(承前)

 

 

2012年02月15日 作成
        
 ビリー・ワイルダーといえば艶笑喜劇の帝王というイメージがあり、また女優を魅力的に撮る映画監督として、オードリー・ヘップバーンが一番魅力的なのは“麗しのサブリナ”(1954 画像下)だと思うし、“七年目の浮気”(1955)はマリリン・モンローのコケティッシュな魅力が一番良く撮れている気がする。



 しかしワイルダーの真骨頂はむしろシリアスなサスペンスドラマにあり、映画史上の最高傑作と評されることも多い“サンセット大通り”(1950)はその代表作である。

 ハリウッドの製作者・監督・脚本家の多くはユダヤ人なのであるから特筆することでもないが、ワイルダーもまた典型的な“ユダヤ顔”(下画像はワイルダーとモンロー)の持ち主である。そしてその経歴もハプスブルク帝国(現ポーランド領)生れ、ドイツのウーファで脚本家デビュー、ユダヤ人迫害によりフランスに渡り監督デビュー、そこも危なくなり米国に移住して映画人として超大物になるという筋金入りの(笑)ユダヤ人といえる。



 またこの経歴のためワイルダーは中年になるまで英語ができなかったそうだが、それがハリウッドに渡るや脚本家にとっての神様のように崇められる存在になったのだから、これまた異民族の中に入り込むのがうまいユダヤ人の特質をよく体現している。

 なおユダヤ人というとエクソダスやバビロン捕囚、マサダの篭城戦に最後はホロコーストと、その歴史は古代から迫害の連続であるというイメージがある。もちろん異民族の中に暮らすわけであり、古代は人権意識なんてものはないからある程度の迫害は受けてきたが、総じてユダヤ人は異民族の中に入り込んで大きなトラブル無しに共存しており、そうでなければ生き残れるわけはない。

 サンセット大通りは映画界の内幕を暴いたサスペンスドラマであり、その関係者(ストーリー上も映画そのものも)のほとんどがユダヤ人というのが特徴的である。
 そして往年の大女優による殺人事件という表向きのストーリーの裏側にこめられたメッセージというのは、ハリウッドをバビロンに喩えて、ユダヤ人はハリウッドバビロンで繁栄を謳歌しているが結局は異邦人なのだというペシミズムであると思う。

 なおユダヤ人のバビロン捕囚というと、何かバビロンに連行されて鎖につながれて奴隷として強制労働させられたというイメージだが、実際にはユダヤ人のエスタブリッシュメント層がその実務能力を買われて国際都市バビロン・世界帝国バビロニアの各界での活躍を期待されて移住させられたというのが実態に近い。
 そしてユダヤ人が現在に至るまでコスモポリタンとして活躍しているというのも、このときのバビロンでの活動がその原点になっていると云える。

 さてその“サンセット大通り”には、“十戒”の冒頭で大演説をしたセシル・B・デ・ミルが彼自身の役で登場するという異色のシーンがある。
 デ・ミルは“サムソンとデリラ”を撮影中の監督というリアルタイムの役柄(画像下はデ・ミルとグロリア・スワンソン)であり、このサムソンとデリラというのは、聖書に登場する王国建設以前のユダヤ人とペリシテ人との抗争劇を描いていて、このペリシテ人にちなんで命名されたのが現在の地名であるパレスチナである。



 そしてこの映画が企画されたのは、イスラエル建国戦争でアラブ人との抗争の真っ只中という微妙な時期であり、何らかの政治的意図があったものと思われる。

 現代のパレスチナ人というのは常識的にはパレスチナ地方に住むアラブ人のことを指し、聖書時代のペリシテ人というのは、先ギリシア人というべきインド・ヨーロッパ語族の所謂“海の民”であるので何の関係もないはずである。
 しかしながら中東の諸民族は複雑に交錯しており、特にユダヤ人とアラブ人はいずれもセム語族の類縁関係にあるので両者を簡単に分別することはできない。

