中学1年から英語を習い始め(ということは同じく中1から始めた囲碁と同じで上達するには遅すぎた)、この30年程は仕事で使う言葉の特に読み書きでは半分近くが英語という生活が続いている。
これは英語の“世界語”としての立ち位置からやむを得ない・・・のではなく世界のどこでも英語が通用する実に便利な時代になったと考えるべきであり、この状況は日本人にとって不利なことではなくむしろネイティブに対する利点ですらあることを以下のブログに書いた。
そこでこのような“英語時代”がなぜ到来したのか、そしてそれはいつまで続き日本人にどのような影響を与えるのかについて十数年前に書いたブログを下添する。
(2011年08月27日 作成)
先月でついに雑誌“ぴあ”が廃刊になった。非常に残念であり、懐かしさのあまり最終特別号を入手したが、思い出してみると20年ぶりくらいの購入であり、もはやこの種の情報誌というのは必要ないのであろう。
私が浪人するために上京してはじめての一人暮らしを始めたとき、まず感激したのはこの“ぴあ”と名画座(旧作を上映する映画館・・・と説明しないと若い人は知らないかも)の多さであった。
当時のぴあは創刊数年目で情報の半分近くは名画座の上映作品とタイムスケジュールが占めていた。当時は首都圏だけで数百館の名画座があり、ロードショー上映館よりもはるかに多かった。
私は映画フリークであったが、故郷の街には2館しか名画座がなく(ロードショー館は10館ほどありこの点田舎と都会は逆であった)欲求不満を感じていた。そこで上京して最初の一年だけで100回以上各地の名画座にぴあを抱えて通ったものである。
ところがレンタルビデオの登場により名画座は次第に消えていくことになり、映画を観るという行為は新作映画ですらDVDが現在は主流らしい。
なお上画像は今はなき池袋文芸座で、故郷の2館(銀映と大劇)を除けば最も頻繁に通ったものである。
しかしぴあが廃刊になったのは名画座が消えたからではない。それは云うまでも無くあらゆる情報がネットで入手できる時代になったからである。
個人的にもぴあの細かい字を読むのは視力の衰えから不自由になりつつあり、それに比べればパソコンのバックライトで照らした画面は実に読みやすい。そういえば最近は文字を書いたり書籍の活字を読んだりすることはめっきり少なくなり、仕事場でも家でも“読む”とは液晶画面を見ることであり、“書く”とはキーボードを叩くことになってきた。
こういう時代になってきたにもかかわらず、書籍をネット配信しようという電子書籍の流れは、特に日本では遅々として進まないようだ。
その理由は云うまでもなく、コンテンツ‐即ち電子化された書籍の絶対数が少ないからである。
映画のような映画館の暗い大スクリーンで観た方が面白いに決まっているものでも、絶対数‐選択の自由のレベルが異なれば名画座は滅びざるを得なかった。首都圏の名画座300館がすべて異なる作品を3本立てで上映しても1000本以下からしか選択できないが、ちょっと気の利いたレンタルビデオ屋なら1万タイトルくらいは揃えておりその差は絶大である。
それに比べると電子書籍というのは日本では新刊書や版権の切れた昔の本のごくごく一部が販売されているだけであって、そんな選択の自由が限られたものが売れるはずはなかろう。
少なくとも紙の書籍として流通している以上の点数が電子化・販売されるようにならなければ電子書籍の時代は来ないであろうし、それは簡単に実現可能なことのように思う。紙の書籍を出版、流通、在庫、販売するための膨大な費用に比べれば、電子化してファイルでネット販売する費用はタダ同然であろうし、“出版”という行為のハードルは電子化により大いに下がることになるだろう。
インターネットの時代は誰でもが世界に向けて情報発信できるようになったが、この世界が早く出版分野においても拡がることを願っている。
その電子書籍が日本で拡がらない理由の一つとして日本語の問題はあるかもしれない。
電子書籍というのはその性質上世界のあらゆる地域に同時にローコストで販売できる(代金回収の問題もクレジットカード決済を利用すれば世界共通である)ことが特徴であるが、残念ながら日本語の読者数は世界的に見て少なく、最大言語である英語の読者数の数%であろう。
いや英語を母国語とする人口はそれほど多くないが(そういう意味では最大人口は中国語人口)、英語で書かれたものを読もうとする人口は圧倒的に多い。
