昨年末に訪中して、中国の半導体ベンチャーとのコンサルタント契約がほぼまとまっていたのであるが、その直後に日中間で例のトラブルが発生した。

 

 


 相手の会社は中国の国策企業(というか海外からメンバーを集めるような企業の大半は国策企業なのであるが)であり、こういう事態になると何らかの圧力がかかったものと思われ、話が進まなくなってしまった。
 まだ完全に白紙に戻ったわけではないが、半導体業界は進歩のスピードが速いのでもはや昨年末のプロジェクト推進計画などはあまり意味がなくなっているだろう。

 高市首相もつまらない発言をしたもので、日本が周囲をどんな国に囲まれているかを考慮すれば、政治家が本音を言うなんてあまりにも危機感が足りないと思う。日本はゼレンスキーレベルのとんでもない政治家を選んでしまい、しかも先頃の総選挙では圧勝してしまうという有様で・・・まあ日本は戦時下にあるわけではないからまだいいようなものではあるが。

 

 


 そんな国家レベルの話はともかく、個人レベルでは今回の件は非常にダメージが大きい。
 サラリーマンを辞めてフリーランスになって以来、誘いがあったコンサル先は、中国60%、米国20%、その他の国15%、日本5%という感じで、その中でも条件が良いのは中国企業が多い。特に今回の件はお互いの役割分担やマイルストーンを具体化するところまで話が進んでいただけに未練が残る。
 まあそれが中国という国のカントリーリスクであると言ってしまえばそれまでだが、下記ブログの様に今後の日本人(特に年配の方)は海外にチャンスを求めるしかないと思われるだけに残念である。

 

 


 しかしながら今回の件がもしうまくいったとしてもそんなに長続きするはずはないので、今後は本業?からの収入等はあまり期待できないものとして、これからの長い人生(あまり長くはないかもしれないが、“最悪の”事態に備える必要はある)をどのように過ごすかを考える必要がある。

 それには経済面と生き甲斐という面の両方から考える必要がある。
 まずは経済面に関しては、下記ブログに書いたように投資からの収益をその柱にするしかないだろう。

 

 

 本格的に投資を始めて以来のこの3年ほどの利益率は年20%ほどであり、これは世界経済が好調であった例外的な時代であるにせよ、かなり手堅い運用(資金の半分近くはMMFや米国債等のほぼノーリスク商品で運用して暴落時に買い向かえるのようにしている)をしてこの数字であるので、悲観的に見ても平均年利10%程度は達成できそうな気がする。
 そして私には金がかかる趣味がないので、年利10%の投資収益があげられれば、私や家族がとんでもなく自己負担が生じる難病にでもかからない限り、何とか生活に支障をきたすことはなさそうである。

 次に生き甲斐という面に関しては・・・
 生き甲斐とは何かは人によって異なるであろうし、また同じ人でも年齢によって変わってくることも考えられ、最終的には“生きてるだけで丸儲け”の心境に達するかもしれない。
 しかしながら私は古稀を過ぎた現在でもその境地に達するどころかまだまだ未練タラタラで・・・

 まずは本業(従来の本業と云うべきかも)の職業面に関しては、私は下記ブログのようにセラミックスのスリップキャスティング技術に関しては世界の第一人者(これを専門にしている方は世界に百人もいない超マイナー技術なので、小学生がクラスで一番と威張っているようなものだが)と自称している。

 

 

 サラリーマン時代もコンサルタントになってからもこの技術を飯のタネにしてきたし、現在まだ残っている少数の海外顧客もだいたいはこの技術に関する私の知見に期待しての契約となっている。
 この面でまだ職業人として通用しているというのは私の大きな生き甲斐だったのであるが、だんだんと顧客が減ってきて・・・今回の中国の件も先方がどうしてもということであれば国策の壁などは乗り越えることができたのであろうが、それが現在のところはうまく進んでいないということはまあ自分のポジションはその程度かと・・・

 また本業以上に長く現役生活を続けている囲碁では、全日本5位に2回なったのをベストスコアとして、この10年以上は県代表にすらなれない戦績で(下記ブログ参照)。

 

 

 やはり勝負の世界である以上は参加することに意義があるというわけにはいかず、これもまた生き甲斐としては“劣化”していることは否めない。

 まあこうしてみると生き甲斐を他人との比較や他人からの評価に求めてしまうと、どうしても齢を重ねると辛くなるのはやむを得ない。とはいえ他人は気にせず自分らしく生きればいいという境地に達するのは私の性格からは(私だけでなく世界の大半の人にとってもかな)難しそうだ。

 とここまで書いてきて気がついたのであるが、このようなブログを書くというのは歳に関係なく愉しめるし、歳を重ねれば書く内容も増えるので生き甲斐として好適かもしれない。老いの繰り言が増えるだけかもしれないが、老いてしまえばそれにも気がつかないだろうし、日常会話ならまたあの人同じこと言ってると顰蹙を買うであろうこともこんなほとんど誰も読まないブログなら問題ないだろう。

P.S.以上で終わりにしようと思ったのだが、画像が一枚もないのは寂しいので今流行りのAI(使ったのはGeminiのNano Banana 2)で”古稀を超えての生き甲斐を象徴するイメージ“というお題で作成した画像を以下に示す。


ウーム、老夫婦が陶芸を愉しんでいるシーンらしいがどうも私のイメージとかけ離れているので、もう少し色っぽくなりませんかと注文してみると下記の画像に修正してきた(笑)。AIが人間の願望に応えるのはまだまだみたいでむしろ安心した。

映画
レッドクリフ(原題 赤壁) PartⅠ 2008 PartⅡ 2009
監督 ジョン・ウー(呉 宇森)(1946-)
キャスト 周瑜 (175-210) :梁 朝偉(トニー・レオン)(1962-)
            諸葛亮孔明 (181-234):金城武 (1973-)
               曹操 (155-220) : 張 豊毅(チャン・フォンイー)(1956-)
     小喬(実在不明):林 志玲(リン・チーリン)(1974-)

原作
三国志演義 元末明初(元明の王朝交代は1368)
作者 羅漢中? (1330?-1400?)

原作の原作
三国志 (284-297頃、西晋による三国統一は280)
作者 陳寿(233-297)



 レッドクリフは中国映画史上最高の製作費を投じ、中国映画としては中国史上最高のヒットを記録し、原作となった三国志(演義)は世界でそして特に日本で最も有名な中国文学であろう。
 個人的には小学2年生で吉川英治の三国志(1939-1943 第二次大戦の最中)を読んで歴史(小説)に嵌る契機となり私にとっては吉川三国志のイメージが強いのに対し、中学時代に原作の三国志演義を読んで日本人と中国人の感性の違いに驚いた覚えがある。なお横山光輝の漫画(画像下:1971-1987)は吉川三国志の方を原作としている。

 



 また原作の三国志演義はあくまで歴史小説であって、歴史書である三国志に描かれた時代から1000年ほど後の元末明初に書かれている。
 中国の正史は次の王朝が編纂するという習慣なので三国志は三国を統一した西晋(265-316)の時代に書かれ、日本では魏志倭人伝の部分が有名である。
 なおこの記載を基に邪馬台国はどこにあったかという議論が延々と続いているがあまり意味がないと思われる。この部分は作者である陳寿の空想物語で、九州にも畿内にもそんな国はあったし、蓬萊の国という程度に適当に書いたもので三国志の中のちょっとした遊びと解釈しておけばいいのではないかと。



 さて香港の(代表作は“男たちの挽歌”1986)ジョン・ウーはハリウッドでも(代表作は”ミッション・インポッシブル2“2000)大成功したが、いよいよ中国本土に乗り込んで三国志演義を映画化するにあたり、最大の山場である赤壁の戦い(208)をクライマックスとして題名も赤壁=レッドクリフ(赤い崖)とした。

 確かに赤壁とはタイトルロール?にふさわしい雄大な字面であるが、実際の戦場がどこであったかは諸説あり、少なくとも蘇東坡が“赤壁賦“(1082)を詠んで現在観光名所になっている場所(画像下)とは違うようだ。



 レッドクリフは曹操が赤壁の対岸にある鳥林の本陣で劉備・孫権の捕虜になるというとんでもない展開で、三国志に慣れた我々の感覚ではかなりの抵抗があったが、そもそも三国志(演義)自体がその時代から千年ほどたって書かれた歴史小説であるのだから、ジョン・ウー流の脚色もありかもしれない。

 それでは史実はといえば、赤壁の戦いはそもそも曹操と周瑜の戦いであり、劉備軍は全く参加してないし、疫病を恐れて長江を渡ることを諦めた曹操は示威行軍のみで撤退したというのが結末で、逃げる曹操を劉備の諸将が追撃する(演義では曹操が三度高笑いするシーンが有名)というのは全くの虚構らしい。

 したがって大規模な水戦があったのかどうかは不明なのであるが、少なくとも曹操が撤退した以上形勢不利であったことは間違いなく、三国志前半のクライマックスとして赤壁の戦いは最大の見せ場となっている。もっとも映画では夜間の火攻めであるためせっかくのスペクタクルシーンが炎に包まれて何かごまかされたように感じたが、まあ製作費の関係からやむを得なかったのだろうか。



 そして孔明がらみのエピソードもすべて虚構で孔明は戦場にはいなかったのであるが、孔明が曹操と戦うように説得すべく呉に派遣されたというのは史実らしい。ただし劉備は最初から呉を裏切るつもりで使い捨てにすべく孔明を派遣したのであって、呉の方も全く劉備には期待していないし孔明の説得などには関係なく曹操に攻撃されたから反撃したまでであって、孔明も劉備の裏切りがバレないうちにさっさと退散したのであろう。

 そして劉備は呉を裏切って曹操と周瑜が戦っている戦場には現れず、漁夫の利で荊州の占領に成功する。孫権はその動きを知っていたが、そもそも周瑜は呉の孫氏からは半独立した勢力で周瑜に荊州まで占領されては勢力が大きくなりすぎて本家が危なくなるということで黙認したのではないだろうか。
 そして赤壁以後周瑜は荊州を劉備から奪取すべく準備中に病死するが、これも毒殺説が強く誰が毒殺したかといえば孫権であろう。そして周瑜の死後、安心?して孫権は荊州奪取をはかり、ついに荊州を守っていた関羽を敗死させて呉に併合する。

 三顧の礼や名軍師としてのエピソードなどはだいたいフィクションであるが、どうも孔明は劉備の生前にはあまり重用されていなかったようであり、劉備の生涯の大事業である荊州奪取にも続いての四川奪取にも貢献した様子がない。
 孔明が大権を握るのは劉備の死後であり、その劉備の死も、荊州を呉から奪回すべく遠征中に、孔明が留守居の四川本国から救援・補給を送らないための敗死に近い病死であって、両者は水魚の交わりどころではなく犬猿の仲ではなかったのか。
 これを三国志は劉備の義弟関羽を殺されたことによる私怨からの戦いとして自業自得のように書き、逆に孔明の六度にわたる魏への出征(最後に五丈原で戦病死)を出師の表などのエピソードと共に大義の戦として賞賛するのだが如何なものか。



 普通に考えれば蜀の将来は長江を下って荊州から華南を制することにあり劉備が荊州に拘ったのは妥当と思われる。
 当時は経済の中心が古来の中原の地である黄河中流域から南の長江流域に移りつつあり、地縁のある荊州から豊かな南を伺えばあるいは蜀にもチャンスはあったかもしれない。砂漠地帯を流れる黄河(実際に見て、本当に黄土により黄色いのには驚いた)と穀倉地帯を流れる長江(これは川というよりも海に近い感じ)の経済力の差は歴然であり、当時から現在まで軍事・政治の北に対して経済力の南という構図は変わっていない。
 それを孔明は古典でも読みすぎたのか中国の中心は中原にありとして強大な魏を北伐するとは意味不明の戦略であり、出征するたびに敗れて国力を消耗し、ついに蜀は自滅してしまったというところが客観的な評価ではないだろうか。

 孔明の神格化は三国時代の史書が書かれる晋の時代に始まると思われるが、晋朝の実質的な初代皇帝は司馬懿仲達であり、神のような名将孔明を破った仲達はもっとエライという意味がこめられてのことだろう。



 なお三国志は日本でも人気が高いため、あちこちに赤壁に見立てられた場所があり、その中でも本家以上にスケールが大きいのが隠岐・知夫島の赤壁なら、最もスケールが小さい(笑)のが神田川の御茶ノ水駅辺りの小赤壁であろう。北岸の断崖絶壁?(写真上、こんな断崖に商店街がへばりついているのにはいつ見ても驚かされる)を曹操が本陣を構えた長江の北岸の鳥林に見立てれば、南岸の御茶ノ水駅は周瑜が布陣した赤壁となる。

 このあたりの神田川はもちろん人工の水路であり、家康の入府以前は駿河台と本郷台はつながって小高い台地となっていたのを、真中を掘り割って神田川水路を通したのである。その際に治水を考えて深く掘ったもので、御茶ノ水駅のあたりは見方によっては“深山幽谷”(笑)の雰囲気がある。
 その渓谷美?を愛でて江戸時代の文人墨客(第一変換は勃起薬でした)はこのあたりを“小赤壁”を命名していた。



