縄文家族|天竜楽市 -7ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



殷は夷(イ)であり

夷は倭(イ)である

『礼記』に
「(周の)武王は衣(イ)をうって天下を支配した」
とあり、
この衣とは殷の事を言っているのは明白ですが、

衣とは夷を意味しており、
つまり殷とは夷(東夷)が建国した王朝である。

(˶˙º̬˙˶)*॰

殷がアルタイ諸語を話す東夷族の王朝であることは、現在では定説になっています。

殷、衣、夷は永らく蔑称とされてきましたが、

殷は「盛ん、繁栄」の意味であり、

衣とは、
上古代において、衣服を着ているというのは「裕福」であることを意味しています。

「夷」も本来は、
強力な黒曜石の鏃(弓)を持つ(大人=たいじん)である東夷族への畏敬の念を込めた尊称である、と21世紀の中国史家は認識しています。

郭沫若は、
中国(の文化は)殷より始まる
と言っていますが、

中国の文化は
東夷族が作った

と考えるのは最早、常識となっています。

そして、

漢代、晋代の有識者は、

孔子が
「(中国で)道が廃れたなら(船に乗って)九夷に居らん」

と言った「九夷」とは

楽浪海中にいる「倭人」である‼

と、認識していました。

( ・ิϖ・ิ)っ

孔子の家系は殷の後裔である宋の分家ですから、

孔子は自らが東夷族であり、
祖先の地は(海を渡った)日本である‼と認識していました。

『三國志』の著者、陳壽も
東夷の人、帝舜の末裔ですから自らのルーツである東夷伝を記すにあたり、倭人について(政治的に配慮しながら可能な限り)詳細に書いています。

三國志東夷伝の中で、海を渡って来る東夷は「倭人」だけですから、

『漢書』王莽伝の

海度東夷王は倭人の事であるとわかります。

(´-ω-`)

古羌の末裔である雲南省の少数民族の彝(イ)族は、

元は夷(イ)族または倭(イ)族と呼ばれていましたが、
夷、倭は蔑称であるとして、
彝の字を用いて呼ばれるようになりました。

古羌が元は東夷族であり、
海を渡って来た倭人=縄文人であるのは明らかです。

夷、倭は蔑称ではなかったと考える研究者が増えています。



( ・ิϖ・ิ)っ

夏王朝時代の

山東龍山文化の
黒陶と、
北九州の
黒色磨研土器が

同じものであることが最近の研究でわかってきました。

山東龍山文化の担い手が、海を渡って来た倭人であり、

山東龍山人と
夏家店下層遼河人が

西の「蛮夏」である夏王朝を伐って、建てた王朝が殷なのです。

(´-ω-`)

