Osho,
愛とはなんでしょう?
 

それは状況による。


人間の数と同じだけの愛がある。


愛はヒエラルキーだ、


最低の段から最高の段まで、
セックスから超意識までの。


いくつもいくつもの階層が、
数多くのレベルが愛にはある。


すべてはあなたしだいだ。


最低の段にいたら、
あなたは愛に対して最高の段にいる人とはまったく違った考えをもつだろう。


アドルフ・ヒットラーは愛についてある考えを抱くし、

ゴータマ仏陀は別の考えを抱く。


それらは正反対だろう、

なぜなら、彼らは両極端だから。
 

いちばん下では、
愛はある種の力関係、権力的な政治だ。


愛が支配という考えに汚染されているとき、それはかならず政治的なものになる。


あなたがそれを政治と呼ぶかどうかは問題ではない、

それは政治的なものなのだ。


そして何百万の人たちは、
この政治以外、


愛についてなにも知らない

——それは夫と妻、ボーイフレンドとガールフレンドのあいだに成立する政治だ。


それは政治であって、
すべてのことが政治的だ。


あなたは相手を支配しようとし、あなたは支配を楽しむ。
 

そして愛は砂糖をまぶした政治にほかならない
——糖衣にくるまれた苦い錠剤だ。


あなたは愛について語るが、
深いところには相手を搾取しようとする欲望がある。


私はあなたがそれを意図的か意識的にやっていると言っているのではない

——あなたはまだそんなに意識的ではない。

あなたはそれを意図的にできない。それは無意識のメカニズムなのだ。
 

だから多くの所有欲と多くの嫉妬が、あなたの愛の一部、本質的な一部になってしまう。

愛が歓びよりも多くの惨めさをつくりだすのはそのためだ。

その99パーセントは苦い。


あなたは表面にたった1パーセントの砂糖をかけているにすぎない。


そして遅かれ早かれ砂糖は溶けてしまう。
 

Osho


アドルフ・ヒットラーも
都合のよい「宇宙存在」
が何人、頭の中にいたのだろうか…



お金、集客、人気集めに
取り憑かれたスピリチュアルは
果てしなくエスカレートしてゆく


ロマンス詐欺を続ける人たち…
平気で嘘をつく親たち…


人を利用し、
商業ベースに基づく打算的な愛
自分も人との関係も壊す。



「統合」とは何?
キリストセルフとは何のか?


…… これからの世の中を担う子供は
どのような大人の後ろ姿を見、


言葉の背後にあるどのような
無意識の思考を吸収して
育つのだろうか…








歓喜が私たちの本性だ。


歓びを感じないでいるなんてばかげている。歓びを感じることは自然なこと、当然のことだ。


歓びを感じるのに努力はいらないが、惨めになるのには大変な努力がいる。



だからあなたはそんなに疲れて見える。


というのも、惨めでいることは本当にきつい仕事だからだ。


それを維持することはとても難しい。


なぜなら、あなたは自然に反することをやっているからだ。


あなたは流れに逆らっている。


それが惨めさの正体だ。


では至福とはなにか? 


それは川とともに流れることだ。


完全に一体となって、あなたと川の区別はなくなってしまう。



あなたは川だ。


難しいわけがない。


川とともに流れるなら泳がなくてもいい。


川に浮かんでいるだけで、川があなたを海へと連れていってくれる。


川はすでに海へと向かっている。


生は川だ。


それに逆らわなければ、あなたが惨めになることはない。



Osho



マインドで頭がいっぱいになる。


嫉妬や羨望が行き過ぎる。


握りしめたものを手放すまいと必死になる。


すると…

手当たり次第に周りに粘り憑くようになる。



だから…


邪(よこしま)な思いで神社や仏閣に行かず

指導者の下でOsho瞑想をすること。



↓ こちらの記事もどうぞ。




↓ 誓約書や契約書が要る「古い愛のかたち」から意識を変容する。



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新しい意識は、
結婚のような制度とはなんのかかわりもない。


