タイは東南アジアでは唯一植民地化を免れた国であり、現在も比較的政治は安定しており国民性も穏やかである。
 その大きな理由として中国系住民の現地タイ人との同化がこの数百年うまくいっていることが挙げられ、これは現在の世界情勢の大きな不安定要因である中国の膨張に対して何らかの解決策を示しているように思われるので、十数年前に書いたブログを以下に引用する。

(2011年10月06日 作成)
        
 日本三大チャイナタウンといえば横浜中華街・神戸南京町・長崎新地(当然ながらすべて湊町)であり、まさに中国人好みの極彩色の別世界であり異国情緒を味わうことができる。
 しかし世界三大チャイナタウンといってもあまりピンと来ないのは、日本のように少数民族である場合ではなく、シンガポールのような国民の大半が中国人であれば町や国全体がチャイナタウンになってしまうため、これをチャイナタウンといっていいかどうか微妙だからであろう。



 異国情緒を感じさせるという意味では私は横浜中華街とマンハッタンのチャイナタウン(画像上)がベストだと思うが(行った事がないサンフランシスコのチャイナタウンを観ればここがベストだと思うかも)、もう一つあげるとすればバンコク・ヤワラー地区のチャイナタウン(画像下)かと思う。



 しかしここは横浜のような完全異国情緒型でもなく、かといってシンガポールのような街全体がチャイナタウンというわけでもない、何か周囲の街とのバランスが微妙な位置づけであり、これはタイにおける中国人の微妙なポジションによるものであろう。

 ウン十年前、私はバンコクからチェンマイに向かう国道1号線沿いのとんでもない田舎町に2ヶ月ほど滞在していた。その田舎町の郊外にできた工業団地に提携企業(資本参加はしていたがマイノリティー)の工場があったからである。

 田舎町でも料理が美味しいのは感激であり(もっともタイ料理が口に合わない人は地獄だろうが)、日本ではいや世界中どこでもこんな田舎に行けばありえないようなハイレベルのレストランが多い。これはタイではどんな貧乏人でも食事は外食が当たり前であるので競争が激しいからで、これは料理のマスプロダクション化によるコスト削減を考えれば合理的な習慣といえる(逆に家で食事ができるというのはコックを抱えているような金持ちの贅沢)。



 もっともタイ料理が口に合わない人にとっては地獄だろうが、私は元々タイ料理が大好きであり、特にパクチーにははまってしまった。レストランではボウルに山盛り(上画像はイメージ)でサービスされるのをあらゆる料理に料理が見えないくらい手づかみでぶっかけて、さらにお代わりボウルをもらうのを常としていた。
 しかし驚いたのは席に着くなり客は箸や取皿を備え付けの紙でゴシゴシ拭き始めることであり、これはバンコクの一流半クラスのレストランでも同じであったことから、これがタイの当時の衛生水準だったのだろう。ただし今では田舎でもこんなところは見なくなったので、これをやると店を侮辱したと思われるのでご用心。

 なお衛生面で一番怖いのはエイズであるが、品行方正(笑)にしていれば問題なく、エイズ菌は耐性が弱いので、エイズの方を刺した蚊にその直後に刺されても大丈夫・・・と聞いたが真偽は保証できない。

 またその町は10車線くらいの国道1号線で真っ二つに分断されているのであるが、驚いたことに街中に信号とか横断歩道とか陸橋とかは一切ない。ということはこの道を渡るのは命がけであり、滞在期間中に工場へ向かう車から5-6回車にはねられた死体?を見たが、警察が来るまで誰も付いておらずそのままにしてあるらしい。

 さてその提携先の企業であるが、所謂財閥系の企業であり、事務方・技術方はほぼ全員が中国系であった。タイの財閥のほとんど(全部?)は中国系であるためである。

 


 またタイは王室も中国系とつながりが深く、現在のチャックリー王朝の先代で首都をアユタヤからバンコクに移し暁の寺として有名なワットアルン(画像上)を建設したタクシン王は純中国人であった。しかしながらここが微妙なところであり、タクシン王の臣下であった現王朝初代のラーマ1世は反中国のタイ人に担がれて、アユタヤ系王朝の血を引いていることから即位したのであるが、現在に至るまで現王朝は親中国系と看做されており、中国系財閥と王室は強く結びついている。



 これに対して純タイ人?の勢力はというとこれは軍がその基盤となっている。
 したがって王室-財閥―中国系 VS 純タイ人―軍 というのがその基本対立軸であり、例えばムエタイ(キックボクシング)のスタジアム・興行・ランキングは王室系のラジャダムナン(画像上、一度見に行ったがちょうどチャンピオンカーニバルみたいなものが開催されており、全階級のタイトルマッチがすべて判定でKOは1試合もなかったのはタイ人は打たれ強いからか)と軍系のルンピニーとに完全分離している。
 またその提携企業にも勢力のバランスをとるためか数人の軍からの出向者?(実質的には仕事はしていない)が上層部にいたが、全員が純タイ人であり完全に人種によりすみわけられているのが面白かった。

 しかしこのタイ人と中国人たちには微妙な感情の齟齬はあるものの(そのあたりの調整能力を買われてのタイ出張だったわけだが)他の東南アジア諸国にあるような華僑と現地人の対立のようなものはないように感じた。
 これは彼らは中国人といってもタイにほぼ同化しているからであり、名前もチャンドラ何とかというようなヴェーダの主人公みたいだし中国語を話せる方も少ないようである。また現代タイ人で中国系の血が混じっていない方はないという説もあり、タイ人と中国人との融和は世界のどこよりもうまくいっているように感じられる。

 現代において中国(人)の膨張は世界の大きな緊張要因のひとつである。いや世界どころか中国国内においても漢族と少数民族の対立はチベット等で大きな問題となっている。私の勤めている会社の中国事業部門の代表は中国国籍のウィグル人であるが、彼が中国人(漢族)に抱いている感情は酒を飲んで本音が出るようになるとよくわかる(ウィグル名門の出でイスラム教徒だから親兄弟の前では飲めないそうだが)。
 これは漢族が発祥の地である中原から周囲の民族を同化しながらどんどん拡がっていく過程(下記ブログ参照)

 

 

で数千年にわたって繰り広げられた軋轢であるが、そろそろ限界にきているように感じる。

 そしてその解決策としてタイの国のあり方はいい方向を示しているように思える。
 タイは微笑みの国といわれているように何か落ち着ける雰囲気がある。例えば百数十年の伝統を誇るオリエンタルホテルはロビーに座っているだけ(文字通り”だけ”で1バーツも使っていない)でもホスピタリティを感じて落ち着くのは、世界のこの種ホテルは通常は張り詰めた空気感があるのと対照的である。
 といってもタイで仕事上付き合う”タイ人“はほぼ全員中国系なのであるが、彼らが世界中どこへ行ってもうるさく自己主張が強い中国人とは思えないイメージで、にっこり微笑む(特に女性が)のは何かほっとさせられる。

(2011年10月07日 追記)
 何故タイでは中国人が現地に同化したのかは不思議なところであって、中国語も話せないというのは他国の2世・3世にはよくあるが、名前も現地風(インド風なのはタイはインド文化の影響が濃いためで暗号みたいなタイ文字もサンスクリット文字のバリエーション)で、第一中国(人)に対する帰属意識が全くない。
 だけど中国人なのははっきりしていて顔はタイ人とはっきり違うし、むしろ本物の?中国人より日本人に近く、日本人と見分けがつかない方も多勢・・・ということは日本人も(中国系)タイ人と間違えられることがしょっちゅうある。

 これはなぜかというのは非常に難しく私にもよくわからない。移住してからの歴史が長いといっても、インドネシアなどは何百年たっても華僑VSインドネシア人の対立は消えないし、華僑は絶対に現地にはとけこまない。
 一つ考えられることはタイが周辺大国であったクメールやビルマと戦いながら(下記ブログ参照)

 

 

勢力を拡大していく過程において、タイ人と中国人が協力しながら戦ってきたという歴史的経緯だろうか。まあそれを言い出すとそれではどうして他の国では協力できなかったんだということにもなるが、それはタイをとりまく当時の情勢がタイ人・中国人の双方にとって協力することが好適だったということではないかと思う。

(2011年10月8日追記)
 余談であるがマクルックというタイ将棋を指しているところを、社員食堂で1度だけ見た。縁台将棋みたいな雰囲気だったが、見たのはそれ一度だけでありあまり盛んではなさそう。
 ベトナムの中国将棋のレベルは本家に匹敵するみたいで、ハノイの旧市街では縁台中国将棋を指している方をよく見たのでタイでも流行りそうなものなのに全く話を聞かないのは、やはり中国系タイ人はもはや中国人とは別物になっているのであろう。



 なお日本では縁台将棋は既に見られなくなったが、縁台チェスは結構世界中で盛んでNYのワシントンスクエア(この近くにチェス専門の古書店があり掘り出し物をゲットしたことも)は映画の“ボビーフィッシャーを探して”(画像上)で取り上げられたように大勢が愉しんでいる。
 なお縁台碁というのはあまり聞かないが、映画の“ビューティフルマインド”でジョン・ナッシュ(ゲーム理論でノーベル賞、演じたのはラッセル・クロウ)がプリンストン大学のキャンパスで愉しんでいたのは実話らしい。

 古稀が近づいてきた私のブログはどうしても過去を懐かしむ記事が多くなってくる。
 Japan as No1の時代に青壮年期を過ごした(下記ブログ参照)

 

 

私にとっては日本が世界最先進国であった時代を思うと情けない・・・と悲観的になっているヒマはなく、何とかこの時代を生き抜かなければならない。
 囲碁でも昔は我ながら・・・と嘆いていてもしょうがないので、何とか今の弱くなった自分でも(下記ブログ参照)

 

 

・・・といっても勝負がついてしまうものは難しいかな。
 しかし世の中の大半のことは勝負がつかないのであるから、こんな年齢・こんな時代であっても何とかしなければならないと、3年ほど前に書いたブログを引用する。

