スマホ版はこちら
カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 2
幸せは 私「が」 愛する人 苦しみ は 私「を」 愛する人
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
苦しみというのは、法タンマを教えてくれる とても良き先生です。
苦しみは、 まるで 私「を」 まっすぐに愛してくれる人のようなものです。
【その「愛してくれる苦」 から 逃げることなく、素直に受け止めることができるか?
「苦悩ではない苦」 に対する態度が、 「愛」 とは なにかを知る手掛かりを与えてくれる。
「苦を(も)ありのままに受容する」 ことが 「本当の愛」 なのである】
幸せは、 まるで 私「が」 愛する人のようなものです。
私が 愛する人は、ときに 私を失望させたり、当てが外れたりします。
【 「私が」 という感覚が湧き上がっているときは、
自我(エゴ:心の要素:わたしの一部分)が 主導権を握っているときである。
この状態で「幸せ(だけ)を愛している」 ことを「貪」 と呼ぶ。
この愛には「期待:結果」 が付随しているので、 当てが外れてしまう(期待通りでない)と、
「貪とん」は すぐに「瞋じん」に転換して 苦しみ(苦悩)の感情に囚われる】
何度も何度も 見ていきましょう。なぜなら、【問題は】この自分自身にあるのですから。
【わたしの中にある 「苦」 すなわち
「問題」 である リアルな 負の側面(自分の嫌な・ダメなところ)を見ていく。
そして、 「負:ダメ」 という評価を下している 自分自身の「考え方(想)」 を見ていく。
さらに、その「考え方」に基づいて
貪と瞋の間を・幸せと苦しみの間を 振り子のように行き交う心 を見ていく】
苦しみは【苦悩でない 「苦」 は】私に 教えてくれました。
強くなること、 辛抱強くなること、 自制すること。 何をするにも「待つこと」を教えてくれました。
以前 私は 何をするのにも あまり 待つことができませんでした。
苦しみは 自分を圧迫し、「待たなければならない」 ということを教えてくれました。
【 「待つ」 というのは「忍耐」 のこと。 「MBSRの 七つの心構え」 のなかの一つ(Patience)
カンポンさんは 自らの経験として、 待つこと(忍耐)の重要性を知った。
待つことによって、 かけがえのない 大きなものを得た。
「待つ」 ときの 嫌な(退屈な)感覚は、次の瞬間に意識が囚われているからであり、
次の瞬間でなく「いまここ」 を生きているならば、「待つ」 ときの 嫌な感覚はないだろう。
だから 正しく瞑想できるようになると、
待つことが 「苦」でなくなり 「退屈」ということがなくなり、 退屈という概念自体が不要になる。
待っていようが どんな状況であれ、 そのときに
「いまここを 生きている という実感」 を感じられるようになる】
圧迫されることによって、私が 私自身を手助けする大切さを学んだのです。
他の人からの手助けを待つよりも、 まず 自分で自分を助けるということ。
【「苦」 は 当たり前の現実である。
しかし「苦悩」 は、 自分自身が創りだした 自分の心のなかの出来事(現象)である。
その「苦悩」 に対しては、 自分で自分を助ける しか解決策はない。
誰も 代わってくれない。 誰も 代わって「わたしのいのち」 を生きてくれる わけではない】
私は、歩くことができません。 でも 私は、 こう感じています。
「この体験を本当に心の底から満足していて、 その体験によって 私はどこまでも遠くに行ける」と。
【 「体が 歩けない」という苦を 受け入れることができたので、
本当の 心の自由を手に入れて、「心は どこまでも遠くに行ける」ようになった】
いずれにしましても、私は この人生、いつも 孤独ではありませんでした。
良き環境に恵まれていました。
【苦しみ(苦悩)の16年の間も、同じように孤独ではなく 良き環境に恵まれていたが、
