縄文家族|天竜楽市 -6ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

日本語の成立について、

遼河地域を原郷とし、
3000年前に
農耕と共に
朝鮮半島から日本列島へ伝わり、

縄文語を話す人々は北へ追われてアイヌとなり、

朝鮮半島から渡来した弥生人が話す古朝鮮語が日本語となった。

とする説が11月になり新聞紙上を賑わせました。

(´-ω-`)

然し、
弥生人が縄文人を駆逐し、民族が置き換わったという説は、

弥生時代の開始をBC300年とする

前世紀の古い学説に基づいたものであり、

現在は一部の

「何でもかんでも文化は朝鮮半島から来たニダ٩(๑`ȏ´๑)۶」

と唱える某国御用学者を除いて、

(´-ω-`)

誰も信じていません。

( ・ิϖ・ิ)っ

稲作の伝播については

北九州BC1000
奈良BC660
濃尾平野BC500
静岡AD0

となっており、

それぞれの地に住んでいた縄文人が順次稲作を採り入れていったと考えられるようになってきました。

稲作を早期に取り入れた九州では、縄文時代には見られない集落間の争いが起きるようになり、

東の縄文勢力は弥生文化の受容に慎重になっていたのでしょう。

(˶˙º̬˙˶)*॰

関東ではBC300頃に東海から海路で渡った人々が稲作を開始したようですが、

縄文文化を継続する人々も残っており、

初期農耕はキビ・アワ作が主体であったようです。

遼河地域は遼東半島には山東半島から稲作が伝わっていたものの、基本的にはキビ・アワ農耕が中心なので、関東にも遼河人が来ていたのかもしれません。

また、古くから遼河地域と交流があった青森県では、BC400頃から稲作が試されていますが、気候に合わず放棄されたらしく、その後は縄文回帰し、続縄文文化が古墳時代まで継続したようです。

弥生土器の製法は全国に伝播したものの、

東日本の弥生土器は少なく、
また、縄文が施文されるなど、その地域の縄文土器の特徴を引き継いでおり、文化の断絶は感じられません。


縄文風の弥生土器

土偶が進化した弥生のボトル

濃尾平野でBC500頃に普及した稲作は、
静岡では紀元前後まで受容されませんでした。

銅鐸の分布が天竜川、或いは掛川を東限となっており、

静岡は古墳時代まで縄文勢力が優勢であった可能性があり、

ヤマト朝に対抗する縄文系の狗奴國が古墳時代まで存在したと考える研究者もいます。

(˶˙º̬˙˶)*॰

かつては弥生時代を代表する遺跡であった

登呂遺跡も、

実は山梨長野縄文王国から南下してきた縄文人が営んだ弥生遺跡であったとする説もあるようです。

( ・ิϖ・ิ)っ

庶民の住居は、
縄文時代以来の

入母屋造の
竪穴式住居が

平安時代まで主流であり、

そのまま近代まで続く日本民家の原型となっており、

22000年前から日本の庶民の住宅は少しずつ進化しながら継続しており、

文化の断絶はありません‼

(´-ω-`)

縄文と弥生は、

実は連続した文化であることが、

(まだ教科書には載っていませんが)

21世紀の現代ではほぼ、
明らかになっています。

弥生文化が東日本に到達するのは、

紀元前後であり、

日本語は僅か2000年前に成立したような新しい言語ではないのです。




環日本海地域に隣接して存在する

ニヴフ語
アイヌ語
日本語
朝鮮語

は、その話者である

ニヴフ人、アイヌ人、倭人、朝鮮人(つまり大日本帝国本土住民)が古来から交流を続けてきた隣人であるにもかかわらず、

言語的に大きくかけ離れており、分岐年代が非常に古いことが明らかであり、

また非常に長い期間、同じ場所に住み続けている人々であることが明らかになっています。

言語学的には

日本語
ニヴフ語
アイヌ語
朝鮮語

に、

ケット語
バスク語

を加えた6言語は

出アフリカ古層A型に分類されています。

ユーラシアで最も古いタイプの言語なのです。

(´-ω-`)