21世紀になり、

北九州縄文人が

山東半島に交易、或いは「進出」していた事実が考古学的に判明してきたことから、

20世紀に唱えられた

長江の倭人が日本へ渡って弥生人になった説は、

明らかな誤りで、

海を渡った縄文人の子孫の一部が、

炎黄の戦いののち雲南省に落ちのび、

その末裔が
倭族
という事になります。





最終氷期が終わった11700年前(BC9700)からの温暖化で、

東日本と沿海州の環日本海地域には落葉樹林のナッツの森が広がり、共通の文化圏「東夷社会」が形成されました。

日本海は暖流の対馬海流が流れ込むようになり、列島の日本海沿岸住民は漁業資源の獲得に積極的に海へ乗り出したようです。

日本列島人が鯨を食べる習慣は早期に始まってており、

次第に鯨漁を行えるほどの航海技術が確立されていきました。



縄文時代草創期から前期にかけて、北海道・東北と沿海州アムール川流域の土器には共通する特徴が見られ、

三内丸山遺跡と中国東北部の遼河文明は交流していた形跡があります。

ユーラシア北部に拡散するウラル語族(Y染色体ハプロN)の原郷は遼河地域と考えられており、

遼河文明の古人骨の60%と、現代青森県人の7.7%には、共通するY染色体ハプロN三系統の祖形となる遺伝子が見つかっています。

青森から沿海州ウラジオストクまでの直線距離は800km弱。

縄文時代の主力船は丸木舟のカヌーで、

海流を横断することが可能であり、

時速20km近いスピードが出せる機動力のある小型船であったと考えられています。

時速20kmならば二昼夜漕ぎ続ければ対岸の大陸へ辿り着くことが可能です。

太平洋に比べ穏やかな日本海とはいえ、時化ることもあるので、好天が続く時期を狙って出発し、
なるべく天気の変わらないうちに多少無理してでも素早く渡り切ってしまう方がリスクは少なかったでしょう。

二艘の丸木舟に板を渡したダブルカヌー(双胴船、二俣舟)とし、積載性、安定性を高め、交代で昼夜漕ぎ続けたと想定されます。

鯨漁については縄文人が江戸時代と殆ど変わらない方法で漁をしており、
シンプルで確実性の高い航海技術は縄文時代に完成の域に達していたようです。



(´-ω-`)

のちの奈良時代に遣唐使船が難破を繰り返しており、古代の日本の航海技術が未熟であったと考える人がいますが…

大きな間違いです。

遣唐使船は一隻に最大170人が乗り込むという当時としては
超大型船であり、
唐の事情に合わせて気象条件の悪い季節に渡航しなければならず、
新羅との関係が悪化したため半島沿岸航路を使用出来ない

など、悪条件が重なった上で国家の威信をかけて渡海しており、航海技術は高かったと考えられています。

( ・ิϖ・ิ)っ

当時も日本海を横切り渤海経由で入唐すれば「楽勝」であるという意見がありましたが、陸路が長くなるため海洋交易国家のプライドをかけて、あえて難しいルートを選択した節があり、日本人らしい当たって砕けろ精神も見え隠れしています。

(。ì _ í。)

日本人というのは、縄文時代からチャレンジ精神旺盛な民族でした。

いや寧ろ縄文時代にその精神が培われたと言えるでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ

中国の史書には、

「中国には日本へ渡る航海技術は無いが、倭人は海を渡って交易にやって来る」

といった事が書かれています。

(´-ω-`)

外洋を知る日本と、知らない中国とでは、航海技術に歴然たる差があらわれるのは当然のことで、

日本の技術が何でもかんでも中国に劣っていると考える自虐史観バカから脱却しないと、世界の歴史は1ミリも見えてきません。

(。ì _ í。)

縄文時代に遼河地域と通航しているということは、

日本列島人の方が出掛けて行ったと考えるのが至極真っ当な推論なのです。

中国の史書がそう書いてあるのだから、信じてあげるべきでしょう。

漢民族には海に出て鯨漁をするようなクソ度胸は無いのです。

(。ì _ í。)

鯨漁は北極海でもBC3000頃から始まっています。

日本海の漁労文化を伝えたのは、ウラル語族(ハプロN)だと想定出来るでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ



最終氷期最寒冷期にはシベリアと陸続きであった北海道は、

後期旧石器時代から大陸と文化を共有しており、

北海道に見られる湧別技法という石器技法は、遠くバイカル湖周辺まで共有されていました。

札幌からイルクーツクまでは約3000km離れています。

(˶˙º̬˙˶)*॰

然し、遼河地域にいたウラル語族は、7000km離れたフィンランドまで行っているのです。

上古代の人々の冒険心は現代人の想像の
遥かナナメ上を行っています。

( ・ิϖ・ิ)っ

そもそもマンモスハンター達は、季節移動するマンモスを追いかけ長距離を移動しています。

夏は涼しいシベリアへ、
冬は暖かい北海道へ、

そうしたライフスタイルが、この地域の文化圏を拡げていったのでしょう。

(。ì _ í。)

