世界とはなにか
色即是空
世界は空である
人間が世界と呼んでいるものは
人間が 意味づけたもの であり、
本来(リアルな)意味などない。
意味のない世界が「空」である。
「本当に生きる」という経験は、
いまここに在る【being】
「自分と世界の あるがまま」 を、
・思考【想】によって
価値判断することなく、
・物語的な執着【行】を 捨てて、
・「わたし」 という感覚【識】を
介して限定することなしに、
ただ感じて 観つづけること:
マインドフルネスから 始まる。
〔世界の理解〕: 空くうという理解 1
出来事や対象に出会ったときに、
気持ちいいとか 嬉しい・楽しい・涼しい
・暖かいといった 【リアルな】快感覚、
または
嫌な感じとか 悲しい・辛い・寒い・暑い
・痛いといった 【リアルな】不快感覚
である 「受」 が 瞬時に生まれる。
生まれないこともあるが…
思考【想】は、 この 「快」 の感覚を ただちに
「善い・正しい」 という ポジティブな価値に
変換(意味づけ)してしまうため、
それを 追い求め 執着し続ける
欲求【行】が生まれる。
思考は また、 「不快」 な感覚を ただちに
「悪い・間違い」 と ネガティブに
評価・判断(意味づけ)してしまうため、
それを 遠ざけ抑圧し そこから逃れようとする
欲求【行】が生まれる。
もしくは、
「悪い」 ものを 無理やり「善い」 ものに
変えようとする欲求【行】が生まれる。
快楽/不快苦という リアルな二次感覚【受】を、
善優/悪劣という 非リアルな意味や価値【想】に
変換したあと、
それを 追い求めたり・逃れようとしたり・
変えようとする欲求(意志の力)のことを
五蘊の 「サンカーラ【行】」 と呼ぶ。
実は、善いとか悪いという ジャッジは
思考がでっち上げた妄想(仮の・一時的な判断)
に過ぎない。
そのとき たまたま
「快感覚を伴ったので 正しい*」 と 判断した
個別的で 限定的な感じ方を、
「善」 や 「正義」という概念(意味)に
変換して 一般化することによって、
それを(間違って)普遍的な真理と見なし、
固定した「正しい(と思い込んだ)観念」 を
創りあげてしまう。
* 正しさは 快こころよい。
快感覚は リアルな感覚であるが、
「正しい と感じる」 ことは 判断であり、
感覚ではなく 思考である。
したがって 「正しさの心地よさ」 は、
身体の リアルな 感覚というよりは
思考に関連した 非リアルな 感情と呼んだ方がいい。
ありのままの【リアルな】現実には
善いも悪いもない。
善いとか 悪いという【非リアルな】意味は、
この現実世界を より有利に生き延びるために
人間が創りだした 実体のない概念:観念であり、
思考が 言葉というツールで
意味(価値)を 創りだしているに過ぎない。
この、
「善い」 に変換された 「快」 を どこまでも
追求したいという態度・感情【貪むさぼり】と、
「悪い」 に変換された 「不快」 を どこまでも
否定し続けたいという態度・感情【瞋いかり】が、
「苦悩」 を 生みだしている。
「無理やり」 追求 または 否定しようとする
意志のことを 行【サンカーラ】と呼び、
つまり サンカーラが苦悩を創りだしている。
人は 安心して この世界を生き抜くために、
単純化された観念*を組み合わせて
安直に世界を理解したいと思っている。
リアルな個別の現実は
複雑な縁起ネットワークなのに、
その単純化された 非リアルな観念(という思い込み)
を追求/否定してしまい、
「苦悩」 を 生みだしている。
* 正義・自由・平等・安全・幸福 … すべて快い!