新しい人間は、
制度としての結婚には自然な不信を抱くだろう。

新しい人間にとって
男女の関係は、互いに高め合い、


成長し合い、
流れる関係であって初めて深い価値を持つようになる。


儀式としての結婚や、
およそ永遠ではないことを証明するような、永遠の誓いなど少しも気にかけない。


瞬間を愛し、それを完全に生き切る。

 
結婚に未来はない。


愛には未来がある。


過去には、
愛は現実ではなく、結婚が現実だった。


未来では愛が現実になり、結婚はますます現実味を失う。


過去には、人びとは結婚し、そのために少しずつ好きになり、愛するようになっていった。


未来では、
人びとは互いに好きになり、
愛し合い、そうなって初めていっしょに暮らすようになる。


過去では、
まずいっしょに暮らすことが先だった。


当然、いっしょに暮らすと、
好きという気持ちが生じ、依存が生まれる。

それは必要現象だったのだ。


夫は妻を必要とし、
妻は夫を必要とし、

そして子どもたちがいっしょに暮らす親を必要とした。


それは、多かれ少なかれ、
経済現象だった。

とにかく、愛から出たものではなかった。


未来は、純粋に愛に基づき、
愛がある間だけ存続するという、
違った種類の関係を経験することになる。

そして、それが永遠につづくことを強く求めることはなくなる。


生において、
永遠のものはなにひとつないからだ。


永遠なのは造花だけだ。


本物のバラは朝に生まれ、
夕方にはなくなっている。

が、それが彼らの美しさだ。


生まれるときも美しく、
その花びらがしおれていくときも美しい。

その生は美しく、
その誕生は美しく、その死は美しい。

なぜなら、生気があるからだ。


造花はけっして生まれず、けっして生きず、けっして死なない。


結婚は過去における造花だった。

新しい意識には結婚に敬意を払うことなどできない。

新しい種類の親しさ
——友情を創造しなければならなくなる。


愛、そしてあらゆるものごと、その永遠ではない現象と共に生きることを学ばなければならなくなる。


Osho


「結婚」は愛の確証とはならない


ー 愛に「刺激」は必要なし




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自らの中心を見つけることなしに満足感を得ることは、不可能だ。


あなたは探求し続けることができるし、

生の中で多くのことを見つけるだろう。


だが、なにひとつ満足させてはくれない。



欲望が成就される時、

一瞬の幻想があるだけだ。



一瞬あなたは気分がいい、

だがほんの一瞬だけだ。


ひとつの欲望が消える時、

その場所には10個の欲望が生まれる。



再び騒動のすべてが始まり、

再び刺激的な体験のすべてが始まる。


そして、それは終わりのないプロセスだ。


自らの中心を見つけて初めて、

そのプロセスは止まり、

その車輪はもはや動かなくなる。


自らの中心に帰ってくることで、

すべての欲求は消える

――あなたは完全に満足する、永遠に。


それは一時的な満足ではない。


それは心の充足感、

絶対的な心の充足感だ。


あなた自身の内側に帰ってくることが満足感を与える、間違いなく満足感を与えてくれる。


生におけるその他のすべては約束だ。

だが、ただ偽りの約束だ。


商品は決して配達されない。

お金が、もしそれを持てばあなたは救われるだろうと、約束する。


しかし、人びとがさらに金持ちになり続けても、幸福は決してやって来ない。


それは地平線のようにいつもそこにある

――とても捕まえにくい。


関係性が、今すべてがうまくいっているようだし、


永遠に幸せでいられるだろう、

というアイデアをあなたに与える。


しかしそれは決して起こらない。


自らの中心を見つけて初めて、満足感は起こる。



Osho


アイデアはあくまでアイデア


理想はあくまで理想


だから…


10個の欲望を満たすための

不安、恐怖、怒りからの

あれこれ…


幼稚な浮ついたアイデアに

引っかからないようにすること。



刺激がなければ満足しない…

何がそうさせるのだろうか。




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↓ プライベートエネルギーワークはこちらをご覧ください。