 なおJR御茶ノ水駅の新宿方面行ホームのど真ん中には巨大なコンクリート製間仕切り(画像上)があり、なぜこんな邪魔な構造物があるのかと最初は不思議に思った。
 ちょっと見上げてみて、これが神田川を跨ぐ聖橋の橋脚(画像下)であることに気付いたのはかなり後である。



 このあたりは私にとっての東京の原風景である。
 浪人するために上京して一人暮しをはじめ、御茶ノ水にある予備校に通うため毎日御茶ノ水駅から神田川を眺めた。あの頃はかぐや姫の“神田川”が大ヒットした1973年の直後であり、これがあの有名な神田川かと感激したものである。ただし歌で描写されたのはもっと上流の西早稲田の辺りであるが。

 そして一番思いがこもっているのは、市ヶ谷駅前を流れる神田川(実際にはこの辺りは飯田橋駅前で分岐した本流の盲腸的部分で江戸城外堀の一部)である。
 市ヶ谷には日本棋院の総本部があり、囲碁の全国大会はたいていここで開催される。
 高校選手権以来55年にわたりにここを訪問し続けた。 朝、試合のため市ヶ谷駅に降り立つときの神田川は光り輝き希望の象徴のように見える。しかし夜になり負けてとぼとぼと帰るときの神田川は泪が流れているように感じる。いつかこの川を歓喜の涙で曇った眼で見たいものであるが・・・
 私は団体戦では3回(大学選手権で2回、社会人になってから支部対抗で1回、そのうち2回は個人で全勝)日本一になり、仲間と市ヶ谷を飲み歩いた。しかしやはり肝心の個人戦で結果を出せていないというのはトラウマとしていつも心の中にひっかかっており、神田川を眺めるとついそれを思い出してしまう。



 三国志演義には囲碁に関する有名なエピソードとして、肘に毒矢を受けた関羽が名医華佗の治療を受ける場面(画像上)がある。関羽は麻酔を断って手術の間中、馬良を相手に囲碁を打ち続けたとされ、中国では三国志キャラクターで圧倒的に一番人気(神様に祀り上げられて数万の関帝廟がある)である関羽の豪胆さを示している。
 なお日本では一番人気は孔明で二番が吉川三国志の影響で曹操であろうが、中国では曹操は不動の大悪役でレッドクリフでも赤壁に軍を進めたのは周瑜の妻である小喬(画像下のリン・チーリンが傾国の美女という趣で、当時はアジア一の美女とされていた)に懸想したためという設定だった。



 レッドクリフでは曹操が敗北を予感して激しい頭痛を覚え、侍医の華佗を呼ぼうとしたが彼はもういなかったという様々に解釈できるシーンがある。
 私は曹操の老いと後悔を華佗との関係で象徴したものではないかと思っており、古稀を超えた私には神田川=小赤壁の流れを歓喜の涙で曇った眼で見ることは永久にないであろうということと重ねて考えてしまう。
 

映画

風と共に去りぬ (原題 Gone with the Wind)1939

製作 デヴィッド・O・セルズニック (1902-1965)

監督 ヴィクター・フレミング (1889-1949)

キャスト レット・バトラー:クラーク・ゲーブル (1901-1960)

     スカーレット・オハラ:ヴィヴィアン・リー (1913-1967)

 

原作

風と共に去りぬ (原題 Gone with the Wind)1936

作者 マーガレット・ミッチェル (1900-1949)

 

 

 

 言うまでもなく映画史上最も成功し(インフレを考慮すると興行収入史上1位)、最も評価が高かった映画でもある。

 1939年という第二次大戦前の映画であり、無声映画からトーキーの時代になって10年近くしか経っていないにもかかわらず、その完成度や大作感は現在のレベルで考えても驚異的であり、近年に至るまで史上最高の映画という名声に包まれていた。

 

 原作は映画化のわずか3年前に出版された大ベストセラー(下写真はマクミラン社からの初版)であり、一主婦の生涯一冊だけの小説であるから文学的評価はともかくとして、米国文学としては史上最も有名な作品であることは間違いないだろう。

 

 

 私は中学1年で囲碁を始めてゲーム廃人状態になる前の小学生時代は文学少年(笑)であり、ストーリーが単純でわかり易い(これは誉め言葉です)この小説には感銘を受けた。

 また映画も当時はこのような古典的名作は数年に一度は名画座ではなくロードショー扱いで(今は名画座もロードショーも死語かな)リバイバル上映されており、原作を読んでストーリーを知っていたためもあってか(そうでなければ小学生にはスカーレットの女心の機微は難しかったかも)大感激し、洋画に嵌るきっかけとなった。

 

 このように一般的な評価も個人的にも史上最高の映画としての評価が長年確立していたのであるが、近年になってその評価は大逆転し、現在においては公には口に出すのも憚られるようなおぞましい映画ということにされてしまっている。

 

 これは言うまでもなくこの作品の原点に黒人差別の思想が流れているとされたからである。風と共に去りぬという題名そのものが以下のダウソンの誌から引用されたもので・・・

 

There was a land of Cavaliers and Cotton Fields called the Old South.

Here in this pretty world, Gallantry took its last bow.

Here was the last ever to be seen of Knights and their Ladies Fair, of Master and of Slave.

Look for it only in books, for it is no more than a dream remembered, a Civilization gone with the wind...

かつて在りし旧き南部と呼ばれた騎士道と綿畑の地。

その麗しい世界で最後に花を咲かせた勇気ある騎士達と艶やかな淑女達、そして奴隷を従えた主人達。

今は歴史に記されるだけの儚い思い出となる・・・大いなる文明は風と共に去りぬ。

 

 要は黒人奴隷制をその基盤として繁栄した南部白人文明が風(南北戦争)によって崩壊したことを描いたこの作品は、その文明を懐かしがり賛美しているため黒人差別に直結していると断罪されたわけである。

 

 

 上写真はアトランタ駅前に大勢の南軍負傷者が寝かされている中をスカーレットが彷徨う場面であるが、カメラがぐんぐん引いていくと南部連合の星と十字のあの旗がフレームインしてくるという有名なスペクタクルシーンであり、“ブラッククランズマン”(2018)の冒頭でもこのシーンが切り取られて差別国家南部連合を賛美していると(暗に)糾弾されている。

 

 しかしながら時代が違えば価値観も異なるという常識論は別にしても、この小説・映画はそういう文明・価値観は時代遅れで滅びるべくして滅んだという立場に立っており、旧き良き時代としての懐かしさと共感は表明しているものの、歴史の流れとして滅亡は不可避であったという史観が根底にあるのではないだろうか。

 その点は同じくブラッククランズマンに取り上げられた“国民の創生”(1915 KKK団を南部復興の英雄のように描いている)と反対であり、この両作品を同列に取り上げるのは如何なものであろう。

 

 この原作はアトランタで生まれ育ったマーガレット・ミッチェルが南部への限りない共感をこめて描いたものであり、スカーレットはアイルランド系という設定(オハラO’Haraは小原庄助とは関係ない典型的なアイルランド人の姓)であり、ミッチェルもまたアイルランド系のカソリックである。

 

 

 そして父のジェラルド・オハラはアイルランドのジャガイモ飢饉(上記ブログのようにイングランドからの弾圧によりアイルランド人の半分近くは米国に移住した)の際に米国に流れ着き、ポーカー勝負で土地を得てそこをタラ(アイルランドのケルト文化聖地)と名付けたという設定であり、イングランド人からアイルランドの土地を取り上げられた経緯から土地に強い執着を持っている。そしてその気質はスカーレットにも受け継がれてWASPのヤンキーからタラを守り抜き、最後はレットに去られても私にはタラがあると力強く立ち上がるのがラストシーンである。

 

 ただしアイルランド系というだけではスカーレットの魅力が伝えきれないとして母親のエレン・オハラはフランス系の上流階級(フランス貴族出身と翻訳されたものが多いがこれは誤訳であって、ハイチからの移民で米国移住後に成功した一族)という設定も付け加えられている。米国南部はフランスが開拓し1803年のルイジアナ購入によって米国領になった経緯からフランス文化の影響も強いため、これによりスカーレットの個性的な美貌と火のように激しい気性の南部美女(Southern Belle)というバックボーンが裏付けられている。

 

 

 そしてこの映画の空前の成功の半分はスカーレット役にヴィヴィアン・リー(写真上)を起用したことにあると思われる。

 映画化に当り、レット役のクラーク・ゲーブルはまさにそのまんまのキャラクターであるのですぐに決まったが、肝心のスカーレット役は撮影が進んでもなかなか決まらず、スカーレット探しの大キャンペーンが世界中で繰り広げられたいた。

 

 画像下は前半のクライマックスであるシャーマン将軍の攻撃によるアトランタ大炎上シーンであるが、その撮影現場にヴィヴィアン・リーが現れ、炎をバックに彼女を見た製作者のセルズニックは”スカーレットがここにいる”と即断したといわれている。

 

 

 純英国人のリーがこの役を得るのには南部人からかなりの抵抗があったようだ。

 しかしスカーレットは南部気質からはむしろ正反対の異端児のような存在であり、そうい意味ではセルズニックによるこのキャスティングは大成功であった。なお米国では映画は製作者のものであってアカデミー作品賞は製作者に与えられるが、欧州では映画は監督のものであってカンヌのパルム・ドールやグランプリは監督に与えられる。

 映画史上の超大物製作者であるセルズニックはヴィクター・フレミングだけでなく他の二人の監督にも撮影させたものを繋ぎ合わせており、スカーレットの衣装に至るまで気に入らないと撮り直しさせていたそうである。

 

 

 特に有名なシーンはスカーレットがマミー(演じたハティ・マクダニエルはアカデミー助演女優賞を受賞し、黒人のオスカー受賞は史上初)の助けを借りてコルセットを締め上げる上記画像で、セルズニックはウェストを何と46cm!まで締め上げさせ、これが可能なヴィヴィアンがこの役を得る決定打になったとか。

 

 まあ5年後であればスカーレット役は後にセルズニックと結婚するジェニファー・ジョーンズ(1919~2009, 代表作は”慕情“1955)のものだったであろうから、まさにヴィヴィアン・リーの登場はこの映画にとってベストタイミングであった。

 

 なおこのリーという姓は当時の不倫相手で後に結婚するローレンス・オリビエ(史上最高の俳優・シェークスピア役者と云われ、代表作は主演・監督の”ハムレット“ 1948)の前の夫の姓であるが、ブルース・リーのような中国起源で世界最多の姓である”李”とは関係がない。これは南軍のリー将軍のような英語圏の姓であり、語源は草地(葉のleafも同様)である。

 ヴィヴィアン・リーはオリビエとの共演から有名になるがすぐにオリビエを押しのけでも自分が目立とうするキャラクターになり、その押しの強さがスカーレットにピッタリと思われたのかもしれない。

 

 また南北戦争といえば“風と共に去りぬ”があまりにも有名であるため、南軍の根拠地はアトランタなどの現代のイメージの南部と誤解しがちであるが、米国の南北の境界線ははるかに北であり、バージニア州から南が南部とされている。(下記ブログ参照)

 

 

 なおバージニアは元々が英国系では米国最古の地域(語源は処女王?エリザベス1世から)であるが、南北戦争で賊軍(笑)にされたことにより、年代も新しいし歴史的意義も小さいメイフラワーのマサチューセッツの方が米国の原点みたいな扱いになってしまった。

 

 北軍の首都ワシントンと南軍の首都・バージニア州のリッチモンドは車で1時間ほどの距離であり、主要な戦場も全てこのあたりであって、南軍の主力もバージニア軍であるため、これはもう日本人の感覚では北々戦争である。

 したがってアトランタ戦線から続いてのジョージア州を横断しての“海への進軍”は軍事的には大きな意味はないのであるが、その民間被害があまりにも大きかったことから南部連合の戦意を失わせるのに決定的な役割を果たしたし、アトランタと云えば南北戦争というイメージはこの映画によって決定的になった。

 

 そして現在では、結局は経済力の差で南軍が敗れた時代から状況は大きく変り、アトランタを中心とした南部のサンベルト地域は米国経済の中心となっている。

 

 

 今から35年ほど前、私は生れて初めて米国を訪問してアトランタ・ハーツフィールド空港(画像上、デルタ航空の本拠地で当時も今も世界一発着便が多い空港であり、現在は初の黒人市長の名前も冠してハーツフィールド・ジャクソン空港と改名されている)に降り立った。

 サラリーマン時代に私が勤務していた会社が初めて米国に事業所を建設するにあたり、まずは同業他社の工場を居抜きで買うための交渉のためである。

 

 なお私は化学系の研究職としてサラリーマン時代をずっと勤めていたのだが、下記ブログに書いたように初の欧州進出時の事業所の買収・売却交渉にも関った経験から外国人相手の交渉力に長けていると思われており、この手の仕事がよく廻ってくるようになっていた。

 

 

 

 初めての米国では色々と驚かされることが多かった。

 

 まず第一に面食らったのが、その事業所買収の交渉相手となったのが、こちらも2日前に初めて米国に来てその会社に雇われたばかりのスウェーデン人Vice Presidentであったことで、生まれて初めて米国に来た外国人同士が米国事業所の買収交渉を行なうという事態に、なかなか米国というのは面白い国だなと思った。

 