(2022年07月15日 作成)
 コロナは収まる気配もないが、誰も気にしなくなって渡航制限も撤廃され、年の半分近くは海外という生活が始まった。素材開発と知的財産権の(自称)コンサルタントなんて要は自営業であり、海外にしかいない顧客を訪問しなければ干上がってしまう。

 2年前に40年以上のサラリーマン生活を卒業(要はクビですな)した時は、次はひょっとしたら海外かもと思ったが、予想以上に国内からは全く声がかからず日本の地盤沈下により急激に職場がなくなりつつあることを思い知らされることになった。

 平成元年には世界株式時価総額ランキングで20社中14社が日本の企業であり(現在はトヨタがBEST50にギリギリ入る程度)、バブル絶頂期には山手線内側の土地価格が全米の土地価格以上だったという時代は今は昔である。



 コロナ前には京都どころか日本中どんな田舎へ行っても外国人観光客だらけであったが、これは日本が素晴らしく魅力的な国であるから・・・というよりも、日本の経済力の衰退により、日本がとてつもなく“安い国”になってしまったからである。つまり観光地で中国語や韓国語ばかり聞こえるということは、中国人や韓国人にとってさえも日本は物価が安い国になってしまったのだ。
 このように日本が安い国になってしまったことは、国内にいる限り給料だけでなく物価も安いのであまり気にならなかったが、昨今の円安・物価高のダブルパンチにより今後は一気に問題になってくるだろう。

 このような状況を失われた30年(10年ほど前まで失われた20年と云っていたものであるが、10年後には・・・)という表現がよく使われるが、この30年で日本の給与収入がほぼ横ばいなのに比べて、他国は数倍に上がっているのであるから、これは逆転しても当然である。



 そして現在は国による価格の差というものがほとんどなくなりつつあるように感じている・・・日本以外は。
 例えば私は“20$,200$,20万$の法則”と名付けているが、世界中の主要都市(NYのような極端に物価が高い都市を除く)においては、平均的なランチ代が20$、ビジネスホテル宿泊料金が200$(ただしビジネスパートナーにホテルでピックアップしてもらう場合は安く見られないためにもっと高いホテルに泊まる方が良い)、給与所得者の年収の最低限が20万$というのが、先進国・発展途上国を問わず常識的な金額になっている。

 これは日本国内の平均的な金銭感覚の約2倍というところだと思う。
 その中でも給与所得者の年収20万$というのは日本では役員にならないとまず手に入らない金額であるが、海外では最低限が20万$であって、これに職種や経験実績によって+αがつくことになる。
 もちろんこれは給与所得者の大半とか平均とかいう数字ではない。あくまで“グローバルに通用する人材・ポジションであれば”という前提であり、そういうポジションなら世界でも給与はだいたい均一化されつつあるようだ。

 そしてこの点こそが日本が失われた30年だかで世界に大きく後れをとってしまった理由だと思う。
 日本のサラリーマンの終身雇用制度・全員ほぼ一律の給与制度(同期の新入社員で役員一歩手前まで昇進した方と終身ヒラ社員の生涯年収は大差ない)の悪平等は向上心をそぐ結果になっており、生産性を上げようという気持ちを失わせてしまう。工場の生産性ばかり上げても間接部門(というか工場の自動化によって日本のメーカーの勤務者の大半は間接部門に属するようになった)の生産性を上げないと意味がないのである。
 いや生産性を上げるなんて生ヌルイ言葉ではなく、今の仕事を半分以下の人員でこなせば、残りの人員はもっと創造的な仕事や独立起業などのパイを大きくする業務に関わることができる。

 この状況はいつまで、失われたウン十年はいつまで続くのか。
 青壮年期に”Japan as No1”の時代を過ごし、世界中どこへ出かけても世界最先進国から来たと遇された経験もしてきた(例えば下記ブログに引用するように

 

 

中性子線吸収セラミックスの研究成果をペンタゴンで中性子爆弾に対する防衛構想としてプレゼンした時には世界の平和は日本の技術が護りますと大言壮語してもまあそうだろうなという雰囲気だった)私としては非常に歯がゆいし、若い世代のためにもぜひ日本には立ち直ってもらいたいものである。

 ・・・などという無責任な評論家みたいなこれまでの内容と矛盾しているようであるが、本音を言えば私は日本がこのまま没落してもやむを得ないのかなと考えている。
 ただしそれは“優雅な没落”であるという条件付きであるが。

 均一社会・差が付きにくい社会というのは考え方によってはガツガツせずに皆が精神的に落ち着いた暮らしができるということであり、これは結構暮らしていく上では価値が高いのではないだろうか。
 特に私のように古稀が近付いてきた(いや本当はまだまだなのだが、私も最近は享年100歳で先年亡くなった母の年齢に逆サバを読む心境がわかってきた)人間にとっては、もう上昇志向(特に生涯の趣味である囲碁では上昇志向どころか参加することに意義があるというオリンピック精神になってしまった)もそれほどなくなったし、それよりも日常生活を落ち着いて愉しみたいという気持ちが強くなった。
 海外からの誘いは多いが、もう世界の最先端で勝負できるだけの気力・体力はなくなってきたし、現在のようにベースは日本で過ごし呼ばれれば海外にという生活は現在は性に合っているようだ。

 英国史でいえば、エリザベス1世からナポレオン戦争までの興隆期200年、第一次大戦までの絶頂期100年、そして現在まで続く没落期100年を私の一代で体験できたようなもので、これはなかなかいい経験になったかもしれない。



 ただしその没落期がミケシュ曰くの“優雅な没落”である必要があり、英国は没落してもまだ尊敬されるべき国としての体面を保っているし、日本もそして私個人もそういう側面を持ち合わせたいものである。

(2022年07月16日 追記)
 海外企業にコンサルのために訪問するようになってまず気が付くのは、彼らは日本企業に比べて非常に少人数で会社を運営していることであり、知見が不足している場合には私のような外部の人間を入れて補っている。
 これでは日本の給料は上がらないし、私の顧客も海外にしかいないのは当然ということかな。

(2025年6月14日 追記)
 3年前のブログを引用して読み返してみたが、当然ながらこの3年分だけ事態は悪化している。
 しかしまあこんなものでいいかと考えるようになってきたのは単なる諦観ではなくそれだけ悟りの境地(笑)に近づいた・・・なんてことは全くなく、今日も生涯現役などと嘯いてジタバタしている。

 サッカーワールドカップに日本代表は8回連続出場で、昔の初出場が悲願だった頃(というかさらに昔はワールドカップの存在そのものがあまり知られておらず、予選不出場の時代も)から随分強くなったものである。

 以前はアジア予選でなかなか韓国には勝てなかったが、最近では日本の方が“格上”感があり、アジアでは最強と見做されるようになってきた。

 

 本大会での最高成績はbest16が4回であるが、その中でも前回2022年大会は優勝候補のスペイン・ドイツを破ったのが記憶に新しい。

 その大会はちょうど海外でのコンサルタント業務が一番忙しい時期(下記ブログ参照)

 

 

で、時差ボケと戦いながら中継を観ており、当時のブログを引用する。

 

(2022年12月02日 作成)

 WCでは日本がスペインを破り1次リーグ突破を果たしてお祭り騒ぎになっている。(画像下は決勝点となった“VAR弾”で日本にとってラッキーだった)

 

 

TVで観ていてもほとんどの時間にスペインがボールを保持していて、日本のボール保持時間は18%ということでWC史上最低のボール支配率勝利チームだったそうである。ドイツ戦も似たようなものでありこんなことで勝てるのかと心配になるが、実はボールを支配してパス回し(日本全体のパス回数を一人で上回るスペイン選手もいた)の中からチャンスをうかがうポゼッションサッカーと少ないチャンスで一気に逆襲するカウンターサッカーは単なる戦術の違いであって、これほど極端なのは珍しいにせよよくある試合展開である。

 

 という前にWCとはワールドカップの略語で、水洗トイレ(Water Closet の略語であるが日本以外ではまず通じない)でもなければ超硬合金(ガンダムの世界ではなくタングステンカーバイドでありタングステンがWなのはドイツ語から)でもない・・・とつまらない雑学であるが私は両方の業界に関わった経験がある。

 またワールドカップではラグビー・クリケット・アルペンスキーが大規模大会(バレーボールで盛り上がっているのは日本だけ)であるが、やはり単にWCといえば世界最大のスポーツイベントとしてサッカーを指すことが多い。

 

 もっともサッカーというとsoccerではなく世界の普通の人にはsuckerを想起させるので、フットボールという方が無難であり、ポゼッションというのもBDSMの世界ではかなりきわどい用語で・・・というような下ネタはキリがないのでこのくらいにして。

 

 元の話に戻るとスペインがポゼッションサッカーの本場となったのはそんなに昔のことではなく、元々はオランダのクライフがトータルフットボールを標榜してバルセロナの選手・監督として一時代を築いて以来である。

 そして1974の西独ワールドカップ(私が最初に観たWCであり、当時の日本はボールをゴール前に高く蹴りこんで押し寄せる所謂百姓一揆サッカーの時代でとても出場できるようなレベルではなかった)では、クライフ率いるオランダが完璧なポゼッションサッカーで完勝を続け、決勝の西独戦でも開始1分もたたないうちに西独選手が一度もボールに触れることすらできないうちに1点を先制した。

 しかしながら結局は西独のカウンターサッカーの前にゲルト・ミュラー(西独代表試合数よりも得点数の方が多い)に決勝ゴールを奪われて1-2で敗れている。(下記ブログ参照)

 

 

 

 というわけで私の印象としてはポゼッションサッカーは技術が必要なので格上のチームでないとなかなかできないのだが、最後にはカウンターサッカーに足をすくわれることが多いという気がしており、これはサッカーというゲームの特徴ではないだろうか。バスケットやラグビー、そしてだいたいの球技ではボールを支配している方が勝つことが多いのであるが、サッカーは最後のゴールが難しいのでカウンターによる逆襲の方がチャンスを作りやすい。