このように英語が”世界語”として認識されるようになったのはせいぜいここ20年程度のことであり、この時代がいつまで続くのかはわからない。
過去の世界語であったアッカド語、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、中国語の時代が数百年から千数百年続いたのに比べると”英語時代”はまだ始まったばかりである。
しかしネットの時代が英語時代に始まった(これは逆であってネット時代の始まりにより英語時代になったのかもしれない)という”創業者利益”は大きく、少なくともここ数世代は英語時代が続くのではないだろうか。
日本語の優れているところは、読む立場からの単位時間当たりの情報伝達量がおそらく世界のどの言語よりも多いことであり、そのためもあって叙情表現に優れている。俳句や短歌などの短文であれだけの芸術性を表現できるのは日本語ならではと思う。
ただしエロチシズムの表現力は英語の方が豊かだと感じている。
これはエロスというのは叙情的な表現よりも、むしろ客観的に淡々と事実を積み重ねることにより逆に想像力をかきたてられて醸し出されると感じているからであり、エロチシズムのハードボイルド表現と云うべきだろうか。
そして英語の利点というのは意味が明快な論理的な表現を少ない語数で達成できることにあると思う。
海外の学会で座長を務めるときによく思うが、質問時間内(5-10分程度)に発表者と質問者の間で論戦が始まったとき、英語だと両者の主張をうまく調整することができる。しかし日本の学会(最近論文はほとんどが英語になったがまだオーラルは日本語が中心)ではなかなか時間内にうまく収めることができず、”後は個人的にケンカしてください(笑)”ということでお茶を濁すことが多くなる。
この”少ない語数で論理表現する”という意味で、私は名詞を重ねる表現を好む。
orange uniform player (オレンジ色のユニフォームを着た選手)という表現はユニフォームとプレーヤーという名詞が重なっていて文法的にはどうかと思われるが、名詞の前置修飾という慣用語法として一般的である。
しかし2語程度なら名詞が重なる場合もあるが、これを5語6語と重ねていくというのが私の得意表現であり、文法などを考慮することなく簡単に論理的な表現ができる。もちろん語彙は慎重に選ぶ必要があり、上記の例でもorange uniform TV ではさっぱり意味が通じないし、uniform player だけでも違和感のある表現になる。
なおorange uniform playerというのは私の子供時代からのアイドルであったサッカーのヨハン・クライフをイメージしたもので、彼が所属したオランダ代表及びアヤックスのチームカラーがオレンジなのはオランダ王家であるオラニエ家の紋章にオレンジ色を使用していたことに因んでいる。
十数年前に、米国の英語学で有名な某大学が英語によるコミュニケーションレベルを評価するという試験を開発して世界展開し、TOEFLのような杓子定規のような問題ではなく実践的な英語力の評価方法として日本の企業などでも多く採用したことがあった。
そしてある年に私が受験したところ、全国最高スコアをマークしたということで表彰され、上記の独特の表現は非常に面白いからその大学で英語によるコミュニケーションの研究・講師をしてみないかと誘われたことがある。
私がこれまで受けたヘッドハンティングの経験で最も奇妙な案件であったが、別に私は英語力を売り物にして世渡りするつもりはなかったので、即刻お断りしたが・・・
最近の英語はこのような名詞をいくつも重ねる表現は、特に科学技術の分野ではだんだん盛んになりつつあるようで、僅かながら私の貢献もあるのかもしれない。
などと知ったかぶりをしたが、実は私の英語力は映画を観ても字幕が無いと理解できないレベルである。画面に集中したいので真剣に聞いていないとはいえヒヤリング能力が致命的に欠如しているのであるが、まあnegotiation(交渉)の場というのは、相手が何を云っているかある程度予想できるものであり、相手の言い分を聞いたふりをしてこちらの主張を押しまくるという押しの強さも必要なので。
恋のnegotiationも同じ・・・かどうかは私では経験不足で語る資格が無いが。