私はこの40年以上飲まなかった日が一日もないという立派な?アル中ながら、首から下はどこも悪い箇所がないという健康優良爺である。

 これは毎日のアルコール摂取量を度数換算により計算して、少なくとも月平均では飲み過ぎないように気を付けているからかもしれない。
 なお酒はワインと日本酒以外はだいたい度数が高いほど美味しい(特にビールとウィスキー)が、度数が高いものは大量に飲めないので結局はハイアルコールのものを飲む方がトータルアルコール量は抑えられるようである。

 というわけで酒は強くないが強い酒は好きな自分の飲み方(下記ブログに書いたように混ぜるためにできた酒はないと開高健から聞いたことも影響しているかも)

 

 

は健康にいいと思っているのであるがさあどうだろうか。

 なお酒を飲んだ方が健康にいいという統計データ?をよく見るが、これは酒を飲めるほど健康な方(私みたいな)と体が弱くて飲めない方を同列に比較しているからであって、原因と結果を取り違えている。
 酒が健康にいいはずはなく、まあだいたい旨いものは体に悪いとしたものである。

 ただ古稀が近付いてきた現在では、酒量は40台の頃の6割程度になった。
 特に下記のブログに書いたような一人でバーに行くことが、最近ではほぼなくなったのは、日常生活であまり張り詰めた時間を過ごすことがなくなって3rd place的な場所が必要なくなったのかもしれない。

(2011年11月26日 作成)バーの愉しみ
        
 バーで酒を飲んで何が愉しいのか?

 私はこの何十年飲まなかった日が一日もなかったという立派な?アル中だが、それは純粋に酒が旨いと思っているからであって別に酒を飲む雰囲気が好きというわけではない。むしろ本当に好きな酒なら自室で味わいながら飲みたい。



 バーの大きな愉しみといえば、カウンターでマスターや隣の客などと会話を愉しむということであろうし、常連として通う店でも、また見知らぬ国の見知らぬ街の見知らぬ店で見知らぬ方々と交流するのもいいものである。
 しかし会話こそがバーで必須の愉しみかというと、ただ腰をおろしてぼんやりと時間を過ごすだけというのも一日の終わりになぜか癒される時間である。

 バーには酒の種類が豊富だし、カクテルなど素人には作れないものも飲めるからいいかというとそうでもない。
 私は基本的にどんな酒もストレートなので、カクテルはあまり飲まないし名前もほとんど知らない。またバックバーに飲んだことがない酒がずらりと並んでいる中から選ぶのは愉しいものであるが、これは経営的な側面からは店にとっても客にとってもお勧めできない。
 というのは珍しい酒をずらりと並べようと思うと在庫費用がとんでもなくかかり、売れ残りも発生する。バーでストレートで酒を注文するとカクテルやビールを飲むよりはるかに割高になるのはこのためである。



 私がこれまで訪問したバーで最もモルトの数を揃えていたのは赤坂見附の裏通りにある店で、バックバーに約700本。置ききれないのでマスターの自宅にあと500本あるとか。この数になるとオフィシャルはほとんどなく、大半はボトラーズものなので説明を聞かないと何が何だかわからないが、65%程度のカスクなどはごろごろしていてまさに宝の山である。
 元編集者のマスターは闘病生活中で、余命いくばくもとブログで公表しながら店に立っている姿は壮絶で潔い印象であったが先日ついに代替わりした。客の数から考えてかなりの量はマスターが自分で飲んでいたのではないだろうか。

 スコットランドは訪問したことがないが、英国でもこれほどモルトの品揃えがそろった店は見たことが無い・・・という以前に品揃えの多さに拘った店そのものがないような気がする。

 バーボンも良質のものは日本でしか飲んだことがない。
 水質の影響かバーボンの産地とクレーの産地は一致しており、アトランタで買収した事業所向けのクレー採掘の関係から十数年前にケンタッキー・テネシーを走り回ったときのこと。(下記ブログ参照)

 

 

 西部劇にでも出てきそうな(画像下は19世紀のウェスタン・サルーン)メインストリート1本の両側にしか街らしきものがないという田舎町でバーも1軒だけ。バーボンは樽詰めのハウスバーボン?1種類のみ。銘柄を聞いたが“それはバーボン(笑)”というだけで銘柄もヘチマもない。



 フランスのド田舎で、ラベルも貼っていないハウスワインマグナムボトルがどんと目の前に置かれ、好きなだけ自分でついであとは目分量で飲んだ量を計算するというのと同じ感覚であり、日本人は少し贅沢なのかもしれない。

 ただしビールだけは生のタップが数多く立っているのを見ると嬉しくなり、生ビールのサービスというのは原則的に売れ残りが生じないことを前提としているので価格に跳ね返らない。
 私の生涯アルコール摂取量の約70%はビールからであるが、昔はビールといえば英国とベルギーに限ると考えていて、特に英国訪問時に嵌ってしまい(下記ブログ参照)、

 

 

上面発酵エールを求めて当時流行っていたアイリッシュパブ・ブリティッシュパブによく訪問するようになった(下記ブログ参照)。

 


 しかし最近の日本の地ビールの発展は日本酒醸造の技術力があるからか目覚しいものがあり、今では日本のビールは世界一といえると思う。
 ただそういう地ビールメーカーは小資本であり、上面発酵ビールの欧州大手ブリューアリーに比べると運賃を差し引いても価格競争力がない(ビールは他の酒に比べると装置産業という側面が強い)のが難である。

 私がこれまで訪問した中で生ビールタップ数のMAXはインディアナポリスの裏通りにあるバーで四十数本立っていた(現在は画像下の両国・ポパイが100本ほど立っていて、個人経験の最高記録)。大半は米国の地ビールであり、米国ビールといえば水みたいな不味いビールの代表という先入観があるが、案外米国は個性的なマイクロブリューアリー大国なのである。



 そして最近私の地元でも三十本ほど立っているバーが開店した。ほとんどは日本の地ビールで10%以上のものも何本かそろえており、リアル用のハンドポンプも3本ある。こんな田舎に大丈夫かと思ったがかなりの盛況であり、こういう店が増えれば日本のクラフトビールの将来は明るいと思う。

 バーでは会話が無くてもぼんやり過ごすだけでもいいという話に戻ると、そのぼんやりのBGM?としてライブ演奏というのもいいものである。
 シカゴの場末のブルースハウスやNYはハーレムにあるジャズバーは短期滞在中何晩か続けて通ったが、完全にBGMに徹していて存在感を主張しないのがいいと思った。(下記ブログ参照)

 

 

 なおハーレムというのは危険で寂れたスラム街ではなく世界中から観光客が来る繁華街であるが、裏通りのそのバーなどはマスター・客・演奏者がすべて黒人で“らしい”雰囲気であった。

 またバーというのはそんなに価格が高くないというのも大きなメリットである。
 私はカラオケに興味がないのでスナックという業態の店には絶対に行かないのだが、場末のスナックよりもどんな高級店であってもバーの方が安心して飲めるだろう。

 これに対してバーの価格面での不満という点ではチャージの問題がある。
 チャージのような不明朗なものを請求されるのは不愉快だというのではなく、その逆にチャージをもっと高くして酒の単価を安くしてほしいと思う。
 バーの経費のうち、酒の占める割合はほんの一部だと思うのに、5杯飲む客は1杯しか飲まない客の5倍の料金というのは不公平ではないのか?
 これを解決するにはチャージを思い切り高くすれば良い。ただしこれを極端にすると飲み放題の店になってメチャクチャになるだろうから、チャージと平均酒代が同じくらいというのがちょうどいいバランスではないだろうか。

 こんな方針のバーはないかと思っていたら最近みつけた。隅田川を見下ろす高層マンションの一室にある看板もないプライベート?バー。
 4ショット頼むとチャージと同じくらいの料金で、トータルするとその場所柄の相場よりはるかに安い。もっともこの料金体系だと客がなかなか帰らずローテーションしなくなるが、そのバーは元々そういう経営方針で、マニアックな会話を長時間まったりと愉しむというのがコンセプトだからそれでいいのである。

 何だか主題(そんなものがあるのか?)から外れたとりとめもない話になってしまったが、とってつけたような結論でバーの一番の愉しみとして“人との出逢い”をあげたい。

 バーのカウンターで偶然隣合せにならなければ、絶対に出逢う可能性がなかったような方と知り合ったり、顔と名前くらいしか知らなかった方とバーで飲んで親しくなったり・・・中には一生の付き合いになるような方も。

 なぜバーだとそういうことになるのか? 東海道線の座席で隣同士になった場合(笑)ではダメなのか-さすがにどんな美女が隣に座っても声をかける勇気?はありません。

 理由はわからないがそれがバーの雰囲気というものであろうし、そういう雰囲気が濃厚である店が、少なくとも私にとってはいいバーである。

(2011年11月27日追記)
 そういえばケンタッキー・テネシーの19世紀から操業している鉱山でクレースラリーを巨大な木製の樽に入れて貯蔵しているのを見たことがある。ウィスキーのように樽の中で寝かす効果は全くないが、ポリやステンレスのタンクが出現するまでは実用的な方法だったのだろうし、バーボンの産地だけに樽の製造技術も優れていたのだろう。(下画像はバーボン樽)



 欧米の樽は中央が膨らんだ構造であるが、日本の樽は桶の大きなものであるのでストレートな構造である。どちらも職人の高度な手作業であり、和樽の方が芸術的ともいえる精緻な構造であるが、大型化に向くのは洋樽である。