16世紀から17世紀にかけて、

ロシア人はウラル山脈を超え数十年でオホーツク海に到達しました。

ロシア人は屈強な遊牧民のいるユーラシアステップを避け、

ウラル語族の住むシベリア平原を毛皮を求めて東進しましたが、

シベリアは乾燥地帯で雪が少なく、夏は支流が張り巡らされた大河を舟で進み、冬は結氷する河を渡り地形によって行く手を遮られることもなく太平洋岸に到達しています。

6000年前にウラル語族が辿った道を反対側からやって来たのでした。

(˶˙º̬˙˶)*॰

馬車の利用は4~5000年前から、
馬への騎乗もその頃からの歴史があります。

トゥーラーン系遊牧民は、馬に乗ってユーラシアステップを疾走し、歴史上何度もヨーロッパへ侵入しています。

(´-ω-`)

然し、シベリアの凍土地帯には、
10000年以上前から
優れた交通手段がありました。

🐶

サモエドという犬種があります。

ウラル語族サモエード語派のネネツ族が

モフモフの毛並みを暖房代わりとして、

また、犬ゾリの牽引役として、

3000年以上彼らと共に暮らしてきたと言われています。

また、シベリアンハスキーは(ウラル語族ではなく)古シベリア語族に属するもののハプロNが6割近くを占めるチュクチ族が犬ゾリに用いてきた犬種です。

シベリアの犬ゾリ利用は古く、10000年以上前からと想定されています。

10頭立ての犬ゾリは500kgほどの荷物を積載可能で、
時速20kmで進むことが出来ます。

一日10時間走れば、3000kmを15日で走破することが可能です。

(˶˙º̬˙˶)*॰

まさに、
縄文時代の
シベリア超特急でした。

( ・ิϖ・ิ)っ

人がそこに住む、という事は必ず理由があります。

飯が食える‼

ことが出来なければ、そこで暮らすことは出来ません。

彼らは、他の地域には無い交通手段を持っていました。

広範囲に交易を重ねるうちに、ユーラシアの西の果てまで辿り着くことになります。

砂漠を行くシルクロードよりも、
比較的容易に往来可能な交通路が、

シベリア平原と

ユーラシアステップ

の二つもあり、

環日本海地域の東夷社会を発祥とする

トゥーラーン民族が、

圧倒的な機動力を駆使して、

世界の歴史を作っていくことになったのです。



現代のウラル語族は

ウラル山脈周辺とヨーロッパに
フィン・ウゴル語派

北極海に面したシベリア北部にサモエード語派

が分布しています。

その言語はアルタイ語族と共に「ウラル・アルタイ語族」とする説、

印欧語族と共に「インド・ウラル語族」とする説があります。

( ・ิϖ・ิ)っ
これはつまり、

アーリア人(印欧語族)はトゥーラーン(ウラル・アルタイ語族)より出づ。

を意味しています。

(˶˙º̬˙˶)*॰

かつて文明の起源を「四大文明」としていましたが、これは明確な誤りです。

何故なら

四大文明と呼ばれた地域に南下して、最初に文明を築いた人々は、

ウラル・アルタイ諸語を話す

トゥーラーン

だからです。

更新世において、トゥーラーンは既に、

遼河
アムール川
エニセイ川
エルティシ川(オビ川)

の四大河川流域に文明の萌芽を築いていました。

(。ì _ í。)

戦前にトゥーラーン民族主義を唱えたのは、

ヨーロッパのアジア人を標榜するハンガリーでした。

四世紀にアッティラ率いるフン族(匈奴)、

六世紀のアヴァール(柔然)、

九世紀のマジャル人、

十三世紀のモンゴル。

ハンガリーにはユーラシアステップを突き抜けて次々とモンゴロイドがやって来ました。

支配層であるモンゴロイドは僅かで、大多数の被支配層であるコーカソイドに同化しており、

マジャル人は身体的にヨーロッパ人と変わらないのですが、

彼らは今も、
精神的にアジア人であることを誇りに思っています。

(。ì _ í。)

ヨーロッパの王侯貴族は、だいたいアッティラの血を引いており、

少数のトゥーラーン支配層が、

多数のアングロサクソン被支配層を

支配し続けてきました。

( ・ิϖ・ิ)っ

ヨーロッパ人は元々農耕民であり、温厚なのです。

全く同じ構図が、

中国において
温厚な農耕民の漢民族を
支配し続ける
東夷族。

(´-ω-`)

