中学1年から英語を習い始め(ということは同じく中1から始めた囲碁と同じで上達するには遅すぎた)、この30年程は仕事で使う言葉の特に読み書きでは半分近くが英語という生活が続いている。

 これは英語の“世界語”としての立ち位置からやむを得ない・・・のではなく世界のどこでも英語が通用する実に便利な時代になったと考えるべきであり、この状況は日本人にとって不利なことではなくむしろネイティブに対する利点ですらあることを以下のブログに書いた。

 

 


 そこでこのような“英語時代”がなぜ到来したのか、そしてそれはいつまで続き日本人にどのような影響を与えるのかについて十数年前に書いたブログを下添する。

(2011年08月27日 作成)
 先月でついに雑誌“ぴあ”が廃刊になった。非常に残念であり、懐かしさのあまり最終特別号を入手したが、思い出してみると20年ぶりくらいの購入であり、もはやこの種の情報誌というのは必要ないのであろう。



 私が浪人するために上京してはじめての一人暮らしを始めたとき、まず感激したのはこの“ぴあ”と名画座(旧作を上映する映画館・・・と説明しないと若い人は知らないかも)の多さであった。

 当時のぴあは創刊数年目で情報の半分近くは名画座の上映作品とタイムスケジュールが占めていた。当時は首都圏だけで数百館の名画座があり、ロードショー上映館よりもはるかに多かった。
 私は映画フリークであったが、故郷の街には2館しか名画座がなく(ロードショー館は10館ほどありこの点田舎と都会は逆であった)欲求不満を感じていた。そこで上京して最初の一年だけで100回以上各地の名画座にぴあを抱えて通ったものである。
 ところがレンタルビデオの登場により名画座は次第に消えていくことになり、映画を観るという行為は新作映画ですらDVDが現在は主流らしい。



 なお上画像は今はなき池袋文芸座で、故郷の2館(銀映と大劇)を除けば最も頻繁に通ったものである。
 
 しかしぴあが廃刊になったのは名画座が消えたからではない。それは云うまでも無くあらゆる情報がネットで入手できる時代になったからである。
 個人的にもぴあの細かい字を読むのは視力の衰えから不自由になりつつあり、それに比べればパソコンのバックライトで照らした画面は実に読みやすい。そういえば最近は文字を書いたり書籍の活字を読んだりすることはめっきり少なくなり、仕事場でも家でも“読む”とは液晶画面を見ることであり、“書く”とはキーボードを叩くことになってきた。

 こういう時代になってきたにもかかわらず、書籍をネット配信しようという電子書籍の流れは、特に日本では遅々として進まないようだ。
 その理由は云うまでもなく、コンテンツ‐即ち電子化された書籍の絶対数が少ないからである。
 映画のような映画館の暗い大スクリーンで観た方が面白いに決まっているものでも、絶対数‐選択の自由のレベルが異なれば名画座は滅びざるを得なかった。首都圏の名画座300館がすべて異なる作品を3本立てで上映しても1000本以下からしか選択できないが、ちょっと気の利いたレンタルビデオ屋なら1万タイトルくらいは揃えておりその差は絶大である。

 それに比べると電子書籍というのは日本では新刊書や版権の切れた昔の本のごくごく一部が販売されているだけであって、そんな選択の自由が限られたものが売れるはずはなかろう。
 少なくとも紙の書籍として流通している以上の点数が電子化・販売されるようにならなければ電子書籍の時代は来ないであろうし、それは簡単に実現可能なことのように思う。紙の書籍を出版、流通、在庫、販売するための膨大な費用に比べれば、電子化してファイルでネット販売する費用はタダ同然であろうし、“出版”という行為のハードルは電子化により大いに下がることになるだろう。
 インターネットの時代は誰でもが世界に向けて情報発信できるようになったが、この世界が早く出版分野においても拡がることを願っている。

 その電子書籍が日本で拡がらない理由の一つとして日本語の問題はあるかもしれない。
 電子書籍というのはその性質上世界のあらゆる地域に同時にローコストで販売できる(代金回収の問題もクレジットカード決済を利用すれば世界共通である)ことが特徴であるが、残念ながら日本語の読者数は世界的に見て少なく、最大言語である英語の読者数の数%であろう。
 いや英語を母国語とする人口はそれほど多くないが(そういう意味では最大人口は中国語人口)、英語で書かれたものを読もうとする人口は圧倒的に多い。

 このように英語が”世界語”として認識されるようになったのはせいぜいここ20年程度のことであり、この時代がいつまで続くのかはわからない。
 過去の世界語であったアッカド語、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、中国語の時代が数百年から千数百年続いたのに比べると”英語時代”はまだ始まったばかりである。
 しかしネットの時代が英語時代に始まった(これは逆であってネット時代の始まりにより英語時代になったのかもしれない)という”創業者利益”は大きく、少なくともここ数世代は英語時代が続くのではないだろうか。

 日本語の優れているところは、読む立場からの単位時間当たりの情報伝達量がおそらく世界のどの言語よりも多いことであり、そのためもあって叙情表現に優れている。俳句や短歌などの短文であれだけの芸術性を表現できるのは日本語ならではと思う。

 ただしエロチシズムの表現力は英語の方が豊かだと感じている。

 

 

 これはエロスというのは叙情的な表現よりも、むしろ客観的に淡々と事実を積み重ねることにより逆に想像力をかきたてられて醸し出されると感じているからであり、エロチシズムのハードボイルド表現と云うべきだろうか。

 そして英語の利点というのは意味が明快な論理的な表現を少ない語数で達成できることにあると思う。
 海外の学会で座長を務めるときによく思うが、質問時間内(5-10分程度)に発表者と質問者の間で論戦が始まったとき、英語だと両者の主張をうまく調整することができる。しかし日本の学会(最近論文はほとんどが英語になったがまだオーラルは日本語が中心)ではなかなか時間内にうまく収めることができず、”後は個人的にケンカしてください(笑)”ということでお茶を濁すことが多くなる。

 この”少ない語数で論理表現する”という意味で、私は名詞を重ねる表現を好む。

 orange uniform player (オレンジ色のユニフォームを着た選手)という表現はユニフォームとプレーヤーという名詞が重なっていて文法的にはどうかと思われるが、名詞の前置修飾という慣用語法として一般的である。
 しかし2語程度なら名詞が重なる場合もあるが、これを5語6語と重ねていくというのが私の得意表現であり、文法などを考慮することなく簡単に論理的な表現ができる。もちろん語彙は慎重に選ぶ必要があり、上記の例でもorange uniform TV ではさっぱり意味が通じないし、uniform player だけでも違和感のある表現になる。



 なおorange uniform playerというのは私の子供時代からのアイドルであったサッカーのヨハン・クライフをイメージしたもので、彼が所属したオランダ代表及びアヤックスのチームカラーがオレンジなのはオランダ王家であるオラニエ家の紋章にオレンジ色を使用していたことに因んでいる。

 十数年前に、米国の英語学で有名な某大学が英語によるコミュニケーションレベルを評価するという試験を開発して世界展開し、TOEFLのような杓子定規のような問題ではなく実践的な英語力の評価方法として日本の企業などでも多く採用したことがあった。
 そしてある年に私が受験したところ、全国最高スコアをマークしたということで表彰され、上記の独特の表現は非常に面白いからその大学で英語によるコミュニケーションの研究・講師をしてみないかと誘われたことがある。

 私がこれまで受けたヘッドハンティングの経験で最も奇妙な案件であったが、別に私は英語力を売り物にして世渡りするつもりはなかったので、即刻お断りしたが・・・

 最近の英語はこのような名詞をいくつも重ねる表現は、特に科学技術の分野ではだんだん盛んになりつつあるようで、僅かながら私の貢献もあるのかもしれない。

 などと知ったかぶりをしたが、実は私の英語力は映画を観ても字幕が無いと理解できないレベルである。画面に集中したいので真剣に聞いていないとはいえヒヤリング能力が致命的に欠如しているのであるが、まあnegotiation(交渉)の場というのは、相手が何を云っているかある程度予想できるものであり、相手の言い分を聞いたふりをしてこちらの主張を押しまくるという押しの強さも必要なので。

 恋のnegotiationも同じ・・・かどうかは私では経験不足で語る資格が無いが。

 私の最初の海外渡航先は韓国であり、学生時代に囲碁の試合でソウルに招待された。

 