 そして買収交渉であるから、あれはいくらこれはいくらと金額を詰めていく(といっても基本的には残存簿価で決まる)のであるが、驚いたことには土地代の項目がない。いや別に荒野のど真ん中ではなく、アトランタという人口500万都市内の工業団地なのであるが、広大な米国においては土地というのは固定資産税がかかり所有するとむしろ重荷であるので、商業地や住宅地でもない限り土地は無価値であるらしい。

 

 そして最後は彼らの話す英語である。

 その工場を居抜きで買うため、残ってもらう従業員を選別しなければならず候補者を一人ずつインタビューするわけであるが、これが深南部訛り・黒人訛り・メキシカン訛りでさっぱり理解できないのである。まあ元々私の英語は交渉事で喋りまくって相手を煙に巻くことで鍛えられたのでヒヤリングは苦手というのもあるのだが。

 そこでやむをえず彼らの英語を“普通の”英語に直す通訳?に来てもらったのであるが、米国人だから英語が上手いだろうと考えるのは大変な誤解であるとわかった。

 むしろnative speakerというのは生まれたときから地方の訛った英語を使って育っているので、ある程度大きくなってから正式な英語を習う外国人の方が英語が上手くなるのが当然なのである。これは詭弁でも何でもなく、私がこれまで会って英語がうまいと感じた方でnative speakerは一人もいないし、生真面目な日本人は最も英語が上手い方が多いと思う。

 

 その事業所はアトランタでも治安の悪い地域にあり、買収交渉から数日後に売主はシャットダウンする予定なので、もし買うつもりならその間は中の設備等が盗まれないように警備する必要があった。

 しかしながら買収を決定するまでには社内の煩雑な手続きが数ヶ月続くと予想され、その間は警備員を正式に雇うことはできなかった。

 

 そこで継続雇用予定の方を集めて正直に云った。”私は単なる担当者であってこの事業所を買収するかどうか決定権はありませんし、それどころかこの案件からは今回の交渉が終わり次第離れることになっています。しかし買収を進めるように強く働きかけるつもりですし、そのときは皆さんを再雇用するように最善の努力をします。ですから私を信用していただけるならば、この事業所の警備を皆さん自身でお願いします”

 彼らは数ヶ月の間事業所の警備を無償で引き受けてくれ、私はもう手を引いていたが買収も無事に成功した。そして十数年後に近くに寄る用事があったので、久しぶりにその事業所を訪問した。するとそのときのメンバーの大半は残っており歓迎会を開いてくれた。”Southern Hospitality”という言葉に代表される南部気質を強く感じた思い出である。

 

 この南部気質は北部のヤンキー気質(日本ではヤンキーというと全く違う意味になってしまったが)と対立させて風と共に去りぬで繰り返し描かれている。

 

 

 そしてこの南部気質と南北戦争こそがアトランタの最大の観光資源であり、ストーンマウンテン(上写真:世界最大の一枚岩で南軍のリー将軍たちの世界最大のレリーフが彫りこまれている)やサイクロラマ(アトランタの戦いのジオラマを360度回転する観客席から観るアトラクションであり、現在は設備が老朽化して廻らなくなったらしい)でも、サザン・ホスピタリティーの過剰演出がちょっとうっとうしいくらいである。

 

 そのアトランタ事業所は次々と規模を拡張し、今ではその産業分野では世界でも屈指の大工場になった。

 日本がまだ世界一の経済大国であった時代の思い出であるが、この時代も風と共に去ってしまった。

 

 2022年2月24日に始まったウクライナ侵攻はまもなく4年になり(下画像は最新戦況)、太平洋戦争(真珠湾から終戦まで)の期間を超えた。
 講和の大枠はまとまりつつあるが、ウクライナ国民を犠牲にして戦争を継続したい勢力も動いていてまだまだ情勢は流動的である。



 日本の国益から考えても、直ちに停戦が実現してロシアを中国側に追いやる愚を正してロシアとの関係を修復し、米国が中国と正面から対峙できるような国際体制を築くのが理想であろうし、そうならなければ80年続いた米国の覇権が近い将来中国に移ることは不可避であると思われる。
 これを正反対に解釈してロシアの侵攻を認めれば今度は中国が台湾や尖閣諸島に侵攻する(事実は全く逆で中国が望んでいるのはウクライナで戦争が続き米国のプレゼンスが極東で小さくなること)と頓珍漢な主張をする方や、ここでロシアに譲歩すればミュンヘン会談みたいに次は東ヨーロッパだと(事実は全く逆でウクライナ程度に苦戦しているロシアにそんな余裕はなく平和を望んでいるのはロシア側)戦争継続を主張する方もいて・・・というか日本の大手マスコミはだいたいこういう論調であり唖然とさせられる。

 そこで侵攻開始直後から節目・節目での日記を下記に引用し、また根本的な原因であるウクライナとロシアの因縁を振り返ってみる。

個人情勢とウクライナ情勢
(2022年02月28日 作成)
 昨年末の下記ブログで、ようやくコロナが収まって海外中心生活が始まったと書いたが、再流行によりまた海外渡航は難しくなった。

 

 

 コンサルタント(と自称しているが要は自営業)として海外にしかいない顧客訪問ができずTV会議等でお茶を濁しているようでは大幅収入減を避けられず、40年以上続いたサラリーマン生活がいかに気楽だったか思い知らされることになった。
 まあまだ体力が残っているだけ何とかなるさと楽観的に考えるようにしているがさてどうなるか。

 こういう事態に備えて投資でもやるかと数年前から金融資産のかなりの部分をドル建ての株式・投資信託等にシフトしてきた。(下記ブログ参照)

 

 

 最近まではまずまずの運用実績だったのであるが、数日前のロシアによるウクライナ侵攻により一気に暗雲が。ミーハーなので流行りのVYMやSPYDそして配当王銘柄等を買っていたのであるが、まあだいたいこういうのは流行る前に仕込んでおかないと儲からないものなのかもしれない。
 いや大暴落でも起きるのなら逆にチャンスであり残っている現金で買い増せばいいのであるが、そんな情勢でもなくただ経済が不活性化してじりじりとすべての価値が下がっていくという最悪の事態が想定されている。

 ・・・と書くと世界の平和が脅かされて戦場では多くの死者が出ているのに何と利己的なと思われるかもしれないが、どう考えてもこの戦争は容易に避けることができたのにと考えるから残念なのである。



 世間ではこの戦争をロシア・プーチン大統領の暴挙ととらえる論調が大半であるが、私の印象は全く逆でありウクライナ・ゼレンスキー大統領のポピュリズム(ですらない無責任主義)に大きな原因がありそうに思う。

 その前に私が15年ほど前に“ドイツの街角からドイツ史を考える”というトピックで書いたロシアとウクライナの関係を引用すると・・・

2007年11月15日 作成の“30年戦争とドイツ統一”から一部引用
(前略)
 現在ヨーロッパを形成する三大民族といえば、ゲルマン人、ラテン人、スラブ人ということになるだろうか(歴史的にはこれに加えてギリシア人、ケルト人が重要であるが現在は一地方勢力にとどまっている)。
 この中でゲルマン人・ラテン人というのはゲルマン民族が大移動によりラテン人地域を完全に占領してしまい、そのゲルマン人がラテン化して新たなラテン人を形成するという経緯をたどったこともあって、何となく同族感がある(同族だから仲がいいというわけではなく、同族だから憎み合うという面はある)。

 これに対して異質な存在はスラブ人であり、実はスラブ人というのはヨーロッパの中だけでなく世界の中で見てもかなり異質である。
 スラブ人というのは現在数億人を数える大民族(ヨーロッパ内ならゲルマン人よりもラテン人よりも多い)でありながら、その歴史への登場は極めて遅い。通常ナントカ民族といわれるものは紀元前数世紀…すなわち歴史の記述が始まった頃にはもうその存在がはっきりしていなければおかしいのであるが、スラブ人らしき存在は歴史の中で見え隠れしてあまりはっきりしないというか、スラブ人とは何か?という定義もはっきりしない。はっと気がつくといつの間にか大勢力となっていたという感がある。

 現在のスラブ人の主流である東スラブ人の存在がはっきりしてくるのは僅か1000年ほど前のキエフ大公国の時代からである。



 キエフ大公国の起源はいうまでもなくスウェーデンバイキングであり、スウェーデン人はバルト海から黒海に至るルートをおさえて東ローマ帝国、そしてその向こうのイスラム圏との交易で栄えた。そのルートの大動脈が黒海に注ぐドニエプル川でありその中流にあるキエフが繁栄の中心となった(画像上)。このあたりはかつてスウェーデンから進発したゴート人が東西両ローマ帝国を席巻する前に支配していた地域であり(東ゴート族、西ゴート族というのはドニエプルの東岸・西岸を支配したことからの命名であり、それぞれ東のイタリア・西のスペインで大征服王朝を開いたというのは偶然の一致であるが受験生には憶えやすい)スウェーデン人にとっては馴染み深い地域である。

 そのキエフ大公国はいつの間にかゲルマン・スウェーデン人の国から“スラブ化”してしまい…と書いてある歴史書が多いが、スラブという存在が既にあってそれに同化したのではなく、スラブ(少なくとも東スラブ)の起源がこの時点であったという方が実態に近いのではないだろうか(下記ブログ参照)。

 

 

 そのスウェーデン人というか原スラブ人?はキエフ・ルーシと呼ばれておりロシアの語源はこのルーシ(何を意味するかは諸説ある)である。
 その原ロシアというべきキエフ大公国はモンゴルに飲み込まれるが、数百年に及ぶキプチャク-ハン国の支配を脱したとき、繁栄の中心はモスクワに移っていた。

 ロシアの起源というべきキエフ大公国の歴史上の直接後継者がモスクワのロシアかキエフのウクライナかは当事者にとっては大問題である。ロシア及びその後継者であるソ連が強力でウクライナを支配していた時代にはこの回答は明確であり、ロシアこそはその後継者であって自分たちを大ロシア人と呼びウクライナ人をその傍流として小ロシア人と呼んで蔑んだ。そしてロシアという国名も自分たちのものとしたため、ウクライナ人はやむをえずウクライナ(土地・国土というような意味)という名前を選んだ。なお国名というのは非常に重要で、例えばインド・パキスタンが分離独立する際、ネールがまず要求したのは栄光あるインドという名前であり、パキスタンが例えばイスラム・インド共和国と称することは断固拒否した。

 

 

 しかしながら上記ブログに書いたように常識的に考えて原ロシアであるキエフ大公国の後継者は同じ場所にあるウクライナであろうし、ドニエプルから永遠の都コンスタンチノープルに通ずる開放性は、ロシアの母なる川ボルガの閉鎖性(世界最大の内陸河川であり、注ぎ込むカスピ海は塩湖でどこにも流出口はない)・内向性とは相容れないものを感じる
(以下略)
(引用終了)

 当時はこのSNSの全盛時代であり、このトピックにも100件以上(半分以上は私以外から)のコメントがついて盛り上がったのも今は昔・・・とノスタルジアに浸ってもしょうがないので元のウクライナ情勢の話に戻ると。

 やはりソ連の解体はもう少し時間をかけてやるべきだったのにゴルバチョフが急ぎすぎて禍根が残ったと思うし、特にロシアとウクライナは歴史的にも面倒な関係にあったのでもっと慎重に考えるべきであった。
 クリミアがウクライナ領というのは歴史的にも地政学的にも無理があるし、今回の焦点となっているウクライナ東部やNATO加盟問題にせよ、ゼレンスキーが現実的な選択をしていればロシアの侵攻を招くことはなかったであろう。

 まあここまで来てしまっては落しどころはNATO加盟は棚上げされて東部諸州のかなりの部分は実質的にロシアに編入されることになるしかないと思われるが、ロシアに対する経済的締め付けはますます強化されるだろうし、それは結果的に西側のビジネスにも大きな悪影響を及ぼすし、肝心のウクライナも衰退がこれまで以上に加速してくると思われる。
 まさに関係者すべてが損をするという最悪のシナリオであるが、ゼレンスキー本人は本職?の千両役者を気取り命を懸けても徹底抗戦を唱えている。

 まあ遠い国の話であるし日本にはあまり影響がないように思われるが、これをアジア情勢にも関連付けてロシアの暴挙を許せば中国も勢い付いて台湾や尖閣諸島侵攻につながるといった論調が一部にあるようだ。
 確かにゼレンスキーのポピュリズムは、韓国歴代大統領が反日政策を競って国民の人気取りを図ったり一応西側陣営にありながら中国寄りに行動するなどしてて逆に国益を損ねていることに似ているが、この事変の影響はそこではないと思う。


 即ち中国がロシアの侵攻を黙認しているように感じられるのは、次は自分たちも台湾に侵攻する予定だからというよりも、逆に米国の力が欧州方面に向けられて極東でのプレゼンスが小さくなればそれだけ歓迎というわけであり、中国にとっては米国等の西側がウクライナに肩入れすればするほど好都合と考えているであろう。

 なお日本では太平洋戦争末期の参戦からシベリア抑留の影響でロシア嫌いが多く私もその一人であるが、実はロシア人そのものはかなり親日意識が強い国民性である。

 

 

