苦悩と 執着:サンカーラと 自我:エゴ
三つの苦と三つの執着と、そして 三種類の自我
心の構造と状態(15-1)苦悩と執着と自我(前編)で、
「過剰である」 ことが問題なのだ、 と述べた。
この 「過剰さ」 をもとにして、
自我について検討してみることにする。
三通りの自我(エゴ)
「行」が発生しているとき、
「識(わたしという意識)」 という主体も
同時に要請され、引きだされていた。
いままで 自我とは
五蘊の要素である この 「識」 のことであり、
(行→)識が 苦悩の原因である、
と述べてきた。
しかし一方
「三学(戒 定 慧)」 という記事の中で、
「戒」 とは
健全な自我を確立するためのものであり、
これは 人間にとって必要最低限のことである、
とも述べた。
では 「自我」 は、「苦しみ」 のもとなのか?
そうではないのか?
今回の 前編の考察で、
① 過剰な行によって要請された自我
(悪い意味の自我)は
苦しみのもとであるが、
② 生存のための欲求を
適切にコントロールするための自我
(良い意味の自我)は
必要欠くべからざるものである、
ということがハッキリした。
自我が
いつも・どんなときも悪いわけではない。
家庭でも学校でも そして社会においても、
② の良い(適切な)自我の
確立(自立)を目指しながら、
① の悪い(過剰な)自我を
誘導してしまうことが多く見られる。
それは
「空(全体・座)」 の視点がないから
ではないだろうか?
「心の構造と状態」に対する
理解のなさのためではないだろうか?
良いにせよ 悪いにせよ(良くも悪くもないのだが…)
それ(自我)は
要素であり、 部分であり、 仮のものであり、
わたしという存在の 片方の次元に過ぎない。
幻想マーヤーであり、 固定した実体ではない。
そのこと(空であること)に気づけば、
自我(エゴ)は単なる機能となり、
わたしたちが
行と一体化することはなくなるだろう。
過剰な自我は 「二元の極」 の
一方を目指そうとし、
適切な自我は 「二元の極」 のどちらにも
偏かたよることなく 中道を保とうとする。
過剰な自我は、
学校教育によって強化される傾向がある。
生きとし生けるものはすべて、
「受」の快(楽)を求め、
不快(苦)を避けようとする。
この原初的な欲求は 個体間でぶつかり合い、
争いを引き起こす。
それ故に 集団で生きる道を選んだ人類は、
この欲求をコントロールする必要に迫られた。
いままで述べてきた
「想と行に要請されて生まれた自我」は、
この原初的な欲求を調整し
コントロールするために要請された
という側面も持ち、
それは「承認欲求」という
(自我を要請する)行の形になって現れる。
しかし
その原初的な欲求のままに生きる場合も、
その欲求をコントロールするために生まれた
過剰な自我と同じ
自我(エゴ)という言葉が使われる。
この自我は、未熟な自我である。
だから、
わたしたちが 「自我」 という言葉を使うとき、
統一されていなくて ずいぶんと混乱している。
上記を踏まえ ここで、
自我を三通りに分けておくことにする。
① 未熟な自我:原初的な欲求のままの
【 「受」 レベルの欲求に 振り回されている】
悪い自我
② 過剰な自我:承認欲求に振り回されている
【①をコントロールしようとして行き過ぎてしまった】
悪い自我
③ 適正な自我:
【①を適正にコントロールできている】
良い自我
①の自我は、分かりやすい。
「エゴ」 という言葉を使うときに
もっとも多くイメージされるのは、
この ①の自我であろう。
一方 ②の自我は、分かりにくい。
本人にはほとんど意識されないが、
他人には見えることがあるエゴである。
しかし ときには、
本人にも他人にも見えない
非常に巧妙な 分かりにくい場合もある。
③の自我は、
「自立した 自己中心的でない大人」
と言い換えてもいいだろう。
自我という言葉、とくに
それが エゴと同じである と言われると、
悪いイメージで捉えられることが多い。
しかし 機能として自我を捉え、
もっとも望ましい 中道の在り方として
③の 「適切な自我」があり、
その足らざるものが ①の 「未熟な自我」であり
行き過ぎたものが ②の 「過剰な自我」である
と考えると、
「自我とは なにか」
という問題が整理されると思う。
自我(エゴ)という言葉を使うとき、
この三通りの どれをイメージしているのか
を よく吟味する必要がある。
他者が自我という言葉を使うときには、
この点に注意しなくてはならない。
一般に エゴという言葉を使うときは、
この三通りの自我のうちの
「悪い」 自我を指しているだろう。
とすれば、
自我は三通り エゴは二通りあることになる。
「自我という 言葉のイメージ」 が違っていて、
コミニュケーションの齟齬をきたしている
ことがあるのではないだろうか?