 

 そして現在のところ最後の渡航先も韓国であり、海外中心生活が始まった頃のブログを下添する。
 なお韓国ではこの数十年囲碁ブームが続いており、囲碁専門のTV番組が2チャンネルあって渡韓した仲邑菫(画像下)は大スターであり、飲みに行けば周囲の連中と囲碁の話題で盛り上がることができる。もっとも最近は仕事で渡韓しているので対局はしていないが。



(2021年11月12日 作成)
 昨年末42年勤務した会社を退職しフリーのコンサルタントになったものの、顧客は全て海外でありコロナ禍で訪問できなかったが、渡航制限緩和でようやく海外中心生活が始まった。

 まずは2週間韓国を訪問したが、次回も正月を挟み2か月程度の渡韓になりそうである(旧正月なので日本の正月は関係ない)。
 あまり長期間の海外滞在はしたくないのだが、現在のように帰国後の隔離・待機とか入国者健康居所確認アプリ(MySOS)とかビザ取得や隔離期間短縮に日韓での受入責任者がどうのこうのとかで長期間拘束されると頻繁に行ったり来たりするのは不便なので、コロナ期間中は(いつ終わるのか?)どうしても長期滞在になりそうである。

 久しぶりの海外という以前に久しぶりのリモートではないface to faceの仕事なので少し戸惑ったが、やはりコンピューター画面相手ではないリアルの人間相手の仕事はいいものである。
 おまけに仕事後の飲みにケーションも楽しめるし・・・というかそちらがメインの目的でこの歳になっても現役で仕事をしているのかもしれないが。

 韓国は20年ぶりくらいであったが最近の経済成長により物価も急上昇しており、スターバックスの価格は日本より高くて驚いた。ただし私が滞在した田舎街に行けば飲み食いの費用はだいたい日本の50-70%くらい・・・といっても食費等は全て先方負担というコンサル契約なので私は払っていないのでよくわからないが。
 先方も社費なので遠慮なくいい店(田舎にしては)で毎日が大宴会となったが、酒も料理も昔とはかなり状況が変わっていた。

 まず酒であるが最も好まれるのが韓国焼酎(画像下:ソジュ・日本でいえば甲類)をストレートで飲む手法で、ちょっとお行儀は悪いがビール(普通のビールより炭酸強め)と混ぜて箸やスプーンで衝撃を与えてさらに炭酸を泡立たせるソメクとかいうのも流行っている。



 韓国焼酎といってもメーカーは日本でもお馴染みの鏡月や眞露であるが、日本で主流の水割りに向いた25%の無味無臭のものではなく16%(世界の蒸留酒では一番弱いかも)くらいの少し甘味があるグレードである。確かに飲みやすいもののそればかり飲んでも美味しいとは思えないので、私はいつものようにビールと交互に飲んでいた。

 この飲み方は30年ほど前に北欧で覚えたもので、連中はビールとウォッカ等の蒸留酒(デンマークならオールボー、スウェーデンならアブソリュートウォッカ、フィンランドならフィンランディア)を交互に飲んでおり、ビールチェイサーとはちょっと違ってビールとウォッカを両方楽しむ飲み方である。
 宴会といえばカンペ―・カンペ―と白酒(代表銘柄はマオタイ)の一気飲みばかりやっている中国でもこの飲み方を紹介したところ、連中もマオタイはいくら中華料理には合うとはいえこればかりずっと飲んでいるのはきついと思っていたのか非常に受けて、皆がこの飲み方を始めたことがある。

 ただやはり韓国焼酎はソフト過ぎてこの飲み方は合わないかな。しかし最終日の韓国財閥の御曹司主催のお別れ会では、同氏がプライベートで作らせているという40%程度の酒(蒸留は中国で行っているということなのでこれはもう韓国焼酎とはいえないが)が出てきて、ちょっと薬膳がかっているが流石の味であった。

 韓国料理といえば日本では何といっても焼肉のイメージであり、牛・豚・羊と各種堪能したが、サンチュ(チシャ葉)で巻いて各種薬味やタレをつけてという昔からの食べ方はもう流行っていないそうで、もっぱら小皿に取った塩または僅かに胡椒が入った塩を付けて食べている。日本でも天ぷらには天つゆよりも塩が当り前になり次はトンカツもソースでなく塩で食べるのが流行りつつあるのと状況が似ていると思ったが、要は本当に美味しいものならシンプルな味付けが良いということだろう。

 ただしサンチュ巻きは全く廃れたというわけではなく生肉や内臓系の料理にはよく用いられており、これは臭みを中和させるという意味では合理的である。
 そして内臓系料理は・・・これはやはり韓国料理が一番美味しいと思うし、血が滴るようなレバ刺し(日本でも復活望む)やトグロを巻いたコプチャン(小腸)を焼いてハサミで切って食べるのは絶品である。



 そしてハサミといえば韓国料理の鉄板焼きには必需品である。たいていは店の方が切ってくれるのだが、参加者に鍋奉行ならぬ鉄板奉行(笑)みたいな方がいると店の方を制してワシが切ると仕切る場合もある。
 ウナギ料理の店-といっても日本のような蒲焼ではなくヌルヌル動いているのを一匹ずつ開いて丸ごと鉄板焼きにするのだが、焼けてくるとやはりハサミの登場でぶつ切りにする。その席ではやはり鉄板奉行がいてワシが切ると仕切っていたが、その方もウナギは初めてだったようで相当ビビっていた(何せ頭を残して開くので首振り運動はするし視線?が合うことも)のは面白かった。

 そして刺身もまた美味く、白身魚はさすがに日本にはかなわないがホヤ(岩手の本場でもこのレベルはちょっと味わえないと思う)やアワビ(日本では高級品だが韓国ではアワビチャンポンを頼めば麵が見えなくなるほど載っている)の刺身の旨さは・・・

 また驚いたのは韓国人自身は自国の代表料理は刺身などのシーフードだと思っていて(確かにプサンのチャガルチ市場の規模は築地以上であるが)日本ではこんな旨い魚は食えないだろうと何度も云われた。これに対して焼肉(特に牛)は日本の代表料理だと思っていて、仕事で付き合う韓国人のほとんどは日本渡航経験があるがその時に食べた和牛(ワギュウはもう韓国語になっている)焼肉の写真をスマホに保存してこれは旨かったとうっとりしている・・・

 なんだか飲み食いの話ばかりになってしまったが、酒はともかく韓国料理は私に合っているようで、3食すべて韓国料理が長期間続いても特に問題はない。
 ただ辛い味付けでビールが進むのは健康上問題であるが、紀元前2000年頃のメソポタミアの文献にもビールの売り上げを伸ばすには料理を辛くしなさいとあるように、これは千古の鉄則であるからやむを得ない・・・かもしれない。

 まあ韓国は世界で最も飲みにケーションを好む国だと思うので、これも仕事のうちと言い訳しながら正月も日本にいるとき以上に飲み飽かすことになりそうである。

(2022年11月13日追記)
 素材開発と知的財産権のコンサルタントと自称(笑)しているが、現在はぶっちゃけ評論家みたいなものでプレイヤーじゃないからストレスもない。
 プレイヤーに戻りたい気はあるけど、こんなロートルにプレイさせてくれる顧客がいるかどうか。

(2022年03月10日 追記)
 コロナ拡大で正月をはさんだ訪韓は中止。それどころか一昨日の感染者数は34万人で韓国は世界一危険な国になった。
 昨年末の訪韓時には日本よりはるかに安全だっのに・・・
 韓国の顧客とはたまに訪韓しさえすれば人生のピーク時に匹敵する年収で契約しているのだが、タイミングが悪い時はこんなものか。
 

 以前の日記で私の生涯の趣味である囲碁の戦績について書いた。

 

 

 こういう公式戦では考慮時間に制限をもうけないと”競技“としては成立しないが、用いられる道具としてのチェスクロックには色々な思い出があり、十数年前のブログを引用する。

(2011年09月22日 作成)        
 「碁打ちは親の死に目に会えない」という諺?をよく聞くが、これは元々は親が死にかけていてもやめられないほど碁が面白いとか人を耽溺させるという意味ではない。
 これは江戸城御城碁(画像下は日本棋院囲碁殿堂資料館にあるミニチュア)の時間制限から出た話であり、御城碁は年に一度将軍の御前で行われるので(実際には臨席しないケースも多かったようだが)、そんなには時間をかけるわけにはいかない。そこで前もって下打ちしておいた碁を、もっともらしい顔をして並べなおすだけというのが慣例になっていた。