 そして少なくとも今後の日本の相手は格上のチームばかりとなるのだから、この奇跡の?2勝で魅せたのと同様の戦い方になるだろうし、勝ち進むチャンスもある・・・かもしれない。

 

 それにしてもこれまでの3試合の開始時刻は日本時間の22時、19時、4時であり、次のクロアチア戦は0時であるから不規則な時間帯になって大変・・・では全くない。

 私はこの2年ほど海外にしかいない顧客を相手に素材開発と知的財産権の(自称)コンサルタントとして、最近は年の半分は海外暮らしで日本にいる時もTV会議で深夜早朝は当り前という生活が続いており、時差による体調不良をそれほどは感じなくなった。

 またどんな時間帯でも眠れるし(これにはこの40年以上欠かしたことがない酒の力が必須で、朝昼飲みができる馴染みの店も増えた)、睡眠を2回に分けてとることも不自然ではなくなった。

 

 したがって仕事とかぶらない限りTV観戦には全く問題なく、幸運なことにスケジュール表を見ると決勝まで進んでも(笑、いや笑ってはいけないが)日本の試合を見逃すことはなさそうである。もっともそのうち3試合は海外で観ることになりそうだが。

 

 そしてこの習慣はNY株式市場の開場が23時半から6時まで(サマータイムは22時半から5時まで)というのにもピッタリ嵌ってしまい、特に現在の乱高下が続く相場では毎日目が離せなくなってしまった。

 意識が朦朧としてミスクリック(特に海外ではPCではなくスマホを使うので危ない)をしなければいいのだが・・・

 

(2022年12月3日追記)

 来年前半に大暴落という評判だが、本当に大暴落が来るか?

 私もそう思ってドル現金(MMFで運用)を握りしめてチャンスをうかがっているのだが、もし来なければ絶好のチャンスを逃しているわけで・・・

 

(2022年12月04日 追記)

 韓国も勝ってほっとした。

 今のコンサルティング先に韓国の会社があり、サッカーの話題もよく出るので日本だけが勝っていると微妙な雰囲気になるところだった。

とはいえもし次も両チームが勝つとその次はちょうど韓国に滞在しているので・・・ブルブル

 

(2025年6月11日追記)

 結局ワールドカップは日本韓国ともbest16止まりであり、史上初の日韓本大会対決は実現しなかった。

 韓国では囲碁の話もよくするが、私が学生の頃指導感覚で訪韓した時代(下記ブログ参照)

 

 

から大きく変わって韓国が日本を追い越すことになってライバル意識が薄れてしまったのはちょっと悲しく、それに比べればサッカーでは・・・

 2023年の米国株は大暴落どころか大躍進の年となり私もコンサルティングによる収入に迫るほどの恩恵を受けた。2024年も同様であったが、今年2025年こそ本当に暴落が来る・・・かも。まあ相場の予想は誰にとっても不可能なのであるから、手堅い株をホールドしながら暴落時に買えるように現金(MMFや換金性の高い債券)も準備しておくのが王道であり、下がる前に売り上がる前に買うというのは神様でもない限り不可能であろう。

 世界の3大祭りといえばリオのカーニバル・ミュンヘンのオクトーバーフェストは当確としてもう一つは色々候補があるが、私はロデオの祭典であるカルガリースタンピードだと思う。
 そして日本には同様の馬が主役の祭りとして相馬野馬追があり、その規模と歴史は世界に誇れると思うが、2011年の大震災の直後の開催となった時期に書いたブログを引用する。

(2011年05月30日 作成)
    
 毎年7月末に行われる“相馬野馬追”は原発のすぐ近くが会場であり、大津波による大被害もあって開催が危ぶまれていたが、予定通り行われることが決まったようだ。
 震災の影響で何でも自粛ムードが拡がっていたが、これは復興には全くのマイナスであり、被災地も含め経済を活性化させるためにどんどん消費すべきという当り前のことがようやく実行されるようになったシンボルとして喜ばしいことである。


 私は学生時代に当時郡山に住んでいた親戚に案内されて野馬追を見物する機会があり、その雄大さに感動した。おそらく大半の日本人は相馬市のことを大震災のニュースで初めて知ったくらいだと思うが、これがもし有名な観光地での開催ならば日本最大規模の祭りとしてとんでもない数の観光客を集めているだろう。



 相馬野馬追(画像上)は500余騎の騎馬武者が走り回る勇壮・壮大さで知られている。その歴史は少なくとも江戸時代初期まで遡れるが、藩主相馬氏の祖とされる平将門が軍事教練をしたのが起源という説もある。なお将門は福島県とは関係ないようだが、相馬という地名は下総の国、千葉県と茨城県の境界あたりにあり、領主である房総平氏の一族が頼朝時代に陸奥に授けられた領地を同じ地名としたのが起源である。なおこの陸奥相馬氏は明治維新まで続き、薩摩の島津氏と並んで世界史上でも珍しく長期間領主として統治した一族である。

 馬を軍事用途に用いるというのはスキタイ人やモンゴル人のような有史以来の全員騎兵という遊牧民族を除いては、まず戦車に用いることから始まった。



 戦車に乗り込むのは御者が一人に弓兵が一人ないし二人であり機動力はあるものの車輪で走れる平坦地でしか使えなかった。これが乗馬術の進歩や鐙の発明により遊牧民族以外でも騎兵というものが出現したが、馬は維持費が高価であり、乗馬術の習得にも費用がかかるため必然的に戦士の中でも上層階級しか用いることができないというのは日本でも欧州でも武士階級や騎士階級として同様であった。



 なおここでいう乗馬術というのは戦車と同様の攻撃力を発揮すべく騎射の技術が最重要であり、世界の2/3を征服したモンゴル騎馬軍団は騎射軍団であったし、日本では流鏑馬が行われるのも単なる遊戯ではなくそれが騎兵の本質というべき技術だからである。


 またこれは騎兵に限るものではなく、銃砲の出現以前から世界のあらゆる地域・時代において戦場の主役は飛び道具であって、例えば源平時代の合戦での死傷者の大半は矢傷によるものであったという研究もある。

 まあ動物を狩るのは誰でも飛び道具を使うのであるからこれは人間相手の戦争でも同様であり、また人間感情としてface-to-faceの白兵戦は怖いので離れたところから勝負ということになるのは当然ともいえる。

 これが新大陸になると、馬という超絶的新兵器をもって現われたスペイン人に対して中南米のインカやアステカなどの中央集権国家は正面から戦って壊滅してしまう。その敗因として馬を見たことがなかった彼らは乗馬姿の白人を見て人馬一体の新生物=伝説の神と勘違いしたという説もある。


 ところが北米では幸か不幸か中央集権国家を形成できなかったアメリカインディアン(矛盾した用語だが)は逆に馬を受け入れてゲリラ抗戦を続けることになる。

 西部劇に出てくるインディアンはまさに人馬一体の乗馬の達人であるが、その馬はもちろん彼らの伝統にはなく白人から受け入れたものである。なお馬や銃はもちろんであるが、頭の皮を剥ぐという西部劇ではおなじみの残虐行為も、フレンチアンドインディアン戦争などで同盟する英国またはフランスに“戦果”をカウントするために白人側が教えたやり方らしい。

 新大陸特に北米の乗馬文化の特徴は旧大陸のそれが上層(戦士)階級の嗜みであるのに対して開拓者・一般庶民の生活の一部であるということに尽きる。またその主役であるカウボーイたちは社会的には上層階級どころかむしろ下層の階級に属している。



 その乗馬文化の華ともいえる乗馬術(画像上の乗牛術?も含む)を競うロデオは北米では重要な祭典であって、各地で開催されている。
 そのロデオの祭典の中でも最高峰といえるのが、毎年7月にカナダ・アルバータ州のカルガリーで行われるカルガリースタンピード(画像下)であり、地上最大の屋外ショーとも呼ばれ、世界中から150万人!程度の観光客を集める。



 私は数年前に自分の研究の売り込み先が同地にあったので訪問したことがあり、そのときにちょうどこのカルガリースタンピードのシーズンにあたっており見物することができた。なおわざわざそのシーズンに合わせて訪問したのではないかと思われるかもしれないが、それは邪推というものであくまで偶然(笑)である。
 巨大な会場では日本でもお馴染の暴れ牛馬に乗りこなすだけでなく、馬車競争や馬上からの投げ縄の技術を競ったりという様々な競技があり、北米でもトップクラスのプロロデオプレーヤー(女性も多く、女性種目や男女混合種目もある)たちの妙技を愉しむことができた。

 なお世界の3大祭りといえばリオのカーニバル・ミュンヘンのオクトーバーフェストは当確としてもう一つは色々候補があるが、私はこのカルガリースタンピードだと思う。
 オクトーバーフェスト(画像下)は私も数年前に“偶然(笑)”仕事で滞在していたときに訪れる機会があったが、延べ600万人の観光客を集めるとされている。ただ会場の混雑度から推定して、成田山新勝寺の初詣人数みたいに盛り過ぎじゃないの?とも思うが、入場自由なのでカウントも難しい。その点カルガリースタンピードはチケットの売上げ枚数なので1名単位まで正確である。



 相馬野馬追はその規模や歴史から考えて、内容の工夫次第ではカルガリースタンピード並みの大フェスティバルになる可能性があると思う。
 不幸なことではあるが相馬は今回の津波で全国的に知られたし、また世界に名を轟かせてしまった“フクシマ”県内にある。なおこういうことになるならば、福島原発などという名前ではなく地元の村か地域の名前でも付けておくべきであった(チェルノブイリは人口数万人程度の小さな町)と思うが、今さらしようがない。
 この不幸を逆にバネとして復興を図るべく、相馬野馬追はぜひ盛大に開催してほしいし、全国いや世界から観光客を集めて、東北が元気に再生している姿をアピールしてほしいものである。