 これは私が勤めていた会社が初の米国事業所を設立するときの買収交渉や立ち上げを担当し(上記ブログ参照)、当時はソ連崩壊の直後で米国に亡命してきたロシア人技術者を採用することにより、一時その事業所はロシア人(ロシア系ユダヤ人)だらけになっていたので、彼(彼女)らと話してみて気付いたことである。

 何だか話が発散してしまったが、こういう世界情勢は他人事ではなく、私の懐具合にも大きく影響する。
 今後のコンサルティング顧客にせよ先進国はどうしても市場が飽和していて伸びないので新興国中心(仕事場が新興国であるという意味であって新興国資本の仕事とは限らない)になることは間違いないし、投資先も同様(ドル建てで投資しているのは米国だけでなく米国のファンド等が新興国に投資しているのも含まれるし、例えば投資の世界ではロシアは新興国扱い)であろう。そして戦争になれば真っ先に影響を受けるのは社会が安定していない新興国である。

 そして結局は平和でないと仕事も投資もパイというか富の総和が大きくならないのであるから伸びないことは明確である。
 したがって人間が常に合理的な選択をする生物であるなら戦争などは起きるはずがないのであるが、残念ながらそうなってはいないのは・・・

(2022年03月23日 追記)
 ウクライナは案外善戦している。
 もっとも善戦すればするほど、ウクライナ国民の犠牲は増えロシアも西側もウクライナ自体も経済的な打撃が大きくなり、すべてが損をするという状況が加速していくわけであるが・・・
 もっとも世の中は損得だけではないので、長い目で見ればウクライナにとってはロシアからはっきり決別できたという意味で良かったかもしれない。これは政治的に決別できたという意味ではなく(そういう意味では今回の結果次第ながらむしろ従属度合いが深まりそうであるが)、精神的・文化的にロシアからの決別が決定的になったという意味である。例えばロシアとウクライナの区別ができる方はこれまで世界にほとんどいなかったと思うが、今後はウクライナの存在は世界にはっきりと好ましく印象付けられたし、これは長い目で見ればウクライナにとってプラスになると思われる。

(2022年05月26日 追記)
 善戦はしたもののどうやら勝負はあった様だ。
 周囲の無責任な煽り立てる勢力を無視して一刻も早く講和へと進まないとウクライナは破滅してしまうし、世界経済への悪影響もはかりしれないものになる。
 ゼレンスキーのようなポピュリストを指導者に選んでしまったのはウクライナ国民にとって悲劇であったが、数百年単位で考えればロシアからはっきり決別できたことはウクライナにとって良かった・・・といえるように今後の国家再建に邁進すべきだし、日本を含む世界も戦争を煽り立てた愚行を反省してそれに協力すべきであろう。

(2022年06月15日 追記)
 もうこれ以上戦う意味はないのにゼレンスキーは何をしているのか?
 早く軍部がクーデターを起こして彼を引きずり下ろすか米国が引導を渡すかしないと本当にウクライナは破滅してしまう。
 米英はロシアに消耗戦をさせて弱体化を狙う戦略であろうが、ウクライナ人を犠牲にする冷酷な戦略である上にその狙いも達成できそうもないお粗末極まる結果に終わりそうである。

(2023年10月12日 追記)
 何とまだ戦いは続いている。ロシア軍はロシア人中心地域を確保して境界線を要塞化して待ち受けており、そこにウクライナ軍が反転攻勢と称して突っ込んでいるが1年近くほとんど境界が動いておらず無意味な犠牲者ばかり増えている。そうこうしているうちに中国は米国がウクライナに注力して極東でのプレゼンスが小さくなったのを好機に台湾への圧力を強めつつあり、パレスチナでもこれを好機にとハマスが・・・
 すべてが日本を含む西側諸国にとって悪い方に転がっており、まずは早く講和を結んで一つ片づけておかないととんでもない状況に陥りそうである。

(2024年07月16日 追記)
 トランプ勝利の確率が高まり、ようやくウクライナに平和が戻ってきそうである。バイデンーゼレンスキー(+ボリス・ジョンソン)の連係プレーによりウクライナは破滅的な損害を被ったが、早い復興に世界は協力すべきであろう。そして米国は国力を挙げて中国との対峙に臨むべきであり、ここで均衡を保っておけば一時世界をリードしたソ連が内部から崩壊したように・・・

(2024年11月24日 追記)
 来年1月のトランプ大統領就任を前に駆け込み需要ならぬ駆け込み攻撃が活発化しているが、これが続くほどウクライナは不利になっていくので早く交渉を開始して無意味な犠牲が増えるのを防がなければならない。
 プーチンは現状の両軍の境界線での停戦では不満であろうからこれをどういう条件を提示して抑え込むかが課題であろうが、安全保障の枠組みを保証することによりロシアを中国側にわざわざ追いやる愚を正して、米国は最大の焦点である中国との対峙に全力を注ぐ必要があるだろう。
 ”正義の戦い”という振り上げた拳をどうおろすかという問題については、国民第一と考えれば住民投票などで”民意”は明らかなのであるから・・・

(2025年04月24日 追記)
 どうやら現状の両軍の境界線での停戦でまとまりそうになってきた。
 戦いが続けばロシアはもっと前線を押し込めるので、これはウクライナにとってはかなり有利な案である・・・という常識が通用しない一部の戦争を継続したい勢力が存在するのでまだまだ予断は許さないが。
 
(2025年06月22日 追記)
 本日米国がイランの核施設を空爆して参戦、久しぶりにトランプがいい仕事をした。
 これでイランの現体制はほぼ崩壊し、中東の不安定要因が除かれて一段落。
 ロシアもこの情勢を見て現状維持くらいで満足し西側との関係修復に舵を切るのではないか。
 そしてこの地域が安定すれば米国は国力を本命の対中国振り向けることができる・・・
となると期待しているがさあどうなるか。

(2025年8月20日追記)
 どうやら和平の大枠が決まりつつあるようだ。
 ザポリージャ州とヘルソン州は現在の前線で分割。ルハンスク州とドネツク州はロシアに割譲で、ルハンスクを超えたロシア軍は撤退、ドネツクはまだウクライナの支配下に2-30%残っているが、ここを明け渡す代わりに米国・欧州が中心となって安全保障ということになりそうだ。
 イランの体制がひっくり返っていれば別の展開もあったかもしれないが、現状ではイラン・ロシアの同盟は緊密化してロシアは経済的に余裕ができていて、しばらく戦争を続けられれば結果的にドネツク全土は手に入りそうな情勢なので妥協はしないだろう。
 米国もここはロシアに貸しを作ってロシアが中国と接近するのを牽制したいだろうからまあこんな相場だろうか・・・現在のところは。
 そして戦争が長引くほどウクライナの条件は悪くなるので早く講和すべきであるがまた例によって・・・
 

映画
モンテ・クリスト伯 (原題 Le Comte de Monte-Cristo)2024
監督 マチュー・デラポルト アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール
キャスト エドモン・ダンテス=モンテ・クリスト伯:ピエール・ニネ (1989-)
     メルセデス:アナイス・ドゥムースティエ (1987-)
     エデ:アナマリア・ヴァルトロメイ (1999-)

原作
モンテ・クリスト伯 (原題 Le Comte de Monte-Cristo)1846
作者 アレクサンドル・デュマ (1802-1870)



 公開中のモンテ・クリスト伯を観た。
 原作はアレクサンドル・デュマの傑作であり、おそらく世界で最も人気がある小説の一つだろう。
 日本でも古典的名作として数多くの版(私が子供時代に読んで感銘を受けたのは山内義雄訳の岩波文庫・全7巻 1957)が出ており、“巌窟王”というタイトルで翻案やジュブナイル版も出ていて、ある程度の年代以上の方の大半は読んだことがあると思われる。

 簡単にプロットを説明すると・・・
 ナポレオン時代末期のフランス、マルセイユの船乗りエドモン・ダンテスは船会社同僚のダングラール、婚約者メルセデスをめぐる恋敵のフェルナン、検事ヴィルフォールの策謀によりナポレオン派とされて孤島の地下牢に14年間幽閉されるが、何とか脱走して隠された秘宝を見つけて大富豪になり、パリに戻って出世した3人に復讐するという物語で、数十人の登場人物が複雑な因縁でからんでくる波乱万丈の大長編(文庫本だと2500ページほど)である。



 映画化・演劇化・アニメ化も数多くなさされているが(上画像は2013年の宝塚宙組公演)、今回の地元フランスでの映画化は空前の製作費をかけた決定版と云われており、私も大いに期待していたのであるが・・・

 まあこれだけの大長編を3時間ほどにまとめて、映画らしく“映える”シーンを入れなければならないのからある程度のストーリーの改変はやむを得ないというものの・・・

 親ナポレオン派で原作のキーマンであるヴィルフォールの父親を映画では彼の妹(意味ありげに最初から登場するがほとんど出番はない)に変更したことや、フェルナンへの復讐では彼が絶望して自殺するという原作に対し映画では最後にダンテスと決闘して倒されるという結末にしたこと等は、大いに原作の雰囲気を損なっているものの、映画映えしなければならないのだからまだ許容範囲内である。またミッションインポッシブルみたいなダンテスの変装シーン(画像下)は笑いをとるつもりならむしろいいと思ったくらいであるが・・・



 決定的にひどいのは、原作ではダンテスは最後は女奴隷エデと結ばれて復讐の鬼から人間らしい気持ちを回復して“待て、しかして希望せよ”という有名な台詞を残して船で二人で去っていくのに対し、映画ではエデはダンテスを裏切って若いアルベール(フェルナンとメルセデスのバカ息子)と結ばれ、ダンテスは寂しく一人で船で去っていくというエンディングであり、これはいったい何を狙ってこういうストーリーにしたのか?
 まあ翻案によってはアルベールは実はフェルナンではなくダンテスの息子であり、フェルナンを倒した後にメルセデスと共に親子3人で幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし(笑)というストーリーのバージョンもあるみたいなので、それに比べるとまだマシかもしれないが。

 

 

 上記ブログのように2016年リメイクの“ベン・ハー”ではメッサラは戦車競走で事故死するのではなく、戦車競走後ベン・ハーと和解して彼の妹と結婚するというハッピーエンドには唖然としてしまったが、有名な原作をその趣旨をひっくり返してしまうような改変はコメディとしてわざとそのような効果を狙う場合以外は如何なものかと思われる。



 まあ原作のようににダンテスとエデが結ばれる・・・それもエデから熱烈に愛された末に、ということに私がこだわっているのは、エデというキャラクターに思い入れが深いからであり、上画像はグズラを弾くエデの登場シーンであり原作の雰囲気が良く出ている。

 設定ではエデはアリ・パシャ(1741-1822)とその愛妾ヴァジリキ(1789?-1834?)の娘ということにされている。(下画像はレイモン・モンヴォアザンによるアリ・パシャとヴァジリキ)



 アリ・パシャはオスマン・トルコ時代に現在はギリシア北西部に位置するジャニナを根拠地としてギリシア西部からアルバニアにかけて支配したアルバニア人パシャ(トルコの称号で太守と訳される場合が多い)である。そのハレムには600人の女性がいたという権勢を誇って、オスマン帝国からは半独立の存在であったが、1822年にスルタン・マフムト2世(在位1808-1839)の追討を受けてヨアニナ湖内の島の離宮に立て籠もるものの最後は暗殺される。


 ここまでは史実であるが、小説の設定ではその暗殺は軍事顧問だったフランス人フェルナンの裏切りによるものとされており、この際にヴァジリキと4歳の娘であるエデは奴隷にされ、フェルナンから奴隷商人に売り渡される。(下画像は1888年ロンドンで出版された英語版モンテ・クリスト伯の挿絵で、ヴァジリキと奴隷商人)



 ヴァジリキとエデは奴隷商人によりコンスタンチノープル(イスタンブール)に連行されるが、城門に晒されたアリ・パシャの首を見てヴァジリキはショック死するという設定になっているが、史実では赦免されて故郷のギリシアに返されたというのが定説のようだ。
 エデはもちろん架空の人物であるが、ジャニナが陥落した際は大半のハレムの女性はヴァジリキのような例外を除き奴隷にされたであろうから、そのような人物がいたと設定しても不自然ではない。
 なおアリ・パシャは斬首されて、その首はスルタン・マフムト2世に届けられたというのは当時の有名なエピソードでよく絵画化されており、下画像はピーター・ヨハン・ネポマク・ガイガーによるマフムト2世に捧げられるアリ・パシャの首。



 そして原作ではエデは裕福なアルメニア人に購入されて教育を受け、13歳でマフムト2世のハレムに入れられるが、同年エドモン・ダンテスが大富豪になって名乗るようになったモンテ・クリスト伯に奴隷商人エル・コビールを通じて買い取られることになる。

 なおこれらの事件というか歴史上の出来事はデュマ及び当時の大部分の読者がリアルタイムで経験してきたことであり、前半のナポレオン没落期の事件とも並べて以下の年表に示す。