皆さん、もうお分かりかと思いますが、

四大文明とは❓

トゥーラーン支配層が、

原住民を

農奴として

始めた
プランテーション

に過ぎません。

(。・ω・。)

文明以前、あるいはその後も、本当に技術を持っていたのは、

ユーラシアステップを自在に移動していた

トゥーラーンなのです。

(´-ω-`)

アルタイの黄金産地

というのが世界遺産になっていますが、

そこ‼なんです。

この地域は、

ステップから高山植物まで、
多彩な植生が揃っている場所です。

バイカル湖、エニセイ川、アルタイ山脈、オビ川、エルティシ川

この辺りです。

(´-ω-`)

日本列島は世界の縮図、雛形であると言われますが、

アルタイ山脈周辺は、

日本で言えば

諏訪

です。

(´-ω-`)

フィンランド人と
トルコ人と
キルギス人と
ブリヤート人が

「日本人と兄弟だ」

と言っていますが、

ユーラシアステップで東夷文化圏と繋がっていることがおわかりいただけるかと思います。

( ・ิϖ・ิ)っ

六世紀の
突厥大可汗国の時代に、

砂漠を通るシルクロード交易が盛んになりましたが、

それより何万年も昔から

トゥーラーンが利用していた
東西交通路は
ユーラシアステップでした。

日本人の祖先がレバントからコーカサス、アルタイ、バイカル湖周辺を経てアジアへやって来たのも、このユーラシアステップです。

縄文の石工が、ストーンヘンジやギョベグリテベを作りに行ったのも、この道(エジプトのピラミッドは海路で行った可能性が高い)です。

(´-ω-`)

皆さん、

何故、現在でも

石工と
ヴェネチアの貴族と
ハザールと
嬴姓李氏が

世界を支配しているのか❓

おわかりかと思います。





(´-ω-`)

環日本海地域の東夷社会は、

世界に先駆けて

更新世のうちに

情報化社会を構築しました。

(。ì _ í。)

トゥーラーンの原郷は

環日本海地域の

東夷社会にあります。

ウラル語族は
Y染色体ハプロNと関連することが明らかになっています。

ハプロNのルーツは遼河文明にありますが、

Nの親系統である
ハプロNOは、

ユーラシアステップに僅かに見られ、

最大の集積地は、

日本の徳島県、福岡県となっています。



縄文時代早期、10000年前の九州に、

貝殻文系筒型土器という土器形式があります。

平底の筒型土器で、貝殻を使って筋をつけた条痕文が見られます。



やや遅れて東日本に貝殻文沈線文土器が関東に始まり東北で普及しています。

こちらは底が尖った尖底土器。




続いて東北では縄文時代前期に円筒土器が盛んに作られました。

ハプロNの特徴的な土器の一つとして円筒土器があります。

また、尖底の櫛目文土器があります。

東夷社会に共有された土器の形式なのでしょう。

(˶˙º̬˙˶)*॰

そして、ハプロNが中心となり、中国東北部の遼河流域に「遼河文明」が興ります。

遼河文明人のY染色体ハプロタイプは、

東夷族(北東アジア)に多い
N1a2a

サモエードに多いN1a2a

ユーラシアステップに沿ってモンゴルから中央アジア、北欧、英国、レバノン、インド、東ヨーロッパに広く分布し、
トゥーラーン全般に多いN1a1

の三系統の祖形が見つかっています。

フィンランド、ハンガリーなどのウラル語族(ハプロN)のルーツが

遼河文明にあることは疑う余地はありません。

(´-ω-`)

そして、

遼河文明と交流していたとされている三内丸山遺跡のある

青森県の現代日本人から

7.7%という高頻度で

ハプロNが検出されました。

その、ハプロN青森県人が持っていたのは、遼河文明人と同じく

N-M128(N1a2a)
N-P43(N1a2b)
N-M46(N1a1)

と、現在では異なる地域に住んでいるハプロNの三系統の祖形でした。

(。ì _ í。)

ハプロNが遼河からフィンランドや英国まで行ったことを考えれば、

青森県と遼河はあまりにも近いです。

ユーラシアステップは、

ヨーロッパと遼河、アムール川を直接結んでいます。

(˶˙º̬˙˶)*॰

そして、

実はもう一つ

重要な交通手段が存在していました。

(*º ロ º *)!!