 そしてその野馬追とセットにして、廃炉になった福島第一原発などはむしろ観光資源として活用してはどうだろうか。
 不謹慎と思われるかもしれないが、原爆ドームは広島の一番の観光名所になって世界遺産にまで登録されているではないか。


 そのモニュメントは原爆ドームのように人間の愚かさの象徴のような位置付けとなるかもしれないし、また逆にこれを契機に原発の安全対策が進む世界のエネルギーの中心となる礎となった記念碑のようなものになるかもしれない。私は後者だと信じているが、さあどうなるだろうか。

(2011年05月31日追記)
 未曽有の大災害に負けずせっかく相馬野馬追が開催されるのですから,ぜひ見に行って被災地にお金を落としましょう。
 お祭りですから大いに騒ぐべきであり、被災地のボランティアが酒盛りするのを不謹慎だなんて批判した方もいたようですが、物事の本質を理解していないですね。

(2011年05月31日 追記)
 なお相馬氏の当主は今も健在で麻生元首相の妹と結婚しているそうである。その縁で麻生氏は最初に被災地入りした国会議員だとか。
 野馬追は毎年この当主を総大将?にかついで開催されるらしいが、ここをもっと宣伝した方がいいかもしれない。将門の子孫で1000年以上の歴史というのを強調するとか。
 なお将門は中世以来(奥州も含めた広い意味での)関東の守護神のようなイメージでとらえられたきたが、明治維新以来逆臣とされたのが最近になって神田明神の祭神として復活するなど復権の動きが見える。

 また神田のあたりは由緒ある一帯・地名で、その歴史は家康入府をはるか遡る。
 将軍塚(将門首塚)がなぜここにあるかについては、下記ブログ参照。

 

 


(2025年6月7日追記)
 最近、青木健の”アーリア人”を読んだが、騎馬民族の歴史を判り易く解説している。
 著者はイラン系アーリア人の特にゾロアスター教を専門にしている学者であるが、遊牧文化の始まりが紀元前10世紀頃のこの民族であり(牧畜は農業より古いが遊牧というのはごく最近の文明)で軍事的に卓越することで世界史を一変させたことを論じている。
 軍事力に優れた騎馬民族というとモンゴル人・トルコ人をすぐにイメージするが、実はアーリア人(その代表はスキタイ人)がその先駆者であるがその特質ははるか昔に失われたというのは目から鱗であった。

 アマチュアの囲碁大会は、日本では三大棋戦と呼ばれるアマ名人戦、アマ本因坊戦、世界アマ日本予選が年に一度行われ、まずは県代表にならないと全国大会には出場できないのであるが、残念ながらここ10年以上一度もなれていない。

 年齢的に考えてももう出場できない可能性が高いので、このあたりで過去の記録を整理してみると・・・

 

 県代表歴は19回(神奈川県7回、福岡県12回)で、全国大会のベストスコアは5位(即ちベスト8)が世界アマとアマ本因坊で2回というのがその結果で、おそらくはもう増えないだろうから(特に私が現在住む神奈川県は全国最激戦区)これがライフタイムの戦績ということになるだろう。

 

 この程度でアガリかというのは大いに不満であるが、客観的に自分の実力を考慮すればまあこの程度・・・というか競争が激しい競技を選んでしまった時点で(よほどの天才でもない限り)最初から結果は見えていたのかもしれない。

 囲碁人口は世界で4000万人程度であり、日本でも私が最も入れ込んでいた頃の800万人からはずいぶん減ったもののまだ200万人程度はいて、この頂点に立つというのは気が遠くなるような・・・ということに若い頃は全く気付かなかった。

 

 当然ながら競技人口が少なければトップに立てる可能性は高く、極端な例でいえばオリジナルの競技を考案して自分一人しかプレイしなければ直ちに世界チャンピオンになることができる。

 

 

 プロであれば競技人口と収入はだいたい比例している(その頂点がサッカーとバスケットで上画像はメッシとコービー・ブライアント)ので、あえて競争が激しくない分野を選ぶのは意味がないが、名誉(というより虚栄心か)だけが目的のアマチュアならどうだろうか?

 

 ただし職業人の世界では競争を避けるためにあえて専門とする人が少ない分野を選ぶことは“楽して得する”戦略である。

 

 私が専門にしているのはセラミック分野の中でもスリップキャスティングと呼ばれ、これはセラミックス粉体と溶媒を混合したスリップを多孔質型に流し込み、型が溶媒を吸収してスリップを固化させることにより、大型複雑形状の製品を製造する技術である。

 

 この技術分野では私は世界の第一人者と自称しているのであるが、これを専門にしている方は世界で100人もいない(というか旧い技術であって該分野の大御所的な方々は死に絶えてしまった)ので、究極の低競争分野かもしれない。

 

 もちろんそれだけ専門家が少ないというのは需要がそれほどないということも意味しており、この数十年は半導体製造装置分野(特に露光機)への応用で盛り上がっていたもののそのブームも終わりつつあるようだ。

 したがってその“需要”は非常に偏っていて、世界でも私の知見が役に立ちそうなのは十社程度であろうし、40年以上のサラリーマン生活をやめてフリーランスのコンサルタントになって5年になるが、徐々にその需要を食いつぶしつつあるのはタコが自分の足を食べるようなものか。

 

 

 まあ私も古稀が近くなったのでそれほど“先”はないし、今さら需要が増えても体力・気力がついていかないだろうからこの程度でいいかとノンビリ構えている・・・とはいえ何か話が来ればダボハゼみたいに飛びつく元気はまだ残っているが。

 

 このスリップキャスティングを専門にしたのは全くの偶然であり、サラリーマン生活の5年目くらいに偶然迷い込んだ研究室にK氏(定年退職後に顧問として残っていた)が一人ぽつねんと座ってドイツ語の文献を読んでおり、何となく雑談をしているうちにその研究室に居ついてしまった。

 いくら牧歌的時代であってもあまりにもいい加減な話であるが、社内での私は変人で通っていて勝手にすればという雰囲気だったし、K氏はスリップキャスティングの専門家としておそらく後継者を探していたのだろう。

 

 したがってあの時偶然K氏(後に結婚式の仲人もしてもらった)に出会わなければ現在の私はないわけであるが、まあ人生とはこんなもので偶然に支配されているのかもしれない。

 

 というわけで偶然専門にしたスリップキャスティングの分野は私にとっては大正解であり、もし競争が激しい花形分野に進んでいたら私の能力では途中でつぶされていただろう。

 

 これに対して囲碁は・・・若い頃からやらないと強くなれないことを知っているので小学生時代に教えようとした両親が諦めた中学生になってから自ら始めたのであるが(下記ブログ参照)、

 

 

ゲーム廃人状態になるほど入れ込んでもやはり遅すぎた。そして競争が激しい分野はヘタレの私には荷が重く、“楽して得する”戦略からは最悪の一手を打ってしまったようである。

 

 ただスリップキャスティングも囲碁も進歩の速度が遅い分野であることは私にとって幸いだった。

 スリップキャストの技術が最も進歩したのは欧州の19世紀でその理論化も1950年代にほぼ終了している。

 囲碁の技術進歩は日本の元禄から天保にかけて顕著で、その時代の大名人たちの棋譜は今も強くなるためには重要な研究対象である。最近のAI囲碁は確かにはるかに人間を凌駕しているが、それを人間が活用してレベルが上がったかというと人間の能力の限界からかそうでもないようだ。(下記ブログ参照)

 

 

 

 これに比較するとコンピューターの分野では数年前の技術は既に時代遅れである。私の学生時代は現在のスマホ程度の能力にすら遠く及ばない最先端のコンピューターは一つのビルであり、そのプログラムはパンチカードに打ち込んでリヤカーで運んでおり(したがってプログラム容量の単位はキロバイトではなくキログラム)、こんな分野を専門にしてしまった方は本当に大変だと思う。

 

 また将棋では囲碁とは異なり序盤の研究によりほとんど勝負が決まってしまうので昔の棋譜を研究するのは(強くなるためには)全く意味がない。特に最近のコンピューターの進歩によって、“研究はソフトが示す手順(その当時の技術での最善手順であって、その最善は日進月歩)を暗記しているだけです”という渡辺明名人(当時)のぶっちゃけコメントにあるように、昔体得したテクニックはほとんど意味がなくなっている。

 

 まあこういう競争視点で物事を考えるというのはどうしても他人と比較してしまうのであまり幸せにはなれないかもしれない(恋愛における競争視点も同じ?)。

 とはいえそれらを超越して自分らしく生きれば良いと達観する境地に達するのはまだまだというか死ぬまで無理かな。

承前

 

 


(2009年07月21日 追記)
 ドミニク・オーリーはこの一作品でその文名が末永く残るでしょうし、文学の歴史における巨匠としての位置付けは今後ますます確固たるものになっていくと思います。そしてこのような決定版というべき新訳が出たのもその一環と云えそうです。
 しかし発表当時はおそらく本人も含めてこのような事態になることは想像していなかったのではないでしょうか?