1814 ナポレオン退位 エルバ島へ
1815 2/24 ダンテス19歳、マルセイユに帰還
   2/26 ナポレオンエルバ島を脱出
   2/28 ダンテス逮捕
   3/1  ナポレオンがカンヌに上陸
       同日、ダンテスがシャトー・ディフの監獄に収監される
   3/20 ナポレオンがパリ入城、再び帝位につく(百日天下のはじまり)
   6/18 ワーテルローの戦い
   6/22 ナポレオン退位
1821  5/5   ナポレオン、セントへレナ島で死去 51歳
1822  1/24 アリ・パシャ80歳で暗殺 エデ4歳で奴隷になる
1829 2月 ダンテス脱獄 (収監14年後33歳)
1831    大富豪になったダンテス35歳、13歳のエデを購入
1832  6月 6月暴動(レ・ミゼラブルのクライマックスであるパリ蜂起)
1838       パリに戻り復讐開始 ダンテス42歳 エデ20歳
1844-1846   デュマ、“モンテ・クリスト伯”を連載
 
 こうしてみるとナポレオン派として告発されたダンテスの運命はナポレオンの1815年の動向と密接につながっており、またアリ・パシャはフランスと同盟を結んでいたので彼を裏切ったフェルナンの行為はフランスの国益に反するものであり、それをエデにより暴露されて破滅した事情がよくわかる。

 

 

 また上記ブログのようにユーゴ―の“レ・ミゼラブル”(1862)も同じ時代のワーテルローから6月暴動までを背景に描いているが、ユーゴーが歴史背景を精密に描写している(特にワーテルローは普通の本1冊分の分量)のに対し、デュマは歴史そのものの中に登場人物たちが躍動しており、文学的価値はともかくとしてストーリーテラーとしてはデュマに軍配が上がるのではないだろうか。

 そのエデであるが、エキゾチックな絶世のギリシア美女(正確に云えばヴァジリキはギリシア人でアリ・パシャはアルバニア豪族とギリシア寵姫の子供であるから3/4ギリシア人)であると共に主人のダンテスを心から慕う理想の女性として描かれている。

 これは西洋文明の根源としてのギリシア文化・ギリシア美女(代表例はクレオパトラやミロのビーナス)という要素に加えて、2000年にわたり東地中海の覇者でありながら1453年のオスマントルコによるコンスタンチノープル陥落以後はトルコ人の支配下にあるという哀しさ(代表例は下画像のハイラム・パワーズの”ギリシアの奴隷“1843であり、ギリシア独立戦争でトルコ人に捕らえられて奴隷にされた女性を描いた米国で最も有名な彫刻)の要素をミックスしたものである。



 欧米においては、オスマン帝国のハレムは「秘密の花園」のような異国情緒あふれる場所として想像され、そこに囚われた異教徒の美しい女性たち、特に古代ギリシア以来の美の象徴であるギリシア人女性のイメージが、絵画や文学作品で繰り返し描かれた。これは、当時のヨーロッパで流行した、東洋を神秘的、官能的、かつ野蛮な場所として描く「オリエンタリズム」という芸術的・文化的潮流の影響が大きく、その代表例が下画像のアングルの大傑作“奴隷のいるオダリスク”(1839-1840)。



 またエデは欧米人読者のシンパシーを得るようにトルコで長年奴隷とされていながらキリスト教の信仰を守り続けたという設定になっており、これはアリ・パシャ(アルバニア人は東欧人としては例外的にイスラム教を受け入れた)がギリシア人である愛妾ヴァジリキが信仰を娘と共に守ることを許したためであり、またエデの最初の所有者をアルメニア人(アルメニアは301年に世界で初めてキリスト教を国教として以来、アルメニア派キリスト教の教義を守り続けている)という設定にしたのもそのためである。



 ビクトリア時代のエロチカから現代の女性向けロマンス小説までトルコ・北アフリカで奴隷にされた西洋人女性というジャンルは根強い人気があり、世界中で大人気の(日本では木原敏江の漫画や宝塚でも取り上げられた)”アンジェリク“(画像上は映画化時のタイトルロール=ミシェール・メルシエがクレタ島の奴隷市場で競売にかけられるシーン)や、アラン・アルディスのバーバリーシリーズ(北アフリカのバーバリー海賊の奴隷とされた欧米人女性を扱うBDSM連作小説、なおバーバリーというのは北アフリカのベルベル人が語源であり野蛮なbarbarousとは関係ない。ついでに云えばミュンヘン一帯やその地域のビールを指すババリアの語源は地名のバイエルンから、ファッションブランドのバーバリーは創立者の名前からで、どちらも野蛮なという意味はない)はその代表例である。



 このジャンルの歴史背景を考察した名作が塩野七生の“ローマ亡き後の地中海世界”(2008-2009)であり・・・と挙げていくとキリがないのでこの位にするが、そのテーマを取り上げた嚆矢となったのがモンテ・クリスト伯のエデであると思う。
 デュマの思い入れも深くてダンテスの理想のパートナーとして描かれており、カタローニャ移民の庶民的なメルセデスとは”格“が違うと思うのに、この映画始め様々な作品では何か軽んじられているケースが多いのは残念である。

 最後にエデの父親のアリ・パシャ、80歳にして600人の女性を後宮に囲い、エデの母親ヴァジリキとは50歳近い年齢差で大恋愛、ギリシア訪問時のバイロンからその威厳をライオンと称えられ(バイロン原作のバレエ”海賊“では彼の宮廷がモデルとされている)、そして最後の壮烈な死から死後も伝説として世界中で語られる・・・いやこれはなかなかの生き様である。

 海外顧客相手のコンサル生活も5年が過ぎ、大分慣れてきた。
 現在は下記ブログに書いたような中国の半導体ベンチャーが大口顧客として契約がまとまりそうになっており、先日は先方の事業所がある瀋陽を訪問してきた。

 

 


 瀋陽というのは東北(ドンペイと発音する)地方・遼寧省の省都であり、人口は1000万人弱の内陸都市、旧名は奉天で日露戦争の天王山にして当時史上最大の会戦であった奉天会戦で有名である。



 その後は日本の支援を受けた張作霖・張学良の奉天軍閥の拠点となり、さらには満州国の中心都市となった後に中華民国・中華人民共和国と続く歴史上、一貫して満州の中心という位置付けであった。



 このようになったのは清朝初代皇帝のヌルハチ(在位1616-1626)が首都を1625年に瀋陽に移してからであり、2代目のホンタイジ(在位1626-1643、1637年に朝鮮に侵攻して李王は降伏して三跪九叩頭の礼をとらされる屈辱を味わうことになるのを描いた韓国映画が画像上の“南漢山城”で邦題は“天命の城”)までの陵墓は瀋陽にある。

 

 


 そして1644年に清は山海関(画像下:万里の長城の海に面した東端にあり、“関東軍”とは山海関の東を意味する)を超えて中国本土を制圧し、その直前に李自成の反乱により滅亡していた明に代わって20世紀初頭まで中国を支配した中国史上最大版図の王朝となった。

 



 この山海関越え(明の守将である呉三桂の降伏による)は“入関”として満州民族の歴史上最大のイベントとされており、トルコのコンスタンチノープル(イスタンブール)攻略に喩えられるだろうか。

 なお当時の日本とは豊臣秀吉の文禄・慶長の役で接点があり、加藤清正は1593年に南満州を威力偵察してこのルートからの明への侵攻は困難と報告しているが、その頃はまだヌルハチは満州統一に至っておらず直接の交戦はしていない。

 なお中国では満州という言葉は満州民族を表わしているのであって、地名を指す場合は自国の東北部であるから東北地方と呼称することになっている。
 これは満州民族というのは過去にはこの地方の中心民族であったが、現在の満州ではその人口比は数%に過ぎず、住民の大半は漢族なのであるから、そこは少なくとも満州と呼ぶべきではないという理屈である。
 まあ漢族も満州族に数百年支配されてようやく支配権を奪い返したのだから満州なんて名前は永遠に抹殺したいというのが本音かもしれないが。

 なお満州族の風俗として中国に導入されたものとしてはラーメンマンみたいな辮髪とチャイナドレスが双璧であり、世界中に中国人のイメージを代表とするものとして認知されるようになった。



 しかし清朝が倒れてからは両者は対照的な運命をたどった。
辮髪は恥ずべき習慣として、漢族はおろか満州族の間でもあまり見なくなったのに対し、チャイナドレスは貴族的で洗練されたファッションとして生き残り、共産主義政権下では最初は反動的として嫌われたものの、現在では台湾・香港から逆輸入されて高人気である。
 両者の違いは、辮髪は“頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず”というキャッチフレーズ?で知られるように男性全員に強制されたので漢族からは嫌われたのに対し、女性のチャイナドレスは旗人(満州貴族のこと、チャイナドレスの中国語である旗袍は旗を巻き付けたような服ではなく旗人の服という意味)のファッションとして漢族も着用したがったというところにあるだろう。



 現在の美的センスから考えても、男性の辮髪は今ひとつであるが、女性のスリットがあるチャイナドレス(画像上は現代のコスプレ用)はなかなか魅力的である-もちろん着る人の体形にもよるが(笑)。

 その清朝を建国した満州民族というのは松花江・豆満江流域から興って華北を支配した金朝(1115-1234)を建てた女真(女直)族がモンゴルに滅ぼされた後は小部族に分裂していたものを、ヌルハチが統一して満州族(語源は“文殊”菩薩からとったとか諸説ある)と改名したものである。
 清朝が中国全土を支配した後も満州は民族の故地であり尚武の気風を保つために漢民族の移入は禁止されていたが、19世紀中ごろからその禁制が緩むようになり、ついに現在では満州族の人口比は数%になってしまい漢族の中に埋もれつつあるという次第である。

 漢族は元々黄河中流域に住む民族集団であったと思われるが、軍事的・文化的な征服に伴い漢族の範囲は次第に膨れ上がってきた。
 そのもっとも顕著な時代は三国時代を統一した司馬氏の西晋が滅亡し五胡十六国時代・南北朝時代を経て隋唐による統一までの4世紀から6世紀にかけての大内乱時代であり、この時代に漢族の定義はかなり広くなってきた。



 例えば隋朝の煬氏や続く唐朝の李氏はどう考えても漢族ではなく北方民族の鮮卑の一族だと思われるが、当時の“公式見解”として鮮卑系の王朝に仕えた漢族が北方民族の支配から脱して漢族の王朝を復活させたということになっている。

 そして現在はその時代に次ぐ漢族の大膨張時代であって、それは清朝支配下の19世紀に始まりその流れは少なくとも21世紀中は続くのではないだろうか。

 そして中国政府はこの流れに沿って“中国”というものの再定義を推進している。
 即ち中国は漢民族の国であるが歴史的にはモンゴル族の元朝や女真・満州族の清朝に支配されていた時代もあるというのが中国人も含めた世界の常識であったものを、中国政府はいやいやそうではない、すべては中国史の一部であってすべて中国人なのだと宣言したわけである。

 この流れによれば満州は中国の東北部にあるのだから東北地方と呼ぶべきだし、また歴史的に鴨緑江北部を根拠地としていた高句麗は中国の地方王朝だし、そこから分離した百済も中国の一部ということで、半島三国時代でいえば新羅のみが朝鮮史に属して高句麗・百済史は中国史の一部ということになる。



 中国ではこの運動のことを“東北工程”と呼んでいて韓国との政治問題に発展している。
 もちろん過去の歴史を現代の国家区分で分類する事などにはあまり意味がないのであるが、ナショナリズムが絡むとなかなかそうは単純にはいかない。
 客観的に考えれば契丹・女真・靺鞨・朝鮮等のツングース系民族には言語的・文化的共通点が多いので、満州国時代に流行った満鮮一体史観(特に池内宏)はかなり合理的だと思う。



 現在の北京の中心部を首都としたのは、金・元(フビライが現在の紫禁城から天安門広場にかけての内城-当時はもっと大きかったが―の原型を築いた)・明(3代目永楽帝以降)・清・中華人民共和国であり、ここ1000年ほどは古代からの中原の地に代り北京が中国の中心地であり続けているが、その大半は北方民族支配時代であった。

 要は軍事力・政治力の北が北方民族中心なのに対し、経済力の南が漢民族中心の対峙関係にあり、その大半の時代で北方民族が支配者であった。しかしその間に漢民族は政治的には支配されながらじりじりと文化的・民族的に支配領域を拡げていき、ついに現代では漢民族以外はすべて少数民族扱いにされてしまった中国で、その中心は本来北方民族との境界線として建造された万里の長城(画像下の八達嶺長城は北京郊外にあるので観光に便利)付近の北京になってしまった。



 現在の北京は米国に代り世界一の大国になろうとしている中国の中心地として人口約2000万のメガロポリスである。
 しかし少し前までは北京は満州族の首都として数百年の繁栄を謳歌しており、現在も八旗(満州族の部族分類)にちなむ地名や社会組織が残っており、そのため根強い人種偏見も存在する。

 現在、満州族として少数民族に分類されている人々は約1000万人であり、中華人民共和国成立直後は迫害を避けるため5万人程度しか登録せず、最近になって少数民族優遇制度の適用を受けるために1000万人まで増えたものの、差別(公式にはないが、所謂ガラスシーリングは存在するし、将来また差別政策が復活するかもしれない)を恐れて漢族として登録している人も多いと思われる。
 もっとも現在では満州語を話す人もほとんどいなくなり、ラーメンマンみたいな辮髪の人を見かけることもなくなってしまった。