人びとが私のところにやって来て、
「どうやって瞑想をするのですか?」

と尋ねると、


私は彼らに言う、


「どうやって瞑想するかなんて尋ねなさんな、どうやってなにもしないでいるかと尋ねなさい。


瞑想は自然に起こる。


ただどうやってなにもしないでいるかと尋ねればいい。


瞑想のこつはそれしかない
——どうやってなにもしないでいるか。


そのときあなたにはすることがない。

瞑想が花開く」
 

あなたがなにもしていないとき、

エネルギーは中心へと動いていく、
それは中心へと収まっていく。


あなたがなにかをしているとき、

エネルギーは外へと出て行く。


なにかをすることは外へ出て行くことだ。


なにもしないことはなかへ入っていくことだ。


忙しくすることは逃避だ。


あなたは聖書を読むこともできる、
それで時間をつぶすことができる。


宗教的な仕事と世俗の仕事に違いはない。


仕事は仕事だ、

それは自分の存在の外側にしがみつくことを助ける。


それは外側にいるための口実だ。
 


人間は無知で盲目だ、

そして彼は無知で盲目のままでいたい、

というのも、


内側へ入ることは混乱に巻き込まれることのように思えるからだ。


それはそのとおりだ。


内側に、あなたは混乱をつくりだした。


あなたはそれに直面し、それを通り抜けなければならない。


勇気が必要だ

——自分自身でいる勇気


内側へ入っていく勇気


私はそれ以上の勇気に出会ったことがない

—— 瞑想的でいる勇気


✴︎✴︎✴︎✴︎


することが入ったとたんに、
あなたは緊張する。


たちまち不安が入り込む。


どうしたらいい? 
なにをしたらいい? 
どうやったらうまくいく? 
どうやったら失敗しない? 


あなたはすでに未来のなかに入り込んでいる。



Osho


スピリチュアル活動もしかり。

外側へとエネルギーが向かう

「使命」という言葉は甘美だけれど、
自分自身から離れたいのかもしれない。



何をやればウケる?

どうすれば徳をする?

どうすればサバイバルに勝てる?



何かしながらの瞑想

人に見せるための瞑想…



ー 意識は「今ここ」にあらず



↓こちらの記事もどうぞ
人々が無意識でいてくれた方良い人たちもいることを知る。

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新しい意識は、
結婚のような制度とはなんのかかわりもない。

新しい人間は、
制度としての結婚には自然な不信を抱くだろう。

新しい人間にとって
男女の関係は、互いに高め合い、


成長し合い、
流れる関係であって初めて深い価値を持つようになる。


儀式としての結婚や、
およそ永遠ではないことを証明するような、永遠の誓いなど少しも気にかけない。


瞬間を愛し、それを完全に生き切る。

 
結婚に未来はない。


愛には未来がある。


過去には、
愛は現実ではなく、結婚が現実だった。


未来では愛が現実になり、結婚はますます現実味を失う。


過去には、人びとは結婚し、そのために少しずつ好きになり、愛するようになっていった。


未来では、
人びとは互いに好きになり、
愛し合い、そうなって初めていっしょに暮らすようになる。


過去では、
まずいっしょに暮らすことが先だった。


当然、いっしょに暮らすと、
好きという気持ちが生じ、依存が生まれる。

それは必要現象だったのだ。


夫は妻を必要とし、
妻は夫を必要とし、

そして子どもたちがいっしょに暮らす親を必要とした。


それは、多かれ少なかれ、
経済現象だった。

とにかく、愛から出たものではなかった。


未来は、純粋に愛に基づき、
愛がある間だけ存続するという、
違った種類の関係を経験することになる。

そして、それが永遠につづくことを強く求めることはなくなる。


生において、
永遠のものはなにひとつないからだ。


永遠なのは造花だけだ。


本物のバラは朝に生まれ、
夕方にはなくなっている。

が、それが彼らの美しさだ。


生まれるときも美しく、
その花びらがしおれていくときも美しい。

その生は美しく、
その誕生は美しく、その死は美しい。

なぜなら、生気があるからだ。


造花はけっして生まれず、けっして生きず、けっして死なない。


結婚は過去における造花だった。

新しい意識には結婚に敬意を払うことなどできない。

新しい種類の親しさ
——友情を創造しなければならなくなる。


愛、そしてあらゆるものごと、その永遠ではない現象と共に生きることを学ばなければならなくなる。


Osho



一人でなってみる。

ひとりで暮らしてみる。


そうすると…
どれほど周りに依存していたかを知る。



だから…
ひとりになった事がない人の自立話は
ハートに届かない。



独りでいてもいいし、
誰かと一緒にいてもいい。

しがみつかない関係。




ー 依存からは愛は生まれない。




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それがマインドに入ることをあなたが許可するものだけを見るがいい。


