苦悩と 執着:サンカーラと 自我:エゴ
三つの苦と三つの執着と、そして 三種類の自我
2018年12月2日、北海道での3回目の
プラユキさんの瞑想会が行われた。
そのときの参考資料をもとに、
「三つの苦」 と 「三つの執着」について
考察してみる。
三つの苦
参考資料 1
この中に、
「苦しみがあること」 と 「苦しむこと」 は 「別」
という表現がある。
非常に分かりやすく、 適切な表現だと思った。
そして、
苦は 苦しむものでなく、
観るもの・理解すべきものと説明している。
これは、私がいままで
下記のように言ってきたことと
まったく同じである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「苦」 と 「苦悩」は違う
「三相の苦は 苦」 で 「四聖諦の苦は 苦悩」
「苦は(感)受にともなう リアルな現実」
だが、
「苦悩は(想と)行が生みだす 非リアルな幻想」
苦は なくすことのできないものなので、
苦を なくそうとして
無理に頑張り過ぎてはいけない。
【 「リアル」は なくせない】
苦悩は なくす(滅する)ことのできる
ものなので、これがない状態が幸せ。
【 「非リアル」は なくせる】
苦があっても幸せになれる ということは
苦を受け入れることによって 実現できる。
苦があるからこそ 受容によって幸せになれるし、
苦なくして 幸せを感じることはできない。
従って、修行において立ち向かうものは
「幻想である苦悩」であり、
「現実である苦 」ではない。
修行とは
リアルと非リアルを 見分け(名色を分離し)
「苦という現実」」を受け入れる
トレーニングのことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「苦」 は「苦しみがある」 ことであり、
「苦悩」 が「苦しむ」 ことである。
このことを理解することは
仏教理解の基本であり、
修行の肝きもである、と言ってもよい。
「無常・苦・無我という三相」と
「苦・集・滅・道という四聖諦」が、
「苦」という言葉を含む
もっとも代表的な仏教の言葉であるが、
実は この二つの仏教用語の 「苦」 の内容は
決定的に異なっている。
それが上記の 「苦と苦悩の違い」 であるが、
その違いを指摘する発言を
今まで聞いたことはなく、
その違いを指摘する文章を
今まで読んだこともなかった。
今回のプラユキさんの資料で はじめて
その 「苦と苦悩の違い」 の考え方を
他者の見解の中に発見することができた。
「苦と苦悩」という言葉使いで言えば、
「三相」 の苦は、 「苦」であり
「苦しみがあること」であり、
「四聖諦」 の苦は、「苦悩」であり
「苦しむこと」である。
しかし、やはり
三相の苦と 四聖諦の苦が
同じ言葉であることによって
「違う二つの苦が 同じものである」
と誤解されてしまい、
それが 真理を理解するための
大きな妨げになっていると思われる。
よって、
この二つの苦の言葉の意味の違いを指摘し、
「強調」 することが 大きなインパクトとなり、
たしかな「理解」につながると思う。
ただし、
四聖諦の 「苦」 を
「集」 や 「滅」 の対象 として捉えると
上記のような理解になるだろうが、
四聖諦の 「苦」 を
「苦に向き合うこと」 と考えれば
三相の「苦」 と 同じ意味になる。
せっかくプラユキさんが、
苦と苦悩の違いを
「苦しみがある」 ことと 「苦しむ」 ことは 別
と表現してくれたので、
もう少し補足して 説明してみたいと思った。
さらに その下に
〈三種の苦〉という小見出しがあり、
「苦苦」 「変換苦」 「行苦」という
「三つの苦(悩)」 が解説されている。
ここでは
三種類の苦が同列に扱われているが、
「苦苦」とは、
「苦しみがある」ことを
ダイレクトに悩む(苦しむ)ことであり、
「変換苦」 と 「行苦」の 二つは、
苦しみがあることを無理になくそうとして
創りだした欲求である 「行」 によって
逆に もっと「苦しむ」 ことである。
だから、「苦苦」こそが
もっとも根源的な 一次的苦悩であり、
それが変形して二次的な形になったものが