 私がサラリーマン時代に所属していた会社は、数年前までその収益の多くを中国事業であげており、北京には大事業所がいくつか存在していた。
 したがってその社員には満州族や隠れ満州族?も多く、また当時の中国事業部門の代表者はイスラム教徒のウィグル人だったのであるが、彼らと話していても漢族との同化は忸怩たる思いではあるものの将来は不可避なのではないかと感じているように思った。

 今回は十数年ぶりに中国へ、そして初めての東北地方訪問であったが、満州国時代以来東アジア最大の工業地帯であったこの地方は現在は勃興する南部に押されて“ラストベルト”と呼ばれているようだ。
 中国が米国に代り世界一の大国になるかどうかはこの南北の格差がキーであると思われ、50年代から60年代にかけて米国を凌駕する勢いであったソ連が内部から崩壊したような経過をたどる可能性もある。



 瀋陽駐在(といっても他の顧客もいるので年の1/3程度か)は私ももう古稀を超えたので長くは続かないと思うが、まあ仕事だけでなく囲碁でも愉しみながら(画像上は故宮博物館の“伝五代南唐・周文矩・荷亭奕釣仕女図”、中国は囲碁発祥の地で、江戸時代初期に日本に追い越されたがその400年後の30年ほど前に逆に日本を追い越した)この歴史の流れを体感するつもりである。
 

 ついに古稀を超えてしまった。現代では70歳以上は少しも稀ではなくなったものの、少しは感慨もある。
 そしてこの齢になってであるが、ここ数年の評論家的立ち位置のコンサルタントから中国の半導体ベンチャーで研究開発業務に復帰・・・ということになりそうである。

 

 

 新卒から42年勤めた会社を上記ブログに書いた事情で退職して以来は、海外中心のコンサル生活が続いていた。

 

 

 上記ブログのように日本では海外というか外部の人間の知見を事業の中枢に活用しようとする企業文化がないので、どうしても顧客は海外に求めるしかないのであるが、それでも仕事としては評論家的な気楽な?業務が多く、まあこんなロートルにプレイさせてくれる職場はないだろうから歳相応かと考えていた。

 それが急転直下して研究開発の現場に復帰することになり、それもあまり経験がない半導体廻りで中国のベンチャーを顧客にしてということで、これまでのコンサル顧客であった欧州の独占企業や韓国の財閥系企業のようなノンビリした社風(ついでに云えば42年勤めた日本企業も、牧歌的雰囲気に惹かれて就職を決めたのだが)とは正反対の雰囲気の中で果たしてやっていけるのか?
 まあやってみなければわからないし、失敗したところで別に失うものもない・・・と開き直れるところが古稀の図々しさだろうか。

 なお10年前の還暦を超えた頃も生涯現役などと嘯いていたので、その頃のブログを引用する。

(2016年05月03日作成のブログから引用)
還暦を超えての今後の(無)計画

 映画“グランドフィナーレ”を観た。
 鬼気迫るマイケル・ケイン82歳、ハーヴェイ・カイテル76歳、ジェーン・フォンダ78歳と、全裸の若い女優たち(マグロ状態で並び食傷気味だが老若セレブがスイスのスパリゾートで過すという設定なので違和感がない)が対照的に描かれ、原題はyouth(若さ)である。



 なお以後の記述にはネタバレも含むが、本当にいい映画というのはむしろストーリーを知っている方が愉しめるものだと思う。
 今年観たというか昨年度の映画では、“完全なるチェックメイト”(原題pawn sacrifice)と“スティーブ・ジョブズ”とこの作品が面白かったが、前2作は有名人の伝記的映画でファンなら誰でも知っているストーリーであり、芝居だって前もってストーリーを知っておかないと楽しめないものが多い。

 マイケル・ケインはパーマー(画像下:007に対抗して製作されたシリアススパイシリーズで、若い頃から渋かった)時代からの大ファンであり、本作は間違いなく彼の最高傑作であろうし欧州系の映画賞を多数受賞した。



 ただアカデミー賞を逃したのは、今年は最初からディカプリオの涙の初受賞が暗黙の了解だった?という事情もあってちょっと運が悪かったかな。
 ケイン-今はケインというと別の意味(笑)を想像するようになったが-の役は半引退状態の老作曲家・指揮者であり、無気力状態で舞台となる超豪華スパリゾートに滞在中である。

 その大親友のハーヴェイ・カイテルはまだ現役にこだわる巨匠映画監督であり、全盛時に女優として発掘してコンビで多くの映画を作ったジェーン・フォンダと新作というか遺作を撮ろうとするが、彼女に“貴方はもう老いて駄作しか撮れない”と出演を拒否される。
 そして彼女の出演なしではとうてい新作製作は認められないという状況で絶望したカイテルは発作的に飛び降りて・・・

 このスパリゾートには様々な老いて過去の名声にすがる人物や、若く今が旬である人物が登場する。



その中でも強烈なイメージを残すのは老いてブクブク太ったマラドーナ(一瞬本人かと思うくらい雰囲気を出していた)を想起させる人物であり、テニスボールで(サッカーの)リフティングする人間業とは思えないテクニックを披露するが、少し続けると倒れて酸素吸入器が必要になるという体たらくである。
 そしてケインとカイテルがスパに漬かって健康話(笑)で盛り上がっているときに、全裸のミス・ユニバース(ルーマニア女優のマドリーナ・ゲネアが素晴らしい)が入ってきて二人が人生最後の?浴場じゃなくて欲情を覚えるというシーンもなかなかひねりがきいている。



 この映画では最初は無気力状態になっているケインとまだやる気満々のカイテルが対照的に描かれるが、最後はカイテルがポキッと折れてしまったのに対しそれを見ていたケインが自分の人生でやりたいことは何かと見つめなおし、そのグランドフィナーレとしてエリザベス女王主催の音楽会でタクトを振るというシーンで終わる。

 俳優はいい役があれば何歳まででもやれるし、歳を重ねて重厚な雰囲気を醸し出すこともできる。
 それでは他の職業・・・例えば私もその一員である一般的な勤め人はどうだろうか?

 自分が研究者として一番仕事に乗っていたのは30歳から45歳くらいまでという気がするが、通常はそのあたりで一線の研究からは退いて管理業務に転じる方が多い。また官民問わずそれなりのコースは準備されているし、いわゆる“大物”研究者というのは自分では研究しない研究管理者であるというケースが大半である。
 ただ私の場合はどこをどう間違ったのか、還暦を越してまだ自分でビーカーを振る生活を続けており、生涯現役などと嘯いている。

 節目節目のブログから思い出してみると6-7年前に年寄りの冷や水と言わんばかりの周囲の猛反対を押し切って始めた研究は、ライフワークのつもりであった。若い頃なら三つも四つも同時に研究プロジェクトを回していたのだが、その当時はもうそんな元気もなければ使える人・モノ・金も充分ではなかったし・・・
 それが還暦を前にしてなかなか完成せず会社からの評価も今一つの状態が続いていた。そこでもう社内はあきらめて海外で自分ごと(笑)この研究を買ってくれる顧客を探そうとして、米国で発表したのだが思いのほか好感触であった。

 

 


 そこで会社とも話し合い、還暦を超えて以後5年以内に海外顧客(国内はNGなのは国内顧客だとどうしても今の会社の競合になってしまうため)に私ごと売り込むという暗黙の了解で研究を継続することになった。

 

 


 しかしながら海外顧客(第一候補はボローニャに本拠を置く多国籍企業)との交渉を重ねてまとまり始めた段階で、急転直下でやはりこの研究を社内採用して社内事業としてグローバル展開しますという結論になった。

 

 


 海外で認められると国内でも認められるといういかにも日本的な事情ではあったが、私もこの歳になって海外で見知らぬ人の間で苦労するよりは社内で気心が知れた人と仕事をするほうが成果をあげやすいことは自明である。
 そこで結果オーライということで今の会社に残留することにした。経済的にもまあまあのオファーがあったし・・・
 社内の旧友からは会社を脅迫した結果じゃないのと皮肉られたが、別にそういう事情ではなく、お互いが最もハッピーになる途を模索した上の結論である。

 ただしその研究の社内でのグローバル展開のために陣頭に立ってほしいという要請は辞退することにした。
 多分私のような年寄りが考案者・発明者だからといってエラそうに口を出せば皆から煙たく思われるであろうし、そういう実務的な事業展開の仕事はおそらく私には向いていないからである。

 というわけでこれまでの研究はグローバル特許網の構築(これだけで7~8年かかりそう)を除いてすべて社内の別のチームに引き継ぎ、私は一から新しい研究を立ち上げることにした。
 これまで30年以上専門にしてきたセラミックスの世界からも離れ、学生時代から新入社員の頃にかけて少し齧っただけの有機合成の研究に戻るつもりである。

 そして何とか私の実験室に小さな合成装置を組み立てた。連休明けから初めての運転開始となる。
 そして来年には北九州に大型設備を導入するスケジュール(獲らぬ狸であるが)になっており、そうなると年に半分以上はそちらに滞在することになる。

 何年かかるか私にもわからないし、あまり考えてもいないという将来計画ならぬ将来無計画である。周囲もあきれてしまい、あと何年やるつもりですかと質問する人もいなくなった。
 マイケル・ケインがこの作品で82歳なら、私もそのくらいまでには何とかしたいものであるが・・・



 そして残酷な現実をカイテルに指摘したジェーン・フォンダ。78歳の御姿を出すとホラーになってしまうので、上画像は若い頃のバーバレラ(1968)から。
 自分は現実を見て華やかな映画女優からTVの汚れ脇役に転身しようとする役であり、久しぶりにスクリーンで観たが鬼気迫る女優魂ではあるもののあまり見たくなかったような気もする。

 自分としてはまあ現実認識ができなくてもいいさ。囲碁みたいにはっきり白黒がつく勝負事ではないので、錯覚から生じるパワーもあるかもしれないし。

 とここまで書いてきて気が付いたのであるが、マイケル・ケインは人生のグランド・フィナーレとして自分の“過去の”代表作で一世一代の晴れ舞台に指揮者として臨んだのであって、これから新作を撮ろうとしたハーヴェイ・カイテルの方は現実認識ができず悲惨な結果に終わっている。

(以上引用終了)

 

 

 ウーム、こうしてみると、古稀を過ぎて研究開発の第一線に復帰しようというのはハーヴェイ・カイテルみたいになる可能性(ましてや私には上記ブログのような”前科“がある)もあり、マイケル・ケインみたいに“昔の名前で出ています”という路線の方が安全かも。
 まあ安全第一というのもつまらないので、思い切って跳んでみるつもり。

映画

ゴッドファーザー (原題 The Godfather)1972

監督 フランシス・フォード・コッポラ (1939-)

キャスト ヴィトー・コルレオーネ:マーロン・ブランド (1924-2004)

     マイケル・コルレオーネ:アル・パチーノ (1940-)

 

原作

ゴッドファーザー (原題 The Godfather)1969

作者 マリオ・プーゾ (1920-1999)

 

 

 云わずと知れた興行面・芸術面を総合して映画史上最も評価が高く、1972年の公開時に世界史上最高の興行収入をあげた映画でもある。

 大ベストセラーとなった原作は1969年刊行であるがその前から大傑作として映画化は決定しており、日本語訳も映画公開前に刊行された。当時高校1年だった私も本屋で何気なく手に取って読んでみるとあまりの面白さに時間を忘れてしまい、読み終えてはっと気が付くと外は真っ暗だったのを覚えている。映画公開後に文庫化されたので購入して読み返したが何回読んでも新しい発見があり、映画と原作の理想的なマッチングだと思う。

 

 映画は原作をほぼなぞるようなストーリーであり、ドン・ヴィトーの若い頃のエピソードはpartⅡ(若きヴィトーとヴィトー死後にドンとなった息子のマイケルがクロスカッティングで描かれる)で映画化されたので、原作の大筋はほぼ完全に映画化されたことになる。

 

 

 ただし映画では時間制約があって500ページ近い原作をそのまま取り上げるわけにはいかないため、ヴィトーとマイケル(画像上:マーロン・ブランドとアル・パチーノ)の親子以外のエピソードは大半を切り捨てている。

 

 これに対して原作は20世紀初頭にイタリアから米国に渡った移民たちの群像劇という趣であり、虐げられた彼らを保護する存在としてコルレオーネファミリーが成長していくというストーリーになっている。

 

 なおこの映画ではマフィアという言葉はホンモノからの圧力があったため使わず慎重にファミリーと呼んでいる。なおマフィアというとイタリア系をすぐに思いつくし、語源も狭義にもイタリア・シシリア系のギャングであるが、イタリア系が力をふるったのは禁酒法時代(1920-1933)から1950年代までのまさにゴッドファーザーpartⅠ・Ⅱの時代であり、米国ギャングの系譜からいえば比較的短期間である。

 

 

 そして1901年に9歳で米国に来たという設定のヴィトーは本名アンドリーニであったが、英語ができなかったためエリス島移民局(現在移民博物館になっており、NY観光時は必見)で故郷シシリーの街コルレオーネが姓だと勘違いされて(画像上はエリス島で自由の女神を見つめるヴィトー少年で名札にコルレオーネと記載されている)こう名乗るようになったが、ちょうど禁酒法時代と重なったことにより一大勢力を確立させることになる。。