 それに比べるとジャン・ポーラン(1884-1968)は当時のフランス文壇のドン?として巨大な存在感があったのでしょうが、今では…あるいはもう少し経てばオーリーの恋人として彼女をインスパイアしたというのが主たる業績(笑)ということになってしまいそうです。(下写真は中央がジャン・ポーラン、右がドミニク・オーリー)



 続編のロワッシーへ帰還が正編に比べるとトーンがあまりにも違うので、駄作だとか著者が違うのではないかという噂もあるのは、このような両者の立場の変化がオーリーの筆致に影響したのだと思います。

 文学の一作品の影響というのは怖いですね。
 紫式部は今では世界史上の偉人ですが、当時は彼女など問題にしていなかったであろう帝たちや藤原一族などは一千年も経てばあまり知る人もいなくなりました。

(2009年08月22日 追記)
 正編?と続編のロワッシー再びで、一番変化しているのはスティーヴン卿の扱いです。
 正編では理想的な、少なくともOにとっては理想的なDomとして映ったスティーヴン卿は、続編ではこの物語の登場人物としては例外的にくわしくそのアイデンティティーが紹介されます。
 その真の姿は、ビジネスのやり方や生き方などがかなりいかがわしいものであり、クランキャンベルの出身という出自すら、あのスチュアート王家を裏切ることにより栄誉栄華を手に入れた一族の末裔という書き方です。

 これは明らかにジャン・ポーランに対するこの正編と続編との間の15年間(その間にポーランは死亡)のドミニク・オーリーの感情の変化に対応していると思います。
 これはオーリーの人間としての、また正編が大成功を収めることによっての成長によるものであり、要は相手の人間としての底が見えてしまったということでしょう。なおポーランは戦中・戦後の立ち回り方などを考えるとかなりの“やり手”(あまりいい意味ではなく)であり、そのあたりも影響しているかもしれません。

 しかしながら成長したオーリーは続編として傑作を書いたかというと残念ながら逆であり、歴史に残る傑作が書けたのはポーランを熱烈に想っていたときだけでした。
 オーリー自身それはわかっていたでしょうし、そういう意味では続編の中で一番重要なのはその頃の自分を懐かしんで?書いた序文の恋する娘の部分でしょうか。

 Oの頭文字はゼロからとったという説がありますが、そういう意味ではSir Stephen H. のHも同様に発音しないという意味で名無しさんというような意味かもしれません(フランス語では通常Hは発音せず、ヘンリーはアンリに、橋本はアシモトになる)。なおクランキャンベルでキャンベル(Campbell)を名乗るのは当主一族だけのようで、城持ちのクランキャンベルというのは10家族もいないでしょうからあるいはHが付く一族というのは調べればすぐわかって何かを暗示しているのかもしれません。



 またOは腰にSHの焼印(上画像は映画版のbranding scene)を捺されますが、これも焼印にはループのあるデザイン(A,B,Dなど)は用いないという鉄則に沿っており、オーリーは登場人物のネーミングにはかなり気を遣ったような気がします。

(2011年01月08日 追記)
 Second Lifeのようなバーチャル空間におけるBDSMでは、最近ではsubの人気が高くDomのなり手が少なくて困っているようです。
 バーチャル空間の話なら、いやリアルの世界においてもかもしれませんが、subの方が面白そうで“お得感”があるのでしょうし、そういう時代になってきたといえるかもしれません。

 Oの序文に、澁澤訳では”かつてOのようになりたいと思わない女性などいただろうか”という部分があり、その後の訳もすべて澁澤訳にならっていました。
 ところが高遠新訳によると、これは単純な澁澤の誤訳であって、”かつてOのようになりたいと思う女性などいただろうか”と正反対に訳さなければならないそうです。
 そういう意味では澁澤誤訳は時代を先がけていた(笑)のでしょうが、この新訳によりこれまで見えてこなかった本来のOの世界が見えるようになってきたといえるかもしれません。

 高遠弘美は次はいよいよライフワークとしてプルーストの”失われた時を求めて”の個人全訳にとりかかるようで、全14巻のうちの第1巻がこの間刊行されました。巷ではプルーストの受容史を変えると大変な評判になっています。



 ドミニク・オーリーはこの大長編小説が次々と刊行されていくのを子供時代にリアルタイムで経験した世代であり、彼女が文学の世界に入るきっかけとなったのがこの作品である・・・といった内容が高遠新訳Oの後書きにはいろいろ書かれています。
 だからOとプルーストには云々といえるほど私はプルーストを読んでいませんが、これはちょっと従来の訳では敷居が高すぎたからであり、こちらの方の高遠新訳にも期待しています。

(2025年6月1日 追記)
 10数年ほど前に書いたこの書評モドキのブログを読み返してみたが、この本の関係者との思い出(あの頃は私もまだ若く色々と・・・)がよみがえってきた。

 最近の研究では続編のロワッシー再びはやはり別人作という説が有力視されているようだ。

 高遠弘美(1952~ 男性です)の失われた時を求めては14巻中第6巻まで刊行が進んでいるが、2018年以降の刊行がなく、どうも出版社の方に色々事情がありそう。

 ジュスト・ジャカンは2022年に死亡。エマニエル夫人が監督デビュー作で、本作が2作目であったが、それ以後はあまり・・・

 BDSMに特化したSNSの世界では2008年創立のFetLifeによる寡占化が進んでおり、会員数は1000万人前後(日本は数万人)のようだ。

 2009年に書いたブログの引用部分がです・ます調になっているのは、他会員とのやりとりを基調とするサイトで発表したため。

(承前)

 

 

 

(2009年07月14日 追記)

 高遠新訳の最大の特徴はその乾いた文体であり、淡々とした描写はポルノグラフィのハードボイルドというような感触になっています。

 

 日本語というのは語彙・表現力が豊富であるため、作家や訳者はつい過剰な装飾・技巧を凝らしやすいところがあり、特にポルノグラフィのような微妙な?分野においてはそのような傾向が顕著です。

 しかしながらそのような装飾過剰の文章で真のエロチシズムを感じることができるかというとそれは極めて疑問です。

 

 これまで仰々しい表現が多かったミステリの分野で、1920年代米国にハードボイルドと呼ばれる作品群(下画像)が登場してはじめてこの分野の文学性?が認知されたような、また真に良質なホラー小説はおどろおどろしい表現ではなく淡々とした描写が恐怖感を生むようなものでしょうか。

 

 

 例えばOのピアスされたlabia minorを皆で鑑賞?している以下のような描写はどうでしょう

 “毛を剃ったから小陰唇までよく見えるんだ。(中略)あなたのがこんなにふっくらしていて、こんなに上まで割れ目になっているなんて思わなかったわ”“でも、みんな…”“いや、そうじゃないんだよ、O。みんながこうじゃない。”

 

 ここだけを読むと何という解剖学的に(笑)露骨に過ぎる表現かというような気がしますが、巻頭から淡々とした描写が続きこの種のシーンでもそのトーンは変わらず乾いた文章がずらずらと(段落変更がほとんどなく、そこがまた雰囲気が出ています)並んでいくと、その中にえもいわれぬエロスを感じさせます。この種の表現では上品にぼかそうとすればするほどそのぼかそうとする意識そのものの品のなさが目立ってくるものですが、このようにストレートに書いてしまうと潔い凛とした気品のようなものを感じさせます。

 要はエロティックな部分を特に身構えるのではなく、日常の一部のように淡々と描くことによりかえってそのエロチシズムが強調されるといいましょうか…

 

 Oの物語は、ポルノグラフィという枠を超えて第二次大戦後の文学(フィクション)史上最高の傑作だと思います。

 

 モーツァルトやベートーベンの音楽のレベルを現代音楽は超えることはできないと思いますが、その時代にはなかった電気の力を借りてやや違った方向での存在感を現代音楽は主張しています。

 

 同様に19世紀から20世紀初頭の文学界の巨人たちの作品(小説)を現代作家は超えることは難しいでしょうが(音楽のように音の組み合わせが限定されているわけではないので不可能とは云いませんが)、その当時は社会的な制約から不可能だったエロチシズムを扱う分野なら、また違った方向での大傑作が期待できそうです。

 

 高遠新訳はその大傑作のエロチシズムを“生で”味わうことができる記念碑的な作品に仕上がっていると思います。

 

(2009年07月20日 追記)

 スティーヴン卿の原型については、ジャン・ポーランをモデルにして著者とOの関係を重ね合わせたのだろうと思っていましたが、なぜ英国人という設定にしたのかはよくわかりませんでした。(下画像は映画版のスティーヴン卿とO)

 

 

 外見的なモデルのイメージ(第二部の序文に少し触れられている)なのか、鞭を好むビクトリア朝以来の伝統を想起させるつもりか、それともOが卿に紹介される初日に卿が自らのことを語る“私は毎日ここにいますし、そもそも習慣とか儀式といったことが好きだから(And besides, I’m fond of habits and rites…)”という科白にあわせたのか…いずれにせよフランス人の眼から見たステレオタイプの英国人イメージからだろうと思っていましたが、新訳のドミニク・オーリーの紹介を読んで、そんな単純な理由ではなかったことに気付きました。

 

 スティーヴン卿はポーランとオーリー自身の父の両方からインスピレーションを得て創り上げられたキャラクターのようで、そこでブルターニュ(ケルト)系であるオーリーの家系と、幼い頃から父方の祖母の下でケルト文化に親しんで育ったという経歴が関わってきます。

 

 そしてスティーヴン卿は英国人といってもイングランド人ではなく、(ケルトの血が濃い)スコットランドのハイランダーであり、多くのハイランドクランがスチュアート朝の復興を目指してカローデンで滅んでいったとき、裏切ってイングランド側につくことによって大貴族として生き残ったクランの出身であるという設定になっています。

 Oの物語の登場人物は名前すら明らかにされていないヒロインをはじめその出自が紹介されることがほとんどなく、それがこの作品に幻想的なテイストを与えているのですが、その中で卿の出自だけを詳しく説明していることはこの点に著者はかなりのこだわりがあることをうかがわせます。

 

 そしてオーリーのこのような経歴はフランス文壇の重鎮でありながら、この作品のある意味フランス文学らしくない点に反映されていると思います。

 

 ところでそもそもフランス文化とは何なのか? いうまでもなくフランスとはゲルマン民族の大勢力であったフランク族が建てた国ですが、それがいつのまにかラテン民族の代表のような顔をして、言葉も宗教も料理もそしてあらゆる芸術もラテンの本場を継承したような形になっています。(下記ブログ参照)

 

 