日本語が2~3000年前に成立したというのは完全な誤りです。

寧ろ、
環日本海地域の古層言語として、

遼河語

つまり、ユーラシア大語族

のちの
ウラル語
アルタイ語
印欧語
ドラヴィダ語

の基になった古層言語である可能性があります。

(´-ω-`)

2015年に発表された学説から想定すれば、

5万年前に

ハプロD1、C1
がアフリカから日本列島に渡来、

出アフリカ古層言語である抱合語の原日本語が成立。


35000年前頃に
本州岩宿人から分岐した

アイヌの祖先が北海道に渡り、

原日本語と原アイヌ語が分岐。

その後、原日本語は膠着語に進化し、

原ニヴフ語と分岐、

ニヴフ人は北海道と陸続きのアムール地域に移動し、
極東地域の言語に影響を与える。



後期旧石器時代末期(18000~15000BP)に、

大陸系細石刃技法、
土器文化を伴って

長江のO1b1と分岐したO1b2が日本列島及び環日本海地域に北上。

オーストロアジア系のO1b2と

日本列島在来のD1a2a、C1a1が融合して

16000年前に
古日本語が成立。

(´-ω-`)

従来は
D1a2a、C1a1は縄文系とされましたが、
実は岩宿系であり、

弥生系と言われたO1b2が縄文系となっています。

ヤマト族男系の7~8割が縄文時代草創期から日本列島に居住していたことになり、民族の置換は起きていません。

(。ì _ í。)

然し。

母系は岩宿系、縄文系は少なく、弥生以降が多いというヤマト族の特徴があります。

(˶˙º̬˙˶)*॰


『後漢書』が記す倭国に女子多しとは、

海洋交易民である倭人が、

各地から女子だけを連れて来たと考えられます。

この時、種子やそれに伴う農業用語を女性が持ち込み、

子育てをする女性から母国語が子に伝わり、

日本語には世界各地の様々な言語と共通性を帯びるようになりますが、

特殊な言語であり、古くから話されてきた日本語が大きく変わることはありませんでした。

また、こうした外来語の取り込みが縄文時代から頻繁に行われててきたことで、

日本語は外来語や新語を容易に取り込めるように進化してきたのです。

(。ì _ í。)

基本的な日本語の成立時期は、
後期旧石器時代末期~縄文時代草創期
16000年前という事になります。



後漢末、曹操は犯罪者に用いる刑具の釱【てい(足枷)】を、鉄製から木製に改めさせたと『晋書刑法志』に記されています。

是の時鉄に乏し。故に易【か】うるに木を以てせり。

後漢末から魏の時代、中国は鉄資源が不足していました。

(˶˙º̬˙˶)*॰

漢は鉄の専売を行い、シルクロードを通じてローマへと輸出。

鉄資源と製鉄技術が漢の隆盛を支えていました。



後漢末には製鉄技術が向上し、鉄製の刀剣は宝物視され、

曹操は刀師と共に自ら刀を鍛え、関羽は自ら五都山の鉄を採り刀を作った(陶弘景『刀剣録』)
そうです。

然し、鉄の需要が急速に高まる一方、鉄資源の不足が深刻化していたのです。

(´-ω-`)

一方、朝鮮半島南部は紀元前三世紀頃から鉄の生産が始まっていました。

朝鮮半島は
植生の影響からか完新世初頭から人々の活動が殆ど見られなくなっていましたが、




縄文時代早期末(BC5300)の鬼界カルデラ噴火後に九州、西日本から縄文人(倭人)が移住して縄文文化圏(先櫛目文時代)となり、

BC4000頃から遼河人が櫛目文土器とキビ・アワ農耕を伴って南下(生業は狩猟採集中心)し、

倭人と遼河人が雑居する東夷社会ネットワークに組み込まれていきました(櫛目文土器時代)。

(´-ω-`)

