陶磁器の妖しい魅力…それは人が生み出した宝石というべきか…本来地中にて数千万年・数億年かかるプロセスが、土に炎を加えることによりわずかの時間で窯から宝石のような焼物が現れてくる。そしてその土もまた地中にて気が遠くなるような長期間かかって形成されたものである。土から石へ、そして石からまた土へ、輪廻転生に似たサイクルが焼物の小世界にはこめられている。

 陶磁器の教科書などを開くと、陶土の3要素として石英・長石・粘土があげられており、それを大体のところ1-1-2の割合で混ぜて混ぜて焼いたものが通常の陶磁器である。
 もちろんほぼ100%石英である海砂などを除いては、それぞれの成分が単独で採掘されるわけではなく、各成分がミックスされた原土(有田の泉山陶土はそれ自体で磁器の原料として各成分が理想的にmixされていることで有名)採掘されて不要な部分を除く精製工程をへて陶土の原料となる。
 その中でも最も入手が困難なものは粘土であり、その良質なものの入手は極めて難しい。

 何をもって良質な粘土というかは、成形時に粘りがあることや焼成時に耐火度が高く変形しないことなどの様々なファクターがあるが、やはり歴史的にハードルが高く得難い特性とされていたのはその“白さ”である。石英や長石は白いものが容易に入手できるが、粘土は不純物が混じることが多く白いものは少ないのである。
 その白色粘土は、陶磁器のメッカというべき中国・景徳鎮の近くの高嶺(高稜)から採掘されるものが世界的に名高かったためカオリンと呼ばれるようになった。別名チャイナ・クレーともいう。



 中近世のヨーロッパでは白色磁器は中国から(後には日本からも)輸入される最高級の贅沢品であり、金に等しいような値段で取引され、国王の宮殿には磁器の間(画像上はシャルロッテンブルク宮殿の磁器の間)が設けられてその贅を競っていた。
 もちろんヨーロッパ各国ではこの貴重な磁器を自製しようと長年研究を重ねたが誰も成功しなかった。新旧大陸の植民地も含めて肝心のカオリンをどこにも見つけられなかったからである。
 英国ではついにカオリンを探すのをあきらめてボーンチャイナに走った。これはカオリンの代わりに牛の骨灰を用いたもので、通常の土の白さではなくミルク色の白さが出るがこれは好き好きというものであろう。

 ところが皮肉なことに、世界最大のカオリン鉱床は英国の地下に眠っていた。
 英国の西南端に突き出た半島部のコーンウォール地方(画像下)であり、この辺りは地の果てという意味でランズ・エンド(Land‘s End)とも呼ばれている。



 コーンウォールのカオリンが英国陶磁器の父とも呼ばれるウィリアム・クックワージーによって“発見”というか工業的に採掘されるようになったのは18世紀半ばである。
 露天掘りで採掘できてそれほど技術難度が高いとも思われないのにこれまで発見されなかったのは、表土を剥ぎ取った後に水簸により不純物を除く技術と資本力が不足していたためであろう。

 コーンウォールのカオリン鉱床からはこれまでに約1億2000万トンのカオリンが採掘されたといわれており、あと数百年分の埋蔵量は確認されている。
 なお現在粘土資源の枯渇が問題になっているのは、主として日本が産地である可塑性が特に良好なやや黒色がかった粘土であり、白色粘土(カオリン)ならコーンウォール等を考慮すれば実質的には無尽蔵といえる。



 その現役のピットには今でも年間百万トン以上の採掘量を誇るものもいくつかあり、そこはまさに火星のような荒涼とした光景(画像上)である。
 年間百万トンというと水簸による“歩留り”を5%(通常よりはるかに低いがこれがコーンウォール鉱床の特徴)とすると年間2000万トンの原土を掘り出さなければならない。
 直径数KMの露天掘りピットから年間2000万トン掘り出すというと、これはもうユンボやトラックを使っていたのでは話にならないことは計算してみればわかる。

 また粘土の卸売価格の相場がトン5万円(最高級粘土といっても山元卸値はキロ50円くらい)とするとそのピットの年間売上高は500億円となるので採掘コストはそれよりはるかに低く抑えなければならない。

 そこで開発されたのが巨大な水鉄砲を使って鉱床を砕いて瞬間的にスラリーにしてしまい、そのスラリーを“川”にして下流の水簸工場に流していくという豪快な?システムである。スラリーの濃度を10%とすると年間2億トンのスラリーが流れていくことになる。
 
 40年ほど前、筆者は話のタネにその“水鉄砲”を打たせてもらったが、数十メートル先の鉱床が目の前で文字通り木端微塵になるのは大変な迫力であった。なおそこに人間が立っていると、完全にバラバラになって痕跡をとどめないとのことである。

 もちろんクックワージーによるカオリン鉱床の発見当時はこんな近代的な仕掛けはなく、手作業で水簸をしていたのであろうが、それにしても水簸により取れる粘土は原土の5%というのはあまりにも少ない。なお通常の粘土鉱山の水簸歩留は20-50%であり、可塑性重視で色をあまり気にしない銘柄では100%に近いものもある。
 したがってこれを“産業”に育て上がるには大資本を投入して大規模な鉱山コングロマリットで量産効果を狙わなければならないし、またそれが可能なだけの世界最大の大鉱床でもあった。

 そこで登場するのが鉱床地帯のコーンウォール地方の大地主であり、クックワージーの事業の後援者となったトーマス・ピットである。ピット家は後に親子で英国首相となり世界史に大きな影響を与えた大ピット・小ピットを輩出して有名になるが、ピット家が大資産家に成り上がるきっかけとなったのが、インドのマドラス総督であったトーマス・ピットによる世界最大級のリージェント・ダイヤモンド(別名ピットダイヤモンド・画像下)の入手であった。



 このダイヤモンドは“呪いのダイヤ”として後世有名になるが、もともとはインドの鉱山奴隷が原石を発見したものである。彼は自分の足を切り抉って足の肉の中に原石を隠して逃亡し、貿易船の船長にダイヤの売り上げを山分けにする約束で船にかくまってもらう。しかし船長はこの奴隷を殺してダイヤを奪い、その船長も一時はこのダイヤを売って大金持になるものの後に破産・発狂して自殺する。ダイヤはまわりまわってピットの手に渡り、彼はこのダイヤを持って英国に帰国する。そしてフランスの摂政(Regent)オルレアン公フィリップ2世に国家予算的価格で売却することに成功し、大資産家となってコーンウォールの広大な土地を買い占める。
 なおダイヤはその後、マリー・アントワネットの手に渡り、ナポレオンの皇帝戴冠式では彼の儀丈剣の柄頭に用いられ、ルイ十八世とシャルル十世の王冠やナポレオン三世の帝冠にも飾られるが、その持ち主の多くは悲劇的な最後を迎えることになる。なお現在はこのリージェント・ダイヤはルーヴル美術館に展示されている。

 ピットはこのダイヤから得た資金をコーンウォールのカオリン鉱山の開発に投入し、またクックワージー主導で窯を最初は地元プリマスに開いたが、後に英国陶磁器のメッカというべきストークオントレント(ウェッジウッドやミントンなどの陶磁器メーカーの多くはここに本拠を構える)まで運河でカオリンを運ぶルートを開拓して英国陶磁器産業の基礎を築き上げた。

 コーンウォールの荒涼たる大地はダフネ・デュ・モーリアが描く世界やアーサー王伝説などで著名であるが、陶土の世界でもロマンに満ちた地域である。

(コーンウォール訪問記)
 私の専門は社会人になって以来陶磁器・セラミックス(粉を固めてから焼いて作るものは何でもセラミックス)であり、40年ほど前にコーンウォールの粘土採掘現場(画像下)への初訪問した時のこと。



 まず驚いたのがエアーラインである。
 ガトウィック空港(ロンドン)の一番はしっこに止まっていたのは20人乗りくらいのプロペラ機。まあとんでもない田舎に行くんだからこんなものだろうと乗り込んだが、チケットの座席番号には0と書いてある。ゼロとは何か? 驚いたことにそれは副操縦席だった。
 おまけにパイロットは飛行中にスチュワーデスとお茶を飲みながら雑談するために席を立ってしまった。完全に操縦席にひとりぼっち。とんでもない航空会社もあったものだが、英国南部田園地帯のどこまでもうねうねと続く緑の世界を堪能できた至福のフライトであった。
 フライトといってもバス路線の感覚であり、次々と停留所じゃなくてローカル空港に着陸し、中には無人空港もあるので、その場合はパイロット自身が乗客を誘導するのだから忙しい。
 まあ陶土の鉱山というのはそんなに便利なところにはないので、飛行機で近くに行けるというのは幸運ではあるのだが。

 コーンウォールで泊まったホテルは田舎にしてはなかなかの高級感である。
 部屋には足首まで毛足でかくれるような贅沢な絨毯が敷き詰められている。
 しかし…その絨毯の上に大型猫足バスタブがデンと鎮座している。
 このバスにどうやって入れというのか?