 そこでこの下打ちというのが問題であり、江戸時代には時間制限がないので何日かかるかわからず、その間は親が死にそうだろうと帰宅は許されなかったのでこのような言葉ができたのである。

 なお江戸時代の碁がレベルが高かった(現代よりはるかに高かったという説もあり中盤以降なら私も同感である)のは現代のような時間制限がなかったのでお互い納得がいくまで考えられたからだという説があるが、これは全くの誤りである。
 数日、あるいは十数日かかって対局したのは御城碁下打ちや名人位をかけての争碁のような特別に重要な対局のみであって、普通の碁は原則として一日打ち切り、場合によっては一日2局とむしろ現代の日本プロ棋界よりも短い。


 その程度の時間で江戸時代の名人たちは現代棋士ではありえないような精密なヨミの入った碁を打っていたのは奇跡的であるが、このあたりが碁は勝負でありながら芸術の要素も強いと云われる所以かもしれない。単なる勝負なら100M走の記録のように時代と共に進歩するのは当然であるが、芸術なら昔のものの方が優れていると思われる分野もいくつかある。
 それとも時間感覚のようなものが江戸時代と現代では異なっており、江戸時代人は濃密な時間の使い方を知っていたのかもしれない。

 長考合戦が当り前になり、勝つためには最善を求めていくらでも考えるという習慣になったのは、幕府が倒れて明治・大正時代に入ってからである。
 そしてあまりにも一局に日数がかかるようになったため、ついに導入されたのが現代の時間制限というわけである。

 時間制限の導入当時は時間記録係が時計で時間を測っていたがやがて手合時計(チェス界で最初に採用されたのでチェスクロックともいう)開発された。これは押しボタンがついた時計を二つくっつけて、自分の時計のボタンを押すと相手の時計が進み始めるという仕掛けで赤い針が落ちると時間切れとなる(画像下)。



 アマチュアの試合ではすべてこの手合時計を使うようになったが、プロの試合ではいまだに記録係がストップウォッチで時間をつける場合が多い。

 チェス界では世界タイトルマッチといえど時計は対局者が押す(画像下)のが原則なのに比べ日本のプロ囲碁・将棋界は過保護?のようであるが、これはチェスは原則的に切れ負け(持ち時間が無くなれば負け)なのに対し、プロ囲碁では秒読み(持ち時間を使いきった後に、1手30秒または1分で打てばよい)を付けるので、どうせ秒読み係がいるなら、時間付けもしてもらおうという発想だろう。

 しかしプロの世界もスポーツ化・国際化の時代となり秒読みつきの時計も登場したため、近い将来すべての棋戦で対局者が自分で時計を押すようになるだろう。



 この手合時計をめぐっては様々な悲喜劇が生じ、私も色々な経験をした。

 私が20代前半のときの全日本選手権の2回戦か3回戦。
 相手は当時が全盛期の世界チャンピオン(あの頃はたまには日本人も世界チャンピオンになっていた)であるが、私も若く勢いがある時代で序盤から冴えて必勝局面になったときに、突然相手からクレームがついた。“時計を押す音がうるさく私の思考回路を乱している。あまりひどいと審判に・・・”というような意味の言葉が上目使いでにらみながらドスの利いた関西弁(ちなみに相手は関西とは無縁の人)で飛んできた。
 あの時は私も若く未熟で、カッとなってしまった。勝負事は冷静さを失った方が負けであり、何をこしゃくなと一気に決めてやろうとして粘られ、難しい局面で私だけが秒読みに追い込まれた。相手はこちらをからかうようにすごい勢いでバンバン時計を押して時間攻めであり、結局はボロボロにされてしまった。

 ああいう盤外の心理作戦を仕掛けられるというのは、いかにも私がそういうのに引っかかりそうな精神的な未熟さを見抜かれてしまったのだろう。
 そのせいか私は20台の最盛期にはさっぱりいい成績を残せず、これまでの全日本では、練習もしなくなり棋力がかなり落ちて以後の5年位前と15年位前に5位(即ちベスト8)に2度なったのがベストスコアである。

 あまり精神的に成長したとは思えないものの、少なくともすぐにカッとならなくなったのでつまらない負け方が減ったのだろう。

 さらに別の話として20年ほど前の某棋戦。
 盤面は大差で私が良し。あと20手ほどで終局。時間も1分半ほど残っている。どこにもまぎれる余地はない。


 …というときに事件は起きた。
 私の針が落ちて時間切れになってしまったのだ。
 時計が不良品だったのである。

 このときは30分ほどもめた。
 相手は“貴方も碁打ちなら時計は絶対というのを承知しているはずだ”と譲らない。
 審判団の協議の結果は、まあ常識的な線で時計がおかしかったのだから新しい時計で続行ということになり、相手はすぐに投了した。
 1分半というのは充分長いため明らかに不良品だとわかるのが幸いだった。これがもし30秒だったらその程度は時計の保障精度範囲内ということで泣き寝入りだったかもしれない。30秒というのは一般には余裕?の時間の残し方なのだが…

 この事件がトラウマになって、それ以後しばらく切れ負けの対局前には必ず時計の長針を廻して時間切れの瞬間をチェックして時計がおかしくないかどうか確認する習慣になった。
 ただ10年ほど確認を続けた結果おかしい時計は1個もなかったので、今はその習慣はなくなっている。

 さらにこんな経験もした・・・二十数年前の某棋戦県大会。
 形勢はやや私が良いが、お互いに切れそうで時間切での決着になりそうという情勢。

 猛スピードで時計を叩き合っているうちに、相手から“切れました”という声がかかった。時計を見ると両方の針が落ちている。相手は私の針が一瞬先に落ちたのを確認したそうである。
 しかし… 相手から声がかかったのは、私が時計を押そうとする寸前で即ち私の時計が動いていたときである。これは常識的に考えると…


 私は周囲の観戦者に“私が先に落ちましたかねえ?”と独り言のように確認を求めた。誰も重苦しい雰囲気で答えない。相手は自分が確認しましたからということで、落ちる瞬間を確認していなかった私は反論しようがなかった。
 なお私はその県に転勤したばかりで、しかも試合会場から離れた町に住む他所者で知り合いもいなかった。相手は地元棋界の大ボスというところか…

 アナログ式の時計ではこのようなトラブルがあり、時間が切れる瞬間の微妙なタイミングは機差もありはっきりしないため、最近では秒読み機能も付いたデジタル式手合時計(画像下)も普及してきた。これだと残り時間が1秒単位で表示されるため、いつ時間が切れるかははっきりわかる。



 しかし私はこのデジタル時計を切れ負けの試合に使うのは好きではない。
 あと3秒使えば負けですとわかるよりは、いつ切れるかとはらはらしながら打っている方が精神的なプレッシャーは小さいように思う。


 余命半年ですと宣告されるのは、残りの人生を有意義に過ごすためには絶対に必要な情報であるが、何月何日に死にますと云われるのは嫌だという感覚だろうか。死ぬときは突然死がいいが、持ち時間はだんだん少なくなってきた。


 しかしまだまだやれることは多いし、残り時間が僅かになってからが勝負である。前記の世界チャンピオンは、切れ負けの試合で持ち時間残り1分から100手以上打って勝ったという伝説(少しは誇張があるだろうが)の持ち主であるが、なあに私だって・・・

 ・・・とここまで書いてきて気付いたのだが、人生は囲碁のように持ち時間が決まっていないのだから、やはり長生きする方が勝ちかもしれない。生きていれば仕事も碁も恋も?できるし、また学界での論争の決着はその学説を唱える方が全員死に絶えればそれで負けである。

(2011年9月23日追記)
 なお時計は石を打った手(右利きの方なら通常右手)で押すのがフライング(笑)をなくするためのルールであり、反対の手でボタンを押しっぱなしにするというのは反則である。
 前記の世界チャンピオンが残り1分から100手以上打ったというのは、おそらく相手が打つとほとんど同時に打って、相手が時計を押すより早く自分の時計を押すので、結果的に相手は時計を押せなかったのだろう。
 たまにこのような神技(笑)を見せる方がいるが、たいていの場合着手がメチャクチャになり自滅するのがオチである。