土器を伴った農耕の伝播というのは、

狩猟採集社会(東夷社会)において、



粗製土器の製作と農耕が主に女性の仕事であったと考えられるところから、

遼河から女性だけが(倭人によって)連れてこられた可能性が考えられます。

倭国は
男少なく女が多いと『三國志東夷伝』にあるように、

海洋交易民である倭人は、各地から種子と共に嫁を拐って来る習性があったようです。

遼河語と縄文語は共にアルタイ祖語に属していたと考えられますが、

子は母親から言葉を教えられるため、
遼河語と縄文語の融合した韓語が生まれたのでしょう。

当然、農業用語は遼河語に近いものになります。

( ・ิϖ・ิ)っ

現代日本人は
父系は4万年前から日本列島にいるハプロタイプが4割以上残っているのに対し、母系は古いタイプは少なく、

「女性のみが舟で各地から日本列島に渡来してきた(*`º´*)/」という珍奇な説を唱えた人もいましたが、

倭人の男達が舟で出掛けて、女性のみを連れて来た‼と考える方が妥当ではないでしょうか。

( ・ิϖ・ิ)っ

殷代になると寒冷化が進み、遼河地域から朝鮮半島に本格的な移住が始まり、大規模な農耕を伴った無文土器時代(BC1500~)
が始まります。

倭人は朝鮮半島西岸に拠点を維持し、山東半島や江淮地域と交易を行っていました。

倭人を頼って日本列島へ渡った遼河人もいたと思われます。



殷周革命後のBC1000頃には、その動きは活発化し、北九州の弥生文化に繋がっていきました。

三国時代にも、相当数の倭人が朝鮮半島南部を中心に活動しており、

朝鮮半島南部の鉄は、倭人によって中国へ運ばれていたようです。

漢末の
海度東夷王

後漢の
委奴國王

魏の
親魏倭王

のように、

韓人には与えられない「王」の称号が倭人に与えられた理由として、

半島南部の鉄利用は倭人の主導で行われていたと考えるのが自然で、

鉄資源が不足した魏にとって、

倭人を厚遇するのは当然の成り行きでした。


トランスユーラシア語族(アルタイ語族)の原郷は遼河。

朝鮮半島に極めて“縄文的な”人が住んでいた。

弥生人の原郷は北東アジア(東夷族)

古墳人は中国からの遺民(東夷系漢族)

( ・ิϖ・ิ)っ

ここ数ヶ月で、
日本と北東アジアの結びつき(東夷社会)が考古学的にクローズアップされてきました。

(´-ω-`)

80年代頃から(東洋史に詳しくない)歴史作家たちは

「長江の倭人が難民として日本に渡り弥生人になった」

と唱えていましたが、

考古学者の多くは、

土器再出現期の長江には注目してきましたが、

三内丸山遺跡の発見以降は遼河文明と北東アジアに大きな関心を払ってきました。

(˶˙º̬˙˶)*॰


世界最古の土器は長江東南で22000年前とされていますが、

華南に現生人類の石器技法が普及したのは25000年前以降であり、
更新世遺跡の発見は未だ日本列島に比べ非常に少ないのです。



22000年前の長江南側の内陸部には、

日本列島の太平洋岸を中心とした沿海地域と同じく、

落葉広葉樹林帯が広がっていました。

(˶˙º̬˙˶)*॰

30000年以上前に古本州島の太平洋岸で、世界最古の

植物質食料の採集を基盤とした(農耕へと繋がる前段階)生活が始まりましたが、

最終氷期最寒冷期には海水準が120メートル低下し、

東シナ海は
東シナ平原になっており、

岩宿(後期旧石器)時代に、

神津島まで黒潮を横断して黒曜石を取りに行っていた

太平洋岸の岩宿人にとって、

古対馬水道を渡り
東シナ平原
長江東南部に
到達するのは、
造作もないことです。


(´-ω-`)