 コーンウォールを車で走っていると、遠くに“Cornish Food”の大看板が見えた。これはケルト伝統料理を供する店かなと期待して近づいてみると“Cornish Ford”であった。
 なおこの辺りはアングロサクソン侵攻以前のケルト文化が残る、平均的英国人にとっても異国的な地域であるが、ケルト語をしゃべる最後のコーンウォール人は200年ほど前に死に絶えたそうである。

 鉱山の担当者から聞いた愚痴。
 “この地区にはこの鉱山しか産業がないので、雇用も税金も道路も病院もすべてこの鉱山に依存している。それにもかかわらず鉱山はこの地区の住民からは非常に嫌われている。粘土鉱山というのは数百年にわたり環境を破壊し光景を荒涼としたものに変えてしまうからであり、因果な商売だ”
 …と酒を飲みながら相手はこぼした。ランチタイムに社員食堂(笑)で。ヨーロッパでは昼食時に酒を飲むのは珍しいことではないが、これほど大量に(まず立ち飲みカウンターでエールビールを私は1パイント・相手は3パイント、そのあとテーブルに移動してワインを二人で1本)飲んだのは初めて。さすがに英国人は強いと感心したが、その担当者は午後の会議ではずっと居眠りしていた。

 この話にはまだ続きがあって、その数年後、突然その担当者から電話がかかってきた。
 粘土ではなく、その粘土鉱山自体を経営する会社を買いませんか(笑)というお誘いだった。
 ここだけでなく、欧州中に各種原料鉱山を経営するコングロマリットであり、上に諮るまでもなく手に余る話なので丁重にお断りした。

 日本がまだ経済大国であった時代の話である。  
 

   世界(日本)三大何とかと称するものは一・二番は自明であるが、三番は各自が勝手に名乗っているものが多いようだ。


 例えば世界三大料理といえば、中華料理・フランス料理は誰でも頷くが、三番目はトルコ料理、インド料理、日本料理など各自が自称している。なお私の個人的な感覚でいえば東南アジア料理をあげるべきと思われ、世界の料理を辛くする方向に変えているように感じる。なお日本では東南アジア料理といえばタイ料理が一番人気であるが、世界的に見ればベトナム料理でありこれは南ベトナムからの亡命者が世界中に散らばっていった影響であろう(つまり日本は海外からの亡命者を受け入れる度量が・・・)。なお別のところで上記のように書いたところ、旧共産圏出身の友人から、旧共産圏のあちこちに留学等で滞在していた北ベトナム出身者が、ソ連崩壊以降の情勢変化により帰れなくなった要素も大きいと指摘されたこともある。
 また世界三大悪妻といえば、ソクラテスの妻・モーツァルトの妻は共通であるが、三番目は色々な候補がいるようだし各人が自分の・・・

 南無八幡という言葉にあらわれているように八幡様は我々にとって最も親しみ深い神様・神社の一つであるが、その八幡様を祀る八幡宮は日本に1―2万社あるという。それではその中で三大八幡宮とは何かというと、宇佐八幡(大分)・石清水八幡(京都)までは自明であるがもう一つは? 
 それは正式?には官幣大社に列せられているという意味で筥崎宮(福岡)だそうだが、一般感覚でいえば鎌倉の鶴岡八幡(画像下)であろう。観光という観点からも宇佐・石清水・鶴岡は別格という感じであり、筥崎宮はそれほど観光客が訪れるわけではなく私の世代だと“博多っ子純情”に出てくる神社というイメージが強い。



 鶴岡八幡は源頼義が石清水より勧請して以来、源氏・武家の総氏神として尊崇を集めていたが、それが逆に明治政府から嫌われて三大八幡から洩れたのかもしれない。また徳川氏は源氏を称したものの、足利氏のようには源氏の由緒正しき家柄を名乗るわけにはいかなかったため、鶴岡に全力で肩入れしなかったというのも影響しているかもしれない。
 なお東京には深川祭や相撲関係で有名な富岡八幡があるが、これは江戸開府以後の幕府とは直接の関係がない創建で比較的新しいが、最近大スキャンダル(内紛に起因する日本刀を用いた富岡八幡宮殺人事件)が発生したのは中世かよと驚かされた。

 そういえば2010年に三代将軍実朝暗殺のときに公暁が隠れていたとされていた大銀杏が強風で倒れた(画像下)。なお上画像の石段左下に写っているは残った根から生えてきた新木であり、あと500年もすれば堂々たる当時の姿が復元されるかも。



 あの銀杏の樹齢については以前から暗殺事件当時はそんなに大きかったはずはないとか何とか論争があったはずであるが、あの論争はどう決着がついたのだろうか? まあニュースにもならなかったことからも調べるまでもなくということであろう。

 なお鶴岡八幡を勧請した源頼義から義家・為義・義朝・頼朝と続く血統が源氏というか武家の棟梁家であるというのは頼朝が天下をとってから言い出したことであって、それまでは誰もそんなことは思っていなかったのではないだろうか。
 そもそも頼義は鎌倉を本拠地としていた平直方(桓武平氏)の娘婿として落下傘候補みたいに東国に地盤を築いたのが躍進の原点となっている。鎌倉幕府の有力御家人のほとんどが平氏であるのはこのためであり、所謂源平の戦いも伊勢平氏と桓武平氏の争いという方が実態に近い。
 そんなわけで“源氏の棟梁家”にはほとんど味方がおらず、頼家・実朝と頼朝の子供たちは征夷大将軍になった後に次々と暗殺されて(頼朝自身にも暗殺説があるがさすがにこれはトンデモかな)血筋は絶えてしまうことになる。

 なお八幡宮のヒエラルキーの頂点にいるのは云うまでも無く大分県宇佐市にある宇佐神宮(画像下)であるが、これは石清水がいくら地元・朝廷の尊崇を集めても岩清水自体が宇佐宮より勧請を受けて成立したのだから変わらないだろう。



 宇佐神宮の歴史・八幡信仰の歴史で一番よくわからないのは、いつ頃からどういう理由で応神天皇(と神功皇后)が祭神とされるようになったかである。
 宇佐のもともとの祭神は比売神-三女神またはその祖たる信仰対象だったはずであり、これに応神系の神が追加されるということは、明らかに古代の権力闘争が反映していると思われる。

 私は大分県国東半島の大ファンであり、“国東の石仏”というコミュを主宰している関係などで読む郷土史の本には次のように書いてあり定説とされているようだ。
 “三女神系は土着の宇佐氏が祀り、応神系は後から大和から来た大神氏が祀り、応神系の勢力が強くなるにつれて三女神系の宇佐八幡勢力は押し出されるように山岳仏教(当時は神仏習合は当り前)に活路を求め六郷満山(国東に今も残る諸寺)を開いた”


 しかし私がおかしいと思ったのは大神というのは大三輪とも書くように、大和朝廷が大和に渡来する以前の勢力を代表する存在(大神神社は日本最古の古社とされる)であり、応神天皇といえばある意味大陸系(本人が大陸から来たというよりも大陸系の豪族たちを配下に多く擁していた)の初代であってまさにその宿敵といってもいい存在で、そんなものを祀るはずはないのではないかということであった。



 この点は長年疑問だったのだが、某サイトで知り合った友人が宇佐神宮の祖社とも云われている薦神社(画像上・大分県中津市)の神官の血筋だという縁で、十数年前に同地を訪ねてみて何かヒントを得られたように感じた。
 というのはこの薦神社というのは明らかに帰化人系の神社であることがわかり、これなら応神天皇を祀るのは自然であるが、そこで大神系の勢力が他所者としてのハンデを克服するために薦神社系の勢力と結びついて宇佐氏の勢力を排除しようとしたのではないだろうか。
 神を祀る行為というのは文字通りのまつりごと=政治そのものであって、古代においては政治上の最重要課題であった。いや現代においても祀るものが違うだけであって事情は同じことかもしれない。

 私がそのとき中津を訪問したのは仕事上の用事であるが、そのとき仕事相手から“最近工場で事故が多いのでお祓いでもしてもらおうかと思っている”という話を聞き、“この辺でお祓いというとどこの神社ですか?”と訊ねるとそれがまさに数日前に友人から紹介を受けたばかりの薦神社であって、引き寄せられるようにその夕方訪問が実現した。
 あまりにも偶然というか不思議な縁があったものである。

 

 以前のブログでチェス⇒将棋⇒囲碁と次々に人類がコンピューターに敗れていく歴史について書いた

 

 




 そしてそれ以後はあまり人間の大スターといえるプレイヤーは登場していないように感じる。現在の世界最強はチェスではノルウェーのカールセン(写真上)、囲碁では韓国の申眞諝(写真下)であり、確かに強いことは間違いないものの過去の大名人のようなカリスマ性にはとぼしい。やはりいくら人間相手に高勝率を誇ってもコンピューターとは勝負にならないのだからというのが根本的な理由かもしれない。



 そんな中で唯一(唯一過ぎて他の棋士がすべてかすんでいるのは問題であるが)大スターといえる存在が将棋の藤井聡太であり、彼のプロデビュー時に書いたブログとそれ以後の節目節目での追記を下記する。

2017年07月05日 作成

 藤井聡太四段(写真下は29連勝達成時)のプロデビュー以来の無敗記録が29連勝でストップした。彼は私の次男の義姉の結婚式に出席する予定なので、その時まで連勝が続いているといいなと思っていたのだがちょっと残念である。



 次男の義姉の婚約者が名古屋在住のアマチュア(といっても若手プロ棋戦にアマチュア枠で参加して優勝してしまうような強豪)で、彼が主宰する研究会で藤井プロが腕を磨いた(流石に過去形だと思うが)という縁らしく、次男も六枚落ちで指してもらったが王手もかからなかったそうである。

 なお次男の嫁もその姉も小学生時代にプロ修行(女流育成会)を経験した縁で将棋界とは縁が深く、全くの偶然で驚いたのであるが私のマイミクさん(将棋ではなく他のゲームつながり)が姉妹の師匠である。

 その次男夫婦(外科医夫婦であるが、嫁は勘が鈍らないようにと出産後3ヶ月で仕事に復帰したのにはびっくりした)に半年前に娘が誕生した。
 ついに私もおじいちゃんになったかと感無量であったが、この初孫が客観的にみて(笑)実に可愛い。この間もスタジオアリスで・・・

