは凄まじいものがあります。それに加えてここ1~2年の日本映画も面白い作品が上映されています。こうやってコミック一辺倒のような感じのハリウッド映画に刺激を与えてお互い切磋琢磨してほしいもんです。そしていつの日か日韓の間の様々な問題を片方の一方的な思想や意見だけを描くのではなく公平に描いた作品が日韓合作で描かれることを切に願います。しかし、今の状況じゃあ無理やね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

監督ウッディアレン、御年88歳だそうです。数々の功績を映画界へ残した方。そしていわゆるニューヨーク派って言う立ち位置で監督、制作、そして俳優さんです。今回の作品は「サンセバスチャンへ、ようこそ」。「ニユーヨーク派」と呼ばれる彼ですが近年では、自分が大好きな「ミッドナイト・イン・パリ」の他、「恋のロンドン協奏曲」「ローマでアモーレ」などニューヨークを飛び出して、ヨーロッパに舞台を求めています。しかしニューヨークってところはどこかヨーロッパの匂いがします。関係あるんかな?

で今回の作品なんですが、倦怠期を迎えた熟年夫婦が仕事でスペインのサンセバスチャンへでかけて、まあ2枚目の男が現れて妻は...と言うような内容。なんですが観終わった後の感想を一般観客たちに求めてみたら...。ネットの感想を見てみると「退屈」「途中で出た」「半分寝てた」「老いたりウッディアレン!」とまあさんざんな一言が載ってました。でもそれはそうやろ。その気持ちはよくわかります。日頃映画を観ない方々が観るとそうなると思いますよ。かなりのマニアでないと。自分は絶賛するほどではないにしろよかったですよ。物語の主人公は一応、小説家なんやけど昔は映画に関してニューヨークの大学で教鞭をとっていました。彼が好きなのは、フェリーニ、ルルーシュ、ベルイマン、トリュフォー。いわば芸術家肌の監督ばかり。こんな名前が出てくるだけで自分なんかのマニアは十分満足なんです。そしてこの主人公はウッディアレンそのものなんですわ。

かつてはニューヨークの大学で映画の教鞭をとっていた熟年男性モートリフキン。今は小説家に転身したものの全く売れない。彼は映画の広報担当である妻のスーの仕事に同行しスペインのサンセバスチャン映画祭へやって来た。彼の愛する作品はフェリーニ、ルルーシュ、ベルイマン、ゴダール、トリュフォー。ヨーロッパの格調高い作品を愛するモートであったが昨今の作品はすっかり変わってしまっていた。スーとの間もなんとなくぎくしゃくし、少々憂鬱な気分でここサンセバスチャンへやって来たのだが彼の気分を害することがもう一つ。映画祭で多くのプレスに囲まれ人気の的となっているのが新進気鋭の映画監督フィリップ。二枚目で注目の的となっているフィリップを担当しているのがスーなのである。夫のことはそっちのけで昼間は常にフィリップと行動を共にするスーを見て、浮気をしているんじゃないかと勘繰ってしまう。芸術性とは真逆に反戦映画を作りだす彼の作品をモートは全く買っていない。そんなフィリップの作品がマスコミに持てはやされるものだから益々モートは面白くない。

そんなストレスからかこの地へ来てからモートは奇妙な夢や幻想を見るようになる。それはまるで彼が愛したモノクロの映画の一場面のよう。それからというもの体の調子が思わしくない彼はサンセバスチャンへ来ている友人のプロデューサーから診療所を紹介してもらった。診療所で出会ったのは美人の女医ジョー。一目で年甲斐もなく心がときめいてしまったモートは体調に異常なしとの診断を貰ったのに、それから何かとかこつけて診療所を訪れるようになった。生憎ジョーは既婚者であったがモートは彼女の抱える問題を知ることになる。ジョーの夫は芸術家で自堕落な生活を送る浮気性な男。そんな彼女をモートはドライブに誘い出す。すっかり意気投合した二人はサンセバスチャンの名所を回り充実した一日を過ごすのだが...。

 

映画の好きな人間は長い人生の中ほんとにどっぷりつかってしまう時期があります。好きで好きでたまらない時期。その時が人生の一番の充実期だと思える時。主人公モートリフキンにとってそれが50年代、60年代のフェリーニやルルーシュ、ベルイマン、ゴダール、トリュフォーといったヨーロッパの名称たちが跋扈してた時代なんやろうね。まさに映画は芸術だって言うような時代。一時期流行したヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の時代とでもいうんかな。自分の場合はやっぱり70年代後半から80年代。それはアメリカが必死でベトナムの悪夢から抜け出し新たなるヒーローが生まれた時代。それはかつてのジョンウェインやゲーリークーパーのような正統派のヒーローから「ダーティーハリー」や「ランボー」のようなアウトロー的なヒーロー、傷を背負ったまさに「汚れた英雄」の時代かな。そう言えばこの作品にも出てきます。新進気鋭の映画監督フィリップがジョンフォードやハワードホークスと言ったまさに英雄を創り出したハリウッドの骨太監督らを師事していると言ったところでモートが激怒するシーン。ヨーロッパのヌーヴェルバーグの監督らとは真逆なんですよね。フォードやホークスはまさに映画は娯楽。「観ている者を楽しませるぞっ!」と意気込む監督さんたち。別に悪くはないんですよ。自分はどっちかって言うとこっちの方が好き。けどウッディアレンの作品の質を観ると真逆ですよね。ヌーヴェルヴァーグの旗手たちを師事しているって言うのがよくわかります。

だからその辺を観ているだけでも自分は無茶苦茶、興味深くて面白いんやけどね。今の若い映画ファンにフェデリコフェリーニって?ジャンリュックゴダールって?フランソワトリュフォーって?なんて言ったって知らん人多いでしょ。そんな名前並べられたって退屈でしょ。うちのスタッフの大学生の息子はウッディアレンだって知らんていうとったもん。ウッディアレンが年とってからヨーロッパへ飛び出しているのはそんな先人たちへのオマージュなんやろね。けど彼の場合はそこにユーモア、コメディといったスパイスが加味されてます。だから独特。

一時、彼が50代から60代くらいの頃かなしょっちゅうアカデミー賞にノミネートされた時期がありました。けど彼はいつもハリウッドには来ません。授賞式には出ません。その頃何してんのかって言うとニューヨークの自宅でヴァイオリンを弾いてるそうです。一芸に秀でた方はやっぱり「変人」です。けどそんな「ハリウッド」がなんぼのもんじゃ言って精神が彼の「ニューヨーク派」って呼ばれる所以なんやろね。