30000年前の石皿が発見された中種子町と

22000年前の石皿が発見された磐田の直線距離は796km

16500年前の土器が発見された青森県外ヶ浜町まで1457km

長江下流の上海まで908km

18000~20000年前の世界最古の土器が発見された仙人洞遺跡のある万年県まで1357km

(。・ω・。)

食料確保に適した
落葉広葉樹林帯(ナッツの森)が、

太平洋岸から長江東南部の仙人洞、玉蟾岩遺跡まで東西にベルトのように繋がっていたとすれば、

同一の文化圏が形成されていても不思議ではありません。

( ・ิϖ・ิ)っ

16000BP±500の数値が出ている日本列島最古の大平山元Ⅰ遺跡の土器に対し、

仙人洞、玉蟾岩遺跡の土器は17000~22000BPと幅広く見積もられているようなので、

実年代はあまり離れていない可能性があります。

何れにしても15000年以上前の土器というのは長江と本州島にしかありません。

この時期の土器は水産資源の利用に限定的に使われたと考えられており、非常に貴重なものであったようです。

(˶˙º̬˙˶)*॰

15000年前から始まるベーリング・アレレード期は、アジアでは温暖な時代が2000年ほど続いたと考えられており、

土器は北上し、
北海道
アムール川
へ伝わると共に

日本列島内で急速に普及しました。

長江流域のその後の土器がポツリポツリとしか出ていないのに対し、

日本列島では15000年前以降、
土器の使用を前提とした
定住生活が定着していきます。

温暖化と共に長江流域の落葉広葉樹林帯が北へと遷移して行ったとすれば、

長江住民の一部は東シナ平原を北へ(遼河地域)向かったり、日本列島へ向かったりと移動していったのでしょう。

それは長江流域に残ったO1b1と、環日本海地域に移動したO1b2の分布が示しているのかもしれません。

( ・ิϖ・ิ)っ

ロシア極東、
アムール川下流域の
オシポフカ文化(13000~11000年前)
は狩猟採集、漁労を生業とし
竪穴建物と思しき遺構、炉跡が発見されており、

最北の縄文文化であったと言えます。

北海道には本州島から縄文文化が伝わったのですが、

未だサハリン、アムールと陸続きであったと考えられる晩氷期において、北海道で文化の北進が止まってしまう理由はありません。

(´-ω-`)

縄文文化は、長江から北上し、日本列島を縦断してアムール川に伝わり、

完新世になり落葉広葉樹林帯が遼河流域に広がると、アムール川流域から遼河流域へと南下していきました。

日本海を取り囲む共通の文化圏、狩猟採集交易ネットワークの東夷社会が成立し、
文化圏内で相互に交易を始めています。

三内丸山遺跡と遼河文明は確かに繋がっていました。

その頃、日本列島を含む東夷文化圏では、

日本列島の岩宿時代に話されていた
出アフリカ言語を基にした
ウラルアルタイ祖語が(多様な方言と共に)広域に話されていた可能性が高いと思われます。



縄文家族presents
縄文講座の第2回は11月27日(土)

16時~

茨城県つくば市松野木99-34

「海鮮や辰海」様にて

(m´・ω・`)m 
お食事の提供がございますので、事前にお申し込み下さるとありがたいです。

ご連絡先

09097440946

または

Jyomonkazoku@gmail.com

まで参加人数お知らせ下さい─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ


ただいま資料下書き制作中ですฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)

縄文人の遺伝子(Y染色体ハプロタイプ)というと、

アルタイ山脈経由でやって来たと想定される

D1a2a

ヨーロッパのクロマニヨン人の兄弟

C1a1

が注目されてきましたが、

日本固有とされる
D1a2a(旧D2→D1b→D1a2)、
C1a1の渡来は

縄文時代を遥かに遡る
4~5万年前と想定されています。

岩宿時代(後期旧石器時代、38000~16500BP)以前、

中期旧石器時代において、

出雲砂原遺跡(11万年前)
のちの日本列島には見られないタイプの旧石器出土。

金取遺跡(9~8万年前)
人工品である事が確実な石器、木炭粒が出土。
アジア在来技法を用いた、のちの後期旧石器時代局部磨製石斧の祖形と見られる尖頭礫器が含まれる。