縄文時代に
シベリア超特急があったのです‼

( ・ิϖ・ิ)っ
つづく


ヤンガードリアスが終わり一気に気温が上昇した  11700年前(BC9700)。

完新世の始まりと共にレバントでは先土器新石器時代となり農耕が普及していきます。

近年では、レバントに先駆けて長江で14000年前頃に稲作が始まっていたのではないか❓とする説があります。

まだ西ユーラシアには土器が無く、長江流域でもそれ程土器が普及しているとはいえない時代…




大量の土器生産をしていたのが環日本海地域の日本列島、沿海州です。

最終氷期最寒冷期には食物資源豊かな落葉樹林のナッツの森は、長江東南部と日本列島沿海部(特に九州から関東の太平洋岸)に広がっていましたが、

アジアでは15000年前からベーリング・アレレード期の温暖化が始まり、ナッツの森は北へと移動していきます。

長江東南部では、落葉樹林から常緑樹林へと植生が遷移し、食料資源が乏しくなった辺りから稲作を開始したのではないかと考えられています。

長江付近(華南)にいたY染色体ハプロタイプO1bは、そこに留まって稲作を始めたO1b1と、

森を追って環日本海地域へ移動したO1b2に分岐したようです。

この頃、華北には古羌、アルタイ語族の共通祖先O2a2がいたと思われます。

被支配層の粟作農耕民である漢民族(主にO2a1c)が人口爆発を起こしたのは5000年前以降の事で、この頃の華北にはアルタイ語族を話す東夷族が僅かにいた程度だったでしょう。

この頃の華北は黄砂とステップが入り交じった不毛地帯だったので、

まず、飯が食えません(/ω\)

遼河付近にはハプロN、
北海道と陸続きのアムール地方にはハプロC2、

日本列島にD1a2、C1a1がいたと思われます。

( ・ิϖ・ิ)っ

これまでお話した通り、食料資源確保が容易であった日本列島では食物をめぐる争いは起こらず、

異なる文化を持った部族が同一集落に共存したり、

異文化集団同士が広範な交易ネットワークを構築した

原始共産制の東夷社会が誕生していました。

後期旧石器時代(岩宿時代、BC36000~14500)を通じて、様々な文化を持った人々が住みやすい日本列島へやって来たのだと思われます。

(˶˙º̬˙˶)*॰

のちの東夷族、
トゥラーンに繋がる人々の基層となる、

ハプロN、Oは何処からやって来たかと言いますと…

5~6万年前には日本列島に到達していた可能性があるハプロC,Dとは異なる

F系統から分岐したハプロK系統のうち、

のちの印欧語族(ハプロR)、アメリカ先住民(ハプロQ)の共通祖先であるハプロK2b*は42000~39000年前に北京にいた田園洞人から検出されています。

トゥーラーンより出たと云われるアーリア人の祖先は、意外と早い時期にアジアにいたのです。

中東からユーラシアステップを経て36500年前に日本へ伝わった石刃技法をもたらしたのは案外アーリア人とアメリカ先住民の共通祖先であったかもしれません。

K2b*の子系統のうち、QRの親であるハプロPは、現在フィリピン、韓国に僅かに見られます。

ハプロPが岩宿時代の日本に住んでいた可能性もあるのです。

もう一方のハプロMSの子孫はポリネシア、メラネシア、オーストラリアに現在多く見られます。

その後、Pの子系統であるハプロQとRは、バイカル湖からエニセイ河流域に留まったのち、西ユーラシアとアメリカへと別れていきました。

一方、東アジアに多いOの親系統に繋がるK2a*は、
45000年前のロシア・オムスク州、アルタイ山脈を源流とするエルティシ川流域にいた
ウストイシム人から検出されています。