 という孫の話などは誰も興味が無いであろうから藤井プロの話に戻ると・・・
 最も驚かされるのは実に勝ち味が早いことである。
 現代将棋は囲いなどは省略して一気に攻めかかる戦法が主流になりつつあるのだが、それにしてもチャンスがあれば一気に襲い掛かってきて細い勝ち筋をつなげていく手法は驚異的である。ひょっとすると末恐ろしいのではなく、現時点で(遅くともこの半年の進歩から考えてあと1年以内に)史上最強ではないだろうか。

 こういう指し方が一般的になってきたのはコンピューター将棋の影響が大きいと思われる。
 コンピューターが将棋で人間を凌駕して数年たったが、人間感覚だと無理筋としか思えない序盤からの仕掛けで手を作っていく戦法には驚かされたものである。
 なお昨年の三浦九段(実質的に人間がコンピューターに抜かれたことを天下に知らしめた大一番を指した棋士というのが皮肉である)のスマホ疑惑というのも当時は黒に近い灰色かと思っていた。しかしながら疑惑の一番の対象となった渡辺竜王との対局なども、“こんな細い攻めをつなげる筋が人間に指せるのか?”という印象を当時は受けたが、今になると“この程度のことはやるかもしれない”という感覚になってきた。

 これまで将棋が強い人というのは耐えに耐えて受けに受けて最後に反撃に転じるという水戸黄門タイプが多く、大山名人の“私は最初のチャンスは見送る”という勝負哲学などが有名であったが、最近はそういうのは流行らなくなってきた。
 最初の勝機を見送っていれば次には相手に勝機が来るかもしれないのであるから、相手に僅かでも隙があれば直ちに襲い掛かるべしというのは当然といえば当然である。

 これは囲碁でも同様であり、Googleが開発したAlphaGoの打ち方も勝ち筋に向けての一直線という感覚である。今まで碁が強いとされていた味や含みを重視して“後の先”という打ち方とは無縁で、とにかく露骨に決めてどこからでも襲い掛かってくる。

 

 

 序盤からの肩ツキに代表される中央重視の考え方も、厚みを利用して攻めるという従来の主流の考え方ではなく、武宮九段のような露骨に中央を囲いにいくというこれまでは勝率が悪いとされていた戦法を得意としている。

 囲碁・将棋共にコンピューターがこのような打ち方を得意としているのはAIには恐怖心がないことに起因しているのではないだろうか。
 というか人間には恐怖心があるので、AIのように一直線に勝ちに向かう手が打てなかったように思う。
 序盤から攻めるのは駒損してあっという間に負けるのが怖い、厚みを一直線に囲いに行くのは中地が破れるとすぐに敗勢になるのが怖い・・・したがってなるべく負ける(かもしれない)時期がおそくなるように持久戦にもっていく。これが従来の人間の考え方であったと思う。
 おまけに強い人というのは勝つチャンスが多く来るのでなるべく長期戦になった方が勝ちやすい。そこでそういう打ち方をする人が強いというのが一般的なイメージになってしまい、皆がそういう人を目指そうとする・・・

 しかしながら囲碁将棋のようなゼロサムゲームでは、恐怖心から勝負所を先送りにするのはよほどの実力差が無い限り全く意味が無い戦略であることは明らかである。そしてそれがAIの進歩によってはっきり勝負となって顕われたため、人間界でもAI的な戦法が主流になりつつあるような気がする。

 そしてこれはゲームの世界だけでなく人生一般にも云えるかもしれない。
 恐怖心から決断を先送りにする・・・新しい研究を始めて失敗するのが怖い、絶好の転機にこれまでの環境を変えるのが怖い、心がときめいた人を口説くのに拒否されるのが怖い等々であり、決断を先送りにして結果が良くなることはあまりないように思う。
 ましてや私のように還暦を越えた人間には残された時間は少ないのであるから、決断を先送りしている余裕は無い。まあ年寄りになると鈍感になって恐怖心もあまり感じなくなってきたのでちょうどいいかもしれない。

(2017年08月29日 追記)
藤井プロはトッププロには確実に負けているようだ。29連勝時は一次予選の最初からだから上位者とは当たらないとはいえ勝率100%は現段階で最強に近いかと思ったのだが、まだまだみたいである。
とはいえまだ5年あるので十代で第一人者という可能性は十分あると思う。

(2017年10月19日 追記)
結婚式も無事に終わり、予想通り藤井プロは大人気だったようである。大勢の参列の女性に囲まれてハーレム状態になった写真も出回っているがなかなかの貫禄で、竜王はじめ参列棋士たちも霞んでしまっている。とてつもない大スターが出てきたものである。

(2018年03月23日 追記)
上記の竜王(今はひどい状態だが復活を願う)は勘違いで顔が似ているだけの別人でした。
藤井プロの最近の進歩というより進化は凄まじく、29連勝の時とは別人みたい。現段階で最強に近く、このペースなら一年以内に史上最強になるのではないだろうか。

(2020年04月20日 追記)
藤井プロのエロ・レーティングがついに一位(色々な計算式があるのでまだ三位という見方もある)になった。とはいえまだタイトルには手が届いていないので弱い人(負けるとレーティングが一気に下がってしまう)に確実に勝った結果であろう。

(2020年07月17日追記)
ついに初タイトル。コロナ明け(というかまだ明けていないが)で見違えるように強くなっており、現段階で誰が見ても史上最強。3年後の名人戦が八冠達成で大フィーバーになりそう。藤井聡太のいる時代に生きる幸せ。

(2023年10月11日 追記)
祝・藤井聡太八冠達成。
今年の名人戦で達成ならもっと盛り上がったのだが、予想通りというより予定通りか。
ただ1年前に比べて圧勝率が下がっている(特に今回の王座戦は勝敗が逆になってもおかしくなかった)ようで、他の棋士との差が小さくなっているみたいに感じる。
これはトップ棋士全員がコンピューターで練習しているため差が付きにくくなっているからだと思われ、確率的にも全冠時代は大山時代ほど続かないのではないだろうか。

(2024年06月20日 追記)
やはり全冠時代は1年も続かなかった。レーティングから計算する確率でもタイトル戦8連続防衛は50%以下であるのでまあ予想通りか。大山時代に比べると各人のコンピューターを用いた練習量が違うので、今後1-2回は全冠返り咲きがあるかもしれないが、やはり長続きはしないのではないだろうか。

 そろそろ古稀が近くなり、10年前の還暦を前にして書いたブログを末尾に引用する。読み返してみてこの10年であまりにも考え方に進歩がないので唖然としてしまったが。



 なお孔子(上画像)の名言?では志学(15)、而立(30)、不惑(40)、知命(50)までは良く引用されるが、60の耳順は還暦に比べて、そして70の従心は古稀に比べてあまり有名ではないのは現代人の実態に即してないからであろう。
 なお孔子は70歳以上まで生きて自分の心境の進歩を表現したのであるが、杜甫が古稀の詩を詠んだのは47才であり(実際に亡くなったのは58歳)、“人間は70歳まで長生きすることはまずないのであるから今を愉しまなければ”という内容である。
 人類の寿命延長により70は全く稀ではなくなったが、それでも古稀という言葉が廃らないのは杜甫の思いに対する共感からだろうか。



 なお孔子は当時から史上最高の大学者としての栄光に満ちた人生を歩んだ(そうでなければこんなエラソー?なことは書けない)のに対し、杜甫(画像上は登高を詠んだシーン)は無名の詩人として貧窮の生涯を過ごすなど対照的である。
 杜甫が有名になったのは南宋時代からで評価が確立するのは明代から。また安史の乱で没落したというイメージがあるが、それ以前からうだつが上がらず必死に猟官しても小役人程度にしかなれなかったのは、宮廷詩人としての名声があったがそれに執着したかった李白と正反対であるが、両者は仲が良かったというのは面白い。


還暦を前にしての景気が悪い話
2015年06月28日作成

 あと数ヶ月で還暦を迎える。
 特に感慨もないし、60歳は節目とも思わないが、収入が激減するのは避けられない事態となりそうである。

 先日勤め先から来期以降の契約に関して打診があった。金額的にはえっこの程度のオファーしかないのという条件であり、まだサインはしていないがいやはや景気が悪い話になってきた。

 研究専門職となって10年近く、私が第一号であったので特に定年に関するルールは無かったのだが、待遇に関しては会社の手から離れて大学教授などから構成される第三者委員会で決定されるはずだったのだが・・・
 それは研究専門職の待遇に関してはその委員会が決定するが、その委員会に諮るかどうかは会社が決める(笑)という理屈らしく、確かにこの研究専門職制度に関する規約を精読すればそのように解釈することもできる。

 まあ会社サイドから考えれば、研究はギャンブルみたいなものであるから誰の研究にチップを張るかと考えれば、それは若くてエネルギッシュな方に期待する方がリターンの確率が高いと判断したのであろうし、ごく常識的な経営判断といえるだろうか。

 ただ何とか現在研究中のテーマを継続させることは認められた。
 ただし社内でその研究を大掛かりに展開するというより、社外への売り込みに注力するようにという条件であり、これは私の希望とも一致している。

 これは露骨に言ってしまえば、“私も込み”でその研究を買ってもらえる客先を捜せということであり、特許やノウハウを売却するにせよ私の個人的な知見がその研究を継続させるのには必要なのであるから、その研究を他社に売るということは私も一緒に移籍しなければ機能しないことになる。
 もちろんその研究に関してこれまで私が世界中で構築してきた特許権網は今の会社の所有であるから、私が個人的に他社に“逃げて”そこで研究を継続するわけにはいかない。
 したがって他社にその研究が売れれば今の会社も潤うし、私も今の会社も他社もWinWinWinの関係で皆がハッピーになるという理屈である。

