縄文時代のシベリア超特急~トゥーラーンが獲得した圧倒的な機動力 | 縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️




最終氷期が終わった11700年前(BC9700)からの温暖化で、

東日本と沿海州の環日本海地域には落葉樹林のナッツの森が広がり、共通の文化圏「東夷社会」が形成されました。

日本海は暖流の対馬海流が流れ込むようになり、列島の日本海沿岸住民は漁業資源の獲得に積極的に海へ乗り出したようです。

日本列島人が鯨を食べる習慣は早期に始まってており、

次第に鯨漁を行えるほどの航海技術が確立されていきました。



縄文時代草創期から前期にかけて、北海道・東北と沿海州アムール川流域の土器には共通する特徴が見られ、

三内丸山遺跡と中国東北部の遼河文明は交流していた形跡があります。

ユーラシア北部に拡散するウラル語族(Y染色体ハプロN)の原郷は遼河地域と考えられており、

遼河文明の古人骨の60%と、現代青森県人の7.7%には、共通するY染色体ハプロN三系統の祖形となる遺伝子が見つかっています。

青森から沿海州ウラジオストクまでの直線距離は800km弱。

縄文時代の主力船は丸木舟のカヌーで、

海流を横断することが可能であり、

時速20km近いスピードが出せる機動力のある小型船であったと考えられています。

時速20kmならば二昼夜漕ぎ続ければ対岸の大陸へ辿り着くことが可能です。

太平洋に比べ穏やかな日本海とはいえ、時化ることもあるので、好天が続く時期を狙って出発し、
なるべく天気の変わらないうちに多少無理してでも素早く渡り切ってしまう方がリスクは少なかったでしょう。

二艘の丸木舟に板を渡したダブルカヌー(双胴船、二俣舟)とし、積載性、安定性を高め、交代で昼夜漕ぎ続けたと想定されます。

鯨漁については縄文人が江戸時代と殆ど変わらない方法で漁をしており、
シンプルで確実性の高い航海技術は縄文時代に完成の域に達していたようです。



(´-ω-`)

のちの奈良時代に遣唐使船が難破を繰り返しており、古代の日本の航海技術が未熟であったと考える人がいますが…

大きな間違いです。

遣唐使船は一隻に最大170人が乗り込むという当時としては
超大型船であり、
唐の事情に合わせて気象条件の悪い季節に渡航しなければならず、
新羅との関係が悪化したため半島沿岸航路を使用出来ない

など、悪条件が重なった上で国家の威信をかけて渡海しており、航海技術は高かったと考えられています。

( ・ิϖ・ิ)っ

当時も日本海を横切り渤海経由で入唐すれば「楽勝」であるという意見がありましたが、陸路が長くなるため海洋交易国家のプライドをかけて、あえて難しいルートを選択した節があり、日本人らしい当たって砕けろ精神も見え隠れしています。

(。ì _ í。)

日本人というのは、縄文時代からチャレンジ精神旺盛な民族でした。

いや寧ろ縄文時代にその精神が培われたと言えるでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ

中国の史書には、

「中国には日本へ渡る航海技術は無いが、倭人は海を渡って交易にやって来る」

といった事が書かれています。

(´-ω-`)

外洋を知る日本と、知らない中国とでは、航海技術に歴然たる差があらわれるのは当然のことで、

日本の技術が何でもかんでも中国に劣っていると考える自虐史観バカから脱却しないと、世界の歴史は1ミリも見えてきません。

(。ì _ í。)

縄文時代に遼河地域と通航しているということは、

日本列島人の方が出掛けて行ったと考えるのが至極真っ当な推論なのです。

中国の史書がそう書いてあるのだから、信じてあげるべきでしょう。

漢民族には海に出て鯨漁をするようなクソ度胸は無いのです。

(。ì _ í。)

鯨漁は北極海でもBC3000頃から始まっています。

日本海の漁労文化を伝えたのは、ウラル語族(ハプロN)だと想定出来るでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ



最終氷期最寒冷期にはシベリアと陸続きであった北海道は、

後期旧石器時代から大陸と文化を共有しており、

北海道に見られる湧別技法という石器技法は、遠くバイカル湖周辺まで共有されていました。

札幌からイルクーツクまでは約3000km離れています。

(˶˙º̬˙˶)*॰

然し、遼河地域にいたウラル語族は、7000km離れたフィンランドまで行っているのです。

上古代の人々の冒険心は現代人の想像の
遥かナナメ上を行っています。

( ・ิϖ・ิ)っ

そもそもマンモスハンター達は、季節移動するマンモスを追いかけ長距離を移動しています。

夏は涼しいシベリアへ、
冬は暖かい北海道へ、

そうしたライフスタイルが、この地域の文化圏を拡げていったのでしょう。

(。ì _ í。)

16世紀から17世紀にかけて、

ロシア人はウラル山脈を超え数十年でオホーツク海に到達しました。

ロシア人は屈強な遊牧民のいるユーラシアステップを避け、

ウラル語族の住むシベリア平原を毛皮を求めて東進しましたが、

シベリアは乾燥地帯で雪が少なく、夏は支流が張り巡らされた大河を舟で進み、冬は結氷する河を渡り地形によって行く手を遮られることもなく太平洋岸に到達しています。

6000年前にウラル語族が辿った道を反対側からやって来たのでした。

(˶˙º̬˙˶)*॰

馬車の利用は4~5000年前から、
馬への騎乗もその頃からの歴史があります。

トゥーラーン系遊牧民は、馬に乗ってユーラシアステップを疾走し、歴史上何度もヨーロッパへ侵入しています。

(´-ω-`)

然し、シベリアの凍土地帯には、
10000年以上前から
優れた交通手段がありました。

🐶

サモエドという犬種があります。

ウラル語族サモエード語派のネネツ族が

モフモフの毛並みを暖房代わりとして、

また、犬ゾリの牽引役として、

3000年以上彼らと共に暮らしてきたと言われています。

また、シベリアンハスキーは(ウラル語族ではなく)古シベリア語族に属するもののハプロNが6割近くを占めるチュクチ族が犬ゾリに用いてきた犬種です。

シベリアの犬ゾリ利用は古く、10000年以上前からと想定されています。

10頭立ての犬ゾリは500kgほどの荷物を積載可能で、
時速20kmで進むことが出来ます。

一日10時間走れば、3000kmを15日で走破することが可能です。

(˶˙º̬˙˶)*॰

まさに、
縄文時代の
シベリア超特急でした。

( ・ิϖ・ิ)っ

人がそこに住む、という事は必ず理由があります。

飯が食える‼

ことが出来なければ、そこで暮らすことは出来ません。

彼らは、他の地域には無い交通手段を持っていました。

広範囲に交易を重ねるうちに、ユーラシアの西の果てまで辿り着くことになります。

砂漠を行くシルクロードよりも、
比較的容易に往来可能な交通路が、

シベリア平原と

ユーラシアステップ

の二つもあり、

環日本海地域の東夷社会を発祥とする

トゥーラーン民族が、

圧倒的な機動力を駆使して、

世界の歴史を作っていくことになったのです。