また、42000~37000年前のルーマニアにいたオアセ1からもK2a*が見つかりました。

オアセ1はネアンデルタール人の遺伝子を5~11%と濃厚に持ち、4~6世代前にネアンデルタール人の祖先を持っていました。

(˶˙º̬˙˶)*॰

ここで興味深いのは、

現代中国人に多いハプロO
の祖先系統であるオアセ1は現代ヨーロッパ人に近い形質を持っており、

アーリア人の祖先系統である田園洞人は現代アジア人に近い形質であった、

ということです。

父系はあまり形質に影響しないのではないかと考えられます。

ハプロタイプというのは、何千何万といる祖先のうちの、たった一人から受け継いだもので、直系を辿る手がかりにはなりますが、民族や人種の違いをあらわすものではありません。

( ・ิϖ・ิ)っ

日本人からは男系母系共に非常に多様なハプロタイプが検出されており、

縄文人と弥生人、古墳人の混血などという単純なものではなさそうです。

特に男系というのは、かつて繁栄した系統でも戦などによって壊滅する可能性が高く、かつて居た場所から姿を消してしまうケースが多く見られます。

特に狩猟民族は、土地に縛られる農耕民族や現代人とは比較にならないほど長距離を移動していました。

( ・ิϖ・ิ)っ

ハプロNOの共通祖先は、4万年前にユーラシアステップの西にいたようですが、この系統は冒険心が強いのか…

農耕民となり華北華南に定住した漢民族を除き広範囲に移動を繰り返しています。

オーストロネシア語族、オーストロアジア語族のように太平洋やインド洋の海洋民となり、マダガスカルやミクロネシアへと拡散していった子孫もいます。

ウラル語族(ハプロN)は遼河付近からシベリア、アラスカ、ウラル山脈を超えフィンランドやハンガリーに拡散していきました。

ハプロNの祖先は元々、ユーラシアステップの西にいたので、子孫である人々は、その後もユーラシアステップを自由に往来していたのでしょう。

フィンランド人やハンガリー人は現在でも
「日本人と同祖だ」
と言っているようですが、

彼らの祖先は確かに‼

沿海州で日本列島の縄文人と共に「東夷社会」を形成していたのです。

(*`º´*)/

さて、ハプロNとOの共通祖先であるハプロNOですが、

徳島に5.7%
福岡に3.8%
と、日本の一部に比較的高頻度に見られるようです。

( ´・_・`)

ハプロNO系統の人々は、縄文時代よりはるか以前の岩宿時代に、

大陸と日本列島を何度も行ったり来たりしていたのかもしれません。



最終氷期最寒冷期には、東シナ海は陸になっており、九州から大陸へ渡るのは造作もないことでした。

彼らは、大陸と列島の落葉樹林帯を自由に往き来し、彼らの行動が東夷社会を生み出していったのではないでしょうか❓




岩宿時代(後期旧石器時代BC36000~14500)の遺跡

中種子町の立切遺跡(BC29000以前)
磐田市の池端前遺跡、匂坂中遺跡、坂上遺跡(何れもBC20000頃)
から出土した

台石、磨石、石皿から残存デンプンが検出され、

岩宿時代の旧石器日本列島人が、

植物質食料を利用し、
一定期間の定住生活を営んでいた事が明らかになってきました。

岩宿時代初頭(BC36000)の北関東の環状ブロック遺跡群(最大で70~80人の世界最古の半定住集落跡)同様に、

種子島や磐田原の旧石器集落でも、蒸し焼きなどをしていた調理痕と想定される礫群が見つかっています。

また、種子島や静岡県など太平洋沿岸の遺跡からは、

岩宿時代前半期(BC36000~27000)の

落とし穴猟の遺構が発見されており、

知的な方法で中~小型動物を捕獲していたと考えられています。

( ・ิϖ・ิ)っ
一方、

岩宿時代初頭の長野県北部、野尻湖遺跡ではナウマンゾウの解体跡が発見されており、

長野県や北関東の環状ブロック遺跡は、

大型動物の狩りや解体を共同で行うために築かれた一時的な集落と考えられています。

(˶˙º̬˙˶)*॰



岩宿時代初頭(38000BP、BC36000)
本州島の山岳地帯や内陸部ではナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型獣を集団で狩る共同体が形成されていました。