 考えてみれば大幅に安くなるとはいえ給与をもらい自分の研究を推進しながら転職活動ができるのであるから、まあ好条件かもしれない。いや好条件だと思うようにしよう(笑・・・というか苦笑か)。

 期限は65歳までの5年間である。
 その5年以内に顧客が見つからなければ私の職業人としてのキャリアもこれで終了であるが、まあその歳になると研究を継続する気力・体力が残っているか疑問なので、まずはこの1-2年が勝負であろう。

 とりあえずは先日のフロリダでの国際会議

 

 

における講演で食いついてきた客先中心に、秋にはイタリア・ドイツ・スイス・インドと廻ってくる予定である。
 本命はボローニャ近郊に本拠を構える多国籍企業であるが、獲らぬ狸の皮算用では、2年間で話をまとめ3年契約で移籍(勤務地はイタリアまたはドイツが半分で残りの半分は日本の往復生活か)すれば契約終了時には65歳になるので、その時点で今後の身の振り方を考える予定である。

 なお自分の過去の経験・キャリアを切り売りするつもりならもっと好条件の転職先はあるかもしれないが、私はそちらの方面には興味がない。
 いや別に半導体や鉄鋼分野のベテラン技術者が韓国に移ったような“売国奴”にはなりたくないという愛国者精神からではなく、単純に過去の経験・キャリア(それに市場価値があるかどうかは別の問題であるが)を生かす方向には興味が持てないからである。
 自分の“今の”研究(能力)を買ってもらえるのでなければ移る意味はないと考えているし、もしそれが見つからないのであればその程度の能力・その程度の研究であったと潔く(いやこの歳まで粘るのはあまり潔くないかもしれないが)諦めるつもりである。

 考えてみれば、これまで一番打ち込んできた趣味である囲碁にせよまだ世界チャンピオンになりたいという夢は棄てていないので、公式戦には必ず出場するようにしているが、結果として勝てなければ諦めるしかない。
 Amazonのkindle direct publishingで歴史BDSM小説を発表して印税長者(笑)を目指そう

 

 

というのも、とにかく出してみることが肝要で、売れなかったら諦めるまでである。
 そして恋だってまずは当って砕けろと告白して相手にされなかったら・・・という話はともかくとして・・・

 まずは現役に拘り競技場に立ち続けることである。
 惨敗しても命まで取られることはないのだから。

(2015年06月29日追記)
 負けても負けてもリングに立つことが重要で、観客席にいたのでは話にならない。
 負け慣れという意味ではまさに私が経験してきた囲碁のような勝負の世界なんて負けても平気な精神構造でないとやってられない。一万人が参加する大会なら9999人は負けるわけであり、負けてショックが大きい方はたちまちパンチドランカーになるので勝負には向いていないことになる。
 大成する勝負師というのは負けず嫌いな人ではなく負けても平気な人なのである。
 “勝っても勝っても次(の相手)がいる”のではなく、“負けても負けても次(の試合)がある”と考えるようにしている・・・それでもあんまり負けると嫌になる事もあるが。

(2015年07月01日 追記)
 生き甲斐の問題だからお金じゃない・・・とはいえ必要なお金は要るし、その必要金額はは人によって違うが、私は物欲が全くない(別の方面は欲望まみれであるが)ので安上がり?な方かもしれない。
 究極はボランティアかな。金なんか要らないから世のため人のため、そして私の虚栄心のため(実はこれが一番大きかったりする)研究を続けたいと・・・
 まあ給与なんかより研究費用の方がはるかに大きいので、迷惑だとそのうち言われるかもしれないが。

 (2015年08月17日 追記)
 ようやく60歳以降の契約条件がほぼ確定した。粘った甲斐もあってか?、年収は企業年金もプラスすれば横這い程度か。
 次の節目は65歳、ここで何とか契約延長を・・・なんて後ろ向きの姿勢ではなく、それ以前にもっと好条件のオファーをどこかが提示してくれるように頑張らなくては・・・
 還暦を迎えて肩の力が抜けたのか、仕事を愉しむ気持ちになりつつある。
 脱力状態で愉しみ過ぎかもしれないが。

(承前)

 

 

2014年03月11日作成

 

 アンコールワットは国旗にも採用されているほどのカンボジアのシンボルであり、その美しさは息を飲むほどであった。

 

 

 夜明け前に訪れ、次第に明るくなってだんだん輪郭がはっきりしてきて、日の出と共に眼前に現れる奇跡のような光景・・・

 

 そのアンコールワットの栄華で有名なクメール王国であるが、いつ滅亡したかご存知だろうか? 

 その答は意外にも“まだ滅亡しておらず今も存続している”である。

 

 ただしシャムのアユタヤ王朝により首都アンコールが陥落した1431年以降はカンボジア王国と使い分ける場合もあり本稿もその様に記載する。

 もちろんアンコールが陥落しても国王が遷都しただけでその後もアンコールに短期間復帰した王もおり、クメール王国そのものが滅びたわけではない。また現在のカンボジア王国とクメール王国の間にはフランス統治時代も含めて特に“断絶”はない。

 

 ただしこれは現国王がクメール王国時代より代々血が繋がっているわけではない。カンボジアには王朝交代の概念がなく最高実力者が国王になるのが普通であって、一族間で継承される場合もあるが、対外戦争で大勝利した将軍などは禅譲か弑逆かは別にして国王になるのが当然視されたようだ。

 

 ちなみに現王室のノロドム王家は19世紀半ば頃からの王家であり、有名なシアヌーク殿下はフランス領インドシナ⇒大日本帝国⇒フランス連合⇒カンボジア王国⇒クメール共和国⇒民主カンプチア⇒カンプチア人民共和国⇒カンボジア王国と体制が次々と変る中、中国etcへの亡命期間をはさみながら一貫して国家元首的存在(肩書きが国王以外にも次々に変るので面倒であるから“殿下”と通称される)であり続けている。

 なお現国王はシアヌーク殿下とその第六王妃との息子であるが、60歳にして独身で子供はいない。特に王位継承に関する取り決めはなく、殿下には子供・孫が多いので後継者争いが心配されるが、今のところ目だった動きをしている候補者はいないようだ。

 

 さてカンボジアの起源として、現代カンボジア人=クメール人の存在がはっきりしてくるのはクメール王国の初代が聖山プノン・クーレン(アンコール中心部から山頂まで車で3時間で、午前は上りのみ午後は下りのみの一方通行)で即位した802年である。

 

 

 その全盛時代は12世紀であり、アンコール遺跡群の多くはこの時代前後に建設されたものである。上の地図は全盛期のクメール王国版図であるが、メコン川流域を中心にインドシナ全土にその覇権を及ぼしていた。なお現在のタイ人が南下してきてスコータイ王朝を開くのは13世紀である。

 

 アンコール遺跡といえば有名なのはアンコールワット、アンコールトム、タ・プロームの三つだろう。

 簡単に言えばアンコールトムは1辺3KM四方の城壁に囲まれた都市であってその内部にはバイヨン寺院やライ王のテラス等がある。そしてアンコールワットとタ・プロームは城壁外の寺院であって、アンコールワットが1辺1.5KM四方の世界で最も有名で美しい宗教建築とされるなら、タ・プロームは巨大なガシュマルの木が寺院に覆いかぶさるようにからみついている事で有名である。

 なおアンコールというのはクメール語で都とか都市という意味であるから日本語で言えば京都のようなニュアンスである。そしてワットは寺院、トムは大きなであるから、アンコールワットは都の寺、アンコールトムは大いなる都ということになる。

 

 ここで“寺院”としていくつか挙げたが、これは何の宗教の寺院だろうか?

 

 

 この写真はバイヨン寺院の四面像であり、“クメールの微笑み”として有名なものである。これは観世音菩薩を模しているとされるので仏教寺院であり、創立者のジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218)はクメール王国史上初の仏教徒国王であり、チャンパ王国(中部ベトナム)を征服するなどクメール王国最盛期を築いた。

 

 そしてそれ以前の国王はすべてヒンドゥー教徒王であるため、アンコールワット(建設者はスーリヤヴァルマン2世:在位1113-1150で在位期間=建設期間とされる)はヒンドゥー寺院である。

 

 しかしながら面倒なことに仏教王はヒンドゥー寺院を仏教風に改築?しようとしたし、ジャヤーヴァルマン7世以降もヒンドゥー王は登場して仏教寺院をヒンドゥー風にしようとするし、ヒンドゥーの中にも諸派による差があるので、専門家でないと両者を厳密に区別することは難しそうである。

 この点はジャワのボロブドゥールとプランバナンがはっきりと仏教寺院・ヒンドゥー寺院と認識されるのと正反対である。これはおそらくジャワがイスラム化して両寺院が完全に“遺跡”扱いになったためオリジナルの姿が多く残ったためであろう。

 

 なおアンコールワットやアンコールトムは長年ジャングルに埋もれていたのが近世になって“発見”された遺跡であるというのは完全な誤解であって、これらの寺院はずっと“現役”であり続け、宗教闘争の舞台となっている。

 

 最大の宗教闘争の結果は、クメール王国時代の仏教が大乗仏教であったのに対し、現代カンボジアが上座部仏教(昔は小乗仏教と習ったがこれは大乗側からの蔑称)の国であることである。なおベトナム仏教は大乗で両国が大乗・上座部の境界になっている。

 これはアンコール陥落から数世紀たって、タイがカンボジアの宗主国になった事に起因している(上座部仏教の教学上の本場はスリランカとタイ)。

 したがって各寺院の最上層部にはとってつけたように上座部風の仏像が祀られている事が多いが、オリジナルのイメージを損なうような大きな改変はされていないのは幸いである。

 

 