人びとは無意識だ。


ありとあらゆるものを読み続け、

どんなにばかげたテレビ番組も見続け、

どんなにくだらないうわさ話も伝え続け、

互いの頭にごみを流し続ける。



不必要にごみを背負うような状況を避けなさい。


あなたはすでに背負い過ぎている。


あなたは荷を下ろす必要がある! 


本質的なことだけを話し、


耳を傾けるがいい。


すると徐々に、

まるでたった今入浴したばかりのような清浄感、無垢な感覚が、自分の内側に起こり始めるのがわかる。



それが、瞑想が起こるために必要な土壌となる。


もしあなたが、マインドの中のいくつかのすき間を何にも占められないままにしたら、


そのとらわれていない意識の瞬間が、


瞑想の最初の一瞥、


彼方なるものの最初の貫き、


ノーマインドの最初の瞬間になる。



Osho


人々をそっとしておくといい。


本当に人々を導きたいなら。


むやみやたらに刺激を与え続けるより

そう在るほうが

より内なる自己と繋がり、

より覚醒に近づく。



放っておかれると困る。

忘れ去られると困る。

と、あれやこれや騒々しく

行動を続けるのは、


それはなぜなのか。


それは果たして利他なのだろうか…



「 いまここ 」


「 無心 (ノーマインド) 」


と言葉で言うのは簡単だけれど、


頭の中は2025年のアレやこれ…

2024年はどうだのこうだの…


占いやら占星術やら

マインドがたいそう忙しい。


「今、ここ」にいる人は

そのような簡単な売りの話はしない。


ハートはとても静かだ。













正しい食生活と少しの肉体労働が必要不可欠だ。


またそれは他人のためになすべきことではない。


貧しい人に奉仕して貧しい人の助けになり、村に行って畑を耕して農民の役に立ち、なにかの労働をして社会に大いに貢献する、といったことではない。


そういったことはすべて欺瞞的だ。


それはあなた自身のためであり、ほかのだれのためでもない。


それはだれかの役に立つことではまったくない。


だれかがそれで助かるかもしれないが、基本的に、それはあなた自身のためなのだ


チャーチルが引退したとき、私の友人のひとりが彼の自宅へ、彼に会いに行った。

✴︎チャーチル (ウインストン・チャーチル)元イギリスの首相


老齢だったが、チャーチルは畑を耕し、いくつか植物を植えていた。


私の友人は彼に政治のことをいくつか尋ねた。


チャーチルは言った、

「忘れなさい! もう終わったことだ。


私になにかを尋ねたいなら、ふたつのことだけはお答えしよう。


聖書については尋ねてもいい。


私は家で聖書を読んでいるからね。


それから畑仕事についても尋ねていい。


ここで畑仕事をやっているからね。


今はもう私は政治にはまったく関心がない。


競争は終わった。今では労働と祈りの日々なんだ」



帰ってきた友人は私に言った、「チャーチルという人がわからなくなったよ。


なにか答えをくれると思ったんだが。


ところが彼ときたら、労働と祈りの日々だなんて言うんだ」



私は彼に言った、

「労働と祈りは同じ言葉のくり返しだ。

労働と仕事は同じこと、同義語だよ。


そして労働が祈りになり、祈りが労働になった日、正しい労働が実現するんだ」


いくらかの労働は必要不可欠のものだが、私たちはそれにまったく注意を払ってこなかった。


インドの伝統的なサニヤシンですら労働にまったく注意を向けなかった。

✴︎Oshoの意図するサニヤシンとはまた別の意


彼らは労働を断ってしまった。彼らが労働することはありえない。


彼らは逆方向へ行ってしまった。


金持ちが労働しないのは、彼らは金を持っていて、それをまかなうことができるからだ。


サニヤシンが労働しないのは、彼らが世間との関係を断っているからだ。


彼らはなにかをつくらなくてもいいし、金を稼がなくてもいいのに、労働してなんになる?