(2011年09月24日 追記)
 チェスの写真は1972年の世界タイトルマッチ@レイキャビク、左が世界チャンピオンのボリス・スパスキー(ソ連)、右が挑戦者のボビー・フィッシャー(米国)でフィッシャーの圧勝に終わった。
 その後ソ連は崩壊し、スパスキーはフランスに亡命、フィッシャーは米国から追放され、日本で様々な(笑)エピソードを残した後にアイスランドでつい最近客死した。
 人生で輝いていた時期が終わっても、それよりはるかに長い期間人生は続いていく。

 先日のブログでオセロ⇒チェス⇒将棋と人類が次々にコンピューターに敗退していったこと

 

 

 そして最後の砦であった囲碁もついにコンピューターの前に落城して

 

 

人間にとっての“聖域”がなくなったことについて書いた。

 これらをリアルタイムで経験できたことはショックは大きかったものの良い思い出になった。
 そこで人間にとって盤上ゲームはなぜ愉しいのかについてコンピューターとの関わりの中で考えてみた十数年前(当時はコンピューター将棋に人間が敗退する直前)のブログを引用する。

2012年01月24日 作成
        
 先日、将棋の米長元名人がコンピューターに完敗したのはまさに衝撃的なニュースであった。持ち時間は充分あったし、将棋の内容からいっても順当負けと云わざるを得ない。

 



 引退して8年とはいえ私たちの世代にとっては神様のような存在であり、いよいよこんな時代が来たかと感無量である。コンピューター将棋の進歩速度から考えてあと数年で人間(プロ名人)が追い越されることは不可避であろうし、それならばそのニュース価値を高め将棋普及の一助としたいというのが、将棋連盟会長である米長が自ら斬られ役を買って出た意図だろう。

 史上最強のチェスプレーヤーといわれたカスパロフがIBMのディープブルーに敗れたのが1997年(画像下:カスパロフの凡ミスもあったので実際に抜かれたのはその数年後か)であり、将棋はチェスよりはるかに難しいからまだまだと云われていたが、どうやら射程圏内に入ってしまったようだ。



 となると人間側の“最後の砦”は囲碁ということになりそうで、これはまだ数十年以上はかかると思われる(思いたいという願望か?)ので私が生きているかどうか、あまりそんな時代が来るのは見たくないような気もする。

 思い出してみるとオセロゲーム機を初めて買ったのが中学生時代で、その当時はまだまだ私の方が強かったが、その後私どころか人間が敵わなくなるまでにそれほど長年月はかからなかった。それが今では将棋があと一息のところまでで次は・・・
 コンピューターの進歩はそれだけ目覚しいわけであるが、その他の科学技術分野では近年それほど進歩が見られない(アポロ以後の宇宙開発、水爆以後の兵器、自動車以後の個人移動手段etcに何か顕著な進歩があったか?)ことを考えると不思議な気がする。新しい技術だから”旬(はもう過ぎたかも)“の季節に伸びただけであって、もう伸び代はあまり残っていないのかもしれない。しかし半導体業界のムーアの法則(集積回路の微細化は18ヶ月で2倍になる)は当分あてあまるという予測であり、質はともかく量の進歩は当分続くのではないだろうか。

 ところでコンピューターの実力を人間に比べると、オセロ>チェス>将棋>囲碁であるというのは、それぞれのゲームの難しさの差だと言う説をよく聞くがこれは本当だろうか?
 ゲームの難しさ=変化の多さというなら確かに上記順位はあてはまるだろう。オセロで10の60乗、チェスで10の120乗、将棋で10の220乗、囲碁は10の360乗というのがそれぞれのゲームの変化数だそうだが、この変化数に対してコンピューターの手を読む速度は1秒間に数千万~数億手程度でしかない。となれば考慮時間がビッグバンから宇宙終焉までというならともかく、ゲームの変化の多さがコンピューターの強弱に影響するとは思えない。

 これはコンピューターの強弱ではなく、人間の強弱が問題なのではないだろうか。
 コンピューターはオセロは強いが囲碁は弱いのではなく、囲碁は人間が強すぎるのだと思う。

 そしてなぜ人間は囲碁が強いかと言うと、逆説的だがそれは囲碁が人間にとっては簡単なゲームだからだろう。
 オセロでは一手で盤上の大半の石がひっくり返ることがあり、そんなことが数手続けば人間にとってヨムのは極めて難しくなる。これに対して囲碁では極端な例だが9手と10手のセメアイなら19手先まで初級者でもヨメる。これに対してコンピューターにとっては囲碁もオセロも1手は1手であり大きな違いがあるわけではない。

 また囲碁があらゆるゲームの中で一番難しいゲームだというのは単に19路と盤面が広いからだけであって、オセロと同じ8路にしたら、少なくとも人間にとってはオセロの方が難しいことは自明だろう。
 そしてオセロが8路であり、世界の将棋系ゲームが8路または9路であるというのは、それ以上に大きな盤では難しくなりすぎて人間にとって面白くないからだと思う。
 そして囲碁が19路になったというのもそこまで大きくしても人間にとっては簡単なゲームなので難しくなりすぎることがなく、大局観のようなものが愉しめるからであろう。

 そういう意味では私は近年流行の9路盤囲碁は何が面白いのか良くわからないのだが、最近になってさらに極端な4路盤“よんろのご”というのが現れた。



 考案者はトッププロ棋士の張栩棋聖であり、私のマイミクさんが刊行時の編集を担当している。

 9路盤でも興味がそがれるのに4路盤ではどうしようもないようだが、そこがコロンブスの卵的な発想であり、対局ではなくパズル形式にして入門者が覚えやすいようになっている。
 そして単なる入門者向きではなく、4路ならではの千変万化の手筋があり中にはプロもうなるような難問も作成可能である。
 これは4路という極小空間に限定することにより、囲碁の醍醐味である辺スミの盤端における攻防を全局レベルの攻防に変えて、見なれない手筋が次々と現れるようにしたもので実に興味深い。

 そしてこれで碁を覚えた世代は、碁に対する新しい感覚を身につけることが期待できるのではないだろうか。
 従来の日本の伝統芸能というのは“形から入る“のが主流であり、囲碁もその例外ではなく定石・手筋・死活の基本などを覚えることから始めることになっていた。しかしこの4路盤はパズル即ち”ヨミ“の世界であり、ヨミから入るので戦闘力の強化に効果的と思われる。これは即ち日本の囲碁が韓国・中国に追い抜かれた一番の要因の対策になるのではないだろうか。

 考えてみると盤上ゲームの大きな愉しみというのは、手筋のヒラメキで先の先までヨメルと言うか“見える”ことではないだろうか。特に囲碁というのは人間にとってヨミやすいゲームであるため、このような脳内に電流が流れるような思考回路のつながりができやすく、それが一番の囲碁の醍醐味であると思う。

 個人的には最近は(昔から?)見えるだけで全くヨメないようになり、その見え方もだんだん曇りがかってきたのが残念である。十歳代半ばを過ぎれば脳細胞の死滅によりヨメなくなるのはやむをえないが、曇りがかって見えにくくなるというのはあるいはレーシックのようなショック療法があるかもしれない。

2012年12月25日 追記
 数日前、米長元名人・将棋連盟会長が死去されました。
 この対局を受けられたときは、もうこういう状況であることが明らかになっていたと思います。
 合掌
 

 2016年に書いたブログである“恐山でイタコの口寄せを初体験“は掲載したSNSでは6000view以上をカウントされ、これまでの私のブログでは圧倒的に読まれた回数が多い。

 

 

 ほとんどの読者は外部の検索エンジンから来るのであるが、検索に引っ掛かるための本文中のキーワードという意味では、恐山関係の使用語彙などは私のブログによく登場するエロス・殺人・B級グルメ関連などに比べるとそれほど“刺激的”ではなく、別の理由がありそうと考えているうちにはっと気がついた。
 それはこの日記が恐山参拝?の珍しいハウツー本になっていることである。
 確かに私も恐山を訪問する前に、イタコの口寄せ(要は降霊です)を経験するのにどこでどう頼むのか、又費用はいくらくらいなのかをガイドブックなどで調べたが、あまり情報が無かったのを覚えている。