 なおアンコール遺跡が長年ジャングルに埋もれていたという誤解の元は上写真のタ・プローム寺院であろう。

 ここはアンコールでもかなり郊外にあるのでジャングルに覆われた状態で発見され、ガジュマル(別名絞め殺しの木)の気根が発達して建物全体と一体化している様はまさに大自然の驚異を感じさせる。

 

 この化け物のような大木は寺院を破壊しつつあるという説もあれば、逆に寺院の崩壊を支えているという説もある。

 またこのようになった期間としては建造された12世紀の直後から長期間にわたりという説もあれば、発見された19世紀にはこれほどではなく最近の現象だという説もある。ガジュマルの成長スピードから考えて後者が正しそうだが、それでは観光政策上ロマンが無いのであまり真剣に議論されていないようだ。

 

 さてアンコールに都したクメール王国はインドシナ半島全体を勢力圏とした大帝国であったが、アンコール陥落後はジリ貧になり、特にベトナムに17世紀に穀倉地帯のメコンデルタを奪われてからは衰退が決定的になって、名目上はタイの宗主権下で実質的にはベトナムの支配下に入ることが多くなった。

 そして19世紀に進出してきたフランスによりタイの影響が排除され、ベトナム共々フランス領インドシナとなったが、その時代においてもベトナム人下吏がカンボジア人を支配する構造は変らなかった。そして太平洋戦争開始以後は前述のようにめまぐるしく体制が変化して現在に至っている。

 

 現体制はベトナムとの結びつきが強く、アンコール観光の拠点であるシェムリアップ(この地名はシャムが敗退した地という意味)空港にはハノイやホーチミンから30分に1本くらい航空便がある。

 ただしこれまでの歴史事情からベトナムに対する国民感情は非常に悪い。ベトナムがドイモイから経済発展著しいのにカンボジアは取り残されているという焦りもある。

 

 しかしアンコール時代はカンボジア人の誇りであり、これはクメール王国時代から現在まで歴史的・民族的・文化的に連続しているからである。

 

 私はこれまで訪問した歴史地区の中では、子供時代からの憧れであり25年程前に念願がかなったテーベが最も素晴らしいと思っていた。

 しかし王家の谷やカルナック大神殿がいかに素晴らしかろうとも、古代エジプト人と現代エジプト人(アラブ人)とはあまり繋がりがないため国民の誇りとはなりえない。

 

 これに対しアンコールはまさに現在に生きる歴史であり、我々が日本国内の古跡を訪ねて感動するのと同様のものがカンボジア人の中に窺えて感慨深かった。

 

(承前)

 

 

2014年03月09日作成

 

 世界で最も風水にこだわるのは創始者の中国人と思われがちであるが、それは群を抜いてベトナム人だそうである。

 現代でも公共建築から個人の家にいたるまで、その場所はもちろんのこと色や構造にいたるまで風水に頼るのは当然のことであり、電話番号や車のナンバープレートにもラッキーナンバーが存在して、良い番号になると数千万円単位で取引されるとか。

 

 ガイドさんがあちこちの車を指差して、あの番号はウン万円、この番号はウン十万円と解説してくれ、また民家を指差してこの家はこういう風水思想で建てられているから所有者はこんな人だと説明してくれた。近代化を迎えて風水思想は衰えるどころではなく、風水へのこだわりに資本を回すことが出来るので(特に地価高騰による土地成金が常識外れの金を風水にかけるとか)ますます盛んになっているという。

 

 そして最大の風水思想の産物がハノイを首都に定めたことであり、それは1010年に李氏ベトナムがタンロン(昇竜)に都を定めたことに始まる。

 ベトナムは古代から越南・安南と呼ばれているように中国文化の影響が強くまた民族的にも流動的であったが、この李氏ベトナムから現在の“ベトナム人”らしき存在がはっきりして今日に至るため、ここからベトナム史は始まると考えている人が多いようだ。

 

 

 そのタンロンはハノイの中心部に遺跡として残っており世界遺産になっているが、上写真のように遺跡というより発掘現場である。世界遺産の登録基準からはいささか首をかしげさせるものがあるが、ベトナムの原点としての歴史的価値を重視したものであろう。

 

 そのタンロンは風水思想上、理想の地形であるらしく、また昇竜と名付けられたように竜が現れどうのこうのという話も残っている。

 そして1010年という年も西暦紀元に直すと10が二つ並ぶという縁起が良い双十歳?(中華民国の双十節は本来10月11日とすべきであろうが、縁起の良い数字を選ぶため強引に前日のイベント?を重視した)であり、偶然にしてはあまりにも良くできている。

 

 当時の李朝はハノイ中心の北部ベトナムを支配するのみであったが、その後中部・南部にもベトナム人の支配領域は増え、最後にグエン(阮)朝が統一して中部フエを都とするが、その数十年後にはフランス勢力が伸びてきて傀儡政権となるというのが簡単な近代までのベトナム史である。

 

 李朝以前からそしてそれ以後もベトナムの歴史は中国との抗争の連続であるが、中国文化を受容する欲求も又強く、科挙の制度(試験は当然漢文)は20世紀に入ってからも続いたほどである。

 

 

 この写真はハノイの文廟(孔子廟)であり、数多くの石碑?に科挙合格者の氏名が漢字で彫りこまれていて、自分の先祖に名前が残っていることはその一族のステイタスになっているそうである。

 このあたりは朝鮮史と非常によく似ているが、朝鮮が中国にたいして自虐的・奴隷的な屈従を示す期間が長かった(現在もその傾向が少し現れ始めていて、日本による封建体制からの解放が民族のDNAを変えるには至らなかったと云えるだろうか)のに対して、ベトナムは少なくともここ千年ほどは常に中国と戦う姿勢を示している。

 

 なおフランス統治時代に漢字は廃されてアルファベット表記になり現在に至っており、下の写真のようにベトナム語なので意味不明(フォー=phoはあまりにも有名になったが)であるものの発音だけはわかる。

 

 

 なお東南アジア料理は今世界的に大人気であるが、日本ではタイ料理が一番人気なのに対して世界的にはベトナム料理がその代表とされていて、特に米国とフランスではガイドブックに掲載されるような一流店が多い。

 これはベトナム戦争の結果、南ベトナム側の亡命者が世界中に散らばったことが大きな原因であるが、そもそもベトナム料理がフランス料理の影響で欧米人に受容されやすい料理に変化したことがあげられる。

 これに対してタイ料理は中国料理をスパーシーにした感覚で日本人にとっては親しみやすい。私を含めて日本人は案外辛いもの好きで、インド料理・タイ料理・朝鮮料理といった質の違う辛さを現地人並の辛さで味わうことを好む傾向がある。例えば本場のカレーの辛さはこんなものではないとか言う人もいるが、案外日本のカレー店の方が辛いものを出しているのではないか。

 

 また私の子供の頃はコミュニストの全盛期であり、いつか共産主義陣営が勝つかもといった漠然とした雰囲気があった。

 日本の大手マスコミなどはその論調であり、サイゴン陥落時がまさにそのピークであって世界最強国アメリカに対する北ベトナム共産主義国の勝利が正義の勝利とか歴史の必然のように報道されたものである。

 

 しかし皮肉にもその少し後よりベトナム・カンボジア戦争や中越戦争と共産主義国同士の戦争が始まり、ついにはソ連も崩壊して今では共産主義は歴史の奇形児に過ぎなかったという認識が世界の趨勢になってしまった。

 これは太平洋戦争前後の価値感激変以上の大変化を個人的には経験したことになるが、ゆっくりとした変化であったし子供時代から左翼思想・知識人にはいかがわしさを感じていたこともあって、あまり変化したという記憶はないのだが・・・

 

 中越戦争は60万人とされる中国軍が国境を越えハノイ郊外まで迫ったのであるが、カンボジア駐留中のベトナム軍主力が戻ってきて反撃されると壊滅的打撃を受けて撤退したもので、米国に勝ったベトナム軍の実力が遺憾なく発揮された。

 しかしながらハノイが中国国境から僅かな距離にあり、細長いベトナムの北端に近いという事実は浮き彫りになった戦争であり、これは南北ベトナム統一時の大失策だと思う。

 

 

 上写真はハノイのホー・チ・ミン廟であり、レーニンの様に遺体がミイラ化されて祀られているが、本人はこのような扱いを最も嫌い、北・中・南部に分骨を願っていたようである。

 彼はサイゴン陥落を見ずして亡くなったが、おそらく彼が生きていたら首都はフエ又はサイゴンとして、サイゴンをホーチミンと改名するような愚(東京がマッカーサーシティーと改名されたらどう感じるだろう?)は犯さなかったのではないだろうか。

 

 彼亡き後の共産党指導部は、ホーがベトナムの原点はタンロンにあると考えていたと称して統一後もハノイを首都とすると決定したが、おそらくは風水思想に護られたハノイとの認識が基本にあり、宿敵中国との関係がこれほど早く悪化するとは考えていなかったのであろう。

 今や中国を恐れて首都を南遷するとはプライドにかけてもいえないであろうが、国家融和のためにという大義名分なら首都をフエあたりにもってくるのは充分意味があると思われるがどうだろうか。

 

 さてハノイ・アンコールの各地を廻るにあたっては現地人ガイドの案内を頼んだのであるが、両者共に相手国の悪口と言いつのったのは面白かった。

 ベトナム・カンボジア両国は今は国家レベルでは蜜月関係にあり、ポル・ポトのライバルであったヘン・サムリンはまだ現役なのだから驚きである。

 今回の両国観光をセットにしたのも交通の便が良いからであり、何とアンコールの観光拠点であるシュリムアップ空港には30分に1本くらいホーチミンやハノイから航空便がある。

