岩宿時代(後期旧石器時代BC36000~14500)の遺跡
中種子町の立切遺跡(BC29000以前)
磐田市の池端前遺跡、匂坂中遺跡、坂上遺跡(何れもBC20000頃)
から出土した
台石、磨石、石皿から残存デンプンが検出され、
岩宿時代の旧石器日本列島人が、
植物質食料を利用し、
一定期間の定住生活を営んでいた事が明らかになってきました。
岩宿時代初頭(BC36000)の北関東の環状ブロック遺跡群(最大で70~80人の世界最古の半定住集落跡)同様に、
種子島や磐田原の旧石器集落でも、蒸し焼きなどをしていた調理痕と想定される礫群が見つかっています。
また、種子島や静岡県など太平洋沿岸の遺跡からは、
岩宿時代前半期(BC36000~27000)の
落とし穴猟の遺構が発見されており、
知的な方法で中~小型動物を捕獲していたと考えられています。
( ・ิϖ・ิ)っ
一方、
岩宿時代初頭の長野県北部、野尻湖遺跡ではナウマンゾウの解体跡が発見されており、
長野県や北関東の環状ブロック遺跡は、
大型動物の狩りや解体を共同で行うために築かれた一時的な集落と考えられています。
(˶˙º̬˙˶)*॰

岩宿時代初頭(38000BP、BC36000)
本州島の山岳地帯や内陸部ではナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型獣を集団で狩る共同体が形成されていました。
後期旧石器時代初頭の
ナウマンゾウ解体跡
集落跡は、
日本列島で発見された例が世界最古となります。
黎明期の現世人類が原始共同社会を形成していった証拠は、
日本列島にあります。
(˶˙º̬˙˶)*॰
最終氷期の日本列島内陸部は亜寒帯針葉樹林が広がり、植物質食料は乏しく、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類の狩猟に依存した生活を営んでいたと考えられてきました。
一般的には多くの人が、石器時代には集団でマンモスを狩っていたとイメージしていると思いますが、
実は30000年前にマンモスを狩っていた確実な証拠は世界では発見されていません。
この頃のユーラシア大陸では、人類はマンモスのような大型獣を狩る技量は持ち合わせておらず、屍肉を漁るスカベンジャーであったのではないか❓とする説があるほどです。
(˶˙º̬˙˶)*॰
然し‼
日本列島の岩宿時代初頭(BC36000)には、
ナウマンゾウを狩っていたと考えられる遺跡が多数発見されているのです。
ただ、ビッグゲームハンティングは確実性が低く、安定した食料獲得は困難であり、
ヨーロッパのクロマニヨン人は常に飢えと戦っていたと考える研究者は多いのです。
(๑꒪⌓꒪๑)ノ
3万年前、ヨーロッパのクロマニヨン人は洞窟に暮らしホラアナライオンやホラアナグマと格闘し、ウッホウッホと呻きながら牛🐮などのご馳走の獲得を夢見て洞窟に壁画を描き悶々と暮らしていました。
ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"( ˶´⚰️`˵ )ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"
然し、集団で平地に住居を構え、高等戦略を磨いていた日本列島の岩宿人は、
既にギャートルズのようなヨーロッパのクロマニヨン人とは一線を画す豊かな暮らしを手に入れようとしていたのです。
٩( ᐛ )⸜❤︎⸝( ᐖ )۶ ﻌﻌﻌ⋆
37500年前(BC35500)、静岡県東部の愛鷹山には、
長野県諏訪地方の黒曜石と共に、
伊豆諸島神津島の黒曜石が運び込まれていました。
この当時の日本、(及び環太平洋地域)には、大陸には見られない「局部磨製石斧」が多数発見されています。