(2011年11月28日 追記)
 なおウィスキーの色は樽からの抽出成分であり、蒸留酒に色がついているはずはない。
 ということは醸造酒を寝かすのとは意味が違うのであるから、樽の成分を添加すれば短期間で高級酒を作ることはできないのか? もっと極端に言えば蒸留工程も省いて工業用アルコールに旨み成分?みたいなものを加えるのはどうか。


 誰もそんなことを研究しないのは、そうやって作った人工酒?は何かニセモノというイメージでせっかく資金をかけて研究しても高く売れそうにないからか。嗜好品であるからイメージも大事なので・・・というか酒が旨いと感じること自体が酒造メーカーの刷り込み戦略に乗せられているだけかもしれない。

 SFの1ジャンルとしてのヒロイックファンタジーは1910年代のバローズの火星シリーズから始まり、1930年代の米国でパルプマガジンの流行に乗ってその全盛期を迎え、代表作としてはハワードのコナンシリーズが挙げられる。(画像下はコナンを描いたウィアード・テイルズ誌の表紙)



 当時の大恐慌の時代を背景とした現実逃避の要望に応えるという意味があったものと思われ、現実から完全に逃れるなら宇宙や異世界を舞台にするのが好都合というわけである。
 またこのジャンルではエロチックな表現や挿絵を売り物にする場合も多く、米国ではコムストック法をはじめ検閲が厳しいため、いやこれは現実とは無関係な異世界のファンタジーなんですよという言い訳という意味もあったと思われる。

 ヒロイックファンタジーは大恐慌が収まり第二次大戦に至る中で衰退していったが、1960年代から再流行が始まり、その中心がバランタイン・ブックスで、私もたくさん買ったが紙質が悪いペーパーバックなので今はもうボロボロである。

 そしてその中でも異彩を放っているのがジョン・ノーマン(1931~)によるゴルシリーズであり、その出版歴を下記する。

1 Tarnsman of Gor (1966) ゴルの巨鳥戦士(1975)
2 Outlaw of Gor (1967) ゴルの無法者(1977)
3 Priest-Kings of Gor (1968) ゴルの神官王(1979)
4 Nomads of Gor (1969) ゴルの遊牧民(1982)
5 Assassin of Gor (1970) ゴルの暗殺者(1982)
6 Raiders of Gor (1971) ゴルの襲撃者(1988)
7 Captive of Gor (1972)
8 Hunters of Gor (1974)
9 Marauders of Gor (1975)
10 Tribesmen of Gor (1976)
11 Slave Girl of Gor (1977)
12 Beasts of Gor (1978)
13 Explorers of Gor (1979)
14 Fighting Slave of Gor (1980)
15 Rogue of Gor (1981)
16 Guardsman of Gor (1981)
17 Savages of Gor (1982)
18 Blood Brothers of Gor (1982)
19 Kajira of Gor (1983)
20 Players of Gor (1984)
21 Mercenaries of Gor (1985)
22 Dancer of Gor (1986)
23 Renegades of Gor (1986)
24 Vagabonds of Gor (1987)
25 Magicians of Gor (1988)
26 Witness of Gor (2001)
27 Prize of Gor (2008)
28 Kur of Gor (2009)
29 Swordsman of Gor (2010)
30 Mariners of Gor (2011)
31 Conspirators of Gor (2012)
32 Smugglers of Gor (2012)
33 Rebels of Gor (2013)
34 Plunder of Gor (2016)
35 Quarry of Gor (2019)
36 Avengers of Gor (2021)
37 Warriors of Gor (2022)
38 Treasure of Gor (2024)

 米国での出版は1966年からで現在まで38巻、邦訳は6巻まで出たところで当局の圧力により?(あるいは自主規制か?)刊行が中断された。
 というのはこのゴルシリーズはヒロイックファンタジーとしてのエロチックな側面を強調したものであり、特にヒロインが奴隷(鋼鉄の首輪に太腿には焼き印)にされてO嬢の物語でいうところの“奴隷状態の幸福”(下記ブログ参照)

 

 

を満喫(ヒロインの一人称表現も数巻で採用され傑作が多い)するというワンパターンのストーリーであるためである。

 そのため米国では“political correctness”という立場からのある種の社会的弾圧により、1980年代末からノーマンの著作が絶版になったり新作が出なくなったりしており、出版社や図書館(米国では超大口の購買者)などに圧力がかかったらしい。
 米国という国は一見自由なようで、マッカーシーズムが一時吹き荒れたように、ある政治的な動きが主流になると、これに反対する立場の者は徹底的に社会的な弾圧を受ける傾向がある。これは政府による“公的な”弾圧・迫害ではないだけにいっそうやっかいで、弾圧された側は復権が難しい。

 しかしながら、ノーマンに関してはインターネットの普及はこのような弾圧を跳ね返して復権する原動力になったようで2010年代からは電子書籍での出版が中心となっている。(下記ブログ参照)

 

 

 確かに本というメディアはその出版・流通・閲覧の過程において様々な利害関係を有する団体が関わっているためにその調整が難しいが、各人がダイレクトにつながるインターネットはそのような枠を軽々と超えてしまう。

 個人的には1975年の邦訳第一巻を読んで完全に嵌ってしまい、米国でのペーパーバックス新刊出版をリアルタイムで追いかけ始めた。出版社がバランタイン・ブックスからDaw Booksに移る頃の話であり、その頃はまだ書店の店頭に本が並んでいた。当時SFのペーパーバックスに力を入れていたのは東京では新宿・紀伊国屋と高田馬場・ビブロスであり、最初の頃の本はほとんどその両書店から買っていた。


 それからしばらくして、SFブームがやってきてゴルのようなマイナーな?本は店頭に置くスペースがなくなってしまったので書店で注文するようになった。
 そして現在のインターネット時代に慣れた方には想像もつかないであろうが、当時は世界のすべての出版物がリストになった世界大百科事典のような数十巻の本というかカタログがあり、その中から選んで本を注文するシステムになっていた。

 しかしながら上記の米国での弾圧により新刊が出なくなったため、26巻の Witness of Gor (2001)までに10年余りのブランクがあり、その間に熱が冷めてしまった。
 まああまりにもストーリーがワンパターンであるという理由もあるのだが、そのワンパターンの美学(笑)を愉しむために一応はまだ新刊が出れば購入する程度のファンではあり、27巻以降は紙の本(どの巻もペーパーバックで1000ページ以上はある)ではなく電子書籍で買うことにして、しかも最近の数巻は積読状態(電子版だから積めないのだが)で読む気力がわいてこない。

 若い頃なら英語の超大作を読むのに特に不便がないどころかエロスの表現は英語の方がハードボイルド風の趣がある(下ブログ参照)

 

 

と感じていたのだが、さすがに1000ページ以上のワンパターン怪作(笑)はもういいやという感覚であり、邦訳出版の再開を期待しているのだがまあ無理だろうな。

 日本では創元社が第7巻まで版権を取得していたはずであるが、結局は反地球シリーズとして第6巻まで刊行されただけでその後絶版になっている。
 下画像は第4巻“Nomads of Gor”の、バランタインと創元のカバーアートであり、作者はBoris Vallejo と加藤直之で、日米のこの種イラストの第一人者といえるだろう。

 



 特に創元のカバーアートは日本の出版社としてはかなり“攻めた”ものであり、当時はかなり力を入れていたと思われるのに、その数年後に撤退というのはこれも何らかの圧力がかかったのか?
 私はかつてこの問題に関して創元社に質問状(表現の自由云々と大上段に構えたのではなく単なる一ファンとして)を送付したことがあるが、結果は当然ながらナシのつぶてであった。

 これは今考えて見ると、“圧力”というほどではなく、米国で大問題になっているみたいだから、とりあえずトラブルは避けようという“自主規制”に近いものではなかったかと思う。
 まあたいして売れなかったので、日本人のメンタリティーにはあわないという単なる“営業的”判断かもしれないが…

 かつてゴルシリーズはSF小説ではなくSM小説だとして米国で弾圧されたのであるが、日本は比較的SM関係の出版には寛容であるものの、日本人好みのSM(典型例は団鬼六)とはかなり趣向が異なっている。
 欧米のBDSMの主流は”支配と服従“(Dominance & submission)であって、日本的な羞恥心に訴えるSMとはかなり異なっている。これはグレコローマン時代からの長い奴隷制の歴史がある欧米と単一民族で四民平等が原則である日本の違いであろうが、結果的にゴルシリーズは日本ではあまり受け入れられなかった。

 これに対して海外では無数のファンサイトが立ち上がるなど熱狂的なファン(Gorean)が多く、コスプレどころではなく現実のライフスタイルで実践しているコミュニティーが世界中にあるなどカルト的人気を誇っていて、ノーマンはサドやラヴクラフトを超えた存在と認識されつつあるようだ。

 そして日本ではSとかMとかいうのは女子高生レベルでも一般的に使われる普通の用語になってしまったが、欧米ではslaveとmasterかと真逆に解釈されるかもしれないのでご用心。絶対に誤解を受けないのはD(Dom, Dominant)とs(sub, submissive)であり、ゴルのような社会や、カップル・文芸作品ならMDfs(Male Dominant & female submissive)と表現する。
 この表現はLGBTQにももちろん対応可能であり、例えばMDmsは日本のコミックの人気ジャンルとなっている。