 昔はアンコール観光といえばバンコクを拠点にするのが定番のバックパッカーの聖地(笑)であり、“俺はアンコールに行ってきたぜ”といえば、バックパッカー仲間からも一目置かれる存在で、当時はまともな航空便もなくタイ国境をバスで越えるしかなかった。

 私が初めてタイに滞在した25年ほど前も、まだまだカンボジア・アンコール観光なんてとんでもない時代だった。休日のたびに車をチャーターして遺跡めぐりをしたのだが、クメール時代の都市で第二のアンコール(といっても本物の1/10くらいの規模)と呼ばれたピーマイ遺跡を訪問して、アンコールの栄華を偲ぶしかなかったのを覚えている。

 

 ただし両国の戦争(というかベトナムが一方的にポル・ポト軍をボコったというべきか)は今も両国の市民レベルでの憎悪感の原点となっている。

 しかし両国の敵対感情の一番根っこにあるものは、遠く古代カンボジア帝国(クメール帝国)時代に遡ると思われる。

 

(この稿続く)

 

 

 

 10年ほど前のベトナム・カンボジア訪問直後の日記から

 

2014年03月03日 作成

 先日思い立ってベトナム・カンボジアを廻ってきた。

 とはいえ1週間程度の日程なので、ベトナムはハノイ中心の北部、カンボジアは古都アンコール周辺のみの駆け足旅行になった。

 

 この3月で年子の息子二人が学生生活を卒業して社会人となるので、おそらく最後の家族旅行になるだろうし、この二十数年-長かった-の家族生活もようやく“卒業”ということで感傷旅行という意味合いもあった。

 

 ベトナム・カンボジアを選んだのは古代からの壮大な遺跡が残る地域であり、また現代史の焦点となった地域でもあるからだが、私の歴史・遺跡・宗教施設マニアとしての趣味に強引に付き合ってもらったという点は否定できない。

 そんな旧いことになぜ興味があるのか? 私自身の過去についてはあまり興味がなく、常に現在そして未来のことばかり考えているのに自分でも不思議である。まあ綺麗事でいえば温故知新であるが、単なるオタク趣味というところだろうか。

 そして子供たちはまだ若く、おそらく遺跡や寺院を見てもあまり感激はしなかったであろうが、いつかはこんな経験もしたなと思い出して彼らの人格形成の一助になればと願っている。・・・もちろん私のようなオタク状態になることはないにせよ。

 

 ただ遺跡めぐりばかりに付き合わせては家族に悪いのでクルーズを二つ日程に入れた。

 

 

 これはハノイから東に百数十kmのハロン湾であり、ボンド映画などの舞台になり、世界遺産にも登録された。現在クルーズ船が大型船だけで500隻!も就航しており、ベトナムの観光地としては人気No1である。上写真に写っているのは、中世以来のジャンク船の外観を模した観光船で、内部は完全にホテルになっている。私達が乗ったのはツイン25室・三段デッキの船で、2日間のクルーズ予定が濃霧発生で1日コースになったが、この辺りは霧の発生が多く、特に冬だと半分くらいが欠航になるとか。

 ここは桂林から続く石灰岩地帯であり、イメージとしては松島の多島美のスケールを100倍にしたというところだろうか。

 

 そして下写真がアンコール遺跡群から10KMほど離れたトンサレップ湖に“浮かぶ”水上の街である。

 

 

 トンサレップ湖はメコン川の流量調整湖であり、霞ヶ浦と利根川の関係を100倍にしたものと考えるとわかりやすい。そしてメコン本流とトンサレップ湖に通じる支流の合流点にプノンペンの街がある。

 この湖は水上生活者が100万人ほどいることが“観光資源”(悪趣味な表現だが住民の表情が明るいのが救いである)となっている。その大半は被差別民であるベトナム戦争による難民であり、ベトナムからは敵性国民として見捨てられカンボジアからは迷惑な侵入者として国民とは認められないという状況にある。雨季にはこのあたり全体が湖となり文字通り水に浮いた街となるのだが、今回は乾季なので下写真のような高床式住居?(3階建てくらいの高さの“足場”の上に1-3階建ての住居が乗っている)の街並の間を流れる川?をボートで廻った。雨季の“水上の街”に比べて観光はシーズンオフということだが、手品の種を見るようでむしろ興味深かった。

 

 

 なお写真に写っているのがトンサレップ湖のクルーズ船?の典型で1人から8人までくらいでチャーターして廻る。

 水路は迷路状で底に泥が堆積しているので舵をとる船長以外に櫂で座礁?を防ぐ要員(その多くは子供)が必要で、それでも地元の人の船や岸壁に衝突などは当たり前でそれも含めてスリルを楽しむようになっている。

 

 さてベトナム・カンボジアというと戦争や地雷というイメージがあって治安・安全性は大丈夫かと心配になるが、それは全くの杞憂であり現在は便利な大観光地である。

 その最大の見所であるアンコールは広大な地域に遺跡が点在し、日中は40℃の暑さになるのでガイド無しでは効率的に廻れない。といっても物価が安いため年間数百万人の観光客の大半-それこそ一人旅のバックパッカーまでがガイドを雇っており、アンコール観光はカンボジア最大の“産業”となっている。

 

 ただし法治という面では放置じゃないかと思うほどかなりいい加減なところがあるが、これはむしろ面白い。

 

 

 ここはハノイの“旧市街”と呼ばれる地域であり、数キロ四方にわたり迷路のような大繁華街(この種の繁華街では世界最大規模か)に各種商店がびっしりならんでいる。歩道は一応あるのだが違法駐車オートバイと路上で勝手に営業している露店?で完全にふさがっている。そこで歩行者・オートバイ・車が信号も無い車道を通るのだが、一切の交通ルールは無く皆が勝手な方向に進むという恐ろしい状態になっている。

 歩道を車が疾走するという中国をはるかに凌駕する無法状態であるが、最初は道を渡ることさえできないものの慣れてくると(コツは決して急がず、車やバイクは避けてくれるものと“信じて”悠然と歩くこと)案外便利である。

 

 またカンボジア入国時の経験で、空港でのビザ申請の際に必要書類はどこにしまったかなと探していると係官から「ワンダラー・OK?」との声がかかった。そこで1ドル紙幣を渡すとあっさりビザが下りるという物分りの良さである。

 どうやらもたもたした観光客はまた1ドルが来たということらしいが、カンボジアへの第一歩として強烈な印象であった。

 

 法治状態はこんなユルーイものであるが、“戦争の傷跡”みたいな部分はないのかというと・・・

 まずベトナムであるが、私の子供の頃はベトナム戦争盛んなりし時代であり、マスコミの論調は“悪の米帝と戦う正義の味方ベトコン・北ベトナム”という調子であって、サイゴン陥落時は“ベトナム戦争ついに勝利”とどこの国の新聞かという見出しのものまであった。

 そして対米ベトナム戦争の前にはフランスとの間に独立戦争があり、ディエン・ビエン・フーの戦いは“国家の原点”という扱いになっている。

 

 しかし現在では米国に対する憎悪の意識はほとんどなく、フランスに対してもフランス統治時代の建物を文化遺産として大切に保存するなど、“負の遺産・記憶”という意識はほとんど無いようである。

 これは最終的に両国に勝利したからという理由もあるが(これと反対なのが日本におんぶにだっこで繁栄を享受した挙句に独立まで連合国からタナボタで与えられた某国)、それ以上に大きいのは歴史的に宿敵である中国の存在であろう。

 ベトナムは国家単位では中国を最も敵視している国であって(現代世界の最大の不安定要素である漢民族の膨張による弾圧・同化強制のため、民族単位ではもっと中国を憎んでいる民族は多いが)、反米・反仏どころではないという事情があると思われる。

 

 (この稿続く)

 

 

 42年のサラリーマン生活を卒業して5年たち、当時を振り返って色々と後悔することも多いがその中でも特大級のドイツでのエピソードを下添の日記から引用する。

 なお下記のブログ

 

 

に出てくるケンプテンが日記の舞台となったバイエルン州南部の田舎町であり、20年以上前の人生の致命傷になったかもしれない苦い思い出の地であるが、最近何か懐かしい。

 

2015年07月14日作成

 J氏の消息が途絶えてもう2年になった。

 消されたのか、あるいは不慮の事故?ということにされたのかと心配していたのだが、一昨日になってようやく現況が判明した。

 ドイツの研究機関(大学院機能も併せ持つ)に雇用されたというネット情報があり、一安心である。

 

 とはいえ別に私はJ氏の友人ではない・・・というか旧い友人だったのだがある事情で煮え湯を飲まされて・・・

 

 15年近く前、私は自分の研究の提携提案のためにドイツのバイエルン州南部の田舎町に本社工場を置くセラミック関連企業を訪問することになった。その朝ミュンヘンのホテルで待っていると担当者のJ氏が車で迎えに来たのが初めての出会いであった。

 その本社工場は19世紀からの歴史を誇る煉瓦作りの建物であり、町の大半の住民はその企業の関係者であるというドイツによくある典型的な企業城下町を形成していた。

 

 

 J氏とは車の中で大いに話が弾み、また私の滞在中は夜の街の付き合いも含めて大いに親交を深めた。生粋のバイエルン人であるJ氏とは歴史観のようなものも共通するものがあった。

 J氏は技術者として非常に優秀な方であり、私の提案の意味や価値もすぐに理解して自ら志願して本件の担当者となってくれたのだった。ただしJ氏はその会社内では全くの非主流派・異端児のような存在であり、だからこそわけがわからないことを言いに来た日本人との付き合いは彼に任せておけという意味合いもあった。

 また典型的なドイツの同族企業である同社では、社員のヒエラルキーのようなものがはっきりしており、彼が一担当者以上の存在になれる可能性もなかった。

 