なお現在用いられる“ラテン”というのは新大陸のスペイン植民地文化というイメージであり、本来のラテン文化とはかけ離れています。

 

 しかしフランスがラテン化したゲルマンであるというもうひとつの下の貌には、カエサルのガリア遠征以来ラテン化したケルト人としての貌があり、そのフランス人の原点の要素が色濃く残るのがブルターニュ(この名前の起源はブリテン島の語源となったケルト系のブリトン人から)だと思います。(下記ブログ参照)

 

 

 

 

 

 余談になりますが筆者のかつての仕事上の友人にブルターニュ人がいて、フランス人ではありえない姓(というか自分の親戚以外にこの姓を持つ人はいないとのこと)で、先祖は海賊、数代モロッコに移住して産を成してブルターニュに帰還という出自の方でした。そして一般的なフランス人気質とはかけ離れたメランコリックな部分があり、本人曰く“フランス人である以前にブルターニュ人”だとか。

 

 Oの物語は編集者・評論家としてレジオン・ドヌールを受勲するほど著名なオーリーが生涯にただ1冊だけ書いた小説です。

 これを匿名で出したのはもちろんその内容があまりにも過激で時代を先駆けていたからですが、それと同時にフランス文壇から離れた立場で自らのケルトの血を思い切り発散したような意味もあるような気がします。

 

(この稿続く)

 

 

 BDSM文学の世界史上に残る大傑作といえば“O嬢の物語”(1954)であることは論を待たない。



 ただし当時はまだその種文学には偏見が残っている時代であり、作者であるドミニク・オーリー(画像上・1907-1998 本名アンヌ・デクロ)はポーリーヌ・レアージュの偽名で発表し、後にフランス文壇の重鎮となる彼女が作者であるとカミングアウト?したのは1994年のことであった。



 日本に本格的に紹介されたのは1973年の澁澤龍彦訳(画像上)が最初であり、また1975年にはジュスト・ジャカン監督により映画化(画像下)されて、当時高校生から大学に入る頃であった私も強烈な印象を受けたのを覚えている。



 澁澤訳は華麗なる名文で決定版かと思っていたのだが、2009年に高遠弘美による新訳が出て、どうもこれまでの印象はかなり間違っていたことがわかってきた。
 その少し前に澁澤龍彦の回顧展が浦和であり、その中ではO嬢のことは全く展示されていなかったのでおかしいなと思ったのであるが、どうやらこの澁澤訳というのは前妻・矢川澄子の下訳に味付けした程度らしく、しかも原文のフランス語は澁澤の手に余る難解さで誤訳だらけになり、澁澤としては(というか回顧展を主宰した後妻の立場からは)この作品には関わりたくないという気持ちのようである。

 その高遠新訳に感激して以下のブログを書いたところ、本人からメールをいただいて恐縮した覚えがある。

(2009年07月11日 作成)
 高遠弘美による新訳(画像下)が学研から出ました。



“完訳Oの物語”
訳  高遠弘美
装丁 高麗隆彦
編集 幣旗愛子

 第二部の“ロワッシーへの帰還”はもちろん、本邦初訳のマンディアルグの!跋文(1975年の第二部の再版時に公開)や著者ポーリーヌ・レアージュ(ドミニク・オーリー=アンヌ・デクロ)に関するエピソードなどが盛り込まれています。

 これまで色々な訳でかなりの回数読んでいるにもかかわらず、引き込まれるような感覚で一気に読んでしまいました。
 さすがに三十数年前に澁澤訳で初めて読んだような新鮮な感動はありませんが、今初めて読んだとすると、この新訳が最高傑作であると思います。

 まずは澁澤訳以来踏襲されてきた、O“嬢”の物語というタイトルとSir Stephenを“ステファン”卿と訳す何とも居心地の悪さを感じさせる2点が訂正されています。
 そして身体の各部や具体的な行為に関するこれまでの訳ではあいまいに書かれていた部分もはっきりと原文通りに訳されています(フランス語はできないので断言はできませんが、大昔に英訳をチェックして確かめたことがあるので…)。


 そして上記とも関係するのですが、淡々として平易で“乾いた”文体で綴られていることが最大の特徴であると思います。これは澁澤の華麗で目くるめくような名文とは対極にありますが、どちらにエロチシズムを感じるかといえば、下記のブログに書いたように“真のエロスは淡々とした表現の中にある”というのが率直な感想です。

 

 

 またジャン・ポーランの序文や著者自身の第二部の序文もこれまでとはちょっと違う視点で訳されていて、なるほどと思わされます。

 それから今回読み返して気づいたのは、ジョン・ノーマンのゴルシリーズ(下記のブログ参照)

 

 

でポピュラーになったnadu positionが既にOとルネがロワッシーからサン・ルイのアパルトマンに戻ってくるシーンで描かれていることです。これはジュスト・ジャカン版の映画でもありましたが映画ではOがルネの帰りを待つシーンになっていましたのでおやと思い原作の(違う)箇所を読み返してみて、これは映画だけかなと誤解していました。

 それからドミニク・オーリーのバックグラウンドがケルト(ブルターニュ)系という点にも目を引かれました。フランス文壇にどっぷりつかった人生でありながらこの作品がある意味フランス文学らしくないというのもそのためでしょうか。

(2009年07月13日 追記)
 高遠新訳では“Oの物語”と“嬢”が取れていることと、従来訳のステファン卿がスティーヴン卿になっていることがまず違いますが、これはたかがタイトルや人名と軽くすますわけにはいかない気がします。

 Oという名前というか符号に込められた意味については百家争鳴の議論がなされているのでここでは述べませんが(私見ではドミニク・オーリーは色々な解釈が出来るようにして後世の議論を愉しむつもりであったと思います)、その象徴的な意味が“嬢”という大正時代の煽情文学のようなタイトルを付けることによって単なる人名のイニシャルになってしまっています。
 まあ澁澤もそれに気がついてはいたのでしょうが、本邦初紹介であるのであまりにもわけがわからないタイトルにしては販売戦略上まずいので妥協したということもあるかもしれません。

 しかしStephenをステファンと訳したのはあまりにも原文の雰囲気を損なっていると思います。
 これは英国人という設定だから英語風に発音してスティーヴンと訳すべきだというような単純な問題ではありません。


 スティーヴン卿の出身については、スコットランドの家柄としてその祖先のスチュアート王家との係わりなど登場人物の中では例外的に詳しく描写されていますが、ドミニク・オーリーにとってはある意味O以上に思い入れがあるキャラクターだと思います。

 それはオーリー自身の出自であるケルト(ブルターニュ)系の血の影響でもあり、自分のバックグラウンドをDomとして体現したのがスティーヴン卿ではないでしょうか。

 そういう“思い”がステファンと訳すことにより、東欧のスポーツ選手か南欧のコメディアンのようなイメージになって消えてしまうのが残念なのです。

(この稿続く)

 

 

 韓国時代劇は以前は圧倒的に李朝(1392-1910)を舞台にしたものが多く、似たようなストーリー(実際の歴史も)で延々とドロドロした政争が続いていく。

 しかしそれ以前の三国時代から高麗にかけての方が戦乱が続き、日本との関係もダイナミックで面白い(下記ブログ参照)。

 

 

 ただしこの時代は中国との関係も微妙であり、近年の中国は歴史的にも漢民族の国ではなく北方民族等を含めた多民族国家であるという立場(ソ連とロシア人の関係と似ており、共産主義とか帝国主義とかいうのは民族を超えた原則・イデオロギーを重視する)を鮮明にしているため、高句麗や高麗が朝鮮史に属するかどうかも議論がある。

近年の韓国時代劇がこの時代も積極的に取り上げるようになったのにはこういう背景があり、数年前のブログで言及したので引用する。

 

(2019年08月07日 作成)

 韓流にはこれまで興味がなかったのであるが、ブームが下火になった今頃になって韓国映画の“安市城”、“神と共に1・2”を観た。

 

 昔は韓国映画といえば“泣かせる”お涙頂戴かドロドロ怨恨が中心だったのだか、ずいぶん洒落たというか軽い作りになっていて、しかも韓国の経済成長により製作費も潤沢に調達できるようになったのかなかなか見応えがあった。

 

 

 しかしその中でもこの2本(神と共に1は現代編が中心なので除く)は安市城(画像上)は高句麗(BC37~668)の時代を神と共に2(画像下)は高麗(918~1392)の時代を背景としていて、軽い作りながらかなり露骨な政治的意味が込められた作品である。

 

 

 なお高句麗王朝の正式名は高麗であり、後の(今もこう呼ばれる)高麗と区別するために後世別名の高句麗と呼んだので、高麗王朝は高句麗の後継王朝を自認したため同じ名前を付けたのである。

 

 したがって現代日本にも高麗の地名が付く地域は多い(関東なら例えば高麗川)が、そのほとんどは7世紀の高句麗の滅亡時の前後に日本への亡命者が起源となった命名であり、10~14世紀の高麗が起源である場合は少ない。

 

 なお英語名のKoreaも高麗起源であるが、これは本来の朝鮮語の発音とは異なるので日本語発音起源説と中国語発音起源説がある。

 

 さてその高句麗・高麗は朝鮮半島北部から時代によっては鴨緑江を越えた満州南部を本拠地としており、少なくとも日本の歴史教科書においてはこの両王朝は朝鮮史の一部として習った覚えがある。しかしながらこれは結構微妙な問題であって韓国と中国の対立軸の一つとなっている。

 なお北朝鮮の歴史観では偉大なる金主席以前の暗黒時代の(笑)世界史などたいして重要ではないということかあまりこの論争には関わっていない。

 

 もちろん過去の歴史を現代の国家区分で分類する事などにはあまり意味がないのであるが、ナショナリズムが絡むとなかなかそうは単純にはいかない。

 客観的に考えれば契丹・女真・靺鞨・朝鮮等のツングース系民族には言語的・文化的共通点が多いので、満州国時代に流行った満鮮一体史観はかなり合理的だと思う。ただその中で朝鮮だけは中国文化を受容してアイデンティティーが変化してきたので自分たちは他とは違うと云いたいのだろうし、そうなると高句麗・高麗は朝鮮史に属するのかどうかが問題になってくる。