エゴというカタカナを使った場合、
①か②の悪い自我を指すことが多いが、
そのときも では ①と②の どっちなのか?
そしてときには
エゴ(というより自我)という言葉を
③の良い意味で使うこともある。
私も 今までキチンと意識することなしに
この言葉を使ってきた。
今後 注意したいと思う。
ただし ここでいう悪い自我とは、
①のような
単純で表面的な 自己中心性とみなされる
原始的・動物的な欲求や欲望に
囚われている状態や、
地位・名誉・カネといった
ミエミエの承認欲求の支配下にある状態
だけに限らない。
それは もっと巧妙に深く
私たちの本質奥深くにまで迫るもので、
通常 ②の状態を意識することは
きわめて難しい。
過剰な自我は 適切な自我と
密接に 絡みつき・入り込み、
ほぼ一体となって見分けがつかない。
悪い自我を暴き
その影響を排除しようとすれば、
良い自我まで傷つけられ、
生命としてのエネルギーが枯渇しかねない。
過剰な自我は
適切な自我と一体となりながら、
分厚い鎧を 幾重にも重ね着している。
その鎧は 玉ねぎの皮のように、
むいてもむいても 剥がしても剥がしても
キリがないように見える。
「過剰な自我」が 単独で存在することはなく、
「適切な自我」と 一体化している。
【リアルな 現実の自我は、
過剰と適切と未熟な自我を同時に抱えている】
では、苦しみのもとである
この「過剰で不適切な自我(の部分)」 を
どうすれば良いのか?
苦しみを滅するために、
一個人として何ができるのか?
その問いから生まれたのが
「宗教」であろう。
適切と過剰が絡みあった自我を、
自我が解きほぐすことはできない。
悪い自我だけを選択的になくすことなど、
できはしない。
自我を超えることによって
自我は要素であり機能に過ぎないと
看破することでしか、
この問いに答えることはできない。
そして 自我を超えるためには、
自分を投げだす・あけ渡すサレンダーしかない。
では どうやって あけ渡すのか?
それは
自我を超える より大きな存在:大いなるものに
自らのすべてを 全面的に託すことだ。
では そのより大きな存在はどこにあるのか?
それは 「外」 にあるのか、 「内」 にあるのか?
外に求めた者たち、
グルや 教義や 経典のような 「外なる神」
に求めた者たちは、
自分を 「あけ渡した」 つもりになって、
結局 もとの自我に取り込まれている。
一方
それを自らの内に求めた者たちは
「心の構造」を見いだし、
要素を超えて、「座」 という
「空っぽな 本質である 内なる神」 にたどり着く。
過剰なる自我を直視みつめ続けるという
過酷な過程を経て、
「もっとも深いところ」 に降り立つだろう。
自らのなかの「悪しきもの」を認め
受け入れることによって、
初めて そこを見いだすだろう。
そこ(座)は 自分自身の
もっとも深いところでありながら、
自分自身を超えて広がり、
内も外も超越した全体である
ことに気づくだろう。
「座を見いだす」 ことが
「自我を超える」 ことである。
宗教は 別の側面も持っている。
それは 対立し・分離した
個々の人間たちを結びつける働きだ。
人類は「想」という能力と同時に、
「まとまる:集団化・社会化」 という特性によって
生き延びてきた。
個々の人間の「想:価値観」 という要素は
一人ひとり すべて違っていて、
そのため(想のレベルで)個人は
分離・分断されてしまう。
だから この「個別の想:世界観」を
強い力で共通化できれば、
個人を結びつけることができ、
集団化が実現できる。
この 集団化を促すものとして(も)
「宗教」が要請された。
「宗教」とは、
強力で最大公約数的な 「想と行」 によって、
個人を結びつける
強制力でもある とも言える。
その 「想と行」 が魅力的で、
より多くの人びとを
引きつけることができれば、
より大きな集団が形成され、
その集団の力は より大きなものとなる。
しかし この働きを持つ「宗教」は、
自分を超えるより大きなものを
「外」に求めた者たちのものだ。
同じ宗教内の信者同士は結びつけられ、
共同体感覚を持ち
平穏に過ごすことが可能となった。
だが この場合 異なる宗教間にあっては、
より大きな単位で分離・分断され、
それを盲信する人々によって
不幸な争いが引き起こされてしまう。
このような宗教は、
部分最適なシステムにしかなり得ず、
けっして
全体にたどり着くことはないだろう。
このような宗教は、
自らは善(他者は悪)だと思い込んでいて、
二元の極の一方だけを信じ込んでいる。
「大いなるもの」 を
自らの内に求めたものたちは、
他者を「悪だ」 と言って
切り捨てたりはしない。
願わくは、
より多くの人びとが「自らの内」に
「自らを超えるもの」 を発見されんことを...