 私がゴルのファンになったのは感受性が欧米的というか考え方が欧米人に近いためからかもしれず、これは仕事でも役に立ったこともあった(下記ブログ参照)。

 

 

 ただし人生をトータルで考えれば日本に住んで日本人との人間関係が最重要な日本人である以上、あんまり“得な”性質とは云えないかな。

 タイは東南アジアでは唯一植民地化を免れた国であり、現在も比較的政治は安定しており国民性も穏やかである。
 その大きな理由として中国系住民の現地タイ人との同化がこの数百年うまくいっていることが挙げられ、これは現在の世界情勢の大きな不安定要因である中国の膨張に対して何らかの解決策を示しているように思われるので、十数年前に書いたブログを以下に引用する。

(2011年10月06日 作成)
        
 日本三大チャイナタウンといえば横浜中華街・神戸南京町・長崎新地(当然ながらすべて湊町)であり、まさに中国人好みの極彩色の別世界であり異国情緒を味わうことができる。
 しかし世界三大チャイナタウンといってもあまりピンと来ないのは、日本のように少数民族である場合ではなく、シンガポールのような国民の大半が中国人であれば町や国全体がチャイナタウンになってしまうため、これをチャイナタウンといっていいかどうか微妙だからであろう。



 異国情緒を感じさせるという意味では私は横浜中華街とマンハッタンのチャイナタウン(画像上)がベストだと思うが(行った事がないサンフランシスコのチャイナタウンを観ればここがベストだと思うかも)、もう一つあげるとすればバンコク・ヤワラー地区のチャイナタウン(画像下)かと思う。



 しかしここは横浜のような完全異国情緒型でもなく、かといってシンガポールのような街全体がチャイナタウンというわけでもない、何か周囲の街とのバランスが微妙な位置づけであり、これはタイにおける中国人の微妙なポジションによるものであろう。

 ウン十年前、私はバンコクからチェンマイに向かう国道1号線沿いのとんでもない田舎町に2ヶ月ほど滞在していた。その田舎町の郊外にできた工業団地に提携企業(資本参加はしていたがマイノリティー)の工場があったからである。

 田舎町でも料理が美味しいのは感激であり(もっともタイ料理が口に合わない人は地獄だろうが)、日本ではいや世界中どこでもこんな田舎に行けばありえないようなハイレベルのレストランが多い。これはタイではどんな貧乏人でも食事は外食が当たり前であるので競争が激しいからで、これは料理のマスプロダクション化によるコスト削減を考えれば合理的な習慣といえる(逆に家で食事ができるというのはコックを抱えているような金持ちの贅沢)。



 もっともタイ料理が口に合わない人にとっては地獄だろうが、私は元々タイ料理が大好きであり、特にパクチーにははまってしまった。レストランではボウルに山盛り(上画像はイメージ)でサービスされるのをあらゆる料理に料理が見えないくらい手づかみでぶっかけて、さらにお代わりボウルをもらうのを常としていた。
 しかし驚いたのは席に着くなり客は箸や取皿を備え付けの紙でゴシゴシ拭き始めることであり、これはバンコクの一流半クラスのレストランでも同じであったことから、これがタイの当時の衛生水準だったのだろう。ただし今では田舎でもこんなところは見なくなったので、これをやると店を侮辱したと思われるのでご用心。

 なお衛生面で一番怖いのはエイズであるが、品行方正(笑)にしていれば問題なく、エイズ菌は耐性が弱いので、エイズの方を刺した蚊にその直後に刺されても大丈夫・・・と聞いたが真偽は保証できない。

 またその町は10車線くらいの国道1号線で真っ二つに分断されているのであるが、驚いたことに街中に信号とか横断歩道とか陸橋とかは一切ない。ということはこの道を渡るのは命がけであり、滞在期間中に工場へ向かう車から5-6回車にはねられた死体?を見たが、警察が来るまで誰も付いておらずそのままにしてあるらしい。

 さてその提携先の企業であるが、所謂財閥系の企業であり、事務方・技術方はほぼ全員が中国系であった。タイの財閥のほとんど(全部?)は中国系であるためである。

 


 またタイは王室も中国系とつながりが深く、現在のチャックリー王朝の先代で首都をアユタヤからバンコクに移し暁の寺として有名なワットアルン(画像上)を建設したタクシン王は純中国人であった。しかしながらここが微妙なところであり、タクシン王の臣下であった現王朝初代のラーマ1世は反中国のタイ人に担がれて、アユタヤ系王朝の血を引いていることから即位したのであるが、現在に至るまで現王朝は親中国系と看做されており、中国系財閥と王室は強く結びついている。



 これに対して純タイ人?の勢力はというとこれは軍がその基盤となっている。
 したがって王室-財閥―中国系 VS 純タイ人―軍 というのがその基本対立軸であり、例えばムエタイ(キックボクシング)のスタジアム・興行・ランキングは王室系のラジャダムナン(画像上、一度見に行ったがちょうどチャンピオンカーニバルみたいなものが開催されており、全階級のタイトルマッチがすべて判定でKOは1試合もなかったのはタイ人は打たれ強いからか)と軍系のルンピニーとに完全分離している。
 またその提携企業にも勢力のバランスをとるためか数人の軍からの出向者?(実質的には仕事はしていない)が上層部にいたが、全員が純タイ人であり完全に人種によりすみわけられているのが面白かった。

 しかしこのタイ人と中国人たちには微妙な感情の齟齬はあるものの(そのあたりの調整能力を買われてのタイ出張だったわけだが)他の東南アジア諸国にあるような華僑と現地人の対立のようなものはないように感じた。
 これは彼らは中国人といってもタイにほぼ同化しているからであり、名前もチャンドラ何とかというようなヴェーダの主人公みたいだし中国語を話せる方も少ないようである。また現代タイ人で中国系の血が混じっていない方はないという説もあり、タイ人と中国人との融和は世界のどこよりもうまくいっているように感じられる。

 現代において中国(人)の膨張は世界の大きな緊張要因のひとつである。いや世界どころか中国国内においても漢族と少数民族の対立はチベット等で大きな問題となっている。私の勤めている会社の中国事業部門の代表は中国国籍のウィグル人であるが、彼が中国人(漢族)に抱いている感情は酒を飲んで本音が出るようになるとよくわかる(ウィグル名門の出でイスラム教徒だから親兄弟の前では飲めないそうだが)。
 これは漢族が発祥の地である中原から周囲の民族を同化しながらどんどん拡がっていく過程(下記ブログ参照)

 

 

で数千年にわたって繰り広げられた軋轢であるが、そろそろ限界にきているように感じる。

 そしてその解決策としてタイの国のあり方はいい方向を示しているように思える。
 タイは微笑みの国といわれているように何か落ち着ける雰囲気がある。例えば百数十年の伝統を誇るオリエンタルホテルはロビーに座っているだけ(文字通り”だけ”で1バーツも使っていない)でもホスピタリティを感じて落ち着くのは、世界のこの種ホテルは通常は張り詰めた空気感があるのと対照的である。
 といってもタイで仕事上付き合う”タイ人“はほぼ全員中国系なのであるが、彼らが世界中どこへ行ってもうるさく自己主張が強い中国人とは思えないイメージで、にっこり微笑む(特に女性が)のは何かほっとさせられる。

(2011年10月07日 追記)
 何故タイでは中国人が現地に同化したのかは不思議なところであって、中国語も話せないというのは他国の2世・3世にはよくあるが、名前も現地風(インド風なのはタイはインド文化の影響が濃いためで暗号みたいなタイ文字もサンスクリット文字のバリエーション)で、第一中国(人)に対する帰属意識が全くない。
 だけど中国人なのははっきりしていて顔はタイ人とはっきり違うし、むしろ本物の?中国人より日本人に近く、日本人と見分けがつかない方も多勢・・・ということは日本人も(中国系)タイ人と間違えられることがしょっちゅうある。

 これはなぜかというのは非常に難しく私にもよくわからない。移住してからの歴史が長いといっても、インドネシアなどは何百年たっても華僑VSインドネシア人の対立は消えないし、華僑は絶対に現地にはとけこまない。
 一つ考えられることはタイが周辺大国であったクメールやビルマと戦いながら(下記ブログ参照)

 

 

勢力を拡大していく過程において、タイ人と中国人が協力しながら戦ってきたという歴史的経緯だろうか。まあそれを言い出すとそれではどうして他の国では協力できなかったんだということにもなるが、それはタイをとりまく当時の情勢がタイ人・中国人の双方にとって協力することが好適だったということではないかと思う。

(2011年10月8日追記)
 余談であるがマクルックというタイ将棋を指しているところを、社員食堂で1度だけ見た。縁台将棋みたいな雰囲気だったが、見たのはそれ一度だけでありあまり盛んではなさそう。
 ベトナムの中国将棋のレベルは本家に匹敵するみたいで、ハノイの旧市街では縁台中国将棋を指している方をよく見たのでタイでも流行りそうなものなのに全く話を聞かないのは、やはり中国系タイ人はもはや中国人とは別物になっているのであろう。



 なお日本では縁台将棋は既に見られなくなったが、縁台チェスは結構世界中で盛んでNYのワシントンスクエア(この近くにチェス専門の古書店があり掘り出し物をゲットしたことも)は映画の“ボビーフィッシャーを探して”(画像上)で取り上げられたように大勢が愉しんでいる。
 なお縁台碁というのはあまり聞かないが、映画の“ビューティフルマインド”でジョン・ナッシュ(ゲーム理論でノーベル賞、演じたのはラッセル・クロウ)がプリンストン大学のキャンパスで愉しんでいたのは実話らしい。