後期旧石器時代初頭の
ナウマンゾウ解体跡
集落跡は、

日本列島で発見された例が世界最古となります。

黎明期の現世人類が原始共同社会を形成していった証拠は、

日本列島にあります。

(˶˙º̬˙˶)*॰

最終氷期の日本列島内陸部は亜寒帯針葉樹林が広がり、植物質食料は乏しく、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類の狩猟に依存した生活を営んでいたと考えられてきました。

一般的には多くの人が、石器時代には集団でマンモスを狩っていたとイメージしていると思いますが、

実は30000年前にマンモスを狩っていた確実な証拠は世界では発見されていません。

この頃のユーラシア大陸では、人類はマンモスのような大型獣を狩る技量は持ち合わせておらず、屍肉を漁るスカベンジャーであったのではないか❓とする説があるほどです。

(˶˙º̬˙˶)*॰

然し‼

日本列島の岩宿時代初頭(BC36000)には、

ナウマンゾウを狩っていたと考えられる遺跡が多数発見されているのです。

ただ、ビッグゲームハンティングは確実性が低く、安定した食料獲得は困難であり、

ヨーロッパのクロマニヨン人は常に飢えと戦っていたと考える研究者は多いのです。

(๑꒪⌓꒪๑)ノ

3万年前、ヨーロッパのクロマニヨン人は洞窟に暮らしホラアナライオンやホラアナグマと格闘し、ウッホウッホと呻きながら牛🐮などのご馳走の獲得を夢見て洞窟に壁画を描き悶々と暮らしていました。

ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"( ˶´⚰️`˵ )ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"

然し、集団で平地に住居を構え、高等戦略を磨いていた日本列島の岩宿人は、

既にギャートルズのようなヨーロッパのクロマニヨン人とは一線を画す豊かな暮らしを手に入れようとしていたのです。

٩( ᐛ )⸜❤︎⸝‍( ᐖ )۶ ﻌﻌﻌ⋆

37500年前(BC35500)、静岡県東部の愛鷹山には、

長野県諏訪地方の黒曜石と共に、

伊豆諸島神津島の黒曜石が運び込まれていました。

この当時の日本、(及び環太平洋地域)には、大陸には見られない「局部磨製石斧」が多数発見されています。



局部磨製石斧は木を伐り倒す作業に使われたと想定されています。

神津島へ渡るには黒潮を横切っていかねばならず、草を編んだ芦舟ではなく、木造の丸木舟が適しています。

後期旧石器時代のヨーロッパでは漁労は無いとされていますが、同時代の日本列島では釣り針も発見されており、荒波の外洋へ航海する能力を既に有していた岩宿時代の日本列島人は、漁労も取り入れていたと想定出来ます。

野尻湖遺跡からはクルミが発見されており、既に植物質食料の利用が始まっていたと考えられています。

ある環状ブロック遺跡では、異なる石器を使う二つのグループが共同生活していたと考えられており、

黒曜石の広範な流通を見ても、

内陸部の集団と沿海部の集団が交流していたことは明らかです。

火山列島に豊富な黒曜石と、
太平洋沿岸の温暖な気候を求めて、

現世人類の様々な集団が日本列島に集まって来ていました。

異なる集団同士が共存する社会が確立していた‼ということは、

食料が充分に行き渡り、奪い合う必要がなかった‼ということなのでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ
ヨーロッパでは、原始的なビッグゲームハンティングすら可能であったか定かではない時代、

