前回までの論考
2008年09月14日 作成
皇居前の旧長銀の近くに将門首塚(下写真)があるが、ここは昔の神田明神の境内であり、現在は湯島高台にある神田明神が移転する際にこの首塚だけは残されたものである。
神田明神は言うまでもなく神君家康公以来の尊崇篤き神社であり、尊崇を受けた最大の理由は関東に史上初の武家政権を築こうとして志半ばに倒れた平将門を祀っているからであろう。なお明治維新のときに皇室をはばかって神田明神の祭神から平将門は外されたが、最近になって復活したのは喜ばしい限りである。
ところでよくわからないのはなぜ将門首塚がこんなところにあるのかということである。
将門は京都で晒首にされた3日後にこの境内に飛んできたのを神田明神が祀ったということになっているが、常識的に考えれば将門を祀るために神田明神が創建された(その前に地元のささやかな神社はあったかもしれないが)とみるべきだろう。
しかしながら将門はこの地には全く地縁がなく、彼の主戦場は千葉・茨城から北関東にかけてである…というか当時の江戸は人気も少ない湿地帯でありこんなところは争奪の対象にはならなかった。
神田明神が江戸市街地の拡張に従い幕府の命令で移転する際、一番大事なはずのこの首塚を持っていかなかったというのは、やはり将門はこの地に眠っていなければならず、この地に護るべき何かがあると考えるべきだろう。そしていつの間にかこの地は江戸と呼ばれるようになり(それが何故かを論じるのがこのトピックの主題である)、この地に江戸館を築いた同じ桓武平氏の一族は江戸氏と称し、後の道灌や家康もこの地を選び、現在も皇居がそこに存在している。
ここは誰が考えても要害の地なのだろうか? そうではあるまい。水運を考えれば日比谷入江よりも隅田川河口(当時は現在よりかなり上流)の方がはるかに便利だし、浅草は江戸氏以前から既に繁栄していた。防衛を重視すれば小高い丘が有利であり現在の地名でいえば駿河台か本郷台が水利も考慮してベストの選択であろう。
この江戸城の地には何か由来・因縁があると考えざるをえない。
ここでヤマトタケルノミコト(上画像)の東征との関係が重要になってくる。景行天皇の皇子であるヤマトタケルは蝦夷地への東征を命じられ、三種の神器のひとつである草薙の剣を伊勢神宮から借り出して?出征した。
ところが不思議なことに蝦夷征伐を終えて帰路につくヤマトタケルは草薙の剣を伊勢神宮には返さずに名古屋の熱田神宮に預けてしまう。
その数百年後に壇ノ浦で平家一門が滅亡する際、安徳天皇は持ち出した三種の神器と共に海中に沈んだが、鏡と玉の他の2種は海中から引き上げられたものの剣は行方不明になったとされている。しかしながら関門海峡のあんな深い海に沈んだものが簡単に引き上げられるものだろうか? また鏡と珠に比べると明らかに大きくて発見しやすいはずの剣だけが見つからなかったというのは不自然である。
これは三種の神器は海になど沈んでおらず、無傷であっさりと義経が回収したのだが、剣だけは行方不明になったと虚偽の報告をしたのではないだろうか。
そしてついでに云えば安徳天皇の死も怪しく、三種の神器と共に悠然と捕虜にされるのを待っていたのだが天皇が生きていたのでは困ると考えた勢力が… それは剣が本来のものとは違う偽物というか偽物でなければならない理由があったからだろう。
結論から云えば筆者は草薙の剣は現在の江戸城の地の地下に眠っていて、これが江戸の語源たるエドゥの由来であると考えており、その根拠は古事記の記載にある。
ヤマトタケルノミコトは東国へ至る通常のルートであった三浦半島から房総半島へ浦賀水道を渡るにあたり、海神の怒りをなだめるために妃であるオトタチバナヒメが入水する(下画像)ということになっている。
そして遠征からの帰路において“吾妻はや…”という血の出るような叫びを歌に詠み、これが東国を“アズマ”と呼ぶ語源(現在は浅草に吾妻橋という地名で残っている)であるとされているが、この歌を詠んだ場所については日本書紀では碓氷峠、古事記では足柄峠であると推察できる記述があり決着はついていないようだ。
両説はそれぞれヤマトタケルの遠征範囲を日本書紀では北上川上流まで、古事記は関東一円(少なくとも東北地方に関する記述はない)とする立場に対応している。
筆者は当時の大和朝廷の軍事力から考えて東北まで遠征軍を派遣するのは無理であり古事記の記述の方が正しいと考えているが、この歌を詠んだ場所に関してはどちらも間違っていると思う。