 古稀が近づいてきた私のブログはどうしても過去を懐かしむ記事が多くなってくる。
 Japan as No1の時代に青壮年期を過ごした(下記ブログ参照)

 

 

私にとっては日本が世界最先進国であった時代を思うと情けない・・・と悲観的になっているヒマはなく、何とかこの時代を生き抜かなければならない。
 囲碁でも昔は我ながら・・・と嘆いていてもしょうがないので、何とか今の弱くなった自分でも(下記ブログ参照)

 

 

・・・といっても勝負がついてしまうものは難しいかな。
 しかし世の中の大半のことは勝負がつかないのであるから、こんな年齢・こんな時代であっても何とかしなければならないと、3年ほど前に書いたブログを引用する。

(2022年07月15日 作成)
 コロナは収まる気配もないが、誰も気にしなくなって渡航制限も撤廃され、年の半分近くは海外という生活が始まった。素材開発と知的財産権の(自称)コンサルタントなんて要は自営業であり、海外にしかいない顧客を訪問しなければ干上がってしまう。

 2年前に40年以上のサラリーマン生活を卒業(要はクビですな)した時は、次はひょっとしたら海外かもと思ったが、予想以上に国内からは全く声がかからず日本の地盤沈下により急激に職場がなくなりつつあることを思い知らされることになった。

 平成元年には世界株式時価総額ランキングで20社中14社が日本の企業であり(現在はトヨタがBEST50にギリギリ入る程度)、バブル絶頂期には山手線内側の土地価格が全米の土地価格以上だったという時代は今は昔である。



 コロナ前には京都どころか日本中どんな田舎へ行っても外国人観光客だらけであったが、これは日本が素晴らしく魅力的な国であるから・・・というよりも、日本の経済力の衰退により、日本がとてつもなく“安い国”になってしまったからである。つまり観光地で中国語や韓国語ばかり聞こえるということは、中国人や韓国人にとってさえも日本は物価が安い国になってしまったのだ。
 このように日本が安い国になってしまったことは、国内にいる限り給料だけでなく物価も安いのであまり気にならなかったが、昨今の円安・物価高のダブルパンチにより今後は一気に問題になってくるだろう。

 このような状況を失われた30年(10年ほど前まで失われた20年と云っていたものであるが、10年後には・・・)という表現がよく使われるが、この30年で日本の給与収入がほぼ横ばいなのに比べて、他国は数倍に上がっているのであるから、これは逆転しても当然である。



 そして現在は国による価格の差というものがほとんどなくなりつつあるように感じている・・・日本以外は。
 例えば私は“20$,200$,20万$の法則”と名付けているが、世界中の主要都市(NYのような極端に物価が高い都市を除く)においては、平均的なランチ代が20$、ビジネスホテル宿泊料金が200$(ただしビジネスパートナーにホテルでピックアップしてもらう場合は安く見られないためにもっと高いホテルに泊まる方が良い)、給与所得者の年収の最低限が20万$というのが、先進国・発展途上国を問わず常識的な金額になっている。

 これは日本国内の平均的な金銭感覚の約2倍というところだと思う。
 その中でも給与所得者の年収20万$というのは日本では役員にならないとまず手に入らない金額であるが、海外では最低限が20万$であって、これに職種や経験実績によって+αがつくことになる。
 もちろんこれは給与所得者の大半とか平均とかいう数字ではない。あくまで“グローバルに通用する人材・ポジションであれば”という前提であり、そういうポジションなら世界でも給与はだいたい均一化されつつあるようだ。

 そしてこの点こそが日本が失われた30年だかで世界に大きく後れをとってしまった理由だと思う。
 日本のサラリーマンの終身雇用制度・全員ほぼ一律の給与制度(同期の新入社員で役員一歩手前まで昇進した方と終身ヒラ社員の生涯年収は大差ない)の悪平等は向上心をそぐ結果になっており、生産性を上げようという気持ちを失わせてしまう。工場の生産性ばかり上げても間接部門(というか工場の自動化によって日本のメーカーの勤務者の大半は間接部門に属するようになった)の生産性を上げないと意味がないのである。
 いや生産性を上げるなんて生ヌルイ言葉ではなく、今の仕事を半分以下の人員でこなせば、残りの人員はもっと創造的な仕事や独立起業などのパイを大きくする業務に関わることができる。

 この状況はいつまで、失われたウン十年はいつまで続くのか。
 青壮年期に”Japan as No1”の時代を過ごし、世界中どこへ出かけても世界最先進国から来たと遇された経験もしてきた(例えば下記ブログに引用するように

 

 

中性子線吸収セラミックスの研究成果をペンタゴンで中性子爆弾に対する防衛構想としてプレゼンした時には世界の平和は日本の技術が護りますと大言壮語してもまあそうだろうなという雰囲気だった)私としては非常に歯がゆいし、若い世代のためにもぜひ日本には立ち直ってもらいたいものである。

 ・・・などという無責任な評論家みたいなこれまでの内容と矛盾しているようであるが、本音を言えば私は日本がこのまま没落してもやむを得ないのかなと考えている。
 ただしそれは“優雅な没落”であるという条件付きであるが。

 均一社会・差が付きにくい社会というのは考え方によってはガツガツせずに皆が精神的に落ち着いた暮らしができるということであり、これは結構暮らしていく上では価値が高いのではないだろうか。
 特に私のように古稀が近付いてきた(いや本当はまだまだなのだが、私も最近は享年100歳で先年亡くなった母の年齢に逆サバを読む心境がわかってきた)人間にとっては、もう上昇志向(特に生涯の趣味である囲碁では上昇志向どころか参加することに意義があるというオリンピック精神になってしまった)もそれほどなくなったし、それよりも日常生活を落ち着いて愉しみたいという気持ちが強くなった。
 海外からの誘いは多いが、もう世界の最先端で勝負できるだけの気力・体力はなくなってきたし、現在のようにベースは日本で過ごし呼ばれれば海外にという生活は現在は性に合っているようだ。

 英国史でいえば、エリザベス1世からナポレオン戦争までの興隆期200年、第一次大戦までの絶頂期100年、そして現在まで続く没落期100年を私の一代で体験できたようなもので、これはなかなかいい経験になったかもしれない。



 ただしその没落期がミケシュ曰くの“優雅な没落”である必要があり、英国は没落してもまだ尊敬されるべき国としての体面を保っているし、日本もそして私個人もそういう側面を持ち合わせたいものである。

(2022年07月16日 追記)
 海外企業にコンサルのために訪問するようになってまず気が付くのは、彼らは日本企業に比べて非常に少人数で会社を運営していることであり、知見が不足している場合には私のような外部の人間を入れて補っている。
 これでは日本の給料は上がらないし、私の顧客も海外にしかいないのは当然ということかな。

(2025年6月14日 追記)
 3年前のブログを引用して読み返してみたが、当然ながらこの3年分だけ事態は悪化している。
 しかしまあこんなものでいいかと考えるようになってきたのは単なる諦観ではなくそれだけ悟りの境地(笑)に近づいた・・・なんてことは全くなく、今日も生涯現役などと嘯いてジタバタしている。

 サッカーワールドカップに日本代表は8回連続出場で、昔の初出場が悲願だった頃(というかさらに昔はワールドカップの存在そのものがあまり知られておらず、予選不出場の時代も)から随分強くなったものである。

 以前はアジア予選でなかなか韓国には勝てなかったが、最近では日本の方が“格上”感があり、アジアでは最強と見做されるようになってきた。

 

 本大会での最高成績はbest16が4回であるが、その中でも前回2022年大会は優勝候補のスペイン・ドイツを破ったのが記憶に新しい。

 その大会はちょうど海外でのコンサルタント業務が一番忙しい時期(下記ブログ参照)

 

 

で、時差ボケと戦いながら中継を観ており、当時のブログを引用する。

 

(2022年12月02日 作成)

 WCでは日本がスペインを破り1次リーグ突破を果たしてお祭り騒ぎになっている。(画像下は決勝点となった“VAR弾”で日本にとってラッキーだった)

 

 

TVで観ていてもほとんどの時間にスペインがボールを保持していて、日本のボール保持時間は18%ということでWC史上最低のボール支配率勝利チームだったそうである。ドイツ戦も似たようなものでありこんなことで勝てるのかと心配になるが、実はボールを支配してパス回し(日本全体のパス回数を一人で上回るスペイン選手もいた)の中からチャンスをうかがうポゼッションサッカーと少ないチャンスで一気に逆襲するカウンターサッカーは単なる戦術の違いであって、これほど極端なのは珍しいにせよよくある試合展開である。

 

 という前にWCとはワールドカップの略語で、水洗トイレ(Water Closet の略語であるが日本以外ではまず通じない)でもなければ超硬合金(ガンダムの世界ではなくタングステンカーバイドでありタングステンがWなのはドイツ語から)でもない・・・とつまらない雑学であるが私は両方の業界に関わった経験がある。

 またワールドカップではラグビー・クリケット・アルペンスキーが大規模大会(バレーボールで盛り上がっているのは日本だけ)であるが、やはり単にWCといえば世界最大のスポーツイベントとしてサッカーを指すことが多い。

 