結果的に、このふたつの社会的に尊敬される階級が労働から遠ざかった。


このため労働を一手に引き受けた人びとは、だんだんと蔑まれるようになった。


探求者にとって、労働はとても大事なもの、役に立つものだ……


なぜなら、それでなにかを生産するのではないが、なにかの労働に深くかかわるほど、いっそうあなたの意識は中心が据わるようになるからだ。


それは頭脳から下に降りてくる。


労働は生産的なものでなくてもいい。


それは非生産的なものでもいいし、単純なエクササイズのようなものでもいい。


しかし、肉体の機敏さ、心の十分な注意力、存在の完全な目覚めのために、いくらかの労働がなくてはならない。



Osho


だから…

人々への貢献に至るひとはごく僅か。


多くのスピリチュアルな活動は

人への貢献ではなく、全て自分のため。


ー 経済上かなにかの


空想だらけ

デタラメなことだらけ

浮ついた言葉ばかりが派手になる


エスカレートしてゆくスピリチュアル。


だから

「怪しい」ものと言われる。


ー 頭は天に足は地に


「祈り」は日常にあるもの。


宇宙のあれこれを

わざわざ複雑にしなくてもよいし、


それらは肉体を離れてからでいい…



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あなたは独りでやって来て、独りで死ぬ。


誕生と死の間で、

もちろんあなたは、誰か

――妻、父、母、夫、友人

――がいっしょにいる、と自分をだますことができる。


だが、これは作りごとにすぎない。


あなたは独りでやってきて、独りで去って行く。


誕生と死の間で、あなたは独りだ。


しかし私は、あなたは男や女を愛せない、とは言っていない。


実際には、自立して自由な、自分で責任を取るふたりの人が出会うと、そこには途方もない美がある。


誰も相手の負担にはならない。


誰も相手になにかを押しつけたりしていない。


なにもかもを押しつける、という考えそのものを、あなたはやめている。


あなたがたはいっしょにいることができる。


だが、あなたがたの単独性(アロンネス)は触れられずに純粋なまま、水晶のようにはっきりと、汚されずに残る。


あなたがたはけっして相手の領域を侵害しない。


あなたがたはまさに離れているために、互いに楽しむことができるのだ。


離れていればいるほど


――自分は独りだ、彼女は独りだ、ということがはっきりわかっていればいるほど


――ふたつの単独性の、ふたつの純粋性の、ふたりの個人の大いなる出会いの可能性が大きくなる。


運命、天の定め、宿命、神といったことばは忘れなさい。


そして、占星術師、読心術師、手相見、未来を予見する者たちに自分がだまされるのを許してはならない。


あなたが未来を作らなければ、未来はない! 


そして、明日がどうなろうとも、それはすべてあなたが作ったものになる。


そして、それは今日、今、なされていなければならない――。


というのも、今日から、今日の子宮から、明日は生まれるからだ。


自分で責任を全面的に引き受けるがいい――。


それがあなたへの私のメッセージだ。


私があなたの心のなかの神を絶えず破壊しているのは、そのためだ。


私は神に異議があるわけではない。


どうして異議がありうるかね?


神は存在しない!


存在しないなにかと闘って、私が時間を無駄にしているとでも思うかね? 


