負の 「わたし」 : 影(シャドー)
思考により「悪しきもの」と判定された 自分自身の「負の側面」は、
否定され 抑圧され 無意識の奧底に閉じこめられてしまう。
そうやって幽閉された 「負のわたし」 は、
受け入れられないまま 大きなエネルギーに成長する。
そのエネルギーは「影」 となって「わたし」の中に 脈々と生き続け、
ときには 芸術など創造の源泉 となったり、世俗的な成功の原動力 ともなる。
だが 多くの場合
「表のわたし」 を奥底から脅かし続け、 苦悩という形で復讐することになる。
「影」が わたしの洞穴に隠れている限り、
「わたし」 が 「苦悩」 に別れを告げて 平穏な気持ちを得て 落ち着くことはできない。
だから、その影が 個人的なものであれ より普遍的で 集合的なものであれ、
自分の意識の光の下に照らしだし、「本当のわたし」の中に 統合されなくてはならない。
制限されていない 分離されていない 自分(すべて:全体)にならなくてはならない。
限定され 小さく収縮・緊張した「わたし」が緩み、
より大きなもの へと広がり、全体そのものに到達する。
「部分としてのわたし」 ではなく、
善と悪の両面(もしくは多面性)を持った「全体としてのわたし」になるのである。
そうやって やっと、
「すべてがわたし」 であり「わたししかいない」【梵我一如】ことを思いだすことができる。
「善い人のわたし・悟ったわたし」に留まっていてはいけない。
承認欲求のために「悟り」 を利用してはならない。
「ダメな・嫌な・酷い わたし」 を受け入れて 生きなくてはならない。
状況によって「善い人」 のこともあるが、 また「悪い人」 にもなるのが 当たり前だ。
いつも「善い人」 だ、 なんてあり得ない。「無常」 というのは、 そういうことなんだ。
ダメな自分を受け入れること なしに、 ダメな他者を受け入れること はできない。
自分であれ 他者であれ、 そのダメな部分の 受容なくして 「愛」はあり得ない。
不快な感覚(苦)から逃げようとすれば かえって 苦悩を形成してしまうように、
「負のわたし」 を抑圧・否定することが 元の苦より辛い苦悩を生み出してしまう。
これが、苦悩の普遍的な発現様式である。
だから、
ダメなわたし【苦】から 逃げないこと。 当たり前のことだと 受け入れること。
そうすれば統合(という目覚め)によって、
自分が 自分自身だと信じ込んでいた 自己イメージが解体され、 消滅してしまう。
「正しさ・善さ」は限定されていて 仮のものであったと知り、
「正義・善きもの」 の呪縛(正しさという罠)から解放される。
すると いつの間にか、 他者と世界のイメージも 変わっていることに気づくだろう。
自分が変わったことによって、 自分の投影である 「世界」 も変わってしまったのだ。
葛藤とは、分離・分裂したわたしの中で繰り広げられる「一人芝居」 である。
統合されて わたしが一つになれば 葛藤は消失し、それから解放される。
闘いは終わり、敵もいなくなる。 「実は 最初から 敵はいなかった」 ことに気づく。
そして、葛藤に費やされなくなった分のエネルギーが満ちてくる。
「変容」 というのは、 このようなことである。
「わたし」 という自己イメージが解体され、そして
「わたし」 が 何ものでもないこと【無我】を知れば、変容が起こるのである。
「善」 と同じように「悪」 も、
思考(想)が創りだした虚構に過ぎないこと【色即是空】に気づいたなら、
「悪:影」 を受け入れることは 容易になる。
(最終改訂:2022年12月13日)