 もっともサッカーというとsoccerではなく世界の普通の人にはsuckerを想起させるので、フットボールという方が無難であり、ポゼッションというのもBDSMの世界ではかなりきわどい用語で・・・というような下ネタはキリがないのでこのくらいにして。

 

 元の話に戻るとスペインがポゼッションサッカーの本場となったのはそんなに昔のことではなく、元々はオランダのクライフがトータルフットボールを標榜してバルセロナの選手・監督として一時代を築いて以来である。

 そして1974の西独ワールドカップ(私が最初に観たWCであり、当時の日本はボールをゴール前に高く蹴りこんで押し寄せる所謂百姓一揆サッカーの時代でとても出場できるようなレベルではなかった)では、クライフ率いるオランダが完璧なポゼッションサッカーで完勝を続け、決勝の西独戦でも開始1分もたたないうちに西独選手が一度もボールに触れることすらできないうちに1点を先制した。

 しかしながら結局は西独のカウンターサッカーの前にゲルト・ミュラー(西独代表試合数よりも得点数の方が多い)に決勝ゴールを奪われて1-2で敗れている。(下記ブログ参照)

 

 

 

 というわけで私の印象としてはポゼッションサッカーは技術が必要なので格上のチームでないとなかなかできないのだが、最後にはカウンターサッカーに足をすくわれることが多いという気がしており、これはサッカーというゲームの特徴ではないだろうか。バスケットやラグビー、そしてだいたいの球技ではボールを支配している方が勝つことが多いのであるが、サッカーは最後のゴールが難しいのでカウンターによる逆襲の方がチャンスを作りやすい。

 そして少なくとも今後の日本の相手は格上のチームばかりとなるのだから、この奇跡の?2勝で魅せたのと同様の戦い方になるだろうし、勝ち進むチャンスもある・・・かもしれない。

 

 それにしてもこれまでの3試合の開始時刻は日本時間の22時、19時、4時であり、次のクロアチア戦は0時であるから不規則な時間帯になって大変・・・では全くない。

 私はこの2年ほど海外にしかいない顧客を相手に素材開発と知的財産権の(自称)コンサルタントとして、最近は年の半分は海外暮らしで日本にいる時もTV会議で深夜早朝は当り前という生活が続いており、時差による体調不良をそれほどは感じなくなった。

 またどんな時間帯でも眠れるし(これにはこの40年以上欠かしたことがない酒の力が必須で、朝昼飲みができる馴染みの店も増えた)、睡眠を2回に分けてとることも不自然ではなくなった。

 

 したがって仕事とかぶらない限りTV観戦には全く問題なく、幸運なことにスケジュール表を見ると決勝まで進んでも(笑、いや笑ってはいけないが)日本の試合を見逃すことはなさそうである。もっともそのうち3試合は海外で観ることになりそうだが。

 

 そしてこの習慣はNY株式市場の開場が23時半から6時まで(サマータイムは22時半から5時まで)というのにもピッタリ嵌ってしまい、特に現在の乱高下が続く相場では毎日目が離せなくなってしまった。

 意識が朦朧としてミスクリック(特に海外ではPCではなくスマホを使うので危ない)をしなければいいのだが・・・

 

(2022年12月3日追記)

 来年前半に大暴落という評判だが、本当に大暴落が来るか?

 私もそう思ってドル現金(MMFで運用)を握りしめてチャンスをうかがっているのだが、もし来なければ絶好のチャンスを逃しているわけで・・・

 

(2022年12月04日 追記)

 韓国も勝ってほっとした。

 今のコンサルティング先に韓国の会社があり、サッカーの話題もよく出るので日本だけが勝っていると微妙な雰囲気になるところだった。

とはいえもし次も両チームが勝つとその次はちょうど韓国に滞在しているので・・・ブルブル

 

(2025年6月11日追記)

 結局ワールドカップは日本韓国ともbest16止まりであり、史上初の日韓本大会対決は実現しなかった。

 韓国では囲碁の話もよくするが、私が学生の頃指導感覚で訪韓した時代(下記ブログ参照)

 

 

から大きく変わって韓国が日本を追い越すことになってライバル意識が薄れてしまったのはちょっと悲しく、それに比べればサッカーでは・・・

 2023年の米国株は大暴落どころか大躍進の年となり私もコンサルティングによる収入に迫るほどの恩恵を受けた。2024年も同様であったが、今年2025年こそ本当に暴落が来る・・・かも。まあ相場の予想は誰にとっても不可能なのであるから、手堅い株をホールドしながら暴落時に買えるように現金(MMFや換金性の高い債券)も準備しておくのが王道であり、下がる前に売り上がる前に買うというのは神様でもない限り不可能であろう。

 世界の3大祭りといえばリオのカーニバル・ミュンヘンのオクトーバーフェストは当確としてもう一つは色々候補があるが、私はロデオの祭典であるカルガリースタンピードだと思う。
 そして日本には同様の馬が主役の祭りとして相馬野馬追があり、その規模と歴史は世界に誇れると思うが、2011年の大震災の直後の開催となった時期に書いたブログを引用する。

(2011年05月30日 作成)
    
 毎年7月末に行われる“相馬野馬追”は原発のすぐ近くが会場であり、大津波による大被害もあって開催が危ぶまれていたが、予定通り行われることが決まったようだ。
 震災の影響で何でも自粛ムードが拡がっていたが、これは復興には全くのマイナスであり、被災地も含め経済を活性化させるためにどんどん消費すべきという当り前のことがようやく実行されるようになったシンボルとして喜ばしいことである。


 私は学生時代に当時郡山に住んでいた親戚に案内されて野馬追を見物する機会があり、その雄大さに感動した。おそらく大半の日本人は相馬市のことを大震災のニュースで初めて知ったくらいだと思うが、これがもし有名な観光地での開催ならば日本最大規模の祭りとしてとんでもない数の観光客を集めているだろう。



 相馬野馬追(画像上)は500余騎の騎馬武者が走り回る勇壮・壮大さで知られている。その歴史は少なくとも江戸時代初期まで遡れるが、藩主相馬氏の祖とされる平将門が軍事教練をしたのが起源という説もある。なお将門は福島県とは関係ないようだが、相馬という地名は下総の国、千葉県と茨城県の境界あたりにあり、領主である房総平氏の一族が頼朝時代に陸奥に授けられた領地を同じ地名としたのが起源である。なおこの陸奥相馬氏は明治維新まで続き、薩摩の島津氏と並んで世界史上でも珍しく長期間領主として統治した一族である。

 馬を軍事用途に用いるというのはスキタイ人やモンゴル人のような有史以来の全員騎兵という遊牧民族を除いては、まず戦車に用いることから始まった。



 戦車に乗り込むのは御者が一人に弓兵が一人ないし二人であり機動力はあるものの車輪で走れる平坦地でしか使えなかった。これが乗馬術の進歩や鐙の発明により遊牧民族以外でも騎兵というものが出現したが、馬は維持費が高価であり、乗馬術の習得にも費用がかかるため必然的に戦士の中でも上層階級しか用いることができないというのは日本でも欧州でも武士階級や騎士階級として同様であった。



 なおここでいう乗馬術というのは戦車と同様の攻撃力を発揮すべく騎射の技術が最重要であり、世界の2/3を征服したモンゴル騎馬軍団は騎射軍団であったし、日本では流鏑馬が行われるのも単なる遊戯ではなくそれが騎兵の本質というべき技術だからである。


 またこれは騎兵に限るものではなく、銃砲の出現以前から世界のあらゆる地域・時代において戦場の主役は飛び道具であって、例えば源平時代の合戦での死傷者の大半は矢傷によるものであったという研究もある。

 まあ動物を狩るのは誰でも飛び道具を使うのであるからこれは人間相手の戦争でも同様であり、また人間感情としてface-to-faceの白兵戦は怖いので離れたところから勝負ということになるのは当然ともいえる。

 これが新大陸になると、馬という超絶的新兵器をもって現われたスペイン人に対して中南米のインカやアステカなどの中央集権国家は正面から戦って壊滅してしまう。その敗因として馬を見たことがなかった彼らは乗馬姿の白人を見て人馬一体の新生物=伝説の神と勘違いしたという説もある。


 ところが北米では幸か不幸か中央集権国家を形成できなかったアメリカインディアン(矛盾した用語だが)は逆に馬を受け入れてゲリラ抗戦を続けることになる。

 西部劇に出てくるインディアンはまさに人馬一体の乗馬の達人であるが、その馬はもちろん彼らの伝統にはなく白人から受け入れたものである。なお馬や銃はもちろんであるが、頭の皮を剥ぐという西部劇ではおなじみの残虐行為も、フレンチアンドインディアン戦争などで同盟する英国またはフランスに“戦果”をカウントするために白人側が教えたやり方らしい。

 新大陸特に北米の乗馬文化の特徴は旧大陸のそれが上層(戦士)階級の嗜みであるのに対して開拓者・一般庶民の生活の一部であるということに尽きる。またその主役であるカウボーイたちは社会的には上層階級どころかむしろ下層の階級に属している。



 その乗馬文化の華ともいえる乗馬術(画像上の乗牛術?も含む)を競うロデオは北米では重要な祭典であって、各地で開催されている。
 そのロデオの祭典の中でも最高峰といえるのが、毎年7月にカナダ・アルバータ州のカルガリーで行われるカルガリースタンピード(画像下)であり、地上最大の屋外ショーとも呼ばれ、世界中から150万人!程度の観光客を集める。