いや、私はあなたの条件付けと闘っている。


それこそ存在している。


神は存在しない、が、神という概念があなたのなかにある。


それを落としてきれいになり、すべての責任を取りなさい、とあなたに言うことで、私はその概念と闘っている。


これは私の体験だが、自分の責任をすべて引き受けたその日、私は自由のいくつかの扉が私に向かって開かれることに気づいた。


それらは連れ立っている。


誰もが自由を欲しがる。


誰も責任を欲しがらない。


あなたはけっして自由を得ないだろう。


奴隷のままだ。


いいかね、奴隷のままでいることもまた、あなたの責任だ。


あなたがそれを選んだのだ。強制されてはいない。



Osho


「独りで死ぬ」こと

それは誰とて避けられない。


長期にわたり負担を感じた者は

自分のスペースを失い、病を患いかねない。


そして、死を目前に

子供のように、わーわー叫びちらし、

周りにゴミを撒き散らかす。


静かに逝けるよう、

自分の人生を生きること。


最後には受け入れるしかないのだから…




↓ こちらの前編もどうぞ



↓ プライベートエネルギーワークはこちらをご覧ください。





Osho,

あなたは、私たち自身の責任は私たちにあり、神はいない、とおっしゃっています。

天の定めや運命は、人生でどういう役割を果たしているのですか? 

それとも、天の定めや運命は、自分の外側にあるなにかに望みをかけて自分の責任を回避するための、言いわけにすぎないのですか?


それらはまさに言いわけ以上のなにものでもない。


天の定めはない、運命はない。


あなたは、ありもしないなにかに自分の責任を押しつけようとしているだけだ。


そして、それはないために、あなたに逆らうことなどできない。


「自分の責任を私に押しつけないでほしい!」とは言えない神は、沈黙している。


あなたは神になんでも押しつけることができる

――抵抗はない。


逆らう者がいないからだ。

天の定めもまた同じだ。


あなたは失恋する、なにかほかのことで失敗する。


「私は失敗したのだ」と心が痛む。


傷ついた心に塗る軟膏がなにか必要になる。


運命は素敵な軟膏だ。


しかも、ただで手に入る。

金を払わなくてもいい。


あなたは、「私になにができる? すべて天の定めだ」と言う。


成功あるいは失敗、

裕福あるいは貧乏、

病気あるいは健康、

生あるいは死


――すべては『天の定め』と呼ばれる未知の力の手の内にある。


「私はベストを尽くしている。それでも、失敗してばかりだ。私は、教えられた道徳律すべてに従っているのに、それでも貧しい。それに見たところ、道徳のかけらもない者たちが裕福になり、高い地位につき、有名になっている。これはすべて天の定めだ」


それは、あなたに慰めを与える。


自分はいまだゴールに着いていないという慰めを与える。


さらに、たとえほかの人は着いていても、それはたいしたことではない、まさに天の定めだ、という慰めも与える。


だから一方で、あなたは劣等感に苛まれずにすんでいる。


もう一方では、成功している人がうまくいっているのは天の定めがそうなっているからにすぎないと考えて、あなたの嫉妬心が喜んでいる


――「それはあの人とはなんの関係もない。あの人が私より優れているわけではない」


神、天の定め、運命

――それらはみな同じ範疇に入る。


ありもしないなにかに自分の責任を押しつけることだ。


もし神が存在していたら、黙ってはいないだろう。


私は、神は存在しない、とたえず言っている。


もし存在していたら、いま頃……神はラジニーシプーラムに現われ、発表していなければならない。

(*ラジニーシプーラム=現在のOSHOインターナショナルメディテーションリゾート)


「私はここにいる! 私は存在しないなどと、なぜおまえは言いつづけているのか?」


だが、神はけっしてやって来ない。

神の存在を否定する人びとはつねにいた。

しかし、神は自分を証明しようとしたことなど一度もない。


神、天の定め、運命


――これらは戯言(たわごと)、チンプンカンプンな言葉以上のなにものでもない。


それらを完全に落とすがいい。


それを落とすことで、あなたは自分の行ないのすべての責任を取る個人になるからだ。

責任を自分で取らないかぎり、あなたはけっして強くならない。


けっして自立しない。


けっして自由を味わわない。


あなたは自由を手にすることができる。


が、その代価は、あますところなく責任を受け入れることだ。



Osho


何で、何に成功するかはさておき、


古い時代の宗教観に基づく

古い考えにしがみつかないこと。


宇宙エネルギーとて

あれしろ、これしろとは言わない。




  ↓こちらの個人セッションでは、

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