飯田竹佐中原遺跡、三次下本谷遺跡(5~4万年前)
中期旧石器時代から後期旧石器時代への移行期の遺跡とされる。

川根ヌタブラ遺跡(38000~40000年前)
中期旧石器時代末期または後期旧石器時代初頭とされる。

数は少ないながら人類の存在が確認される遺跡が発見されています。

( ・ิϖ・ิ)っ

そして、
38000年前から突如として増える在来系の技法を用いた局部磨製石斧、台形様石器に代表される後期旧石器時代遺跡群‼

その岩宿時代直前、

39000年前の北京にいた
田園洞人のY染色体ハプロタイプは

K2b‼‼‼ฅ(๑⊙д⊙๑)ฅ!!

印欧語族Rと
アメリンドQの
共通祖先ですΣ( Д )ﻌﻌﻌﻌ⊙ ⊙

後期旧石器時代に
石器材料、
気候、
植生、
食料確保などの
諸条件に恵まれていた日本列島には、

のちに少数派となったタイプを含めて様々な文化を持った人々が世界中から集まって来ていたようです。

( ・ิϖ・ิ)っ

先週出てきたばかりの

トランスユーラシア語族遼河原郷説など

最新情報を含め解説していきますฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)



縄文人が食べていた海鮮鍋と、
縄文人が飲んでいた❓山葡萄酒、

38000年前から日本列島人が食べていたオニグルミの試食会もお楽しみに(•ө•)♡‼

九州の縄文時代晩期、BC1100頃の黒色磨研土器

黒色磨研土器は薄手の作りで表面をヘラなどで磨き黒色の光沢がある仕上げをした土器。

磨き込み品質の良い仕上げをしてあるのは主に浅鉢類で、深鉢形は貝殻などで条痕を付け粗めの仕上げが多い。

南九州、西九州を中心に後期後半(BC1800頃〜)から見られる。

後期末には滋賀など近畿地方でも無文で磨研を施し、表面を削りこんで薄手化した土器が普及しています。

美しい紋様と、複雑な器形で精緻に仕上げられた縄文土器の究極の完成形である同時代の東北の亀ケ岡土器に比較すれば、

西日本の晩期縄文土器は華やかさや技術力において、一歩二歩譲る感は否めないのですが、

近年、九州の黒色磨研土器は
山東龍山文化の黒陶に類似性がある、との報告がされており、

九州と山東半島の文化的交流があったことは確実視されています。

縄文時代早~前期から、
北日本、日本海側と遼河地域
西日本、北九州と山東半島
南日本、太平洋と長江流域
の相互的な交流があったと考えられるようになり、

縄文人(倭人)が早い段階から、中国と海洋交易をしていた事実が明らかになってきました。

(あまり大きな声では言えないが)山東龍山文化に縄文人が関与していたと(小声で)囁く研究者も増えてきました。

(´-ω-`)

殷王朝は、山東龍山文化と遼河夏家店下層文化の勢力をバックボーンに、
西の河南龍山文化から発展した二里頭文化の先行王朝(殷から見て蛮夏とされる地域)を滅ぼし、
殷の直轄地とした黄河中流域を畿内、中国(なかつくに)を定め、
黄河下流域と遼河流域の
東夷族の都市国家群が、
王朝を支える体制が整い、
中国が誕生しました。
仰韶文化~陝西龍山文化の中心地であった黄河中上流域には、のちに殷と対立する「羌方」「周方」が存在しており、
夏の遺民は長江流域に残存していました。
羌、周との関係も常に対立していたわけではなく、
東夷諸族との関係も常に一枚岩というわけではなかったようです。