 そして禁酒法が終わり、麻薬が主たる収入源になりそうな時代には、この商売を嫌ったマイケルはニューヨークからできたばかりのラスベガスに本拠を移してギャンブルとホテルの合法事業に軸足を移すようになる。

 

 

 その際に邪魔になったのがラスベガスを作った男として知られるバグジー・シーゲル(1906-1947)であり、映画ではモー・グリーンという役名で史実通り左目に銃弾を受けてマフィアに粛清される様子が描かれている。(上画像は1991年の映画“バグジー”でのタイトルロールのウォーレン・ベイティとヴァージニア・ヒル役のアネット・ベニングで二人は後に結婚した)

 

 

 またラスベガス進出にあたってのキーマンとなったのがフランク・シナトラ(画像上、1915-1998)をモデルとしたジョニー・フォンテーンであり、映画では馬の首のエピソードくらいしか取り上げられていないが、原作ではシナトラの生涯とほぼ重なるようにキャラクターが練り上げられている。

 シナトラはイタリア系であることを真正面から出した歌手であり、マフィアとのつながりは周知であって、ゴッドファーザーを映画化するにあたりマフィアと映画関係者の間をとりもってマフィアという言葉を使わないようにするとかイタリア人のイメージを損なわないようにするといった交渉を仕切ったとされている。

 

 馬の首の話はフィクションだが、マフィアの圧力により“地上より永遠に”(1953)の役を得たのは事実らしく、何とアカデミー助演男優賞まで獲得していて原作では“このアカデミー賞というやつは単なる仲間内の名誉賞なのかね?それともお前が大スターとしての人気を復活させるのに役立つのかね?(もしそうなら裏から手を廻して受賞できるようにするよ)”と尋ねられるシーンもある。

 

 

 画像上は地上より永遠の1シーンで左からモンゴメリー・クリフト、バート・ランカスター、シナトラ(主演女優はデボラ・カーで彼女が最高に美しかった)であるが、シナトラが一回り小さいことがわかる。真珠湾攻撃前夜の米軍オアフ島基地でチビのイタ公と虐め殺される正義漢という役であるが、シナトラそのままのキャラで名演であった。

 なおイタリア人にはチビだが好色というステレオタイプのイメージがありロッキーのニックネームが“イタリアの種馬”(スタローンと種馬Stallionをかけたもの)であるのはその好例だし、シナトラはその意味でも典型であった。

 

 

 2番目の妻だった大スタアのエヴァ・ガードナー(画像上はツーショット)のコメントとして“彼(シナトラ)は体重55Kgのチビだけどそのうち50KGはペニスなの”というのがある。ゴッドファーザーの出演俳優はリアルさを出すためにだいたいイタリア系なので小柄な方が多く、特にアル・パチーノは165cmと妻役のダイアン・レインよりも低いが、だからこそ逆にドンとしての迫力・重厚さを醸し出していた。

 

 またシナトラ(がモデルのジョニー・フォンテーン)はコルレオーネファミリーがベガスに本拠地を移す際の重要人物でもあり、彼の大スターとしての集客力とハリウッドとのコネクションが活用され、実際にシナトラはそれだけの力を持つ世界一人気がある歌手でもあった。なおシナトラの後を継いで世界一の人気歌手となったのがエルビス・プレスリーであるが、彼もマフィアとの関係でラスベガスから離れることができずそれが世界中をツアーで廻るビートルズとの人気逆転を許す大きな原因となったことが2022年の映画”エルヴィス“で描かれている。

 

 なおケネディは大統領になるにあたり、シナトラとそのつながりのあるマフィアの力をかなり借りており、これは彼が米国史上初のカトリック教徒にしてアイルランド系大統領であるため従来の特権階級であったWASPとの繋がりが薄かったためである。

 

 

 そのためケネディとシナトラとは個人的にも親しかった(上画像はツーショット)のであるが、当選後はマフィアとのスキャンダルを恐れて繋がりを断とうとしてこれが利権争いから後の暗殺につながったという説が有力である。

 もちろんこれはケネディとシナトラという個人間の対立ではなく背後にいるアイルランド系とイタリア系の利権争いがその背後にある。

 

 そもそもイタリア系ギャングが力を握るようになったのは20世紀の初めであり、それまではアイルランド系ギャングが米国の主流であった。映画でいえば1846-1863のNY・ヘルズキッチン(日本では小室眞子夫妻で有名に)を描いた“ギャングオブニューヨーク“(2002)が名高く、画像下は主演のディカプリオとダニエル・デイ・ルイス。

 

 

 当時はアングロサクソン系のWASPが米国の上流階級を形成していたが、英国からの弾圧に耐えかねたアイルランド人はジャガイモ飢饉(1845-1850この期間にアイルランドの人口は半減)を契機にその大半が米国に移民してしまい、新参者の彼らがのし上がるには非合法行為しかなかったのである。

 

 そしてケネディ家は現在米国では唯一の王族的存在で、NYのメトロポリタン美術館を訪問したとき、ジャクリーン・ケネディ(画像下はジョン・F・ケネディとの結婚式)愛用の化粧品なんてものが、古代エジプトの至宝の隣の展示室に並べてあって笑ってしまったが、この一族もアイルランドからこの時期に移民し、1858年生まれの実質初代パトリックが港湾労働者から酒場の経営へそして酒の輸入業者へとステップアップしていった。

 

 

 次の2代目ジョセフは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っており、マフィアと緊密な関係にあった。そしていよいよ3代目が大統領になったジョン(1917-1963)であり、選挙において父・ジョセフの依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、ケネディのために買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など、大規模な選挙不正を行うことにより当選することができたというのが定説となっている。

 

 このように当時のマフィアは世界一の大国である米国の国政を左右するほどの実力を備えており。ゴッドファーザーで描かれたようなキューバやローマ法王庁の政争に介入したりするようなこともほぼ史実であって決してオーバーに描かれているわけではない。

 

 

 

 ただしその後は世界の非合法組織の主たる資金源である麻薬ビジネスは上記ブログのようにイタリア系マフィアから中南米の原産地を支配するラテン系に勢力が移るようになり、最初はコロンビア系がそして現在ではメキシコ系のギャング団が支配するようになって、イタリア系時代より桁外れに大きな資金力と軍事力(政府の軍隊とガチで戦えるくらい)を誇るようになっている。

 

 なおシシリーマフィアの発祥は、南イタリアからシシリーにかけて支配したフランスのアンジュー家(初代はシャルル・ダンジュー:シチリア王1266-1282、ナポリ王1282-1285)に対する抵抗であるとされている。

 シチリアのパレルモはホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世(シチリア王1197-1250、神聖ローマ皇帝1220-1250、西欧封建社会に君臨した事実上最後の皇帝でありエルサレムをムスリムから平和裏に奪還したことでも有名)が宮廷をおいていた世界の中心の一つであり、コルレオーネ村を建設したのもフリードリヒ2世であるとされている。

 

 

 ところが彼の死後、その後継者たちを虐殺してシシリアを支配したのがフランス・カペー朝の傍系であるアンジュー家であり、これに対して1282年にパレルモで反乱(シシリアの晩祷事件、上画像はフランチェスコ・アイエツによる絵画でヴェルディもオペラ化している)を起こした勢力のスローガンが“Morte alla Francia Italia anela”(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)で、その頭文字をつなげたのがMAFIAだというもので、異説も多いがこの説が一番ドラマチックだろうか。

 

 なおゴッドファーザーpartⅢのラストシーン、パレルモのマッシモ劇場における“カヴァレリア・ルスティカーナ”はまさにシシリアを舞台にした復讐の連鎖・ヴェンデッタを描く作品であり、このオペラをバックに関係者が次々と殺されていく血みどろの抗争劇は700年前のシシリア晩祷事件をモチーフにしたものと思われ、まさに“パレルモの悲劇”としての大団円は南イタリアにルーツを持つマリオ・プーゾとフランシス・フォード・コッポラの執念を感じる。

 

 現代国家は予算の多くを社会保障費や道路建設費などに廻しているが、ついこの間までは世界中どこでも国家予算の大半は防衛費・軍事費にあてるのが当り前であった。
 命あっての物種であるから、健康で便利な暮しよりもまず他国から攻められて殺されないように防衛が最優先ということである。

 日本は少なくとも歴史記述が始まって以後は強大な異民族が列島内に常住していなかったため、それほど大規模な防衛施設は必要ない場合が多かった。

 

 

 しかし対外的に緊張した時代-例えば天智天皇の時代、白村江の戦(663年)で唐に大敗(上記ブログでその古戦場の訪問記を引用)した直後は、大宰府防衛のための日本版万里の長城である水城(みずき・画像下はその航空写真であり規模の大きさがわかる)や北部九州・山口の各地に残る神護石(こうごいし)を築き、唐・新羅からの侵攻に備えた。



 画像下は福岡県行橋市に今も残る御所ケ谷神護石であるが、山全体を石垣で囲む壮大な要塞であり、もし関東・関西にあれば全国的に著名な大観光地になっているだろう。



 当時の宮殿である飛鳥板葺宮が文字通りの板葺きの掘っ立て小屋みたいなものだったのと比較しても、まさに国富と傾けた大工事であったと思う。
 ただし神籠石は山中にあるためか長い間忘れられた存在であり、その名前からも宗教施設であると誤解されていて、これが防衛施設・山城であることが確定したのは1960年代である。

 これが異民族との絶え間ない抗争の連続である大陸の国家となるとその規模は壮大になり、国家構成員全員が篭城できるような城壁都市が各地に建設されることになる。

 また戦国大名か誰かが云った諺?として“篭城戦に勝ったためし無し”というのがある。しかしこれは日本・海外を問わず全くの逆であって、通常の戦争というものは篭城側が勝つのが当り前であり、城にこもられると攻め手はお手上げなので周囲を略奪してお茶を濁すというのが常態であった。何となく攻城戦というのは攻め手の側が勝つことが多いような印象があるが、それは落城というのが非常に珍しい歴史に影響を与える大事件であるので、インパクトが強いというだけなのである。
 したがって国という漢字が城壁の中に玉がいることを示すように城壁に囲まれた地域を中心に国家というものは成立していたのである。

 そのため多民族を征服した大帝国というのは攻城戦に長けた国である。歴史に残る大帝国といえば、まずはアッシリア、次にアケメネス朝ペルシアを経てアレクサンダーとその後継者の諸国、真打としてローマというところだろうが、これらはすべて攻城・工兵技術の伝統が伝わってきた国・時代であるといえる。
 また攻城技術に長けているということは築城技術も優れているということであり、これらの大帝国は各地に堅固な城を築き防衛にあたったので、基本的に篭城側優位という状況は変わっていない。

 しかしローマ帝国が衰え中世の暗黒時代が始まると、それらの技術は失われ時代は再び群雄が各自の小規模な城に割拠する封建時代になっていった。
 なおヨーロッパではグレコローマンの栄光から1000年近く暗黒時代が続いたことからもわかるように、時代は常に進歩しているというのは我々の世代に多い短期間の自分の経験からしか考えられない錯覚・楽観論に過ぎない。もっとも最近の若い人はむしろ退歩の時代を肌で感じているかもしれないというのはちょっと残念な時代になったものであるが。



 また中国の万里の長城(画像上は北京近郊の八達嶺の部分)といえば、無用の長物の代名詞のように現在では考えられているが、これは全くの逆であって世界の大半を征服したモンゴル軍団くらいでないと踏み破れないほど防御効果があったというべきである。
 そうでなければ春秋戦国時代からつい最近に至るまで延々と建設され続けた(秦の始皇帝が建設したというイメージが強いが現存するのは明代のものが多い)わけがなく、明が清に滅ぼされた時も天下分け目のサルフの戦い(1619)で明に完勝した清軍も山海関(満州の関東軍というのは箱根の関より東という意味の関東とは関係なく、この山海関より東という意味)から延びる長城を越えることは不可能であり、それが可能になったのは守将呉三桂の裏切り(背後から李自成の反乱軍が迫っておりやむを得ない面もあった)によるものであった。

 古代の遺跡・歴史的建造物観光といえば、宗教施設と防衛施設が双璧であるが、防衛施設はまさにその機能美というか“用の美”のようなものを感じる。
 数世紀にわたり敵の攻撃を跳ね返してきた城壁はその代表であり、日本では加藤清正が築いた熊本城は近代戦の時代になっても西南戦争で薩軍の攻撃をしのいだ。天守などが西南戦争で焼失しなかったら、姫路城なんか問題ならないくらい日本一の城として認知されていたのではないだろうか。



 個人的にはネブカドネザル(在位紀元前605-562)が築いたバビロンの城壁(画像上は想像図で中央を流れるのはユーフラテス川)に一番興味があるが、とうの昔に地中に埋まってしまい、その一部は残念な復元のやり方で・・・

 このような技術的な進歩や衰退はあったものの、古代からほぼ一貫して続いてきた篭城側・防御側優位の時代に幕が降りたのは新しい技術である大砲の出現の要素が大きい。史上最大の攻城戦といえば、日本では豊臣家が滅んだ大阪冬の陣・夏の陣(1614-1615年)、海外では2000年以上続いたローマ帝国が最終的に滅んだコンスタンチノープル攻略戦(1453年:画像下)であろうが、いずれも当時の新技術である大砲が大きな役割を果たしている。



