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2019年1月15日に投稿したブログを
読みやすいように書き直した。
長くなりすぎたので 二つに分けることにした。
【 】内の文章が やすみやすみのコメントです。
このブログ記事は、
アプリを使って文字サイズを3に設定すると
画面サイズ内で見やすくなるようにしてある。
[阿部敏郎さんの2019年1月12日のブログから]
あれから思い出に浸ろうとしてみたけど、
失敗した。 うまくできない。
その瞬間は よみがえるのに、
何かが変わってしまったみたい。
通常なら 過去の世界は3Dで、
そこには 甘酸っぱさとか 切なさとか、
何かの感情があって、
もういちど追体験しているみたいな気に
なるはずなのに、それができない。
失敗した。 うまくできない。
その瞬間は よみがえるのに、
何かが変わってしまったみたい。
通常なら 過去の世界は3Dで、
そこには 甘酸っぱさとか 切なさとか、
何かの感情があって、
もういちど追体験しているみたいな気に
なるはずなのに、それができない。
後悔することが無くなったのは
自覚していたが、
通常の思い出まで希薄になっているなんて。
記憶はあるんだけど、浸れない。
【記憶はあるが、
その記憶に伴う感情(行)がなくなった】
そういえば 昔は、
「あの時、ああすればよかった」という
思いを持ちながら、
繰り返し同じシーンを考えたりもしたっけ。
そうやって 何度も繰り返し考えることで、
まるで 過去のやり直しができるみたいな
気がしていた。
やり直せるわけがないのだから、まったく
不毛な期待の世界を巡っていたわけだ。
自覚していたが、
通常の思い出まで希薄になっているなんて。
記憶はあるんだけど、浸れない。
【記憶はあるが、
その記憶に伴う感情(行)がなくなった】
そういえば 昔は、
「あの時、ああすればよかった」という
思いを持ちながら、
繰り返し同じシーンを考えたりもしたっけ。
そうやって 何度も繰り返し考えることで、
まるで 過去のやり直しができるみたいな
気がしていた。
やり直せるわけがないのだから、まったく
不毛な期待の世界を巡っていたわけだ。
【偶然 起きてしまった状況を受け入れることで、
それは 必然に変わる。
起きてしまったことは必然に変わった偶然。
必然に変わることで 余計な感情は消える】
いまは それがなくなった。 と同時に、
ノスタルジーの世界も
長く続かなくなってしまった。
でもいいや。 こちらのほうが気楽だから。
ここまで 長い映画を見せられてきたけど、
それは ただ起きていたんだと、 いま分かる。
【瞋じんという 「嫌な」 感情はなくなったけど、
同時に 貪とんという
「楽しい」 感情もなくなってしまった。
参考ブログ:貪瞋痴】
以前は 阿部という独自の存在がいて、
その存在が 自発的に考えて 選択し
行動してきたつもりでいた。
人生の主人公である自分が、
人生【のすべて】を作りだしている
と思っていた。
【感情のもとになる 何らかの状況を
創りだしているのも自分だ と思っていたが、
その もとになる状況は
実は 「たまたま」 やってきたものであり、
自分が すべてを創りだしていたワケではない。
ただし、主人公の判断による関わりは
結果として創りだされた人生を構成する
「因縁」の一部に過ぎず、
それがすべてではなかった という意味であり、
だから、
自分が 何も関わっていない わけではない。
主人公のアクションは、
「主たる縁」 という意味で
人生を創りだしている 「因」 であることに
変わりなく、それを 無視してはいけない】
だけどさ、 本当は何も選択してなかったんだ。
実際には何もしてこなかった。見かけ上は
【 「わたし」によって】
何かが 行われたみたいに見えるけれど、
【 「わたし」とは関係なく】
ただ そのように起きていただけだった。
【この文章は、よく言われる
非二元の視点での言い回しだが、
こんな風に言い切ってしまうと、
この非二元の真実を 二元の現実に
ストレートに当てはめて納得してしまおう
とする誤解を招きやすいので、
私には とても 「危険な表現」 に思われる。
アンダーラインの文章が言おうとしていることは、
下記のようなことだろう。
つまり、 「わたし(自我)」 は、
「縁」 である たまたま割り当てられた
DNA情報と、
その後の人生での 「縁」 である
たまたまの経験(の集積)によって
創られたものであり、
(すべてをコントロールできる)
主体的な 「わたし」 はいない。
だから「わたし」とは
受動的に創られたものであり、
能動的(主体的)に 自ら そうなろうとして
なった(意図的に選択してきた)わけではない、
と。
でも
「何も選択せず、 自分とは 何の関係もない」
というような 気をてらった表現でなく
(現実的には、
それなりの選択をし 関係があるのだから)
上記のように言い換えた方が
分かりやすくないだろうか?