 ところが数年後状況は一変した。その会社が米国の新興セラミック企業に買収されてしまったのだ。レバレッジとかいう手法を用いた”小が大を飲む”買収劇と当時話題になったものである。

 そして親会社となった米国の新興企業は、残念ながら私の提案した研究とは反対の方向の研究開発への大量投資で伸びてきた企業であり、当然ながらこの提携話は自然消滅となって私は別の提携先を探すことになった。

 

 それから数年後、J氏はその米国親会社の研究開発担当役員に抜擢されて渡米し、さらに数年後米国親会社の役員を兼ねたままドイツに戻り元の会社のCEOとなった。

 彼とは仕事上の付き合いはなくなったものの、個人的なメールのやり取りは続いており、この買収がなければありえなかった異例の昇格を大いにお祝いしたものである。

 

 そしてさらに数年後に私は別に並行して進めていた研究案件でペンタゴン(米国国防総省:大きすぎて五角形には見えません)に対して売り込みをかけていた。

 

 

 そして国防関連の案件であるので米国企業と協力して進める必要があり、上記の新興米国セラミック企業がパートナーとなった。そして当然ながら研究開発担当役員を兼ねているJ氏を仲介者として話を進め、順調に予備交渉は進行した。

 

 そして初の顧客(ペンタゴン)と両社を合わせての三者会談のために渡米する数日前に、この打ち合わせのために米国で待っているJ氏からメールが届いた。数行の内容で今回の話は無かったことにしたいということで理由も説明も書かれていなかった。そして後で明らかになったのであるが、結局その案件は私の研究ではなく、従来のその米国企業の技術で進めることになった。またここには書けない裏事情みたいなことも見えてきた。

 国防がらみの難しい案件ではあったので理由などは書けなかったのであろうし、私としても結論がそうならば真偽不明の言い訳などは聞いてもしょうがないようなものではあるが。

 

 ただその結果、私が約10年をかけていたその研究案件はそれで打ち切りになり、私の立場もかなり悪化することになった

 また私のチームでそのプロジェクトを担当していた若い方が二人失望して退社することになり、彼らの人生も狂わせてしまった。そのうちの一人は大学に移り活躍しているが、もう一人は今も行方不明である。まあネット検索にかからないから死んでいるとは限らないが・・・

 

 またこの件は私のキャリアの致命傷になったかもしれず、あれがうまくいっていれば私の人生はかなり違ったものになっていたかも・・・というのはネガティブな考え方かな。

 むしろこの件では私もいい勉強をさせてもらったし、いくら大規模顧客でもターゲットをそこに絞って研究をフォーカスすることや、個人的な関係をビジネスに持ち込むことの危険性はよくわかった。ちょっと授業料は高かったが。

 

 あれ以後J氏とは連絡をとっていない。どんな事情があったのかは不明であるが、もはや現役の間は連絡をとりあうことはないだろうと思っていた。

 

 それから十数年が経過したつい2年前のこと。

 その米国の新興セラミック企業が、米国のあるコングロマリット(いくつかの指標で世界一の優良企業とされている)に兆に近い金額で買収されたというニュースが入ってきた。

 そしてその新興セラミック企業のオーナー創業者(日本で言えば京セラの稲盛氏のような立志伝中の人物)はその直後に急死?して・・・遺産の一部はAmerican Ceramic Societyに寄贈されたみたいで急に協会の金回りが良くなったようで・・・またその企業はペンタゴンからの大量受注で経営状態が良く、敵対的M&Aでも仕掛けられなければ通常は買収に応じることはありえないのだが・・・

 そしてこの買収により、民生品中心だったその米国のコングロマリットはペンタゴンに対する強力なコネクションができ、将来の軍需関連の市場(現在のセラミック市場の大半は食器や半導体関連から軍需にシフトしようとしている)でも優位な地位を占めるようになった。

 

 それと共にその米国企業の旧体制も一掃された。特に子会社となっていた前記ドイツ企業は完全に以前のアイデンティティーを失い、19世紀からの栄光の歴史もホームページ等から消えた。

 そしてJ氏の消息も不明となった。ドイツと米国を結ぶキーマンであり、通常はそのまま勤続するか、買収後の人事構想から外れても他からオファーがくるはずであるが・・・

 

 そしてそれから2年が過ぎた一昨日に、ようやくJ氏の消息がはっきりしたという次第である。消されたか不慮の事故(笑)にあったかと心配していたが、単に休養期間をとっていただけ・・・かどうかは不明で何か複雑な事情があったのかもしれない。

 新しいドイツの職場では一介の研究者に戻ったようであるが、十数年の経営者生活で充分の蓄え(米国の経営者の年棒は日本とは比べ物にならない)はあるだろうから、これは隠居仕事?のようなものかもしれない。

 

 彼とはもう連絡をとることはないだろうが、お互いに引退していい歳になればまたあのドイツの田舎町(彼は引退後もここに住みたいと言っていた)のうらぶれた飲み屋街で昔話でもしたいという気持ちもある。

 それとも秋に予定している欧州訪問時に久しぶりに声をかけて情報交換を・・・という気持ちにはさすがになれないだろうな。まだ私も現役のうちはあのときの傷口がふさがっていないので。

 サラリーマンからフリーランスになって5年、いよいよ顧客が減ってきた。今もし私が不祥事を起こしたら自称コンサルタントの〇〇が逮捕されましたと報道されそうである。

 割がいい現地出張はほぼなくなってリモートばかりになり、そうなると時差の関係から夜起きていることが多くなって生活が不規則に・・・というか思い切ってNY市場が開いている23:30~6:00に合わせて・・・というのはやめた方がいいだろうな。素人が相場に張り付いて一喜一憂(下画像はイメージ)しても碌なことはなく、最強の投資家は売買しない死人と昔から云われているくらいだから。

 

 

 まあこの齢になれば“市場価値”は落ちてくるは当然であり、もう本業?はボケ防止程度に考えた方がいいかもしれない。幸いにも私が専門とするセラミックスや特許権の分野は進歩速度が遅く市場価値がゼロになるのはまだまだ先だと思うので、細く長く趣味程度に。

 ただそうなると収入面でのメインは投資からということになり、こちらの方でもボケて判断ミスをしないことが重要になる。

 こんなブログを書いているのも、何でも文章にしてみると頭の中が整理されてボケ防止につながるという目的が大きいのであるが、そういえば投資に関してもこれまで行き当たりばったりで売買してきたので、初めてポートフォリオ的なものを作ってみた。

 

 私が投資を始めたのは10年程前からであるが、手持ち資金のほぼすべてを投資に回す(したがって必要になれば投資した資産を売って現金化する)ようにしたのは3年ほど前からで、現在のポートフォリオは

 

日本個別株  4%

米国個別株 20% 

米国投信ETF 37%

インドETF  4% ↑リスク資産65%

ドル建MMF 24% ↓安全資産35%

長期米国債  9%

短期米国社債 2%

 

 従って円資産は4%程度で、残りのほとんどはドル資産ということになる。ただし米国投信・ETFとあるのは米国株に投資する投資信託・ETFという意味であり、その中には円で購入する銘柄(特にNISA分)も含まれる。

 これは今後の私の収入のほとんどは円建てなのであるから、資産まで円建てにしてはリスクが大きすぎるからである。もちろん今後は長期的には円安になりそうという理由もあるが、もし逆に円高になったとしても日本に暮らして日本から収入を得ているのであるがそれはそれで大歓迎である。

 

 ・・・とは書いたものの残念ながらそういうことにはなりそうもないかな。

 通貨の価値というのは国勢そのものであり、私が子供の頃から青壮年期にかけての日本の勢いはめざましいものがあった。モーレツサラリーマンの時代で給与は右肩上がりで社内預金の金利は7%程度あり、投資のことなどはほとんどの方は考えもせずに今後はもっと収入が増えるだろうとバラ色の未来を夢見ていた。

 米国は(特にワーカーの)人件費が安いので現地に工場を建設して訪米すれば円の強さから豪遊を愉しむことができて・・・今はなぜこんなことになってしまったのか私なりに思うところはあるが、それは他の日記に書くことにして元の話題に戻ると。

 

 本格的に投資を始めた3年前にほぼすべての資金をドルに換え(当時は1$=115円程度)、2022年は不況だったものの円安になって円換算でほぼトントン、2023・2024年は例年にない好況でほぼS&P500の値上がり(画像下)と同じ程度のプラスになった。なお金利が低い安全資産がかなりの割合を占めているにもかかわらずリターンがS&P500と同等というのは、個別株(一番儲かったのはスーパーマイクロコンピューターであり数か月で5倍に)の成績が良かったからであるが、これは不況になれば逆の目が出るので注意しなければ。

 

 

 結果的に投資を始めたのがちょうどいい時期だったのは幸運であったが、その反動で2025年はトランプの関税迷走(その他の経済政策はまあまあだと思うが)もありかなりひどいことになりそうである。

 

 もっとも暴落でも起こればむしろ歓迎で、そのためにドル建てMMFを積み増している。MMFは現金化には数日かかるのあるが米国株・ETFの決済も同じ日数後であるので、相場を見ながら完全リアルタイムでMMFを売って米国株・ETFを買うことができる。

 このような現金同様のMMFの利率は現在4%程度であり、半年前には5%もあって米国金利にほぼ連動して上下するのであるが、こんなほぼノーリスクの高金利商品があるとはいい時代になったものである。ただ発行元によって多少の金利差はあり、現在は一位のSBI岡三で4.12%、老舗で最大手(多分)のブラックロックが二位の3.9%となっている。SBI岡三は昨年末に参入したばかりの新興でちょっと不思議というか不安であるが、まあこの金利が続かないならいつでもブラックロック等に乗り換えればいい(ただし円換算での為替益に対する課税はあるので要注意)のだから問題ないだろう。

