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どーでもいい
瞑想は とても大事なテクニックである。とても大事ではあるが テクニックに過ぎない。
テクニックに過ぎないものに、依存してはいけない。
マインドフルネスは、手段に過ぎない。 マインドフルネスを使って 何を感じるのか?
マインドフルネスを使って、 自分の人生を どう在ろうとするのか? それが 問題だ。
そして、 マインドフルネスなど必要としない人たちも存在している。
マインドフルネスが 必要なのは、 苦しんでいる人たちだけ なのだ。
本当のところ、 悟った人などいないし、 悟っていない人もいない。
わたしだけが 悟っていて、他の人が 悟っていないということもあり得ない。
特別な誰かなど どこにもいないし、 すべての人が 特別である。
存在している(存在を許されている)ということは、
すでに愛されている・受容されている ということ。
愛する・愛せない、 受容する・受容できないというのは 可笑しなこと。
「わたし」が 受容する前に、 すべてが すでに もう 受容されている。
気づいていようが いまいが すでにもう受け入れられて(愛されて)いる。
それに気づくか、 気づかないか。
人生を受容できるか できないか。自分の人生を愛せるか 愛せないのか。
気づくと 世界がシンプルであることが分かる。
あるがまま・そのままでよかった。
逃げも隠れもせず、初めから ずーっとそうだった。
真理の立場から言えば、目覚めていようが いまいが、 どちらでも構わない。
苦悩する人生も、アリだろう。 究極のところ、 すべてOKだ。
L e t I t B e ! やりたいようにやれ!
「空」を知る前の「色」は、「どうしても◯◯ねばならない」 だったが、
「空」を経た後の「色」は、「どーでもいいわけでない」に 変わった。
「空」の次元では「どーでもいい」が、
「空」を経た「色」の次元では「どーでもいいわけではない」
でも 「空」 も 「色」 も超えて、 やっぱり「どーでもいい」ような気もする。
どうしても◯◯ねばならない → どーでもいい → どーでもいいわけでない
→ やっぱり、どーでもいい・・・・・
瞑想を始めたとき、私は苦悩の真っ只中にいた。
瞑想を始めてしばらくすると、たまたま その苦悩の状況は改善され始めた。
そして そのまま瞑想(の修行)を続けた。
そして いつの間にか 「悟り」 を目指し、いつの間にか 「悟った人」 を目指していた。
またまた 「何ものか」 になろうと 努力していた。 あちゃ〜、なんのこっちゃ。
私は、自分が
「何ものでもない」 こと「ただの人である」 ことを 本当に分かったんだろうか?
心からそう思ってるんだろうか? それを 受け入れられたんだろうか?
[追記](2023年4月5日)
上の文章を書いた数年後の いま、「承認欲求」 からも「縦の関係」 からも
すっかり解放されたと、やっと 自信を持って言えるようになった。
[追記](2024年3月8日)
と思っていたが、やはり「完全」 ではなかったようだ。
上の文章を書いた1年後の いま、「承認欲求」 からも「縦の関係」 からも
さらに 解放された 気がする。
(最終改訂:2024年3月8日)