真理を 神秘的な言葉で語ることは
カッコいいし、
人々は そんな言葉を求めている
のかも知れないが、
そこには 大きな危険が潜んでいると思う】
だから 後悔なんか 入り込む余地はないし、
【後悔する必要はないが、 反省は必要だろう】
ましてや いままでの生き方に
責任などあるはずがない。
【たしかに 非二元の視点では
「受動的に創られたわたし」は
二元的な意味の「責任」など持ち得ない。
だが同時に、非二元の次元では
「わたししかいなくて、わたしがすべて」
なのだから、
二元的な意味の責任でない
「全責任」 があるとも言える。
この矛盾する(ように見える)言葉を、
現実を生きるときに どのように活かすのか?
それが出来なければ、
言葉は 虚しく響くだけだろう】
【 二元のレベルの「わたし」と
非二元のレベルの「わたし」は、
同じだが 違う「わたし」だ 】
いまもそうだよ。もちろんあなたも。
それって凄くね?(急に若者言葉)
だってさ、これからだって、
【非二元の視点では、二元レベルの】
あなたが選択していくわけじゃなくて、
ことは ただ起きていくんだから。
まったく 無目的にね。
【でも、 非二元レベルの 「わたし」 が決めて
二元レベルの 「わたし」 が実践しなくては、
何も変わらない。
わたしたちは、 「非二元 」 と 「二元」 という
異なる二つの次元を 同時に生きている
ということを、 いつも忘れてはいけない。
二元の 「わたし」 は 自我(五蘊)
そして
非二元の 「わたし」 が 本当のわたし(座)
「空くうである非二元」の視点からの言葉と
「色しきである二元」の視点 での言葉を、
時々に応じて 自分の都合がいいように
片方ずつ つまみ食いするのは 良くない。
対処すべき課題があるときは、
結果を期待することなく
とにかく 行動しなくてはならない。
そのときに、
「ことは ただ起きていく」と言って、
何もしなくていい ということではない】
いままで そうだったんだけど、
【二元の視点で】私という
分離した主体がある と信じていたころは、
人生には 意味がある【ハズ】と思っていたし、
到達すべきゴールがある と思っていた。
【二元の視点とは、典型的には
「善/悪二元論」 と 「目的論」 で
世界を観ることである】
人生には 目的が隠されている
と本気で信じていたんだ。
【でも 非二元の視点から見れば】
そんなものはねえんだよ!
(また 違うキャラが出てきた)
【 じゃ、人生って何なんだ?
「人生って何なんだ?」って 訊きたくて・
知りたくて仕方ないのが マインドであり、
このマインド(想の主体としての識)こそが
二元の視点を持つ 考える主体:わたしである。
だから マインドがなくなれば
その問い自体がなくなるし、
マインドが (主人公ではなく)機能として残れば、
人生の意味や目的やゴール
という問いに対して
それに応じた答えが用意される だろうが、
それは あくまでも仮の答えであることを
マインドではない 本当のわたしは 知っている。
でも 本質的には、(意味や目的やゴールではなく)
過程を感じることの方が大切だ。
人生の目的とは
結果を重視するものではなく、
人生の方向を定める指針に過ぎず、
その方向に向かって 何かをする過程で
何かを感じることの方が重要なんだ。
人生って、 感じることなんだ。
感じて 一緒に踊ることなんだ。 】
マインドには 意味が必要だから
【意味を求めるのが マインドの仕事であり、
そのために マインドが生まれたのだから】
こういうメッセージには 反発するけれど、
これを見抜けたことが
人生で一番の贈り物だった。
【 「見抜けた」 とは、非二元の視点に立てた
ということだろう。しかし
わたしたちは
非二元の世界を生きている わけではない。
非二元とは
「ものの見方の視点」のことであり、
生活して生きている
現実(現象)の世界のことではない。
「非二元を生きる」という表現は、
非二元の視点を持って
二元の現実世界を生きるという意味である。
善/悪の基準にしたがう
二元の視点だけで生きるのと、
善/悪を超越した非二元の視点も持って
(に支えられて)生きるのでは、
まったく違う世界を
生きているように感じられる。
阿部さんの ちゃんとしたところは、
非二元という視点を持ちながらも、
二元という この世界・この「わたし」を
同時に・キチンと生きていることだろう。
だけど それを言葉にするとき、
ついつい 非二元の視点のみから
語ってしまうことがある。
阿部さんの全体像を
しっかりと理解できていれば、
阿部さんが二つの視点を同時に生きている
ことが分かるが、
断片的な文章や語りにおいては、
ときどき非二元の視点のみになってしまう
ことがある。
あまりにも厳密を期す文章は
ひどく煩わしいものになり、
逆に 分かりにくくなって
メッセージがうまく伝わらない。
だから そうなるのは仕方ないことなので、
読む方は いつもそのことを忘れてはいけない】
そうでなければ、 見かけ上どんなに成功して
周囲からチヤホヤされたとしても、
【二元の視点だけで 完全に満足することは
不可能だから、 それだけでは満足できずに】
いつも欠乏感を抱えて、
もっともっとって 生きていただろうから。
でも、
これからも 阿部という物語は続いていく。
人生の映画が 幻だと分かったところで、
幻は続いていくんだ。
【ここで ちゃんと
「二元」 の次元に戻ってきている】
ただ 映画を映画だと知っただけ、のこと。
【一応 この登場人物の役をやっている、
たまたま この役に当たっただけ、
のこと という視点があれば、
他の登場人物を非難するのがバカバカしくなり、
人生は ずいぶんと楽になる】
多くの人は
映画の中の登場人物になり切って
【囚われ、はまり込んで】しまっている。
【映画だと知っていれば、つまり
たまたま この役に当たっただけだと
知っていれば、
登場人物に はまり込まずにすむだろう。
「はまり込んでいる」 とは、
一体化して囚われて 抜けだせないことであり、
自分自身を客観視できないことである。
「なり切る」ことなしに
人生を 充実して生きることはできないだろうが、
完全に一体化して 囚われてしまうと、
「無常」 という真理によって状況が変わったとき、
そこから抜けだすことができなくなって、
苦しんでしまう。
ここは 実にビミョウなところで、
矛盾しているように聞こえる かも知れない。
だが これ以上の「言葉」 での説明は難しい。
「非二元(空)」 と 「二元(色)」 の視点を
自由に切り替えながら、
状況に応じて 融通無碍に
「自我という機能」 を変えて 生きていくことが、
「悟り」 を生きることではないか?