だから これら「快いもの」を
どこまでも「完璧に」追い求めようとする。
一方、
悪・統制・差別・危険・不幸…といった不快なもの
を「徹底的に」否定しようとする。
リアルな現実を、このような言葉だけで
完全に説明することなどできやしないのに…
貪瞋痴とんじんちは 三毒と言われ、
欲望のことを 貪(欲)といい
狭義の苦悩のことを 瞋(恚)という。
【欲望=貪欲どんよく 苦悩=瞋恚しんい】
広義の苦悩は 瞋じんと貪とんの両方だ。
貪と瞋は、 苦しい感情【行】のことであるが、
追求する貪欲な感情・否定する怒りの感情
だけでなく、
高慢・嫉妬・不安・イライラ・抑うつなど
の感情も含む。
瞋は「自分が ないがしろにされた」
と感じたときに、もっとも強く発現する。
貪の感情が満たされている時は 苦しくなく、
むしろ 楽しいが、
貪を満たす条件が失われた時 苦悩に変わる。
痴という漢字は
「知」を 病やまいだれが覆っていて
「知ってるつもり という 知の病(病気の知)」
である「思い込み」のことである。
【もう一方の健康な知は 正思惟と呼ばれる】
思い込みが、 「貪と瞋」 を生みだしている。
仮の(価値)判断【想】なのに
それを 絶対視(執着)してしまうと、
そこから
追求 または 否定の 「循環」が始まり、
苦悩が 創りだされる。
追求 / 否定から 感情【行】が生まれ、
その感情が また思考を呼び起こして循環し
尽きることがない。
感情と思考が 循環し
一体化して 想行複合体となり、
自分が「それだけ」になってしまい、
他のものが見えなくなっているのが
苦悩状態である。
自分や他人や状況に対して、
言い訳したり 正当化・合理化しようとして
防衛体制に入ると
(自分が悪くないことを説明しだすと)
否定の循環が始まる。
防衛は ときに攻撃に転じ、
自分が非難されたと感じると
怒りで反応してしまう。
「善と悪」のように 対になる概念で
世界を二分し、
「快/不快」の感覚【受】に
その二分された概念(意味・価値)を
すぐに結びつけてしまうこと【想】が
そもそもの苦しみの始まりであり、
それ【想】が
追求/否定の意志【行】を 生みだしている。
行は 二分された一方の極に惹かれて
白黒をつけたがり、
・その間に広がる
グレーゾーンの中では 落ち着けず、
・アンビバレンスな 心理状態を 理解できず、
「どっち なんだ?」 と 性急に 答えを求めて、
「苦悩」 を 生みだしてしまう。
現実のリアルな世界(社会)は、
真っ白(善)と真っ黒(悪)を放棄した
グレーゾーンであり、
または 両極の要素を 同時にかかえている。
世界や 状況や 誰かが、
善一色だったり 悪一色であるわけがない。
その両方を受け入れることが、
「苦悩」をなくしてくれる。
様々な色が モザイク状に入り混じった
このカラフルな世界こそが、
ビビッドな現実の(リアルな)世界なのである。
したがって、
感覚:受と 判断:想の間にスペースをつくって
快/不快の感覚に 是/非という意味を付与しないか、
【快/不快を感じながらも、
あるがままの状況を ただ感じて観ているだけ】
( つまり 「受→想」を 断ち切るか)
判断:想と 反応:行の間にスペースをつくって
その意味を 「絶対視」 しなければ、
(もしくは 「想→行」を 断ち切れば)
強固な 二元化は成立せず 苦悩は生まれない。
しかし、そのことを
いくら考え(思考し)てみたところで、
この「受→想→行」の連続する反応を
切り離すことはできない。
マインドフルネスだけが それを可能にする。
「いま・ここ」に留まり続ければ、
判断【想】しないでいられる。
そして、判断したとしても
それが仮のものだと知っていれば、
それに囚われ【行】ずに:絶対視しないで
「こうあるべき」と思わずにすむ。
(悪に変換された不快を)否定し 抑圧し 逃避し、
無意識に押し込む のでなく、
ただ 感じながら観続けること:マインドフルネス
ができるか否か、
(善に変換された快を)追求することに囚われて
いることに 自ら気づくこと:マインドフルネス
ができるか否か、
そこが肝心である。
嫌だとか 心地よいという 快/不快を伴う経験に、
悪いとか 善いという判断を加え、
悪いと判断したことを 否定し
善いと判断したことを 追求する、
その 否定 または 追求の循環:執着 が
「欲望」の意味するところである。
すなわち、
欲望とは 「行:サンカーラ」のことである。
サンカーラは 絶えず 「結果」 を求めていて、
無理して 頑張る。
そして 「結果」 が思うようなものでないとき、
失望する。
いつも 望む結果が得られる
わけではないのだから、
行によって「頑張る」その意志の力:行が
結果として 苦悩を創りだすことになっている。
しかし だからと言って、
不快(苦)を経験しないために
快(欲)の経験も回避してしまうのは、
大きな誤ちである。
それは「現実否定」 であり、
「人生からの逃避」 である。
「いま ここ」 を 生きていることにならない。
瞬間瞬間の 生ナマの経験(人生)から
自分を 切り離してしまうことになる。
結果にこだわらない生き方、
サンカーラと反対の生き方を 中道と呼ぶ。
「中道」 とは、 「あるがまま」 のことであり、
「あるがまま」 は 一方(極端)に偏らない。
苦から 逃げるのではなく、
苦を 悪という概念に変換しないで、
気づいている【サティ : 感じている】
そして
受け入れる【サマーディ : 観ている】
そうすれば 苦は変化し、いずれなくなる。
【無常】
しかし、
「なくなる」という結果を 期待して
受け入れようとしてはいけない。
それは「受け入れる」ことではなく、
拒絶になってしまう。
結果を 期待しないで、 ただ 受け入れる。
それが
マインドフルネス【サティ+サマーディ】であり、
マインドフルネスとは
気づきと受容を兼ね合わせたもののこと である。
「不快な経験」は やって来て、
そして 去っていく。
「快の経験」も 来て、去る。
【無常】
それが 人生の全体性である。
人生とは そんなものである。
だから、そこは あるがまま にしておき、
この無常なる人生を 味わい・楽しもう。
「あるがまま」にしておけば、
快:楽しいことも 不快:嫌なことも
やがて 去って 消えてしまう:無常だが、
それに執着【行】すれば、
失われた 「快」 の記憶が 復活の渇望とともに
いつまでも 消えずに残ってしまい、
「不快」 な思いが いつまでも 再生され続ける。
「欲が 苦をつくるので、
苦をなくすためには 欲をなくすべきだ」
と言われることがある。
では、「欲」とは何か?