局部磨製石斧は木を伐り倒す作業に使われたと想定されています。
神津島へ渡るには黒潮を横切っていかねばならず、草を編んだ芦舟ではなく、木造の丸木舟が適しています。
後期旧石器時代のヨーロッパでは漁労は無いとされていますが、同時代の日本列島では釣り針も発見されており、荒波の外洋へ航海する能力を既に有していた岩宿時代の日本列島人は、漁労も取り入れていたと想定出来ます。
野尻湖遺跡からはクルミが発見されており、既に植物質食料の利用が始まっていたと考えられています。
ある環状ブロック遺跡では、異なる石器を使う二つのグループが共同生活していたと考えられており、
黒曜石の広範な流通を見ても、
内陸部の集団と沿海部の集団が交流していたことは明らかです。
火山列島に豊富な黒曜石と、
太平洋沿岸の温暖な気候を求めて、
現世人類の様々な集団が日本列島に集まって来ていました。
異なる集団同士が共存する社会が確立していた‼ということは、
食料が充分に行き渡り、奪い合う必要がなかった‼ということなのでしょう。
( ・ิϖ・ิ)っ
ヨーロッパでは、原始的なビッグゲームハンティングすら可能であったか定かではない時代、
石器時代のパラダイスである日本列島では、単純なビッグゲームハンティングに過度に依存することのない
多様な食料獲得と、
広範な交易ネットワークが
38000年前に
既に構築されていたのです。
( ⊙ ⊙)ง
「ヨーロッパのクロマニヨン人は30000年も前に洞窟に壁画を描く芸術活動を始めていて、スゲーなぁ」
((꜆꜄`•ω•)꜆꜄꜆
そんなこと未だに言ってる自虐史観バカのあなた‼
目覚めよ‼
Σ(●д●)
刮目せよ‼
٩(๑•ㅂ•)۶
「芸術ではメシは食えねーら」By岩宿人
日本列島では中期旧石器時代(4万年前以前)の遺跡60箇所に対し、
後期旧石器時代(38000BP~16500BP、BC36000~14500)遺跡が14500箇所。
特に38000年前の岩宿時代初頭から遺跡が急増しています。
まさに、その時、人類の食料獲得に
革命的な変化( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )が起きたのです‼
ᕙ ( •̀∀•́ )(ᵒ̴̷͈ᗨᵒ̴̶̷͈ )ᕗ⋆°。✩
そして…
太平洋沿岸、三浦半島の横須賀市にある30000年前の船久保遺跡では、
1m×50cm、深さ2m程の長方形の落とし穴が100メートルに亘り等間隔に並んだ遺構が発見されました。
一般に縄文時代以前の落とし穴は、
円形がイノシシ🐗用、
長方形がシカ🦌用
と考えられています。
(•ө•)♡

鹿は後脚は力強いですが、前脚はそうでもなく、
細長い穴に前のめりに突っ込むと、まず脱出出来ません。
また、警戒心の強い鹿は未知の障害物を乗り越えようとしない習性があり、
木の枝などで柵を巡らし、切れ目に落とし穴を掘って追い込んだと考えられています。
こうした罠猟は現在でもロシアで行われていますが、
太平洋沿岸の日本列島旧石器時代岩宿人は、
そうした鹿の特性を熟知した(現代でも通用する)高等戦略で狩りをしていました。
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太平洋沿岸部には、最終氷期の寒冷期であっても、
落葉樹林帯が存在し、木の実が豊富にあり植物質食料を確保した上で、
ビッグゲームハンティングのギャンブルだけに興じなくとも、
鹿やイノシシなどナッツの森に集まる中型哺乳類を、
人類が初めて獲得した叡智によって容易に仕留めることが可能になっていました。
( ・ิϖ・ิ)っ

ナッツの森は、
20000年前の最寒冷期にも、
日本列島沿海部と、
中国の長江南部に
存在していました。
この両地域に、
世界最古の土器が出現しています。
中国では温暖化と共にナッツの森は北へ移動し、完新世以降は東北部の遼河地域~沿海州が豊かなナッツの森となりました。
長江南部から沿海州へは1000km以上の大移動になります。
一方、日本列島では、氷期に沿海部にあったナッツの森は標高の高い内陸部に移動しただけです。
つまり、静岡県から山梨、長野県に移動するだけで済んでしまうのです。
然も既に日本列島の沿海部と内陸部には交易ネットワークが構築されており、容易に情報交換が可能でした。
( ・ิϖ・ิ)っ
岩宿時代に
日本列島沿海部と
長江南部で
構成されていた
「東夷社会」
多様な狩猟採集、漁労、交易ネットワーク
は、
縄文時代には
日本海沿岸部の日本列島、東日本と、
日本海沿岸部の沿海州、中国東北部
で構成されるようになります。
長江にいた東夷族(倭人)のうち、O1b1と別れたO1b2が遼河地域、日本列島及び沿海州の環日本海沿岸地域にナッツの森を求めて移動したのは
弥生時代開始期ではなく、
縄文時代草創期の温暖化が進行するベーリング・アレレード期と想定されます。

土器の伝播は、
長江(東シナ海)→本州島→北海道及び沿海州と北上したのち、
遼河、黄河地域へと南伝していることがわかります。
( ・ิϖ・ิ)っ
世界文明の基盤は、
日本列島周辺の
ナッツの森で
東夷族(倭人)によって
岩宿時代に
構築されていきました。