 なおハウツー本というと何か低級な?本のようなイメージがあるが、考えてみれば“本”というのはそもそもの起源はハウツー本である。史上最高のベストセラーとされる聖書などの宗教書は“How to 天国へ”だし、ハウツーハッピーとか新興宗教に近いものもあるが、伝統宗教も最初はそんなもので深遠な哲学より今直ちに救われますという類ではなかったか。
 その他How to 健康・戦争勝利・人格形成・政治宣伝・試験合格etc、要は昔から一般的に人が読みたいものというのは何かに上達・成功するためのハウツー本なのであり、私の本棚の1/3近くを占めている囲碁関連の本(今はもう開くこともなくなったが)も典型的なハウツー本といえる。

 そのハウツー本の中でもそのものズバリのタイトルで刺激的であったのが1971年の大ベストセラー”How to Sex”(奈良林祥)であり、人間をモデルにしたカラー写真で構成されていて、子供心に強烈な印象であった。



 

 なおこの場合のsexは自動詞として用いられており珍しい用例とはいえ文法的に間違いとはいえないが、入国申請書類などのsex欄に3/weekなどと記載するのは明らかに間違いなので念のため。またこのジョークには続きがあって、審査官「そこはMとかFとかを記載してください」、申請者「それでは私はSかな」、審査官「S・・・?」、申請者「FastでもMiddleでもなくSlowなもので」・・・
 こういう勘違いはどこにでもあるもので、SとかMとかいうのは日本の日常会話でもしょっちゅう出てくるようになったが、海外ではslaveとmasterかと正反対に解釈される場合がある。誤解を受けないのはD(dominant)とs(submissive)であり、私もBDSMテイストの歴史小説を英語で執筆中なので気を付けるようにしている。

 

 


 なお人間をモデルにというのは当時は画期的であり、それまでは人形を用いた謝国権の"性生活の知恵”が古典?として権威(笑)を保っていた。もっとも現在ならば球体関節人形などが流行っているのであるから、謝国権の方にエロスを感じる方が多いかもしれないが・・・

 



 とはいえ現代においては出版業界の発展・文章術の進歩により、ハウツー本よりは一般的なフィクション・ノンフィクションの方が売り上げも大きく書店の売り場面積も広いが、これは近代以降のごく短期間の現象に過ぎない。
 しかしながらネットで大量の情報が出回るようになった現在、少なくとも無料情報においてはハウツー(本・コンテンツ)の方が需要は大きいようだし、この状況は将来有料情報(これが紙の本の大半を駆逐することは将来間違いないと思うが)にも拡がっていくのではないだろうか。
 

 これまでの人生で一番入れ込んだ趣味である囲碁であるが、最近は出ると負けの状態が続いておりいよいよ死亡説が流布・・・いやまだ死んではおらず勝てないだけなのであるが。

 前回のブログでは囲碁を覚えた頃のことを中心に書いたが、その後の棋歴を振り返ってみると。

 

 

 アマチュアの囲碁大会は三大棋戦と呼ばれるアマ名人戦、アマ本因坊戦、世界アマ日本予選が年に一度行われ、地方予選・県予選を経て各県から1-2名の県代表が全国大会に出場するというスケジュールになっている。(ただし世界アマ日本予選はコロナ以後中止が続き、コロナ明けから世界アマ日本代表(1名)はアマ名人・アマ本因坊が対戦して決めることに)

 したがってまずは県代表にならないと全国大会には出場できないのであるが、残念ながらここ10年以上一度もなれていない。
 年齢的に考えてももう出場できない可能性が高い(特に現在住んでいる神奈川県は最激戦区)ので、このあたりで過去の記録を整理してみると・・・

 県代表歴は19回(神奈川県7回、福岡県12回)で、全国大会のベストスコアは5位(即ちベスト8)が世界アマとアマ本因坊で2回というのがその結果で、おそらくはもう増えないだろうからこれがライフタイムの戦績ということになるだろう。
 この程度でアガリかというのは大いに不満であるが、客観的に自分の実力を考慮すればまあこの程度かもしれない。

 最後の県代表・全国大会のことを書いたブログを下記するが、この時はまだまだやれる(かもしれない)と思っていたのが懐かしい。
 もっともアマチュアには引退はないので公式戦出場は続けるつもりであるが、これはもうボケ防止というよりボケ発見(本当にボケてしまうと自分がボケていることに気が付きにくいため)に役立つからか?

(2013年09月12日 作成)
 あと2週間足らずで世界アマ日本代表決定戦である。
 私も久しぶりに県代表となっての出場で、過去のベストスコアは日本代表決定戦で5位(ベスト8)であるから今回はどこまでいけるか。
 64人枠だから6連勝で日本代表(各国一人だけ)であり、まあ夢物語ではあるが・・・

 最近の選手層の若年化は著しく、前回の世界チャンピオンは20歳の韓国人、数年前の世界チャンピオンは13歳の中国人、私の今回の県大会の決勝の相手は16歳の高校生だった。
 そして今回も大ベテランの(奇跡的な)優勝と書かれる始末で、“最近は本県代表がそのまま全日本を制する場合が多いので・・・”などとプレッシャーをかけられたが、誰も期待していないことは自分が一番よく知っているので気楽ではある。

 それにしても最近の日本の囲碁の凋落は著しく、世界アマでは常に1・2位のどちらかを占める中国・韓国にはるかにおいていかれてしまった。



 囲碁は日本が世界一となったのが江戸時代初期であり(それまでの1500年ほどは中国がトップ)、400年ほど日本の時代が続いたのだが、20年ほど前に韓国・中国に追い越されてしまい、国際戦では日本人が勝つことがまずない状態が続いている。

 400年ぶりといえば江戸幕府が倒れて武士の時代が終わった以上の衝撃であり、私が碁を始めた頃が日本時代の末期であったことになるが、当時はまさかこんな時代が来るとは思わなかった。

 日本が勝てなくなった原因は色々あるだろうが、少なくともこれをハングリー精神の欠如に求めてはならないだろう。
 最大の差は教育システムの差にあると思われ、一説によると5歳から15歳まで一日8時間練習すると、10万人に一人は天才が出てくるそうである。そして中国・韓国はそういう環境(残りの99999人のキャリアが準備されていること)が整っているのに対して、残念ながら日本では教育制度・社会制度上そうはいかないということであろう。

 私も碁を覚えた14歳頃から17歳くらいまではそのくらいの時間をかけてのめりこんでいたのだが、残念ながら時あまりにも遅くこんな中途半端な碁打ちになってしまった。あの時間をもっと有効に使っていたらと思わないでもないが、その時は自分なりに一生懸命だったのだからしょうがないか。
 そして今は全く練習もしておらず、ただ試合にぶっつけ本番で出るだけという体たらくである。家には碁盤もなく、棋譜も採っておらず、ここ30年ほどの定石・布石の進歩も知らない。全盛期の20台に比べると嘆きを通り越してあきれて笑い出したくなるほど弱くなっている。

 しかしこれほど弱くなっているにもかかわらず試合になるとたまに勝つこともあるから、もう同世代がほとんど引退状態になっている中で未練がましく現役を続けている。まあここまでくれば生涯現役でボロボロになるまでやってみるのも一興である。

 仕事も趣味も性癖も生涯現役で・・・私の理想であるが、一番客観的な評価が下るのが勝負の世界であるから、それを謙虚に受け入れることができればまだまだやれる・・・かもしれない。

(2013年09月13日 追記)
 これが最後のチャンスかもしれないというのにどうも気合が入らないし、練習する気にもなれない。もっとも今さら泥縄を試みたところで何の役にも立たないだろうからまあいいか。
 人事を尽くさずタナボタを待つの心境か。
 狂い咲きくらいでは不十分で、枯れ木に花が咲くくらいの奇跡が起こらないと・・・

(2013年09月22日 追記)
 やれやれ、“勝ちました”を連発してつくってみると半目負け・・・まあ私らしい終わり方かな。
 10年に一度といういい山(相手もそう思ったでしょうが)だっただけに残念ですが、また次がある・・・かどうか?