そして「苦」とは何なのか?
「苦」 と 「苦悩」は 違う。
「苦」は 「受」であり、
不快であるという【リアルな】事実である。
一方の「苦悩」は 「行」であり、
そのリアルな苦を悩み・否定しようとする
「行」によって発生する
【非リアルな】心の中の二次的現象である。
「欲」 と 「欲望」も 違う。
「欲」は 「受」であり、
本心から湧き上がる いのちの自然な
【リアルな】欲求なのだから、
過程を楽しみ 結果にはこだわらないものだ。
しかし「欲望」は 「行」であり、
価値判断に基づく「善きこと」を望み
追求する【非リアルな】欲求であり、
結果を重視する。
この リアルと非リアルの違いを理解することは、
決定的に重要だ。
苦:不快と 欲:快は、
自然にあるあるがままのもの【リアル】で、
ともに同じように ただ味わうものである。
苦も 欲も、 なくしてはならないものなのだ。
一方、欲望と 苦悩は、
人間の思考が 社会的および自分自身の承認
のために 結果を求めて、
自分で 創りだしたもの【非リアル】である。
欲望と 苦悩は コインの裏表であり、
「欲望」 が 「苦悩」を つくる。だが
「欲:快」 が 「苦:不快」 を つくるワケではない。
だから、
「苦悩をなくすためには 欲望をなくす」
べきだが、
非リアルな苦悩をなくそうとして
リアルな快までなくしてはいけない。
したがって、 前掲の
「苦をなくすためには 欲をなくすべきだ」
という言い方は、 明らかに間違っている。
ここは、とても大事なポイントだ。
「本当の自分」 とは
「本当のリアルな欲求」 に忠実な自分のこと
そして、 であり、
「本当のリアルな欲求」 とは 「愛する」 こと
なのだ。
「苦」と「欲」 は リアルな身体の受感覚であり、
身体【色】と 身体の症状としての感覚【受】の
二つを合わせて「色しき」と呼ぶ。
「色しき」 は 思考【想】により概念化され、
その修飾されたものに対する 欲求【行】が 「欲望」
その欲望のために苦より辛くなったものが 「苦悩」
この「欲望」 と 「苦悩」は 非リアルであり、
「名みょう」と呼ばれる。
色とは リアルな体からだのことであり、
名とは 非リアルな心こころのことである。
五蘊の 1番目の色(身体)と
2番目の受(身体症状)が 色であり、
3番目の想(概念化すること)と
4番目の行(その概念に基づく欲求)が 名。
五蘊とは、 すなわち 体と心のことである。
この 五蘊の 色と名の 二つを分けて理解する
(つまり リアルな現実と非リアルな概念を分別する)
智慧のことを「名色分離智みょうしきぶんりち」
これが と言う。
マインドフルネスの一丁目一番地であり、
自由と解放【解脱】に向かう スタート地点
である。
そして (五蘊の)体と心を 分けて観たあとに、
五蘊の基底で それらを生みだしている
(体と心としての 「わたし」 を観ている)
本当のわたしである「座」を 認識することによって、
再び
体と心を同一のものと みなせるようになり、
それらを統合したものが 心身一如であり、
「色即是空」 かつ 「空即是色」 である。
この統合が 自由と解放のゴール地点である。
「色即是 空 即是色」
[参考ブログ:OSHOの十牛図]