 

 この問題が表面化してきたのは中国が漢民族の国ではなく北方民族も含む多民族国家であると自らを定義して、歴史的にもそうだったという史観を前面に押し出してきたことに起因している。

 

 即ち中国は漢民族の国であるが歴史的にはモンゴル族の元朝や女真・満州族の清朝(ついこの間まで続いていたのでラーメンマンみたいな辮髪やスリットがあるチャイナドレスは中国の昔からの風俗と勘違いされがちだがこれらは満州文化)に支配されていた時代もあるというのが中国人も含めた世界の常識であったものを、中国政府はいやいやそうではない、すべては中国史の一部であってすべて中国人なのだと宣言したわけである。

 

 そうなると当然高句麗・高麗史は中国史の一部ということになり、“安市城”で描かれた高句麗vs唐も“神と共に2”で描かれた高麗vs女真vs契丹も中国内の内戦という解釈になる。

 

 なおこの問題は中国人、特に漢族とは何かという問題に密接に関係している。

 漢族は元々黄河中流域に住む民族集団であったと思われるが、軍事的・文化的な征服に伴い漢族の範囲は次第に膨れ上がってきた。

 

 そのもっとも顕著な時代は三国時代を統一した司馬氏の西晋が滅亡し五胡十六国時代・南北朝時代を経て隋唐による統一までの大内乱時代であり、この時代に漢族の定義はかなり広くなってきた。

 例えば隋朝の煬氏や唐朝の李氏はどう考えても漢族ではなく北方民族の鮮卑の一族だと思われるが、当時の“公式見解”として鮮卑系の王朝に仕えた漢族が北方民族の支配から脱して漢族の王朝を復活させたということになっている。

 

 そして現代はその時代に続く第二の漢族・中国人の膨張時代になりつつあるのではないかと思われ、これは世界平和に対する最大の不安定要素ではないだろうか。

 万里の長城はその一番立派な八達嶺の部分(画像下)が北京郊外にあることからもわかるように元々はこの辺りが漢族と北方民族の境界線であったはずであるが、それが今や現代中国の首都となっている。

 

 

 北京は清朝の首都であったことから八旗(満州貴族)にちなむ地名も多く、私の勤務する会社の北京事業所でもガラスシーリングを恐れた隠れ満州族を何人か知っているが、彼らと話してみてももはや復活はなく漢族の中に埋没していくであろうという諦観状態であった。

 

 “安市城”のクライマックス(というか上映時間の80%程度はクライマックス)は645年の安市城の攻防戦であり、攻める唐・李世民(太宗・在位626-649)に守る高句麗側は揚萬春(ようまんしゅん・ヤンマンチュン)、淵蓋蘇文(えんがいそぶん・ヨンゲソムン)と歴史上の有名人物が大勢出てくる。

 

 しかし揚萬春が李世民の片目を弓矢で射貫くというのはちょっとやり過ぎで、李世民はおそらく中国人にとって歴史上最高の人気人物(というかそれだけ人気があるから鮮卑ではなく漢族として認められたのであろう)の一人であろうから、そんな荒唐無稽なデタラメを描くなと中国から抗議されたようだ。

 なお李世民は唐の2代目皇帝とはいえ建国戦争の最大の功労者であり、当時の漢族の最大の脅威であった突厥を破ったことでおそらく中国史の皇帝としては一番人気だろう。

 まあ韓国としては高句麗は朝鮮の王朝であると強調したいために悪逆非道の中国に抗して正義の朝鮮が立つというイメージ戦略を展開したのであろう。

 

 なおこの戦役は安市城の戦いが決定打になって高句麗の勝利に終わったのであるが、唐の次の皇帝(その皇后が則天武后でありライバル女性たちの手足を切断して酒甕に漬けた残虐行為で有名であるが、実は夫帝を廃して中国史上唯一の女帝となった大政治家)の時代の遠征により高句麗は滅亡することになる。

 

 この高句麗の歴史700年は世界史においても非常に息が長い王朝であり、朝鮮三国時代の他の2国である百済と新羅は高句麗と同じ時代に創建されたことになっているが、これは単なる神話時代であって“歴史時代”が始まるのは日本とほぼ同時期である。

 なお前述の中国新史観?では三国時代の高句麗・百済は中国史の一部で新羅のみが朝鮮史ということになっている。

 

 これに対して“神と共に2”は高麗が契丹(遼)と中国王朝に交互に朝貢・服属していた時代であり、ヒロインが属する女真族が契丹との緩衝地帯を本拠とした時代であるから1000~1050年頃だろうか。

 なお後に女真族は金そして清を建国して中国本土を支配することになる。

 そして清の建国時代に李氏朝鮮をホンタイジ(ヌルハチの次の2代目皇帝)が攻撃して、李王は降伏して三跪九叩頭の礼をとらされる屈辱を味わうことになるのを描いた韓国映画が“南漢山城”(邦題の天命の城は何だか・・・)である。

 

 

 この映画はかなりの力作・傑作であったが韓国人にとって屈辱的なそんな映画がヒットするはずもなく、いやいや1000年前には女真族なんてこんな野蛮人で、我々韓国人が殺すも(ヒロイン相手の様に)保護するも思いのままだったんだよというのが神と共に2の時代背景として云いたかったことだろう。

 

 話があちこちに飛んで何が云いたかったのか自分でもわからなくなってしまったが、私が今頃になって韓国映画を見始めたというのは、実はもうすぐ韓国との学生OB囲碁交流のイベントがあるのでその際に話題になるかもしれないという不純な?動機からである。

 今年は日本で来年は韓国で(来年の夏は仕事が修羅場になっていてそんなものに参加するどころではなくなっている可能性もあるが)開催される順番であり、私は学生時代の最後に韓国に招待されて以来(下記ブログ参照)、OB交流というのは昔を懐かしむ後ろ向きのイベントみたいな気がしてこの40年以上参加したことがなかった。

 

 

 またあの当時はまだ日本の方が強く私も指導旅行のつもりで観光気分であったのだが、韓国棋界の勢いを感じてそのうち追い越されるのではないかという危惧はほどなく的中することになった。

 

 私も歳を重ねて今があまりいいことがなくなった(単純に言えば公式戦で若い方になかなか勝てなくなった)ので、そろそろ昔の思い出にひたるイベントもいいかという気分になったのであるが、日韓関係がこういう微妙な時期であるので何か役に立つことはないかという気持ちもある。

 40年前の初訪韓時に交流した学生は、反日教育もそれほどひどくはない時代に育ちその親世代は日本統治時代を知っているので反日感情はそれほどない世代であったが、さて今回はどうだろうか。

 

 40年前の訪韓時に一番記憶に残っているのは、ソウル大学の学長に普通の観光客では見ることができない李朝時代の文物を色々案内してもらったのであるが、当時は歴史に疎くほとんどその価値がわからなかったことである。

 そしてこれではいかんと歴史に興味を持ち始めたのが現在の歴史マニアになった原点なのであるが、今回の韓国側の訪日では学生から私と同世代のOBまで様々な方が参加するので何か有意義な交流ができるかもしれない。

 

(2025年5月28日追記)

 韓国でコンサルタント活動をしていた時に、晋州博物館を訪問したことがある。ここは最初は加耶の歴史を紹介する博物館であったのが、途中から文禄・慶長の役を専門(晋州城の戦いがこの地であったため)に展示するようになった。私が訪問した時はちょうど特別展として、”天命の城“で描かれたホンタイジの朝鮮侵攻(韓国では丙子胡乱と呼称)を取り上げており、同時代におけるこの戦争”も“朝鮮にとって災難であったという展示になっていた。

 “も”どころかこちらの方が100倍影響が大きく、近世朝鮮(というか現代までもその影響が残る)の歴史を決定付けた戦乱であったと思うが、それはまあ大っぴらには言えないものの韓国人でもわかる人はわかっているようである。

 先日のブログで高校卒業50周年記念同期会に出席したことについて書いた。

 

 

 さすがにこの歳になると人生の先が見えてきて孫や健康(病気自慢)が話題の中心であったが、その十数年前に初めて出席した同期会では全員がまだ現役であり、特に当時は3.11の直後ということもあって色々と生臭い?話が出たので、その時のブログを引用する。

(2012年05月04日 作成)
 先日、卒業以来三十数年ぶりで高校の同期会に出席した。

 私は、この種の会というのは何か昔を懐かしがる後ろ向きの態度みたいな気がして、幼稚園から大学まで同窓会と名のつくものには一度も出席したことはなかった(大学の囲碁部OB会は別であり、これは昔の思い出-露骨にいえば昔は俺も強かったなどというような‐を語るのは野暮という不文律?があるのが気に入っている)。
 しかしもうそろそろいいかという年齢・心境になってきたのかもしれない。

 一学年200人のうち35人ほどの出席であり、しかも地元を遠く離れた東京での同期会であることを考えると、驚くべき高出席率である。
 もっとも中高一貫で6年間を共に過ごしたはずであるが、三十何年ぶりとなるとあまり顔と名前が一致しなかった。まあ当時の私は囲碁に没頭していて、下記ブログに書いたように一日7-8時間の棋譜並べを通じて古今の名人と“対話”するのが生活の中心というゲーム廃人の先駆者(笑)のような生活をおくっていたので、あまり学校生活の思い出らしきものがないというのもあるのだが。

 

 


 驚いたのは参加者のうち3人が原子力関連の学科に進み、今も原子力分野で仕事をしているということであった。
 つまり我々は“原子力の時代”の最終世代であったわけで、これ以後大学における原子力人気はじり貧になっていく。そして3.11以降は全員がつらい立場で、野球でいえば敗戦処理投手のような業務に追いやられているようだ。