二つの「行による苦(悩)」 である。
苦に対する ダイレクトな苦悩が 「苦苦」 で、
苦を避けようとしたのに
やっぱり逃げられなくて
間接的に発生したのが「行による苦(悩)」
である。
【苦 → 「苦苦」という苦悩】
【苦 →(逃避)→ 行による苦悩】
三つの苦を 同列に扱わず、まず
「苦苦」 と 「行による苦」 の二つに分け、
「行による苦」 を さらに二つに分けると
分かりやすいと思われる。
[苦苦]
資料では、
「身体的な痛み (リアル)」 を 「苦苦」 として
「付随する不安(非リアル)」 と 同列に扱って
併記しているが、
「痛み」 は 「苦苦」 でない 単なる 「苦」 であり、
「不安」 の方だけが 「苦苦」 である。
もっと丁寧に説明するなら、
あるがままの・当たり前のリアルな苦である
「身体的な痛み」があって、 その 「苦しさ:苦」を
なくしたいと想う(欲求し)が
どうすることもできないとき、
「ただ痛みがある(苦しみがある)」 と
観ている(痛みを受容する)ことが できないので
不安(苦悩)になってしまう、ということ。
この 「痛み(苦)」 は なんとかなるはずだ、
完全になくせるはずだ、
という思い込みがあるのになくせないとき
「不安」 というネガティブな感情:瞋が生じる。
そして
このような思い込みに囚われているときには
不安だけでなく、
他の ありとあらゆる瞋が生じ得る。
「老い」 や 「病い」を
ただの苦から 苦悩に変えてしまうのも、
この 「思い込み」 である。
「瞋」 とは
ネガティブな感情一般のことであるが、
「苦」 を否定しようとして二次的に生じる
「非リアルな苦悩」 に基づく感情のことである。
どうにもならない 現実の リアルな苦をなくそうと、
無理に頑張り過ぎると「瞋じん」 が生じる。
人生の中で 「苦しい現実」 に直面することは
かならずあるが、
そのときに 逃げてはいけないし、
抑圧したり 否定してはいけないし、
そして なくそうとして
「無理に」頑張り過ぎてもいけない。
それ(逃避・抑圧・否定)こそが、実は
周りまわって苦悩を引き起こすもとなのだ。
逃避・抑圧・否定することなく、
我慢することもなく、
「受容」しなくてはならない。
受容と我慢は 違うものであり、
我慢を受容に 変えるものは、
「色即是空」という正見
(正しいものの見方)である。
つまり、
空くう・非二元のなんたるかを
知っていることである。
「苦」はあってもいい ことを知れば、
「我慢」 することなく 「受容」 できる。
「苦しみがある(苦)」 ことを、
そのままに・あるがままに放置しておく
ことができずに、
「苦しみ:苦悩」 に変えてしまう(苦しむ)のが
「苦苦」である。
「リアルな身体の痛み」 は ただの 「苦」であり、
「それに付随する 非リアルな不安」の方が
そのただの 「苦」 を 「苦しむ」 「苦苦」という
「苦悩」である。
「苦苦」 の 前の 「苦」 は 「身体の痛み」 であり、
「苦苦」 の 後の 「苦」 が 「不安という苦悩」 だ。
[変換苦]
資料では、
「快楽や喜びの喪失」による苦しみである
と説明されている。
私は、
「苦悩」 のもとは「行(サンカーラ)」 であり、
「行」 には「愛」 と 「取」 の 二種類ある
と説明してきた【十二縁起】
「愛」とは、
五蘊の受レベルの苦:不快 すなわち 「嫌なこと」
を否定・抑圧し そこから逃げるために
五蘊の受レベルの楽:快 すなわち 「快楽や喜び」
を追求することであり、
それを追求している間は 楽しいし
ポジティブな感情(貪)を感じているが、
その状態が永遠に続くことは「あり得ず」
いつか かならず 喪失するときが来る。
そのとき、
ポジティブな感情は
ネガティブな感情に 変わり(貪→瞋)
苦しみ(苦悩)を体験することになる。
これが「愛という行」による
「変換苦」のメカニズムであり、
「恋」が終わって
「憎しみ・苦しみ」に変わるのも、
このメカニズムと同じ
「貪との比較」によるものだ。
「苦」を受け入れつつ
同時に
「楽」も味わっているなら、
【楽だけでなく、
楽と苦を一緒に経験しているなら】