石器時代のパラダイスである日本列島では、単純なビッグゲームハンティングに過度に依存することのない

多様な食料獲得と、
広範な交易ネットワークが
38000年前に
既に構築されていたのです。

( ⊙ ⊙)ง 
「ヨーロッパのクロマニヨン人は30000年も前に洞窟に壁画を描く芸術活動を始めていて、スゲーなぁ」

((꜆꜄`•ω•)꜆꜄꜆
そんなこと未だに言ってる自虐史観バカのあなた‼

目覚めよ‼
Σ(●д●)
刮目せよ‼

٩(๑•ㅂ•)۶
「芸術ではメシは食えねーら」By岩宿人

日本列島では中期旧石器時代(4万年前以前)の遺跡60箇所に対し、

後期旧石器時代(38000BP~16500BP、BC36000~14500)遺跡が14500箇所。

特に38000年前の岩宿時代初頭から遺跡が急増しています。

まさに、その時、人類の食料獲得に

革命的な変化( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )が起きたのです‼

ᕙ ( •̀∀•́ )(ᵒ̴̷͈ᗨᵒ̴̶̷͈ )ᕗ⋆°。✩
そして…

太平洋沿岸、三浦半島の横須賀市にある30000年前の船久保遺跡では、

1m×50cm、深さ2m程の長方形の落とし穴が100メートルに亘り等間隔に並んだ遺構が発見されました。

一般に縄文時代以前の落とし穴は、

円形がイノシシ🐗用、
長方形がシカ🦌用

と考えられています。

(•ө•)♡



鹿は後脚は力強いですが、前脚はそうでもなく、

細長い穴に前のめりに突っ込むと、まず脱出出来ません。

また、警戒心の強い鹿は未知の障害物を乗り越えようとしない習性があり、

木の枝などで柵を巡らし、切れ目に落とし穴を掘って追い込んだと考えられています。

こうした罠猟は現在でもロシアで行われていますが、

太平洋沿岸の日本列島旧石器時代岩宿人は、

そうした鹿の特性を熟知した(現代でも通用する)高等戦略で狩りをしていました。

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太平洋沿岸部には、最終氷期の寒冷期であっても、

落葉樹林帯が存在し、木の実が豊富にあり植物質食料を確保した上で、

ビッグゲームハンティングのギャンブルだけに興じなくとも、

鹿やイノシシなどナッツの森に集まる中型哺乳類を、

人類が初めて獲得した叡智によって容易に仕留めることが可能になっていました。

( ・ิϖ・ิ)っ



ナッツの森は、
20000年前の最寒冷期にも、

日本列島沿海部と、

中国の長江南部に

存在していました。

この両地域に、

世界最古の土器が出現しています。

中国では温暖化と共にナッツの森は北へ移動し、完新世以降は東北部の遼河地域~沿海州が豊かなナッツの森となりました。

長江南部から沿海州へは1000km以上の大移動になります。

一方、日本列島では、氷期に沿海部にあったナッツの森は標高の高い内陸部に移動しただけです。

つまり、静岡県から山梨、長野県に移動するだけで済んでしまうのです。

然も既に日本列島の沿海部と内陸部には交易ネットワークが構築されており、容易に情報交換が可能でした。

( ・ิϖ・ิ)っ

岩宿時代に

日本列島沿海部と
長江南部で

構成されていた

「東夷社会」
多様な狩猟採集、漁労、交易ネットワーク

は、

縄文時代には

日本海沿岸部の日本列島、東日本と、

日本海沿岸部の沿海州、中国東北部

で構成されるようになります。

長江にいた東夷族(倭人)のうち、O1b1と別れたO1b2が遼河地域、日本列島及び沿海州の環日本海沿岸地域にナッツの森を求めて移動したのは

弥生時代開始期ではなく、

縄文時代草創期の温暖化が進行するベーリング・アレレード期と想定されます。



土器の伝播は、
長江(東シナ海)→本州島→北海道及び沿海州と北上したのち、

遼河、黄河地域へと南伝していることがわかります。

( ・ิϖ・ิ)っ

世界文明の基盤は、

日本列島周辺の

ナッツの森で

東夷族(倭人)によって

岩宿時代に

構築されていきました。