 ここでアッシリア侵攻時に滅亡したイスラエル王国の10支族との関係が重要になってくる。
 失われた10支族とは最近になって云われ始めたことではなく、実は紀元前6世紀にユダヤ人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムに第二神殿を建設して国家を再建したときに唱えたキャッチフレーズのようなものである。

 即ち紀元前722年にアッシリアによりイスラエル王国が滅んだとき、10支族のユダヤ人はすべて連れ去られたわけではなく、一部はパレスチナに残留して、彼らはアッシリアが新たに連れてきた異民族と混血してサマリア人と呼ばれるようになった。
 サマリア人は民族の純潔を失った存在として、正統派の?ユダヤ人からは軽蔑される存在(例えば新約聖書の“善きサマリア人”参照)となり、今もユダヤ人としての信仰を守るサマリア人(彼らにしてみれば自分たちこそ正統のユダヤ人)は絶滅寸前になっている。
 しかしそのサマリア人の大部分は、7世紀にアラブ人がパレスチナに来襲したときイスラム教に改宗してアラブ人に吸収されたと思われ、したがって現代パレスチナ人の中にも10支族の血が流れていると考えることもできる。

 ヘルツルに始まるシオニズムとは、2000年にわたり離散が続いていたユダヤ人がモーゼを介して神が約束した地パレスチナに帰還しようとする運動であるが、ここで神に約束されたはずの民族が、現在ユダヤ人を構成するユダ王国遺民の2支族だけでなく、他の民族が我々こそ失われた10支族であると主張したらどうなるか。
 イスラエル側が恐れていたのは現代のパレスチナ人がそう名乗りをあげてくることだったと思われる。

 なお現代イスラエルはこのような観点から第二神殿時代と同様に10支族は失われたとしてその痕跡を見つける運動を推進しており、アフガニスタン・インド・中国・朝鮮などにそれを発見したとしている。
 そしてその終着点が日本であり、日本文化(特に神道関連)にユダヤ起源のものがあるという説が、数千のサイトや多くのトンデモ本(画像下)で主張されているというわけである。



 曰く聖書に出てくる約束の地カナーン(現在のパレスチナ)とは「葦原の中の国」を意味し、これは日本書紀にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ我が子孫の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。さきくませ。宝祚の隆えませむこと、當に天壌と窮無かるべし」に対応して、神のアブラハムの子孫たるダビデ王に対する約束と同じである。また曰くモーゼによる出エジプトに由来する「過越の祭り」は、日本の大晦日から始まる正月の行事、飾り付けに酷似しており、「仮庵の祭り」もまたお盆の行事に酷似している・・・

 確かに類似点は存在するが、それは失われた10支族とは関係なく、これまでに述べたような日本人とユダヤ人の国民性に類似点があるということだろう。

 出エジプトから三千数百年を生き延びてきたユダヤ人であるが、新興国家イスラエルが敵意を持つアラブ人に囲まれて生き延びることができるかどうかはまだ予断を許さず、十字軍諸国(現在のイスラエルの“国齢”では破竹の勢い)のように短命に終わる可能性もある。

 先進諸国のMBT(main battle tank)の中では例外的に防御力重視のメルカバやアーノルド・シュワルツェネッガーの名台詞や片手撃ちにも出てくるウジ―で有名なイスラエルのIMI(Israel Military Industry)社に対し、防御用セラミックス素材(ballistic ceramics)のプレゼンをしたときのこと。
 先方曰く、“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”。

 ここだけは平和ボケの日本人との類似点は全くない。

2020年08月16日 追記
最近の有力な学説ではどうも客観的に考えるとユダヤ人の歴史は出エジプトどころか千年近い後のバビロン捕囚くらいまでしか遡れないというのが正直なところのようだ。
したがってダビデやソロモンの栄華もすべて神話に過ぎず、バビロニアに連行されたパレスチナ出身の民族が自分たちのアイデンティティーを創作するために壮大な神話体系を創り出したということになる。
ソロモン(がいたとされる)時代のパレスチナからは壮大な遺跡は出土せず、原始的な民族が暮らしていたと推定されるために導かれる結論であり、ロマンがない話ではあるがまあ現実はそんなものかもしれない。