 私は数年前に自分の研究の売り込み先が同地にあったので訪問したことがあり、そのときにちょうどこのカルガリースタンピードのシーズンにあたっており見物することができた。なおわざわざそのシーズンに合わせて訪問したのではないかと思われるかもしれないが、それは邪推というものであくまで偶然(笑)である。
 巨大な会場では日本でもお馴染の暴れ牛馬に乗りこなすだけでなく、馬車競争や馬上からの投げ縄の技術を競ったりという様々な競技があり、北米でもトップクラスのプロロデオプレーヤー(女性も多く、女性種目や男女混合種目もある)たちの妙技を愉しむことができた。

 なお世界の3大祭りといえばリオのカーニバル・ミュンヘンのオクトーバーフェストは当確としてもう一つは色々候補があるが、私はこのカルガリースタンピードだと思う。
 オクトーバーフェスト(画像下)は私も数年前に“偶然(笑)”仕事で滞在していたときに訪れる機会があったが、延べ600万人の観光客を集めるとされている。ただ会場の混雑度から推定して、成田山新勝寺の初詣人数みたいに盛り過ぎじゃないの?とも思うが、入場自由なのでカウントも難しい。その点カルガリースタンピードはチケットの売上げ枚数なので1名単位まで正確である。



 相馬野馬追はその規模や歴史から考えて、内容の工夫次第ではカルガリースタンピード並みの大フェスティバルになる可能性があると思う。
 不幸なことではあるが相馬は今回の津波で全国的に知られたし、また世界に名を轟かせてしまった“フクシマ”県内にある。なおこういうことになるならば、福島原発などという名前ではなく地元の村か地域の名前でも付けておくべきであった(チェルノブイリは人口数万人程度の小さな町)と思うが、今さらしようがない。
 この不幸を逆にバネとして復興を図るべく、相馬野馬追はぜひ盛大に開催してほしいし、全国いや世界から観光客を集めて、東北が元気に再生している姿をアピールしてほしいものである。

 そしてその野馬追とセットにして、廃炉になった福島第一原発などはむしろ観光資源として活用してはどうだろうか。
 不謹慎と思われるかもしれないが、原爆ドームは広島の一番の観光名所になって世界遺産にまで登録されているではないか。


 そのモニュメントは原爆ドームのように人間の愚かさの象徴のような位置付けとなるかもしれないし、また逆にこれを契機に原発の安全対策が進む世界のエネルギーの中心となる礎となった記念碑のようなものになるかもしれない。私は後者だと信じているが、さあどうなるだろうか。

(2011年05月31日追記)
 未曽有の大災害に負けずせっかく相馬野馬追が開催されるのですから,ぜひ見に行って被災地にお金を落としましょう。
 お祭りですから大いに騒ぐべきであり、被災地のボランティアが酒盛りするのを不謹慎だなんて批判した方もいたようですが、物事の本質を理解していないですね。

(2011年05月31日 追記)
 なお相馬氏の当主は今も健在で麻生元首相の妹と結婚しているそうである。その縁で麻生氏は最初に被災地入りした国会議員だとか。
 野馬追は毎年この当主を総大将?にかついで開催されるらしいが、ここをもっと宣伝した方がいいかもしれない。将門の子孫で1000年以上の歴史というのを強調するとか。
 なお将門は中世以来(奥州も含めた広い意味での)関東の守護神のようなイメージでとらえられたきたが、明治維新以来逆臣とされたのが最近になって神田明神の祭神として復活するなど復権の動きが見える。

 また神田のあたりは由緒ある一帯・地名で、その歴史は家康入府をはるか遡る。
 将軍塚(将門首塚)がなぜここにあるかについては、下記ブログ参照。

 

 


(2025年6月7日追記)
 最近、青木健の”アーリア人”を読んだが、騎馬民族の歴史を判り易く解説している。
 著者はイラン系アーリア人の特にゾロアスター教を専門にしている学者であるが、遊牧文化の始まりが紀元前10世紀頃のこの民族であり(牧畜は農業より古いが遊牧というのはごく最近の文明)で軍事的に卓越することで世界史を一変させたことを論じている。
 軍事力に優れた騎馬民族というとモンゴル人・トルコ人をすぐにイメージするが、実はアーリア人(その代表はスキタイ人)がその先駆者であるがその特質ははるか昔に失われたというのは目から鱗であった。

 アマチュアの囲碁大会は、日本では三大棋戦と呼ばれるアマ名人戦、アマ本因坊戦、世界アマ日本予選が年に一度行われ、まずは県代表にならないと全国大会には出場できないのであるが、残念ながらここ10年以上一度もなれていない。

 年齢的に考えてももう出場できない可能性が高いので、このあたりで過去の記録を整理してみると・・・

 

 県代表歴は19回(神奈川県7回、福岡県12回)で、全国大会のベストスコアは5位(即ちベスト8)が世界アマとアマ本因坊で2回というのがその結果で、おそらくはもう増えないだろうから(特に私が現在住む神奈川県は全国最激戦区)これがライフタイムの戦績ということになるだろう。

 

 この程度でアガリかというのは大いに不満であるが、客観的に自分の実力を考慮すればまあこの程度・・・というか競争が激しい競技を選んでしまった時点で(よほどの天才でもない限り)最初から結果は見えていたのかもしれない。

 囲碁人口は世界で4000万人程度であり、日本でも私が最も入れ込んでいた頃の800万人からはずいぶん減ったもののまだ200万人程度はいて、この頂点に立つというのは気が遠くなるような・・・ということに若い頃は全く気付かなかった。

 

 当然ながら競技人口が少なければトップに立てる可能性は高く、極端な例でいえばオリジナルの競技を考案して自分一人しかプレイしなければ直ちに世界チャンピオンになることができる。

 

 

 プロであれば競技人口と収入はだいたい比例している(その頂点がサッカーとバスケットで上画像はメッシとコービー・ブライアント)ので、あえて競争が激しくない分野を選ぶのは意味がないが、名誉(というより虚栄心か)だけが目的のアマチュアならどうだろうか?

 

 ただし職業人の世界では競争を避けるためにあえて専門とする人が少ない分野を選ぶことは“楽して得する”戦略である。

 

 私が専門にしているのはセラミック分野の中でもスリップキャスティングと呼ばれ、これはセラミックス粉体と溶媒を混合したスリップを多孔質型に流し込み、型が溶媒を吸収してスリップを固化させることにより、大型複雑形状の製品を製造する技術である。

 

 この技術分野では私は世界の第一人者と自称しているのであるが、これを専門にしている方は世界で100人もいない(というか旧い技術であって該分野の大御所的な方々は死に絶えてしまった)ので、究極の低競争分野かもしれない。

 

 もちろんそれだけ専門家が少ないというのは需要がそれほどないということも意味しており、この数十年は半導体製造装置分野(特に露光機)への応用で盛り上がっていたもののそのブームも終わりつつあるようだ。

 したがってその“需要”は非常に偏っていて、世界でも私の知見が役に立ちそうなのは十社程度であろうし、40年以上のサラリーマン生活をやめてフリーランスのコンサルタントになって5年になるが、徐々にその需要を食いつぶしつつあるのはタコが自分の足を食べるようなものか。

 

 

 まあ私も古稀が近くなったのでそれほど“先”はないし、今さら需要が増えても体力・気力がついていかないだろうからこの程度でいいかとノンビリ構えている・・・とはいえ何か話が来ればダボハゼみたいに飛びつく元気はまだ残っているが。

 

 このスリップキャスティングを専門にしたのは全くの偶然であり、サラリーマン生活の5年目くらいに偶然迷い込んだ研究室にK氏(定年退職後に顧問として残っていた)が一人ぽつねんと座ってドイツ語の文献を読んでおり、何となく雑談をしているうちにその研究室に居ついてしまった。

 いくら牧歌的時代であってもあまりにもいい加減な話であるが、社内での私は変人で通っていて勝手にすればという雰囲気だったし、K氏はスリップキャスティングの専門家としておそらく後継者を探していたのだろう。

 

 したがってあの時偶然K氏(後に結婚式の仲人もしてもらった)に出会わなければ現在の私はないわけであるが、まあ人生とはこんなもので偶然に支配されているのかもしれない。

 

 というわけで偶然専門にしたスリップキャスティングの分野は私にとっては大正解であり、もし競争が激しい花形分野に進んでいたら私の能力では途中でつぶされていただろう。

 

 これに対して囲碁は・・・若い頃からやらないと強くなれないことを知っているので小学生時代に教えようとした両親が諦めた中学生になってから自ら始めたのであるが(下記ブログ参照)、

 

 

ゲーム廃人状態になるほど入れ込んでもやはり遅すぎた。そして競争が激しい分野はヘタレの私には荷が重く、“楽して得する”戦略からは最悪の一手を打ってしまったようである。

 

 ただスリップキャスティングも囲碁も進歩の速度が遅い分野であることは私にとって幸いだった。

 スリップキャストの技術が最も進歩したのは欧州の19世紀でその理論化も1950年代にほぼ終了している。

 囲碁の技術進歩は日本の元禄から天保にかけて顕著で、その時代の大名人たちの棋譜は今も強くなるためには重要な研究対象である。最近のAI囲碁は確かにはるかに人間を凌駕しているが、それを人間が活用してレベルが上がったかというと人間の能力の限界からかそうでもないようだ。(下記ブログ参照)

 

 

 