(´-ω-`)

歴史的な「中国」と
現在の「中華人民共和国」の領域を
同一視してはいけません。

初期の「ヤマト朝」の領域と、
戦前の「大日本帝国」の版図、
現在の「日本国」の領域が異なるように、

歴史的な「中国」には東夷、北狄、西戎、南蛮を含みません。
そして「中国」の歴史は、
基本的に
「東夷族」の誰かが
「中原」を制することによって「皇帝」となり、
被支配層である農耕民の「漢族」を支配してきました。
中国の歴史は
ウラル・アルタイ諸語を話す「東夷族」の歴史でもあるのです。

海度東夷王、東の天帝と呼ばれた東夷族のリーダー格である「倭人」の末裔である日本列島人にとっても、それは他国の歴史ではありません。

(´-ω-`)

それ故に、
大きな声では言えず、

歴史問題が常に発生し、

日本の研究者は正しい歴史を表立って表明することが出来ません。

(⑉・̆⌓・̆⑉)

然し、
トランスユーラシア語族の原郷は遼河‼
と判明してきた21世紀において、

٩(๑`ȏ´๑)۶

つまり世界の文明は朝鮮人が作ったニダ🇰🇷‼*‼

(。ŏ_ŏ)

などと妄言吐かせていてはいけませんよ‼‼‼

(。 ー`ωー´)

日本人が知らんでいるうちに、
現在の中華人民共和国東北部、ロシア沿海州の
高句麗、渤海に関して、
中ロ韓の激しい歴史争奪戦になっています。
そこがトランスユーラシア語族、東夷文明の原郷になっているからだと、
中国、ロシアの科学者が気づき、
韓国は追従しています。

(;一_一)

一方、
日本の研究者は、
「王様はハダカだ‼ロバの耳だ‼」
と叫びたいが言えない。

(o´艸`)

こっそり言うよ|д゚)

日本列島の岩宿(後期旧石器時代)人が
世界文明の基礎を作り
最初に新石器文化を開始した縄文人が環日本海地域に「東夷社会」「東夷文明」を築いたのです。

トランスユーラシア語族の原郷は遼河との論文から、日本語も遼河から来たと考えるのは早計で、現日本語がトランスユーラシア語族の祖語であっても不思議ではないのです。

日本列島から遼河はすぐそこであり、日本の文化は38000年前から連綿と続く連続性があり、少しずつ渡来人が渡ってきたものの、一気に入って来たわけではなく、縄文晩期~弥生に言語置換が起きた可能性は高くありません。

(๑º△º๑)

海を渡って来る東夷王
東の天帝
である倭人は
遼河文明に
中国にはない
ヒスイ硬玉、軟玉を供給し、
夏王朝から周王朝までの
通貨である
タカラガイを
供給していました。
初期の中国経済を押さえていたのは「倭人」です。

🥺

大陸のあちこちにいた倭人が、弥生時代に集まって日本列島に来て稲作を伝え「弥生人」になった…
などとは中国の史書の何処にも書いてありません。
海を渡って交易に行った縄文人の一部が大陸に留まっていたのが「倭人」であり「夷人」です。
殷周革命が起きたBC11世紀に、
山東半島では
周に協力した羌族の「斉」が
殷の王族と同じ「子姓」の來夷を攻め、
來族は九州倭人が交易拠点としていた朝鮮半島南部に逃げ込み、水田稲作技術を持ち込み、次いで北九州にも技術が伝わりました。

(๑º△º๑)
もう一度、
これが稲作が伝わる直前の九州の精巧な縄文土器です。
そして、
↑こちらが、
稲作が伝わる直前のBC11~12世紀
朝鮮半島在地の土器、
孔列文土器
(๑º△º๑)
口縁部がここまで歪んでいるのはいただけない…
↑そして、こちらが、稲作伝播後、弥生時代早期(BC10世紀)
丹塗磨研土器(福岡県出土)

(๑º△º๑)