 

 ただしプロはこういう準備資金はMMFではなく短期米国債で回すらしく、この間バフェット率いるバークシャー・ハサウェイの資産が現金比率で60%を超えた(通常のファンドは10%以下)というので大暴落に備えているのではと話題になったが、ここでいう現金というのは短期米国債が中心らしい。

 私もMMFは将来の利下げが心配なので米国債は長期のものばかり(利回りはMMFより良い)選んで買っているのだが、この齢であるから満期まで待つつもりはなく、暴落が起きた時に国債は逆に値段が上がるだろうからキャピタルゲインを得て株やETFに買い換えるつもりである。

 ただし買ってみて初めてわかったのであるが、満期まで持っていれば全額償還されるものの途中売却すればかなりの手数料をとられてキャピタルゲインは大きく減りそうで、証券会社の後出しジャンケン営業にはちょっとモヤモヤしたものを感じている。どうもネット証券は株や投資信託は公明正大で手数料の無料化が進んでいるが、国債に関しては何か“客の顔を見て”という部分が大きそうである。これは証券市場で売られているものは既にその市場の手数料が上乗せされているのであるが、国債は誰かがその手数料を負担しなければならないのであるから当り前なのかもしれないが。

 

 というわけでずらずらと書いてきたが、もう一度ポートフォリオを見直してみると、どうもまだ安全資産(なおこの分類は個人的に日本円を銀行に預けているより安全と判断したもの)の割合が少ないような気がしてきた。

 リスク資産の%は100マイナス現年齢にするべしという説があるので私はリスクのとりすぎみたいだ。まあ少しはリスクがあるとアドレナリンが出てきてボケ防止にいい(最も効果的なのは恋らしいが)かもしれない。

(承前)

 

 

2012年02月15日 作成
        
 ビリー・ワイルダーといえば艶笑喜劇の帝王というイメージがあり、また女優を魅力的に撮る映画監督として、オードリー・ヘップバーンが一番魅力的なのは“麗しのサブリナ”(1954 画像下)だと思うし、“七年目の浮気”(1955)はマリリン・モンローのコケティッシュな魅力が一番良く撮れている気がする。



 しかしワイルダーの真骨頂はむしろシリアスなサスペンスドラマにあり、映画史上の最高傑作と評されることも多い“サンセット大通り”(1950)はその代表作である。

 ハリウッドの製作者・監督・脚本家の多くはユダヤ人なのであるから特筆することでもないが、ワイルダーもまた典型的な“ユダヤ顔”(下画像はワイルダーとモンロー)の持ち主である。そしてその経歴もハプスブルク帝国(現ポーランド領)生れ、ドイツのウーファで脚本家デビュー、ユダヤ人迫害によりフランスに渡り監督デビュー、そこも危なくなり米国に移住して映画人として超大物になるという筋金入りの(笑)ユダヤ人といえる。



 またこの経歴のためワイルダーは中年になるまで英語ができなかったそうだが、それがハリウッドに渡るや脚本家にとっての神様のように崇められる存在になったのだから、これまた異民族の中に入り込むのがうまいユダヤ人の特質をよく体現している。

 なおユダヤ人というとエクソダスやバビロン捕囚、マサダの篭城戦に最後はホロコーストと、その歴史は古代から迫害の連続であるというイメージがある。もちろん異民族の中に暮らすわけであり、古代は人権意識なんてものはないからある程度の迫害は受けてきたが、総じてユダヤ人は異民族の中に入り込んで大きなトラブル無しに共存しており、そうでなければ生き残れるわけはない。

 サンセット大通りは映画界の内幕を暴いたサスペンスドラマであり、その関係者(ストーリー上も映画そのものも)のほとんどがユダヤ人というのが特徴的である。
 そして往年の大女優による殺人事件という表向きのストーリーの裏側にこめられたメッセージというのは、ハリウッドをバビロンに喩えて、ユダヤ人はハリウッドバビロンで繁栄を謳歌しているが結局は異邦人なのだというペシミズムであると思う。

 なおユダヤ人のバビロン捕囚というと、何かバビロンに連行されて鎖につながれて奴隷として強制労働させられたというイメージだが、実際にはユダヤ人のエスタブリッシュメント層がその実務能力を買われて国際都市バビロン・世界帝国バビロニアの各界での活躍を期待されて移住させられたというのが実態に近い。
 そしてユダヤ人が現在に至るまでコスモポリタンとして活躍しているというのも、このときのバビロンでの活動がその原点になっていると云える。

 さてその“サンセット大通り”には、“十戒”の冒頭で大演説をしたセシル・B・デ・ミルが彼自身の役で登場するという異色のシーンがある。
 デ・ミルは“サムソンとデリラ”を撮影中の監督というリアルタイムの役柄(画像下はデ・ミルとグロリア・スワンソン)であり、このサムソンとデリラというのは、聖書に登場する王国建設以前のユダヤ人とペリシテ人との抗争劇を描いていて、このペリシテ人にちなんで命名されたのが現在の地名であるパレスチナである。



 そしてこの映画が企画されたのは、イスラエル建国戦争でアラブ人との抗争の真っ只中という微妙な時期であり、何らかの政治的意図があったものと思われる。

 現代のパレスチナ人というのは常識的にはパレスチナ地方に住むアラブ人のことを指し、聖書時代のペリシテ人というのは、先ギリシア人というべきインド・ヨーロッパ語族の所謂“海の民”であるので何の関係もないはずである。
 しかしながら中東の諸民族は複雑に交錯しており、特にユダヤ人とアラブ人はいずれもセム語族の類縁関係にあるので両者を簡単に分別することはできない。

 ここでアッシリア侵攻時に滅亡したイスラエル王国の10支族との関係が重要になってくる。
 失われた10支族とは最近になって云われ始めたことではなく、実は紀元前6世紀にユダヤ人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムに第二神殿を建設して国家を再建したときに唱えたキャッチフレーズのようなものである。

 即ち紀元前722年にアッシリアによりイスラエル王国が滅んだとき、10支族のユダヤ人はすべて連れ去られたわけではなく、一部はパレスチナに残留して、彼らはアッシリアが新たに連れてきた異民族と混血してサマリア人と呼ばれるようになった。
 サマリア人は民族の純潔を失った存在として、正統派の?ユダヤ人からは軽蔑される存在(例えば新約聖書の“善きサマリア人”参照)となり、今もユダヤ人としての信仰を守るサマリア人(彼らにしてみれば自分たちこそ正統のユダヤ人)は絶滅寸前になっている。
 しかしそのサマリア人の大部分は、7世紀にアラブ人がパレスチナに来襲したときイスラム教に改宗してアラブ人に吸収されたと思われ、したがって現代パレスチナ人の中にも10支族の血が流れていると考えることもできる。

 ヘルツルに始まるシオニズムとは、2000年にわたり離散が続いていたユダヤ人がモーゼを介して神が約束した地パレスチナに帰還しようとする運動であるが、ここで神に約束されたはずの民族が、現在ユダヤ人を構成するユダ王国遺民の2支族だけでなく、他の民族が我々こそ失われた10支族であると主張したらどうなるか。
 イスラエル側が恐れていたのは現代のパレスチナ人がそう名乗りをあげてくることだったと思われる。

 なお現代イスラエルはこのような観点から第二神殿時代と同様に10支族は失われたとしてその痕跡を見つける運動を推進しており、アフガニスタン・インド・中国・朝鮮などにそれを発見したとしている。
 そしてその終着点が日本であり、日本文化(特に神道関連)にユダヤ起源のものがあるという説が、数千のサイトや多くのトンデモ本(画像下)で主張されているというわけである。



 曰く聖書に出てくる約束の地カナーン(現在のパレスチナ)とは「葦原の中の国」を意味し、これは日本書紀にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ我が子孫の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。さきくませ。宝祚の隆えませむこと、當に天壌と窮無かるべし」に対応して、神のアブラハムの子孫たるダビデ王に対する約束と同じである。また曰くモーゼによる出エジプトに由来する「過越の祭り」は、日本の大晦日から始まる正月の行事、飾り付けに酷似しており、「仮庵の祭り」もまたお盆の行事に酷似している・・・

 確かに類似点は存在するが、それは失われた10支族とは関係なく、これまでに述べたような日本人とユダヤ人の国民性に類似点があるということだろう。

 出エジプトから三千数百年を生き延びてきたユダヤ人であるが、新興国家イスラエルが敵意を持つアラブ人に囲まれて生き延びることができるかどうかはまだ予断を許さず、十字軍諸国(現在のイスラエルの“国齢”では破竹の勢い)のように短命に終わる可能性もある。

 先進諸国のMBT(main battle tank)の中では例外的に防御力重視のメルカバやアーノルド・シュワルツェネッガーの名台詞や片手撃ちにも出てくるウジ―で有名なイスラエルのIMI(Israel Military Industry)社に対し、防御用セラミックス素材(ballistic ceramics)のプレゼンをしたときのこと。
 先方曰く、“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”。

 ここだけは平和ボケの日本人との類似点は全くない。

2020年08月16日 追記
最近の有力な学説ではどうも客観的に考えるとユダヤ人の歴史は出エジプトどころか千年近い後のバビロン捕囚くらいまでしか遡れないというのが正直なところのようだ。
したがってダビデやソロモンの栄華もすべて神話に過ぎず、バビロニアに連行されたパレスチナ出身の民族が自分たちのアイデンティティーを創作するために壮大な神話体系を創り出したということになる。
ソロモン(がいたとされる)時代のパレスチナからは壮大な遺跡は出土せず、原始的な民族が暮らしていたと推定されるために導かれる結論であり、ロマンがない話ではあるがまあ現実はそんなものかもしれない。