 これに比較するとコンピューターの分野では数年前の技術は既に時代遅れである。私の学生時代は現在のスマホ程度の能力にすら遠く及ばない最先端のコンピューターは一つのビルであり、そのプログラムはパンチカードに打ち込んでリヤカーで運んでおり(したがってプログラム容量の単位はキロバイトではなくキログラム)、こんな分野を専門にしてしまった方は本当に大変だと思う。

 

 また将棋では囲碁とは異なり序盤の研究によりほとんど勝負が決まってしまうので昔の棋譜を研究するのは(強くなるためには)全く意味がない。特に最近のコンピューターの進歩によって、“研究はソフトが示す手順(その当時の技術での最善手順であって、その最善は日進月歩)を暗記しているだけです”という渡辺明名人(当時)のぶっちゃけコメントにあるように、昔体得したテクニックはほとんど意味がなくなっている。

 

 まあこういう競争視点で物事を考えるというのはどうしても他人と比較してしまうのであまり幸せにはなれないかもしれない(恋愛における競争視点も同じ?)。

 とはいえそれらを超越して自分らしく生きれば良いと達観する境地に達するのはまだまだというか死ぬまで無理かな。

承前

 

 


(2009年07月21日 追記)
 ドミニク・オーリーはこの一作品でその文名が末永く残るでしょうし、文学の歴史における巨匠としての位置付けは今後ますます確固たるものになっていくと思います。そしてこのような決定版というべき新訳が出たのもその一環と云えそうです。
 しかし発表当時はおそらく本人も含めてこのような事態になることは想像していなかったのではないでしょうか?

 それに比べるとジャン・ポーラン(1884-1968)は当時のフランス文壇のドン?として巨大な存在感があったのでしょうが、今では…あるいはもう少し経てばオーリーの恋人として彼女をインスパイアしたというのが主たる業績(笑)ということになってしまいそうです。(下写真は中央がジャン・ポーラン、右がドミニク・オーリー)



 続編のロワッシーへ帰還が正編に比べるとトーンがあまりにも違うので、駄作だとか著者が違うのではないかという噂もあるのは、このような両者の立場の変化がオーリーの筆致に影響したのだと思います。

 文学の一作品の影響というのは怖いですね。
 紫式部は今では世界史上の偉人ですが、当時は彼女など問題にしていなかったであろう帝たちや藤原一族などは一千年も経てばあまり知る人もいなくなりました。

(2009年08月22日 追記)
 正編?と続編のロワッシー再びで、一番変化しているのはスティーヴン卿の扱いです。
 正編では理想的な、少なくともOにとっては理想的なDomとして映ったスティーヴン卿は、続編ではこの物語の登場人物としては例外的にくわしくそのアイデンティティーが紹介されます。
 その真の姿は、ビジネスのやり方や生き方などがかなりいかがわしいものであり、クランキャンベルの出身という出自すら、あのスチュアート王家を裏切ることにより栄誉栄華を手に入れた一族の末裔という書き方です。

 これは明らかにジャン・ポーランに対するこの正編と続編との間の15年間(その間にポーランは死亡)のドミニク・オーリーの感情の変化に対応していると思います。
 これはオーリーの人間としての、また正編が大成功を収めることによっての成長によるものであり、要は相手の人間としての底が見えてしまったということでしょう。なおポーランは戦中・戦後の立ち回り方などを考えるとかなりの“やり手”(あまりいい意味ではなく)であり、そのあたりも影響しているかもしれません。

 しかしながら成長したオーリーは続編として傑作を書いたかというと残念ながら逆であり、歴史に残る傑作が書けたのはポーランを熱烈に想っていたときだけでした。
 オーリー自身それはわかっていたでしょうし、そういう意味では続編の中で一番重要なのはその頃の自分を懐かしんで?書いた序文の恋する娘の部分でしょうか。

 Oの頭文字はゼロからとったという説がありますが、そういう意味ではSir Stephen H. のHも同様に発音しないという意味で名無しさんというような意味かもしれません(フランス語では通常Hは発音せず、ヘンリーはアンリに、橋本はアシモトになる)。なおクランキャンベルでキャンベル(Campbell)を名乗るのは当主一族だけのようで、城持ちのクランキャンベルというのは10家族もいないでしょうからあるいはHが付く一族というのは調べればすぐわかって何かを暗示しているのかもしれません。



 またOは腰にSHの焼印(上画像は映画版のbranding scene)を捺されますが、これも焼印にはループのあるデザイン(A,B,Dなど)は用いないという鉄則に沿っており、オーリーは登場人物のネーミングにはかなり気を遣ったような気がします。

(2011年01月08日 追記)
 Second Lifeのようなバーチャル空間におけるBDSMでは、最近ではsubの人気が高くDomのなり手が少なくて困っているようです。
 バーチャル空間の話なら、いやリアルの世界においてもかもしれませんが、subの方が面白そうで“お得感”があるのでしょうし、そういう時代になってきたといえるかもしれません。

 Oの序文に、澁澤訳では”かつてOのようになりたいと思わない女性などいただろうか”という部分があり、その後の訳もすべて澁澤訳にならっていました。
 ところが高遠新訳によると、これは単純な澁澤の誤訳であって、”かつてOのようになりたいと思う女性などいただろうか”と正反対に訳さなければならないそうです。
 そういう意味では澁澤誤訳は時代を先がけていた(笑)のでしょうが、この新訳によりこれまで見えてこなかった本来のOの世界が見えるようになってきたといえるかもしれません。

 高遠弘美は次はいよいよライフワークとしてプルーストの”失われた時を求めて”の個人全訳にとりかかるようで、全14巻のうちの第1巻がこの間刊行されました。巷ではプルーストの受容史を変えると大変な評判になっています。



 ドミニク・オーリーはこの大長編小説が次々と刊行されていくのを子供時代にリアルタイムで経験した世代であり、彼女が文学の世界に入るきっかけとなったのがこの作品である・・・といった内容が高遠新訳Oの後書きにはいろいろ書かれています。
 だからOとプルーストには云々といえるほど私はプルーストを読んでいませんが、これはちょっと従来の訳では敷居が高すぎたからであり、こちらの方の高遠新訳にも期待しています。

(2025年6月1日 追記)
 10数年ほど前に書いたこの書評モドキのブログを読み返してみたが、この本の関係者との思い出(あの頃は私もまだ若く色々と・・・)がよみがえってきた。

 最近の研究では続編のロワッシー再びはやはり別人作という説が有力視されているようだ。

 高遠弘美(1952~ 男性です)の失われた時を求めては14巻中第6巻まで刊行が進んでいるが、2018年以降の刊行がなく、どうも出版社の方に色々事情がありそう。

 ジュスト・ジャカンは2022年に死亡。エマニエル夫人が監督デビュー作で、本作が2作目であったが、それ以後はあまり・・・

 BDSMに特化したSNSの世界では2008年創立のFetLifeによる寡占化が進んでおり、会員数は1000万人前後(日本は数万人)のようだ。

 2009年に書いたブログの引用部分がです・ます調になっているのは、他会員とのやりとりを基調とするサイトで発表したため。

(承前)

 

 

 

(2009年07月14日 追記)

 高遠新訳の最大の特徴はその乾いた文体であり、淡々とした描写はポルノグラフィのハードボイルドというような感触になっています。

 

 日本語というのは語彙・表現力が豊富であるため、作家や訳者はつい過剰な装飾・技巧を凝らしやすいところがあり、特にポルノグラフィのような微妙な?分野においてはそのような傾向が顕著です。

 しかしながらそのような装飾過剰の文章で真のエロチシズムを感じることができるかというとそれは極めて疑問です。

 

 これまで仰々しい表現が多かったミステリの分野で、1920年代米国にハードボイルドと呼ばれる作品群(下画像)が登場してはじめてこの分野の文学性?が認知されたような、また真に良質なホラー小説はおどろおどろしい表現ではなく淡々とした描写が恐怖感を生むようなものでしょうか。

 

 

 例えばOのピアスされたlabia minorを皆で鑑賞?している以下のような描写はどうでしょう

 “毛を剃ったから小陰唇までよく見えるんだ。(中略)あなたのがこんなにふっくらしていて、こんなに上まで割れ目になっているなんて思わなかったわ”“でも、みんな…”“いや、そうじゃないんだよ、O。みんながこうじゃない。”

 

 ここだけを読むと何という解剖学的に(笑)露骨に過ぎる表現かというような気がしますが、巻頭から淡々とした描写が続きこの種のシーンでもそのトーンは変わらず乾いた文章がずらずらと(段落変更がほとんどなく、そこがまた雰囲気が出ています)並んでいくと、その中にえもいわれぬエロスを感じさせます。この種の表現では上品にぼかそうとすればするほどそのぼかそうとする意識そのものの品のなさが目立ってくるものですが、このようにストレートに書いてしまうと潔い凛とした気品のようなものを感じさせます。

 要はエロティックな部分を特に身構えるのではなく、日常の一部のように淡々と描くことによりかえってそのエロチシズムが強調されるといいましょうか…

 

 Oの物語は、ポルノグラフィという枠を超えて第二次大戦後の文学(フィクション)史上最高の傑作だと思います。

 

 モーツァルトやベートーベンの音楽のレベルを現代音楽は超えることはできないと思いますが、その時代にはなかった電気の力を借りてやや違った方向での存在感を現代音楽は主張しています。

 

