「わたし」の統合
「わたし」という自己イメージは、
やって来ては 去ってゆく 不確かな構成要素の集積に過ぎなかったものを
自分勝手に カチカチに固めたものであり、それは 本質ではなかった【無我】
それに 気づけば、
本当の自分は 空っぽ【空】であり、「〜という」 要素ではなかったことが分かる。
本質でないものを取り除いたあとには 空っぽ(広く開かれた空間)が残るだけだが、
その空っぽは 実は無限の可能性を秘めている。
それが「全体の姿」 であり、「存在の基盤(座)」 であり、
それこそが「本質」 であった【真我】
「空」であることは なにか虛しい感じ(ときには恐怖)を呼び起こし、
人は それに耐えられないので、
自分が「空」であること、すなわち 何ものでもないことを認めたくない。
「わたし」 と思っていたものは、常に固定した 「これ」 と言える実体ではなく、
絶えず変化し 更新し続ける ある状態であり、
世界との関係性(因縁)の中から 立ち現れた、すなわち 時空の縁によって起きた:縁起した
一過性の 仮の概念(思い込み)に過ぎなかった。
「無我」 という言葉は このことを表現している。
変化の中の一時的なものに過ぎないのに、それを「変わらないわたし」と思い込み、
その 「わたしの自己イメージ」 に囚われて 多くの人たちが 苦しんでいる。
「五蘊」 とは 「縁起するわたし」 を構成する 五つの要素のことであるが、
その中の「想」が 自己イメージであり、
「カチカチに固められたもの」 とは その 「想」 のことであった。
「想」 は 「自分に対する評価や見方」 であり、 それもまた 本来変化するものなのに、
その変化を押しとどめて(無常に逆らい)
自分(識)が望む「正しいわたし」 という 架空の 「概念・観念」 に拘こだわることが、
苦悩を生みだしている。
そして、「正しい(正の)わたし」という思い込みが「負のわたし」を切り離して、
それを 意識の影の中に押し込んでしまった。
本来のわたし(本質)は 様々に異なる要素の集合ではなく、
たった一つの 統合されたエネルギー体である。
だが それが切り離されたことで、エネルギーの流れが 淀んでしまった。
そうやって生まれた「負のわたし:影」 が 本来のエネルギーの流れを 阻害している。
「わたし」だと思われていた誤った観念(思い込みである自己イメージ)に気づいて、
その 「負のわたし(シャドー)」 が 意識の下に照らしだされて 統合(受容)されたとき、
淀んでいた「負のエネルギー」は 感情エネルギーとして放出され(浄化され)
わたしは 再び 一つのエネルギー体になる。
淀みがなくなった川は、再び イキイキ・ゆったりと流れはじめる。
「浄化」が起こるとき 感情を支えていた思考が見直され、 それ(思い込み)が手放される。
その思考とは「わたし」の過去の経験の集積であり、つまり 過去が見直されることになる。
そうやって 過去の経験の意味づけが 変更されていく。
「想(思い込み)」 が 緩んで、 溶けていく。
鎧は不必要だった と知り、不要になった鎧は薄くなり はがれ落ちる。
体の緊張も緩み、心からリラックスできるようになる。
しかし「影」を意識下に置こうとすると、
劣等感が刺激されて プライドが傷つき 強い屈辱を感じることになるため、
この感情エネルギーは 怒り・非難・不安・恐怖・うつなど ありとあらゆる形をとって、
統合に対して 激しく抵抗する。
そして ときには 巧妙な罠をしかけ、その姿を暴かれないように 自分自身をも騙そうとする。
その抵抗と策略にジッと耐えて、それを観続けることができれば、
その感情を正当化し支えている 思考・信念・観念・思い込みが 諦あきらかになり、
分離(の感覚)は解消される。
そのとき やっと、「負のエネルギー」 は力を失い、「わたし」 は 平穏の地平に至る。
自分が 何ものでもないことを知り、安堵することができるようになる。
「他者とは違う・特別な わたしが」 という感覚が、
歳を取ることなく 変わらず続いていた 存在そのものに根ざしている
「わたしは 在る(I AM)」 という感覚に変わる。
一度 それを体感したなら、
いつでも どこでも 一瞬で「いまここ」 の自分自身に戻れるようになる。
それが、 マインドフルネスだ。
そのマインドフルネスが すべてを解決する。
「自由:解放:解脱」 という言葉は、このことを表現したものだ。
このエネルギーは 本来 全体の中にある たった一つのものであり、
それが 様々な形となって現れていただけだ。
探求のエネルギーの源みなもとも 同じものであった。
だから 自己否定が 自己受容に変わったとき、「真理の探求」の旅は 終わりを告げる。
そして、「真理を生きる」新しい旅が 始まる。
(最終改訂:2022年12月16日)