数か月前から、湧き上がってくる感情、感覚、思考等に対する否定感がなくなりました。
そういったものは、いいものでも、悪いものでもない。誰かが、何かが、意図して出しているわけではない。ただ出てくるだけだ。
そういう感覚が強くなりました。
何が出てきても、放ったらかしです。ただそのままです。現にそのように出てきているんだから、そうなのです。
止めようとか、変えようとか、しません。原因追求とか分析もしません(かつては散々やってましたが)
そういう感じで、やっています。いや、やろうと意識してやっているわけでもないのですが。
言葉で表現するのは難しいですね。
かつて克服しなければと鼻息荒くしていた「心の問題」とやらは、消えたようです。
:
上記のEさんの文章が、強く印象に残っています。
結局、そういうことなんじゃないだろうか ...
自分自身や自分の経験の中で、嫌なこと・良くないことはなくなって欲しい、いい方に変えたいと誰もが思っている。でも、それが「苦しみ」の元(もと)なんじゃないだろうか?
そのあるがままを、ありのままに認めて受け入れることができれば、それだけでいいんじゃないだろうか ...
それは、嬉しいとか楽しいといった「幸せ」感とは違うけど、なんだろ ...? 安心感みたいな落ち着いた感じだろうか。それが我々の求めていたものなんじゃないだろうか?
自己受容という言葉を使うと、Eさんはポジティブ過ぎるように感じるかも知れないけど ...
EさんNさんのお二人には失礼な言い方になるかも知れませんが、私はかつて、お二人の抱えている問題の根には「愛着障害」があるのかな、と感じていました。自分にもあるかも知れないけど大したものじゃないな、とも思っていました。
ですが徐々に、そしてつい最近 急激に、自分自身の大元(おおもと)にあるのは「それ」だ、とかなりハッキリと見えてきました。記憶にも「これ」だと言えるものはないし、表面的にもなにがあったというわけでもなし、だから自分がそんな問題を抱えているなどとは思っていなかったのですが、かすかに何かありそうだとは思っていたものの、認識することができていませんでした。
それも私のストーリーに過ぎないかも知れませんが、どんだけ可哀想な子だったんだろうという思いが湧き上がってきました。もちろん自分だけでなく、たぶん多くの人たちがそうなんだろう、とは思っています。
でも私は、なんとなく自分は恵まれている方だと思っていたのです。そんなことは、ちっともなかったのに ...
暖かな人の心をずっと知らないままだった。だからたぶん、理屈っぽい、つまらない退屈な人間になってしまった(この表現も卑下しすぎなんでしょうが)
その状況をなんとかしようと選び取ったライフスタイルが、今に続く私のストーリーだったようです。
私のインナーチャイルドは、ずーっと洞窟の中に隠れていました。外に出れるかどうか分かりません。外に出れたなら「幸せ」になれそうです。
Nさんは、サンガの中で外に出る練習をしているように見えます。
インナーチャイルドもストーリーかも知れません。外に出ようが出まいが、そのままでいいのかも知れません。
私は人生を舐めていたような気がします。いまは少々重苦しい感じですが、これが「生きる」という経験の大切な一部なのだと思います。サティがあれば、その不快感を否定せずに、味わうことができそうです。
60才を越えてやっとそんなことが分かって、自分の人生はなんだったのだろう、と思うことがあります。ときどき否定的な感覚が沸き起こってきます。でも、それでもいいのだと思います。どんな人生もみな同じように意味があるのでしょう。どんな意味かは分からないし、分かる必要もないのでしょうが。
ダラダラとした、要旨の分からない文章を書いてしまいました。なんとなく書きたくなったので。失礼しました。
[2017年12月17日]