2015年12月23日 作成
キルホーマン・シェリーカスク・59.9%・6年 信濃屋*サロンドシマジ
というモルトウィスキーを購入した。
酒のスーパーとして最近有名になった信濃屋の店頭で、“アイラのカスクストレングス55%以上、希少感のあるボトラーズモノで、若くて荒々しくてリーゾナブル”と注文したら、“まさにピッタリしたものが只今入荷しました”と標記のボトルを出してきた。
その上さらに“お客さんは運がいい。これは本日12時に発売解禁になったばかりでほとんどが予約注文。店頭に並んでいるのはすぐに売り切れますよ”などと勧めてくる。
大箱にまだ大量にボトルが残っているようだし、ホントかよと思ったが店員の勢いに負けて買ってしまった。
なおこのサロンドシマジというのは最近男のダンディズムの教祖のように祀り上げられている島地勝彦氏が伊勢丹と組んで立ち上げた男性用趣味用品?のブランドであり、この酒は同氏がスコットランド中を廻って美味い樽を見つけ熟成させた・・・とはいえ実際にその酒のプロデュースに深くかかわったのか単に信濃屋に名前を貸しただけなのかどうかはわからないが。
島地氏が有名になったのは集英社時代に開高健の担当編集者となってからであり、開高健のエッセイなどにはよくシマジとして登場する。
そして有名なエピソードとしてはシマジ氏が自社の“プレイボーイ”に開高健のエッセイの連載を依頼して、開高健からそんないかがわしい雑誌に執筆していたとなると将来ノーベル賞を獲るとき障害になると断られたとき、連載を引き受けさせる決定打?となったセリフがある。“先生、ノーベル賞ですか。そんなものが欲しかったら集英社が裏から手をまわしていつでももらってあげますよ。”・・・
なお開高健といえばどちらかというと柔らかいエッセイが有名だが、実は本業?は純文学(これは死語か)であり、長生きしていたらノーベル賞を獲ってもそれほどおかしくはなく、“ノーベル賞を獲るときの障害”というのも必ずしも単なるジョークとはいえないと思う。
また開高健が柔らかいエッセイで有名になったのは、釣りやハンティングそして酒・葉巻などの世界を描いたからで、まさに男のダンディズム教の初代教祖であったが、現在はシマジ氏がその地位を受け継いだ形になっている。
最近サザンで有名になった茅ヶ崎のラチエン通りには開高健記念館があり、ここは開高健が亡くなるまで執筆していた住居をそのまま保存したものである。
したがって前述の開高健とシマジ氏のエピソードもここが舞台である。
私は35年ほど前にこのラチエン通りに住んでいた。当時はサザンの歌に取り上げられて有名な通りであり、海とぶつかる地点に上原謙・加山雄三のパシフィックホテルが建っているなど、どんなに洒落た場所だろうと期待して移り住んだ。
ところが初めて行ってみると、拍子抜けするほど何もない単なる田舎街であり、そののんびりした雰囲気にそぐわないパシフィックホテル(写真下は全盛期の姿)も、営業しているのかどうかさえ不明の廃墟のようになっている(最近ついに取り壊しとなりマンションが建った)。
そのラチエン通りの住まいのすぐ前に一軒の中華料理店が開店した。カウンターが7-8席の狭い店であり、メニューもラーメンが200円で餃子(これは美味く、そのためにこの店に通っていた)が150円という程度しかない。
ところがその店には白酒の四合瓶が10本ほど並んでおり、御猪口一杯(30ccくらいか)が500-1000円という値付けである。
白酒というのは雑穀や米を原料にした中国の蒸留酒の総称で度数は30度から60度くらい。50度くらいのものが美味しい。
度数が高い割には飲みやすく、中華料理にもよく合う…というのが曲者で、中国の悪名高き宴席での習慣である「乾杯(カンペー)」の主役がこれである。これは大人数だと非常に危険であり、例えば50人の宴席に客として出席すると全員と最低1回はカンペーをしなければならない。グラスは小さいので20ccとしても50人が相手だと1Lであり、ウィスキーでいえばボトル1本半となる。
もちろんその当時はそんな知識もなく、それどころか酒が飲めるようになったばかりの齢で、そんな酒を注文することはなかった。
ところがある日、その中華料理店で開高健と隣同士になった。恥ずかしながら私は当時開高健のことは名前くらいしか知っておらず、隣に座った方がそんな超有名人とは気付かなかった。何となく世間話が始まり、面白そうなオッサンだがアマゾンのトイレの話などがポンポン出てくるので只者ではなさそうと感じていると、“ここのパイチュウ(白酒)はあまり飲めない酒だからぜひ飲んでおきなさい”と勧められ、何種類かご馳走してもらった。
それがどれも55度くらいのブランデーのような色がついた濃厚でねっとりしていながらまろやかな味であり今でもよく覚えている。
開高健と会ったのはその1度だけであり、その中華料理店も開店後1年くらいでつぶれてしまった。
またその後、仕事で中国に行く機会もあるようになったが、カンペーで酌み交わす白酒は無色透明のウォッカのようなアルコールそのものの匂いが強いものであり、あのときに飲んだようなねっとりした濃厚なものはお目にかかることはなかった。
そして少し前に中国を訪問する機会があり、久しぶりにカンペー付の宴席にいくつか出た。最近この習慣は都会では下火になっていると聞いていたが、やはり中国人主宰の宴席ではこれがないと始まらないようだ。
しかし以前はカンペー用白酒といえば50度くらいのものが主流であったが、今回はどこでも35-38度のすっきりした味のものばかりで、その点は少し健康的?になっているようである。
そしてデパ地下を訪問して白酒の品揃えを見ると実に種類が豊富であり、大部分は無色透明であるが、一部には開高健にご馳走してもらったような琥珀色のものもあり、高価なものになると100年貯蔵でボトル100万円なんて値付けが。まあ100年置けばどんな酒も水になってしまうだろうからフェイクだとは思うし、そのデパートは1500万円の硯なんてものも揃えており、単なる飾りなのかそれともこういう豪華絢爛なものが中国人の感性に合うので本気で売るつもりなのかはよく判らない。
・・・というわけでこのキルホーマン(まだ飲んでいないので味については書けないが)から島地氏、そして開高健(偉人・有名人・公的な立場の方は呼び捨てにするのが習慣だから私もそうしている)を思い出して昔話をしてしまった。
しかしあの時の開高健のこんな若造に対しても分け隔てない態度、そしてお洒落には全く無頓着(まあラーメン屋に行くのにお洒落をする人はいないといえばそれまでだが)ながらも、男の趣味用品などとは無縁のところで滲み出ているダンディズムは印象に残っている。
開高健記念館では彼がまさにその自宅で人生観を語るというビデオが流れていて、“男が人生で熱中できるのは危険と遊びである(ニーチェ)”と力説しており、あのときの彼との会話を想い出した。
そしてこの日記を書くに当り調べてみて愕然としたのは、自分はもう彼に会った歳どころか彼が亡くなった齢をも越えているということである。
まさに光陰矢の如しなのに、本人は能天気に生涯現役のつもりでいるがさてどうなるか。