 同様に19世紀から20世紀初頭の文学界の巨人たちの作品(小説)を現代作家は超えることは難しいでしょうが(音楽のように音の組み合わせが限定されているわけではないので不可能とは云いませんが)、その当時は社会的な制約から不可能だったエロチシズムを扱う分野なら、また違った方向での大傑作が期待できそうです。

 

 高遠新訳はその大傑作のエロチシズムを“生で”味わうことができる記念碑的な作品に仕上がっていると思います。

 

(2009年07月20日 追記)

 スティーヴン卿の原型については、ジャン・ポーランをモデルにして著者とOの関係を重ね合わせたのだろうと思っていましたが、なぜ英国人という設定にしたのかはよくわかりませんでした。(下画像は映画版のスティーヴン卿とO)

 

 

 外見的なモデルのイメージ(第二部の序文に少し触れられている)なのか、鞭を好むビクトリア朝以来の伝統を想起させるつもりか、それともOが卿に紹介される初日に卿が自らのことを語る“私は毎日ここにいますし、そもそも習慣とか儀式といったことが好きだから(And besides, I’m fond of habits and rites…)”という科白にあわせたのか…いずれにせよフランス人の眼から見たステレオタイプの英国人イメージからだろうと思っていましたが、新訳のドミニク・オーリーの紹介を読んで、そんな単純な理由ではなかったことに気付きました。

 

 スティーヴン卿はポーランとオーリー自身の父の両方からインスピレーションを得て創り上げられたキャラクターのようで、そこでブルターニュ(ケルト)系であるオーリーの家系と、幼い頃から父方の祖母の下でケルト文化に親しんで育ったという経歴が関わってきます。

 

 そしてスティーヴン卿は英国人といってもイングランド人ではなく、(ケルトの血が濃い)スコットランドのハイランダーであり、多くのハイランドクランがスチュアート朝の復興を目指してカローデンで滅んでいったとき、裏切ってイングランド側につくことによって大貴族として生き残ったクランの出身であるという設定になっています。

 Oの物語の登場人物は名前すら明らかにされていないヒロインをはじめその出自が紹介されることがほとんどなく、それがこの作品に幻想的なテイストを与えているのですが、その中で卿の出自だけを詳しく説明していることはこの点に著者はかなりのこだわりがあることをうかがわせます。

 

 そしてオーリーのこのような経歴はフランス文壇の重鎮でありながら、この作品のある意味フランス文学らしくない点に反映されていると思います。

 

 ところでそもそもフランス文化とは何なのか? いうまでもなくフランスとはゲルマン民族の大勢力であったフランク族が建てた国ですが、それがいつのまにかラテン民族の代表のような顔をして、言葉も宗教も料理もそしてあらゆる芸術もラテンの本場を継承したような形になっています。(下記ブログ参照)

 

 

なお現在用いられる“ラテン”というのは新大陸のスペイン植民地文化というイメージであり、本来のラテン文化とはかけ離れています。

 

 しかしフランスがラテン化したゲルマンであるというもうひとつの下の貌には、カエサルのガリア遠征以来ラテン化したケルト人としての貌があり、そのフランス人の原点の要素が色濃く残るのがブルターニュ(この名前の起源はブリテン島の語源となったケルト系のブリトン人から)だと思います。(下記ブログ参照)

 

 

 

 

 

 余談になりますが筆者のかつての仕事上の友人にブルターニュ人がいて、フランス人ではありえない姓(というか自分の親戚以外にこの姓を持つ人はいないとのこと)で、先祖は海賊、数代モロッコに移住して産を成してブルターニュに帰還という出自の方でした。そして一般的なフランス人気質とはかけ離れたメランコリックな部分があり、本人曰く“フランス人である以前にブルターニュ人”だとか。

 

 Oの物語は編集者・評論家としてレジオン・ドヌールを受勲するほど著名なオーリーが生涯にただ1冊だけ書いた小説です。

 これを匿名で出したのはもちろんその内容があまりにも過激で時代を先駆けていたからですが、それと同時にフランス文壇から離れた立場で自らのケルトの血を思い切り発散したような意味もあるような気がします。

 

(この稿続く)

 

 

 BDSM文学の世界史上に残る大傑作といえば“O嬢の物語”(1954)であることは論を待たない。



 ただし当時はまだその種文学には偏見が残っている時代であり、作者であるドミニク・オーリー(画像上・1907-1998 本名アンヌ・デクロ)はポーリーヌ・レアージュの偽名で発表し、後にフランス文壇の重鎮となる彼女が作者であるとカミングアウト?したのは1994年のことであった。



 日本に本格的に紹介されたのは1973年の澁澤龍彦訳(画像上)が最初であり、また1975年にはジュスト・ジャカン監督により映画化(画像下)されて、当時高校生から大学に入る頃であった私も強烈な印象を受けたのを覚えている。



 澁澤訳は華麗なる名文で決定版かと思っていたのだが、2009年に高遠弘美による新訳が出て、どうもこれまでの印象はかなり間違っていたことがわかってきた。
 その少し前に澁澤龍彦の回顧展が浦和であり、その中ではO嬢のことは全く展示されていなかったのでおかしいなと思ったのであるが、どうやらこの澁澤訳というのは前妻・矢川澄子の下訳に味付けした程度らしく、しかも原文のフランス語は澁澤の手に余る難解さで誤訳だらけになり、澁澤としては(というか回顧展を主宰した後妻の立場からは)この作品には関わりたくないという気持ちのようである。

 その高遠新訳に感激して以下のブログを書いたところ、本人からメールをいただいて恐縮した覚えがある。

(2009年07月11日 作成)
 高遠弘美による新訳(画像下)が学研から出ました。



“完訳Oの物語”
訳  高遠弘美
装丁 高麗隆彦
編集 幣旗愛子

 第二部の“ロワッシーへの帰還”はもちろん、本邦初訳のマンディアルグの!跋文(1975年の第二部の再版時に公開)や著者ポーリーヌ・レアージュ(ドミニク・オーリー=アンヌ・デクロ)に関するエピソードなどが盛り込まれています。

 これまで色々な訳でかなりの回数読んでいるにもかかわらず、引き込まれるような感覚で一気に読んでしまいました。
 さすがに三十数年前に澁澤訳で初めて読んだような新鮮な感動はありませんが、今初めて読んだとすると、この新訳が最高傑作であると思います。

 まずは澁澤訳以来踏襲されてきた、O“嬢”の物語というタイトルとSir Stephenを“ステファン”卿と訳す何とも居心地の悪さを感じさせる2点が訂正されています。
 そして身体の各部や具体的な行為に関するこれまでの訳ではあいまいに書かれていた部分もはっきりと原文通りに訳されています(フランス語はできないので断言はできませんが、大昔に英訳をチェックして確かめたことがあるので…)。


 そして上記とも関係するのですが、淡々として平易で“乾いた”文体で綴られていることが最大の特徴であると思います。これは澁澤の華麗で目くるめくような名文とは対極にありますが、どちらにエロチシズムを感じるかといえば、下記のブログに書いたように“真のエロスは淡々とした表現の中にある”というのが率直な感想です。

 

 

 またジャン・ポーランの序文や著者自身の第二部の序文もこれまでとはちょっと違う視点で訳されていて、なるほどと思わされます。

 それから今回読み返して気づいたのは、ジョン・ノーマンのゴルシリーズ(下記のブログ参照)

 

 

でポピュラーになったnadu positionが既にOとルネがロワッシーからサン・ルイのアパルトマンに戻ってくるシーンで描かれていることです。これはジュスト・ジャカン版の映画でもありましたが映画ではOがルネの帰りを待つシーンになっていましたのでおやと思い原作の(違う)箇所を読み返してみて、これは映画だけかなと誤解していました。

 それからドミニク・オーリーのバックグラウンドがケルト(ブルターニュ)系という点にも目を引かれました。フランス文壇にどっぷりつかった人生でありながらこの作品がある意味フランス文学らしくないというのもそのためでしょうか。

(2009年07月13日 追記)
 高遠新訳では“Oの物語”と“嬢”が取れていることと、従来訳のステファン卿がスティーヴン卿になっていることがまず違いますが、これはたかがタイトルや人名と軽くすますわけにはいかない気がします。

 Oという名前というか符号に込められた意味については百家争鳴の議論がなされているのでここでは述べませんが(私見ではドミニク・オーリーは色々な解釈が出来るようにして後世の議論を愉しむつもりであったと思います)、その象徴的な意味が“嬢”という大正時代の煽情文学のようなタイトルを付けることによって単なる人名のイニシャルになってしまっています。
 まあ澁澤もそれに気がついてはいたのでしょうが、本邦初紹介であるのであまりにもわけがわからないタイトルにしては販売戦略上まずいので妥協したということもあるかもしれません。

 しかしStephenをステファンと訳したのはあまりにも原文の雰囲気を損なっていると思います。
 これは英国人という設定だから英語風に発音してスティーヴンと訳すべきだというような単純な問題ではありません。


 スティーヴン卿の出身については、スコットランドの家柄としてその祖先のスチュアート王家との係わりなど登場人物の中では例外的に詳しく描写されていますが、ドミニク・オーリーにとってはある意味O以上に思い入れがあるキャラクターだと思います。

 それはオーリー自身の出自であるケルト(ブルターニュ)系の血の影響でもあり、自分のバックグラウンドをDomとして体現したのがスティーヴン卿ではないでしょうか。

 そういう“思い”がステファンと訳すことにより、東欧のスポーツ選手か南欧のコメディアンのようなイメージになって消えてしまうのが残念なのです。

(この稿続く)