 そして大砲の進歩により城壁というものは存在価値が低下していく。現代では利便性の観点からほとんどの城壁が破壊されてしまい、完全な形で残っていて観光客を集めているのは西安(唐代の花の都長安だが現代に残る城壁は一回り小さい明代のもの)、エルサレム(大半はオスマン・トルコ時代のもの)、ニュールンベルク(大戦時の空爆で壊滅的な打撃を受けたがここまで完璧に復元させればある意味オリジナル以上の見ものかも)など限られた都市であるのは遺跡オタクの私としては残念である。

 そして現在では航空機・ミサイルや核兵器の出現により攻撃側優位はますます顕著になりつつある。今や”防衛”という概念そのものが敵の攻撃を直接防ぐというよりも、敵に攻撃されたときに報復攻撃の準備をしておくことに重点が移っている。

 しかしそういう時代だからこそ”防衛のための攻撃”ではなく、”防衛のための防衛”技術というのは世界平和のために意義があるのではないだろうか。

 私は以前に大砲のような物理的な力に対する防御と核兵器のような放射線(その中でも特に有害なのは中性子線)に対する防御の両方を可能にする防護材料というのを研究していたことがある。
 これは物理的な衝撃というのは防護材中を伝わる衝撃波の速度と拡がりで決定され、それは単位重量あたりの弾性率の函数であるというballistic materialの考え方と、防護材そのものの原子核変換による中性子吸収をハイブリッドさせた設計思想(特許や論文で公開しているので機密事項でも何でもない)であった。

 特に当時将来核兵器の主流となると予想されていた中性子爆弾に対する防御としては最適と考えられ、その旨下記ブログようにペンタゴンでプレゼンをしたこともある(防衛庁にはそのような危機感は全く無かったため、結局は物理的衝撃に対する防御のみが議論の対象に)。

 

 

 中性子爆弾はその後核兵器の主流からは外れることになり、結局は私の研究も中性子吸収材料に関しては下記ブログのように中性子の有効利用(特に医療・バイオ分析の分野)に重点を移すことになった。

 

 

 私が防衛分野に関わったのはそのときだけであるが、日米の防衛に関する意識の差には考えさせられたものである。
 また世界で最も防衛に関して敏感なのはイスラエルであり、下記ブログのようにウジ―マシンガンやメルカバ戦車で有名なIMI社に売り込みをかけた際の先方の“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”というコメントは非常に強く印象に残っている。

 

 


 現代は実に平和な時代であり、少し前まで人類にとって最重要であった”敵の攻撃に対してどう防衛して生き残るか“という課題に対して、通常はあまり考える機会もない。
 しかしこれはまさに例外中の例外の異常な時代であり、明日にもその状況は変わるかもしれない。そう考えれば我々日本人の平和ボケは、周囲にどのような国が存在するかを考慮すれば大きな問題であろう。



原作者:イアン・フレミング (1908-1964)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ドクター・ノオ(1962) 原作 Dr. No(1958)
ロシアより愛をこめて(1963) 原作 From Russia, with Love(1957)
ゴールドフィンガー(1964) 原作 Goldfinger(1959)
サンダーボール作戦(1965) 原作 Thunderball(1961)
007は2度死ぬ(1967) 原作 Only You Live Twice(1964)

<ジェームズ・ボンド:ジョージ・レーゼンビー (1939-)>
女王陛下の007(1969) 原作 On Her Majesty’s Secret Service(1963)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ダイヤモンドは永遠に(1971) 原作 Diamonds are Forever(1956)

<ジェームズ・ボンド:ロジャー・ムーア (1927-2017)>
死ぬのは奴らだ(1973) 原作 Live and Let Die(1954)
黄金銃を持つ男(1974) 原作 The Man With The Golden Gun(1965) 
わたしを愛したスパイ(1977) 原作 The Spy Who Loved Me(1962)
ムーンレイカー(1979) 原作 Moonraker (1955)
ユア・アイズ・オンリー(1981) 原作 For Your Eyes Only (1960)
オクトパシー(1983)
美しき獲物たち(1985)

<ジェームズ・ボンド:ティモシー・ダルトン (1946-)>
リビングデイライツ(1987)
消されたライセンス(1989)

<ジェームズ・ボンド:ピアース・ブロスナン (1953-)>
ゴールデンアイ(1995)
トゥモロー・ネバー・ダイ(1997)
ワールド・イズ・ナット・イナフ(1999)
ダイ・アナザー・デイ(2002)

<ジェームズ・ボンド:ダニエル・クレイグ (1968-)>
カジノ・ロワイヤル(2006) 原作 Casino Royale(1953)
慰めの報酬(2008)
スカイフォール(2012)
スペクター(2015)
ノー・タイム・トゥー・ダイ(2021)

(シリーズ以外の番外作品)
カジノ・ロワイヤル(1967)  原作 Casino Royale(1953)
ネバーセイ・ネバーアゲイン(1983)  原作Thunderball(1961)

 映画は現在までシリーズで1962年から25作制作されており今後も当分続くと予想されるので世界史上最も成功した映画シリーズといえるだろう(興収だけならスターウォーズとかマーベルのシリーズの方が上かもしれないが)。
 私も1965年のサンダーボール作戦からは封切りで、それ以前の3作はリバイバルか名画座でと全て劇場で観ており、子供心にボンドのカッコ良さとボンドガールの色気(下画像は初めて観たサンダーボール作戦のクローディーヌ・オージェでビキニに水中銃という姿が衝撃的)に圧倒されたものである。



 イアン・フレミングによる原作は1953年からで長編12作にプラスして短編集や雑誌掲載分もありほぼすべてがハヤカワミステリと創元から邦訳されており私も全部読んでいる。
 なお小説としては最初からそれほどヒットしたわけではなく、映画化第一作のドクターノーも低予算映画だったし、映画が第三作のゴールドフィンガーくらいから有名になりそれから小説も売れ始めたというのが実態に近い。

 フレミングはイートン校から欧州各地に遊学という典型的な英国紳士であり、第二次大戦中に諜報活動に関わったことから自分の経験を基にボンドシリーズを書き始めた。
 その作風は、従来の英国における主流であった重厚なリアリズム派スパイ小説(代表作としてサマセット・モームの“アシェンデン”やグレアム・グリーンの初期諸作)とは対極にあり、米国のハードボイルド的な暴力やアクションを描くが背景設定としては華やかで享楽的というもので、あまり”文学“としては評価されなかったが映画には向いていた。
 なおフレミングは文学的低評価に反発したのか1962年の私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)では性的描写を含むリアリズム調の異色作を発表したが、単なるポルノと酷評され、1977年の映画化時には採用されたのはそのタイトルだけだった。

 したがってボンド役には典型的な英国紳士(のように見える)役者をフレミングは希望していたのだが、選ばれたのはガサツな(よく言えばエネルギッシュな)ショーン・コネリー(下画像は”ドクター・ノオ“撮影時のフレミングとコネリーのツーショット)であり、フレミングは自分のイメージと正反対と反対したらしい。



 しかしこの人選は大正解であり、以後のボンドのイメージを決定付けることになった。
 またボンドはスコットランド人という設定であるがこの点でも典型的なスコットランド気質であるショーン・コネリーはぴったりと思われたのかもしれない。

 なおショーンとかシェーンとかいうのは典型的なケルト系(アイルランド・スコットランド・ウェールズ)の名前であり、英語ならジョン、他言語ならジャン、ヨハン、ヨハネス、ハンス、フアン、ジョアン、ジョヴァンニ、イヴァン、イアン、ヤーノシュ、ヤンなどに対応している。(下記ブログ参照)

 

 

 2000年にわたるゲルマン人とケルト人との抗争は、アングロサクソンのブリテン島への侵攻以来、イングランドとスコットランドの対立感情に受け継がれている。

 そして2012年の”スカイフォール“(個人的には一番傑作だと思う)はボンドの出自がスコットランドであることを正面から取り上げた作品であり、ラストシーンのボンドらが原始的な武器で強大な敵をスコットランドの生家で迎え撃つのはカローデンの戦い(1746)でのハイランダーをイメージしたものであろう。

 英国紳士のというかフレミングの嗜みとしては酒とギャンブルがまず挙げられるが原作と映画にもたっぷりと取り上げられている。
 酒では”ウォッカ・マティーニ、ステアでなくシェイクで“という名セリフが有名であるが実は原作にはそんなシーンは少ない。

 

 

 ボンドのイメージからしてもカクテルなんて軟弱な?ものは似合いそうもなく(上記のブログのような混ぜるためにできた酒はないと言った開高健のイメージも同様で影響を受けたかも)、原作で好んで飲んでいるのはストレートのウォッカであり、またシェイクなんかしたら水で薄まってしまう。これはおそらくはマティーニはオリーブが飾られているので一目でわかること(下画像はダニエル・クレイグ)とシェイクの動作はステアに比べて派手なため、映画向きであることからの脚色であろう。



 なお原作にはウォッカにコショウを加えて“昔のソ連のウォッカはフーゼル油が混じっていたのでコショウで沈降させて飲んでいるうちに癖になってしまって”とつぶやくシーンがあり、こういう武骨な飲み方がボンドには似合っていると思う。

 ギャンブルに関してはカードゲームで有名なシーンが多く、特に2006年の“カジノ・ロワイヤル”は悪役ル・シッフルとのカジノでのカード対決(画像下)がクライマックスとなっている。



 ところでこの画像でプレイされているのはポーカーのバリエーションであるテキサス・ホールデム(2枚の手札と最大5枚の場札を組み合わせて役を作り、場札が公開されるごとにベットしていく)であるが、1953年の原作ではバカラであり、番外編のカジノロワイヤル(1967:画像下、ボンドが5-6人出てくるドタバタコメディーであるが、同時期のシリーズ作”007は2度死ぬ”よりもむしろ大作)でプレイされているのももちろんバカラである。



 これは50年代から60年代にかけての欧州社交界が華やかであった頃のカジノでのカードゲームといえばバカラだったからである。
 しかしながらバカラはカードカウンティングのイカサマ(といっていいのかわからないが現在ほとんどのカジノで禁止されている)を本質的に防止できないし、アジアのカジノがバカラの本場になって欧州上流階級のシンボルとしての位置付けも微妙になったし、ルールがあまりにも単純(だからこそ奥が深いという見方も)ということもあって、しだいにテキサス・ホールデムに他のカジノ・カードゲームも含めて欧米では駆逐されつつあるようだ。

 なお原作でのカジノはフランス・ノルマンジーのローカルなカジノという設定であったが映画ではモンテネグロ(ロケ地はチェコ)という設定であり、要はモンテカルロのようなド派手で観光客だらけのカジノではなく落ち着いた場所だからこそ血なまぐさいシーン(原作も映画もBDSMシーンは最も強烈)が映えることを狙っているのだろう。 

 またカードゲームシーンを詳しく解説している作品としては、“ムーンレイカー”の原作ではコントラクトブリッジのシーンが10数ページにわたってお互いにイカサマをしかけ合う詳細な手の描写と共に書き込まれている。しかしながら訳者がブリッジのルールを全く知らないので、抱腹絶倒の珍訳(少なくとも初版は)になっていた。
 これはブリッジというのは親になったプレーヤーがパートナーの手をさらして二人分プレーするというゲームであるのに、訳者はこれを知らずにナポレオンと副官のつもりで訳しているのでとんでもない展開になっている。

 それだけブリッジというのは日本ではあまり人気がないゲームなのであるが、1964年のゴールドフィンガーでは、オリジナルではグランドスラム(ブリッジでは一番高い役)計画といっていたのが、字幕では満塁ホーマー計画と意訳?されていたこともあった。
 なおコントラクトブリッジは欧米では非常に人気があって世界選手権のバーミューダボウル等が有名で、チェスと並んで最も多種の戦略書籍が出版されているスポーツ(海外ではこの種ゲームはスポーツ扱い)とも云われている。

 私はゲームフリークでありブリッジも本で少しだけ齧ったが、私の友人で囲碁とブリッジの両方で何度も全日本を制したK氏のパートナーとして少し教えてもらったものの、本からの知識は全く通用しなかった。囲碁では本を読むだけの2年間で下記ブログのように初段くらいまでいったのだがやはりブリッジは対人ゲームで対盤ゲームの囲碁とは異なり実戦を重ねないとその本質が理解できないようだ。

 

 

 K氏は常に穏やかな物腰で試合中も殺気立った表情を見せない“本物の勝負師”で、私が囲碁で頂点に立てなかった(団体戦では学生・社会人時代を通じ何度も日本一になったのだが)大きな原因の精神面の未熟さをいつも反省させらる。



 さてこのような”飲む”・鬱(原作のボンドはフレミングの気質を反映しているのかかなり鬱気味なのだが)じゃなくて”打つ”ときたら次はボンドの真骨頂である女性関係であるが、最新作では飾り物的なボンドガール(今はボンドウーマンというらしい)は出てこないどころか007その人に黒人女性が起用される(画像上、ダニエル・クレイグ=ボンドは引退したという設定のため)というストーリーで驚いた。
 Mに女性(ジュディ・デンチ)がマネーペニーに黒人(ナオミ・ハリス)が起用された時は驚くどころかこれまでで一番のハマリ役でいいと思ったがさすがに007本人が黒人女性とは・・・まあこれが世の中の流れというものだろうか。