 そして一人の出席者は、某超大手マスコミでTVキャスターや新聞の論説・雑誌の編集などを歴任した有名ジャーナリストになったらしく(私はTVを観なくなって20年、新聞を読まなくなって10年近くになるので、彼がそんな“大物”になっているとは知らなかったのだが)、原子力関係の報道に関して前記3人から皮肉交じりのクレームがついた。

 そのときの“大物氏”は答えて曰く・・・“我が社は「原子力怖い」が社の方針ですからねえ。そして読者が読みたいものを供給するというのは資本主義社会における需給関係を満たすという意味では当たり前の経済活動ではないかと・・・”
 まあ彼も同窓会の酔った席上でちょっと誇張した表現になったのであろうし、単なる酒の上での放言か露悪的なジョークかとは思うのだが、まさにほとんどの報道関係者の本音を代弁しているとは思った。

 現在の原子力関係のバッシング報道は異常である。
 どう考えても全く危険性がない‐というのは言い過ぎだが、少なくともこれまでで放射能被害にあった方は、死者はもちろんのこと負傷者すら一人もいないという限りなく安全な現状を騒ぎ立てて、風評被害や原発停止による産業・生活に対する打撃を拡大している様子は、まさにマスコミによる人災であり日本のギリシア化・集団自殺を促進している。

 これは原子力反対派がよく唱える原子力利権の反対の“反原子力利権”の存在を考えると理解しやすい。
 荒唐無稽な代替エネルギー・自然エネルギー(もちろん中には有望なものもあるが)への巨額な研究投資は、そもそも絶対に実現しそうもない研究だからこそ政府の補助金がなければ誰もやろうとはしないわけである。もっともこの種の研究というのは本来の目的は達成しなくても、その技術分野の発展を促すことにより新たな応用分野を見出すという効果もあるので、全くの無駄になるわけではないが。

 そして最大の反原子力利権がマスコミ利権であり、これはまさに読者が読みたいものを供給するという意味で我々日本人の“民度”を表している。
 したがって責められるべきはマスコミではなく我々自身と云うべきかもしれない。

 私は以前に開発していた材料が、付随効果として中性子線(放射線の中で最も有害なもの)をよく吸収することがわかったため、しばらく原子力業界をウロウロしていたことがあった。

 その少し前は光触媒をしばらくかじっており、ちょうど光触媒ブームの真最中ということもあり、私のような新参者にまで月一くらいで学術雑誌への総説執筆や講演の依頼が来た。
 その当時の光触媒の“権威者”たちは植物の光合成を人工で作り出すという視点から取り上げる方と、活性酸素の有効利用という観点から論じる方がいた。しかし私は光触媒もまた触媒の一種である以上は半導体の帯理論から説き起こすべきと考えて、人類の進歩に結びつけるべく(これは企業の存在意義の問題であり、きれいごとのようであるが、ただ金を儲ければいいというわけではない)ストーリーを構成した。
 そしてそのストーリーの終着点が自動車産業への進出(下記ブログ)

 

 

であったわけだが、そこで地獄(笑)を見て光触媒からは撤退というかはっきりいえばクビになり、新たな戦場に選んだのが原子力分野というわけである。

 触媒機能における半導体の帯理論はあくまで理論であってその効果を定量的に表すことは難しいが、光触媒においてはそれが可能となっている。
 それと同様のことが原子核変換においてもいえ、原子炉内または原爆炸裂時の反応を定量的に解析することはまず不可能であるが、私が開発した素材は一個ずつの原子核変換を計算した設計になっている。



 当時の開発ターゲットは主として当時東海村に建設準備中の陽子加速器(J-PARK:画像上・Main Ringの周長は1.6KM)向けだったのだが、別の用途として中性子爆弾に対する防御材料というのがあった。
 核爆発による中性子線の発生の全く逆の反応により、素材そのものが中性子線を吸収してしまおうという発想である。

 その時代は経営の神様・GEのジャック・ウェルチが“Neutron Jack”(すなわちリストラによる人員削減を、施設をそのままに人員だけを殺傷する中性子爆弾に擬えたもの)として知られるほど中性子爆弾に対する脅威が問題になっていた。そして私もペンタゴンに招かれて(というか強引に押し売りに出かけて)、この素材の構想を説明したこともあった。

 原子核変換防御材料で誰でも疑問に思うことは、原子核変換により発生したヘリウムをどこに逃がすのかということであろうし、ペンタゴンはじめあちこちで質問された。
 その正解は・・・意外にも何もしないで放っておくということである。
 要は何もしなくても量があまりにも少ないので素材の中に滞留していてもいいし、外気へのパスができて逃げてもいいのである。
 原子炉内部用の部材として納入した製品は10年経過してもびくともしていないし、ましてや一瞬の高強度中性子線に耐えさればよい中性子爆弾に対する防御性能には何の問題もない。

 しかしこれが核融合炉(将来のエネルギーの主流はまず間違いなくこれであり、そのために原子力の研究は続けなくてはならない)の部材として用いられればどうかというと、これは中性子線強度が桁違いなので実験してみなければ何ともいえない。

 まあ核融合炉が連続的な臨界状態を実験的にでも作り出すことができるのはあと30年以上かかるだろうから、私がその結果を知ることはないだろうし、その頃には私の素材などは時代遅れになっているだろうから、その疑問自体が意味がないことになっているだろうが。

(2012年5月6日 追記)
 私は仕事の関係で多くの原子力施設を廻ったが、どこも非常に開放的な雰囲気であると共に関係者の真摯な気持ちが伝わってきた。
 特に核融合関係はその実用化が50年?くらい先であろうから、現在その仕事に携わっている方々はその成果が実を結ぶことを体験することはできないことが最初からわかっていて人類の将来のためにこの世界に飛び込んできたわけで、頭が下がる。。



 その中でも多治見の核融合炉(画像上)は一般の方の見学も可能であり、総工費3000億円程度の試験炉ながら20Mくらいの径がありかなりの迫力である。
 このレベルの次の世代の実証炉は総工費10兆円程度で、青森県六ヶ所村にほぼ建設が決まっていたのであるが、下記のブログに書いたように政治家たちの言語道断の不手際で結局フランスにさらわれてしまった。

 

 


 原子力は票にならないどころか、反原子力が票になるというのが日本の民度であるから、政治が悪いというのは結局は有権者が悪いということであろう。・・・などと人事みたいに言っていてもしょうがないので、まずはおかしいものはおかしいと各自が声を上げることが重要だと思う。

(2012年05月07日 追記)
 連休も終わり関東に戻ってきたが、その間にすべての原発は止まってしまった。
 まさに異常事態であり、日本人は思考停止状態になって、集団自殺に向けてひた走っていくのだろうか。

 これまでの歴史でも、集団ヒステリーのような状態になって国益を大きく損なってしまったことはときどきあったが、今回の反原子力騒動は将来への影響が大きく、しかもボディーブローのように数十年にわたってじわじわ効いてくるという意味で、日本が衰退に向かう大きなターニングポイントになったように感じる。

 電力が足りるか足りないかといった枝葉末節の問題には関係なく、高価で将来の発展が望めないエネルギーを選択した国は周辺諸国との競争を勝ち抜けないし、またこんなカントリーリスクを抱えた国には投資が呼び込めないため、職場は失われ、人は去っていき、国土は荒廃していくだろう。

 私個人としては、もはや物質的な欲望というものはあまりなくなったので、日本が衰退しようが貧困化しようがそれほど痛手には思わない。しかし子供たちや子孫のためには、豊かな国土を遺してやりたいと思うし、世界に誇れる国として彼らが活躍する場を与えてやりたいと思う。
 そのためには原発と原子力技術は何が何でも遺さなければならないし、これをつぶそうとする反原子力利権に負けてはならない。

 反原子力利権はまさに日本の癌であり、票につながればどんな愚民政策でもOKという政界、国民の不安を煽った方が売れると考えるマスコミ、荒唐無稽な新エネルギー・自然エネルギーで補助金や研究職場を維持したい学界、日本の原子力技術(者)を吸収したい海外勢力が寄ってたかって日本を衰亡に導こうとしている。
 このような勢力に対しては断固としてノーを突きつけて、子供たちや子孫のために美しく豊かな日本を守らなければならないと思う。

 ・・・などと評論家みたいなゴタクを並べていてもしょうがないから具体的に行動しなければと思うのだが、原子力関連の研究から離れて長いし、何をしたらいいのかわからないのが正直歯痒いが、自分がやれるところから始めてみよう。

 またこれは日本のためだけでなく、世界・人類にとっても重要な活動であり地球温暖化の問題も原子力以外の解決策はない。エネルギー生産というのは基盤技術であり、炭素資源を燃やしたり自然の位置エネルギー・熱エネルギーを利用したりというのはここ数万年,基本的な原理では何の進歩もないし、これからの進歩も望めないのである。
 これに対して原子力はできたばかりの技術ながら、現段階で既に他のエネルギーよりも経済性に優れるだけでなく、その伸び代が無限大に近く、数十年後に核融合が実用化されれば世界のエネルギー需要の大半はこの技術が賄うであろうし、全く新しい新技術が開発される可能性もある。また今後人類が宇宙に進出するにあたっては、エネルギー源は原子力以外にはありえない。

 現段階では大半の分野で世界のトップレベルにある日本の原子力技術は世界人類の未来のためにこれを維持・発展させなければならないと思う。

(2025年5月25日追記)
 “こんなカントリーリスクを抱えた国には投資が呼び込めないため、職場は失われ、人は去っていき、国土は荒廃していくだろう”というのは残念ながらその通りに進行しており、現在の(そしておそらく将来も)私の顧客は海外にしかいない状況が続いている。
 若い頃の日の出の勢いであった日本で過ごした私としては忸怩たる思いであるが、さすがにもうこの齢になるとその流れに逆らうのではなく身を任せるしかないかという思いである。