 これまでに人生で一番のめりこんだ趣味といえば囲碁であり、特に人格形成期である中高時代の熱中ぶりはその後の人生感や感受性を決定づけることになった・・・いい意味でも悪い意味でも。その辺りを振り返って昔のブログを引用する。

(2011年04月03日 作成)
 数年前の阿含杯(アマチュアの参加枠もある唯一のプロ棋戦)で手合わせしていただき、完敗を喫した

 

 

若手プロが、この間初タイトルを獲得した。早いものである。そのときに記録係をしていただいた若い女性も少し前にプロ試験に合格した。

 囲碁のような頭脳競技はスポーツに比べて歳をとってからピークがくるようなイメージがあるが、それは全くの逆であって手を読む思考能力は10代半ばがピークであるのに対して、スポーツは競技にもよるが30代前半でピークを迎える場合が多い。筋肉は鍛えられるが、脳細胞は鍛えようがなく死滅する一方であるからこれは当然である。
 とはいえ囲碁は手を読むだけの勝負ではないので、競技年齢ではもう少し後にピークがくるが、それでも最近のトッププロの世界では20代が全盛期であって、30歳を超えるとロートル扱いとなるようだ。

 後に超一流棋士となる某プロがまだ中学生で二段のとき、こんなオジサン(といっても私も20代の終わりくらい)に負けるわけないと思ったのか打ち込みでの勝負を挑んできたが、勢いで2子にまで打ち込んでしまったことがある。さすがにプロの面子もあるので2子番は打たなかったが、おそらくあの頃が私の一番打てていた頃だったのだろう。

 そういえば私が中学を卒業するときにプロにならないかと誘われた事を思い出した。もっとも親元を離れて東京で生活するような気概はなかったし、中高一貫校に通っていたため、東京で高校受験するのも面倒だしということで、真剣に検討するには至らなかったが。
 まあ大した才能もなかったので、このまま一般人?でよかったとは思うが、あのときもし冒険心を出してプロの世界に飛び込んでいたらと考えないでもない。

 私が碁を覚えたのは中学1年の夏休みで強くなるためにはあまりにも遅かった。小学生時代に教えようとした両親があきらめた頃になって(私は人に云われたことは絶対にやらない天邪鬼)、押し入れにうずたかく積まれていた棋書を読むことから始めた。



 しかも入門書を読むのではなく、古今の名人たちの打碁を並べるというやり方であり、ルールも良く知らないのになぜか棋譜の数字の羅列に不思議な魅力を感じたようだ。まあ時刻表(笑)の数字に興味を持つよりは良かったが。
 2年くらい棋譜並べばかりしていて、ある時自分の書物からの知識がどの程度通用するのか試してみようと父と初めて実戦をしてみた。アマ6段の父に5子で打つというと父は妙な顔をしたが、そこそこいい勝負であったということはアマ初段前後は打てたのであろう。その後1年も経たず逆に2-3子置かせるようになり、そこでプロ修行してはどうかという話になったのである。

 このような変わった囲碁の覚え方をしたことが、はたしてもしあの時プロ入りして必死に修行していたらプラスに働いたかどうかはわからない。
 それ以後のアマチュアとしての経験から考えると、若いときに実戦を重ねていれば身につくはずの勝負勘のようなものが致命的に不足しているというマイナスの要素が大きかったと思うが、まあ人生はやり直せないので単なる興味本位の推測でしかない。

(2011年04月04日 追記)
 中学時代のあの2年間は、一日7-8時間、意味もよくわからないままに棋譜を並べていた。
 秀和全集、秀哉全集、呉清源全集・・・漢数字の無機的な羅列が古今の名人たちの息使いをそのまま伝えるように迫ってくる。
 今一度初心に帰って欲心を振り棄てて彼らの声に耳を傾ければ、あるいはヒカルの碁のように棋神降臨ということに・・・なるわけないか

 5年前の2020年7月~9月はこれまでで一番の生活激変期だった。
 今になって考えるとそういう巡り合せだったとむしろプラスに考えることもできるが、深刻化する一方のコロナショックとも相まってかなり不安な気持ちになった憶えがあり、当時のブログを以下に引用する。
 
(2020年10月13日作成)
 9月末に42年間勤務した会社を退職した。無職というか無所属は幼稚園入園以来だから60年ぶりで結構新鮮な気分である。
 精神的にも経済的にも悠々自適という感覚ではなく、自分で起業するような才覚もないので再就職活動中であるが、コロナ禍でなかなか見つかりそうもなく、しばらくは自由を謳歌するかとプラスに考えるようにしている。

 またこのブログにもたびたび登場した

 

 

私の母が7月に享年100歳で亡くなった。
 突然具合が悪くなったということで臨終には20分遅れで間に合わなかったのだが、前日まで少し話す元気はあったし、その1週間前には写真のような囲碁を私と打つ元気もあった。



 これは3子局であるが、私に3子置いて打てるといえばアマチュアの5-6段程度の棋力であり、100歳(満99歳であるが、仏教用語で享年100と云えば景気?がいい)にしてほとんど衰えていないほど最後まで元気だった。
 記憶力も5分前のことは忘れてしまうのだが50年前のことは私以上によく覚えており、これはむしろ囲碁を打つには常に新鮮な目で碁盤を観て過去の着手にとらわれないという意味ではプラスだったかもしれない。
 ねんりんぴっくで日本一が90才で、私と最後にペア碁に出たのが95才であるから。満で100超えなら取材が来るかと思っていたのだが・・・ 

 そして母が亡くなって私も踏ん切りがついたというか何でもアリという精神状態になった。
 母がいつどうなるかわからない時には、長期休暇をとりやすい(さすがに42年勤めていると大抵の我儘は通り1-2か月休んで帰省していた)事が優先されたが、もうそんなことはどうでも良くなった。
 私の家族も全員社会人でお互いに干渉しないライフスタイル・・・というかお互いのことに興味がないという状態なので、どこで何をしようとご自由にという感じである。

 これまで海外出張は二十数か国にしているが海外勤務の経験はなく、トータルでも海外滞在は1年以下であったので第二の人生というか就職先は海外と考えていたのだが、現在はコロナ禍の時代であるからさあどうなるか。
 なお日本で私より英語(今や英語圏であるかどうかは関係ない世界共通語)がうまい方は掃いて捨てるほどいるだろうが海外で私より日本語がうまい方はあまりいないだろうし、仕事を見つけやすそうな海外先進地帯の人口は日本の20倍ほどいるし、私の専門であるセラミックスはまだ日本が世界で主導的対場にいる数少ないジャンルでもあるため、就職先を探すなら海外の方がはるかに有利なのは自明である。

 とはいえ海外にはしばらく行けそうもないので、とりあえず来週から2週間ほど関西・中京地区の転職エージェントや知人を廻るべく京都のホテルを予約した。コロナの影響による不景気で半額程度にダンピングされている上にGotoキャンペーンでさらに半額になっており、信じられない値段で予約することができた。
 まあ半分以上は観光であり、関東で見つからないのに関西・名古屋で見つかるとは思えないが瓢箪から駒ということもある・・・かもしれない。また外国人がいないという以前に日本人もあまりいないというガラガラの京都・大和路というのはおそらく今後は経験できないだろうから楽しみである。

 それにしても平日に(休日にもであるが)朝から時間がとれるというのは一気に行動範囲が拡がった。就職先が見つかるまでは(しかし本当に見つかるのか?)遊び狂いそうであるが、昼夜逆転はしない事(年をとると自然に早寝早起きになるのでこれは大丈夫)と酒は夜しか飲まない事(本当は休肝日を設けたいがこの数十年毎日飲んでいるのでそれは無理かな)は健康維持のために厳守する予定である。

(2020年10月14日追記)
 母は…まあ本人にとっても私にとっても一番いい時期だったのかもしれない。最後まで元気(もう少しで黄疸が出て緩和ケアが云々と医者から言われていた)だったし私の人生の曲り角で後押しするような時期だったし。

 そして母が亡くなってほぼ故郷の松山とは縁が切れたことになる。とはいえ祖父が分家して以来の墓(まだ結構スペース?はある)はまだ故郷にあるのだが、私の代はどうなるか・・・
 少なくとも子供たちはこれまでのキャリアから考えて関東永住になりそうで、私の故郷には何の縁もない。葬儀に戻ってきて子供時代に祖父母と休暇で遊んだ家(売りたいのだが田舎―といっても私鉄駅から歩いて1分で便利は良い―はなかなか買い手がつかない)は懐かしそうにしていたが。

 まあ私が明日死ねばあの墓に入ることになるだろうが、30年後にはどうか? 
 母の口癖は葬儀や墓は生き残った人のためのものであって死者に気を遣うことは一切ないと。
 私も同感で自分の死後なんて興味もないし子供たちが勝手にすれば良いと思うが、その頃は宇宙葬の時代になっているかも。