韓半島南部には精巧な土器を作るプロの技術集団はいなかったのだろうか❓

半島無文土器時代前期の精巧な土器が日本では知られていないだけかもしれませんが…

(ˊ•̤ω•̤ˋ)

西日本には確かに半島の無文土器が縄文晩期から見られるようになっています。

また、沿海州の(東夷族の)シニガイ文化から刻目突帯文土器が半島にも列島にも伝来しています。
韓国出土の刻目突帯文土器(BC15~13世紀)

近年は、シニガイ文化(BC2000~1000)を弥生人の原郷とする説があり、

沿海州南西部から陸路で半島南部へ、海路で列島日本海側
への人の移動はあったと思われますが、

シニガイ文化は雑穀畑作地帯で稲作はありません。

山東半島人とシニガイ人が半島南部で合流して稲作を始め、九州にやって来たにしても、時間差(今のところ稲作開始は半島が九州より50年早いとされる)が少な過ぎて、

半島に両者が融合した文化が根付いたとは言い難く、

山東半島、沿海州南西部からの人の流れは明らかで、彼らが陸路で半島経由で来たか、海路で直接来たかはあまり問題ではなく、

韓半島と北九州には
殷周革命の頃、山東半島から稲作が伝わり、

その少し前に沿海州から刻目突帯文土器が伝わり、

精緻な土器製作技術はそれより以前に山東地方と南九州、西日本で共有出来ていました。

また、同時期の東日本には、非常に精緻な土器を作るプロの技術集団がいて、農耕に依存せずとも高度な技術と物流のネットワーク社会が成立していた。

西日本は縄文時代を通じて狩猟採集の生産性が低く、ここから千年かけて東に追いつけ追い越せとなるのですが、稲作による人口増加が、ちょうど東日本で寒冷化して食料採集が停滞した時期と重なったために、弥生末期には東に対し人海戦術で優位に立ったのだと思われます。

弥生早期から技術的、文化的に西日本が必ずしも優位であったわけではなかったことは関東への弥生文化の東進に800~1000年かかっているところからも明らかです。

倭人にとって、文化は山東半島や沿海州から直接取り入れる手段があり、韓半島は中国交易の中継点に過ぎなかったのでしょう。

また、BC10世紀の半島南部は、縄文前期(鬼界カルデラ噴火後、BC5300~)に北上した倭人(九州縄文人)と、沿海州、遼河から南下した北東アジアの東夷人しか住んでおらず、

中国(中原)から韓(春秋時代の韓)人、秦人が入って来るのはその後になります。

殷の東遷(箕氏朝鮮)に伴って半島北部には遼河人と共に中原から移動した民もいたとは思いますが。

( ・ิϖ・ิ)っ

殷周革命後も、
殷の遺民とそれに属した氏族
VS
周及び周に属した氏族
の争いが続いていました。

徐福の祖先である徐夷(徐倭とも)は淮河流域に一大勢力を築いています。
中国の研究者は、徐族の文化は江南にも及び、徐=呉であるとしています。

大陸で周と対抗する東夷諸族の背後には、複数の倭人勢力が存在していました。

また、北東アジアには
のちの鮮卑、烏丸、契丹に繋がるモンゴル語族と思われる東胡、
高句麗、百済の母体となる扶余語族、
アムール川流域にはツングース語、或いはニヴフ語の粛慎、
モンゴル高原の北にはテュルク系民族と想定される葷粥(夏の傑王の子と伝承され、殷代の鬼方、のちの匈奴とも云われる)、
タリム盆地には印欧語族トカラ語派の月氏
など、環日本海地域の東夷社会を出自とするトゥーラーン系民族(=トランスユーラシア語族❓)
が、周の回りを取り囲んでいます。

先史時代の倭人は交易民でしたから、こうした国際情勢に精通していなければならず、情報収集のために様々な暗号文字を作っていました。

また、10進法、12進法を使い分けていた事がわかっています。