そのときは そのことに気づいていなかった。
心の自由を得て 初めて、 「そういえば そうだった・ずっと そうだった」 ことに
「なんだ そうだったのか・そこに ずっとあったのか」 と 気づいた。
苦しんでいるときは「ないこと・ないもの」 が気になっているが、 (満足できないでいるが)
苦しみが 消えたときに すでに 「あること・あるもの」 に気づき、
十分に満たされていたことに気づく:知足】
例えば、父や母 兄弟姉妹や親戚たちなどの 身近な人たち。
私が 事故にあった後も、 彼らは 私を責めることはありませんでした。
いつも 励ましを与えてくれました。
法の親戚たち(善き友たち)・先生たちは、 私に 善き環境を与えてくださり、
話して聞かせてくれ、 ご自身が実践して善き模範となり、 その身を見せてくださいました。
それらは 私を とても感動させてくれました。 私自身の 心の土台となるもの。
それは とても善きものばかりでした。 環境が良かったおかげです。
【 「在り難かった」ことを知れば、 感謝の気持ちが 自然と湧きあがるだろう】
多くの人が 私の人生を知ると、こうおっしゃいますね。
「カンポンさんのように 劇的に人生を新しく変えられたのは、カンポンさんだから でしょう?
他の人は できないでしょう」とね。
【環境が良かったのは、 カンポンさんだけか?
すべての人が、もうすでに「いまここ」に存在しているという事実は、
すべての人が、 環境が良かった・大丈夫だった・すべてOKであった、 ということではないか?
すべての人が、「ずーっと そうであった」のではないか?
カンポンさんの16年間のように、 ただ それに 気づいていないだけではないか?】
でも 私はこう思っています。
私が 新しく人生を変えられたのだから、 他の人も きっと新しく人生を歩み出せるに違いない、とね。
【カンポンさんは 特別な人間か? この世界に 特別な人間などいないのではないか?
カンポンさんが 特別な人間だとしたら、 他のすべての人も特別なのではないか?
そうやって 自分の「苦」を見つめる 勇気のなさの言い訳ばかりを考えていて、
「これからどうするのか」という態度に変えないかぎり、
いつまで経っても「苦悩」から自由にはなれないだろう】
とりわけ、共に修行する仲間として縁あった方々。 ルアンポー・カムキエン師。
師は とても慈悲にあふれた方です。 良きアドバイスをくださいました。
ルアンポー・ティエン師の編み出された
動きを伴っての気づきの瞑想の方法を 伝えてくださっています。
私は 師の弟子として、学ばせてもらっています。
師は法を伝えるのにも慈悲を持って伝えてくださり、修行の目的をはっきりと伝えてくださいます。
【修行の目的は 名色分離智の確立であり、
「リアルと 非リアル」を 混同しないこと、 非リアルに 自分を一体化させないことである。
「苦」はリアルであるが 「苦悩」は非リアルである。 「いまここ」はリアルで 「いつかどこか」は非リアル。
「いまここ」 にある 「苦」 を「いつかどこか」 の 「苦悩」 に変えているのは、
思考(想)と 欲求(行)の 非リアルな働きだ】
私自身に 修行に対する自信が生まれました。
特に、 このチャルーン・サティ(気づきの瞑想)の方法についてです。
試しに 修行をしてみたところ、この方法を通しての修行に「確かな信頼」 を置くようになりました。
そして 伝えて下さるカムキエン師に対しても、 私を間違った道に導くことはないと
深い信頼【依存や盲信:believe inでない サッダー:trust】をおいています。
【瞑想が大切らしい と分かっていても、
「正しい瞑想とはどんなものか?」 それを知ること・説明することは とても難しい。
自らの心を実験台として工夫しながら、 もちろん他者を参考としつつも 自分自身で見いだすしかない。
カンポンさんは 良き師・良き方法との出会いに恵まれていた、とは言えるだろう。
でも、それが特別なことか? 誰でも 自分自身で、正しい瞑想を見いだすことは可能だ】