思考による「わたし」の統合
[純粋な感情]
感情が いつも苦悩と関連しているわけではない。
思考や 欲求・願望 (サンカーラ)に 支えられていない つまり それらと一体化していない、
生命の驚異に対する表現としての感情 真実の穏やかさ・切なさ・荒々しさの表出としての感情もある。
それは「いまここ」の現実に根ざした リアルに対応する感情であり、
価値判断する思考とは 切り離されているものだ。
[非純粋な感情]
一方 苦悩を生みだす感情は、
過去の意味づけの積み重ねである 価値観・考え方としての 非リアルな思考と一体化していて、
「想・行・感情コンプレックス」 という形をとっている。
「貪とんや瞋じん」と呼ばれるものは、この 非純粋な感情のことである。
この 感情と一体になった思考は 「非純粋な思考」 であるが、 それとは違う 「純粋な思考」 も存在する。
[純粋な思考]
価値判斷を伴わない、
したがって それによるサンカーラが生じないので 感情を引き出すことのない、
「わたし」 という感覚を介在することのない、
理に基づいた 感情とは切り離された適切な思考というものも存在する。
それは、八正道のうちの「正思惟」と呼ばれるものである。
このとき 感情は(そして行も)付随していないので「わたし」 という感覚は存在せず、
そこには「苦しみ」 も存在しない。
この思考は、単に この世界(此岸)を 生きていくために有用であるばかりでなく、
真理(彼岸)に到達するための重要な手段ともなり得る。
日常生活で検証された 正思惟の積み重ねは、
真理の目前まで わたしたちを連れて行ってくれる。
しかし これ(正思惟)だけで到達することはできず、真理に至るためには 逆に、
その直前で これ(思考)を手放さなくてはならない。
考え続けていては いけない。
此岸から彼岸には、泳いで つまり自分の努力(努力とは自我の特性)で渡ることはできない。
考えるのを 止めなければならない。
彼岸に到達するためには、「ジャンプ」する必要がある。
やるだけのことをやって 考えるだけ考え抜いたなら、
あとは思い切って勇気を出し、 真っ暗な川の流れのただ中に飛び込まなくてはならない。
そして流されるままに、 どこまでもどこまでも深く 川底まで沈んでいかなくてはならない。
すべての努力・意志の力(サンカーラ)を放棄して諦あきらめ、
努力とはまったく反対のものに 任せなくてはならない。
それは、完全に負けて 武装解除する(サレンダー)こと。 自我の鎧を 脱ぎ捨てること。
自分:識の力では もうどうにもできないと、降参すること【他力:祈り】
「他力」 の 「他」 とは 「識の他」 という意味で、 それは 「識」 でない 「座」 のことである。
「祈り」 とは、 識である自我の力を手放して 自我ではない 「座」 に祈る、ということ。
しかし 鎧なら脱ぐのは痛くないが、
完全に負けることの実際は 自分の皮膚を引き剥がすような とても辛い作業だ。
だが ここを通過する以外に 彼岸に至る道はない。
そのとき、どんな思考も どんな努力・意志の力も 邪魔者以外のなにものでもない。
そうすると 不思議なことが起こる。沈み込んでいって 川底にたどり着いたとき、
思考では けっして理解できなかったことが、「般若という智慧」 で理解できるようになる。
それは、 無我という自分の本質に目覚めることであり、 その 「智慧」 は思考を超えたものである。
再び 顔を出した川面の目の前は 対岸の「彼岸」であり、
その彼岸に立った「わたし」は、「何ものでもないもの」 であった。
いずれにせよ 思考は 便利な道具ではあるが、やはり 道具に過ぎない。
道具に過ぎないものを まるで 神であるかのごとく祭り上げ、
自分の全存在を それに捧げようとするのは、もう止めよう。
思考(知性・理性)より大切なものがある。
そして その思考(想:マインド)こそが、真理を阻むものであったことに 気づこう。
われわれの本性(仏性:座)は、
マインド(要素)に頼ることなしに すでに すべてを知っていたのだ。
なのに それを忘れていたのは、思考が 仏性を覆い隠していたからだ。
「要素:マインド」 が 「わたし」 なのではなく、
それを観ている「座」 の方が 本当の 「わたし」 なのだ。
「わたし」の統合を阻んでいたものも、また「思考」であった。
(最終改訂:2022年12月15日)