 囲碁は何歳まで現役で(現役の定義は難しいが)やれるのか?
 杉内夫妻は雅男九段が97歳で亡くなるまで、寿子八段は98歳にしてまだ現役というのが驚異的であるが、私の周りでは母がかなりの年齢までやっていたので、過去のブログから引用する。

(2011年10月16日 作成)
 今日からねんりんピック(画像下、参加資格60歳以上)の囲碁競技が始まる。
 今年の開催地は熊本県であり、90歳になった母も愛媛県代表として参加している。



 一人暮らしの母はまだまだ元気であり、こんな機会があると旅行準備や手配を自分でこなすし、今回は日本一狙いとのことで優勝表彰式のタイムスケジュールも組み込んで旅行スケジュールを立てている。さすがに最近は足が少し弱くなったので海外に行く元気はなくなったが。
 とても90歳とは思えないし、先日入院見舞いに行った母より10歳下の叔父(母の弟)は“姉さんは怪物“と評して思わず笑ってしまった。
 そして自宅は四季折々の花で地面が見えない状態になるほど庭の手入れに力を入れており、知人を招いて庭を見ながら食事をしたり碁を打ったりしている。

 母は若い頃から色々な経験をしており、小学校教師からはじまり、大竹で軍需工場経理(このとき広島に原爆が落ち1時間ほどの差で難を免れる)を務めた後に、進駐軍@松山の通訳になった。まあ進駐軍の時代は英語ができる方がほとんどいなかったので、いい加減なことを云っても通用したみたいである。先日の国際ペア碁会に私と出た際に

 

 

母がスピーチを引き受けた時も、通訳がつくとはいえ英語でやれば格好良い(笑)から、原稿を書こうかと勧めたのであるが、ちょっともう自信がないということであった。
 私がペンタゴンまでノコノコ自分の研究の売込みに出かけた

 

 

というのも母から米軍の話を聞いていて何となく親近感があったのかもしれない。そういえば父の役所時代は原子力技術行政の責任者だった時期があり、それで私には原子力アレルギーが全く無いのかも。

 

 


 そして進駐軍が引き上げた後に司法畑に入った。同郷の女学校の先輩が日本初の女性○○といった経歴を重ねていたのを追いかけてキャリアを築きつつあったが、結局は私が生まれたのを契機に仕事をやめた。なおその先輩は90歳を越えても法曹界で活躍して先年亡くなったが、家庭的には長男が次男を殺害する事件が発生するなど色々あって・・・母は彼女に対し何か意識していたというか今も意識していて、それが頑張って生きていく上での潜在意識下の原動力の一部になっているのかもしれない・・・おそらく聞けば否定するだろうから聞かないが。

 父母が知り合ったのは碁会所である。どちらも成人してから碁を始めたので若い頃から始めなければ強くならないことはいやというほどわかっていたため、私が小学生のときにさんざん教えようとしたが、人が勧めることは絶対にやらない天邪鬼の私は乗らなかった。
 そして両親があきらめた中1でようやく始めたのだが、残念ながら時既に遅くこんな中途半端な碁打ちになってしまった。まあ勝つだけが碁の世界の幸せではないからこれでいいか・・・と負け惜しみを云ってみるが悔しいのでまだまだ最後の足掻きを頑張ってみるつもりである。

 母は私が高校を卒業して上京するとともに中断していた囲碁を再開し、すごい勉強振りで今は父と同じ六段になった。また調停委員(昔取った杵柄で示談成功率100%近かったとか)とかナントカ委員とかを歴任するようになったが、流石に80歳を超えると現役というわけにはいかず、最後に残ったのが囲碁というわけである。

 父は技術系の公務員であったが、早期退職して晩年の20年足らずは大学で教鞭をとっていた。大学で非常勤で教えてもあまり収入にはならないのだが、役所の人間関係に疲れ果てたというのが正直なところらしい。
 父は飄々としたタイプで人生訓みたいなことは絶対に言わなかったし、そんなことは口で云うものはないと考えていたようだ。だから目頭が熱くなるようなエピソードは一切ないのだが、大学時代の講義のための膨大な資料や原稿が残っており、少し読んでみると思わぬ父の一面を見つけて驚くこともある。

 そういえば棋界で母を知っている方は多いが、父を知っている方はほとんどいない。その数少ない一人が全日本を十数回制したN氏であり、彼が小学生か中学生のときに親の転勤の関係で松山市に住んでおり、そのときに父と何局か対戦したらしい。もちろん彼はその当時から強く、田舎六段の父が敵うような相手ではなかったようだ。
 N氏とは当たるたびに父の話になるが、よく考えてみると父が亡くなってからは一度も会っていない。つまりN氏と当たるようなステージに私はこの4年間一度も上がっていないということで、ちょっと悲しいがまあそのうち。

 もうすぐ父の4回忌がくる。
 晩年の数年は病気のデパートのようであった父に三歳年上の母はほとんど付きっ切りで看病にあたっており、一日中話をしていたが、父はだんだん子供のようになっていった。癌であったがほとんど苦しむことが無かったのは医者も不思議がっていたが、精神的なものもあったかもしれない。

 あれだけ仲が良く、精神的に通じ合っていた父母であるが、父が亡くなっても母は特に老け込むことも落ち込むことも無かった。生きているうちは全力で愛するが、死んじゃったものは生き返るわけではなし・・・
 私と母の会話でも過去の思い出などはほとんど話題にならない。話をするのは今後あれをやりたいこれをやりたいということや囲碁に関することが中心で、昔は良かったなんて話は全く出てこない。

 私もいつか死ぬが、別に嘆き悲しんでもらいたいとも思い出を語り合ってもらいたいとも思わない。何か後世に成果を残して死にたいとは思うがそれは自分が満足できればそれでいい。


(2011年10月18日作成)
 何と、ねんりんピック・囲碁で90歳の母が優勝して日本一になってしまった。
 biological miracle

 男性2名・女性1名の県別団体戦で母は3勝1敗、男性陣は4勝と3勝1敗で、スイス方式で順位を決めるが負けた相手のポイントが高かったため優勝が決まった。愛媛県勢の優勝も初めて。
 人吉市、熊本県、九州囲碁界の暖かい歓迎ぶりにも感激していた。

 なおプレスへの発表は数えという意味なのか91歳で出したみたいで、91歳ですごいですねという連絡を何人かからいただいた。
 本人もあの歳になると若く報道されるよりも、この歳になっても若いですねといわれる方がうれしいようである。

 私は歴史・遺跡・墓場(ツームウォッチング)マニアであるが、その中でも古代エジプトは子供の頃からの憧れで、テーベの街の地図は故郷の街よりも詳しく頭の中に入っている位であった。そしてハワード・カーターの“ツタンカーメン発掘記”やミカ・ワルタリの“エジプト人”は小学生時代の愛読書で、大人になってからもアイーダのブロードウェー初演(冗談ではなくヴェルディのオペラより傑作だと思う)を観たりと”エジプト熱”は冷めることがなかった。
 また“大きいことはいいことだ”というコピーに代表される重厚長大の世相の中で育ったためか巨大建築の最高記録を長年独占していたピラミッド

 

 

に対する憧れも強く、ギザの大ピラミッド内部に入った(今は体力的にちょっと無理かも)時の感激は今もよく覚えている。
 そしてその趣味が高じて紀元前1650年ごろのエジプトを舞台にしたBDSMがかった歴史官能小説を書いたりしていたこともある。

 

 


 ただし現代エジプト人というのは中世にイスラム教を携えてエジプトを征服したアラブ人の子孫であり、古代エジプト(人)はそのはるか前に滅び去っている。
 十数年前に“古代エジプト衰亡史”というブログタイトルでしばらく駄文を書き散らしていたが、この数十年の日本の政治的混乱状況を考えるとその類似性は笑い事ではないような気がするので、内容の一部をそのまま転載する。

(2008年8月3日)
 20年ほど前にエジプトを初めて訪問して上空から眺めたときまず驚くのはナイル河谷の10-20km程度の狭い巾にしか緑豊かな居住地帯がなく、その両側にはどこまでも続く砂漠が広がっていることである(下画像は衛星写真)。こんな狭い地域ではたして大文明を支える巨大人口を養えるものだろうか?