映画の中で当たった 演じる役は選べないが、
その役を演じながら 何を感じるかは
自分次第だ。
映画の中で 「どんな役を演じるか」 より、
その中で 「どんな風に感じるか」 の方が
ずっと ずっと大事だと思わないか?】
違いは それだけだけど、
【 「空:非二元」を 完全に理解できて、
人生は真っ白なスクリーンに映った映画
のようなものであることを知れば、
視点の「切り替え」は自在になり、
余計な責任(重荷)を抱える必要のない
ことが分かるので】
こっちのほうが 圧倒的に気楽だ。
先のことは わからないのに、
自分の責任で これからも間違いのない
選択をしていかなければならない
としたら・・・
どんだけ~(また 違うキャラが出てきた)
もう一度言うよ。
選んでいくのは あなたじゃない。
失敗できないという重荷を 下ろしなさい。
起きることが 起きていく。
それ以外は 決して起きない。
【選択すべきときは選択しなくてはならない。
しかし、
その選択が 間違いか正解か・失敗か成功か、
そのことに対して 「責任」 は 持ち得ないし、
そんな重荷を背負う必要はないという意味。
起きることが 起きているだけで、 それが
間違いか正解か・失敗か成功か というのは、
マインドが勝手に創りだした幻想に過ぎない。
それが分かれば、
重荷:責任は魔法のように消え失せるだろう。
「間違い/正解・失敗/成功」 という結果:虚構
にこだわるから、重荷になっている】
一緒に【リーラとしての】映画を楽しもう
じゃないの。
【非二元の視点があれば、
脚本(ものの見方)の書き換えは 自由自在だ。
どうせ二元の世界を生きるなら
楽しい脚本(リーラ)の方がいいよね?
非二元の視点を持って、
二元の世界を生きよう!】
[参考]
非二元を体得した
大和田菜穂さんという方がいる。
この方の語る言葉は、 すべて 非二元の話。
同時だが異なっている二つの次元のうちの
完全に一方のみ、非二元のみの立場に立ち、
非二元の言葉だけを話している。
彼女の言葉のなかに、
同時だが異なっている二つの次元のうちの
もう一方である
二元の話はまったく出てこない。
しかし彼女の生き方は、
同時だが異なっている二つの次元の両方を
体現している。
彼女の言葉に説得力があるのは、 その言葉が
現実の生き方に裏づけられているからだ。
しかし 言葉では、もう一つの
「実際に生きている二元の世界」 のことを
けっして語らない。
意図的に そうしているというより、
現実に 二元の世界を生きていることは
あまりにも当たり前のことなので、
そのことを説明する必要を
感じていないのだと思う。
自分自身 それで十分うまく
「幸せ」を感じながら生きることが
できているのだから、
まさか そっち(二元の世界)を
無視してしまう危険が存在するなど、
想像もつかないのだろう。
非二元の話しか語らないので
矛盾することはないし、
誤解されることも少ない。
そして 非二元の言葉だけを聞けば、
それを語る人は
聖者(悟った人)のように見えるだろう。
しかし その話を聞いて
非二元のなんたるかを理解したとしても、
二元世界の在り方 と対比する
ことがなければ、
二元の世界に戻ってくる ことはできない。
非二元の視点を持ったとしても、 それを
二元の世界に生かすことができなければ、
なんの意味もないだろう。
大和田さんが 非二元の視点だけを
教えてくれるのに対して、
阿部さんは、
非二元の視点を持って
二元の世界を生きる術すべを教えてくれる。
阿部さんは、
おもに 非二元を語り、ときに 二元を語る。
そして また、ときに
非二元と二元の両方を同時にうまく説明し、
橋渡ししてくれる。
だが ときには うまく説明できずに、
矛盾していて 誤解を招くように聞こえる
こともある。
そういったことを分かったうえで、
阿部さんや 大和田さんの言葉を
受けとるといいと思う。
阿部さんの「映画を楽しもう」2 へ続く