それは「渇愛」ではなく、
苦に転換することもない。
[行苦]
資料では、
「思い通りにいかない」 ことによる 「苦しみ」
と説明されている。
「思い通り」とは、
「◯◯ねばならない」 「◯◯ではいけない」
という思い(込み)の通り、
という意味であり、
単に「◯◯したい」 と思うのも
「◯◯ねばならない」 の変形に過ぎない。
この 「思い」 とは 「取という行」 のことであり、
想によって創りあげられた
(非リアルな)観念・信念のことである。
「◯◯であって欲しい」 「◯◯ならいいな」
という「願い」 や 「期待」 のこともある。
行は、「思い通り」 の結果にこだわっていて、
結果が得られないときに 苦しむことになる。
十二縁起にしたがって 厳密に言えば、
「行」 は 「愛」 と 「取」 の 二つに分けられるが、
文明化された人類にとって
より重要な「行」は、「取」の方であろう。
だから、この 「行苦」 という言葉の内容は
取に基づく苦しみのことなのだが、
取が 行を代表するものである とみなして
「取という行の苦悩」 を 「行苦」と呼んだ
のであろう。
愛は(追求が容易なので)
変換された後に苦悩に変わることが多いが、
取は(追求が難しいので)
ダイレクトに苦悩に結びつき易い。
そして
「愛(という行)を追求する苦悩」は
すでに「変換苦」と名づけたので、
「取(という行)を追求する苦悩」を
「行苦」と呼ぶことにしたのかも知れない。
もしくは、愛も取も
追求可能だったものが不可能になったとき
に「変換苦」と呼び、
追求不可能な状態を「行苦」と呼ぶ
のかも知れない。
五蘊の 「色からだ」 の 一次的な感覚:五感には、
苦(不快)と 楽(快)という
二次的な感覚である「受」が
分かちがたく付随する。
すべての生き物は
この「苦」が嫌なので、避けようとする。
しかし 避けることのできない状況では、
じっと それに耐えるしかない。
ところが 人間だけは、
ただ耐えている:観ていることができずに、
その苦を 悩なやんで
さらに 大きな・別のものに変えてしまう。
これが「苦苦」である。
反対に すべての生き物は
「快」が好きなので、追い求める。
しかし 追い続けることができない状況では、
諦めるしかない。
ところが 人間は、諦めきれずに
その 「快」に固執・執着して、
生存状況(日々の暮らし)を無視してまで
それを 追い求めようと(渇愛)してしまう。
これが「変換苦」である。
さらに 「想」 という能力を獲得した人間は、
「苦」 から徹底的に逃れるために、
受レベルの 「心地よさ」 という快を
想レベルの 「正しさ」 という快に変換した。
この 「想」 の創りだす
「正しさ」 という価値観は
容易に「取という行」 に結びつき、
それを追求することは
生存に有利に働いたが、
それは同時に 苦悩を引き起こしてしまう
ことにもなった。
これが「行苦」である。
五蘊の受レベルにおける快である
「心地よさ・楽しさ」を追求し執着する
行 が「愛」
五蘊の想レベルにおける快である
「正しさ・正義」を追求し執着する
行 が「取」であり、
渇愛という行が引き起こす苦悩を 「変換苦」
取という行が引き起こす苦悩を 「行苦」
と呼んでいる。
五蘊の受レベルにおける不快である
「苦しさ:苦」を耐えることなく 否定し、
どこまでも受け入れようとしないで
悩み苦しむことが「苦苦」
である。
受レベルでの 不快 / 快の否定 / 追求も
「行」とするなら、
苦苦も変換苦も 「行の苦」 であり、
「三つの苦」は すべて 「行の苦」 である、
とも言える。
呼び方・名づけ方・説明の仕方は
どうとでもなる。
大事なのは、内容の理解だ。
この 苦を三つに分ける分類は
とても分かりやすいと思う。
資料の下の方に、
「一切皆苦」ではなく「諸行は苦なり」
と書かれているが、これは
ブッダが伝えようとしたことは
「すべてが苦」ということではなく、
「諸々もろもろの行サンカーラが 苦悩をもたらす」
ということであり、
ここまでの考察の結論となっている。
その苦は、
なんとかできるのか?
それとも
どうにもならないものか?