 エジプトの古代遺跡の壁画には豊かな水をたたえた人々の暮らしを描いたものが多いため、このような北サハラの乾燥化・砂漠化こそが古代エジプトの衰退の原因であるとする説もある。

 しかしながら結論から云えばこの説は全くの間違いのようだ。この地域の砂漠化が現代のような状況になってから古代エジプト文明は興ったのだし、またナイルの両岸地域というのは集中して耕作すれば決して狭くはない。広大な地域を必要とするのは牧畜を中心とした文明であり、土地生産性の高い農業を行なえばこの程度の地域で充分なのである。(ただし人口が数千万を超え億に近い現代では少し狭いような気もする)

 その証拠に3000年程続いた古代エジプト文明が滅びてからも、プトレマイオス朝からローマ時代にかけてのギリシア人に支配された1000年ほど(この時代も面白いのだが何しろ古代エジプトが面白過ぎるので有名なのはクレオパトラくらい)は西洋文明の中心としてまた世界の穀倉としての生産力を誇り、アラブ時代になってからもここ1000年ほどのカイロはイスラム世界の中心であり続けムスリムの最も豊かな都として十字軍やナポレオンなどに代表される西洋社会に認識されている。

 古代エジプトの衰亡はその豊かさに翳りが生じたからではなく、豊かさを保ちながら古代エジプト人自身・古代エジプト文明自体の中の何らかの要素により滅んでいったと考えざるをえない。

(2008年8月3日)
 初めてカイロを訪問したときに驚くのはナイル河の小ささ・狭さである。カイロ空港に着陸する少し前に横切る紅海(世界の大河には紅海以上の巾を持つものもいくつかある)をナイル河と勘違いする人もいるほど、世界最長の大河ナイル(私の子供の頃には世界最長はミシシッピと教わったのだが、近頃川の長さのカウント法が変わったようだ)に対する期待は大きい。それがカイロの市内を流れるナイル川(画像下)は何ということか。これでは大阪の淀川といい勝負ではないか。



 しかしながら上流のテーベまで行くと全く状況は異なる。東岸の迷路のような大神殿を抜けると目の前に広大なゆったりとしたナイルの流れが現れる。はるかかなたの西岸のデル・エル・バハリの岩山に沈む夕日。夢にまで見たイメージ通りのナイル、そしてエジプトである。



 このテーベからカイロまでの間に何が起こっているのか?
 日本(というか世界の大半)のように川というのは支流を集めて下流になるほど広くなるという常識は、両岸が砂漠のナイルには通用しない。
 ナイルが下流になるほど狭くなる理由は乾燥地帯を流れるため支流がないことや蒸発の影響が大きいこともあるが、何といっても両岸の農業のため水を供給しているからである。
 まさにエジプトはナイル河の賜物であり、古代エジプト文明の政治体制やその衰亡の理由もナイル河との係わりを抜きにしては語れないだろう。

 ナイル河を利用した農業の一番大きな特徴は、それが大規模な土木工事や水利事業を必要としないことであり、これが古代エジプトの最大の強みでありまた逆にそれが弱みとなってついには衰亡に至ったのではないだろうか。

(2008年8月7日)
 現在ではアスワンに巨大ダムができてナイルの氾濫は人為的に止められてしまったが、それまでの1万年近く、ナイル河谷では氾濫農法というべき特殊な農業が行なわれていた。
 これは毎年必ず青ナイル上流が雨季にあるときナイルは増水・氾濫して、河谷は冠水してしまう(画像下は20世紀初頭の増水時で、ナイル川が氾濫して三大ピラミッドのすぐそばにまで迫っている)。その水が引いた後は上流から流されてきた肥沃な黒土が残され、そこで生産性の高い農業を行なうという他にあまり例を見ないシステムであり、これが古代エジプト文明を支えた生産力の源泉となっている。



 このシステムは氾濫後の農地の再測定・再配分を必要とするため高度の統治機構を必要とし、また氾濫の程度によりどの標高の農地まで冠水するかを知るための情報網が必要であって、これを行なうために古代エジプトでは中央集権的な強大な王権を伴う統治制度ができ古代エジプト文明として発展した…と書いてあるような解説書が多いがはたしてそうだろうか?
 何もしなくても勝手に河自体が氾濫して灌漑してくれるのなら、これは極めて楽な話でむしろ高度な統治機構などは必要ないのではないだろうか。

 メソポタミアの巨大運河や網の目のような地下水路、黄河の氾濫を抑えるための治水事業、これらはすべて強大な中央集権機構を必要としそれが文明として発展してきたが、エジプトはそれらの普通の?文明とは全く逆に、何もしなくても豊かであるという利点を最大に生かして発展した文明のような気がする。
 古王国のピラミッドのような生産につながらない大工事は、農業インフラに大工事を必要としないからできた贅沢であろうし、神官が勢力を持っていたというのもナイルの氾濫という人間がコントロールできないことを神に祈るところからきたのだろう。

 このような事情のため、どうも古代エジプトの指導者・諸王の類は他の文明に比べ指導力・カリスマ性といったものに極めて乏しい。民族・文明を率いる力強さに欠けており“顔”が見えてこないのである。
 新王国時代になると単純に氾濫を待つだけでなく、灌漑用のはねつるべのようなものが考案され、少しは利水事業らしきものが行われるようになって指導力・政治力も必要となり、トトメス3世やラムセス2世のような強大な王が登場してきた。それでもやはりメソポタミアの強烈な個性を持つ諸王に比べると影が薄く、何だかエジプト王というのは神性のような部分ばかりが強調されて、政治家・軍人としての資質はあまり問われなかったのではないかと思うし、王がその状態なら統治機構も似たようなものであったろう。

 それでも何もしないでも豊かという利点を生かして数千年は近隣に君臨してきたが、やがてメソポタミアやその外縁に強大な統一勢力が成立し、直接それらの勢力と争うようになると、エジプトのこの政治力・指導力に欠ける点は致命的であり、そのために豊かさを保ったまま競争に敗れて滅んでいったのではないだろうか。
 ナイルの恵みは古代エジプト文明を生んだが、あまりにもその恵みが大きすぎたのが逆に仇となって滅んでいったような気がする。

(2008年9月2日)
 ちょっと以前にカルタゴ史ブームというのがあり、各種の書籍やテレビの特番で競うように取り上げられた。そのストーリーはだいたいワンパターンで日本をカルタゴになぞらえたものであり、海洋貿易国家として繁栄を極めたカルタゴがやがては領邦型国家のローマとの戦いに敗れて滅んでいく歴史を、ローマを米国(中国という取り上げ方のものも少しあった)になぞらえて警鐘を鳴らした…というよりも自虐的史観?から面白がって取り上げたものである。
 しかしながらこんな見当違いの比喩はないのではなかろうか。日本が海洋貿易型の国家であったことは一度もないし、日本はカルタゴとローマのどちらに似ているかといえば、国家の成り立ちや国民性を考えるとどちらかといえばローマであろう。

 このような比喩に意味があるかどうかは別にして、日本と似ている国を探すとすればそれは古代エジプトではないだろうか。
 砂漠に囲まれているため対外的な交渉をそれほど必要としないという意味では海に囲まれた日本と良く似ているし、ナイルの氾濫による恵みで国土が豊かであるという意味では、水資源が豊富で緑豊かな肥沃な自然を持つ日本と共通している。
 日本は資源小国などと云われているようだが、別に石油が地下に眠る砂漠の国が豊かなわけではない。国土の豊かさは自然・地勢と人間の関係の総合力であり、そういう意味では日本は歴史的に世界屈指の豊かな国であったといえるし、古代エジプトのナイル両岸やデルタ地方の豊かさと相通じるものがある。

 最近日本では古代エジプトがブームになっているようで、このある意味マニアックなコミュにも大変な人数の参加者がいるが、その原因のひとつとして日本と共通するものがあるので何となく懐かしさのような感覚や共感を憶えるからではないだろうか。豊かな自然に恵まれ外敵もあまりいなかったため、穏やかでのんびりした国民性が形成され…

 そしてその共通性が、何もしなくても豊かであり対外的な争いや苦労もあまりなかったため政治力・指導力を欠いていたという古代エジプトの衰亡原因ではないかと推定されることに関しても共通だとしたら…
 何だか昨今の日本の事情を考えると笑い事ではないかもしれない。