自我を超えるとは、 悪をなくすことではなく、
善と悪の両方を 超えることである。
善と悪という二元性は、
もともとの 非二元から生まれたものである。
だから 悪をなくすときは、善もなくなる。
悪をなくして、
善だけを手にすることはできない。
善は 悪と共にある。わたしのなかで、
切り離せない(分離できない)ものとして
ともにある。
わたしたちが 再びストーリーを生きるとき、
「悪とともにある善を生きる」のだと
自覚していなくてはならない。
最後に
「あけ渡す」というのは、
真宗でいう 「他力」 のことであり、
キリスト教の 「祈り」 のことでもあるだろう。
しかし その 「他力」 にたどり着くまでは
禅宗でいう 「自力」 が必要だろう。
「自力」とは「自灯明」のことである。
自力で 心の奥底まで自分自身をたどり、
最後に他力で 平らな底の
何もない地点に降り立つのだ。
教え(ダルマ)と 実践は
心の平穏のための両輪である、 と言われる。
苦や苦悩や(想→行→)自我という言葉は、
ダルマを考え・学ぶための材料に過ぎない。
そして ダルマについては、
もう十分に考え尽くした気がする。
これ以上考えて、どうなるというのだ?
感じたことを 言語化するという
「適切に考える」 ことは重要だと思うが、
それ以上に重要なのは、
マインドフルネスという実践である。
マインドフルネスで 「観る」 ことにより、
はまり込んで 「そのものになってしまう」
ことがなければ、それがいい。
それが一番だ。一番大切なことだ。
マインドフルネスもまた手段に過ぎないが、
それが「悟りの道」 なのだろう。
あとは 実践あるのみだ。
[参考記事]
浦崎雅代さんのブログ(note)「タイの空に見守られて」
の2018年12月22・23日の記事から引用
お話は、タイ スカトー寺の副住職のスティサート師
体の苦しみ【苦:リアル】というのは、
私たちは選べませんね。
【どうにもならない】
暑さ・寒さ・老いること・病むこと。
でも
心の苦しみ【苦悩:非リアル】というのは、
苦しまないことが選べます。
【どうとでもなる】
しかし、
苦しまないことが選択できる というのは、
苦しみをなくさなければならない、
苦しんではならない、
苦しみを感じてはいけないなどと
心を強制することではありません。
【適切な自我も「苦しむ」ことはある】
苦しみが生じても、それに
執着しない つかんでいかない はまりこまない、
【過剰なものにさせない】
それを選択することが可能なのですね。
私たちは修行を始めると、
思考が生じていることに
気づくようになります。
そして
それらの思考によって悲しみが生じたり、
不満な気持ちが生じたりするわけですが、
私たちはその時に、
はまりこむか否か を
マインドフルネスによって 選ぶことができるんですね。
カムキエン師は こうおっしゃっていました。
「苦しみを観ていくことです。
苦しみになっちゃう(はまりこんじゃう)
ことのないように」
こうやっている【手動瞑想などのマインドフルネスの】
時に
私たちが洞察することは、
「自分自身のちょうどよさ【適正さ】」 ですね。
一生懸命になりすぎていないか、
あるいは
思考など 何かにはまりこんでいないか。
思考にはまりこんでいる時、
私たちは 【適正な】自分自身を忘れています。
それらの両極ではなく、
ちょうど バランスのとれた状態【中道】
にしましょう。
【極端に向かう 過剰さがない状態が、
適切な自我の状態】
(最終改訂:2022年9月2日)