三つの執着
参考資料 2
『苦しみ』にはかならず原因
(創りあげられた人為的なもの)がある
と言うときの「苦しみ」とは
四聖諦の 「集と滅」 の対象となる
「苦」であり、
この「苦しみ」 は
「苦しみがあること」でなく
「苦しむこと」であり、
「苦ではない なくすることのできる苦悩」
のことだ。
私は、
「苦悩の原因は 行であり、
行には 愛と取の 二つがある」
と何度も繰り返してきたが、
プラユキさんは、この資料で、
苦悩の原因は渇愛タンハーであると述べている。
「渇愛」 と
「渇のつかない愛」は同じ言葉であり、
渇愛は(愛と取という)二つの行のうちの
一つでしかない。
したがって 厳密には、
苦悩の原因は渇愛(だけ)ではなく
(取を含む)行である
と言った方が正確と思われる。
ただ、行サンカーラという言葉が
日常用語として使われることはなく、
渇愛という言葉の方が
イメージに訴えやすいので、
この言葉を使ったのであろう。
[欲愛:愛]
「見たい・聞きたい・味わいたい・嗅ぎたい
・触れたい」という
五感(受レベル)の欲求のことである。
したがって、この「欲愛」という言葉は
本来の「渇愛」と同じものである。
五感の欲求を 過剰に追求することは、
「貪→瞋の転換」により
「苦悩」の原因になるが、
だからと言って この欲求を
ゼロにしてしまうのは間違っている。
「過剰な」 追求貪が 苦しみを導くのであって、
「貪とは言えない 適切な」欲求まで
否定してしまってはいけない。
受レベルの欲求はリアルであり、
生き物としての人間に 本来必要なものである。
「苦悩」から逃れようとして、
「必要な程度の欲求」 までなくしてしまったなら、
これもまた
別の形の「苦悩」を引き起こしてしまう。
五感の欲求自体が悪いのではなく、
その追求こそが幸福であると思い込んで、
過剰に追求することが問題なのである。
「行」とは、「過剰な」追求のことである。
[有愛うあいと無有愛むうあい:取 ]
「あるべき・あるべきではない」という
(想レベルの)欲求のことなので、
すなわち「取」のことである。
取は、
ポジティブ:善 とみなされる概念・信念を
「〜であるべき」 だと追求する 貪を伴う欲求と、
ネガティブ:悪 とみなされる概念・信念を
「〜であるべきでない」 と否定する
瞋を伴う欲求(瞋)の二つに分けられる。
プラユキさんの資料では、
前者を 有愛・後者を 無有愛と呼んでいる。
概念に変換したもの(想:信念)を
追求することは 人類のサバイバル戦略であり、
生き延びるために必要なものであった。
したがって
この欲求を完全に否定してしまえば、
生き続けること自体が困難になるだろう。
信念を追求することに伴う困難・辛さは、
一見「苦」のように見えるかも知れないが、
この「苦しみ」は
過剰な追求(追求し過ぎ)による
(適切な想の追求を超えてしまった)結果なので、
「苦悩」と呼ぶべきものである。
概念(想)は 非リアルなものであるが、
これを適切に追求することは
人類という種しゅにとって 必要なことであり、
想における「行」も また
「過剰な」追求のことであった。
追求すること自体が悪いのではなく、
「過剰に」追求することが 問題なのだ。
「受」における 過剰な追求(愛)
「想」における 過剰な追求(取)
が 問題なのだ。
以上の考察で、
いままでの記事で述べてきた
「欲求と苦悩の関係」について、
よりスッキリと整理できたような気がする。
「過剰な」 「欲求に対する執着」が、
苦悩を生みだすものであった。
貪と瞋は、コインの裏表である。
意味・価値の存在しない
「非二元」 の 「空」という現実から、
「二元」 の 善 / 悪・ポジ / ネガなどという
「極」を創りあげて、
それを追求しようとしたことが、
「過剰さ・執着」につながった。
楽を追求し過ぎると苦悩に反転するように、
わたしたちは いつも
一つの「極」から反対の「極」へ
そして またもとの「極」へと、
ブランコのように 揺れ動き続け、
止むことがない。
日々の暮らしは「二元 or 多元」 の中にあり、
さまざまに「色」 づいて(意味づけられて)いる。
モノトーンの「空」 という現実が、
「意味」 という 「色しき」 のプリズムによって
七色の彩いろどりを与えられている。
この世界の 「鮮やかな彩り」 を楽しみながら、
マインドフルネスによって
「過剰」 に陥らないように、
極から極へと 振れすぎることなく、
ただ 観ていけばいい【中道】
心の構造と状態(15-1)苦悩と執着と自我(後編)
に続く。
(最終改訂:2022年8月31日)