この歌はオトタチバナヒメに永遠の別れを告げるために詠んだ歌であり、したがって山中の峠などではなく、ヒメが入水した浦賀水道が見える海岸でないと歌の心は伝わってこない。そして関東一帯を平定したヤマトタケルは最後に思い出の浦賀水道を見るために日比谷入江に面した現在の江戸城の地でこの歌を詠んだのであろう。
家康が埋め立てる前は現在の江戸城の地のすぐ前までは日比谷入江となっており、道灌の歌にも“我が庵は(庵というのは道灌の居城の江戸城を風雅に表現したもの)松原続き海辺にて…”と詠まれている。
ヤマトタケルノミコトはオトタチバナヒメが入水した海が見える最後のチャンスであるこの江戸城の地(これからの帰還ルートは海岸の湿地帯は進軍できないので内陸廻りとなる)でこの歌を詠み、そしてもうひとつのこと…後の日本の歴史を決定付ける行為をしたものと思われる。
ヤマトタケルが現在の江戸城の地でなした後の日本の歴史を決定付ける行為とは…それが神剣である草薙の剣(上画像)を地中深く埋めることであり、もはや遠征は終わり剣を必要としないということや、痛恨の想いがこもる浦賀水道が見えるこの地にオトタチバナヒメの思い出に、そして関東を平定して平和をもたらした御礼としての神剣の奉納という色々な意味がこめられていたのであろう。
またヤマトタケルは父の景行天皇とは不仲であったとされており、皇室の宝である三種の神器のひとつを勝手に持ち出して処分してしまう行為により自らの意思を示したのかもしれない。
ヤマトタケルが遠征からの帰路に剣を伊勢神宮に返さずに熱田神宮に預けたというのも、ミコトと縁の深い熱田神宮でニセモノを作って保管したからであろうし、朝廷や伊勢神宮も薄々はそれに気づいていたであろうが、神器が無くなってしまったというのでは神器の継承が皇位の正統性の証とされていたから自分たちにとっても都合が悪いので、見て見ぬふりをしたのであろう。
熱田神宮が三種の神器のひとつを祀るという伊勢神宮にも匹敵するような権威を持ちながら、その社格は極めて低く抑えられていたのはこのためであり、明治維新の際にその社格が急激に高められた(皇室が王政復古を報告した神社は伊勢神宮と熱田神宮のみ)というのは江戸城を確保することにより神剣を取り戻すことができたので千数百年前の昔のことは水に流そうという意味であろう。
また皇居を江戸城として東京が日本の首都と定められた一番根本的な理由はここにあり、当時の国内・国際情勢を考えれば首都はアジアに近い大阪が常識的な選択であった。
さてその埋められた神剣は関東のそしてひいては日本全体の征服・統一のシンボルとみなされるようになり、将門の首が飛んできたという伝説もそれに因むものであろうし、江戸氏から現在に至るまでの支配者がこの地に本拠地を構えるのもこのためであろう。
また頼朝の母であり義朝の正室でもあった婦人は熱田神宮の大宮司の娘であり、この話は当然頼朝にも伝わっていたであろうから、チャンスがあればこのニセモノを処分しておきたいと考えたであろうし、壇ノ浦はその絶好の機会であった。
さて江戸の地が神剣・草薙の剣が埋められている地であるとして、それではなぜこれがケルト人・サルマート人の神剣伝説であるエドゥと名付けられたのであろうか?そしてヤマトタケルの草薙の剣とアーサー王のエクスカリバーはほぼ同時代のエピソードと推定されるが両者の関係は?
草薙の剣が出てきたとされるヤマタノオロチ伝説などは世界共通の神話というべきペルセウス・アンドロメダ型の神話(上画像は裸で鎖に繋がれたアンドロメダをペルセウスが救出する場面を描いたティツィアーノの傑作)ということもできる。
そしてこのような伝説はインド・ヨーロッパ語族の故郷であり今もサルマート人の後裔というべきオセット人(サルマート人・オセット人はイラン系であるからトルコ人やアラブ人とは関係ないインド・ヨーロッパ系)が住むコーカサス(白色人種のことをコーカソイド・コーケイジャンと呼ぶのはこの地に因む)の地から世界中に拡がっていったのであろうが、そんな一般論ではなくそのものズバリの言葉の伝播ルートを証明する決定的な証拠が必要である。
これまでに述べたようなことは状況証拠を集めた一般論に過ぎず、これだけでは大ピラミッド宇宙人建設説などを唱えるトンデモ論者たちの主張と同じで、学問・学説というにはほど遠い。
それではその決定的な証拠とは何か?
P.S.長々とした論考で恐縮ですが、次回が最終回でいよいよ本論のクライマックス?です。